3月30日説教「アブラハムとの契約を実行される神」

2025年3月30日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記6章1~13節

    ローマの信徒への手紙4章13~25節

説教題:「アブラハムとの契約を実行される神」

 イスラエルの民が奴隷の家エジプトから脱出して、神の約束の地カナンへと導かれたという出エジプトの出来事には、聖書全体を貫いている大きなテーマがいくつも盛り込まれています。

第一には、出エジプトは神の民であり旧約聖書の民であるイスラエルの誕生という出来事です。それは、イスラエルの民の中から出た一人のメシア・救い主の誕生と、新約聖書の民、教会の誕生へと続いていきます。

第二には、出エジプトの出来事はエジプトで奴隷であった民がその奴隷状態から解放されて自由の民とされたということにとどまらず、主なる神によって贖われ、救われ、真実の神を礼拝する民とされたということでもあります。それは、主イエス・キリストの十字架と復活によって罪の奴隷から解放され、救われ、自由な礼拝の民とされた教会へと受け継がれていきます。

第三には、出エジプトの出来事は、神の救いのみわざを信じるイスラエルの信仰を生み出します。出エジプトの出来事は最初から最後まで神ご自身の救いのみわざですが、それは同時にイスラエルの信仰と服従を求めます。そこではまず、イスラエルの不従順、不信仰、かたくなさが明らかにされます。しかしまた、神はそのようなイスラエルの罪を克服し、彼らを信仰の民とするために、さまざまなしるしと奇跡とを行ってくださいます。それによって、イスラエルはただ信仰によって真実の救いの道を生きる民とされていくのです。これもまた、新約聖書の民・教会へと受け継がれていきます。

そして第四に、神はご自身の救いのみわざである出エジプトの出来事のために、モーセという奉仕者、働き人を備えられます。モーセは、自分が神の働き人となるには全くふさわしくない欠けと破れだらけの人間であることを自覚していましたが、神はあえてそのような弱さをもったモーセをお選びになり、彼をお用いになり、ご自身の出エジプトという偉大なる救いのみわざをなさるのです。そしてこのこともまた、主イエス・キリストの救いのみわざのために仕える教会の民、わたしたち一人一人へと受け継がれていきます。

以上のことを念頭に置きながら、きょうの聖書のみ言葉を読んでいくことにしましょう。【出エジプト記6章1節】。これまで4章、5章で読んできた内容から、エジプト王ファラオとイスラエルの民とモーセの、三者の立場と考え方をまとめてみましょう。ファラオはエジプト王国の絶対的権威者として、奴隷にしているイスラエルの民を自国の経済発展に利用する労働力としか考えていません。イスラエルの神の言葉にも、その神の僕(しもべ)として仕えるモーセの言い分にも、全く耳を傾けようとはしません。イスラエルの民が、「自分たちが神を礼拝するために少しの期間、休みをください」と要求したのに対して、「お前たちは怠け者だ。働きたくないから、神を礼拝する時間をくれなどと要求しているのではないか。そんな怠け者には、もっと重い労働を課してやるのがよい」というのがファラオの答えでした。

イスラエルの民は、自分たちの労働の量がより増えた現状を見て、「こんなに労苦が増し加わったのはモーセよ、お前のせいだ。お前がファラオに我々を嫌わせるようなことをしたからだ。お前は我々の命を殺す剣をファラオに渡したようなものだ」と、指導者モーセを非難します。イスラエルの民は自分たちの肉体的な命や現実的な労苦のことしか頭にありません。真の救いと平安がどこにあるのかを考えてはいません。それを求めようとはしていません。

そのような両者の間に挟まれて、モーセは苦悩しています。彼の苦悩について、5章の終わりに書かれていました。【22~23節】。モーセはファラオの絶対的権力の前で、自分の無力さを嘆いています。神の約束のみ言葉を聞いてはいたが、それが直ちに実行されないことにいら立ってもいます。我が民イスラエルが自分を信頼せず、この世の現実に縛り付けられている様を見て、失望しています。そして、彼は主なる神に助けを求め、訴えるほかにありません。

そのモーセの訴えに、主なる神はお答えになります。それが6章1節です。神はここで言われます。「ファラオは、今はかたくなにイスラエルの民を去らせることを拒んでいるが、やがて主なる神であるわたしが強い手によって彼を動かすことによって、彼は最終的にはイスラエルの民をエジプトから追い出すようになるであろう」と。神の強いみ手の働きが、奴隷の民イスラエルの解放をかたくなに拒んでいたファラオを、ついには自ら進んで彼らを追い出すようにさせるであろうと言うのです。

ここには、人間の予想や願いや可能性をはるかに超える、神の不思議な救いのみわざが語られています。イスラエルの民が自分たちに課せられた重い労働を嘆き、指導者モーセを非難したのでしたが、その彼らに増し加えられた試練もまた、彼らを救われる神の偉大なみ力をよりはっきりと証明するために役立てられるのです。あるいはまた、「なぜあなたはこの民により厳しい災いをくだされるのですか」というモーセの嘆きを、神の救いのみわざの驚くべき偉大さを知るモーセの喜びと感謝へと変えるのです。そのようにして、出エジプトという神の救いの出来事は、イスラエルの民のより困難で試練の多い状況の中でこそ、その救いの恵みの大きさを明らかにするのです。また、その救いのみわざに仕える指導者モーセのより困難で試練の多い状況の中でこそ、彼の使命の重さが自覚されるのです。

さらには、出エジプトという出来事が、単に奴隷の民イスラエルがその重い労働の苦役から解放されるための神のみわざなのではなく、彼らが真実な神の民とされ、神に救われた民とされ、神を礼拝する民とされるための、神の偉大な救いのみわざなのだということを、わたしたちに理解させるのです。そのために、イスラエルの民と指導者モーセは、ファラオから「仕事をさぼるために神礼拝をさせろと要求する怠け者だ」とあざけられねばならなかったのであり、より重い労働を強いられ、より大きな試練を経験しなければならなかったのであり、命の危険すらも経験するようにされたのです。そのようにして、真実の神礼拝に向けての解放と救いは、まさにまことの命に向けての解放であり、救いなのだということが明らかにされるのです。

次に、2~4節を読みましょう。【2~4節】。2節で神は、「わたしは主である」と言われます。同じ表現は、6節8節、28節でも繰り返されています。これは神の自己紹介であり、自己宣言、自己啓示です。主と訳されている個所には神のお名前が書かれています。そのお名前については3章14節で、初めて神はモーセにお告げになりました。【3章14節】(97ページ)。「わたしはある」というのがそのお名前です。これをヘブライ語でどう発音するのかは、忘れられてしまったので、そのお名前が書かれている個所は、ヘブライ語で主を意味する「アドナイ」と発音するしきたりになりました。「わたしはある」とは、イスラエルの神こそが唯一の永遠なる存在者であり、すべての存在するものの存在の根源であり、すべてを存在へと至らしめ、その存在を支える、存在の主であられる神であるということです。その神が、今新たにモーセにそのお名前を告げられ、エジプトの地でその存在を失っているイスラエルの民に、新たに神の民、礼拝の民としての存在をお与えになるということが、ここで語られています。

それは、神がすでに創世記で族長アブラハム、イサク、ヤコブに対して約束された契約を成就するためであったと、4節に、またこのあと8節にも語られています。わたしたちはここでもまた、創世記から出エジプト記に至るまでのおよそ400数十年の時間の空白を埋めることができるでしょう。創世記の終わりは、ヤコブ、すなわちイスラエルの12人の子どもたちがその家族を連れてエジプトに移住した記録で終わっています。族長時代は、およそ紀元前18世紀から17世紀にかけてと考えられます。次の出エジプト記はそれから400数十年後の紀元前13世紀後半の出来事が描かれています。その間の400数十年については、聖書にとっての空白の時代です。

しかし今ここで、族長時代の神、全能の神として族長たちに現れ、彼らと契約を結ばれた神が、今モーセに対して「主」(わたしはある)というお名前でご自身を啓示された神と同じ神であることを証ししておられるのです。それだけでなく、族長たちと結ばれた契約を今ここで成就されることによって、同じ神であることを証しすると言われるのです。

神と族長たちとの契約の内容は主に三つありました。一つは、アブラハムとその子孫に神の祝福が永遠に受け継がれるということ。二つめは、アブラハムの信仰を受け継ぐ子孫は空の星の数ほどに増えるであろうという約束。三つめは、アブラハムが寄留していた地、カナンの地をその子孫が永遠に受け継ぐであろうという約束。神は400周十年を経て、この契約をエジプトで奴隷として苦しむイスラエルの民に対して成就すると言われます。

5節に、「わたしの契約を思い起こした」とありますが、これは、忘れていたけれども今になって思いだしたという意味ではありません。本来は、「覚えている」という意味の言葉で、神はアブラハムの時代から500年、600年が過ぎたその間も、今も、アブラハムとの契約を決して忘れることなく、いつも覚えたおられたという意味です。アブラハムも、イサクもヤコブも、飢饉のときには神との契約を忘れ、食料を求めてエジプトに移住したことがありました。エジプト滞在400数十年のイスラエルの民も、神との契約を忘れていたかもしれません。しかし、その時でも、神は決してアブラハムとの契約をお忘れにはなりませんでした。そして、今、彼らの苦難の時に、彼らの死が迫っているその時に、神は彼らとの契約を成就されるのです。彼らを死から命へと導かれるためです。

最後に、【6節】。ここでは、神のみわざが三つの動詞で言い表されています。「導き出す」「救い出す」「贖う」。この三つの言葉に、出エジプトの出来事の意味が言い表されています。それは、新約聖書の民であるわたしたちにも受け継がれています。この三つを、今日のわたしたちに当てはめてみましょう。

主イエス・キリストの十字架と復活の福音はわたしたちをこの世での束縛や、重荷や、思い煩いから導き出し、わたしたちを神の福音と恵みの中へと招き、わたしたちを真実の自由に生きることを可能にします。

主イエスの十字架と復活の福音は、わたしたちを罪の奴隷から救い出し、まことの命に生かし、神のもとにある平安と慰めへと招き入れます。

主イエス・キリストの十字架と復活の福音は、わたしたちを主キリストに属する者とし、滅びゆくしかないこの世から贖いだされ、神の国の民とされた祝福に生きる者とします。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの永遠なる救いのご計画は今に至るまで、また終わりの日に至るまで続けられていることを信じさせてください。わたしたち一人一人をもその救いのご計画の中にお招きくださいますことを感謝いたします。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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