2024年9月15日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:出エジプト記3章11~15節
マタイによる福音書22章23~33節
説教題:「わたしは、あってある者である」
使徒言行録7章のステファノの説教では、モーセの120年の生涯を、40年ずつに区切って語っています。誕生してからの40年間は、モーセはエジプト王宮で王ファラオの娘の子として育てられました。成人してから、彼は同胞のイスラエルの民がエジプトで奴隷扱いされ、過酷な強制労働で苦しんでいる姿を目撃しました。その時、モーセは虐げられていた同胞を守るために、エジプト人の監督を殺しました。しかし、そのことがファラオに知られ、モーセは命を狙われるようになったために、遠いアラビア半島ミディアンの地に逃れ、その地の祭司であったエトロのもとで、40年間を過ごしました。それがモーセの第二期です。モーセはそこで祭司エトロの娘と結婚し、子どもが生まれ、エトロの羊を飼って、エジプト王宮では経験することができなかった多くのことを学んだのでした。
ミディアンの地での40年間の終わりに、モーセは神の山シナイ山のふもとで不思議な光景を目撃しました。砂漠に生えている柴が熱い太陽に焼かれて燃えているのに、いつまでも燃え尽きないという現象でした。その時、燃える柴の間から、主なる神の語りかけを聞きました。そして、モーセはエジプトの奴隷の家で苦しむイスラエルの民を救い出す神のみわざのために召し出されることになるのです。それが、モーセの生涯の第三期の始まりです。
出エジプト記3章9節以下を読んでみましょう。【9~10節】。この神の召命を受けたモーセは、どう応答したのでしょうか。【11節】。このモーセの応答は、わたしたちには少し不可思議に思われるかもしれません。というのは、40年前のモーセが熱い同胞愛と強い正義感とによって、しいたげられていたヘブライ人を助けるためにエジプト人の監督を殺したことを知っているからです。あの時のモーセの民族愛と正義感があれば、神の召命に直ちに、喜んで従ったはずでした。
でも、今回のモーセは違っていました。彼は自分が神の召命を受けるにふさわしくはないと告白しているのです。わたしたちはここからいくつかのことを教えられます。一つには、イスラエルの民をエジプトの奴隷の家から救い出すのは、モーセの民族愛とか正義感とかによるのではなく、それは主なる神の深いみ心によるのだということ。神が族長アブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた契約をお忘れにはならず、その約束を実現なさるためであり、神が奴隷の民イスラエルをお選びくださり、この民を愛されたからなのであるということです。モーセの民族愛や正義感よりも、神の愛と選びがより大きいのです。
もう一つには、モーセはミディアンの地での40年間に、神のみ前で謙遜になること、自らの無力を知ることを学んだということです。神の召命に答えて神にお仕えするということは、自分の願いや自分の力、能力によってなすことではなく、ただひたすらに神の招きと神から授かる恵みによる以外にないことを、モーセは学んだのです。モーセはこのことを学ぶために、人生の第二期の40年間を、ミディアンの地で、祭司エトロのもとで、羊を飼いながら過ごしたのでした。そして、時が満ちて、モーセは神の召命を受けたのです。
神の招き、神の召命は、モーセの民族愛や正義感よりもはるかに大きく、またモーセの不安や恐れよりもはるかに大きいことが、次の神のみ言葉によっても明らかにされます。【12節】。これが、11節の「わたしは何者でしょう」というモーセの問いかけに対する神の答えです。「あなたは、わたしと共にいる者だ。わたし自身があなたを遣わすのだ」。これが神の側からの、モーセとは何者なのかという問いに対する答えです。モーセの側から言えば、「わたしは、神がいつもわたしと共にいてくださる者だ。わたしとは神の存在に支えられている者だ。わたしは神によって遣わされている者だ。神から託された使命に生きる者だ」ということになるでしょう。「神がいつもわたしと共にいる」。これがモーセの新しい存在です。モーセは今、神の召命を受けて、神に選ばれ、神に招かれて、この使命を託され、この務めを担う者とされているのです。神の招きのみ言葉に聞き従うとき、モーセは新しい人間に造り変えられるのです。
12節ではもう一つ重要なことが語られています。イスラエルの民がエジプトの奴隷の家から導き出されるのは、最終的には、神を礼拝する民として生きるためであるということです。「この山」とは、1節の「神の山ホレブ」、またの名はシナイ山のことです。のちに、この山で神はモーセに十戒を授け、イスラエルの民と契約を結び、この山から彼らは約束の地へと旅立っていきます。それは、神を礼拝する民となるためでした。このことを確認しておくことは、出エジプト記を読むうえで、また旧約聖書全体を読むうえで、非常に重要なことです。
神が、エジプトの地で奴隷として苦しめられていたイスラエルの民の叫びを聞いておられるということが、これまでに何度も書かれていました。2章23~25節、3章7節、9節などです。エジプト脱出は、その奴隷の苦しみからの解放であると同時に、いなそれ以上に、イスラエルの民が神の約束の地で神を礼拝する民となることこそが、その最終目的なのです。
そのことは、新約聖書の民であるわたしたち教会にとっても同様です。わたしたちが主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって罪ゆるされたのは、わたしたちが神を礼拝する新しい神の民となるためです。そして、終わりの日に、神の国が完成されるときに、全世界の、全世代の、すべての信仰者がみ国での一つの神を礼拝の民となるためなのです。
神の召命を受けたモーセは、自分が神から派遣されたことの確かな証拠として、神の名前を知らせてほしいと願います。モーセは40年前に、民族愛と正義感に燃えてエジプトの監督を殺したことがありましたが、その時には同胞のヘブライ人には理解されず、「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか」と非難されたことがあったと、2章14節に書かれていました。そのこともあって、モーセは自分が神から派遣された指導者であることを民に認めさせるために、神の名前を知る必要があると考えたようです。
14節で、神はご自分のお名前を明らかにされますが、ここでわたしたちは古代の人々、特に旧約聖書の人々にとって名前が持つ意味について、あらかじめ理解を深めておく必要があります。古代の人々にとっては、名前とその本体、本人、あるいはその人の本質とは、密接に結びついていました。名前は単に本人と他の人を区別する記号であるのではなく、その人の存在、人格、その人の全体を意味していました。特に、神のお名前には、神の力や恵み、意志など、神の本質そのものが、そのお名前と結合していると考えられました。神がご自身のお名前を告げられるときには、神がご自身を啓示されること、神がご自身のみ心を行われることと同じでした。また、神のお名前が告げられた人は神との特別な関係の中に招き入れられることであり、また神のお名前を口にすることは、神の偉大なる力と恵みをその人が行使すること、神の偉大なる力と恵みを自分の思いどおりに操作し、行うことができると考えられていました。
そこで、古代社会においては、神のお名前を使って誓ったり、呪ったりすることが日常的に行われていました。しかし、イスラエルにおいては、神のお名前をそのように人間の便利のために用いることは厳しく禁じられていました。モーセの十戒の第三戒で、「あなたの神、主のみ名をみだりに唱えてはならない」と命じられていたからです。イスラエルの人々はこの戒めを厳格に守りとおしたので、神のお名前を口にすることを避け、やがてそのお名前を忘れてしまうほどでした。したがって、神がここでモーセに告げているご自身のお名前は、神がモーセに対して語っておられる会話の中でのお名前であり、モーセが実際にイスラエルの民に伝えた時にどのように発音したのかについては、今日に至るまで、はっきりとはわかっていません。ただ、そのお名前の意味についてはここに説明されていますので、きょうはそれを学んでいきます。
【14~15節】。「わたしはある」、これが神のお名前であり、そのあとの「わたしはあるという者だ」がその説明と考えられます。神がモーセにお告げになる際には、「わたしはある」ですが、モーセがそれをイスラエルの人々に告げる際には、おそらく「彼はある」と言ったであろうと考えられます。実際に、神のお名前を表すヘブライ語の子音4文字は、英語表記にするとYHWHであり、これは一人称単数、すなわち「わたしはある」ではなく、3人称単数の「彼はある」という意味のヘブライ語と推測されます。でも、子音は分かっていますが、それにつく母音が忘れられてしまったので、なんと発音するのかが分からなくなったということです。多くの学者は、「ヤーヴェ」と発音するのではないかと推測しています。
さて、その意味ですが、「わたしはある。わたしはあるという者だ」(口語訳聖書では、「わたしは、有って有る者」)、きょうはその一つの意味を取り上げます。日本語の訳では「わたしはある」という現在形ですが、ヘブライ語では広い意味の未完了形ですから、「わたしはあるであろう」と、未来形に訳することもできますし、また別の学者は、「わたしはなろうとする者になる」とか「わたしは存在するものを存在せしめる」と訳す人もいます。つまり、神は真の存在者であり、すべて存在するものの存在の根源であるということが第一の意味です。「わたしはある」と宣言ことができるのは、神以外にはありません。それ以外のものは、一時的に存在していても、やがて消え去るほかになく、そこにあると思われていても、実はそれは確かな存在ではなく、移ろいゆく、影のようなものでしかない。ただ、「わたしはある」と言われるお名前を持つ主なる神だけが、真の、変わることのない、永遠の存在者であるということです。
旧約聖書で偶像を意味するヘブライ語は、「空しいもの、無きに等しいもの」という意味の言葉です。人間の手で造られた偶像は、人々が目で見て、手で触って、形を確認できても、中身がなく、命がなく、言葉を発することができず、行動することもできない、無なるものであるという意味です。そのようは偶像に頼る人もまた、無なる者でしかありません。
「わたしはある」というお名前を持つ主なる神を信じる信仰者は、「わたしはある」と言われる神によってその存在を支えられ、真の命を注ぎ込まれて、豊かな実りを約束された信仰の道を進みゆくことができます。その神が、わたしたち罪びとたちを罪から救い出すために、ご自身の一人子を十字架に引き渡されるほどにわたしたちを愛してくださいました。その神が共にいてくださる信仰者は、「わたしもまた許されて、きょうあるを得ている」と告白することができるのです。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、罪の中で滅びるべきであったわたしたちを、あなたがみ子の十字架の血によって買い戻してくださったことを、感謝いたします。どうか、あなたが永遠にわたしたちと共にいてください。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。