5月24日説教「ペンテコステの日のペトロの説教」

2026年5月24日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

              ペンテコステ(聖霊降臨日)

聖 書:ヨエル書2章12~20節

    使徒言行録2章14~21節

説教題:「ペンテコステの日のペトロの説教」

 使徒言行録2章1節に書かれている「五旬祭」とは、イスラエルの三大祭りの一つで、旧約聖書では「七週の祭り」「初穂の祭り」などと呼ばれ、小麦の初穂を神にささげて感謝する祭りでした。主イエスの時代にはギリシャ語で「五十番目」を意味するペンテコステと呼ばれていました。50番目とは、イスラエル最大の祭りである過越祭から数えて50日目に祝われる祭りであったからです。

過越祭はイスラエル誕生の出来事であるエジプト脱出を祝う祭りであり、それから50日目の五旬祭は、約束の地カナンでの収穫の初穂を神にささげる祭りでした。そして、旧約聖書のこの二つの祭りは、新約聖書では主イエスによる救いの出来事と深く関連していました。すなわち、主イエスは過越祭の時期に、全人類を罪の奴隷から解放するためにささげられた過ぎ越しの小羊として、ご自身の命を十字架でおささげになりました。その十字架の出来事から50日目のペンテコステの日に、エルサレムに集まっていた弟子たちの上に聖霊が注がれ、聖霊によって語られた主イエスの福音の説教を聞いて信じた人々3千人ほどが洗礼を受けてキリスト者となり、ここに世界最初の教会であるエルサレム教会が誕生したのでした。主イエスの十字架の死と三日目の復活によって人間を罪の奴隷から解放する神の救いのみわざが、今やその収穫の初穂としての救われた人々の魂が、この日に主なる神にささげられ、教会が誕生したのです。神の永遠なる救いのご計画は、このようにして成就しました。

 きょうは、その日のペトロの説教についてご一緒に聞き、わたしたちもまたペンテコステに与えられた聖霊の恵みを共に受けたいと思います。4節に、【4節】とあり、また11節には、「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っている」書かれていますが、聖霊に満たされて語った弟子たちの説教の一例が、12節で「ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた」と書かれている具体的な内容であると理解されます。

 ペトロは主イエスと地上の歩みを共にしていた時にも12弟子のリーダーでしたが、復活された主イエスが天に昇られたあと、そして聖霊によって誕生した初代教会においても指導的な立場にありました。けれども、ペトロは12弟子のリーダーとしての立場を、そのまま引き継いだのではありません。ペトロは主イエスの十字架の際に大きなつまずきを経験していました。主イエスが捕らえられ、大祭司の家に連行されて行った際、彼は周囲の人たちに「あなたもあの男と一緒だった」と言われた時、「いや、わたしは知らない。わたしはあの人を知らない。関係ない」と、3度までも主イエスを拒み、見捨てたのでした。ペテロは主イエスの十字架から逃げ去りました。もはや弟子と呼ばれる資格はありません。そのリーダーでもありません。

 けれども、復活された主イエスは彼をお見捨てにはなりませんでした。再び、弟子としてお招きになり、弟子たちのリーダーとしての新しい務めを授けられたのです。それだけではありません。それまでのペトロは主イエスの説教を聞く人でした。ところが、ペンテコステの日の聖霊降臨は、ペトロを説教者として誕生させたのです。ペトロは聖霊を注がれてからは、説教する人、主イエスの福音を語る人へと変えられたのです。ほかの弟子たちもみな同じです。みな主イエスの十字架から逃げ去り、主イエスを見捨てたのでしたが、彼らもまた聖霊を受けて、今新しく主イエスの復活の証人たちとして、福音の宣教者たちとして立てられたのです。聖霊は罪の中で死んでいた人を、再び立ち上がらせ、その人に新しい務めを授けます。

 では、【14~16節】を読みましょう。聖霊を注がれた弟子たちが、エルサレムに集まってきていたいろんな国の言葉で語りだしたので、それを聞いた人々は驚き、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っている」と言って、あざ笑ったと13節に書かれていましたが、ペトロはまずその誤解を訂正しています。当時の信仰熱心なユダヤ人は朝9時と昼、そして夕方と、日に三度祈りをささげていたと伝えられています。朝9時の祈りをささげるまでは朝食をとらないという習慣もあったようです。ペトロは説明します。「ですから、この人たちは酒に酔っているのではない。これは、旧約聖書ヨエル書の預言で語られていたように、神の霊、聖霊を注がれた主イエスの弟子たちが、神がお示しくださった幻を語り、神の言葉を預言しているのだ」と。

 17~21節までは、ヨエル書3章1~5節からの引用です。ヨエル書が書かれた年代については諸説があり、紀元前9世紀から紀元前4世紀と、大きな幅があります。その預言の内容は一貫しており、終末論、すなわち世の終わりの時のことが預言されています。神が諸国を裁く時が迫ってきている。神の怒りの日が来る。だれも神の最後の裁きを避けることはできない。それゆえに、悔い改めて神に立ち帰れ。その日には、神はご自身の民の救いを完成させ、すべての人に神の霊を注ぐ。これがヨエルの預言です。ペトロはペンテコステの日に、このヨエルの預言が成就したのだと語ったのです。エルサレムに集まっていた主イエスの弟子たちの上に聖霊が注がれ、彼らが新しい言葉で神の偉大な救いの出来事である主イエスの福音を語りだしたのは、ヨエルが預言した終末が今始まったことの確かなしるしなのだと説教したのです。

 17節の「終わりの時」とは、今あるこの世、この世界、この時代が終わるときのことを言います。それを一般に終末と言いますが、聖書の終末にはもっと重要な意味が含まれます。今あるこの世界が終わる時、新しい神の国が到来するということです。もはや人間の罪もなく、死も滅びもない、永遠に神が支配される神の王国、神の国が完成する。これが、聖書が教える終末です。ここには、聖書の時の理解が関係しています。聖書では、時には初めがあり、終わりがあると教えます。初めに、神は天地万物を創造されました。けれども、人間の罪によってこの世界は汚されてしまいました。終わりの時、神はもう一度すべてを新しくされます。その時、古い世界はすべて滅ぼされます。この地球も、自然も、宇宙も、太陽や月、星も、みな滅び去ります。これが、聖書が教える時の理解です。19、20節に書かれている「主なる神の不思議な業」とは、このような時の終わりに全世界が滅び去ることを語っています。今わたしたちが生きているこの時、この時代、この世界は、すべてその終わりへと向かっている。そして、終わりの日の神の国の完成へと向かっている。これが、聖書が教えている終末です。

 ペトロの説教で引用されているヨエル書の預言は、この終末の時に起こる出来事を語っているのです。その視点から、改めてヨエルの預言を読んでみましょう。【17~18節】。「わたしの霊」とは、神の霊、聖霊のことです。聖霊がすべての人に注がれることによって、終わりの時、終末、そして神の国が完結する、完成するということです。神の霊、聖霊は罪の中で死んでいた人に新しい命を与えるからです。古い世界を新しく再創造するからです。

 ここで、キリスト教の教えの最も大切な教理である「三位一体論」について少しお話をしておきましょう。キリスト教は、旧約聖書のイスラエルの信仰から、一神教、唯一神教を受け継ぎました。聖書の神は多くの神々の中の一つの神であるのではなく、天地万物を創造され、イスラエルを選ばれた神は唯一の神であり、神々と言われるものが他にあるとしても、それらはすべて偶像であり、偽りの神々であるという信仰です。その唯一神教を土台にしながら、神のみ子主イエス・キリストはまことの神であり、また聖霊もまことの神である。神は、父なる神、子なる神、聖霊なる神として存在し、またお働きになられる。しかし三つの神であるのではなく、一つの本質、一つの実体をもつ神である。これが、キリスト教の「三位一体論」です。

 したがって、この三位一体論によれば、父なる神も子なる神イエス・キリストも聖霊なる神も、永遠の昔から唯一の神として存在していたことになります。

でも、旧約聖書の中には、はっきりとした姿でみ子なる神と聖霊なる神は現れません。新約聖書の時代になってから、クリスマスの時にみ子なる神主イエス・キリストがこの世界に人間のお姿で誕生され、そして今、聖霊なる神が、このペンテコステの日に、激しい風のように吹きつけ、地響きのように地を震わせ、炎のような舌のかたちで(2~3節参照)、弟子たちの上に注がれたのです。この聖霊なる神の働きがあって、三位一体なる神の救いのみわざが完了することになったのです。

 旧約聖書の時代にヨエルが預言した終末の時、古い時代の終わりと新しい神の国の完成の時が、今このようにして到来したのだと、ペトロは説教しています。父なる神が天地万物の創造によってお始めになった神の永遠の救いのご計画が、み子主イエス・キリストの十字架の死と復活、そして聖霊の降臨によって、今ペンテコステの日に完了したのです。

 ペンテコステの日の出来事について、ペトロの説教で語られていることをいくつかのポイントにまとめてみましょう。一つは、聖霊降臨は神の天地創造と永遠の救いのご計画の完成を意味すると同時に、終わりの日、終末の時の開始、始まりであるということです。わたしたちは今そのような時に生きているのです。

 第二には、すべての人に聖霊が注がれて、男と女、奴隷と自由人、その他すべての人間の違いが取り除かれ、それらからくる束縛や差別から解放され、人間は全く自由になり、一つの神の民とされるということです。その具体的な姿が教会です。聖霊の時、終末の時は教会の時として具体化されます。

 第三には、聖霊が注がれると、人はみな神の幻を見、神の言葉を預言するようにされます。今わたしたちの目の前に繰り広げられている世界の現実だけを見るのではなく、神が聖霊によってお示しになる新しい神の国を見るようにされ、神のみ心を悟るようにされるのです。

 そして第四に、21節に書かれているように、【21節】。「主の名を呼び求める」とは、主イエス・キリストをわたしの唯一の救い主と信じ、告白することを言います。わたしの罪のために、わたしに代わって苦難の道を歩まれた主イエス・キリスト、わたしの罪を贖うために十字架で死んでくださった主イエス・キリスト、わたしを新しい命に生かすために、罪と死とに勝利され、三日目に復活された主イエス・キリスト、この主イエス・キリストを聖霊に導かれてわたしの救い主と信じ、受け入れることによって、わたしは罪ゆるされ、永遠に主なる神と共にあり、神の国の民とされるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたは天地万物を創造され、今もないそのすべてを強いみ手をもって支え、導いておられます。また、あなた永遠の救いのご計画は、今もなお終わりの日の完成に向かって前進しています。どうか、あなたの命の霊をあなたの民の上に豊かに注いでください。そして、あなたの救いのみわざがいよいよ力強く行われますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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