2026年6月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:出エジプト記16章1~16節
ヨハネによる福音書6章26~35節
説教題:「天からの不思議な食べ物マナ」
神の強いみ手によってエジプトの奴隷の家から解放されたイスラエルの民は、荒れ野、アラビア半島の砂漠地帯へと導かれました。彼らの荒れ野での放浪生活は40年間続きました。イスラエルの荒れ野での40年間は、彼らにとって大きな試練の連続でしたが、それはまた同時に、神から与えられた信仰の訓練の時でもありました。神はお選びになった愛する信仰者たちを、あえて苦難の道へと導かれます。それによって彼らに信仰の訓練をお与えになり、彼らがいよいよ主なる神に対する信頼と服従を深めるようになるためです。
申命記8章で、モーセは荒れ野での40年間の旅を振り返りながら、このように説教しました。何回か読んだ箇所ですが、きょう学ぶテキストと直接に関連していますので、今一度読んでみましょう。【2~6節】(294ページ)。3節は、主イエスが公の宣教活動を始められる前に、荒れ野で40日間断食をされた後で、悪魔の試みにあわれた時に引用されたみ言葉です。マタイによる福音書4章3~4節にはこのように書かれています。「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ』。イエスはお答えになった。『人はパンだけで生きるのものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」。また、5節は、ヘブライ人への手紙12章5~6節に引用されています。そこにはこのように書かれています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者をみな、鞭打たれるからである」。
イスラエルの民が荒れ野の40年間の旅で経験し、学んだ試練や訓練は、そののちの彼らにとっての重要な教訓となったのです。また、新約聖書の民であるわたしたち教会の民にとっても、それは同様に、わたしたちの信仰の歩みにとっての大きな導きであり、励ましでもあります。
では、【1~3節】。「共同体全体」という言葉は、神礼拝のために集められた群れ、礼拝の会衆を意味します。この言葉が用いられていることに暗示されているように、イスラエルの人々がエジプトの奴隷の家から解放されたその理由また目的は、真実の神礼拝の民となるためであるということを、わたしたちはここでも改めて確認します。更に、そののちに荒れ野で40年間の旅を続けることもまた、彼らがより一層真実の神礼拝の民となるための訓練の時であったということをも、確認できます。イスラエルの民は主なる神を唯一の救いの神として信じ、礼拝するために、一つの群れとして、神礼拝の会衆として集められました。また、これからのちにも、この唯一の救いの神だけを礼拝し、この神が礼拝で語られる一つ一つの言葉に聞き従って生きる民として歩み続けるのです。
わたしたちキリスト者が、主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって罪から救われ、教会の民とされたのもまた、わたしたちが一つの神礼拝の民となるためであり、礼拝で語られる神の一つ一つの言葉に聞き従って生きるためなのです。
1節の終わりに、「それはエジプトを出た年の第二の月の十五日であった」と書かれています。彼らがエジプトを脱出したのは、イスラエルの第一の月、正月、アビブの月の15日でした。アビブの月はバビロン捕囚以後にはニサンの月と呼ばれるようになりました。今日の太陽暦では3月末から4月にかけて、この日がイスラエルの誕生の時でした。それからちょうど1か月半後のことが、この16章に書かれています。シンの荒れ野がどこを指すのかははっきりしていませんが、アラビア半島の北西から、半島の西側の紅海に沿って南下する道を通っていると推測されています。
そのシンの荒野でイスラエルの民は指導者モーセとアロンに対してつぶやいたと書かれています。15章23、24節でもそうでした。メラの水が苦くて飲めなかったので、彼らはモーセを批判し、つぶやきました。ここでもまた、彼らはモーセにつぶやき、不平を言い、よりはっきりと、自分たちの指導者であるモーセを批判しています。これはなんという悪意に満ちた、また不遜で、邪悪で、愚かでさえある不平の言葉であることでしょうか。エジプトでの10の災い、10の奇跡の時から民の先頭に立ってエジプト王ファラオと対決し、自分たちの救いのために戦ってきたモーセとアロンに対して、「あなたたちは我々をこの荒野に連れ出して、ここで全員を飢え死にさせようとしているではないか」と言って非難するとは。
これは、指導者であるモーセとアロンに対するつぶやき、批判の言葉である以上に、彼らを奴隷の家から導き出された主なる神に対する不信仰であり、神の救いのみわざに対する反逆であるというべきです。1か月半前に自分たちに与えられた神の偉大な救のみわざを忘れ、その救いのみ力を疑う罪です。奴隷の家からの解放の奇跡、葦の海を二つに分けて、エジプト軍による追撃から逃れさせ、乾いた海の底を安全に渡らせた奇跡、そして、メラの苦い水を甘い水に変えた奇跡、それらの神の数々の偉大な奇跡を、彼らは早くも忘れてしまい、このようなつぶやき、疑い、非難の言葉を口にするとは、何という不信仰で、邪悪で、かたくなで、そして愚かでさえあるイスラエルの民であることか。二度も三度も、同じ罪を繰り返し、同じ不信仰と反逆を繰り返すイスラエルの民。
イスラエルの民のつぶやきにはもう一つの罪の側面があります。それは、神によって立てられている自分たちの指導者たちに対する不従順ということです。モーセとアロンの兄弟は神によって召されてイスラエルの民の上に立てられ、エジプト脱出と荒れ野の旅の指導者とされました。また、実際に二人はそのために主なる神に忠実に仕え、また民全体のために働いてきました。モーセとアロンはイスラエルの民のために仕える神の代理者でした。神は二人の口を通して言葉を語られ、二人の働きを通してご自身の救いのみわざを行われました。イスラエルの民は主なる神に聞き従うように、モーセとアロンに聞き従うべきであり、主なる神を信頼するように二人に信頼しなければなりません。しかし、民は二人に対する信頼を投げ捨て、二人に対する服従を拒みました。それが彼らのもう一つの罪の実体でした。
のちに、イスラエルの民が神の約束の地カナンに入って、一つの国家、一つの信仰共同体を形成していく時、彼らには王、祭司、預言者という指導者が立てられます。主なる神はこれらの地上の代理者である、王、祭司、預言者たちを通して、イスラエルを一つの礼拝の民、信仰の民として訓練され、み心にかなった一つの群れとして形成されます。民は主なる神に忠実であるように、地上の指導者である王、祭司、預言者に忠実に聞かなければなりません。荒れ野の40年間は、そのことを学ぶ期間でもあったのです。
さて、このようにかたくなで罪深く、不信仰で反逆する民を、神はどうされたでしょうか。神は誰一人み心を行う者がなく、皆罪に汚れている人間を、お裁きになり、お見捨てになるのでしょうか。荒れ野のイスラエルの民をお見捨てになるのでしょうか。
【4~8節】。神はこれまでにも何度もイスラエルのつぶやき聞かれ、そのつど必要な助けと導きをお与えくださったことを、わたしたちは読んできました。今度もそうです。いや、今度はそのことが何度も繰り返して強調されていることが分かります。7節で、「主は、あなたたちが主に向かって不平を述べるのを主が聞かれたからだ」と書かれています。8節でも、同じ言葉が繰り返されています。さらに、11、12節には、主なる神ご自身の言葉として語られています。【11~12節】。神は何度も何度も、イスラエルのつぶやきを聞かれます。イスラエルの罪と反逆と不従順をゆるされ、彼らのつぶやきに耳を傾けられ、彼らの不平、不満、愚かな叫びにも、お答えくださいます。そのようにして、神は人間の果てしなく、底知れぬ、深い罪を、邪悪とかたくなさと愚かさに固められた恐るべき罪をもおゆるしくださるのです。その罪のゆるしのために、ご自身の一人子なるみ子を十字架におささげくださったのです。
神はイスラエルの民の叫びに応えて、彼らを空腹と飢えからお救いになるために、天からのパンと空からのうずらとをお与えくださいました。うずらと天からのパンについては13節以下で詳しく語られています。【13~16節】。
まず、うずらについてですが、うずらは世界各地に飛来する渡り鳥であり、その肉は今日でもヨーロッパや日本でも食べられています。おそらく、アラビア海や紅海から飛んできたうずらが、夕方に羽を休めるために砂漠地帯に降り立ったのだろうと推測されます。しかし、それは自然現象ではなく、主なる神がそのようにしてイスラエルの民に肉をお与えになったのだと言われています。
天からのパンについてですが、朝に荒れ野の地表に露が降りたようになり、それが渇くと、白くて甘い味がするコエンドロという砂漠に生える草の種のようなものであると31節に説明されています。【31節】。「マナ」とは、15節でイスラエルの人々が「これは何だろう」と言ったと書かれていますが、それがヘブライ語の発音では「マーン・フー」ですが、そこから「マーン」を日本語で「マナ」と発音されるようになりました。マナについては、今日、それが何であるのかと議論されますが、重要なのは、それが神から与えられた不思議な食物、パンであり、それが毎日毎日民全体を養うのに十分なほどに与えられたということです。欲張って二日分を集めると、それは翌日には虫がついて臭くなり、食べれなくなったと20節に書かれています。また、土曜日の安息日前の金曜日には、二日分集めても、それは臭くならなかったと24節に書かれています。
このようにして、イスラエルの民は40年の荒れ野の旅の間中、日々に必要なパンを神から与えられ、神に養われました。神がお定めになった集め方に従わなかった場合には、マナは与えられず、食べられなくなってしまいました。ここで重要なことは、神の不思議はパンであるマナを得るために、神の言葉、神の定めに聞き従わなければならないということにあります。神の定めに聞き従わずに集めたマナは、彼らを養うことがありませんでした。
もう一つの重要な点は、安息日の戒めを守るということです。ここではまだモーセの十戒は定められていませんから、厳密な意味での安息日の律法はありませんでしたが、荒れ野においても、安息日ごとの神礼拝は守られていました。その安息日に、神を礼拝することよりもマナを集めることを優先するならば、マナを得ることはできません。【27節】。これによって、イスラエルの民は安息日が神礼拝のために聖別された日であることを学んだのです。そして、安息日に共に主なる神のみ前に集い、神を礼拝する礼拝の民となるべきことを学んだのです。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、あなたはわたしたちの命にとって必要なものすべてを、日ごとに備えてくださいます。それ以上に、わたしたちを日々にあなたの命のみ言葉によって養い、導いてくださいます。どうか、わたしたちの信仰の道にあなたが常に伴ってくださり、わたしたちが迷うとき、苦しむとき、悲しむとき、孤独を感じるときにも、必要なみ言葉をお語りくださり、終わりの日に至るまで、わたしたちをあなたの民として守ってください。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
