2025年6月15日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:出エジプト記7章14~24節
ローマの信徒への手紙9章14~18節
説教題:「エジプトでモーセが行ったしるしと奇跡(二)」
神はイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から脱出させるために、その指導者としてモーセと彼の兄アロンを協力者としてお立てになりました。モーセとアロンは神の代理者として、また代弁者として、エジプト王ファラオの前に進み出て、神に命じられた言葉を告げます。7章16節にこのように書かれています。【16節】。神はイスラエルの民を「わたしの民」と呼んでおられます。イスラエルは400年以上の間、エジプトに寄留し、その後、奴隷の民としてエジプトでの建築作業のために過酷な労働を強いられてきました。けれども、彼らはファラオの民ではありません。神が族長アブラハムの時から選ばれた神の民です。今、神はアブラハムとの契約を実行され、彼らを約束の地へと導き入れようとされるのです。
わたしたちはここで、出エジプト記の中心的な主題の一つを再確認します。それは、族長アブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた契約を神は決してお忘れにはならず、400数十年のちになって、しかも彼らが最も困難な現実を迎えているこの時になって、神はその約束を果たそうとしておられるということです。その神の強い意志と永遠のみ心、救いのご計画が、出エジプト記全体に貫かれている大きな主題だということです。そして、この主題は、旧約聖書全体にも貫かれ、新約聖書で主イエス・キリストによってその完全な成就を見るのです。そしてさらには、今日の教会の歩みの中にも神の永遠の救いのみ心が貫かれているのは言うまでもありません。
もう一つの出エジプト記の中心的な主題は、出エジプトは何を目指しているのかということと関連しています。16節に、「荒れ野でわたしに仕えさせよ」と言われています。3章18節、5章3節でも、「三日の道のりを荒野へ行かせて、主なる神に礼拝をささげさせてください」と言われていました。これは、おそらくはシナイ山での礼拝を意味していると考えられますが、最終的な目的は、約束の地カナンでの永続的な神礼拝が、出エジプトの主題であることは明らかです。イスラエルの出エジプトは真実の神礼拝へ向けての解放であったのです。イスラエルがエジプトの奴隷の家から救い出され、約束の地カナンへと導かれたのは、彼らが神を礼拝する民となるためでした。今日、わたしたちが主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって罪から救われているのも、わたしたちが真実の礼拝する群れとなるためなのです。その最終目的は、来るべき神の国において全世界のすべての国、民族、すべての人が、神を礼拝する一つの民となることです。
出エジプトの時代は、エジプト第19王朝、紀元前13世紀ころと考えられていますが、その時代のエジプト王朝も、その王であるファラオも、絶大な権力を持っていました。その中で、寄留の民、奴隷の民であったイスラエルが一つの民族として独立するとか、本国から集団脱出するということが実際にできたのかどうかについては、政治的な力関係から言ってほとんど不可能であったと思われます。奴隷の民であったモーセやアロンが直接ファラオの前に出て交渉することができたということも、現実的にはほとんど考えられません。そのようは困難さをモーセ自身も自覚していたということを、彼がその指導者としての務めを神から託されたときに、自分にはそれができないと何度も断ったことからも推測されます。そして、きょう学ぶエジプトでの数々のしるしと奇跡が、その困難さをはっきりと物語っていると言えるのではないでしょうか。
つまり、7章14節から11章10節までには、エジプトでモーセが行った10の災いについて記されていますが、これらの数多くのしるしと奇跡はイスラエルの出エジプトという出来事がいかに困難であり、あり得ないことであり、まさに神の奇跡としてしか起こり得ない出来事であったということを物語っているのです。強大なエジプト王国とその王ファラオの力と権力に対抗するために、あるいはファラオのかたくなさと不信仰を打ち砕くために、さらにはエジプトの神々や魔術師たちに敗北を宣言するために、神が何度も何度もその偉大なみ力を発揮されて、これらのしるしと奇跡を行われたのでした。エジプト王国とファラオの権力が強大であればあるほどに、神はまたご自身のその偉大なみ力を何度も繰り返して現わされるのです。エジプトでの10の災いはそのような神の偉大なみ力の現われなのであり、それはまた同時に、神のイスラエルの民に対する愛の大きさ、その救いのみわざの大きさをも、わたしたちに語っているのです。
きょうは、7章14節から10章の終わりまでに書かれている9つの災いについてまとめて学ぶことにします。
一般には「エジプトでの10の災い」と言われますが、エジプトの国とその王ファラオにとっては当然それらは恐るべき災いであり、彼らに対する神の大いなる裁きなのですが、出エジプト記の中では「しるしと奇跡」と言われており、イスラエルにとっては、それは主なる神がその偉大なみ力によってイスラエルの民を守り、彼らを奴隷の家エジプトから解放し、救われる神の大いなる恵みのしるしであり、神の不思議なみわざ、奇跡のみわざなのです。
順を追ってみていきましょう。第一のしるしは、7章14~24節、モーセが神の杖でナイル川を打つと、ナイル川の水もその他エジプト全土の川や井戸の水も血に変わり、魚はみな死に、人々は飲み水がなくなったというしるし。第二は、7章25節~8章11節、ナイル川から上がってきたおびただしい数の蛙がエジプトの家々に入り込み、あらゆる場所に群がり、人々を悩ませたというしるし。第三は、8章12節~15節、エジプト全土にぶよが大量発生し、人と家畜を襲ったというしるし。第四は、8章16節~28節、あぶの大群がエジプト全国の家々に被害を与えたというしるし。第五は、9章1節~7節、恐ろしい家畜の疫病がエジプトで流行し、すべての家畜が死んだというしるし。第六は、9章8節~12節、エジプト全土の家畜と人に膿が出るはれ物が大流行したというしるし。第七は、9章13節~35節、大きな雹が降ってきて、地に生えているものすべてを打ち砕いたというしるし。第八は、10章1節~20節、イナゴが大発生し、雹の害を逃れた他のすべての野菜や草木を食べ尽くしたというしるし。そして第九は、10章21節~29節、濃い暗闇がエジプトの全地を覆い尽くし、だれもお互いの顔を見ることができず、だれも立って歩くこともできなくなったというしるし。
これらの9つのしるしには、段階的にいくつかの変化が見られます。初めに、エジプトの魔術師たちとの関連についてみていきましょう。8章8節以下で、10のしるしが始まる前の、いわば序曲として、モーセが持っていた杖が蛇に変わったとき、エジプトの魔術師たちも同じように杖を蛇に変えることができましたが、モーセの蛇が魔術師たちの蛇を飲み尽くしたことが書かれていました。第一のしるしと第二のしるしでは、エジプトの魔術師たちもモーセと同じように、水を血に変え、蛙を発生させるしるしを行うことができましたが、第三のしるしでは、エジプトの魔術師たちも秘術によってぶよを出そうとしましたか、彼らにはそれができなかったと書かれています。8章15節にこのように書かれています。【15節】(105ページ)。エジプトの魔術師たちはモーセが行ったしるしと奇跡はイスラエルの神が行った奇跡のみわざであるということを自ら認めざるを得なくなったのです。これ以降、彼らはモーセの真似をすることが完全にできなくなりました。第六のしるしの時、はれ物がエジプトに蔓延した際には、魔術師自らの体にもはれ物ができて、彼らはモーセの前に立つことができなくなったと、9章11節に書かれています。ここからは、彼らの姿がまったく消え去ります。イスラエルの神がエジプトの魔術と神々に完全に勝利したのです。
次に、8章18~19節を読んでみましょう。【18~19節】(106ページ)。同じように、【9章4節】、また、【9章26節】(108ページ)、そして、【10章23節】(110ページ)。このように、エジプト全国に下された災い、神の裁きは、イスラエルの人々が住むゴシェンの地には及ぶことはなく、エジプトでの災いの中でイスラエルの守り、救いがいよいよ明らかにされていったのです。エジプトに対する神の裁き、彼らに与えられた災いは、イスラエルの民にとっては神の守りであり、救いであり、恵みなのです。神はご自分が選ばれた民をこのようにして最後の救いの完成へとお導きくださいます。
最後に、ファラオの反応についてみていきましょう。出エジプト記の中では、エジプトの王ファラオがかたくなであったという表現と、神が彼をかたくなにされたという表現が入り交ざって用いられています。前者は7章22節など、後者は9章12節などです。主なる神はファラオのかたくなな心をもご自身のみ手に治めておられます。この世の権力と不信仰によって塗り固められているかのようなその心をも、神はご自身の救いのみわざのために自由にお用いになり、それによっていよいよそのみ力を発揮され、救いのみわざを力強く押し進められるのです。
第二のしるしが行われたとき、8章8節でファラオはモーセにこのように言いました。【8節】(105ページ)。しかし、災いが一段落すると、11節にはこう書かれています。【11節】。15節でも同様です。【15節】。ファラオは主なる神の奇跡を見せられても、神のみ力を認めようとはせず、かえって心をかたくなにして神に逆らいます。第七の災い、雹がエジプトの国中の植物、動物、家畜を打ってすべてが死に絶えたときには、9章27~28節でファラオはこう言います。【27~28節】(108ページ)。しかし、今回もまたファラオは心をかたくなにしました。【34~35節】(108ページ)。
けれども、神はこのように何度も心を翻し、かたくなにして、モーセの要求を拒み続けたファラオのかたくなさをお用いになって、ご自身が全地を支配しておられる全能の神であることを証しされ、またご自身の民であるイスラエルを必ずやお救いくださることを明らかにされたのです。人々のかたくなさや罪の中で神の救いのみわざは進められていきます。そのことを信じましょう。
(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ、あなたの救いのみわざは、どのような人間の悪や罪やかたくなさにであっても、決して変更されることを中止されることもありません。今のこの時代の中でも、あなたはご自身の救いのご計画を力強く進めておられます。わたしたちにそのことを信じさせてください。そして、あなたの救いのみわざのためにお仕えする者とされますように。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。世界の為政者たちが主なる唯一の神であるあなたを恐れる者となりますように。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。