4月26日説教「思い悩むな。ただ、神の国を求めなさい」

2026年4月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:詩編39編1~14節
    ルカによる福音書12章22~34節
説教題:「思い悩むな。ただ、神の国を求めなさい」

 ルカによる福音書の特徴の一つが、この世の富や財産に対する人間の欲望についての問題を多く取り扱っているという点にあることを、前回の12章13節以下の愚かな金持ちのたとえの箇所で学びました。この世の富や財産を追い求める人間の果てしなき欲望が、人間の本当の命が何であるのかを見失わせ、人間の命の主であられる神を見失わせ、自らが死すべき存在であることを見失わせている。そして、ついには、神によって最も賢く、尊い生き物として創造された人間を、他のすべての生き物よりも愚かな存在としている。ルカ福音書はそのことをわたしたちに気づかせようとしているのです。
今日の豊かさを求める世界、現実主義的で自己の欲望を追及する社会、人間の知恵や知識が賞賛される世界に住んでいるわたしたちにとって、ルカ福音書は、また聖書全体は、厳しい挑戦状を突きつけているのです。あなたが本当に追い求めるべきものは何なのか、あなたの本当の命はどこにあるのか。あなたが今一番大切なものとして追い求めているものが、本当にあなたを生かすものなのかどうか。本当の幸い、平安、喜び、救いはどこにあるのか。そのことを、聖書はわたしたちに問いかけ、語りかけてくるのです。
 きょうの箇所でも、同じテーマが取り扱われています。ここで、主イエスは繰り返して「あなたがたは思い悩むな」と語っておられます。【22節】。同じような言葉は【29節】にも。また【25~26節】。
わたしたち人間は思い悩む生き物であることを、主イエスは良く知っておられます。というよりも、人間だけがすべての生き物の中で唯一思い悩む生き物であるということを、主イエスはわたしたちに気づかせようとしておられるのでしょう。わたしたちがそのような愚かな者になっていることに気づかせ、いや、そうではない、神はあなたがた人間を最も神に近い者として、神に似た者として創造され、最も神に愛されている者として、神はあなたに必要なすべてのものを備えていてくださるのだから、思い悩むな、思い悩む必要などないということを、わたしたちに信じさせようとしておられるのです。
 では、主イエスの「思い悩むな」というみ言葉からみていくことにしましょう。この否定的命令形は、「恐れるな」というみ言葉と似ています。これは、思い悩むことは良くないことだからやめなさいとか、思い悩んでもどうにもならないし、それは非生産的だからやめなさい、という理由で、思い悩むことを禁止しているのではありません。主イエスが「あなたがたは思い悩むな」とお命じになるときには、第一には思い悩むことを禁止し、否定する命令です。それだけではありません。その思い悩みそのものを取り去る約束のみ言葉でもあるのです。主イエスが「思い悩むな」とお命じになるときに、主イエスはわたしたちからその思い悩みを取り去ってくださり、それに代わる平安や喜び、希望、そして信仰をお与えくださるのです。そうすることによって、主イエスはわたしたちをすべの思い悩むことから解放されるのです。そのことを信じて、きょうのみ言葉を学んでいきましょう。
 思い悩むとは、心がいくつにも分裂している状態のことを言います。主イエスはここで、「何を食べようか、何を着ようか」と二つの思い悩みを挙げていますが、これはたくさんある思い悩みの代表であり、そのほかにも実に数えきれないほど多くの事柄に、わたしたちの心は分裂していきます。あれが欲しい、これにも心が奪われている。心がいくつにも分かれ、その方向性を失ってしまう。そして、欲しいものが手に入らないとき、思いどおりに事が進まないときに、不満が募り、不安に襲われ、思い悩みがいよいよ増し加わる。思い悩む人間は、さらに思い悩みを拡大させていくしかない。その人は決して満たされることはない。それが人間の姿です。
 主イエスは、いくつにも分裂したわたしたち人間の心を一つの方向に向かわせるために、まずわたしたちの目を空の鳥や野原の花へと向けさせます。そしてその次には、空の鳥や野原の花をさえ日々に養っておられる神へと、わたしたちの心を向けさせます。【24節】。
主イエスは空の鳥の中でも特にカラスを例に挙げています。カラスは、日本でもそんなに好まれる鳥ではなく、不気味で不吉な予感させさせる鳥と考えられています。聖書では、神にささげることができる聖なる生き物から除外され、食べてはならない宗教的に汚れた生き物に数えられています。そのようなカラスでさえも、あくせくと働いたり蓄えたりすることなく、思い煩うこともしないのに、神は彼らを養っておられるではないか。そうであるならば、カラスよりもはるかに価値があるあなたがた人間を、神はさらに大きな愛と恵みとをもって養ってくださらないはずがあろうか、と主イエスは言われます。
 続けて主イエスは27節以下では、野原の花へとわたしたちの目を向けさせます。【27~28節】。野原の花とは、パレスチナ地方によくみられるユリであろうと考えられています。アネモネ、あるいはグラジオラスと考える人もいますが、いずれもパレスチナ地方の春を彩る花です。その美しさ、神秘的な生命の不思議には、人間の手が全く加えられていないにもかかわらず、華やかに繫栄したソロモン王でさえも、その花の一輪にも見劣りがするではないかと、主イエスは言われます。野原の花は自ら手入れをして着飾ったり、あくせくと働くこともしません。そうであるのに、神はその野原の花をもこれほどに美しく装ってくださり、養い育ててくださいます。そうであるならば、野原の花よりもはるかにまさった者であり、尊い存在であるあなたがた人間を、神はさらに大きなご配慮と恵みとをもって愛してくださらないはずがあろうか、と主イエスは強調されます。
 ここで重要なポイントは、24節の「あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか」というみ言葉、また28節の「まして、あなたがたにはなおさらのことである」というみ言葉です。ここでは、鳥や花と人間とを単純に比較して、どちらが尊いかを比較しているのではありません。むしろ、比較できないほどの違いがあるではないかということを強調しているのです。
この決定的な違いを理解するには、信仰が必要です。主イエスは28節で「信仰の薄い者たちよ」と呼びかけておられます。空の鳥や野原の花を見て、そこから神の偉大なる愛を理解するに至るためには、信仰が必要なのです。空の鳥や野原の花よりも、はるかに大きな愛によって神がわたしたち人間を愛しておられるということを正しく知るためには、信仰が必要なのです。
 ここで一つ注意しておかなければならないことは、主イエスはここで、いわゆる自然神学を語っておられるのでは決してないということです。自然の美しさや神秘的な様子を見て、そこから神の存在を感じたり、神の創造の偉大さを知るということは、ある程度は誰でもが認識することができます。でもそれは、人間の感情や感覚の作用にすぎません。そこに信仰がなければ、本当の意味での救いや平安、慰めを得ることはできません。主イエスのみ言葉を正しく理解するためには、信仰が必要なのです。神が主イエス・キリストによってわたしたち人間をどのように愛してくださったか、神がその独り子をわたしたちにたまうほどにわたしたち人間を愛してくださったという福音を信じる信仰が、必要なのです。
 もう一つ重要な点は、主イエスはここでわたしたちの目を空の鳥や野原の花に向けさせ、次にその鳥や花を創造された神へとわたしたちの目と心とを向けさせておられるということです。最終目的は、わたしたちが天地万物を創造された神へとわたしの全身を向けるということが主イエスのみ心だということです。それによって、わたしたちをすべての思い悩みから解放することが主イエスのみ心だということです。
 わたしたちはここで創造者なる神のことを知る必要があります。神が天地万物を創造されたことについては、創世記1章と2章に詳しく語られています。天地創造の初めに、神は第一日目に光を創造されました。次に、その光の中で、大空と海と乾いた地とを創造され、草や木、空に光る太陽や月、地に住む生き物、それを飛ぶ鳥を創造され、最後の第六日目に、人間を創造されました。
人間の創造には特別な神の配慮がありました。一つには、人間が生きるためのすべての舞台が整ってから、最後に人間を、すべての被造物の冠として創造されたということです。もう一つは、人間をご自身お姿に似せて創造されたということです。人間は他のどの生きものよりも神に似ている存在として、神の近くに存在する者として、神のみ心を知る者として、神のパートナーとして創造されたのだと、創世記は語っています。
また創世記2章7節には、神は土の塵で人間を造られ、命の息をその鼻から吹く入れて、人間を生きる者にされたと書かれています。人間は神の息を吹き入れられることによって、はじめて生きる者となったのです。神の息がなければ、人間はたちまちにして土に帰るほかありません。
人間を旧約聖書の言語であるヘブライ語ではアーダームと言います。土はアダマーです。発音が非常によく似ています。わたしたち人間は土・アダマーから造られた人・アーダームなのです。旧約聖書の民ヘブライ人は、そのことを決して忘れませんでした。それゆえに、人間は神の命の息を吹き入れていただかなければ、本当に生きることはできないのだということを、決して忘れなかったのです。
 最後に、わたしたちの目を空の鳥と野原の花へと向け、さらには天地万物と人間を創造された神へと向けさせ、わたしたちをすべての思い悩みから解き放ってくださる主イエスご自身へと目を注がなければなりません。主イエスは、ほかでもないわたしたち人間を罪から救うためにご自身の尊い命を十字架におささげくださったのです。わたしたちの命と存在のすべては、神のみ子の尊い犠牲の血によって買い戻され、もはや罪の奴隷ではなく、主イエス・キリストのものとされたのです。ここにこそ、わたしたち人間の命と存在を他のすべての生きものよりも尊く、価値あるものとしている根拠があるのです。
 使徒パウロはローマの信徒への手紙8章32節でこのように書いています。「ご自身のみ子をさえ惜しまずに死に渡された神は、み子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがあるでしょうか」と。その大きな神の愛によって愛されているわたしたち人間に、神はわたしの命に必要なすべてのものを備えてくださらないことなどありません。その信仰に生きるとき、わたしたちはすべての思い悩みから解放されるのです。

(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、わたしたちはこの世の過ぎ去りゆくものに目と心とを奪われ、しばしばあなたを見失ってしまうことがあります。主よ、どうかわたしたちをあなたの命のみ言葉のもとにつなぎとめてください。主イエス・キリストによってあなたがわたしたちにお示しくださった大いなる愛の中に、わたしたちをつなぎとめてください。そして、まことの平安と救いの喜びとを、お与えください。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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