4月26日説教「思い悩むな。ただ、神の国を求めなさい」

2026年4月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:詩編39編1~14節
    ルカによる福音書12章22~34節
説教題:「思い悩むな。ただ、神の国を求めなさい」

 ルカによる福音書の特徴の一つが、この世の富や財産に対する人間の欲望についての問題を多く取り扱っているという点にあることを、前回の12章13節以下の愚かな金持ちのたとえの箇所で学びました。この世の富や財産を追い求める人間の果てしなき欲望が、人間の本当の命が何であるのかを見失わせ、人間の命の主であられる神を見失わせ、自らが死すべき存在であることを見失わせている。そして、ついには、神によって最も賢く、尊い生き物として創造された人間を、他のすべての生き物よりも愚かな存在としている。ルカ福音書はそのことをわたしたちに気づかせようとしているのです。
今日の豊かさを求める世界、現実主義的で自己の欲望を追及する社会、人間の知恵や知識が賞賛される世界に住んでいるわたしたちにとって、ルカ福音書は、また聖書全体は、厳しい挑戦状を突きつけているのです。あなたが本当に追い求めるべきものは何なのか、あなたの本当の命はどこにあるのか。あなたが今一番大切なものとして追い求めているものが、本当にあなたを生かすものなのかどうか。本当の幸い、平安、喜び、救いはどこにあるのか。そのことを、聖書はわたしたちに問いかけ、語りかけてくるのです。
 きょうの箇所でも、同じテーマが取り扱われています。ここで、主イエスは繰り返して「あなたがたは思い悩むな」と語っておられます。【22節】。同じような言葉は【29節】にも。また【25~26節】。
わたしたち人間は思い悩む生き物であることを、主イエスは良く知っておられます。というよりも、人間だけがすべての生き物の中で唯一思い悩む生き物であるということを、主イエスはわたしたちに気づかせようとしておられるのでしょう。わたしたちがそのような愚かな者になっていることに気づかせ、いや、そうではない、神はあなたがた人間を最も神に近い者として、神に似た者として創造され、最も神に愛されている者として、神はあなたに必要なすべてのものを備えていてくださるのだから、思い悩むな、思い悩む必要などないということを、わたしたちに信じさせようとしておられるのです。
 では、主イエスの「思い悩むな」というみ言葉からみていくことにしましょう。この否定的命令形は、「恐れるな」というみ言葉と似ています。これは、思い悩むことは良くないことだからやめなさいとか、思い悩んでもどうにもならないし、それは非生産的だからやめなさい、という理由で、思い悩むことを禁止しているのではありません。主イエスが「あなたがたは思い悩むな」とお命じになるときには、第一には思い悩むことを禁止し、否定する命令です。それだけではありません。その思い悩みそのものを取り去る約束のみ言葉でもあるのです。主イエスが「思い悩むな」とお命じになるときに、主イエスはわたしたちからその思い悩みを取り去ってくださり、それに代わる平安や喜び、希望、そして信仰をお与えくださるのです。そうすることによって、主イエスはわたしたちをすべの思い悩むことから解放されるのです。そのことを信じて、きょうのみ言葉を学んでいきましょう。
 思い悩むとは、心がいくつにも分裂している状態のことを言います。主イエスはここで、「何を食べようか、何を着ようか」と二つの思い悩みを挙げていますが、これはたくさんある思い悩みの代表であり、そのほかにも実に数えきれないほど多くの事柄に、わたしたちの心は分裂していきます。あれが欲しい、これにも心が奪われている。心がいくつにも分かれ、その方向性を失ってしまう。そして、欲しいものが手に入らないとき、思いどおりに事が進まないときに、不満が募り、不安に襲われ、思い悩みがいよいよ増し加わる。思い悩む人間は、さらに思い悩みを拡大させていくしかない。その人は決して満たされることはない。それが人間の姿です。
 主イエスは、いくつにも分裂したわたしたち人間の心を一つの方向に向かわせるために、まずわたしたちの目を空の鳥や野原の花へと向けさせます。そしてその次には、空の鳥や野原の花をさえ日々に養っておられる神へと、わたしたちの心を向けさせます。【24節】。
主イエスは空の鳥の中でも特にカラスを例に挙げています。カラスは、日本でもそんなに好まれる鳥ではなく、不気味で不吉な予感させさせる鳥と考えられています。聖書では、神にささげることができる聖なる生き物から除外され、食べてはならない宗教的に汚れた生き物に数えられています。そのようなカラスでさえも、あくせくと働いたり蓄えたりすることなく、思い煩うこともしないのに、神は彼らを養っておられるではないか。そうであるならば、カラスよりもはるかに価値があるあなたがた人間を、神はさらに大きな愛と恵みとをもって養ってくださらないはずがあろうか、と主イエスは言われます。
 続けて主イエスは27節以下では、野原の花へとわたしたちの目を向けさせます。【27~28節】。野原の花とは、パレスチナ地方によくみられるユリであろうと考えられています。アネモネ、あるいはグラジオラスと考える人もいますが、いずれもパレスチナ地方の春を彩る花です。その美しさ、神秘的な生命の不思議には、人間の手が全く加えられていないにもかかわらず、華やかに繫栄したソロモン王でさえも、その花の一輪にも見劣りがするではないかと、主イエスは言われます。野原の花は自ら手入れをして着飾ったり、あくせくと働くこともしません。そうであるのに、神はその野原の花をもこれほどに美しく装ってくださり、養い育ててくださいます。そうであるならば、野原の花よりもはるかにまさった者であり、尊い存在であるあなたがた人間を、神はさらに大きなご配慮と恵みとをもって愛してくださらないはずがあろうか、と主イエスは強調されます。
 ここで重要なポイントは、24節の「あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか」というみ言葉、また28節の「まして、あなたがたにはなおさらのことである」というみ言葉です。ここでは、鳥や花と人間とを単純に比較して、どちらが尊いかを比較しているのではありません。むしろ、比較できないほどの違いがあるではないかということを強調しているのです。
この決定的な違いを理解するには、信仰が必要です。主イエスは28節で「信仰の薄い者たちよ」と呼びかけておられます。空の鳥や野原の花を見て、そこから神の偉大なる愛を理解するに至るためには、信仰が必要なのです。空の鳥や野原の花よりも、はるかに大きな愛によって神がわたしたち人間を愛しておられるということを正しく知るためには、信仰が必要なのです。
 ここで一つ注意しておかなければならないことは、主イエスはここで、いわゆる自然神学を語っておられるのでは決してないということです。自然の美しさや神秘的な様子を見て、そこから神の存在を感じたり、神の創造の偉大さを知るということは、ある程度は誰でもが認識することができます。でもそれは、人間の感情や感覚の作用にすぎません。そこに信仰がなければ、本当の意味での救いや平安、慰めを得ることはできません。主イエスのみ言葉を正しく理解するためには、信仰が必要なのです。神が主イエス・キリストによってわたしたち人間をどのように愛してくださったか、神がその独り子をわたしたちにたまうほどにわたしたち人間を愛してくださったという福音を信じる信仰が、必要なのです。
 もう一つ重要な点は、主イエスはここでわたしたちの目を空の鳥や野原の花に向けさせ、次にその鳥や花を創造された神へとわたしたちの目と心とを向けさせておられるということです。最終目的は、わたしたちが天地万物を創造された神へとわたしの全身を向けるということが主イエスのみ心だということです。それによって、わたしたちをすべての思い悩みから解放することが主イエスのみ心だということです。
 わたしたちはここで創造者なる神のことを知る必要があります。神が天地万物を創造されたことについては、創世記1章と2章に詳しく語られています。天地創造の初めに、神は第一日目に光を創造されました。次に、その光の中で、大空と海と乾いた地とを創造され、草や木、空に光る太陽や月、地に住む生き物、それを飛ぶ鳥を創造され、最後の第六日目に、人間を創造されました。
人間の創造には特別な神の配慮がありました。一つには、人間が生きるためのすべての舞台が整ってから、最後に人間を、すべての被造物の冠として創造されたということです。もう一つは、人間をご自身お姿に似せて創造されたということです。人間は他のどの生きものよりも神に似ている存在として、神の近くに存在する者として、神のみ心を知る者として、神のパートナーとして創造されたのだと、創世記は語っています。
また創世記2章7節には、神は土の塵で人間を造られ、命の息をその鼻から吹く入れて、人間を生きる者にされたと書かれています。人間は神の息を吹き入れられることによって、はじめて生きる者となったのです。神の息がなければ、人間はたちまちにして土に帰るほかありません。
人間を旧約聖書の言語であるヘブライ語ではアーダームと言います。土はアダマーです。発音が非常によく似ています。わたしたち人間は土・アダマーから造られた人・アーダームなのです。旧約聖書の民ヘブライ人は、そのことを決して忘れませんでした。それゆえに、人間は神の命の息を吹き入れていただかなければ、本当に生きることはできないのだということを、決して忘れなかったのです。
 最後に、わたしたちの目を空の鳥と野原の花へと向け、さらには天地万物と人間を創造された神へと向けさせ、わたしたちをすべての思い悩みから解き放ってくださる主イエスご自身へと目を注がなければなりません。主イエスは、ほかでもないわたしたち人間を罪から救うためにご自身の尊い命を十字架におささげくださったのです。わたしたちの命と存在のすべては、神のみ子の尊い犠牲の血によって買い戻され、もはや罪の奴隷ではなく、主イエス・キリストのものとされたのです。ここにこそ、わたしたち人間の命と存在を他のすべての生きものよりも尊く、価値あるものとしている根拠があるのです。
 使徒パウロはローマの信徒への手紙8章32節でこのように書いています。「ご自身のみ子をさえ惜しまずに死に渡された神は、み子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがあるでしょうか」と。その大きな神の愛によって愛されているわたしたち人間に、神はわたしの命に必要なすべてのものを備えてくださらないことなどありません。その信仰に生きるとき、わたしたちはすべての思い悩みから解放されるのです。

(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、わたしたちはこの世の過ぎ去りゆくものに目と心とを奪われ、しばしばあなたを見失ってしまうことがあります。主よ、どうかわたしたちをあなたの命のみ言葉のもとにつなぎとめてください。主イエス・キリストによってあなたがわたしたちにお示しくださった大いなる愛の中に、わたしたちをつなぎとめてください。そして、まことの平安と救いの喜びとを、お与えください。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

4月19日説教「フィリピでの伝道と迫害」

2026年4月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記3章1~10節

    使徒言行録16章16~24節

説教題:「フィリピでの伝道と迫害」

 パウロの第二回世界伝道旅行は、当初の予定では第一回伝道旅行で建てられた小アジア地方の諸教会を再訪問して彼らを励ますというのが主な目的でした。その目的がほぼ果たし終えたのちに、彼は小アジアの北西はしにあるトロアスという町で、一つの幻を見ました。「マケドニアに渡って来て、わたしたちを助けてください」という声を聞いたのです。そこで、パウロはそれを神の導きと信じ、すぐにエーゲ海を渡ってヨーロッパ大陸の入り口であるマケドニア地方(今のギリシャ)へと旅を続けることにしたのでした。その最初の伝道地が、当時ローマの植民都市であったフィリピでした。そして、この町でリディアという女性とその一家が洗礼を受けました。この一家がフィリピ教会の大きな柱、土台となっただけでなく、これから先のマケドニア(ギリシャ)地方の伝道、更にはヨーロッパ伝道全体にとっても、強力な伝道の拠点となったということを、パウロがのちにこの教会にあてて書いた手紙から、わたしたちは知ることができます。この時に誕生したフィリピ教会がパウロのこののちの伝道旅行のために経済的にも、また特別に親しい信仰の交わりにおいても、大きな支えとなったのでした。神はこのようにして、パウロの当初の予定や目的をはるかに超えた豊かな恵み、大きな実りをお与えになって、全世界に主キリストの福音を告げ広めるお働きを続けてくださいました。

 では、きょうはフィリピでの伝道活動の後半の箇所を読んでいくことにしましょう。【16節】。「祈りの場所に行く途中」とありますから、13節と同様に、ユダヤ人の安息日である土曜日に、ユダヤ人が集まって来ていることを期待して、パウロたちは出かけて行ったと推測できます。「わたしたち」という主語が10節から始まっていますが、前回説明しましたように、パウロと最初から同行していたシラス、途中から加わったテモテ、そして、たぶんマケドニアから参加した、この使徒言行録の著者であるルカ、この4人を指すと考えられます。

 パウロたちがフィリピで経験した第二の出会いも女性でした。彼女は「占いの霊に取りつかれている女奴隷」であったと書かれています。「占いの霊」は原語のギリシャ語では「ピュトンの霊」という言葉であり、ピュトンとはギリシャの神デルフィからのお告げをする霊で、腹話術のようにこわ声を使って話をしていたようです。下北半島恐山のイタコや沖縄のユタと似ているところがあります。紀元1世紀のギリシャにおいても、21世紀の日本の地においてもそうであるように、人間の運命を司る神々が信じられ、自分の将来を知りたいと願う人間の欲求を満たすために、多額の報酬をもらい、神々の声に真似て語る占い師という者が、いつの世にも存在しています。

 しかし、わたしたちキリスト者はそのような偽りの神々の声に惑わされることは決してありません。わたしたちが信じている神は天地万物を創造され、造られたものを今もなお見えざる強いみ手を持って保持され、導いておられる全能の父なる神であられ、ご自身のみ子・主イエス・キリストによって、わたしたちの救いに必要なすべてのみ言葉をお語りくださり、終わりの日に神の国を完成される日まで、すべての被造物をご自身の摂理によってご支配くださる主なる神であられます。それゆえに、わたしたちは他のどのような神々と言われるものがあろうとも、その声に耳を傾ける必要はありませんし、それらの神々を恐れる必要もありません。

 この占いの霊に取りつかれた女性は女奴隷と言われています。彼女には何人かの主人がおり、その人たちの奴隷となって、彼女が占いで得た収入はすべてそれらの主人のものになりました。彼女は偽りの悪しき霊に支配され、悪しき人間たちにも支配され、彼女には人間としての基本的な人権も自由もありませんでした。哀れで悲惨な罪の奴隷でした。偽りの神々に仕える人は皆、そのように、人間としての尊厳と自由とを失い、哀れな罪に支配された人間となる以外にありません。

 【17~18節】。占いの女性がパウロたちについて語ったことは、確かにそのとおりであると言えるように思われます。パウロたちは「いと高き神の僕」たちであり、主イエス・キリストの十字架と復活の福音による救いの道をフィリピの人々に、また全世界の人々に宣べ伝える伝道者たちであることは事実でした。にもかかわらず、パウロはその彼女の告白を受け入れてはいません。それは、悪しき霊による偽りの告白だと、退けています。

 なぜパウロはそうしたのか。二つの理由が考えられます。一つは、彼女の告白の内容が正しいとしても、その告白をさせているのが悪しき霊、偽りの神によるのだとすれば、それは真実の告白ではないからです。主イエスもまた、マルコによる福音書1章21節以下で、汚れた霊に取りつかれていた男の人が、主イエスを「神の聖者だ」と叫んだ時に、その告白を受け入れずに、「黙れ、この人から出ていけ」とお命じになって、彼から汚れた霊を追い出されたことが書かれています。主イエスは悪しき霊による告白を拒絶され、それだけでなく、悪しき霊を滅ぼされ、その人を悪しき霊から解放し、救われたのです。

 もう一つの理由として考えられることは、この占いの女性の告白がギリシャの主神であるゼウスの神を考えていたのかもしれないという理由です。「いと高に神」が聖書で証しされている主なる神ではなく、ギリシャの神を指していたということが考えられます。それは全く正しい告白ではありません。

 パウロは占いの霊に対してこう命じます。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」と。そうするとすぐに、その霊が彼女から出ていったと書かれています。「主イエスの名によって」という言葉は、使徒言行録の中でこれまでも何度か繰り返して語られていました。【3章6節】(217ページ)。ペトロは生まれつき足が不自由だった男の人を、「イエス・キリストのみ名によって」立ち上がらせ、神を賛美して歩く人に変えました。また【4章10節】(219ページ)。「イエス・キリストの名によって」とは、主イエス・キリストご自身を指しています。また、主イエス・キリストの人格、みわざ、み言葉のすべてを指しています。主イエス・キリストのご受難と十字架の死、そして三日目の復活、40日目の召天によって示された救いの恵み、そのみ力、その権威のすべてを指しています。主イエスはすでに十字架の死と復活によってすべての悪しき霊と罪と死とに勝利しておられます。その主イエスの勝利が今ここで占いの霊に対する主イエスの勝利として宣言されたのです。

そのようにして、主イエス・キリストは今日のわたしたちの教会においても、主イエス・キリストのみ名が語られ、信じられ、賛美されるときに、わたしたちのすべての奉仕や祈りの中で、今もなお力強く働いてくださいます。「イエス・キリストの名によって」洗礼が授けられる時、そこに罪ゆるされて新しい命に生かされている信仰者が誕生します。「イエス・キリストの名によって」わたしたちが祈るときに、そこに神のみ心が実現します。「イエス・キリストのみ名によって」わたしたちが礼拝をささげ、み言葉を聞き、捧げものをささげ、奉仕と愛の交わりをなす時に、そこに主キリストの体なる教会が建てられます。

では次に【19~24節】。占いの霊に取りつかれていたこの女性は、パウロによって悪しき霊の支配から自由にされましたが、彼女の占いによってお金をもうけていた主人たちは、収入減が絶たれたという全く個人的な理由によって、パウロとシラスを捕らえ、二人を役人に引き渡しました。裁判の席では、主人たちは自分たちの個人的な理由ではなく、パウロたちがフィリピの町全体を混乱させている犯罪人として告白しています。

彼らが挙げている告発理由の第一点は、パウロたちがユダヤ人であるということです。フィリピはローマの植民都市として、本国から移住してきたローマ人がほとんどでしたから、この町ではユダヤ人であること自体が住民の反感をかう理由になったと推測されます。第二の告発理由は、町の秩序をかき乱す騒乱罪、第三は、ローマ人にとって違法な慣習を宣伝していることが挙げられています。当時のローマ帝国においては、ユダヤ教の教えは一般的には黙認されていたようですが、ローマ人に直接その宗教を宣伝することは禁じられていました。彼らはパウロたちの教えをユダヤ教と理解していたのかもしれません。占いの霊を追い出したのは、ユダヤ教の教えによるものだと考えたのかもしれません。

けれども、パウロたちが宣べ伝えていた福音が、主イエス・キリストの福音であるということに、彼らはまだ気づいてはいません。主イエス・キリストの福音が、今全世界のすべての人々に、罪と死に対する大いなる勝利をもたらしたのだということを、彼らはまだ知りません。というのも、彼らは自分たちの収入源が失われたことにしか関心がなかったからです。一人の女性が主イエス・キリストのみ名によって悪しき霊の支配から解放されたという救いの事実を彼らはまだ見ていないからです。

それにしても、ローマの植民都市であり、他の宗教の設立が法律で禁じられたいたこのフィリピの町にキリスト教会が建てられたということ、またこののちには、テサロニケやコリントの町々にも次々と教会が建てられていったということ、それは実に驚くべき出来事であったということが分かります。

パウロとシラスはむち打ちの刑を受けることになり、その後、厳重に見張られた牢獄につながれることになりました。むち打ちの刑は、公衆の面前で衣服を脱がされて裸にされ、動物の骨や石を縫い込んだむちで打たれるという、屈辱と痛みを伴う、耐え難い刑でした。パウロはコリントの信徒への手紙二11章でこのように書いています。【23節b~25節】(338ページ)。「鞭で打たれたことが三度」とある、その一回がフィリピでのこのことを指していると思われます。

けれども、わたしたちはここでもこの聖書のみ言葉を思い起こします。「しかし、神の言葉は決してつながれてはいない」(テモテへの第二の手紙2章9節)。神の言葉はやがてパウロたちがつながれている鎖を断ち切ることになるでしょう。そしてまた、神の言葉はすべての困難を越えて、今もなお前進していきます。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの永遠なる救いのご計画が今もなお世界のあらゆる国々で、町々で、進められていることを信じます。どうか、この秋田の地においても、あなたを信じる人が次々と起こされ、あなたの救いの福音が力強く宣べ伝えれていきますように、切に祈ります。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

4月12日説教「葦の海の奇跡を行われた神の威光を賛美する歌」

2026年4月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記15章1~21節

    マルコによる福音書4章35~41節

説教題:「葦の海の奇跡を行われた神の威光を賛美する歌」

 エジプトの奴隷の家を脱出したイスラエルの民は、約束の地カナンへ通じる道ではなく、荒れ野、砂漠地帯へと至る道に導かれました。それはイスラエルの民を選ばれ、この民を愛された主なる神の深いみ心によることでした。神は約束の地カナンでイスラエルの民が神によって選ばれ、救われた民として、いついかなる時にも、ただ主なる神だけを礼拝し、主なる神の言葉にのみ聞き従う民として生きていくための信仰の訓練をするために、何もない荒れ野でただ神だけを頼りにして生きることを学ばせたのです。神は愛する者たちを訓練するために、時に困難や試練を与え、その中でも主なる神を疑わず、主なる神の導きを信じて、すべての困難に耐え抜く信仰を養われるのです。

 荒れ野へと出ていく前に、彼らにはもう一つの信仰の試練と訓練が与えられました。エジプト軍が大勢の戦車隊を率いて彼らの後を追ってきたのです。行く手には海が彼らの逃げ道をふさいでいます。軍隊も武器も持たないイスラエルの民にはなすすべがありません。でも、そのような絶体絶命の危機の時でも、神はイスラエルの民をお見捨てにはなりませんでした。彼らはなおも主なる神を信じる信仰によって、エジプトの王ファラオとその大軍とに勝利することができるという奇跡を経験しました。モーセが杖を高く挙げると、海は二つに分かれ、乾いた地が現われ、イスラエルの民はその道を安全に渡ることができ、彼らが渡り終えてから再びモーセが手を差し伸べると、海の水がもとに戻り、そこを渡っていたエジプト軍はみな海の中にのみ込まれてしまったのでした。

 これを一般には紅海の奇跡と呼びますが、ヘブライ語原典では葦の海となっていますので、『新共同訳聖書』ではその翻訳を採用しています。

 出エジプト記15章にはその葦の海の奇跡を歌った二つの歌が記されています。1節から19節は、モーセとイスラエルの民が歌った歌、20節から21には、モーセの兄弟であるアロンの姉、ミリアムの歌です。

 先に、ミリアムの歌の方を見ていきましょう。ここには、古代の慣習が反映されていると考えられています。古代社会では、男たちが戦いから帰ってくると、家で待っていた女性たちが太鼓やタンバリンを持って帰還する兵士たちを勝利の歌で出迎えたといいます。

 このミリアムの歌はわずか1節だけです。【21節】。モーセの歌の15章1節とほぼ同じです。【1節】。モーセの歌では「わたしは歌おう」と1人称単数ですが、ミリアムの歌では「あなたがたは歌え」と2人称複数の命令形になっています。モーセは自分が今経験し、見た、驚くべき神の奇跡を、わたしの神賛美として、わたしの信仰告白として歌っています。ミリアムの歌では、共に集まっている礼拝者が一緒になって神賛美を歌い、信仰告白へと参加するように招いています。

 ここには、神を賛美する讃美歌と、神への信仰の内容を告白する信仰告白が持っている二つの特徴があるように思います。すなわち、わたしたちが礼拝で讃美歌を歌い、また信仰告白を唱和することには、この二つの意味、役割があるということです。一つは、わたしの神賛美の歌を歌い、わたしの信仰を告白するということ、もう一つには、礼拝者一同が共にその賛美によって一つの群れとされ、その信仰告白によって、一つの信仰告白共同体とされるということ、この二つを常に意識してわたしたちは礼拝で讃美歌を歌い、また信仰告白を唱和するのです。

 では次に、モーセの歌の内容について学んでいきましょう。1節の「主は大いなる威光を現わし」と訳されている個所は、もとのヘブライ語を直訳すれば、「高々と高くなった」という意味で、「高い」という同じ意味の言葉が重ねられ、その高さが強調されています。いろんな翻訳が可能で、『口語訳聖書』は「輝かしくも勝利を得られた」と訳していました。これは、葦の海の奇跡で神がなし遂げられたエジプト軍に対する勝利のみわざを、具体的に表現した翻訳と言えますし、『新共同訳聖書』はそのような奇跡のみわざをなされた神の本質をとらえて、「大いなる威光を現わし」と訳したと思われます。最も新しい翻訳である『聖書協会共同訳』(2018年)では、「なんと偉大で、高く上げられる方」と訳しています。

 わたしたちはここで、創世記11章に書かれている「バベルの塔」の物語を思い起こします。古代の人々が発達した文明を誇り、レンガを高く積み上げて天にまで高く昇れば、自ら神のようになれると思ったとき、神は天からそれを見降ろされ、ご自身が天から降りてこられ、人間が積み上げた高い塔を崩され、人々を地に散らされたという物語です。人間がどんなに努力しても到達できない、はるかに高い天に神はおられるのです。そのように、神はすべてにおいて人間よりもはるかに高い所におられるのです。その力においても、その偉大さにおいても、その愛と恵みの大きさにおいても、その知恵においても、その栄光と誉れにおいても、神は人間のはるかに高いところにおられます。もちろん、エジプト王ファラオの権力やエジプト軍の破壊力や、また彼らの知恵よりも、神はすべてにおいて、はるかに高く、偉大であり、栄光に満ち、彼らのすべてのたくらみに対して勝利されるのです。

 2節以下には、神の特徴とそのお働きを意味する言葉である「力」「救い」「いくさびと」などの言葉が繰り返されています。6節には「あなたの右の手」、また7節には「大いなる威光」「あなたの怒り」、10節には「あなたの息」、11節では「聖」と「輝き」「ほむべき御業、くすしき御業」などの言葉が続きます。これらのすべての言葉が、イスラエルを救われた主なる神にこそ最もふさわしいものです。しかも、それらのすべてにおいて、神はエジプト王ファラオやエジプトの軍隊、そしてすべての人間よりもはるかに高く、強く、偉大であり、また永遠なるお方なのです。神はその偉大なるみ力によって、葦の海を二つに分けてイスラエルの民を安全に渡らせ、後を追ってきたエジプト軍の全部隊を、再び戻ってきた海の水の奥底へと沈めたのです。

 イスラエルの民は葦の海の奇跡によって、このような神の偉大な救いのみわざを体験しました。これから先、彼らは40年もの長い荒れ野での旅を続けなければなりませんが、神は常に変わらずそのような高きにいます偉大な神であり続けられ、イスラエルの民に必要なものすべてを備えてくださるで神であり続け、困難な道のすべてを終わりまで導いてくださり、約束の地カナンへと彼らを導き入れてくださるという、確かな約束を、彼らはこの葦の海の奇跡で受け取ることができたのです。そして、モーセはこの歌によって、その信仰を告白しているのです。

 わたしたちが信じ、礼拝している主イエス・キリストの父なる神は、ここでモーセが賛美しているイスラエルの神と同じ神です。わたしたちにとっても、わたしのすべての魂と心と思いとを尽くして賛美すべき神は、この神以外にはありません。わたしたち人間よりもはるかに高きところにおられ、はるかに大いなる力と威光とを持っておられ、はるかに強い、いくさ人として、わたしのために、わたしに代わって、すべての敵と戦ってくださり、ついにはすべての罪と悪とに勝利される神を、わたしたちもまた共に賛美し、ほめ称え、またこの神に信仰を告白するようにと招かれています。わたしたちもまた、「あなたがたは主に向かって歌え」とのミリアムの呼びかけに応えて、また、「主に向かってわたしは歌おう」とのモーセと声を合わせて、イスラエルの主なる神、主イエス・キリストの父なる神、いと高き天におられる神に向かって、賛美の歌を歌い続けるのです。

 11節からの歌の後半では、葦の海の奇跡を行われた神とはどのような神であるのかがより具体的に、歌われています。【11~13節】。11節の「神々の中に」とあるのは、主なる神以外に他の神々の存在を認めている、いわゆる多神教の考えを肯定しているような表現に聞こえるかもしれませんが、内容的には必ずしもそうではなく、「誰があるでしょうか」とは、「いや、だれもいない。どのような神も存在しない」という意味であり、「聖」という言葉も、他のものから区別するという意味を持ちますから、イスラエルの主なる神だけが聖なるまことの神であり、他のすべてのものは、神々と呼ばれることがあったとしても、それはまことの神ではなく、偶像に過ぎないということが言われています。

 13節は、神がイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から、子羊の血によって贖われたことを告白しています。「慈しみ」というヘブライ語は「ヘセド」という発音ですが、旧約聖書の至る箇所に頻繁に出てくる重要な言葉ですから、覚えておいてください。多くは「慈しみ」と訳されます。慈しみ、ヘセドとは、神とイスラエル、また神と人間との契約に基づく、永遠に変わらない神の愛を意味する言葉であると言われます。この神の慈しみは、み子主イエス・キリストをこの世に派遣され、み子の十字架の死と復活によって全人類の救いのみわざをなし遂げてくださるまで、変わりませんでした。また、世の終わりのみ国の完成に至るまでも変わりません。

 13節の「聖なる住まい」とは、約束の地カナンを指すと考えられます。14節以下のペリシテ、エドム、モアブなどは約束の地カナンにもともと住んでいた民族を指しますから、ここではすでにイスラエルの民が約束の地に到着することが暗示されていると言えます。葦の海の奇跡は、荒れ野の40年間の旅を安全に守り導かれるという神の保証であるだけでなく、カナンの地を与えるという神の約束の保証でもあったのです。

 最後に、紅海の奇跡の出来事は、旧約聖書においても新約聖書においても、イスラエルの出エジプトと並んで大きな出来事として、何度も繰り返して思い起こされ、歌われ、告白されてきました。その一部を読んでみましょう。最初は、【申命記11章4節】(298ページ)。次に【詩編136編13~15節】(977ページ)。新約聖書では【ヘブライ人への手紙11章29節】(356ページ)。出エジプトと紅海の奇跡を行われた主なる神、そして主イエス・キリストによって全人類の救いをなし遂げてくださった父なる神を、わたしたちは永遠にほめ歌い、告白していきましょう。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの慈しみは永遠であり、すべての人間たちの思いや行いをはるかに超えて、あなたはその救いのみわざを実現されます。わたしたちは唯一の主なる神であるあなたを誉め歌い、告白します。どうぞ、今この世界にあっても、あなたのみ心が行われますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

4月5日説教「主キリストの死と復活から始まる新しい命」

2026年4月5日(日) 復活日(イースター礼拝)

秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編16編1~11節

    コリントの信徒への手紙一15章12~20節

説教題:「主キリストの死と復活から始まる新しい命」

 きょうは主イエス・キリストの復活を記念する復活日、イースターです。教会で日曜日に礼拝がささげられるようになったのは、主イエスが復活された日が日曜日の朝であったので、それまではユダヤ人の安息日は土曜日でしたが、この日に変更されたということは知っておられると思います。いつからそうなったのかについては、正確な記録は見つかっていませんが、紀元30年ころに教会が誕生してから、そんなに期間を置かずに、日曜日の礼拝が定着したのではないかと推測されます。というのも、ヨハネ福音書の終わりの箇所に書かれているように、日曜日の朝に最初に墓で主イエスの復活の知らせを聞いた婦人に続いて、その日の夕方には弟子たちが集まっている場所に復活された主イエスがそのお姿を現わされ、そして1週間後の日曜日にも、また弟子たちの集まっていた場所に復活の主イエスが現れたということがあったからです。主イエスが復活されてから天に上られる昇天の日まで、40日間にわたって、主イエスは多くの弟子たちに復活のお姿を現わされました。その経験から、日曜日にはまた復活の主イエスにお会いできるであろうという期待、願い、信仰が自然に生じてきたことが、容易に推測できるからです。

 コリントの信徒への手紙一15章で、使徒パウロは初代教会の信仰告白を引用して、こう書いています。【3節b~8節】。主イエスの復活という出来事はこのような多くの、多種多様な証人たちの証言と信仰によって支えられ、証明され、証しされているのです。そして、それから2千年の世界の教会の歩みの中で、事実、多くの信仰者が、日曜日、主の日の礼拝の中で、復活された主イエス・キリストと、信仰によって、霊的な体験によって、生きた出会いを経験してきたのです。主イエス・キリストの復活はキリスト教信仰と教会誕生の土台であり基礎であると言えます。それだけでなく、主キリストの復活はわたしたちの信仰と教会の存在、そしてその命のすべてを支える土台であり基礎でもあります。

きょうの礼拝で朗読された14節にこのように書かれています。【14節】。また、【17節】。先ほど述べたように、キリスト教の信仰と教会の存在が主キリストの復活にその土台と基礎を持っているということが、ここではその反対側から語られています。それによって、その事実がより強調されているのです。すなわち、もし主キリストの復活がなければ、キリスト教の信仰も教会の誕生もあり得なかったではないか。しかし、今現在、コリントの町に教会が建てられ、あなたがた信仰者が存在し、そして主の日ごとに礼拝がささげられているという確かな現実をあなたがたは見ており、経験しているではないか。そうであるとすれば、いったい誰が、どのようにして、主キリストの復活なんてなかったなどと言うことができるであろうか。パウロはそのように言って、主キリストの復活の確かさを再確認しているのです。

 いつの時代でも、主イエスの復活を信じきれない、そんなことが実際にあったなどとは考えられないという意見を言う人がおります。主イエスの時代も、今日でも同様です。おそらくは、人間はみなそれほどに死に支配され、死の恐怖から逃れられないからでしょう。あるいは、死に敗北せざるを得ないからでしょう。32節にこのように書かれています。「もし、死者が復活しないとしたら……」【32節】。人間は誰も死に勝利することはできません。死の前では、諦めるか、無視するかしかできません。

 でも、パウロは15章の終わりで、ただお一人、死に勝利された主イエス・キリストを仰ぎ見ながら、このように勝利宣言をしています。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか……」【54~57節】。主イエス・キリストは十字架の死と三日目の復活によって、死のとげである罪に勝利されました。人間を死の中に閉じ込めていた罪を取り除き、神との生ける交わりを回復してくださったのです。そのようにして、主イエスを信じる信仰者たちにも勝利の約束をしてくださったのだと、パウロはこの復活の章と言われている15章を締めくくっています。そのようにして、主キリストの復活を信じきれないわたしたち人間に、復活信仰を持つことができるように、希望を与えてくださったのです。

 さて、パウロがこの手紙で取り上げている復活信仰をめぐる問題点のもう一つの課題は、12節に書かれてあるように、「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などないと言っている」こと、つまり、主キリストの復活は教会の信仰告白として受け継がれてきたのだから、そのことは信じるとしても、わたしたち人間が死んでから復活するということは信じられない、という人がコリントの教会の中にいたということです。

 この人たちがなぜ死者の復活を否定していたのかについては、いくつかの推測がなされています。この人たちは主イエス・キリストの十字架の死と復活を信じている信仰者ですから、彼らが信仰者の復活、人間の復活を信じないことには特別な理由があったと考えられます。その一つが、当時一般的であったギリシャ思想によって、霊魂不滅を信じていたという理由です。人間が死んで肉体は朽ちていくが、霊魂は永遠に生きるのだから、肉体の復活には重要な意味を見いだしていなかったからです。それが、哲学者プラトン以来のギリシャ思想の流れでした。キリスト教会にもそれが影響を与えました。

 死者の復活を否定したもう一つの理由として考えられているのが、初期のキリスト教会の中で起こった熱狂的な信仰運動で、今日グノーシス派と呼ばれている人たちの考えです。彼らは、洗礼を受けてキリスト者となったときに神の霊を受けて、神との深い霊的な交わりの中に招き入れられているので、すでにその時に復活が済んでいる。だから、終末の時の復活を期待する必要はないと考えていました。

 死者の復活を否定している彼らに対して、パウロはここで具体的な反論はしていません。パウロが彼らの考えが間違っている理由として挙げているのは、ただ一つ、主キリストご自身の復活の事実です。また、その主キリストの復活の事実が死者の復活と切り離しがたく、密接に結びついているということだけを語ります。【13節】。もし、死者の復活を否定するならば、主キリストご自身の復活をも否定することになるではないか、と。そうなれば、主キリストの復活を信じる信仰から始まったあなたがたの信仰生活と教会の存在は、何ら根拠のない偽りの証言によって始められたことになり、そのすべては全く空しくなってしまうのではないか、と。また、【14節】。そのようなことはあり得ないのだから、主キリストの復活を信じているあなたがたは、死者の復活をも信じる信仰へと招かれているのであり、それを信じるべきなのだ、と。

 わたしたちはここで死者の復活を否定していた理由として挙げた、ギリシャ思想の霊魂不滅の考えと、グノーシス派の復活はすでに済んだという考えの誤りについて少し考えてみたいと思います。この二つの考え方に共通している誤りは、そこでは人間の罪と死という事実が真剣にとらえられていないということです。人間の霊魂が永遠に生きるとか、神との直接的・霊的交わりによって永遠の命をすでに獲得しているという神秘的な考えは、人間の罪と死の現実を軽視させることになります。それは聖書の本来の教えではありませんし、キリスト教の正しい信仰でもありません。もし、彼らの考えのとおりだとするならば、なぜ天におられる神が人となられ、肉体をまとわれてこの世においでになられたのでしょうか。なぜ、神のみ子・主イエス・キリストが十字架で苦しまれ、血を流され、死なれたのでしょうか。それは、人間の罪のためであり、人間の罪に対する神の裁きとしての死を、罪なき神のみ子が経験されるためでした。主イエスはわたしたち人間の罪と取り組んで戦われ、わたしたちを罪の支配から救い出すために、十字架で苦しまれ、そして死なれたのです。ご自身の神のみ子としての尊い命をささげ尽くして、わたしたちの罪を贖ってくださったのです。罪の支配から買い戻してくださったのです。そして、主イエスは三日目に復活され、わたしたち人間の最後の最も恐るべき敵である罪と死に勝利されたのです。神のみ子である主イエス・キリストの十字架の死と復活こそが、ただそれのみが、わたしたちの罪と死の問題に正面から取り組み、文字どおりに命をかけて取り組み、またその解決と救いの道をわたしたちに与えるのです。

 では、どのようにして、主イエスの罪と死に対する勝利が、わたしたちの勝利となるのでしょうか。【20節】。旧約聖書のレビ記23章によれば、イスラエルの民は神の約束の地に到着して、春に大麦の収穫をするときに、その最初の穂を神にささげなさいと命じられています。初穂の祭りと言われます。それは、約束の地へと導かれ、その地を祝福して収穫をお与えくださった神に感謝するとともに、その初穂に続いて次々と豊かな収穫をお与えくださる神の約束を信じ、感謝するためです。初穂には、次の収穫が確かに続くという神の約束を伴っています。それと同じように、主キリストの復活には、わたしたち信仰者の復活がそれに続くという確かな約束を伴っているのです。

 パウロはその約束の実現の時について、23節以下で次のようにいます。【23~26節】。そのようにして、最後の敵である死が完全に滅ぼされるときに、主キリストの復活を信じる信仰者に主キリストと同じ勝利が与えられるのです。

 キリスト教信仰と教会の歩みは、主キリストの死と復活から始まっています。罪と死に対する主キリストの勝利から始まっています。わたしたちの信仰の歩みも同様です。それゆえに、わたしたちはどのような試練の時にも、苦しみや痛み、悲しみの中にあっても、そして死に臨んでも、決して希望を失うことなく、落胆することなく、神が約束しておられる終わりの日の勝利を目指して、歩み続けることができるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、主イエス・キリストの復活を記念するこの日の礼拝に、わたしたち一人一人をお招きくださいました幸いを心から感謝いたします。わたしたちの周辺には、あなたのみ心を痛めるような、さまざまな混乱や分断、争いがあり、悪と不正義が弱く貧しい人々を不安と困窮におとしいれています。主よどうか、この罪に支配されている世を憐れんでください。救ってください。主イエス・キリストの十字架と復活の福音が全世界に宣べ伝えられますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。