2025年5月11日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:出エジプト記7章1~13節
使徒言行録7章35~38節
説教題:「エジプトでモーセが行ったしるしと奇跡」
出エジプト記3章から6章までは、モーセが出エジプトという神の偉大なる救いのみわざのために仕える指導者として選ばれ、立てられるという、モーセの召命について、かなり長く、詳しく書かれていました。これを、預言者が預言者の務めに召される召命の記録と比べてみますと、たとえばイザヤ、エレミヤが神に選ばれて預言者として立てられる召命の記録がそれぞれの書に書かれていますが、そのいずれも、このモーセの召命の記録ほどには長くはありません。イザヤは自分が罪に汚れているので預言者としてはふさわしくないと言って神の招きを拒みました。エレミヤは、自分は年が若いから預言者にはふさわしくないと言って断りました。でも、その二人の預言者の召命の記録はこのモーセの召命の記録ほどには長くはありません。モーセは、神の招きに対して何度も何度も、数えてみれば実に5回も、自分は口が重く、臆病者で、指導者としては向いていないなどと理由を並べて、神の招きを拒みました。それが、モーセの召命の記録がこれほどに長くなった理由でした。
そのモーセに対して、7章1節で、神はこのように言われます。【1節】。神はここで、モーセをファラオに対して神の代わりとすると言われます。これはどういうことでしょうか。この箇所のヘブライ語原典を直訳するとこうなります。「主はモーセにこのように言われた。見よ、わたしはあなたをファラオに対して神とした。あなたの兄弟アロンはあなたの預言者となるであろう」。これは驚くべき神の言葉です。神はモーセをファラオに対して、あるいはファラオのために、神としたと言われたのです。『新共同訳聖書』では「神の代わりとする」と翻訳し、他の日本語でも「神のように」と訳すことによって、モーセが直接神になるという誤解を生まないように工夫しています。けれども、「……の代わりに」とか「……のように」という言葉は本来はありませんから、「モーセを神とする、神と任じる」と言われているのであって、しかも動詞は完了形になっていますから、「わたしはあなたを神として立てた」という意味で言われているのです。さらに、冒頭には「見よ」という強調する言葉があって、その神のみわざが強調されているのです。わたしたちは驚くべきこの神のみ言葉をどう理解すべきなのでしょうか。いくつかの視点から考えていきましょう。
一つは、神の召命を受けながらも何度も躊躇し、拒絶し、その務めから逃れようとしていた弱く、貧しく、頼りないモーセを、神はまさに神として立て、エジプト王ファラオの前でイスラエルの神として立つようにお招きになった、あるいはそうなるようにお命じになったということです。モーセをそのようにされるのは主なる神です。モーセに、そのようになれ、とお命じになるのは主なる神です。たとえ、モーセ自身がどのように欠けや破れの多い人間であっても、神はそのモーセをお用いになって、神の働きをなさしめるのだと言われるのです。すべては神がなさることです。モーセはその神に黙って服従するのです。
エジプト王「ファラオに対して」とあるのは、エジプトではファラオが神の化身、すなわち現人神と信じられていたことと関連すると考えられます。そのエジプトの神の化身であるファラオの前に立ち、その王と対峙し、しかもそのエジプトの神が偽りの神であり、偶像の神であることを明らかにするために、そして、イスラエルの神こそがまことの唯一の真実なる神であることを示すために、モーセはファラオの前にイスラエルの主なる神として立つようにと命じられているのだということです。
もう一つ考えておかなければならないことは、人間が神となることの危険性についてです。創世記3章に書かれているように、最初に創造された人間アダムとエヴァは、その実を食べたら神のようになれるよとの誘惑者蛇の誘いにのって、神に食べるなと禁じられていた木の実を食べ、神の戒めを破りました。これが人間の罪の根源、原罪です。そこには、人間が神のようになるという誘惑がありました。人間が自ら神のようになることによって、もは神を必要としなくなること、それが人間の罪の根源です。
神がここでモーセを神とすると言われることには、その危険性はないのでしょうか。しかし、わたしたちはこれまでのモーセの召命の記録を読んできて何度も確認したように、これはモーセ自身の願いとか意志によるのではなく、神からの招きであり、神の命令だということは、はっきりしています。モーセ自身が自ら神になろうとしているのではなく、むしろモーセは人間の中でも能力に欠け、意欲も野心もなく、取るに足りない者であることを自覚しているのです。彼は自分の無力さに絶望していました。彼はただ神の招きと命令によって、ファラオの前にイスラエルの神の代理として立つことができるのです。
1節の神の招きのみ言葉は、これまでにも何度か語られていました。【4章14~16節】(99ページ)。神はモーセの弱さや不安、迷いを取り除くために、何度も繰り返してみ言葉をお語りになり、彼を励まし、彼に力をお与えになりました。神が常にモーセと共におられ、またアロンと共におられ、彼らにみ言葉をお語りになり、彼らになすべきことをお示しになるという、この神の約束のみ言葉こそが、モーセを神としてファラオの前に立たせ、またアロンを預言者として立てるのです。
7章1節でもう一つ注目したい言葉があります。「預言者」という言葉が出エジプト記の中でここに最初に用いられています。旧約聖書の時代で最も早くに預言者と呼ばれているのがモーセの兄アロンです。のちの時代のイスラエルのいわば専門職としての預言者とは多少違いますが、ここには預言者の務めの基本が語られています。2節に書かれているように、主なる神がまずモーセにみ言葉を語り、次にモーセがアロンに神が語られてように語り、それをアロンがそのようにファラオに語る、そのようにして神の言葉がファラオにもたらされるというのです。先ほど読んだ4章14節以下にも同じようなことが言われていました。
つまり、預言者とは神が語った言葉をそのまま他の人に、イスラエルの民やエジプト王ファラオの語る、そうすれば、そこで神の言葉が出来事となり、神の裁きと救いのみわざがなされる、それが預言者の務めであるということです。預言者とは、神の言葉を聞き、それを預かり、それをそのままに他者に、民に語り、そこで神の出来事を引き起こすのがその務めです。、モーセとアロン以後、イスラエルは千年以上の期間、神によって召された預言者たちが語った神の言葉によって導かれてきました。そしてついに、まことの預言者であられ、神の言葉そのものが受肉された主イエス・キリストによって、神の救いのみわざが、成就されたのです。
次に、【7章3~7節】。モーセがファラオの前で神として立てられるという神の約束は、モーセがこれからのち試練や苦難に遭遇しないということではありません。むしろ、3節では、主なる神ご自身がファラオの心をかたくなにするから、モーセが語る言葉を彼は簡単には聞かないであろうと言われています。イスラエルの民を解放するようにとのモーセの要求は、エジプトの国で行われる多くのしるしと奇跡を見ても、ファラオはかたくなに拒み続けるであろうと言われているのです。モーセとアロンの務めは、多くの困難に直面し、神は二人を困窮させるであろうと言われているのです。モーセとアロンの務めは容易ではありません。
神がこれほどまでして、ファラオの心をかたくなにし、モーセとアロンの務めを困難にされるのはなぜでしょうか。5節後半に、このように書かれています。「エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる」と。神はイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から救い出されるという本来の救いのみわざをなさるだけでなく、エジプト王ファラオのかたくなさによって、より偉大なる神のみ力を表され、それによって異邦人である不信仰なジプト人もまたイスラエルの神こそが全地の唯一の主であることを知るようになるのだと言われます。神はエジプト王ファラオのかたくなな心をも支配しておられます。それだけでなく、神はイスラエルの民ユダヤ人と異邦人であるギリシャ人のすべての人間の不信仰と罪の中で、主イエス・キリストによる救いのみわざを成就なさるのです。
7節には、モーセがファラオの前に立ったのは80歳であったと書かれています。申命記34章7節によれば、出エジプト後のイスラエルが荒れ野の40年の旅を終えて約束の地を前に、120歳でモーセは世を去ったとありますから、その記録と合致します。また、使徒言行録7章のステファノの説教によれば、モーセは誕生してから40年間はエジプトの王宮でファラオの娘の子として育ち、その後40年間はアラビヤのミディアンの地で過し、80歳の時に神の召命を受けてイスラエルの指導者として立てられたという内容とも一致します。モーセはそれぞれの年代と時代に、神によって定められた人生を歩み、神の僕(しもべ)、神の預言者としての務めを全うしたのです。
8節以下には、モーセに与えられた「神の杖」によって、モーセとアロンがファラオの前で奇跡を行ったことが書かれています。【8~13節】。この箇所の重要なポイントを二つにまとめてみましょう。一つには、この奇跡によって、イスラエルの神がエジプトの魔術師たちや神々に勝利したということが語られています。イスラエルの主なる神は、エジプトの神々や神の化身と自称する王ファラオとに勝利され、ご自身が選ばれたイスラエルの民をその全能のみ力によってエジプトから導き出されるということがここですでに暗示されているのです。
もう一つは、エジプトの魔術師たちは人間の能力を超えた力を発揮したり、人々を驚かせたりすることはできるけれども、それはエジプトや世界の歴史を変えることも、人々にまことの救いをもたらすことはできないのに対して、神がモーセとアロンに与えた「神の杖」は、数々のしるしや奇跡を起こし、それによって主なる神の偉大さを示し、ついにはイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出すであろうことをも、あらかじめ暗示されています。モーセとアロンはその「神の杖」によって、これから7章14節以下に記されているように、エジプトの地で数々のしるしと奇跡を行って、神の救いのみわざのためにお仕えするのです。
(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ、あなたはイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から救い出され、また、今この時には、み子主イエス・キリストの十字架と復活によって、全人類を罪と死から救い出されました。あなたの救いのみわざは今もなお続けられています。どうか、迷いと悩みの中にあるこの世界をお救いください。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。