6月29日説教「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」

2025年6月29日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則)

聖 書:申命記8章1~10節
使徒言行録14章21~28節

説教題:「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならな
い」


パウロとバルナバによる第一回世界伝道旅行は、使徒言行録14章20節で名前が挙げられいるデルベという町が最後になります。そこから、もと来た道を引き返しながら、以前に福音を宣べ伝えた町々を再び訪れ、教会員を励ましたことが、きょうの箇所で語られています。【 14章21~22節】。
22節でパウロが諸教会の弟子たち、教会員たちを励まして語った言葉は、パウロたちの第一回世界伝道旅行の、いわばまとめであり、結論であり、パウロたちのこれまでの歩みの集大成を意味していると言ってよいのではないでしょうか。パウロたちは行く町行く町で、主にユダヤ人から迫害を受け、苦難と試練を経験しなければなりませんでした。その迫害と苦難の歩みを経験したのちの結論、あるいはそこで教えられた最終的な真理が、これであったのです。
「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」。
きょうはこの真理を深く学びたいと思いますが、その前に、直前にパウロが経験した迫害について、振り返ってみましょう。パウロは14章8節以下に書かれているリストラという町で、生まれつき足が不自由だった男の人をいやし、歩けるようにしたという奇跡を行ったために、ギリシャの神々が人間となって下って来たのだと思われ、礼拝の対象にされそうになりました。パウロは彼らにイスラエルの神、主イエスの父なる神こそがまことの唯一の神であり、天地万物を創造され、それらを今もなおご支配しておられる神であることを証ししました。おそらくこの騒ぎを聞きつけて、前に宣教活動を行った町々でパウロたちを迫害したユダヤ人たちがリストラの町まで押しかけてきて、パウロをリンチにかけて殺そうとしました。
【19~20節】。アンティオキアとイコニオンからリストラまでは百数拾キロも離れていますが、彼らユダヤ人は何とかしてパウロをなき者にしようと追いかけてきたようです。「石を投げつけ」とは、ユダヤ人の処刑の仕方「石打ちの刑」と思われます。もちろん正式な裁判で死刑を宣告したのではなく、いわばリンチにかけたのですが、旧約聖書では最も重大な犯罪や神を冒涜する罪は石打ちの刑で処刑すべきと定められていました。使徒言行録7章54節以
下には、最初の殉教者ステファノも石打ちの刑で殺されました。また、パウロ自身コリントの信徒への手紙二11章で、彼が経験した数多くの迫害を列挙している中で、「死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度」(23~25節)と書いていますが、それがリストラでのことだと思われます。
群衆はパウロが死んだものと思い、町の外に引きずっていきましたが、しかしパウロは奇跡的に息を吹き返したと書かれています。石打ちの刑は、犯罪人を取り囲んで一斉に石を投げつけ、石に埋もれて犯罪人の体が見えなくなるまで石を投げ続けるのですから、そこから息を吹き返すということはほとんどあり得ません。弟子たちに取り囲まれている中で、パウロが起き上がったということは、神の奇跡としか言えません。しかも、20節には、翌日デルベに向か
ったと書かれていますから、石で打たれて深く傷ついた体で、パウロはどのようにして歩いて行ったのでしょうか。わたしたちには不思議としか言いようがありません。「パウロは起き上がって」と訳されている言葉は「復活する」という意味でも用いられます。まさに、パウロは神によって死から復活させられたのだと言うべきでしょう。
パウロとバルナバはリストラからさらに西へ百キロ余りにあるデルベという町に伝道旅行を続けました。その町での伝道活動については詳しくは書かれていませんが、「多くの人を弟子にした」とありますから、ここでも豊かな実りが与えられたことが分かります。激しい迫害と死の危険をも乗り越えて、主キリストの福音は前進していきました。その福音に仕えるパウロたちもまた、体に大きな痛みを伴いながらも、勇気と希望とをもって前進していきました。神
の言葉は、この世のいかなる鎖によっても決してつながれることはありません。
わたしたちが何度も確認してきたように。
ちなみに、デルベからさらに西へ250キロ行くと、パウロの生まれ故郷であるタルソがありますが、パウロはそこまでは行かずに、デルベから帰路につくことにしました。その理由については何も書かれてはいません。デルベから引き返して、石打ちの刑で殺されそうになったリストラへ、そして迫害によって町を追い出されたイコニオン、アンティオキアを通って、それ
ぞれの町に再び立ち寄り、誕生して間もない教会の群れを励ましました。それらの町々を再び訪れることには、迫害の危険が待ち構えていましたが、パウロはそのことを全く恐れてはいません。自らの身に起こるかもしれない危険を顧みず、誕生した教会がこれからも経験するであろう迫害と試練の時に備えるために、教会の兄弟姉妹たちを強めることこそが、パウロの使命だったからです。
パウロはこう言って彼らを励ましました。「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」。パウロは誕生したばかりのまだ若い教会に、迫害も試練もない、安全な成長の道を約束するのではありません。いやむしろ、教会はこの世では、迫害や試練を避けては通ることはできないし、もっと多くの困難なことを経験しなければならないと言うのです。これが若い教会にとって励ましになるのでしょうか。不安や恐れを与えることになるのではないでしょうか。そのような疑問が当然起こるでしょう。けれどもパウロは言うのです。「あなたがたには神の国が約束されている。教会はこの世で得ることができる、どのような誉れや成功よりも、もっと大きな、豊かな、はるかにまさった永遠の宝を、「朽ちず、汚れず、しぼまない財産を」(ペトロの手紙一1 章4節)神の国で受け継ぐという約束を与えられていると言うのです。そして、そのためにはさらに「多くの苦しみを経なくてはならない」と言うのです。「多くの苦しみ」の中には、パウロ自身が経験した迫害が含まれていることは確かでしょう。ピシディア州のアンティオキアで、イコニオンで、リストラで、彼自身が経験した迫害と石打ちの刑。それだけでなく、パウロ以前にわたしたちが使徒言行録で読んできたように、ペトロやヨハネなどの使徒たちが受けた迫害、ステファノの殉教、エルサレム教会に対する大迫害、ヨハネの兄弟ヤコブの殉教、それらの数々の迫害や殉教をも含んでいると理解できます。それらのすべての苦しみは、教会の民が神の国に入るためには必ず経験しなけれ
ばならないものだったのだと、パウロは言うのです。
過去に経験した苦しみのことだけではありません。パウロの言葉には、これから教会が経験するであろう迫害や苦難のことを含んでいるのは当然です。パウロ自身がユダヤ人から受けた迫害に加え、やがてローマ帝国によるキリスト教会全体に対する迫害が始まろうとしています。教会はそれらの試練にどうやって対処し、それを乗り越えていくことができるのでしょうか。
パウロは「信仰に踏みとどまるように励ました」と書かれています。教会が経験するすべての苦しみ、試練を乗り越えていくために必要なのは、信仰です。

主イエス・キリストの十字架の死と復活によって教会に与えられている救いの恵みと、神が約束してくださる終わりの日の勝利と完成の希望です。その信仰こそが、教会をあらゆる迫害や苦難の中でも、決して落胆せず、失望することなく、なおも前進させる力の源なのです。
「経なくてはならない」という個所の、「ねばならない」という意味のギリシャ語は「デイ」という小さな言葉ですが、これは福音書やその他の箇所でも非常に重要な意味を持つ言葉としてたびたび用いられています。その一つを読んでみましょう。【マタイ福音書16章21節】(32ページ)。これは主イエスによる第一回受難予告ですが、ここで「必ず……することになっている」というように、日本語の翻訳では別れて訳されているのが、ギリシャ語の「デイ」です。ほかの受難予告でも同様です。
この言葉は、神の必然を意味していると言われます。つまり、神がそのように計画しておられ、予定しておられ、それが神のみ心であり、必ずそのようになる、という意味です。そこには、神の永遠の救いのご計画と神の強い意志が言い表されています。わたしたちはここから二つの神のみ心を知らされます。一つには、神は教会の民をご自身の永遠の救いのご計画の中で、終わりの日に、神の国の民としてくださるという固い約束。もう一つには、教会が神の国の民とされるには、多くの苦しみを経験しなければならない、すなわち、教会が経験するであろう迫害や試練、苦難のすべては、教会が神の国の民とされるためにぜひとも通らなければならない道であり、いわば必要条件なのだということです。それが、神の永遠の救いのご計画なのである、神の強い意志なのだということです。
なぜそうなのでしょうか。先ほど、マタイ福音書16章で読んだように、来るべき神の国の王として君臨される主イエス・キリストご自身が、苦難と十字架への道を進み行かれることによって、わたしたちの救いを成し遂げてくださったからです。教会の主であられる主イエス・キリストが、試練と苦難の道をわたしたちに先立って進まれたからです。わたしたちはそのあとを辿るのです。
第二には、主イエスご自身が弟子たちに、また、のちの時代の教会に対して、苦難と迫害を予告しておられたからです。【ルカ福音書21章12~19節】(151ページ)。主イエスは世の終わりの終末が来る前に弟子たちや教会が経験しなければならない苦難や迫害を予告しておられました。しかしまた、その苦難と迫害の時こそが、信仰の証しの、最後の最も良い機会となるであろうと語っておられました。主イエスが苦しむ信仰者たちと共にいてくださり、必
要な助けを与えてくださり、言葉と知恵とを授けてくださると、約束しておられました。そして、最後の完全な勝利を約束しておられました。苦難と迫害は、わたしたちがより一層主イエス・キリストに信頼し、主イエス・キリストからすべての助けと恵みとを期待し、来るべき神の国に備えて、主イエス・キリストにある最後の勝利をいよいよ確信するためなのです。神の国のための苦しみは信仰者にとって幸いであり、祝福なのです。


(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ、わたしたちの教会がこの世で経験しなければならない激しい嵐や試練の中で、あなたがいつもわたしたちと共にいてくださいますように。
また、あなたの確かな約束を固く信じ、終わりの日のみ国の完成を目指して、信仰の道を歩み続けることができますように、お導きください。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。世界の為政者たちが主なる唯一の神であるあなたを恐れる者となりますように。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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