2026年5月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:創世記12章11~19節
使徒言行録16章25~34節
説教題:「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」
パウロの第二回世界伝道旅行の後半、マケドニア州とギリシャ地方への伝道活動の最初の都市は、フィリピでした。フィリピでは、まず紫布の商売をしていたリディアという女性とその一家が洗礼を受けました。リディアの家はフィリピ教会の基礎となり、しばらくの期間、この家で集会が行われていました。
次に、パウロは占いの霊に取りつかれていた女奴隷から、その悪しき霊を追い出し、彼女を自由にしましたが、彼女を金もうけの道具にしていた男たちがパウロを訴えたために、パウロとシラスの二人が捕らえられ、投獄されることになりました。きょうは16章25節から読んでいくことにしましょう。
【25節】。パウロとシラスは何度も鞭で打たれ、足には足かせがはめられていたと22節以下に書かれていました。足かせは、囚人の両足を大きく広げ、固定する拷問の器具であり、睡眠を妨げるほどの痛みを伴います。二人はほかの囚人たちよりも厳しい監視下に置かれ、牢の一番奥に入れられていました。そのようにして、パウロとシラスは痛みと不安、恐れの中で眠られない夜を迎えたのでしたが、しかし彼らの心は沈んではいませんでした。彼らの魂、思い、そして彼らの唇、神賛美の歌声は、決して鎖につながれてはいませんでした。この世のいかなる鎖によっても、神の言葉は決してつながれてはいません。神の言葉の証人として仕える信仰者の口も決してつながれてはいません。パウロとシラスはそれらの鎖を引きちぎり、喜びと感謝と希望とをもって、神に祈りと賛美をささげていました。
パウロたちの賛美と祈りの声が牢全体に響き渡り、ほかの囚人たちはこれを聞いていたと書かれています。神賛美と神への祈りとが、牢全体を聖なる空気で包み、そこに神のご臨在を感じさせるような雰囲気をわたしたちは感じます。それだけではありません。実際に神ご自身がそこにおられ、そこで力強く働いておられるということを、わたしたちは知らされるのです。
「ほかの囚人たちはこれを聞き入っていた」とありますが、ここからわたしたちは、囚人たち以上に、神ご自身がパウロたちの賛美と祈りとを聞いておられたのだということに気づかされます。【26節】。これは偶然に起こった自然現象としての地震ではありません。これはパウロたちの祈りに対する主なる神のお答えなのです。主なる神のみわざです。神の言葉に仕えるキリスト者たちの勝利を証しするために働かれる全能の父なる神のみわざなのです。というのも、「すべての囚人の鎖も外れてしまった」と書かれているからです。普通の地震ならば、囚人たちの鎖が外れたり、パウロたちの足かせが外れるということは起こり得ないからです。
神はこのような奇跡を行われることによって、ご自身の言葉はこの世の鎖によっては決してつながれることはないということを、また神の言葉の証人として仕えるキリスト者たちも決してこの世の鎖によってつながれたままでいることはないのだということを、それゆえに、神の言葉の証人として仕えるキリスト者こそが、まことの、永遠の自由に生きることを許されているのだということを、わたしたちにお示しになったのです。
27節からは、この不思議な神の奇跡である大地震を経験した看守のことが書かれています。【27~28節】。当時のローマの法律によれば、囚人の監視にあたる看守が、もし囚人に逃亡されたら、その囚人が受けるべき刑罰を看守自身が受けなければならないと定められていました。パウロとシラス、それにほかの囚人たちも、地震で鎖が外れ、牢の扉が開き、みな逃げ出したとすれば、当然看守は死刑になります。それを悟った看守は自殺しようとします。しかし、パウロが急いでそれを止めます。パウロは今まさに死なんとしていた看守を命へと導いています。ここで、看守とパウロの立場が逆転していることが分かります。看守は死刑判決を受けるかもしれないパウロたちを、死の牢獄につなぎ留めておくための務めを担っていました。しかし、今パウロの方が、自らの死へと向かおうとしている看守を命へと導くために働いているのです。神の言葉に仕えるキリスト者は、このようにして、自らがまことの自由と命に生きる道へと導かれるとともに、他の人をも、死へと向かおうとしているこの世の人たちをも、まことの命へと導くために仕えることが許されるのです。
自らの死から救われた看守は、そこに聖なる神のみ力が働いていることに気づき始めました。【29~30節】。「震えながらひれ伏し」とは、看守がその所に聖なる神のご臨在とご支配とを感じたことを言い表しています。彼はこの大地震が偶然に起こった自然現象なのではなく、天地万物を天からご支配しておられる神のお働きであり、牢の扉がみな開き、囚人たちの鎖が外され、自殺しようとしていた自分に止めるようにと声をかけてくれたパウロたちの導き、そのすべてが神のお働きであったことを悟ったのです。
このようにして、聖なる神との出会いへと導かれた看守は、深い罪の自覚とともに、救われたいとの強い願いが生じてきました。そして、パウロとシラスに尋ねます。「救われるためにはどうすべきでしょうか」。この問いかけは、弟子たちに聖霊が注がれたペンテコステの日に、ペトロの説教を聞いたエルサレムの人たちの場合と同じです。その箇所を読んでみましょう。【2章37~39節】(216ページ)。主イエス・キリストをわたしの救い主と信じて洗礼を受ける。その信仰によって、すべての人は罪ゆるされ、救われます。そのことはいつの時代にも、誰にとっても同様です。
パウロとシラスは看守に答えました。【31節】。責任を感じて自殺しようとした看守は、パウロたちによって自殺を止められ、命を救われました。でも、それはまだ本当の救いではありません。その人が神のみ前に自らの罪を告白し、主イエス・キリストの福音を信じる信仰を告白することによって、彼は本当の救いを与えられます。
この31節には、キリスト教信仰の二つの大きな特徴が語られています。一つは、わたしたちが救われるのは、主イエスを信じる信仰によってであるということです。これは、わたしたちがいつでも繰り返して聞いているキリスト教信仰の原点です。わたしたち人間の側に何らかの救いに至る道や可能性があるというのでは全くなく、救いはただ主イエスからのみ来る。わたしたちの罪のために十字架で死んでくださった主イエス・キリストからのみ、わたしの救いは来る。わたしはその救いの恵みを信仰によって感謝して受け取る以外にないし、それで十分である。なぜならば、主イエス・キリストがわたしの救いのために必要なすべてのことをすでに成し遂げてくださったからである。これが、わたしたちの信仰の原点です。
ここで語られているもう一つのことは、救いがその人一人だけでなく、家族全員に及ぶということです。このことについて、少し深く考えてみましょう。一人の人の信仰とその人に与えられている神の恵みが、その人だけでなく、家族全員に及ぶということは、旧約聖書の信仰の民イスラエルにおいては、疑うことができない事実でした。創世記12章で、神はアブラハムにこのように言われました。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。……地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」(2~3節参照)。
アブラハムに与えられたこの祝福は、その子イサクへ、またその子ヤコブへと受け継がれ、彼らの家族全員に受け継がれました。更には、ヤコブすなわちイスラエルから彼の12人の子どもたち、イスラエルの12部族とその家族へと受け継がれ、そしてやがて、ダビデの遠い子孫であったヨセフとマリアによって主イエスへと受け継がれたのです。これは、神がイスラエルの民をお選びになり、この民と契約を結ばれたからです。イスラエルの家に生まれた子どもは皆神の祝福を受け継ぎ、その信仰を受け継ぐのです。
新約聖書になって、イスラエルだけでなく全世界のすべての人が主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じる信仰によって救われるようになってからも、旧約聖書の信仰と救いの連帯性という考えは受け継がれていきました。たとえば、マタイによる福音書9章に書かれている、中風で寝たきりの人をベッドのまま運んできて、屋根をはぎ、天井からつるして主イエスに出会わせた人たちの信仰を主イエスがご覧になって、その病人をいやされたという場面では、病人の信仰は全く問題にされてはいません。運んできた人たちの信仰によって、その病人がいやされたのでした。ルカによる福音書9章に書かれている会堂長ヤイロの一人娘が重い病気であった時、主イエスがその家に向かう途中で亡くなったとの知らせが届きましたが、その時に主イエスはヤイロにこう言われました。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」と。そして、彼の家に着いてから主イエスがその娘の手を取って、「娘よ、起きなさい」とお命じになると、彼女が生き返ったという奇跡が起こりました。これもまた、父親の信仰が主イエスの奇跡を生み出して、娘を生き返らせたという実例です。
このような、信仰の連帯性、神の恵みの連帯性を示す実例は、新約聖書の中に数多く見出すことができます。神の救いの恵みは、その恵みの豊かさのゆえに、一人の人をはるかに超えて、その人の家族へ、その地域へ、町々村々へ、そして全世界へと広がっていくのです。そしてまた、この信仰があるからこそ、その恵みの豊かさを信じる信仰者が、自分の家族に、また周囲に、そして全世界へと、救いの恵みを告げ知らせ、それを広めていくということが実際に可能なのです。
わたしたちはここでもう一つのことを確認しておらなければなりません。今お話ししたことが、いわば機械的に、自動的に起こるというのではなく、そこには神が教会に託しておられる宣教と信仰教育というべき教会の働きがあるということです。
【32~34節】。パウロとシラスはその看守の家に行き、彼の家族に神の言葉を語り、主イエスの福音を語ったことが書かれています。彼と彼の家族は短い信仰準備教育を受け、それからその信仰を告白し、洗礼を受けたのです。教会はこのようにして、必要に応じて、神から託されている信仰教育を行うのですが、それは救いの恵みの豊かさに対する教会の信仰であり、また奉仕であると言えます。そして、教会は新しく加えられた信仰の仲間と共に、聖餐の食卓を共にし、共に救いの恵みを喜び合う群れを形成していくのです。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、あなたのみ言葉と主イエス・キリストの福音が持っている偉大な力と恵みの豊かさを、どうぞわたしたちにも信じさせてください。その力と恵みの豊かさによって、わたしたちの宣教の働きを強めてください。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
