6月22日説教「求めなさい。そうすれば、与えられる」

2025年6月22日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書557章6~11節

    ルカによる福音書11章5~13節

説教題:「求めなさい。そうすれば、与えられる」

 主イエスの弟子たちが、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」とお願いしたとき、主イエスは祈りの模範として、『主の祈り』を教えられました。それに続いて、ルカ福音書11章5節からは、祈りの仕方、その実践について、一つのたとえを用いてお話になりました。弟子たちは、そしてわたしたちもそうですが、祈るべき言葉、何を祈るべきか、祈りの内容を主イエスから教えられなければならないとともに、祈りとは何か、祈りの本質について、あるいはなぜ祈らなければならないのかについても、主イエスから教えられなければなりません。

 5節以下のたとえ話は、一読したところ、熱心に祈り求めることの大切さを教えているように読めますが、本当の中心点は、求める側にあるのではなく、求められている側、つまり友人の願いにこたえて、その願いを聞いてあげる人の方に、あるのです。たとえ話の結論の部分の8節を読んでみましょう。【8節】。ここで言われている人は、真夜中に突然の来客を迎えて、もてなすパンがなくて困り果て、友だちに助けを求めた人ではなく、その友だちの願いに応えて、起き上がって必要なものを差し出した人のことが、ここで言われているのです。祈りの例に当てはめれば、祈り求める人の方ではなく、その祈りを聞いてくれる人の方に重点が置かれているのです。つまり、わたしたちの祈りの熱心さについて教えているというよりは、わたしたちの祈りに必ずや応えてくださる神の側に、わたしたちに必要なすべてのものを備えてくださる神の恵みについて教えているたとえ話なのです。

 同じことは、9節以下に語られる主イエスの説教についてもあてはまります。ここでも、わたしたちが熱心に求め、探し、門をたたくことが重要だと教えられているというよりは、わたしたちの祈りに必ず応えてくださる神の約束の確かさ語られているのです。【10節】。また【13節】。わたしたちが願い求めるものを、神は必ず与えてくださいます。わたしたちが探し求めるならば、神は必ず備えてくださいます。わたしたちが門をたたくなら、神は必ず道を開いてくださいます。そのような神の愛と恵みの大きさ、豊かさ、神の約束の確かさが、ここでは強調されているのです。そのような神の約束の確かさがあるからこそ、わたしたちは熱心に祈り続け、探し続け、門をたたき続けることができます。そして、その祈りが決して無駄に終わることはないと、信じることができるのです。

 まず、そのことを確認したうえで、さらに詳しくみていきましょう。【5~7節】。このたとえ話には、当時の生活様式がよく反映されていると言われます。パレスチナ地方では、日中は暑いので、旅をする人は夕方、涼しくなってから出かけることがあると言います。真夜中になってから目的地に着くこともあるようです。たとえ話のこの人は、おそらく予定していなかった急な旅行客を真夜中に迎えて、パンの用意がなかったために、友人の家の戸を叩いて、パンを3個貸してくれるようにお願いします。この友人ならば、真夜中でも自分の願いを聞いてくれるに違いないと、信頼と期待を持っていたことが推測できます。

 このような場面設定から、わたしたちはいくつかのことを知らされます。まず、神に選ばれた民であるイスラエルにおいては、旅人を厚くもてなし、客人を愛をこめてお迎えする習慣があったということです。旧約聖書でも新約聖書でも、そのことが神によって勧められていた、と言うよりは、命じられていたことが書かれています。なぜならば、イスラエルの民は族長時代から放浪の民であり、エジプトで寄留の民であったという経験から、本国を持たない寄留の民は互いに助け合うことの重要さを知らされていたからです。またそれ以上に、神が寄留の民を顧みてくださり、必要なものをすべて備えてくださったことを経験していたからです。急に客人を迎えたこの人も、また彼から真夜中にパンを貸してくれるように依頼された友人も、旅人を厚くもてなし、客人を愛をもってお迎えすることの大切さをよく心得ていたことが、このたとえ話全体を暖かく包んでいるように思われます。

 細かな点をも注意深くみていくと、さらにいくつかのことが分かります。一般の家では、夕方に次の日の家族の分のパン粉をこねて、一晩寝かせ、朝にパンを焼きます。その日のうちに食べ尽くすのが普通ですから、余分なパンを保存しておくことはありません。でも、その友人の家には何かしらの余裕があることを彼は知っていたのでしょう。真夜中にもかかわらず、彼はその友人を頼りにしています。当時の家の造りは、入り口の扉を角材や鉄の棒を渡して錠をしていましたから、それを取り外すのは力が要りますし、音も出ます。一部屋に家族みんなが寝ている家がほとんどですから、子どもが目をさましてしまうことも心配です。「パンを分けてくれ」と依頼されたその友人は初めのうちは「面倒をかけないでくれ」と言って断っていましたが、何度もしつようにお願いされて、彼は放っておくことをしないで、起き上がって必要なものを分け与えようとします。やはり、神に選ばれた民であるイスラエルは、隣人を愛することをおろそかにはしません。寝ている子どもや家族みんなに面倒をかけることになっても、その友人のために立ち上がって、必要なものを分け与えるのです。神の愛を知っている信仰者は、隣人への愛をおろそかにはしません。隣人への労苦を惜しむことはしません。

 「パンを三つ貸してください」とお願いしていますが、パン3個はたぶん一人分の量だと思われます。彼は必要以上の量を求めているのではありません。客人一人の一食分だけのパンを貸してくれとお願いしています。主イエスが『主の祈り』で教えられたことを思い起こします。「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」と祈るように、主イエスは教えられました。何日分も、何年分もではなく、きょう一日の必要なパンを、しかもわたしだけのパンでなく、わたしたちみんなのパンを、主なる神に祈り求めるようにと教えられているわたしたちは、世界中の人々がパンを分かち合うことの大切さをも教えられているのです。

 先ほども少しふれましたように、このたとえ話には、神に選ばれ、神に愛されているイスラエルの民の信仰と生活がしみ込んでいます。寄留の民、奴隷の民、苦難の民であったイスラエル、しかし、神に選ばれ、神に愛され、神の救いの恵みによって生かされてきたイスラエル。そして、その神の愛によって愛されている彼らの愛と分かち合いの生活。それがこのたとえ話全体を暖かく包んでいるのです。8節の結論部分をもう一度読んでみましょう。【8節】。どんなに無理なお願いでも、信じて熱心に頼めば、その願いを聞いてくれる信仰の友、友人がいるからこそ、困難や困窮の中にあっても、希望を失うことなく前進していくことができます。わたしたちのすべての必要を知っていてくださり、それを備えてくださる主なる神がおられるゆえに、わたしたちはいつでも、どのような時でも、熱心に神に祈り求めることができるのです。わたしたちの罪のゆるしのために、ご自身の一人子さえも惜しまずに、十字架におささげくださった主なる神がおられるゆえに、わたしたちは失望しないで絶えず祈り続けることができるのです。

 9節以下の主イエスの教えでも、強調点は、「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」にあるのではなく、それに続く「そうすれば、与えられる」「そうすれば、見つかる」「そうすれば、開かれる」の方がより強調されています。10節を読めば、それが直ちに明らかになります。【10節】。わたしたちが祈っている神は、「天におられるわたしたちの父なる神」です。わたしの祈りを聞いてくれるかどうかが疑わしい偶像の神ではありません。「わたしに、求めなさい。そうすれば、与えられる。わたしはあなたに今、何が必要かを最もよく知っている、あなたの魂の父であるゆえに、あなたになくてならないものを与えよう」と神は言われます。「わたしのところに来て、探しなさい。そうすれば、わたしはあなたに進むべき道を示し、あなたに真理が何であるかを教えよう」と神は言われます。「わたしの名によって神の国の門をたたきなさい。そうすれば、わたしはあなたを神の国の民として迎えよう」と神は言われます。重要なことは、神がこのように約束していてくださることです。神はわたしのすべての必要をご存じであられます。わたしはしばしば、不必要なものを求めたり、むしろ自分を滅ぼしてしまうことを欲しがったりする愚かな者です。しかし、主なる神はわたしをまことの命によって生かすために主イエス・キリストによって十字架の死と復活の福音をお示しくださいました。神はわたし以上に、わたしをよく知っておられます。神はわたしの弱さや貧しさ、わたしの重荷や苦悩、迷いや疑いのすべてをご存じであられます。そのようなわたしを、み子によって愛してくださいます。ですから、わたしたちはどのような時にも、希望を失わずに、あきらめずに、熱心に神に祈り、求め、探し、門をたたくことができるのです。

 11節以下では、もはや祈る側の熱心さについては全く語られず、わたしたちの祈りをお聞きくださる神ご自身のことだけが語られています。【11~13節】。ここでは、人間の父親と天におられるわたしたちの魂の父であられる神とが、比較、対象されています。本来、人間と神とが同じ平面で比べられることなどできませんが、主イエスはあえて神を、いわば人間の地平にまで引き下げるようにして、わたしたちに理解しやすいようにして両者を比較、対象しているのです。

 その際に、13節でははっきりと、「あなたがたは悪い者でありながらも」と言われています。人間はみな罪びとであり、邪悪であり、心がゆがんでいる。そういう人間であっても、父は子どもの求めを聞き、それに愛をもって応えようとするではないか。そうであるならば、天におられる神は聖なるお方であり、善なるお方、愛なるお方であるのだから、わたしたちの願いを聞いてくださらないことなどあり得ようか。いや、わたしたちの願いにはるかにまさった良い物を与えてくださるのだということを強調しているのです。

 その良い物とは、聖霊であると主イエスは言われます。聖霊こそが神から与えられる最高の贈り物なのです。聖霊はわたしたちに主イエス・キリストを指し示し、この主イエス・キリストこそがわたしの、わたしたちの唯一の救い主であるという信仰を与えます。聖霊はわたしたちに神のみ心が何であるかを教えます。わたしたちがその神のみ心に従って歩むことができるように、導かれます。聖霊は、主イエスの体なる教会を建て、教会をとおしてこの世界の救いのために働かれます。聖霊は終わりの日に神の国が完成される日まで、わたしたちと共におられ、わたしたちの信仰を導き、わたしたちに慰めと励ましを与え、希望と喜びとを与えてくださいます。この聖霊の賜物をいただくために、熱心に祈り続けましょう。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはわたしたちの祈りにはるかにまさった恵みをもってお応えくださる愛の神であられます。どうか、わたしたちの祈りをいよいよ強めてください。この地に、あなたのみ心が行われるようにと、熱心に祈ることができますように、お導きください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。世界の為政者たちが主なる唯一の神であるあなたを恐れる者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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