10月5日説教「わたしたちの主イエス・キリスト」

2025年10月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:サムエル記下7章8~17節

    ローマの信徒への手紙1章1~7節

説教題:「わたしたちの主イエス・キリスト」

 使徒パウロがローマの信徒への手紙を執筆した主な動機の一つに、彼自身の自己紹介と彼が宣べ伝えていた主キリストの福音をローマの教会に知ってもらうことがありました。世界の中心都市であったローマに、パウロはまだ足を踏み入れたことがありませんでした。ローマの教会員との面識もほとんどありませんでした。パウロは当時、なんとかしてローマに行きたい。そこで福音を語りたい。それから、ローマを足掛かりにしてさらにその西の果てイスパニアまで伝道の範囲を広げたいとの切なる願いを持っていました(15章22節以下参照)。そこで、これから訪ねるローマの教会に自分のことを知ってほしい、いやそれ以上に、自分が携えていく主キリストの福音がどのようなものであるのかを、ぜひとも知ってほしい、その思いがこの手紙を執筆する動機になったのです。

 手紙の冒頭から、パウロのそのような、はやる思いをうかがい知ることができます。彼は当時の手紙の書式を破って、まず自分の名前を書いた後で次に相手の名前を書くべきところを、1節の「神の福音」という言葉を受けて、2節からすぐにもその神の福音について語りだしているのです。それが6節まで続きます。7節になってようやく、手紙の受取人であるローマの教会の名前が出てきます。2節から6節までの長い挿入文によって、パウロは手紙の本文で書くべき神の福音について、主イエス・キリストについて書いているのです。

 きょうは3節から4節を学ぶことにします。【3~4節】。「神の福音」、福音とは良い知らせ、幸いな善きおとずれという意味ですが、それは「御子に関するもの」であると、パウロは言います。神のみ子である主イエス・キリストが神の福音の中心であり、全内容であり、神の福音そのものであると言うのです。ここで重要なポイントは、福音とは神のみ子である主イエス・キリストという、一人の人格的な存在者に関するものであるということです。たとえば、何らかの真理とか、哲学や思想とかではなく、また、金とかダイヤモンドとかの物質でもなく、あるいはまた、ある種の世界観や人生観とかでもなく、主イエス・キリストという一人の人間となられた神のみ子であり、まことの神であり、まことの人であられる主イエス・キリスト、神がこの世にお遣わしになられた一人の救い主、主イエス・キリストこそが、福音の中心、全内容、福音そのものであるということです。

 これは神の福音と言われているように、神を起源とし、神からやってくるものです。この世のどこかで創り出されたものではありません。この世にも福音と呼ばれるものがあるでしょうが、パウロが今問題にしている福音は、この世のものでも人間の発見でもなく、天におられる全能の父なる神から与えられる福音なのです。したがってそれは、すべての人にとっての永遠の福音です。神が、罪に支配されているこの世をお見捨てにならず、神を見失っているこの世界をなおもみ心にかけてくださり、この地に住んでいるわたしたち一人一人を愛してくださり、罪から救い出すためにみ子を世にお遣わしになられた、このみ子の派遣こそが神の福音なのです。

 わたしたちは福音を求めて遠くへ出かける必要はありません。それを探すために天に上らなければならないのでもありません。あるいはまた、それを受け取るために、何らかの資格や努力が必要だということもありません。神ご自身が、天から降って来られ、この地に降りて来てくださったのです。そして、神ご自身がわたしたちに近づいて来てくださり、わたしたちを尋ね求め、見いだしてくださったのです。ここに神の福音の初めがあります。そして、すべての人がこの福音を聞くことができるように、神はわたしたちに聖書を与え、また教会をお建てくださり、わたしたちひとり一人を礼拝へとお招きくださったのです。

 3節後半から4節では、み子主イエス・キリストの肉による存在と、聖なる霊による存在という、全く性質が違った二つの存在が一つの人格の中に共存していることが語られます。まず、肉という言葉ですが、これは聖書では、弱くもろいもの、やがて朽ちていくほかないもの、それゆえに死と滅びから逃れることができない人間の性質全体を表現しています。神のみ子はこの人間の肉を身にまとわれたということです。神のみ子主イエス・キリストはわたしたち人間と全く同じ肉の姿となられ、肉の存在としてこの世にお生まれになり、この世界の中で、罪びとたちの歴史の中で、一人の紛れもない人間として生きられたのです。神が人間となられたということです。これを受肉と言います。

 ガラテヤの信徒への手紙4章4節にはこう書かれています。「時が満ちると、神は、御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」。また、ヘブライ人への手紙5章7節以下にはこうあります。「キリストは、肉において生きられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、ご自身に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです」(7~10節)。このようにして、神のみ子主イエス・キリストはわたしたち人間を罪から救うために、わたしたち肉にある者たち、罪びとたちの一人となってくださったのです。

 「肉によればダビデの子孫から生まれ」とあります。マタイ福音書、ルカ福音書によれば、主イエスの父ヨセフはダビデの家系に属していました。ダビデ家のヨセフからお生まれになったということは、主イエスの誕生が旧約聖書の預言の成就であったことを語っています。サムエル記下7章に預言されているように、神はダビデ王に「あなたの家系から永遠の王が出るであろう」と約束されました。これをダビデ契約と言います。神は天地創造の初めから計画しておられた救いのみわざを、イスラエルの民の選びとダビデとの契約によって前進させ、ついに時満ちて、ダビデの子孫であるヨセフとマリアの子として、主イエスをこの世に誕生させました。それによって、ご自身の永遠の救のご計画を成就されたのです。主イエスは父なる神の永遠の救いのご計画の中で、肉となられ、まことの人となられ、クリスマスの日に誕生されました。そして、わたしたちのための救いを成就されたのです。

 「神の御子と定められた」とありますが、主イエスが復活によって始めて神のみ子になったということではありません。主イエスは永遠の始めから神のみ子でしたが、肉にある間は、そのことはいわば隠されていました。復活によって、神のみ子であることがはっきりと示されたという意味です。死から命を生み出される神の全能の力だけが、人間の罪と死とに勝利することができます。

 主イエスはこのように、全く違った二つの性質、二つの存在、肉にあるまことの人間としての存在と、神の霊によるまことの神としての存在、その二つの存在によって、わたしたちの救いを完全なものにしてくださったのです。主イエスはまことの人として、わたしたち人間の弱さや痛みのすべてを知っていてくださいます。そして、わたしたち罪びとたちの一人となってくださり、罪の重荷を担ってくださいました。

 しかしまた、主イエスはまことの神として、聖なる神の霊のみ力によって、肉なるものを打ち破り、罪と戦い、復活によって罪と死とに勝利されたのです。主イエスは人間としてのすべての試練や痛みを経験されたゆえに、試練や痛みの中にある人を思いやることができます。しかも、試練の中で父なる神の全き服従を貫かれて、十字架の死に至るまで従順であられることによって、罪と死とに勝利されたのです。それゆえにまた、試練の中にある人に勇気と希望を与え、試練に打ち勝つ力を与えることができるのです。

 4節の「死者の中からの復活」とある「死者」は複数形です。主イエスは死者たちの中から復活されたという意味です。十字架につけられ死なれた主イエスが三日目に復活されたということは、主イエスを信じるすべてのキリスト者たちの中から復活されたということであり、主イエスは罪のゆえに死すべきわたしたちすべての人間たちの、その代表として死なれたのであり、またその初穂として復活されたという意味です。主イエスの十字架の福音を信じるキリスト者にとっては、主イエスの復活はその初穂であり、またその保証なのです。わたしたちはまことの神でありまことの人であられる主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活によって、罪ゆるされ、救われ、永遠の命の約束を与えられているのです。

 「この方が、わたしたちの主イエス・キリストである」とパウロは結んでいます。ここには、初代教会の最も初歩の信仰告白があると言われています。「わたしたちの主イエス・キリスト」とは、「イエスはわたしたちの主であり、キリストである」という文章をちぢめたものです。この信仰告白は新約聖書の中にたびたび出てきます。フィリピの信徒への手紙2章11節には「すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べ伝えて、父である神をほめたたえる」とあります。「イエスはキリストであり主である」、これが信仰告白の原点であり、ここから発展して、『使徒信条』や宗教改革期の多くの信仰告白が作成され、またわたしたちの『日本キリスト教会信仰の告白』も制定されたのです。

 イエスは名前です。旧約聖書音ヘブライ語ではヨシア、ヨシュア、「神は救いである」という意味の、ユダヤ人に一般的な名前です。主イエスの場合、決定的に違う点は、神がこの名前の名付け親であるということ、また主イエスが生まれる前から神がこの名前を決めておられたということ、そして事実、神はこの主イエスによってご自身の救いのみわざを成就されたということです。

 キリストはヘブライ語ではメシア、油注がれた者という意味です。イスラエルでは、王や預言者、祭司がその職に任じられる際には頭からオリブ油を注がれました。主イエスは、まことの永遠の王として、また、まことの永遠の預言者として、そして、まことの永遠の祭司として、父なる神から託された全人類のための救いのお働きを完全に成し遂げられたメシア・キリスト・救い主であられます。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたはみ子、主イエス・キリストによってわたしたちのための救いのみわざを完全に成し遂げてくださいました。わたしたちはもはや罪の奴隷ではありません。死と滅びに支配されている者でもありません。あなたからの新しい命によって生かされ、来るべきみ国での永遠の命を信じます。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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