12月1日説教「モーセが手に持つ神の杖」

2024年12月1日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記4章1~17節

    マタイによる福音書10章16~23節

説教題:「モーセが手に持つ神の杖」

 きょうの主の日から、待降節(アドヴェント)に入ります。主イエス・キリストのご降誕を待ち望む期間です。わたしたちは特にこの期間、戦争や分断、対立が絶えないこの世界に、神がまことの和解と平和をお与えくださるように、また、多くの困難を抱え、道に迷い、生活の困窮を覚え、重荷にあえいでいる人々に、神が主イエス・キリストによってまことの命と恵みとをお与えくださり、慰めと希望のあすを迎えさせてくださるようにとの、切なる祈りを持ちつつ、主イエス・キリストのご降誕を待ち望みたいと願います。

 きょうの礼拝では、出エジプト記4章のみ言葉から、エジプトの奴隷の家からイスラエルの民を導き出すための指導者として召されたモーセの召命と使命について、学んでいきたいと思います。モーセの召命の記事は、3章4節から始まっています。主なる神が「モーセよ、モーセよ」と呼びかけ、モーセがそれに対して「はい、ここにわたしがおります」と答え、それから神とモーセの対話が始まり、神がモーセに一つの使命を与えます。その神とモーセとの対話が4章の終わりまで続きます。神がこのように一人の人を相手に長く対話をされる場面は、聖書の中では非常に珍しいと言えます。

 なぜ、これほど長い対話になったのかには、理由がありました。それは、モーセが何度も神の招きを拒んだからです。3章11節で、モーセは神にこのように反論します。【3章11節】。また、きょうの箇所でも、【4章1節】。さらに10節でも、【10節】、また13節でも【13節】。このように、モーセが何度も何度も神の招きを拒否しています。ある時には自分の無力さや貧しさを嘆きながら、またある時には確かなしるしや保証を求めながら、ある時には口下手を口実にして、そしてしまいには、何の理由もなく、多少とも自暴自棄になって、神の招きに抵抗し、抗議し、神から与えられた務めから何とかして逃れようとしています。それが、神とモーセとの対話が長引いた理由でした。

 しかし、そこにはもう一つの理由がありました。それは、モーセの繰り返しの拒否や抗議に対して、神が何度も何度も耳を傾けられ、それをお聞きになり、なおも愛と憐れみをもって、また忍耐をもって、モーセの疑いや迷いや不安を取り除くために、数々の約束のみ言葉を語られ、確かなしるしと約束とをお与えくださったから、その神の限りなく大きな愛と忍耐こそが、もう一つの理由であった、いやこれこそが主たる理由であったのだというべきでしょう。

 神は、不信仰でかたくななモーセを、またあれこれと理由を探してはその務めから逃れようとするモーセを、それにもかかわらず、お見捨てになることなく、あきらめることなく、繰り返してお招きになられ、彼に語りかけられました。数えてみると、三たびどころか、五たびもです。神は、あるいは途中であきらめて、モーセを捨てて、他の人を選びなおしてもよかったはずなのに。五度目に、14節で、「主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた」と書かれています。この時には、完全にモーセを見限ってもよかったはずなのに。しかし、神はそうなさらずに、それでもなおも、神は大きな限りない愛と忍耐とをモーセに注がれ、モーセを見放すことはなさらず、ご自身の救いのみわざに仕える務めへとお招きになられたのでした。

 そして、ついに4章の終わりに至って、神の召しに応える従順な信仰者とされたモーセの姿を、わたしたちは見るのです。【20節】。また【28~29】。神はこのようにして、不信仰でかたくなな人間を、信じて応答する人間へと造り変えられます。不安や疑いのためにしり込みしている人間を、勇気をもって、喜んで神にお仕えする人間へと造り変えてくださるのです。神はそのようにして、きょうの礼拝においても、わたしたち一人一人をそのような信仰者として造り変えてくださいます。

 では、4章でモーセの神に対する拒否と応答がどのようになされていったのか、すなわち神の愛と忍耐がどのようにモーセを変えていったのかを、もう少し詳しくみていくことにしましょう。

 モーセは1節で、エジプトで苦しむヘブライ人たちが自分の言うことを信じないかもしれない、わたしの言葉に聞き従わないかもしれないという不安を神に投げかけていますが、これまでの神とモーセのやり取りを見てきたわたしたちには、これは実は、モーセが神のみ言葉を信じていないからであり、彼が神の約束を信頼していないから、このような不安を抱いているに過ぎないということが、わたしたちには分かっています。ヘブライ人たちが不信仰で疑い深いのではなく、モーセ自身が不信仰で疑い深いのだということです。神はこのあとで、モーセに対して3つのしるしをお与えになりますが、それらのしるしはヘブライ人たちが信じるようになるためのしるしであるというよりは、モーセが信じる者になるためのしるしであり、またそれは、のちにはヘブライ人たちの解放を拒んだエジプトの王ファラオに対するしるしにもなります。

 モーセに与えられた最初のしるしは、彼が持っていた杖が蛇になり、またそれが彼の手に戻ると再び杖に変わったというしるしです。モーセはミディアンの祭司エテロの羊の群れを飼う羊飼でしたから、羊を導く杖を持っていました。神はモーセが持っていた杖をお用いになって、大いなる奇跡のみわざをなさいます。20節では、モーセが持っていた杖は「神の杖」と言われています。神はモーセの手の中にあった1本の木の棒を、ご自身の偉大なる力と恵みとを表す道具としてお用いになります。

そのようにして神は、わたしたちが持っている小さなもの、わずかなものをもお用いになります。それが神によって用いられるとき、それは神の偉大な力と恵みとを証しするものとなるのです。神は土の器に過ぎないわたしたちをも、ご自身の尊い救いのみわざのためにお用いになります。使徒パウロはそのことについてコリントの信徒への手紙二4章7節でこのように語っています。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」。神はいと小さく貧しい器であるわたしたち一人一人をもお用いになります。その貧しい器の中に、主イエス・キリストの福音という宝を入れてくださいました。この尊い宝を持ち運ぶ器として、わたしたち一人一人をお用いになります。

モーセが杖を地に投げると蛇になり、もう一度それを手につかむと杖に変わったという奇跡は、暗示深いものがあります。創世記3章以来、聖書では蛇はサタン(悪魔)の象徴として用いられています。人間を神から引き離し、罪の中に引きずり込む誘惑者、悪しき力、罪の力の象徴とされています。モーセは今その蛇を支配する力を神から与えられているのです。

 また、17節にはこのように書かれています。【17節】。今、モーセに新たに授けられた「神の杖」は、こののちには、神の民ヘブライ人たちをエジプトの奴隷の家から解放するための杖として、また彼らを約束の地カナンへと導くための杖として、数々の奇跡をおこなう杖として用いられることになるということを、こののちの出エジプト記で語られていきます。モーセはその杖でエジプト王ファラオの前で奇跡を行い(7章1節以下)、ナイル川を打って水を赤い血に変えるという奇跡を行います(7章14節以下)。また、紅海の海の水を打って二つに分け(14章16節以下)、岩を打ってその間から水を湧き出させる(17章5節以下)、そのような杖として用いられるのです。

 そして、創世記3章15節に、「女のすえは蛇の頭を砕くであろう」と預言されていたように、女のすえである人となられた神のみ子主イエス・キリストは、十字架の死と復活によって、蛇の力、サタンと罪の力を最終的に打ち砕かれ、それに勝利されたのだということを、新約聖書は語っているのです。

 モーセに与えられた第二のしるしは、6~8節に書かれています。重い皮膚病にかかった手が雪のように白く清められたという奇跡も暗示深いものを含んでいます。それは、罪の汚れからの清め、罪のゆるしを意味しています。この奇跡はモーセ自身とヘブライ人の罪のゆるしを暗示しています。神がヘブライ人をエジプトの奴隷の家から解放し、その苦難から救い出されるのは、ただ彼らの苦しみを取り除いて、政治的な支配から自由にするということではなく、彼らを罪の奴隷から解放することであり、神との新たな交わりの中に招き入れられるということです。罪をゆるされた神の民とされるということなのです。

 人間はだれもみな神に背いている罪びとです。神のみ前では正しい人はだれ一人いません。主イエス・キリストの十字架の血によって罪の奴隷から解放されない限り、人間は罪から自由になって生きることはできません。主イエス・キリストの復活によって新しい命を与えられない限り、だれもまことの命を生きることはできません。

第三のしるしは、エジプト・ナイル川の水が地面に撒かれると、それが血に変わるという奇跡です。この奇跡が実際に起こるのは、7章17節に書かれているように、エジプトの王ファラオに対する10の災いの最初のものとしてです。ナイル川はエジプトの聖なる川であり、命の水であり、オシリスの神と考えられていました。その川の水が赤い血に変わり、飲めなくなり、川に住むすべての生き物が死ぬということは、エジプトの王とエジプトの神々に対する審判を意味していました。また、ヘブライ人の神、主なる神の勝利を表しています。

 神の杖を手にしたモーセは、もはやエジプトの権力をも神々をも恐れる必要はありません。また、自分自身とヘブライ人の罪とかたくなさとを嘆くこともありません。神ご自身がモーセに代わってそれらと戦ってくださり、それらに勝利してくださるからです。そして、モーセとヘブライ人の不信仰を信仰に変えてくださるからです。神は5節でこのように言われます。【5節】。また、8節でもこういわれます。【8節】。神は人間たちのあらゆる不信仰、不従順、反逆をも取り除いてくださり、ついにはご自身に従う信仰の民を生み出してくださるのです。

 

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、不信仰であり不従順であるわたしたちの罪をおゆるしください。あなたの招きのみ言葉を聞いたなら、従順に聞き従う信仰をお与えください。そして、あなたの救いのみわざのために仕える奉仕者として、わたしたちをお用いください。

〇主なる神よ、この世界を顧みてください。争いや分断があり、殺戮や奪い合いがあり、貧困や飢餓、自然破壊が多くの人々を苦しめている、この病んだ世界を顧みてください。あなたのみ心を行ってください。あなたの義と平和とを実現させてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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