10月12日説教「出エジプトと初子の奉献」

2025年10月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記13章1~16節

    ルカによる福音書2章22~32節

説教題:「出エジプトと初子の奉献」

 イスラエルの民はアビブの月の15日早朝に、それまで400年以上寄留していた奴隷の家エジプトを脱出し、神がお導きになる約束の地カナンに向けて旅立ちました。彼らがエジプトに滞在していた期間は出エジプト記12章40節によれば430年、創世記15章13節の預言によれば400年でした。二つの説があったようです。アビブの月は、のちにはニサンの月と言われるようになりましたが、今日の太陽暦では春3月から4月にかけてのころです。この月がイスラエルにとっての新しい年の初め、正月に定められたことが、すでに12章1節に書かれていました。なぜならば、神の民イスラエルは出エジプトから始まったからです。出エジプトはイスラエルの民誕生の原点であり、彼らの歩み、歴史、そして信仰の原点であるからです。それはちょうど、主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活がわたしたちキリスト者の命と存在、信仰と生活の原点であるのと同様です。

 出エジプトの出来事はイスラエルののちの時代にまで続く重要な三つの祭り、祭儀とも言いますが、それと関連づけられています。一つは、イスラエルで最も重要な祭りである過越し祭、二つめは、過越し祭のあと7日間続く除酵祭(種入れぬパンの祭り)、そして三つめは初子(ういご)の奉献です。初子の奉献については、きょうのテキストである出エジプト記13章1~2節と、少し飛んで11~16節に記されています。3節から10節は除酵祭に関する内容です。初子の奉献については、ほかに22章28節以下や34章19節以下、それにレビ記、民数記にも初子奉献の規定が書かれています。過越し祭と除酵祭については、すでに学んだ12章と13章3節以下に繰り返して書かれていましたし、旧約聖書全体で幾度となく言及されていて、イスラエルにとって重要な祭りであったことが分かります。イスラエルの民はこれらの祭り、祭儀、礼拝をとおして、毎年毎年、また安息日ごとに、出エジプトの出来事を思い起こして、自分たちの命と存在の原点とその歩みの原点へと立ち返り、そこに現わされた主なる神の恵みを感謝し、その神が今もなお自分たち一人一人と共にいてくださり、苦難や試練の時にも、救いのみわざをなしてくださることを信じ、告白したのです。

 では、きょうは初子の奉献について、それが出エジプトの出来事とどのように関連づけられているのかを学んでいきたいと思います。【1~2節】。ここでは、出エジプトの出来事と初子の奉献との関連については触れられずに、一般的に人間と動物の初子は神のものであるので、それを聖別して神にささげるべきことが命じられています。11~13節でも同様です。ここではより詳しく、人間の男子で初めて生まれた長男と、家畜の最初に生まれたオスはすべて神にささげるべきことが命じられています。ただし、ろばは宗教的に汚れた動物とされ、神にささげることができないので、その場合には小羊によって贖うように定められています。贖うとは、神にささげるべきものを他の清い動物を代わりにささげることによって神から買い取るということです。

 また、人間の命はこれを殺して神にささげることはできませんので、他のもので贖わなければなりませんが、何によって贖うのかは、ここには明記されていません。民数記18章16節では、生後1か月後の男子を贖う金額は銀5シェケルとあります。1シェケルは10グラムほどと推測されます。また、民数記のこの箇所には、農作物や果物の初物もまた神にささげるべきと定められています。

 このように、初子や初物を特別視するという習慣は古代の他の民族にも一般的にみられます。特にイスラエルにおいては、人間の命はもちろん動物の命も、すべての命は神から与えられたものであるという信仰が強くありました。また、農作物や果物なども神から与えられたものと考えられました。そのために、初子や初物は特別に大きな神の恵みと祝福に満ちたものであって、それを感謝して神にささげることは最高のささげものであったのです。また、初子や初物を神に感謝してささげることは、そのあとに続く命と収穫もまたすべて神からの賜物であるという信仰告白であり、さらには、初子と初物にはそのあとに次ぎ次ぎと神の豊かな収穫と恵みが続くということの確かな保証でもありました。

 古い時代からあったそのような初子、初物を特別視する考え方に、出エジプトの出来事が結びついたのではないかと推測されています。きょうの聖書箇所の14~16節を読んでみましょう。【14~16節】。前の12章に書かれていたように、アビブの月の14日の夕暮れに、エジプトに寄留していたイスラエルの民は、家々で1頭の子羊を屠り、その血を家の柱とかもいに塗り、肉は種入れぬ固いパンと苦菜とを一緒に食べなさいと神に命じられていました。これがのちの過越しの食事です。この最初の過越しの食事は、神がイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から解放し、救い出してくださることを信じ、その前祝いとして、共同の食事を食べました。その夜、アビブの月の深夜、神から派遣された滅ぼす者によって、王ファラオの家からエジプト全土のすべてのエジプト人の家々の初子が、人も家畜もみな撃たれ、死んだために、エジプトに大いなる恐れと混乱が生じ、ついに王ファラオはイスラエルの民をエジプトから追い出すことにしたのでした。しかし、イスラエルの家々には小羊の血が塗られていたので、滅ばす者がその前を過ぎ越し、彼らの初子は守られました。

 このことから、子羊の血によってイスラエルの民の初子が贖われ、滅びから救われたと考えられ、それだけでなく、その子羊の血によってイスラエルの民全体がエジプトの奴隷の家から贖いだされたと考えられ、彼らにとっては初子は二重にも三重にも、主なる神のものであり、主なる神から賜った大いなる恵みと信じられるようになったのです。そこから、初子を神にささげるという儀式が出エジプトの出来事と関連づけられて行われるようになったと考えられます。

 ルカによる福音書2章22節以下によれば、主イエスの両親であるヨセフとマリアは生後40日が過ぎてからエルサレム神殿で清めの儀式と初子奉献の儀式を行ったことが書かれています。22、23節にこのように書かれています。「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるために、エルサレム神殿に連れて行った。それは主の律法に、『初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される』と書いてあるからである」。おそらく、このとき両親は初子の贖い金として銀5シェケルを神殿にささげ、幼子主イエスを贖って、神から買い戻したのであろうと思われます。

 主イエスの両親は旧約聖書の律法に忠実に従いました。主イエスご自身もまたそうであられました。主イエスもまた、というよりは、主イエスこそが完全な意味で、神の律法を成就されました。主イエスの両親は贖い金を神にささげて、神から買い戻したのですが、しかし主イエスご自身はご自分の全存在、全生涯を父なる神のためにおささげになられ、そしてついにはそのご生涯の終わりには、実際にご自身の命をおささげになられたのです。死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで父なる神に従順であられ、わたしたち全人類の罪の贖いのために、ご自身の命を十字架におささげくださったのです。出エジプトのときに、出エジプトの救いの出来事との関連によって定められた初子奉献の律法は、完全な意味で主イエスによって成就されたのでした。

 主イエスのご両親の初子奉献の場面で、もう一つ教えられることは、両親が幼子主イエスを抱いてエルサレム神殿に入ったときに、預言者シメオンがその主イエスを自らの腕に抱いてこのように言ったと、ルカ福音書2章29節以下に書かれています。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民の誉れです」(29~32節)。預言者シメオンは神がお遣わしになるメシア・救い主に会うまでは決して死なないとの神からのお告げを受けていましたが、今このとき、彼は幼子主イエスの奉献のこの時に、その神の約束が成就されたことを悟り、それによって彼の長い待望のときが終わり、彼の人生が満たされたことを知ったのです。わたしたち人間の人生、歩み、命は、救い主・主イエスと出会うことによって、本当の意味で満たされるのです。

 出エジプト記に戻りましょう。14節にこのように書かれています。【14節】。これと同じようなみ言葉は、8節では除酵祭に関連して、【8節】、また12章26節では過越しの食事に関連して、語られています。【26節】(112ページ)。過越し祭、除酵祭、そして初子奉献、これらはみな出エジプトという神の偉大なる救いと解放のみわざを覚え、感謝する重要な祭りとしてイスラエルの家庭で受け継がれ、また信仰の継承と子どもたちの信仰教育の場として毎年続けられてきたのです。それがのちには、エルサレム神殿での祭儀、礼拝の中で継承されていきました。そして、主イエスの十字架と復活によって、全人類の救いと解放が成就されたのです。

 16節に、【16節】。同じようなみ言葉は除酵祭に関連して8節にもありました。【8節】。「腕に付けて」とは、手に墨で何かの文字やしるしを書いたのであろうと推測しています。「額に付けて」とは、頭に何かの飾りをつけてそれを目と目の間に垂らしていたらしいと推測されています。9節の「口ずさむ」とは文字どおり出エジプトに関する何らかの文章を口で唱えることです。このように、手と目と口によって、出エジプトの神の救いの恵みを絶えず忘れないために、何かを身に着けていたようです。のちには、主イエスの時代も、また今日のユダヤ人もそうですが、テフィリンと言われる聖書のみ言葉を書いた紙を収めた小さな箱にバンドを付けて、手や額に巻き付けるという習慣になりました。手を伸ばして何かをつかもうとするとき、手首に付けられている神のみ言葉を思い起こすため、目を動かして何かを見るとき、目の前に付けられている神のみ言葉を思い起こすため、また口を動かして何かを発言するとき、いつも口ずさんでいた神のみ言葉を思い起こすため、イスラエルの民はそのような工夫をしました。わたしたちもまた、わたしが何かをなすとき、何かを話す時、何かを考えるとき、あらゆる機会に神の救いのみ言葉を思い起こすために、神のみ言葉をいつも身近に置いておく訓練をし、神のみ言葉を思い起こすように心がけたいと願います。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたのみ言葉はわたしの足を導くともし火、わたしの道を照らす光です。どうか、いつもわたしたちにあなたの命のみ言葉を熱心に慕い求める信仰をお与えください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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