2月2日説教「エジプト滞在のイスラエルの民の中に戻ったモーセ」

2025年2月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記4章18~31節

    ローマの信徒への手紙9章1~5節

説教題:「エジプト滞在のイスラエルの民の中に戻ったモーセ」

モーセはエジプトのナイル川から救い上げられてから40年間、王宮で育てられ、教育を受けましたが、その後40年間はアラビア半島のミディアンの地で、祭司エトロの家で訓練を受けました。そして今、神の召命を受け、イスラエルの民を奴隷の家エジプトから救う神のみわざに仕えるために、新しい歩みを始めようとしています。

モーセは40年間過ごした妻の父エトロの家があるミディアンに行き、エトロに別れのあいさつをしています。18節で、「エジプトにいる親族のもとに帰らせてください」とモーセはエトロに話していますが、その親族とは、もちろん彼が育てられたエジプトの王宮のことではありません。彼を生んで、その後ファラオの命令によってナイル川に彼を捨てざるを得なかったヘブライ人の父や母、兄弟たちのことです。あるいは、エジプトで苦しめられている同胞のイスラエルの民をも含んでいるのかもしれません。モーセはエジプト王宮で育てられましたが、エジプト人にはなりませんでした。そして今、イスラエルの民の一人として、新たな使命、務めを神から託されて、エジプトで苦しんでいる同胞のイスラエルの民の中へと帰っていくのです。ここからモーセの新しい歩みが始まります。

【19~20節】。19節に、「主はモーセに言われた」とあり、また21節でももう一度、「主はモーセに言われた」と書かれています。モーセの新しい歩み、彼の新しい使命、務めは、神の命令により、神のみ言葉に導かれて始められます。彼のこののちのすべての歩みと務めもまたそうです。その時、彼は強く、固く立って、神が定められた道を進んでいくことができます。わたしたちが4章の前半で聞いてきた、何度も神の招きを拒絶し、弱音を吐き、尻込みし、逃げ回っていたモーセの姿は、ここにはもはやありません。

20節には、「手には神の杖を携えて」と書かれています。17節にも神の杖のことが言われていました。モーセはこの杖で、エジプト王の前で、驚くべき神の奇跡を行います。神の杖は、神が常にモーセと共におられることのしるしです。この杖は、神がモーセを導く杖でもあるのです。もはやモーセには迷いも不安も恐れもありません。神の召しに応え、神の招きに従順に従います。神が彼の歩みに常に伴っていてくださり、彼が語るべき言葉を授けてくださり、彼がなすべきことを示し、導いてくださるからです。モーセはそのことを信じる信仰者として、新しい一歩を踏み出すのです。

21節以下で、神はもう一度、モーセに約束されます。【21~23節】。ここには、神の僕(しもべ)とされたモーセに対する神の約束が語られていますが、同時にそれはまた、モーセの務めの困難さをも語っているように思われます。神は、「わたしはファラオの心をかたくなにするので」と言われます。エジプト王ファラオは絶対的な権力を誇っていました。奴隷として倉庫の建設などに利用していたイスラエルの民を、やすやすと手放すことはしません。イスラエルを解放してほしいというモーセの要求を簡単に受け入れることはしません。それは当然予想されることでした。しかしここでは、それは神がなさることだと言われているのです。神ご自身がファラオの心をかたくなにするので、王は民を去らせないであろうと言われているのです。それはいったい何を語っているのでしょうか。

一つには、ファラオのかたくなさが強調されていることです。モーセは何度も繰り返してフアラオにイスラエルの解放を要求します。それがファラオによって拒絶されると、モーセは神の杖によって奇跡を行い、エジプト全土に大きな災いと被害を与えます。ファラオは災いの大きさに困り果てて、いったんは解放を認めますが、すぐにまたそれを撤回します。それが9度も繰り返されます。そしてついに、10番目の災いが23節で語られている、エジプトの王ファラオの長男をはじめとしてエジプト全土のすべての家庭の長男の死となります。ファラオのかたくなさゆえに、これらの10の災いがエジプトに大きな災害をもたらすことになります。それは神のみ心であり、神がなさることだと言われているのです。

しかし第二には、そのファラオのかたくなさもまた神のみ手の中にあるということが強調されています。イスラエルの主なる神はエジプト王ファラオをも支配しておられ、ご自身の救いのみわざのためにお用いになるのです。

そして第三には、ファラオがどれほどにかたくなであったとしても、イスラエルの解放を幾度も拒絶するとしても、それにもかかわらず、神はご自身の救いのご計画を確かに実行なさるのだということです。そのようにして、主なる神は人間のあらゆるかたくなさや不従順や不信仰にもかかわらず、いやむしろそれらのすべてをお用いになって、ご自身の救いのみわざをなしたもうのだということが、ここでは最終的に強調されているのです。

神は22節で、「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である」と言われます。かつて族長時代、創世記に描かれているように、アブラハムに約束された神の祝福がその子イサクに受け継がれ、またその子ヤコブに受け継がれたように、そして今神の祝福が神の長子として選ばれたイスラエルの民に受け継がれているのです。神は最愛の長子であるイスラエルが、奴隷の家エジプトで苦しめられているのを、そのまま見過ごしになさることはありません。彼らの叫びと祈りとをお聞きになります。そして、そこから救い出すために働かれます。

ここではさらに、イスラエルが神の長子であることとエジプト王ファラオの長子とが対比されて語られています。これは、先ほども少し触れましたが、のちのエジプトに対する10番目の災いである長子の死について語っています。ファラオが繰り返してイスラエルの民の解放を拒絶したために、神の最も厳しい裁きとして、ファラオの家をはじめ、エジプト全土のすべてのエジプト人の家の長男と家畜の最初に生まれた雄とがみな神によって滅ぼされという災いが、ここであらかじめ予告されています。出エジプト記11章以下に書かれていることです。これは、エジプトにとっては最も恐ろしい神の裁きですが、イスラエルにとっては神の偉大な救いの出来事として、のちに過ぎ越しの祭りとして祝われることになります。

神の長子であるイスラエルに対する神の大きな愛について、ホセア書11章1節にはこのように書かれています。「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」。神の長子であるイスラエルに対する神の大きな愛は、ご自身の一人子なる主イエス・キリストを、わたしたち罪びとの罪を贖うささげものとして、十字架の死に引き渡された大いなる神の愛となって結集し、わたしたちに注がれたのです。

24~26節には、モーセがミディアンの地、エトロの家からエジプトに帰る旅の途中で起こった不思議な出来事について記されています。この箇所は、分からない点が多く、ここで何が語られているのか、はっきりと断定することは困難ですが、わかっている範囲でいくつかのことを読み取っていきたいと思います。

24節で、「神はモーセを殺そうとされた」と書かれています。なぜ、神がモーセを殺そうとされたのかについては全く書かれていませんし、わたしたちが何かの理由を考えることもほとんど不可能です。神はモーセをご自分の民イスラエルを救い出すための指導者として召されたのですから、そのモーセをいきなり殺すなどということは、考えられません。このあとのこととの関連で、モーセが割礼を受けていなかったことが原因なのではないかと推測する人もいますが、2章2節によれば、モーセは3か月間、両親の家で過していますので、おそらく割礼を受けていたと考えるのが自然です。

そもそも割礼は、最初アブラハムに神が契約のしるしとして定めたものでした。創世記17章9節以下に書かれています。アブラハムの子孫として生まれた男子はみな、生まれて8日目に、神に選ばれ、神の祝福を受け継ぐしるしとして、男性の生殖器の一部の皮を切り取るという手術をするように定められていました。きょうの箇所では、モーセの息子(この息子の誕生については2章22節に書かれていました)の割礼の儀式を、妻のツィポラが行ったことが書かれていて、それによって神はモーセを殺すことをやめたと読めますので、もしかしたら息子の割礼をモーセが忘れていたことが、神の怒りを招いたと理解されなくもありませんが、よく分かりません。いずれにしても、モーセはアブラハムの子孫として、神に選ばれ、神との契約に生きる民の一人として、神から託された務めを果たしていくのです。そのことがここで再確認されています。

27節からは、モーセと彼の兄弟アロンが荒れ野の神の山で会い、二人が協力し合ってエジプト脱出という神の救いのみわざのために仕えることの確認をしたこと、そして二人で、ここではモーセの代弁者として語るアロンが主体的に行動していますが、エジプトにいるイスラエルの民の代表者たちを集めて、彼らに神の救いのご計画について話したことなどが、簡潔に語られています。31節の「民は信じた」というのは、アロンが語った神の救いのご計画を信じたという意味と、アロンとモーセとを神から派遣された自分たちの指導者であることを認めたという、二つの意味が込められているように思われます。

この箇所で、一貫して強調されていることは、そのすべてを導いているのが主なる神の言葉であるということです。23節には、「主の言葉と、命じられたしるしをすべて」と書かれています。また、30節には、「主がモーセに語られた言葉をことごとく」とあり、そして最後の31節には、「民は信じた。また主が親しくイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみを御覧になったということを聞き、ひれ伏して礼拝した」と書かれています。モーセとアロンを固く結びつけているものは、神の言葉です。モーセとアロン、そしてイスラエルの民を固く結びつけているのも、神の言葉です。わたしたちは神の言葉である聖書のみ言葉によって、主なる神と固く結び合わされ、また主なる神の救いの恵みに固く結び合わされ、そして一つの群れとして固く結び合わされているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがアブラハムに語られ、モーセに語られ、イスラエルの民に語られたあなたの救いの言葉を、あなたは今あなたのみ子主イエス・キリストによって、わたしたちにもお語りくださいましたことを、感謝いたします。わたしたちがあなたのみ言葉を聞いた時、心をかたくなにして耳を閉ざすことがありませんように、またこの世の誘惑の言葉に負けてあなたのみ言葉を軽んじることがありませんように、従順にみ言葉に聞き従う者としてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和が、この世界で営まれる政治や経済、科学、文化、人々の日常生活のあらゆる分野で、固く据えられますよう。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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