2026年7月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:ダニエル書7章11~14節
ルカによる福音書12章35~48節
説教題:「主人の帰りを待っている僕(しもべ)」
ルカによる福音書12章40節で主イエスはこう言われます。「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」。「人の子」とは、一般的には「人間から生まれた子」という意味ですが、旧約聖書のダニエル書では、終わりの日に完成される神の国において、神からすべての権威とみ国を託される王なるメシア・救い主を指しています。福音書の中で主イエスはご自分のことをしばしば「人の子」と言われましたが、それは一般的な「人間から生まれた子」という意味と、ダニエル書の預言で言われている終わりの日、終末の時に神の国を完成されるメシアなる「人の子」という意味の、両方を含んでいたと推測されています。きょうの箇所ではダニエル書の預言の意味が強調されていると言えます。
主イエスはここで、ご自身が十字架で死なれ、三日目に復活され、40日目に天に上られた後、終わりの日に再びこの地に到来される「人の子」であり、預言者ダニエルの預言を成就する「人の子」であると証ししているのです。そして、弟子たちに対して、その終わりの日の神の国の完成の時に備えて生きるようにと勧めているのです。
人の子、主イエス・キリストの再臨の時に備えて生きる、これが主イエスの十字架の死と復活以後の弟子たちの生き方であり、また今日のすべてのキリスト者の生き方でもあります。主イエスはすぐ前の31、32節でこのように約束してくださいました。【31~32節】。「神の国を求めなさい」という命令を聞きつつ、神は確かにみ国をくださるという約束を聞きつつ、神の国の完成の時を待ちつつ、その時に備えつつ、人の子・主イエスの再臨を待ち望みつつ生きる。これがすべてのキリスト者の生き方です。
では、終わりの日、終末の時、人の子・主イエス・キリストはどのようなお働きをするのでしょうか。簡単にまとめておきましょう。使徒言行録1章によれば、主イエスは復活されたのち、40日間にわたって弟子たちにご自身の復活のお姿を現され、神の国について説教されました。そして、こう言われました。【11節】(213ページ)。主イエスが天から降って再び地においでになる再臨の時、主イエスご自身が説教されたように、すべての人を右と左に分け、救いと滅びに分ける、最後の審判が行われます。『使徒信条』によってわたしたちが告白しているように、「生きている者と死んでいる者とを裁かれます」。そのようにして、ダニエル書で預言されているように、主イエスは父なる神からすべての権威を授けられ、永遠の王国を完成されます。信じる者には永遠の命が授けられ、永遠に神と共にいる完全な救いが与えられます。ヨハネの黙示録21章に描かれているように、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」新しい世界が完成されます。わたしたちキリスト者はみな、この終わりの日の完成に向かって一歩一歩進んでいるのです。来るべき主イエス・キリストとの再会を待ち望みつつ。
主イエスはルカ福音書12章で、「人の子」主イエスの再臨を待ち望むわたしたちの姿勢について、教えておられます。では、35節以下の、目を覚まして、主人の帰りを待つ僕(しもべ)のたとえを学んでいきましょう。
【35節】。「腰に帯を締める」とは、聖書にしばしば用いられる表現です。何か重要な使命を果たすために支度を整える、備えるという意味で用いられます。ペトロの手紙一1章13節にはこうあります。「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすらに待ちなさい」。ここでは「心に帯を締める」と言われています。それは、主イエス・キリストの再臨のときに与えられる救いの完成という大きな恵みに対して、常に心を開き、それを熱心に待ち望み、その最後の目標に向かって真っすぐに進むというキリスト者の生き方を言います。そこにはまた大きな喜びと恐れがあります。わたしには欠けや破れが多くあり、罪によって滅ぶしかなかったこのわたしが、神の恵みと憐れみによって罪ゆるされ、救われ、神の国の民とされ、永遠の命を与えられるという、この大きな恵みを受け取るために、喜びと恐れとをもって待ち望むこと、それが心に帯を締めることです。
エフェソの信徒への手紙6章14節では、信仰の闘いへの備えとして「真理の帯を腰に締めなさい」と言われています。きょうの主イエスの教えをより具体的に展開している個所なので、そこを読んでみましょう。【10~18節】(359ページ)。主イエス・キリストの再臨の時を、目を覚まして待っているということは、ただじっとして動かないでいるということではなく、このような激しい、果敢な、そして熱心な信仰の闘い、信仰の訓練を怠らないということなのです。神はそのために必要な武具を、すべて用意して、与えてくださいます。「真理の帯」「正義の胸当て」「平和の福音」「信仰の盾」「救いの兜」「霊の剣」「神の言葉」そして「霊の助けによる絶えざる祈り」、神はこれらのすべての武具をわたしたち一人一人に備えてくださいます。
「ともし火をともしていなさい」という勧めも、主イエス・キリストの再臨を待ち望む姿勢としてしばしば聖書に書かれています。マタイ福音書25章では、神の国のたとえとして、10人のおとめがあかりを持って花婿を迎えるたとえを主イエスは説教しておられます。あかりは暗闇を照らし、周囲がよく見えるようにします。あかりは主イエス・キリストの福音を表していると考えられます。神を見失って罪に支配されているこの世の暗闇を照らす主イエス・キリストの十字架と復活の福音、このあかりを照らしながら、わたしたちキリスト者は終わりの日の主キリストの再臨の時に至るまで、信仰の道を誤りなく進むことができます。主キリストの福音を高く掲げ、そのあかりに照らされることがなければ、わたしたちはたちまちこの世の闇の中にのまれてしまうほかはありません。主キリストの福音のあかりによってわたしたち自身が照らされ、またわたしの周囲をも明るく照らす時に、わたしが進むべき道が見えるようになってくるのです。
36節からたとえが始まります。このたとえで「主人」とは、40節で「人の子」と言われている主イエスご自身のことを指していることは明らかです。主人は結婚式に出席するために、しばらくの間、家を留守にするという設定です。ここでも、終わりの日について語る際にしばしば用いられる二つのことに目を向けたいと思います。
一つは、「婚宴」(結婚式)です。主イエスは終わりの日に完成される神の国のたとえに、何度も結婚式の比喩を用いました。結婚式は花婿と花嫁とが夫婦の誓約をしたことをみんなが祝う場です。終わりの日は主なる神と教会の民が愛によって結ばれた永遠の交わりを喜ぶ時なのです。その時には、もはや何ものも神と教会の民との関係を壊すことはできません。神が永遠に信じる者たちと共におられるからです。わたしたちが主の日ごとにささげている礼拝は、まさにこの終わりの日の神の国での結婚式の先取りなのです。
もう一つのことは、家の主人である主イエスは、しばらくの間は家を留守にしているが、やがて必ず帰って来られるということです。ここことも、主イエスは神の国のたとえでしばしば語っておられます。主イエスは地上で救いのわざを行われたのち、天の父のみもとへとお帰りになりました。主イエスはこの地をお見捨てになられたのではもちろんありません。天において、地にあるわたしたち一人一人の救いと信仰のために執り成しの祈りをしておられます。そして、終わりの時には、再び地に降って来られ、信じるすべての人たちをみ国へと迎えてくださいます。わたしたち信仰者は主イエスが家を留守にしておられる間、主イエスから託されたタラント、賜物を生かして用い、託されている福音宣教の務めを忠実に果たしていくのです。
37節を読んでみましょう。【37節】。この37節は「幸いなるかな」という言葉で始まっています。ルカ福音書6章の平地の説教、マタイ福音書5章の山上の説教で「幸いなるかな」と言われているのと同じです。天の神から与えられる最高の幸い、永遠の幸いのことです。なんとここでは、主人自らが僕(すなわち奴隷)のために食卓の給仕をしてくださると言われているのです。主人が奴隷のために食卓の奉仕をしてくださる、これはまさに主イエスの地上での歩みそのものでありました。主イエスは罪の奴隷であったわたしたちのために、ご自身が僕のように、奴隷のように、わたしたちのためにご自身の命をささげ尽くされ、わたしたちの救いのためにお働きくださったのでした。
38節以下では「目を覚ましている」ことが再び強調されています。【38~40節】。ここでは、主人がいつ帰って来るのか、それは僕たちには分からないということが強調されているのです。主イエスの再臨の時、神の国が完成される時、その時がいつであるのかはわたしたちには分かりません。それは、神ご自身が、神のみ心によってお決めになることです。これまでのキリスト教会の歴史の中で、何度もその時を特定しようと試みたことがありました。今日でも、その日がいつであるのかを特定しようとする人たちがいます。けれども、その日、その時がいつであるのかは、ただ父なる神だけがご存じです。わたしたちは日々にその日、その時のために備えるのです。ある人は、終末に向かっているそのような緊張した時間を「待ちつつ、急ぎつつ」と表現しました。わたしたちは主イエスの再臨の時を、待ちつつ、、しかし急ぎつつ、その日に向かって歩み続けるのです。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、あなたは終わりの日にみ国を完成させてくださり、わたしたちに朽ちることのない永遠の命をお与えくださいます。そして、その日に至るまで、わたしたちの信仰の歩みをお導きくださいます。そのことを信じて、忠実なあなたの僕として、あなたと隣人とに仕える信仰者とされますように。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
