2025年3月9日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:詩編130編1~8節
ルカによる福音書11章1~4節
説教題:「わたしたちの罪をゆるしてください」
ルカによる福音書11章で教えられている主の祈りをテキストに学んでいます。きょうは4節の、「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも……赦しますから」、この主の祈りの後半の二つ目の祈りについて学びます。マタイ福音書6章では、「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と、ルカ福音書とは少し違っている個所があります。マタイ福音書をテキストにした式文の「主の祈り」では、「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」となっています。それぞれの違いについては、のちほど説明をします。
すでに学んできましたように、主の祈りの後半の初めで、わたしたちの日々のパンについての祈りがまず挙げられていました。わたしたちはパンなしでは生きていけない、肉なる者であり、飢え乾く者、弱い存在であることを、まず自覚させられます。しかし、そのような肉なる者、弱い存在であるからこそ、その命を支えてくださる主なる神に、熱心にパンを求める祈りをささげるように、主イエスは教えておられます。
そして、ここで注目したいことは、後半の最初の祈りであるパンを求める祈りと、次の罪のゆるしを求める祈りの間に、日本語では訳されてはいませんが、「そして」という接続詞(ギリシャ語ではカイという言葉です)があって、二つの文章をつないでいるのです。
このことは、二つの文章が関連性を持っていることを意味しています。わたしたち人間がこの地上で肉体の命を維持していくためにはパンを必要としているように、わたしたちが神から与えられている霊の命を維持していくために、罪のゆるしを必要としているということを、わたしたちはここから教えられるのです。わたしたちがきょう生きるために「主よ、きょうのパンをお与えください」と、真剣に祈るように、それと同じ真剣さと、現実性と、緊急性とをもって、「主よ、わたしの罪をおゆるしください」と祈るべきだと、主イエスは言われるのです。わたしの肉体が生きていくためにパンを必要としているのとまったく同様に、わたしの魂が生きていくために常に罪のゆるしを必要としているのです。そしてまた、主なる神はきょうの体の命のためにわたしにパンを備えてくださり、わたしの魂の命のために罪のゆるしをお与えくださると、主イエスは約束しておられるのです。
パンを求める祈りと罪のゆるしを求める祈りとが密接に関連しているもう一つの重要なポイントは、わたしたちはこの二つの祈りをいずれも神に向かって祈るのだということです。天の父なる神に向かって、「どうぞ、パンをお与えください」と祈り、同じ神に「どうぞ、罪をおゆるしください」と祈るのです。
パンを求めるために、食料を提供してくれる生産者とか食料を販売している店に行きなさいと、主イエスは言われたのではありません。パンを手に入れるために熱心に働きなさとお命じになったのでもありません。天の父なる神に、あなたのパンを求めなさいとお命じになられたのです。なぜ、パンを神に求めるべきなのか、その隠された理由を、わたしたちはここで教えられるのです。
それは、天の父なる神こそがわたしたち人間の罪をゆるすことができる唯一のお方だからです。そして、事実、わたしたちの罪をゆるすためにご自身のみ子を十字架に犠牲としておささげくださったからです。ご自身の一人子さえも惜しまれずに、わたしたちの罪のゆるしのためにみ子をおささげくださった方は、み子のみならず、万物をもお与えくださるのは当然だからです(ローマの信徒への手紙8章31節以下参照)。それゆえに、わたしたちの罪をおゆるしになる神にこそ、「きょうのパンをお与えください」と祈るようにと命じられているのです。
では次に、罪のゆるしの祈りは、キリスト教信仰の中心的な主題であることについて考えてみましょう。キリスト教は他のどの宗教よりも、人間の罪を問題にし、その罪のゆるしこそがわたしたちの本当の救いであると教えています。また、罪のゆるしは主イエスのご生涯全体、その説教、みわざ全体とも関連しています。主イエスの誕生から十字架の死と復活に至るまでのすべてが、わたしたちの罪のゆるしのためであったと言うことができるでしょう。
わたしたちが主イエスの誕生の時にクリスマスのメッセージとして聞く、マタイ福音書1章21節のみ言葉はこうです。「マリアは男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。また、主イエスは中風の人をいやされたあとでこのように言われました。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪はゆるされる」(マタイ福音書9章2節)。そして、マタイ福音書9章13節では、主イエスはこのように言われました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」と。さらに、主イエスは十字架の上でこう祈られました。「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのかを知らないのです」(ルカ福音書23章34節)と。最後に、復活されて弟子たちにそのお姿を現された主イエスはこう言われました。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪のゆるしを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」ルカ福音書24章46~48節参照)と。
このように、罪のゆるしは主イエスのご生涯の中心であり、また全体です。それはキリスト教信仰の中心です。主の祈りが主イエスの福音の要約であると言われるのは、まさにそのとおりです。わたしたちが「我らの罪をゆるしたまえ」と祈ることによって、わたしがキリスト者であるということをまさに自覚し、告白するのです。
それでは、罪とは何か、また罪のゆるしとは何かという、より中心的なテーマに入りましょう。キリスト教は人間の罪を最も真剣に取り上げ、問題にします。また、罪のゆるしを救いの中心とします。でも、一部の人はそれが日本でのキリスト教の成長を妨げていると言います。人間の罪という、いわば暗い、じめじめしたテーマを表に出さないで、人間の理想とか可能性、人生の幸せとか喜びの方を強調する方が、教会に人が集まるのにと言う人がいます。実際、そのようなことを説く新興宗教や人間開発セミナーのような集会に多くの若者が集まったりします。
しかし、わたしたちはそのような意見には賛成しません。もし、教会が罪と救いを抜きにした別のテーマを掲げて人集めをしたとしても、それは真実の教会形成にはならないからです。もし、教会が罪を語らず、罪のゆるしを語らなくなれば、主イエスがこの世においでになられたことは無意味になりますし、主イエスの十字架の死も復活も、すべてが無意味になってしまうからです。
むしろ、わたしたちはこう考えるべきでしょう。人間の罪について真剣に考えることが少ない日本だからこそ、罪について、丁寧に、また力を込めて語らなければならないでしょう。罪の意識が薄く、罪のゆるしを真剣に求める人が少なく、それよりは、人生の幸福とか繁栄、健康といったものを求めるに熱心なこの国の人たちに対して、正しく人間の罪について語り、罪のゆるしの福音のすばらしさを語らなければならないでしょう。罪のゆるしを願い求める祈りの重要さを語らなければならないでしょう。罪のゆるしの福音こそが、わたしたちの本当の救いであり、命であり、祝福なのだということを語らなければならないでしょう。
さて、聖書で罪という言葉は、旧約聖書が書かれているヘブライ語でも、新約聖書が書かれているギリシャ語でも、元来は「的を外す」という意味を持っています。この言葉は罪の本質というものをよく言い表していると言えます。的とは、神に向かうことです。人間は神によって創造され、神と共に歩む者、また隣人と共に歩む者として創造されました。けれども、人間はその神に背き、神から離れて生きる罪びととなりました。人間が一生懸命に、努力して生きようとすればするほど、人間は気づかないうちにますます神から離れ、的から離れて、罪に落ちていくしかありません。また、的からそれている人間の歩みは、神から離れるだけでなく、そのすべてが、隣人との関係においても、社会生活においても、自然との関係も、すべてがゆがんでいくしかありません。聖書は、そのような罪の人間の歴史を描いています。人間はだれもがみな、的から外れ、罪と死と滅びへと向かっていると聖書は教えています。
そのような人間の罪は、負債という言葉でも表現されます。ルカ福音書11章では、「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」となっていますが、マタイ福音書6章12節では、「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも負い目のある人を赦しましたように」と、前半でも後半でも「負い目」(これは負債という意味ですが)という言葉を用いています。罪と、負い目(負債)は全く同じ意味と考えてよいでしょう。
負債とは借金のことです。つまり、わたしたち人間は神に対して負債を負っている、借金がある、神に返すべきものを返していない、むしろ日々に借金を増やしているというのです。この考え方の背景には、人間は本来、神から多くの恵みと賜物とをいただいている、そうであるのに、その恵みに気づかず、気づこうともせず、それゆえに感謝もせず、神の恵みに応えることをせず、かえって神から与えられた恵みを自らの欲望のままに浪費している。本来神からいただいたものである恵みを、自らの手で獲得したものだと主張し、いよいよ神から奪い取っている。だから、それは神に対する無限の負債なのだという考えです。
わたしたちはここから、神に対する人間の罪と負債がいかに大きいかということを教えられるのですが、また同時に、わたしたち人間にはすでに神からの多くの恵みが与えられているのだということにも気づかされるのです。「我らの罪をゆるしたまえ」と祈るときに、わたしたちがすでに神から多くの恵みを与えられており、今また主イエス・キリストの十字架の福音によって、すべて信じる人に与えられている罪のゆるしの恵みがいかに大きいかということを、わたしたちは知らされるのです。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、あなたは罪の中で滅びようとしていたわたしたちを顧みてくださり、わたしたちを罪から救うために、み子の尊い十字架の血を流されるほどにわたしたちを愛してくださいましたことを覚え、心からの感謝をささげます。わたしたちが再び罪の奴隷のくびきにつながれることがありませんように、あなたから与えられた罪のゆるしの恵みに、心からの感謝をささげて、その恵みの応答し、あなたと隣人とに喜んでお仕えする者となりますように、お導きください。
〇主なる神よ、あなたの義と平和とがこの世界に与えられますように。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。