2026年5月10日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:出エジプト記15章22~27節
ヘブライ人への手紙3章7~15節
説教題:「荒れ野へと導かれたイスラエルの民」
イスラエルの民がエジプトの奴隷の家から脱出した出エジプトがいつの時代のことであったのかについては、諸説があって確定されていません。出エジプトの出来事は聖書の記述以外には、他の記録は全く発見されていません。エジプト側の記録にもありません。したがって、聖書の記述から推測する以外にありません。一つのヒントになるのが、出エジプト記1章11節に、「イスラエルの人々はファラオの物資貯蔵の町、ピトムとラメセスを建設した」とあることから、このラメセスの町とは、エジプト第19王朝のファラオ、ラメセスⅡ世が建設したラメセスの家であろうと推測し、そこから出エジプトは紀元前1280年代であろうというのが、最も有力な説です。また、前回学んだ、いわゆる「紅海の奇跡」も、今日の紅海の海を指すのではなく、葦の草が生えている湖での奇跡であろうと考えられています。更に、わたしたちがこれから学ぼうとしている荒れ野の地名の多くについても、今日その場所を特定できていないものがほとんどで、荒れ野での40年間の行程を正確にたどることはできません。
このように、歴史的に、また地理的には不明確な点が多くありますが、出エジプトという出来事そのものが持つ意義、その影響力、その救いの恵みの大きさ、偉大さについては、誰も疑うことはできません。旧約聖書の民であるイスラエルにとっては、出エジプトはイスラエルの民誕生の出来事であり、イスラエルに対する神の救いの恵みの原点であり、またイスラエルの信仰と命の原点でありました。彼らは荒れ野の40年間の旅を続け、ついに神の約束の地カナン到着し、そこで神の契約の民、信仰の民、神を礼拝する民として生きるのですが、彼らは常に繰り返して、この信仰と命の原点に立ち帰るべきことを忘れませんでした。それは、わたしたちキリスト者がいついかなる時にも、わたしたちの救いと信仰の原点である主イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事を忘れてはならないのと同様です。
では、きょうは出エジプト記15章22節から読んでいきましょう。22節の初めに、「モーセはイスラエルを、葦の海から旅立たせた」と書かれています。イスラエルの民にとっては、出エジプトの出来事と、それに続く葦の海の奇跡は、同じほどの重要な意味を持っていました。葦の海の奇跡は、特に彼らの荒れ野の40年間の困難な旅を導く神の確かな保証となりました。すなわち、イスラエルの民が一方からはエジプトの強大な軍隊に追われ、もう一方では海が彼らの行く手を阻んで、もはや絶体絶命の危機にあったとき、神がその強いみ手によって海の水を二つに分け、彼らを安全に通らせたように、荒れ野の長く困難な旅をも、神は彼らが生きるのに必要なすべてのものを備えてくださり、彼らをカナンの地まで必ずや導いてくださるという約束を与えられているのです。荒れ野は砂漠地帯が広がり、人間が生きるために最低限必要な水や食料をほとんど得ることができません。畑を耕す土も野菜に必要な水もありません。けれども、彼らを荒れ野へと導かれた神は葦の海の奇跡を行われた神です。その神が荒れ野の40年間の旅にも、絶えず彼らと共にいてくださるという約束を、彼らは与えられているのです。それゆえに、彼らはこれから待ち受けるであろう多くの困難を少しも恐れることなく、葦の海の奇跡から荒れ野へと旅立っていくことができるのです。
わたしたちは新しい一週の歩みを礼拝から始めます。この礼拝で、主なる神がイスラエルの民に対してなされた奇跡のみわざを聞き、また主イエス・キリストの十字架と復活の福音を聞き、その神の救いの救いの恵みから、一人一人の新しい一週の歩みを始めることを許されています。たとえ、わたしの一週の歩みにどのような困難が待ち受けていようとも、予期せぬ突然の試練があろうとも、わたしは恐れることはありません。神の救いの恵みから出発し、常に変わらずに神がわたしと共におられ、救いの恵みをもってわたしを導いてくださるからです。
この神の約束は、前回学んだモーセとイスラエルの民が歌った葦の海の歌の中でもすでに暗示されていました。15章12節の【12節】は、葦の海の奇跡でエジプトの軍隊が海の底に沈んだことを歌っていますが、次の【13節】では、荒れ野の旅を神が導かれることを、また約束の地カナンでの神の聖なる住まいとなるエルサレム神殿をもあらかじめ暗示しているように思われます。神の出エジプトと葦の海での奇跡のみわざが、あまりにも大きくあり、偉大であり、救いの恵みに満ち溢れているために、その力と影響力とが荒れ野の40年間の旅にも、更には約束のカナンでの新しい生活全体にも及んでいるということを歌っているように思われます。
そのようにして、モーセとイスラエルの民は荒れ野への第一歩を踏み出したのです。彼らはシュルの荒れ野から三日目にはマラに着いたと書かれていますが、この二つの地名を今日正確に特定することはできません。おそらくは、葦の海からシナイ半島の西、あるいは南の方角へと進んだと推測されます。この方角は、前にも触れましたが、エジプトからカナンの地、今日のパレスチナ地方へと向かう最短の道、すなわち地中海沿岸を北上するペリシテの道と呼ばれていたルートとは違っていたことは確かです。当時からよく整えられていたペリシテの道を通れば、どんなにゆっくりと移動しても1、2か月で約束の地へと到着できたのに、神はあえてイスラエルの民を荒れ野へと導かれ、40年もの長い間荒れ野をさまよわせたのでした。それは、イスラエルに対する神の愛の訓練のためにあったと、聖書は繰り返して語っています。今一度、申命記8章2~6節を読んでみましょう。【2~6節】(294ページ)。
さて、荒れ野へと導かれたイスラエルの民は、三日間飲み水を得ることができずに、マラに着いた時、ようやく水のある場所を見つけましたが、そこの水は苦くて飲むことができなかったので、民はモーセに不平を言ったと書かれています。神の愛による訓練を受けているイスラエルの民は早くもその訓練につまずきました。彼らの不平は、この後にも何度も繰り返されます。【16章2節】。また【17章3節】(122ページ)。神の愛による訓練の期間は、イスラエルの繰り返しの不平の時でもあったのです。彼らは神の救いの恵みを忘れ、神の約束の言葉を疑い、何度も指導者モーセに不平を言い、神に背くのです。神の愛と救いの恵みがイスラエルに注がれる時、同時にイスラエルの不従順と罪が明らかにされるのです。神の愛と救いの恵みを受け取るに値しないイスラエルの罪、その愛と恵みに感謝をしないイスラエルの罪、すぐに忘れてしまい、不平や不満を言う罪、荒れ野の40年間の神の訓練の期間、そのようなイスラエルの不従順と罪が繰り返されます。
しかし、神はこのような罪のイスラエルを決してお見捨てになることはありません。神はモーセに一本の木を示されました。モーセがその木を水に投げ込むと、水は甘くなり、飲めるようになったと25節に書かれています。神はここでも奇跡をもってイスラエルの民を救われました。彼らの命をつなぐ水をお与えくださいました。それだけでなく、25節後半にはこのように書かれています。【25節b~26節】。ここで「彼」と言われているのが、モーセ個人を指すのかイスラエルの民を指すのかははっきりしませんが、その両者と考えてよいでしょう。イスラエルの民の指導者として立てられているモーセに与えられた恵みは、民全体に与えられた恵みでもあります。神は苦い水を甘い水に変えられただけでなく、彼らに「掟と法」を与えられました。掟と法の内容が何であったかは書かれていませんが、イスラエルの民は神がお与えくださった奇跡の水、甘い水を飲んで肉体を癒し、力づけることが許されただけでなく、神の言葉である「掟と法」をも与えられ、彼らの魂がまことの命によって生きるための言葉を与えられたのです。この掟と法は、のちに20章でモーセの十戒として、また契約の書として具体的な文書になって彼らに与えられることになります。
イスラエルの民は神がお語りくださる神の言葉に聞き従い、その神の言葉を彼らの歩みと生活の中で行うことによって、神のみ心を実現し、それによって神によって救われた民であることを証しするのです。それが、エジプトの奴隷の家から導き出されたイスラエルの民の信仰の歩みであり、そして葦の海の奇跡によって救われた神の民の新しい生き方になるのです。
わたしたちはここで、旧約聖書の民イスラエルと新約聖書の民教会の大きな特徴を確認することができます。それは、主なる神のみ声に聞き従う民、その神の命令に耳を傾け、その神がお与えになるすべての掟を守って生きる民であるということです。これこそがわたしたちの信仰の大きな特徴です。別の言葉で言えば、言葉の宗教であるということです。神の言葉に生きる宗教だということです。
世界には多種多様な宗教があります。言葉を発せず、黙想し、瞑想を深めることによって悟りへと至ると説く宗教もあれば、修行や苦行を積み重ね、肉体を極限まで苦しませることによって魂の平安を求める宗教、あるいは善行や社会貢献などによって徳を高めることを重んじる宗教など、さまざまです。しかし、わたしたちが信じているキリスト教という宗教、その信仰はそれらとは違っています。わたしたちは神の言葉を聞き、それを信じ、それに従うことによって生きるのです。主体、主導権は、神の言葉にあります。神は「掟と法」によって、それはわたしたちにとっては聖書ですが、それによって語られます。日々新たに、その人その人に、その時その時に、わたしたちが真実に生きた者となるために、必要な言葉をお語りになります。わたしたちはそれに聞き従うことによって、神によって守られ、導かれて生きるのです。どのような試練や危険や恐れの中にあっても、神はわたしと共に歩んでくださいます。
最後に【27節】。エリムがどこを指すのか分かっていませんが、この後のイスラエルの民の道のりから推測するなら、アラビア半島(今のサウジアラビア)の西側、紅海に面して南下し、モーセの山(シナイ山)に至る途中に位置すると推測されています。「12の泉」「70本のなつめやし」、12も70も聖書ではいわゆる「聖なる数、完全数」なので、これから続くであろうイスラエルの荒れ野の旅のすべてに、神の恵みと導きとが一つも欠けることなく、豊かに注がれるであろうことを暗示しているのかもしれません。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、あなたは日々にわたしたちの命に必要なすべてのものを備えてくださいますことを感謝いたします。わたしたちはあなたから多くをいただいておりながら、その恵みに気づくこと遅く、感謝することの少ない者であることを、懺悔いたします。どうかわたしたちの信仰の目を開いてください。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
