5月3日説教「ローマに福音を告げ知らせる責任」

2026年5月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書40章3~11節

    ローマの信徒への手紙1章8~15節

説教題:「ローマに福音を告げ知らせる責任」

 パウロがローマの信徒への手紙を書いたのは、彼の第三回世界伝道旅行の終わりころ、コリントの町に滞在していた紀元58年ころと推測されています。この時点で、パウロはまだローマに行ったことはなく、ローマの教会との交流もほとんどありませんでした。ちなみに、ギリシャ地方のコリントからイタリア半島のローマまでは、直線距離でアドリア海を挟んで北西に1200キロ以上も離れています。

 そのローマにある教会になぜパウロが手紙を書くことになったのか、その理由が1章8節以下に書かれています。ここには、パウロがどんなにかローマ行を熱望していたか、そのパウロの熱い思いが語られています。なぜパウロがこの手紙を書いたのか、またなぜ彼がローマの教会を尋ねたいと願ったのかを、きょうのみ言葉から聞き取っていきましょう。

まず、8節でパウロは、「あなた方の信仰が全世界に言い伝えられていることを神に感謝する」と書いています。ローマに主キリストの教会が建てられている、そこに主イエス・キリストを主と信じ、唯一の救い主と信じている信仰者の群れが形成されている。そのことが全世界的な、大きな意味を持つことなのだというのです。ここからわたしたちは、ローマに主キリストの教会が存在しているということに対して、パウロが特別な重要性を見いだしていたということに気づかされます。

当時から、「すべての道はローマに通じる」と言われており、ローマの町はローマ帝国の首都であると同時に、全世界の中心都市であり、全世界のあらゆる民族が集まり、あらゆる文化、思想、経済、そしてこの世の権力のすべてがここに集中していました。ローマ皇帝カイザルがここから世界を支配していました。そのローマに、一握りの小さな信仰者の群れが存在している。この地上の世界にルーツを持つのではなく、神の国に本来の国籍を持ち、この世の権力に従うのではなく、十字架につけられ三日目に復活された主イエス・キリストに全き服従を誓い、復活して天に昇られた主イエス・キリストを唯一の主と信じる小さな信仰者の群れが存在している。そのことの、大きな、驚くべき意味を、パウロは知っています。そして、彼らと同じ信仰を持つパウロが、彼らと直接に会って信仰の交わりを深め、彼らの信仰の闘いに共に参加し、同じ信仰を共に告白したい、そのようにパウロは願ったのです。

この手紙を書いたもう一つの直接的な理由が15章22節以下に書かれています。それによれば、パウロは、当時世界の果てと考えられていた、ヨーロッパ大陸の西の果てイスパニア(今のスペイン)にまで福音宣教の足を延ばしたいと願っていましたが、そのためにローマを拠点にして、ローマ教会の支援を受けてイスパニア伝道を始めたいという計画があったのでした。パウロがそう願ったのは、ローマの教会に自分の働きのために支援をお願いしたいとの思いからだけではありません。ローマの教会が他の教会のために仕える教会になるということは、その教会にとって大きな祝福となるからです。世界の中心都市であるローマに建てられた教会が、世界に仕える教会となることによって、ローマの教会はいよいよ祝福された教会となるのです。

そのようなわけで、パウロはまだ会ったことがないローマの教会に、自分のことを知ってもらうために、いやそれ以上に、彼が携えていく主キリストの福音がどのようなものであるのかをあらかじめ知ってもらうために、この手紙を書いたのです。

パウロがどれほど熱心にローマ教会訪問を強く願っていたかは、きょうの箇所にそのことが繰り返して書かれていることから十分知ることができます。9、10節では、「わたしが祈るときにはいつも……願っています」【9~10節】。11節でも、「あなたがたにぜひ会いたい」、15節では、「ローマにいるあなたがたにも……告げ知らせたい」【15節】き。これらから、パウロがどんなにかローマ教会訪問を強く願っていたかが伝わってきます。ローマ行きはパウロの長年の祈りであり、切望であったのでした。

パウロがこれほどまでにローマ教会訪問の思いを繰り返して語ることには、今挙げた理由のほかにもあったことが、13節から推測されます。【13節】。パウロのローマ行の計画が何回も妨げられてきたと彼は言います。何によって妨げられたのかは分かりません。彼が他の地域での宣教活動に忙しかったからか、あるいは外部から何らかの妨害があったからか、彼自身の心境のことかは分かりません。ある人はこう推測します。パウロは世界の大都市であるローマで宣教することを怖がっていたので、何かにと理由をつけて行きたがらなかったのだと言っている人たちが周囲にいたのではないか。あるいは、パウロは他の人が建てた教会へは行きたがらなかったのではないか。自分が建てたコリントの教会へ何度も出かけていくのに、ローマの教会はそうではないから積極的に行こうとしなかったと言っている人たちがいたのではないか。そういう人たちに対して、パウロはここで弁明しているのではないか。そのように推測する人もいます。

どのような理由にせよ、パウロのローマ行きの願いは決して失われることはありませんでした。妨げられれば妨げられるほどに、その思いはいよいよ強まるばかりです。もしパウロの願いが、人間の思いから出たものならば、彼自身の名誉とか自己保身とかがその理由であったのであれば、その願いは妨げにあって、やがて消え去るほかになかったでしょう。けれども、そうではなかったことは確かです。妨げにあえばあうほどに、彼の願いは強くなっていったのでした。それは、彼自身の願いというよりは、彼が仕えていた主イエス・キリストと父なる神に押し出されて、主キリストの福音を宣べ伝えるという、彼に託された使命感から湧き上がる熱意だったというべきなのでしょう。もっと言えば、それは神のみ心によることであり、主キリストのご命令によることなのです。神のみ心、神の救いのご計画は、あらゆる困難やこの世の鎖をも断ちきって、前進するからです。

そのことを、9~10節から読み取ることができます。【9~10節】。パウロはここで、ローマ教会訪問計画が決して一時的な思いつきではなく、偽りでもないこと、真実で切実なものであること証しする証人として神を立てています。更に、その神とは、彼が全身全霊を傾けて、み子イエス・キリストの福音を宣べ伝えるために仕えている神であると言っています。この神が、パウロのローマ教会訪問の願いと計画が真実であることを証明してくださるということは、そもそもそれが神のみ旨なのであり、神のご計画であるということをパウロが信じていたということにほかなりません。パウロがローマに行くこと、そこで主キリストの福音を宣べ伝えることは、彼を使徒として召してくださった神、特にユダヤ人以外の異邦人に福音を語るように召してくださった神ご自身の意志なのだと、パウロは固く信じていたのです。それゆえに、その計画はどのような妨害にあおうとも、変更されることはないのです。

10節で「何とかしていつかは神の御心によって」というパウロの祈りは、わたしたちが『主の祈り』の第二の祈願で、「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈る祈りと同じです。どのような困難な状況にあっても、前方にどのような厚い壁が立ちふさがっていようとも、「神よ、あなたのみ心がなりますように」と祈ることは、パウロに許されている祈りであるとともに、わたしたちにも許されており、また命じられてもいる祈りです。

パウロのローマ行きの祈りがどのようにしてかなえられたかは、使徒言行録21章以下で知ることができます。それは、誰も、おそらくはパウロ自身も予測できなかった、全く奇しき神のご計画でした。第三回世界伝道旅行を終えてエルサレムに帰って来たパウロは、ユダヤ人たちによって捕らえられ、裁判を受けることになったのですが、ローマの市民権を持っていたパウロは皇帝の法廷に上訴します。数年後、彼は囚人として、ローマに護送されることになったのでした。

ローマに着いたパウロがその後どうなったのかについては、使徒言行録は何も記してはいませんが、すぐ前のページの使徒言行録28章30~31節にはこのように書かれています。【30~31節】。ここには、「まったく自由に何の妨げもなく」と書かれています。ローマ行きを何度も妨げられてきたパウロでしたが、今やそのローマで、何の妨げもなく、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えることができたのでした。神のみ心はこのようにして実現したのです。

11節からは、ローマ教会訪問の具体的な目的が書かれています。【11~12節】。「霊の賜物を分け与えて力づけ、お互いの信仰を励まし合う」ことがその目的です。これこそが、教会と教会が交わる際の、また信仰者と信仰者が交わる際の、最も大きな目的です。お互いの安否を問い合うとか、それぞれの町の特産品を交換するとか、教会の情報や課題を分かち合うことも有益ではあります。しかし更に大きな恵みは、霊の賜物を分かち合うこと、同じ信仰に立つ者たちとして励まし合うことにあります。

「霊の賜物」とは、神から一人一人に与えられた、あるいはまた教会に与えられた恵みのことです。その人が自分の能力や努力で手に入れたものではなく、むしろ、自分が神のみ前に貧しく無力なものに過ぎないことを知り、ただひたすら神から与えられた恵みによって生きようとする者に、神から賜る恵みのことです。主イエスはそれをタラントと言われました。霊の賜物、恵み、タラントを神から与えられ、それを感謝する人は、他の人にそれを分かち与えます。分かち与える人は、いよいよ豊かに与えられます。

「信仰による励まし合い」も同じです。パウロにとっても、またローマの教会にとっても、その時代の中で、その地にあって、信仰に生きるということは、多くの労苦に満ちていました。信仰の闘いの連続でした。もし、自分の信仰のことだけを考えていたら、やがて疲れ、倒れてしまうかもしれません。けれども、同じ信仰の闘いをしている者たちが、互いに祈り合い、支え合い、直接に顔を合わせてその信仰を確認し合うことは、どんなにか大きな励ましであり、慰めとなることでしょうか。

使徒パウロは一人で立っているのではありません。ローマの教会もそうです。共に主キリストによって立つことを許されているということを確認し合うことによって、共に励ましを与えられるのです。

最後に、14節の「果たすべき責任がある」という言葉に注目したいと思います。直訳すれば「負債(つまり借金)がある」という意味です。この言葉はしばしば人間の罪を言いあらわす際に用いられます。主イエス・キリストによって1万タラント(数百億円)もの大きな罪の負債をゆるしていただいたパウロは、またわたしたちは、他の人たちを罪のゆるしへと導くための負債を負っているということです。わたしたちはみな主キリストの福音を宣べ伝えるという、喜ばしい責任を負っているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、主イエス・キリストの福音が全世界のあらゆる町々村々に宣べ伝えられ、主キリストの教会が建てられています。あなたはそのすべての宣教活動を導き、支えておられます。主よ、どうかその一つひとつの教会をあなたがいよいよ祝福してくださり、あなたを信じる民を増し加えてくださいますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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