2024年9月22日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:詩編27編1~14節
ルカによる福音書10章38~42節
説教題:「必要なことはただ一つだけ」
ルカによる福音書10章38節以下の、マルタとマリアの家を主イエスが訪問されたときの出来事は、29節以下の親切なサマリア人のたとえと同様に、ルカ福音書にしか書かれていない、ルカ特有の記録です。ここには、ルカ福音書の特徴がよく表れています。その一つが、主イエスの福音がユダヤ人、イスラエル民族の宗教を超えて、全世界の、全人類のための福音であるということが、ここにすでに暗示されていることです。もう一つには、ルカ福音書では婦人たちがよく活躍するということです。ルカ福音書を「婦人の書」と名付ける人もいます。婦人が社会活動の表に出ることが少なかったこの時代にあって、主イエスの福音は婦人たちによって証しされているのです。ルカ福音書の大きな特徴です。
わたしたちはまず初めに、きょうのテキストの主題について、前の29節以下の親切なサマリア人のたとえとの関連で、あらかじめ確認しておきたいと思います。それは、ルカ福音書がこの二つの記事をここに並べて置いた理由でもありますが、この二つの箇所で扱われているテーマは、29節以下では「あなたの隣人を愛しなさい」という戒めについて教えられており、38節以下では「あなたの主なる神を愛しなさい」という戒めについて教えられているということです。
25~28節の、主イエスとある律法の専門家との対話は、その二つのテーマの導入に役割を果たしているのです。この律法の専門家は、旧約聖書の戒め・律法全体を、神を愛することと隣人を愛することの「愛の二重の戒め」にまとめています。【27】。主イエスご自身も、マルコ福音書12章29節以下で同じように教えておられます。そして、律法の専門家が「わたしの隣人とはだれですか」と質問したのに対して、主イエスは「親切なサマリア人のたとえ」を、隣人を愛することの実例としてお話になりました。そして、きょうの箇所で、全身全霊を傾けて主なる神を愛することの実例をお話になっておられるのです。
では、38節から読んでいきましょう。【38節】。主イエスと弟子たち一行は旅を続けて、ある村に入られました。主イエスの旅は、エルサレムに向かう旅であることが、すでに9章51節で明らかにされていました。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」と書かれていました。主イエスのエルサレムでのご受難の旅、十字架の死と復活と昇天に至る旅が続けられています。その旅の途中で、主イエスはマルタの家を訪問されたのです。
ある村とは、エルサレム近郊のベタニヤにあったと推測されます。ヨハネ福音書11章によれば、マルタとマリアの姉妹にはラザロという弟がおり、彼が死んで葬儀をしているときに主イエスがこの家をお訪ねし、ラザロを生き返らせたという奇跡が記されています。主イエスの一行はエルサレムに旅をされた際には、この姉妹の家をしばしば訪れ、宿にしていたのであろうと思われます。
ここにはラザロは登場しませんが、マルタが主イエスを家に迎え入れたとありますので、マルタが一番年上の姉で、この家の主人のような立場にいたと考えられます。実は、マルタという名前は「女主人」という意味を持っています。
マルタはその名にふさわしく、主イエスを「家に迎え入れ」ました。主イエスを自分の家に迎え入れるということは、友人とか知り合いを家に招くこととはまったく違って、そこには大きな意味があり、その家にとっての大きな出来事であると言ってよいでしょう。マルタは女主人として、まさにその家の主人としての決断をもって、その家の主人として最もふさわしい、大切な務めを果たしたのだと言ってよいでしょう。なぜならば、主イエスがその家の客人として招かれるときにはいつも、主イエスのその家とその家族にとっての救い主として、その家に神の恵みと祝福をもたらす主としてお働きくださるからです。
わたしたちもまた、主イエスをわが家の主としてお迎えすることの大切な意味を覚えたいと思います。主イエスは我が家の食卓の主です。日々の食卓を備えてくださり、日々のパンによってわたしたちの体を養ってくださいます。それゆえに、わたしたちは食事のたびごとに食前の祈りをささげるのです。主イエスはまた家族の交わりの主です。人間的な肉の思いによって、時に分断したり、争ったりすることがあっても、主イエスはわたしたちの肉の関係を超えて、聖霊によって一つの家族として結びつけてくださいます。それゆえに、わたしたちは祈るのです。主よ、どうか、わたしたちの家族を一つの霊によって結ばれた神の家族としてくださいと。わたしたちは食前の祈りとか、家庭礼拝とか、あるいは家庭集会のために家を提供するとか、家族伝道とか、あらゆる機会をとおして、主イエスをわが家の主としてお迎えしたいと願います。
マルタの家では主イエスをどのようにお迎えしたのでしょうか。【38節b~40節】。マルタは家の主人として忙しく、てきぱきと行動しているように見えます。お客をもてなし、お客に喜んでもらうために一生懸命になって仕えているように見えます。一方、妹のマリアはマルタの手伝いもせずに、静かに座って、主イエスの話に聞き入っていたと書かれています。マルタはその妹のことを主イエスに訴えています。「妹にもわたしの手伝いをするように言ってください」と。マルタは妹マリアに対しても、この家の主人のような立場に立っています。
けれども、マリアはここで主人としての正しい行動をしているでしょうか。他のお客を迎えた場合ならば、マルタの訴えには正当性があったかもしれません。しかし、主イエスがこの家のお客である場合には、果たしてどうでしょうか。マルタは主イエスをお迎えする家の主人としては、正しい行動をしていなかったことが、のちに主イエスご自身によって明らかにされます。
その箇所を読む前に、二人の姉妹の性格の違いについて少し考えてみましょう。きょうの箇所でもそうですが、姉のマルタは行動的で、積極性があり、家の主人としての責任感もあるように見受けられます。ヨハネ福音書11章では、弟ラザロの死に際して、主イエスがベタニヤの村に入られると、マルタはすぐに主イエスを迎えに家の外に出ました。他方、妹のマリアは亡くなった弟ラザロのそばから離れようとせず、家の中で座っていました。マリアはどちらかと言えば、おとなしく、消極的な性格のように見えるのは、ヨハネ福音書でもルカ福音書でも同じです。
しかし、もちろん、そのような二人の姉妹の性格的な違いがここで重要なのではありません。【41~42節】。マルタはこの家の主人として、お客である主イエスをもてなすために、あれこれと心を配り、忙しくしていました。そして、ちっとも自分の手伝いをしないマリアを非難しました。しかし、主イエスは「必要なことはただ一つだけである。そして、マリアはその良い方を選んだ」と言われました。すなわち、主イエスの足もとに座り、主イエスの話される言葉に聞き入っていたマリアの方こそが、正しい、良い道を選んだのだ。それこそが、選ぶべき唯一の道であり、最も良い道であると主イエスは言われました。
他のお客をもてなすためならば、ほかの道もあるでしょう。いろいろと気を使わなければならないことも多くあるかもしれません。けれども、主イエスをお迎えするためには、ただ一つの道しかありません。他のすべてのことを差し置いても、主イエスのみ言葉を聞くこと、主イエスの説教にひたすらに耳を傾けること、これ以外にはありません。どのような理由によっても、マリアが選んだこの唯一の道を妨げることがあってはならないと主イエスは言われます。主イエスのみ言葉を聞くことによってこそ、その家の家族はまことの救いの道を、命への道を生きることができるのであり、またその家は神に祝福された家になるからです。
主イエスをお迎えする家にとっては、マルタがその家の主人であるのではありません。主イエスこそがその家の主人になるのです。主イエスがこの家全体の唯一の救い主となられ、生ける神のみ言葉をお語りくださる唯一の説教者となられるのです。
きょうの説教の初めに確認した二つのことを、今一度思い起こしてみましょう。一つは、主イエスの一行がエルサレム向かう道の途中にあったということでした。主イエスはエルサレムでの地上の最後の一週間のご受難と十字架の死、そして三日目の復活に向かって進んでおられます。マルタとマリアの家はその主イエスをお迎えしたのでした。わたしたちが自分の家にお迎えする主イエスもまた、ご受難と十字架の死、そして三日目に復活された主イエスです。この主イエスをわが家の唯一の主としてお迎えするならば、その家族みんなが救いにあずかり、その家が神の祝福を受けるでしょう。その家は唯一の無くてならないものによって満たされるでしょう。
もう一つは、この箇所では神を愛することが教えられているということです。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と命じられている旧約聖書の律法は、ひたすらに主イエス・キリストのみ言葉に耳を傾けること、主イエスの十字架と復活の福音を聞くことを第一とし、それこそがわたしが生きるために必要なただ一つの良いことであり、決してわたしから取り去ってはならないこととして、他の何を差し置いてでも、このことを第一とする、それによってこの律法は成就されるのだということです。
主なる神を愛すること、そして、わたしの隣人を愛すること、この二つの愛の戒めに生きるようにと、わたしたち一人一人も招かれているのです。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、あなたの一人子を十字架に引き渡されるほどに、わたしたち罪びとたちを愛してくださいました。このあなたの大いなる愛に答えて、わたしたちも心からあなたにお仕えし、わたしたちの隣人を愛することができますように。あなたのわたしたちに対する愛が無限であり、限りがなく、終わりがないように、わたしたちのあなたに対する愛も、また隣人に対する愛も、惜しみなく、たゆむことなく、心から喜んでささげる愛でありますように。
〇全世界を支配しておられる主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界にまことの和解と共存とを創り出しますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れ、あなたのみ前に謙遜になり、共に平和共存を目指す世界となりますように。
〇わたしたちの救い主、贖い主である神よ、わたしたちが朽ちるパンによって生きるのではなく、あなたの口から出る命のみ言葉によって生きる者としてください。わたしたちが再び罪の奴隷となることがありませんように。乾いた鹿が谷川を慕いあえぐように、あなたのみ言葉を熱心に慕い求める者となりますように。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。