4月6日説教「わたしたちの罪を赦してください(二)」

2025年4月6日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編51編1~14節

    ルカによる福音書11章1~4節

説教題:「わたしたちの罪を赦してください(二)」

 主イエスが弟子たちに教えられた、祈りの模範である「主の祈り」は、マタイ福音書6章とルカ福音書11章で、少し違った形で書かれています。式文の主の祈りは、マタイ福音書6章をもとにしていますが、「新共同訳聖書」と式文では、日本語の翻訳が違っています。きょうは、マタイ福音書、ルカ福音書、そして式文の三つの違いに注目しながら、わたしたちの罪のゆるしの祈りについて、深く学んでいきたいと思います。

 まず、これは言うまでもないことですが、わたしたちは自分たちの罪のゆるしについて、主なる神に祈り求めなければならないということを、あらためて確認しておきましょう。罪のゆるしについて、だれかほかの人に願い求めるとか、何かほかの手段や方法を願い求めるのではなく、ただ主なる神にのみ祈り求めなければなりません。なぜならば、主なる神だけがわたしたちの罪をゆるすことがおできになる唯一の方だからです。

と言うよりは、そもそも罪とは、主なる神に対する罪だからです。わたしたち人間は造り主なる神のみ心を悟らず、そのみ言葉に背き、また、神から与えられている恵みに気づくこと遅く、それに感謝すること少なく、神の栄誉と栄光を神から奪い取って自らのものとしている罪びとであり、神に対して無限の負債を負っている罪多き者、それがわたしたち人間なのだと聖書は教えています。それゆえに、主イエスは「神よ、わたしたちの罪を赦したまえ」と祈るように教えておられるのです。

 マタイ福音書6章12節の「新共同訳聖書」では、「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」となっていますが、ルカ福音書11章4節では、前半は「わたしたちの罪を赦してください」となっているのに対して、後半では、「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」となっていて、前半と後半で罪と負い目を使い分けているように思われるかもしれませんが、前回にも説明したように、罪と負い目は全く同じ意味で用いられていると考えるべきで、罪の性質の違いとかその特徴を二つの言葉で言い表していると理解すべきだと思います。マタイ福音書6章をテキストにしている式文の主の祈りも、同じような意味で、負い目を罪と言い換えています。

 人間の罪を神に対する負い目、すなわち借金と考えることの背景には、わたしたち人間は神から多くの恵みを不断にいただいているという考えがあります。わたしたち人間がそのことにはまったく気づいていないとしても、神はいつでも、ずっと前から、使徒パウロの言葉で言えば、「わたしを母の胎内にあるときから、選び分け、恵みによって召し出してくださった神」(ガラテヤの信徒への手紙1章15節)に、わたしたちはのちになって初めて気づかされるのですが、そのように、神の恵みはすでにわたしにも豊かに与えられているのです。

 けれども、わたしたちは不信仰であって、神の多くの恵みに気づかず、その恵みを無駄に投げ捨てたり、それをあたかも自分の手で得たかのようにして、神から奪い取って、日々に神に対する負債を増し加えているのです。それが人間の罪です。しかも、人間は神に背き、神から離れて生きていることには気づかずに、本来目指すべき的からそれて、いよいよ自らの努力と力とをふり絞って、神から遠い所へと向かっていくしかないのです。これが、生まれつき罪に傾いている人間の姿です。

 その罪をゆるしてくださるのは、神お一人です。主なる神以外のだれも、もちろんわたし自身も、わたしの罪をゆるすことはできません。神がお遣わしになった神のひとり子、わたしたちの罪のゆるしのために十字架で死んでくださった主イエス・キリスト以外に、わたしたちの救い主はどこにもいません。使徒言行録4章12節で使徒ペトロが説教しているように、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないからです」。それゆえに、わたしたちは主イエス・キリストのみ名をとおして、父なる神に、「わたしたちの罪をおゆるしください」と祈り求めるのです。

 次に、罪のゆるしの祈りは前半と後半に分かれています。式文の主の祈りでは、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」が先にあり、「我らの罪をも赦したまえ」が後になっていますが、マタイ福音書でもルカ福音書でも、「新共同訳聖書」では、「わたしたちの罪を赦してください」が先にあり、「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」、あるいは、「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」という順次になっています。実は、この聖書の翻訳の方が原文のギリシャ語に忠実な訳し方です。

 ここからまず確認されることは、主なる神に対して、「わたしたちがあなたに対して犯した罪をどうぞゆるしてください」というのが中心的な祈りであるということです。すなわち、後半の、「わたしたちが他の人の罪をゆるします」は、前半の祈りの条件になっているのではなく、むしろその結果、その次に続くこととして理解されねばならないということです。

式文の祈りではその順序が反対になっているので、時に、わたしたちが他の人の罪をゆるすことが、神から罪をゆるされることの条件のように誤解されがちですが、聖書の原典では、まず神に対する罪のゆるしの祈りがあり、その次に隣人に対する罪と負債のゆるしが語られているという順序になっていますので、そのような誤解が避けられます。「神よ、わたしたちの罪をおゆるしください」がこの文章の主文であり、「わたしたちもまた……」は従たる文です。したがって、わたしの隣人に対する罪のゆるしや負債の免除が、神からいただく罪のゆるしの条件になるようなことは、全くあり得ないということが、二つの文章の主と従の関係からも明らかです。また、その両者の質と量とを同じ平面では比較できないほどの、まったく比べものにはならないほどの違いからみてもそのことが明らかです。

そのことについて、少し詳しくみていくことにしましょう。主イエスは罪のゆるしについて教えておられる説教で、王さまから1万タラントンの借金をしていてゆるされた人が、隣人に貸していた100デナリオンの借金をゆるしてあげなかったというたとえを、マタイ福音書18章21節以下でしておられます。このたとえで、王さまに1万タラントンの借金をしていると言われているのは、わたしたち人間が神に対して莫大な負債を負っている罪びとであることを言い表しているのです。それに対して、100デナリオンの借金とは、わたしたち人間が隣人に対して負っている借金のことです。1タラントンは6000デナリオンに相当しますから、その両者の借金、負債額の差は、何百憶倍にもなります。わたしたちが神に対して負っている借金、負債は無限に大きいのです。とても、一生働いても、あるいは、どんなにしても返済できる額ではまったくないことを強調しています。神に対する借金と隣人に対する借金の額はまったくくらべものにはなりませんし、したがってまた、わたしたち人間が隣人に対する借金をゆるすことが、神に対する借金の返済のために何らかの役に立つということも全くあり得ません。

そのことを確認するとともに、わたしたちはここで、人間は確かに隣人に対してお互いが負債を負っている、借金をしている者だということをも知らされるのです。神に対して大きな負債を負っている人間、神との関係で罪びとであり、神との関係が歪み、壊れてしまっている人間は、隣人との関係においても、正しい関係を築くことはできないのです。神に対して返すべき借金を返すことができていない人間は、隣人に対しても、果たすべき愛の関係を正しく果たすことができなくなっているからです。互いに相手のものをむさぼり取ったり、奪い取ったり、傷つけあったりするほかにないからです。罪に支配されている人間は、共に生きることも、互いに協同することも与え合うことも、互いにゆるし合うこともできません。それは、人間の歴史と現実が、あるいはわたしたちの日々の歩みが証明していると言ってよいのではないでしょうか。

したがって、わたしたちの神に対する罪がまず先にゆるされなければならないのは当然のことです。その次に、隣人の負債をゆるすことが続きます。その二つの順序を逆転させることはできません。それと同時に、主イエスがたとえ話で教えておられることは、その二つのことは互いに切り離すことはできないということです。神によった大きな負債をゆるされた人は、隣人の小さな負債をゆるさないことはあり得ないということです。もし、後者のあり得ないことが起こっているとすれば、前者のことは起こっていなかったことになります。そこで、主イエスはこのように言われました。「隣人のわずかな借金をゆるしてあげなかった不届きな者よ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。お前の1万タラントンの借金をわたしに返すまで、お前は牢獄に入れられねばならない」と(マタイ福音書18章32~34節参照)。

神に対する大きな罪を無償で、無条件でゆるされている人は、そのゆるしの大きな恵みに心から感謝をし、隣人の負債を喜んでゆるしてあげることができるようにされるのです。神の大きな憐れみを受けて、神の一方的な恵みによって罪ゆるされている人は、隣人に対して憐れみをもってゆるし、仕え、分かち与えることでできるようにされるのです。主の祈りはわたしたちをそのような生き方へと導くのです。

宗教改革者Ḿ.ルターはこう言いました。「信仰によってのみ、人間は罪びとになる」と。主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じる信仰によって、人間の罪を知らされ、また同時にその罪がゆるされていることを信じている人は、罪の奴隷から解放され、自由にされて、喜んで隣人をゆるし、愛することができるようにされます。したがって、隣人をゆるし愛することもまた信仰によって可能になるのであり、それもまた主イエス・キリストによってわたしたちのすべての罪をおゆるしくださる神のみわざなのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはわたしたちを罪から救うために御ひとり子を十字架の死に引き渡されるほどに、わたしたちを愛してくださいました。その大きな恵みによって、わたしたちは今あるを得ています。願わくは主よ、わたしたちを日々新しく造り変えてくださり、あなたの大きな愛によって生かされ、またその愛に応答して生きる者としてください。どうか、罪のゆるしの福音が全世界のすべての人に届けられますように。そして、この世界があなたの愛によって造り変えられますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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