2025年2月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:詩編16編1~11節
使徒言行録13章26~41節
説教題:「イスラエルに与えられた神の救いの言葉は主イエスによってわたし
たちに与えられた」
使徒言行録に記録されている初代教会の説教は、2章のペンテコステの日のペトロの説教をはじめ、7章の殉教者ステファノの説教も、そして今学んでいる13章のパウロの説教も、すべては同じ構造になっています。つまり、まず旧約聖書に描かれている神の救いのみわざが語られ、次にその旧約聖書の神の救いのみわざが、主イエス・キリストによって今ここで最終的に、完全なかたちで、成就している、神の救いが完成している、と語っています。今日のわたしたちの言葉で表現すれば、旧約聖書は来るべき主イエス・キリストを預言し、待ち望んでいる旧約聖書の民イスラエルの救いの歴史であり、新約聖書は預言と約束の成就としてこの世においでになられた主イエス・キリストの十字架と復活によって、神の救いのみわざが今や全世界のすべての人々の救いの出来事として、その最終目的に達したことを語っている。そのようにまとめることができるでしょう。
きょうの箇所で説教者パウロは、旧約聖書の出エジプトの出来事から始まるイスラエルのすべての救いの言葉が、主イエスの直前に現れた洗礼者ヨハネの登場を経て、今やこの世においでになった主イエス・キリストによって、この時代に生きるわたしたちに送られている神の救いの言葉であると、26節で語ります。【26節】。「アブラハムの子孫の方々」と「神を畏れる人たち」という呼びかけは、説教の冒頭の16節にもありました。この呼びかけもまた、主イエス・キリストによって成就された救いの完全性を言い表しています。「アブラハムの子孫」とは、神に選ばれたイスラエルの民、ユダヤ人のこと、「神を畏れる人たち」とは、まだ正式にユダヤ教には改宗していないが、旧約聖書の神をあがめ、聖書の言葉の真理を信じている、ユダヤ人以外の信奉者のことです。すなわち、選ばれて民ユダヤ人だけでなく、他のすべての人々、異邦人と言われる全世界の人々も、主イエスの福音によって、神の救いの恵みへと招き入れられているということを、この二つの呼びかけは意味しているのです。
次にパウロは27節以下で、主イエスご自身によって成就された救いの出来事について語ります。パウロの説教の内容を順にみていくと、27~28節では、ユダヤ人指導者たちによる主イエスに対する偽りの裁判と十字架による処刑のこと、29節では主イエスの墓への葬り、30節では主イエスの復活、31節では、復活された主イエスがそのお姿を弟子たちに現わされた復活の顕現、そして32節では、教会による主イエスの福音の宣教活動へと続きます。これを見ると、パウロの説教はわたしたちが今日、礼拝で告白している『使徒信条』の内容とほとんど一致していることに気づきます。『使徒信条』では、「主は……ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだり、三日目に死者のうちより復活し……」と告白されています。パウロの説教の内容とほとんど一致しています。
パウロの第一回世界伝道旅行でのこの説教は、紀元40年代の後半と考えられています。『使徒信条』がまとめられたのは紀元3~4世紀ころと推測されますから、パウロのこの説教から2、300年の初代教会の神学的な研鑽の時を経て、今日の『使徒信条』が完成したと言えます。パウロのこの説教が『使徒信条』が形成されていく一つの原形となったのかもしれません。
では、この箇所でのパウロの説教の特徴をいくつか見ていくことにしましょう。27~29節までの、主イエスのご受難を語る箇所の主語は、27節冒頭の「エルサレムに住む人々やその指導者たち」です。彼らが、主イエスに対する妬みや憎しみ、誤解や不信仰によって、主イエスを偽りの裁判で裁き、主イエスには死に値する罪を全く見いだせなかったにもかかわらず、ローマ総督ピラトに頼み込んで、死刑の宣告をしてもらい、主イエスを十字架につけ、そして主イエスのお体を十字架から降ろし、墓に葬りました。それらの行為のすべての主人公は、彼らエルサレムの指導者たちです。彼らは、神から遣わされたメシア・救い主である主イエスを受け入れず、拒絶するという大きな罪を犯しているのですが、彼ら自身はまだそのことには気づいてはいませんでした。
この箇所の文章の主語はすべて「彼ら」です。しかし注意深く読むと、そこには隠された神のみ心が働いていたことをパウロは何度も語っているのです。27節では、「(彼らは)預言者の言葉を理解せず、……その言葉を成就させたのです」と言われています。29節では、「イエスについて書かれていることがすべて実現した」とも言われています。彼らユダヤ人指導者たちの無理解と不信仰という罪の中で、しかし旧約聖書に預言されていた神の言葉が不思議にも成就されていき、神の救いのみ心とご計画が成就されていったのだと、パウロは強調しています。
主イエスのご受難の歩みにおいて主導権を握っているのは、彼らユダヤ人指導者ではなく、ピラトでもなく、十字架の下で主イエスをあざ笑っていた民衆でもなく、主なる神の言葉なのです。神がお遣わしになったメシア・救い主を受け入れない彼らユダヤ人たちの無理解やかたくなさの中で、罪のない神のみ子を裁こうとした人間の傲慢や罪の中で、そのすべてを貫いて、神の救いのみ心が行われ、神の言葉が実現されていったのです。
パウロの説教のもう一つの特徴は、30節から突然に主語が変わり、「しかし、神は」という、力強い言葉で始められていることです。【30節】。ある人は、これは「偉大なる、しかし、だ」と表現しています。人間たちの考え、行動、歩み、歴史、そのすべてが罪に傾いて、罪に向かって進んでいくときに、「しかし、神は」という言葉が、その罪の歩みをとどめ、罪と死から人間を救い出す、神の命の言葉が語られていくのです。天地万物を創造された全能の神、無から有を呼び出だし、死から命を生み出される神が、主イエスを死者の中から復活させてくださったのです。そのようにして、新しい人間の歩みを、世界の新しい歴史を、神は始めさせてくださるのです。
30節で語られている「しかし、神は」という、強い響きを持った言い方が、このあとも余韻を残しながら繰り返されています。33節では、「神はイエスを復活させ」、34節でも「イエスを死者の中から復活させ」、そして37節では、「神が復活させたこの方は」と、神が主イエスを復活させたことが3度も強調されて繰り返されているのです。まさに、神は死から命を生み出される神であられます。罪と滅びから救いと新しい歩みを始めさせてくださる神です。主イエスを死から復活させてくださった偉大なる神は、わたしたち罪びとをも、罪と死と滅びから救い出してくださることを信じる信仰へと、わたしたちは招き入れられているのです。
30節から始まる神の新しい救いのみわざの展開を見ていきましょう。31節では、主イエスの復活の顕現と、神が主イエスの復活の証人たちをお立てくださったことが語られています。復活された主イエスは、12弟子をはじめ、ガリラヤやエルサレムで主イエスに従った多くの信仰者たちに、40日間にわたってご自分のお姿を現されました。十字架で死なれた主イエスが確かに復活されたことを多くの人々にお示しになりました。彼らが主イエスの復活の証人として立てられ、教会が形成されたのです。教会は彼ら復活の証人たちの証言を土台にして建てられています。教会は彼らの証言を信じる信仰によって、その後も生き続けています。主イエスはヨハネ福音書20章29節で、「見ないで信じる人は幸いである」と言われました。わたしたちは主イエスの復活のお姿を直接に見てはいませんが、初代教会の彼ら目撃証人たちの証言を聖書で聞き、主イエスの復活を信じる幸いへと招かれているのです。
次の32節も、主イエスの復活の証人たちの働きについて語っています。【32節】。ここでは、復活の証人たちの宣教の働きについて語られます。彼らが復活の証人として立てられたのは、彼らが次の世代の人々に主イエスの十字架と復活の福音を宣べ伝えるためなのです。
「証人」という言葉が使徒言行録全体で非常に重要な意味を持つ言葉として繰り返して用いられていることをもう一度確認しておきましょう。最初は1章8節です。【8節】(213ページ)。次に、1章22節では、イスカリオテのユダに変わる12使徒を選ぶ際には、「主の復活の証人になるべきです」と言われています。2章32節では、【32節】(216ページ)とあります。この後にも、何度も証人という言葉が用いられます。この言葉は、紀元1世紀終わりころに、ローマ帝国による組織的な教会迫害が始まる時代になると、「殉教者」という意味が付け加えられるようになりました。そして、今日、このギリシャ語から造られた英語のmartyr(マーター)という言葉は、証人とか目撃者という本来の意味はほとんど薄れて、殉教者という意味で用いられます。
わたしたちが主イエスの復活の証人として立てられるということは、究極的な意味合いで、わたしたちが殉教者となるということに他なりません。「たとえわたしの命が脅かされることがあろうとも、わたしはこの証言を変えません。なぜならば、死から復活された主イエスこそが、わたしにまことの命をお与えくださる唯一の主だからです」と告白するのが、主イエスの証人だからです。
33節以下でパウロは、主イエスの復活の出来事の大きな、そして深い意味について、旧約聖書のみ言葉を引用しながら語ります。【33~37節】。主イエスの復活は、死者がもう一度生き返った蘇生ではありません。罪と死に対する完全な勝利です。それゆえに、主イエスを信じるわたしたちに、朽ち果てることのない永遠の命の保証を与えるのです。
パウロの説教の三つ目の大きな特徴は、38節以下で語られています。【38~39節】。ここで語られていることは、わたしたちプロテスタント教会の中心的な教えである「信仰義認」のことです。のちにパウロがローマの信徒への手紙などで詳しく展開していく教え、16世紀の宗教改革者たちが再発見したプロテスタント教会の教え、信じる人はだれであれ、ただその信仰によってのみ神に義とされ、罪ゆるされ、救われるという、「信仰義認」の教えが、ここですでに語られているのです。わたしの救いに必要なことはすべて主イエスによって成し遂げられています。たとえ、わたしには神の律法の一つをも守り行うことができなくても、罪多く、欠けや破れに満ちている人間であったとしても、わたしのために救いのみわざを成し遂げてくださった主イエスを、わたしの救い主と信じる信仰によって、神はわたしのすべての罪をゆるしてくださり、わたしを神のみ前で罪なき者とみなしてくださり、ただ神から差し出される一方的な恵みによって、神はわたしを義と認めてくだるのです。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、あなたから差し出されている救いの恵みを、心から感謝いたします。どうか、わたしたちがあなたの恵みに応えて、復活の主イエスを証しする者とされますように。
〇この世界にあなたの義と平和が実現しますように。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。