2026年7月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:出エジプト記17章1~16節
コリントの信徒への手紙一10章1~13節
説教題:「荒れ野の旅に伴われた神」
出エジプト記17章1節にはこのように書かれています。【1節】。シンの荒れ野とは、エジプトのナイル川河口地帯の東側、シナイ半島の北側に広がる砂漠地帯を指していると考えられます。エジプトの奴隷の家から神の強いみ手によって救い出されたイスラエルの民は、まっすぐに地中海沿いを北上する道ではなく、東の方角へ、砂漠地帯へと導かれ、彼らはそこで40年間の荒れ野の旅を続けることになりました。それが主なる神のみ心であり、ご計画であったということが、この1節でも繰り返して強調されています。冒頭に「主の命令により」とあり、また「旅程に従って」とも書かれています。「主の命令により」は直訳すれば「主の唇によって」であり、主なる神の言葉に導かれてという意味であることがはっきりします。
イスラエルの民はエジプトの奴隷の家から救い出されたのは、また彼らが荒れ野の旅へと導かれたのは、神を礼拝し、神の言葉に聞き従って生きる民となるためであったということを、わたしたちはこれまで何度も確認してきました。「共同体全体」という言葉も、礼拝のために召集された会衆という意味であることを前回16章1節で確認しました。特に、荒れ野では、ほかに彼らが頼るべきものは何一つありませんから、神の言葉に信頼し、それに聞き従うか、それとも神の言葉に対する疑いと反逆によって絶望と破滅へと向かうか、そのどちらかしか選択の余地がありませんから、彼らは必然的にと言うか、神の言葉に聞き従う道しかないことを、この荒野の旅で学ぶのです。
「旅程に従って」とは、朝にテントを張り、その地に宿営し、少ししてまたそのテントをたたみ、次の地へと移動するという砂漠地帯の遊牧民、ベドウィンの移動を意味する言葉ですが、この移動生活も、自分たちの好みや判断に合わせて選ぶ道ではなく、主なる神がお与えくださる道を、イスラエルは進みます。
荒れ野の40年間の旅路で、イスラエルの民は神の言葉によって生きるべきであることを学ばされました。申命記8章3節に書かれているように、また、マタイによる福音書4章4節で主イエスが教えられたように、「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つひとつの言葉で生きる」ということを学ぶのです。荒れ野には、イスラエルの民を安全に導くものは何もありません。舗装された道路も、道路標識も、食料や水も、文化や経済活動も、何もない荒れ野で、彼らはただ神の言葉によって導かれるのです。「人はパンだけで生きるのではない。神の言葉によってこそ生きる」ということを、実際に彼らは多くの体験をとおして学んだのです。その経験が、彼らがこののち行こうとしている神の約束の地カナンでの新しい生活においても、続けられるのです。たとえそこでは、パンが豊かに備えられていても、整えられた都市国家が形成されても、文化や経済活動が活発になされていても、彼ら信仰の民、神礼拝の民を正しく導くのは、神の言葉以外にはないということを、彼らはこの荒野で知らされるのです。
さて、彼らの次の宿営地はレフィディムであると書かれています。レフィディムがどこにあるのか、今日はっきりとは分かっていません。このあと6節では、ホレブという地名が出てきますが、ホレブはシナイと同じ地名であると考えられていますので、今日モーセの山、シナイ山と呼ばれている、シナイ半島の南方の山岳地帯を指していると考えられます。イスラエルの民はシンの荒れ野からシナイ半島の西側を紅海に沿って南下してきたと推測されます。
そして、このレフィディムでも、イスラエルの民は飲み水がないとつぶやきました。【2~3節】。エジプトを出てから、イスラエルの民のつぶやきを聞くのは、これが4回目です。1回目は、14章でエジプトの軍隊に追いつかれた時、「我々を連れ出したのはエジプトに墓がないからか。荒れ野で死なせるためなのか」と言って、モーセに抗議しました。2回目は、15章で、マラの水が苦くて飲めないときに、「何を飲んだらいいのか」とモーセに不平を言いました。3回目は、16章で、シンの荒れ野に入って間もなく、飢えと渇きのために、「我々はエジプトで肉鍋を囲み、パンを腹一杯に食べていた。あの時エジプトで死んでいた方がましだった」と。なんという、不信仰で、反逆的な言葉であることでしょうか。それは、彼らの指導者であるモーセに対する不満、つぶやきである以上に、彼らをエジプトの奴隷の家から強いみ手によって救い出された主なる神への不信仰であり、罪そのものです。更に今回の4度目のつぶやきは、「わたしだけではない、わたしの子どもたちや家畜までもが、のどの渇きで死にそうだ」と訴えています。
2節でモーセは、はっきりと「わたしに対するつぶやきは、主なる神に対する不信仰である」と、彼らの罪を指摘しています。彼らはこれまでに何度も主なる神の偉大なる救いのみわざを経験してきました。エジプト王ファラオの目の前で10個のしるしと奇跡とを行われ、ご自身の権威と主権とをあらわされた神、子羊の血によって彼らを奴隷の家から贖いだされた神、紅海の奇跡によって彼らを安全に乾いた海の底を渡らせた神、苦い水を甘い飲み水に変えてくださった神、荒れ野に不思議な食べ物マナを降らせ、日々に彼らを養われた神、そのような数々の神の救いと恵みとを経験したにもかかわらず、何度も何度もつぶやき、不平を言い、疑い、背くイスラエルの罪。いつまで彼らはその罪を続けるのでしょうか。いつまで神は彼らの罪をおゆるしになるのでしょうか。
モーセは4節で、主なる神に叫び、助けを願い求めます。【4~6節】。モーセはここで初めて自分の命の危険を感じています。イスラエルの民のための指導者、また預言者として神に立てられたモーセは、民の不従順と罪のゆえに、自らの命の危険にさらされています。これは、のちの時代の多くの預言者たちが受けた迫害の運命の始まりであったと言えます。主イエスは山上の説教の中でこう言われました。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口をあびせられるとき、あなたがたは幸いである。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」と(マタイ5章11~12節参照)。
モーセは彼をイスラエルの民に遣わした主なる神に、助けを願い求めます。迫害され、命の危険にあるモーセが逃れるべきところは、この神以外にはありません。神は命の危険にさらされているモーセをお守りになります。彼の叫びに耳を傾けられます。それはまた同時に、たびたび疑い、つまずく、不信仰で不従順なイスラエルに対する神の憐れみであり、ゆるしでもありました。神は罪の中で繰り返してつぶやくイスラエルの民をお見捨てにはなりません。ひとたびお選びになった彼らを、なおも愛し続けられます。
モーセは神に命じられてように、ナイル川を打って、川の水を血に変えたあの神の杖を手に取って、ホレブの岩に向かいます。ホレブとは、先ほども説明しましたように、シナイ山(モーセの山)のふもとの山岳地帯を指すと考えられます。6節に、「見よ、わたしはあなたの前に立つ」と書かれています。モーセとイスラエルの民は、荒れ野でのこの命の危機の時に、神をこそ見上げなければなりません。いや、このような危機の時にこそ、彼らは主なる神を見上げるべきであり、また主なる神が彼らの傍らに立っていてくださるのを見ることが許されるのです。そして、そこで、主なる神の救いのみわざを見るべきであり、また見ることを許されているのです。
わたしたちもまた、何かにつまずくとき、試練に会うとき、命の危険に脅かされるときに、わたしたちのためにご受難の道を進まれ、十字架で死んでくださった主イエス・キリストを見上げるべきであり、また見上げることを許されています。神はわたしたちに耐えられないような試練にあわせることはなさいません。また、試練から逃れ、試練に打ち勝つ力と道をも備えてくださいます。
【7節】。この奇跡にちなんで、その地の名前はマサ、メリバと呼ばれたと書かれています。この地名はイスラエルの民の不従順と罪をのちの世に長く伝える役割を果たしました。彼らはこの地の名前を口にするたびに、その地で行われた神の奇跡とともに、自分たちの先祖の民が不信仰のゆえに神を試み、罪のゆえに神と争ったことを思い起こし、神の言葉に従順に聞き従うべき教訓としたのでした。
マサとメリバの二つの名前が違う場所を指すのか、同じ場所が二つの違った名前で呼ばれるようになったのかは、はっきりしません。詩編95編では違う場所のように言われています。【詩編95編7~9節】(934ページ)。旧約聖書の他の箇所でも、マサとメリバでイスラエルの民が主なる神を試み、そのみ声に聞き従わなかったことが取り上げられています。そして、新約聖書ではヘブライ人への手紙3章で、この出来事が取り上げられ、神の言葉に従順に聞き従うべきことの教訓として教えられています。わたしたちは神の言葉に聞き従うことをためらうべきではありません。後に引きのばすべきではありません。神の恵みをいただくのに、あるいはまた悔い改めて神に立ち帰るに際して、心をかたくなにし、あすを待つべきではありません。今この時、神の言葉を聞いた今、それに応えるべきです。今この時が、神の恵みのとき、神の救いのとき、悔い改めの時だからです。
8節以下にはアマレクとの戦いについて書かれています。【8~9節】。アマレク人は砂漠地帯に住んでいた攻撃的な遊牧民であったと考えられています。イスラエルとアマレクとの戦いは、こののちイスラエルがカナンの地に定住してからも、ダビデ王の時代にまで続いていたことがサムエル記で確認できます。9節にヨシュアの名が出てきますが、彼はモーセのあとの時代に、イスラエルの民を率いて約束の地に入るときの指導者となります。
アマレクとの戦いでは、モーセが神の杖を持っている手を挙げている間は、イスラエルの優勢であったと書かれていますが、これは主なる神のみ力が働いたことのしるしと考えられています。イスラエルの民は主なる神が共にいてくださるときは、すべての敵に勝利することができるという約束が、ここでは語られています。神が彼らの旅路に伴われるとき、信仰の民イスラエルはすべて必要なものを備えられ、すべての敵の攻撃から守られるのです。そのようにして、彼らは荒れ野の困難な旅を続けることができました。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、あなたはわたしたちの信仰の旅路にも、常に必要なのものを備えて、伴ってくださいます。どうぞ、わたしたちをあなたの命のみ言葉によって養い、導いてください。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
