2024年10月20日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:イザヤ書56章1~8節
ルカによる福音書11章1~4節
説教題:「わたしたちに祈りを教えてください」
わたしたちが礼拝等で祈っている「主の祈り」は、マタイよる福音書6章9節から13節に、頌栄の部分(「国とちからと栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。」)を付け加えたものですが、「主の祈り」の原型は、きょう朗読されたルカ福音書11章にもあります。いずれも、主イエスが弟子たちに「このように祈りなさい」と教えてくださった「主の祈り」です。両者を比較してみると、父なる神に対する呼びかけが少し違っているほかに、ルカ福音書の方では第3の祈りが省略されていること、また言葉遣いが両者で若干違っています。これらの違いについては、これからルカ福音書の中で語られている「主の祈り」を続けて学んでいきますから、その際に説明していくことにします。
では、1節を読んでみましょう。【1節】。まず、わたしたちはここでも主イエスご自身の祈りのお姿を目にします。ルカ福音書は、他の福音書よりも多く主イエスの祈りのお姿を記録していることをわたしたちはすでに学んできました。3章21節以下では、主イエスが洗礼をお受けになられたとき、「主イエスが祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」と書かれていました。6章12節には、「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」とありました。9章18節以下には、主イエスが一人で祈っておられたときに、ペトロの信仰告白がなされました。9章28節以下では、主イエスが3人の弟子たちを連れて山に登られ、そこで祈っておられたときに、主イエスのお姿が真っ白に輝きました。「山上の変貌」と言われる場面です。それからこのあとで、22章39節以下には、十字架につけられる前日に、オリーブ山で汗を血の滴りのように地に落としながら祈られたお姿が描かれ、23章34節では、十字架につけられたその痛みと苦悩の中で「父よ、彼らをお赦しください」と祈られたことが書かれています。
主イエスのご生涯は祈りに貫かれていました。主イエスは祈りによって、父なる神との交わりを深められ、神のみ心を尋ね求められ、祈りによって父なる神のみ心に服従され、祈りによってあらゆる試みに勝利され、十字架の死に至るまで、従順であられました。祈りはすべての主イエスのお働き、救いのみわざの原動力であり、力と勇気の源であり、希望と勝利の確かな保証でもありました。
祈りはまた、わたしたち信仰者の信仰生活の中心でもあります。祈りのない信仰生活は原動力を持たない車のように、すぐに止まってしまい、やせ衰えていくしかありません。祈りは信仰者にとって、なくてならないもの、必要不可欠なものです。1563年に制定された『ハイデルベルク信仰問答』では、祈りは、第三部「救われた人の感謝の生活」の中で取り上げられ、第116問ではこのように教えられています。「なぜキリスト者には祈りが必要なのですか」。その答えは、「なぜなら、祈りは、神がわたしたちにお求めになる感謝の最も重要な部分だからです」。祈りによって、わたしたちは主イエス・キリストの福音によって罪ゆるされ、救われていることを神に感謝し、また神がわたしたちにお与えくださろうとしておられる恵みを、喜びをもって受け取るのです。
主イエスの祈りのお姿に刺激されて、弟子の一人が「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と願いました。ヨハネとは、洗礼者ヨハネのことです。3章に書かれていたように、ヨハネは主イエスが登場される少し前に、来るべきメシア・救い主がすく近くまで来ておられるゆえに、罪を悔い改めて、メシアをお迎えする備えをせよと説教し、ヨルダン川で悔い改めの洗礼を授けていました。彼の説教は激しく、また信仰と情熱にあふれていたので、多くの人々が彼のもとに集まりました。ヨハネ自身は、「自分はメシア・キリストではない。自分の後においでになる方こそがメシアである」と証言していました。
ヨハネはやがてガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスによって処刑されますが、彼の弟子たちは主イエスの弟子たちとは別のグループを作って活動を続けていたようです。ヨハネのグループはヨハネから教えられた自分たちを特徴づける祈りを持っていたと思われます。それを見た主イエスの弟子たちは、自分たちにも独自の祈りが欲しいと願って、教えられたのが「主の祈り」です。
ここで、「主の祈り」が持っている一つの特色に気づきます。それは、「主の祈り」が主イエス・キリストを信じる信仰の民、教会の民を特徴づけ、またその民を一つに結びつける働き、役割があるということです。「主の祈り」はわたしたちを主イエス・キリストに結びつけます。また、共に「主の祈り」を祈っている信仰共同体を一つに結びつけます。それだけでなく、「主の祈り」は全世界のすべての教会、すべてのキリスト者を一つの神の民として結びつけます。「主の祈り」は世界を包む祈りであると言われます。
「わたしたちにも祈りを教えてください」という願いには二つの意味が含まれています。一つには、祈りそのものについて教えてくださいという意味です。祈りとは何か、祈るとはどういうことなのか、正しい祈りとは何か、あるいは祈りの重要性とか、なぜ祈るべきなのか、それを教えてくださいという願いです。二つには、何を祈るべきなのか、祈りの内容についてです。
弟子たちのこの願いは、わたしたちすべての人間の願いを代弁していると言えます。弟子たちもわたしたちも、主イエスを信じる信仰者にとって祈りとは何かとか、何をどのように祈るべきなのかということを、主イエスから教えられなければならないからです。主イエスの十字架の福音によって罪ゆるされ、救われているわたしたちにふさわしい祈りとは何かを教えられなければなりません。当時のユダヤ教の祈りとは違う、また洗礼者ヨハネの弟子たちの祈りとも違う、主イエスの弟子にふさわしい祈りについて、主イエスから教えられなければなりません。
そうでなければ、わたしたちは多く間違った祈りの理解をし、間違った願いを祈る者だからです。自分の欲望や願いをかなえるためだけの祈りであるならば、それはどれほどに真剣な祈りであっても、正しい祈りであるとは言えません。そのような祈りは真実の信仰を養う祈りではないでしょうし、真実の信仰共同体としての教会を健全に建てることにはならないでしょう。わたしたちはしばしば、間違ったものを求め、本当に必要ではないものを、むしろ信仰にとって有害なものを求めたりもするのです。わたしたちの命を本当に養うために何を祈り求めるべきなのかを、主イエスから教えられなければなりません。主イエスこそが、わたしたちを神の真理に導き、わたしたちを本当の命へと導かれる唯一の救い主であられるからです。わたしたちを罪から救うために、ご自身がご受難と十字架の死への道をお選びになられたほどに、わたしたちを愛してくださった主であられるからです。
ここで、主イエスがわたしたちに「主の祈り」を教えてくださったことの、根本的な意味について考えてみましょう。それは、主イエスがわたしたちに祈りの道を開いてくださったということです。わたしたち人間はそもそも神を知らず、神から遠く離れ、神に背いている罪びとでした。神との交わりは破壊され、閉ざされていました。わたしたち人間と神との間には、罪という厚い壁があり、深い溝があって、わたしたちは神と語り合うことができず、神に祈ることもできませんでした。
けれども、そのようなわたしたち罪びとのために、主イエスは苦難と十字架への道を歩まれ、わたしたちの罪を贖い、罪の奴隷からわたしたちを解放するために、ご自身の尊い命を犠牲としておささげくださったのです。今や、わたしたちは主イエス・キリストによって神との交わりを回復され、神の子どもたちとされ、神と親しく会話し、神に祈り求めることができるようになったのです。わたしたちに祈りの道が開かれたのです。「主の祈り」で、神を「父よ」と呼びかけることができるのはそのためです。また、祈りの中で、神を「あなた」と呼ぶことができるのもそのためです。
では次に、「主の祈り」の内容について学んでいきましょう。きょうは、神に対する呼びかけと「主の祈り」全体の構造を取り上げます。
まず、呼びかけですが、ルカ福音書では「父よ」となっています。マタイ福音書では「天におられるわたしたちの父よ」(式文では、「天にまします我らの父よ」)となっています。神に対する呼びかけだけでなく、祈りの内容にも少し違いがみられますが、なぜ、マタイとルカで違いがあるのかについては、主イエスが教えられた「主の祈り」がそれぞれの地域の信者や教会に伝承されていく過程で、何らかの事情でいくつかの違いが生じたのではないかと推測されています。神に対する呼びかけの違いもその理由が考えられますが、もう一つの説明として、主イエスご自身は神を単純に「父よ」と呼ばれましたが、ルカ福音書ではその主イエスご自身の呼びかけが強く反映されていると考えられます。
他方、旧約聖書では神を「父よ」とか「わたしの父よ」と呼びかける例はほとんどありません。神は人間からはるか遠い天におられる聖なる存在と考えられていたからです。マタイ福音書の呼びかけは、その旧約聖書の伝統が強く反愛されていると考えられます。
いずれにしても、いと高き天におられる神を「わたしたちの父よ」とか「父よ」と呼びかけることが許されるのは、主イエスがわたしたちのために開いてくださった救いの道があるからにほかなりません。主イエスによって、神はわたしたちの永遠の父となってくださったのです。父親がわが子を愛するように、神はわたしたち一人一人を永遠に愛してくださいます。ご自身の一人子なる主イエスを十字架の死に引き渡されるほどにわたしを愛してくださいます。
「主の祈り」の全体の構造は、前半では「御名」「御国」について、すなわち神ご自身のことについて祈られており、後半で「わたしたち」のことが祈られているという構造は、マタイ福音書とルカ福音書は同じです。これは、神が神として知られ、信じられ、あがめられているときにこそ、わたしたち人間の幸いがあるということを語っています。わたしたちが主の日ごとに神を礼拝し、神をあがめ、神に栄光を帰し、神のみ言葉に聞き従うときに、わたしの真実の幸いと永遠の喜びと、尽きることのない希望とをわたしたちは祈り求めることが許されるのです。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、あなたがみ子主イエス・キリストによってわたしたちの永遠の父となってくださったことを、感謝いたします。どうか、わたしたちをあなたのみ国の民として、日々養い育ててくださいますように。
〇主なる神よ、この地にあなたの義と平和とをお与えください。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。