2025年5月4日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(42)
聖 書:申命記26章5~11節
コリントの信徒への手紙一15章1~11節
説教題:「古代教会の信仰告白」
『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の5段落目の文章、これは『信仰告白』の「前文」と後半の『使徒信条』とを結んでいる文章ですが、「古代の教会は……」から始まって、「……共に告白します」までは、直接的にはこのあとの『使徒信条』のことを説明しています。
この箇所は、1890年(明治23年)の『(旧)日本基督教会信仰の告白』をほとんどそのままに受け継いでいます。それを紹介してみます。「往時(いにしえ)の教会は、聖書によりて、左の告白文を作れり。我等もまた、聖徒がかつて伝えられたる、信仰の道を奉じ、讃美と感謝とをもって、その告白に同意を表す」。古い文体ですが、内容としては、ほとんど同じです。
このことからも分かりますように、日本キリスト教会は1890年に創立されて以来今年で145年になりますが、古代の教会が告白した『使徒信条』が自分たちの教会の信仰の土台であり、中心であるということを、ずっと自覚してきました。福音が語られる国や場所が変わっても、あるいは文化や慣習、また時代が変わっても、自分たちがこの国で宣べ伝えるべき福音は、古代教会が信じ、告白してきた『使徒信条』を土台としているということを、いつも忘れませんでした。
そこできょうは、「古代の教会は、聖書によって次のように信仰を告白しました」という個所を学んでいきます。まず、「古代の教会」についてですが、1953年に制定された「文語体」では、1890年と同様に「いにしへの教会は」と言われていたのを、2007年の「口語文」でこのように言い換えられました。「古代の教会」「いにしへの教会」とは、『使徒信条』が形成された時代を指していることになりますが、それが紀元何年ころなのかについては、研究者によって開きがあります。紀元4世紀から5世紀にかけてという説が一般的です。
また、『使徒信条』のもとになったと推測されているローマ信条と言われる信仰告白があります。これは、ローマにある教会で洗礼を受ける人が告白した信仰告白で、紀元2~3世紀のものと考えられています。『使徒信条』と非常によく似ていますので、紹介します。
「わたしは全能の父なる神を信じます。わたしはその独り子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。主は聖霊と処女マリアによって生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで十字架につけられ、葬られ、三日目に死者の中から復活し、天に昇り、父なる神の右の座に就いておられます。そこから、生ける者と死せる者とを裁くために来られます。わたしは聖霊を、聖なる教会を、罪のゆるしを、体の復活を、永遠の生命を信じます」。
このようなローマ信条などをもとにして、諸教会で告白されていた信仰告白が長い年月をかけて、今日の『使徒信条』が成立したと考えられています。
ちなみに、初期のころのキリスト教の時代区分についてですが、一般的に言うならば、主イエスの十字架の死と復活、そして聖霊降臨とエルサレム教会が誕生した、紀元30年代から、紀元2、3世紀ころまでを、初代教会時代と言います。古代教会時代と言えば、それよりは少し幅が広く、紀元1世紀から4世紀ころまでを言い、5世紀から16世紀初めの宗教改革期までを中世と呼ぶのが一般的です。
では次に、「聖書によって、次のように告白しました」の「聖書によって」という言葉に注目したいと思います。これは、『使徒信条』が聖書の言葉をもとにして形成されたということを言い表しているのですが、それだけでなく、そもそも信仰告白とは、聖書に書かれている神の言葉をその土台としている。聖書の中で神が語っておられる言葉、あるいは神の真理、神の救いのみわざ、それらを源泉として、『使徒信条』もすべての信仰告白も作成されているということを、言い表しています。
そのことは、これまで『信仰告白』の「前文」の箇所を学んできた際にいつも確認してきたことですが、聖書と信仰告白との関係を、一般に次のように言い表します。「聖書はすべてを規範づけている規範であり、信仰告白は聖書によって規範づけられた規範である」。あるいは、このような言い方もできるでしょう。「信仰告白は聖書に対する信仰者の応答である」と。
しかも、信仰者一人一人の応答というのではなく、信仰者の群れ、教会の応答として、長い年月にわたって、多くの信仰的、また学問的な推敲作業を経てまとめられた要約としての応答、それがその時代の教会の信仰告白として文章にされ、多くの教会員がそれに賛同し、共に告白することを表明する。そのようにして作成されたのが信仰告白です。ちなみに、新約聖書のギリシャ語で「信仰を告白する」という言葉は、本来は「共に言葉にする、共に言う」という意味を持っています。
実は、旧約聖書の中にも、イスラエルの民が神の救いのみわざに対して感謝の応答をして作成されたと思われる信仰告白が数多くあると理解する学者がおります。詩編などの多くは、イスラエルの礼拝でそのような信仰の応答として礼拝者全員で唱和した信仰告白であったと推測できます。また、きょうの礼拝で朗読されて申命記26章5節以下もそのような信仰告白の一つだと言われます。【5~11節】(320ページ)。
以上のことから、信仰告白の役割について、二つの点を確認しておきましょう。一つは、信仰告白は聖書の要約であるということです。聖書は、新・旧約聖書合わせて2500ページもの膨大な量ですから、その中で語られ教えられている内容を短く要約することは容易ではありません。でも、長い信仰の歩みと学問的な研鑽を積み重ね、その中の重要なポイントをまとめて一つの文章とするという作業は、イスラエルにおいても教会においても続けられてきました。また、その作業の中で、異端的な教え、間違った教えを取り除き、体系的なキリスト教教理と言われるものを積み重ねてきました。信仰告白は異端的教えに対する戦いの要素も強く含まれていました。
もう一点は、信仰告白は告白共同体を形成するということです。一人一人が自由勝手に聖書を理解するのではなく、教会の群れとして、共に一致して一人の主にお仕えしていくために、共に同じ信仰を告白する、一つの群れを形成していくという役割が信仰告白にはあります。わたしたちの教会、日本キリスト教会はまさにそのことを重視する「信仰告白の教会」であることを特徴の一つにしています。それはまた、神の言葉である聖書によって結集している教会であることをも意味しています。だれか偉大な指導者や監督によって一致し、結集している教会ではなく、また教会の組織とか伝統とかによって一つにまとめられた教会でもなく、神の言葉である聖書、またその聖書に対する信仰の応答である信仰告白によって一致し、結集している教会、そのような教会を目指しているのです。
前に、旧約聖書の中の信仰告白について触れましたが、新約聖書の中にも、初期のころの教会の信仰告白を見いだすことができます。その代表的な例として、コリントの信徒への手紙一15章を挙げることができます。【1~5節】。3節の「すなわち」以下から5節までが、パウロがコリントの教会に告げ知らせた福音の内容と思われます。パウロはそれを、「わたしも受けたものです」と言っているように、彼は他の教会で信仰告白のように言い伝えられていた内容を、コリントの教会にも伝えました。この手紙が書かれたのは紀元54年か55年、パウロのコリント伝道はその数年前ですから、主イエスの十字架の死と復活、そしてエルサレム教会誕生が紀元30年代はじめとすると、それから20年余りの間に、このような文章が信仰告白として作成され、他の教会へも伝えられていたことが分かります。教会は誕生した当初から、信仰告白の共同体であったと言ってよいでしょう。
さらに研究を進めていくと、信仰告白の最も初期の原点ともいうべきものが見えてきます。ローマの信徒への手紙10章9節を読んでみましょう。【9節】(288ページ)。ここに、「イエスは主であると告白して」書かれています。また、コリントの信徒への手紙一12章3節には、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」と書かれています。もう一か所、フィリピの信徒への手紙2章11節には、「すべての舌が、『イエスは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」と書かれています。
これらの箇所から分かるように、「イエスは主である」あるいは「イエス・キリストは主である」、すなわち「イエスはキリストであり、主である」という告白が、最もオリジナルな信仰告白の原点であったのではないかと推測できます。このオリジナルな信仰告白を核として、それにいろんな告白がつけ加えられ、コリントの信徒への手紙一15章のパウロが伝えた信仰告白や、紀元2世紀のローマ信条、そして『使徒信条』へと発展していったと考えられています。
「イエスは主である」あるいは「イエスはキリストであり、主である」というこのオリジナルな信仰告白は、やがて初代教会の迫害の時代に、教会にとっての大きな闘いの武具となっていきました。ローマ皇帝は自らを「生ける神にして主」と称しましたが、キリスト者は「いや、皇帝は神でもなければ、主でもない。わたしたちのために十字架で死なれた、神のみ子であり人の子である主イエスだけが、わたしたちの、そして全人類の唯一の主であり、救い主であり、来るべき神の国の王である」と告白したのです。「イエスは主である」という信仰告白は、今日のわたしたち一人一人にとっても、信仰の闘いのための力強い武具なのです。
(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ、「イエスは主である」という信仰告白を、わたしたちの教会とわたしたち一人一人の力強い信仰告白としてください。他のいかなるものをも、決して主とせず、礼拝せず、主イエス・キリストにわたしのすべてをお委ねする者となりますように。
〇主なる神よ、この世界にあなたの義と平和とが実現しますように。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。