2026年4月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:出エジプト記3章1~10節
使徒言行録16章16~24節
説教題:「フィリピでの伝道と迫害」
パウロの第二回世界伝道旅行は、当初の予定では第一回伝道旅行で建てられた小アジア地方の諸教会を再訪問して彼らを励ますというのが主な目的でした。その目的がほぼ果たし終えたのちに、彼は小アジアの北西はしにあるトロアスという町で、一つの幻を見ました。「マケドニアに渡って来て、わたしたちを助けてください」という声を聞いたのです。そこで、パウロはそれを神の導きと信じ、すぐにエーゲ海を渡ってヨーロッパ大陸の入り口であるマケドニア地方(今のギリシャ)へと旅を続けることにしたのでした。その最初の伝道地が、当時ローマの植民都市であったフィリピでした。そして、この町でリディアという女性とその一家が洗礼を受けました。この一家がフィリピ教会の大きな柱、土台となっただけでなく、これから先のマケドニア(ギリシャ)地方の伝道、更にはヨーロッパ伝道全体にとっても、強力な伝道の拠点となったということを、パウロがのちにこの教会にあてて書いた手紙から、わたしたちは知ることができます。この時に誕生したフィリピ教会がパウロのこののちの伝道旅行のために経済的にも、また特別に親しい信仰の交わりにおいても、大きな支えとなったのでした。神はこのようにして、パウロの当初の予定や目的をはるかに超えた豊かな恵み、大きな実りをお与えになって、全世界に主キリストの福音を告げ広めるお働きを続けてくださいました。
では、きょうはフィリピでの伝道活動の後半の箇所を読んでいくことにしましょう。【16節】。「祈りの場所に行く途中」とありますから、13節と同様に、ユダヤ人の安息日である土曜日に、ユダヤ人が集まって来ていることを期待して、パウロたちは出かけて行ったと推測できます。「わたしたち」という主語が10節から始まっていますが、前回説明しましたように、パウロと最初から同行していたシラス、途中から加わったテモテ、そして、たぶんマケドニアから参加した、この使徒言行録の著者であるルカ、この4人を指すと考えられます。
パウロたちがフィリピで経験した第二の出会いも女性でした。彼女は「占いの霊に取りつかれている女奴隷」であったと書かれています。「占いの霊」は原語のギリシャ語では「ピュトンの霊」という言葉であり、ピュトンとはギリシャの神デルフィからのお告げをする霊で、腹話術のようにこわ声を使って話をしていたようです。下北半島恐山のイタコや沖縄のユタと似ているところがあります。紀元1世紀のギリシャにおいても、21世紀の日本の地においてもそうであるように、人間の運命を司る神々が信じられ、自分の将来を知りたいと願う人間の欲求を満たすために、多額の報酬をもらい、神々の声に真似て語る占い師という者が、いつの世にも存在しています。
しかし、わたしたちキリスト者はそのような偽りの神々の声に惑わされることは決してありません。わたしたちが信じている神は天地万物を創造され、造られたものを今もなお見えざる強いみ手を持って保持され、導いておられる全能の父なる神であられ、ご自身のみ子・主イエス・キリストによって、わたしたちの救いに必要なすべてのみ言葉をお語りくださり、終わりの日に神の国を完成される日まで、すべての被造物をご自身の摂理によってご支配くださる主なる神であられます。それゆえに、わたしたちは他のどのような神々と言われるものがあろうとも、その声に耳を傾ける必要はありませんし、それらの神々を恐れる必要もありません。
この占いの霊に取りつかれた女性は女奴隷と言われています。彼女には何人かの主人がおり、その人たちの奴隷となって、彼女が占いで得た収入はすべてそれらの主人のものになりました。彼女は偽りの悪しき霊に支配され、悪しき人間たちにも支配され、彼女には人間としての基本的な人権も自由もありませんでした。哀れで悲惨な罪の奴隷でした。偽りの神々に仕える人は皆、そのように、人間としての尊厳と自由とを失い、哀れな罪に支配された人間となる以外にありません。
【17~18節】。占いの女性がパウロたちについて語ったことは、確かにそのとおりであると言えるように思われます。パウロたちは「いと高き神の僕」たちであり、主イエス・キリストの十字架と復活の福音による救いの道をフィリピの人々に、また全世界の人々に宣べ伝える伝道者たちであることは事実でした。にもかかわらず、パウロはその彼女の告白を受け入れてはいません。それは、悪しき霊による偽りの告白だと、退けています。
なぜパウロはそうしたのか。二つの理由が考えられます。一つは、彼女の告白の内容が正しいとしても、その告白をさせているのが悪しき霊、偽りの神によるのだとすれば、それは真実の告白ではないからです。主イエスもまた、マルコによる福音書1章21節以下で、汚れた霊に取りつかれていた男の人が、主イエスを「神の聖者だ」と叫んだ時に、その告白を受け入れずに、「黙れ、この人から出ていけ」とお命じになって、彼から汚れた霊を追い出されたことが書かれています。主イエスは悪しき霊による告白を拒絶され、それだけでなく、悪しき霊を滅ぼされ、その人を悪しき霊から解放し、救われたのです。
もう一つの理由として考えられることは、この占いの女性の告白がギリシャの主神であるゼウスの神を考えていたのかもしれないという理由です。「いと高に神」が聖書で証しされている主なる神ではなく、ギリシャの神を指していたということが考えられます。それは全く正しい告白ではありません。
パウロは占いの霊に対してこう命じます。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」と。そうするとすぐに、その霊が彼女から出ていったと書かれています。「主イエスの名によって」という言葉は、使徒言行録の中でこれまでも何度か繰り返して語られていました。【3章6節】(217ページ)。ペトロは生まれつき足が不自由だった男の人を、「イエス・キリストのみ名によって」立ち上がらせ、神を賛美して歩く人に変えました。また【4章10節】(219ページ)。「イエス・キリストの名によって」とは、主イエス・キリストご自身を指しています。また、主イエス・キリストの人格、みわざ、み言葉のすべてを指しています。主イエス・キリストのご受難と十字架の死、そして三日目の復活、40日目の召天によって示された救いの恵み、そのみ力、その権威のすべてを指しています。主イエスはすでに十字架の死と復活によってすべての悪しき霊と罪と死とに勝利しておられます。その主イエスの勝利が今ここで占いの霊に対する主イエスの勝利として宣言されたのです。
そのようにして、主イエス・キリストは今日のわたしたちの教会においても、主イエス・キリストのみ名が語られ、信じられ、賛美されるときに、わたしたちのすべての奉仕や祈りの中で、今もなお力強く働いてくださいます。「イエス・キリストの名によって」洗礼が授けられる時、そこに罪ゆるされて新しい命に生かされている信仰者が誕生します。「イエス・キリストの名によって」わたしたちが祈るときに、そこに神のみ心が実現します。「イエス・キリストのみ名によって」わたしたちが礼拝をささげ、み言葉を聞き、捧げものをささげ、奉仕と愛の交わりをなす時に、そこに主キリストの体なる教会が建てられます。
では次に【19~24節】。占いの霊に取りつかれていたこの女性は、パウロによって悪しき霊の支配から自由にされましたが、彼女の占いによってお金をもうけていた主人たちは、収入減が絶たれたという全く個人的な理由によって、パウロとシラスを捕らえ、二人を役人に引き渡しました。裁判の席では、主人たちは自分たちの個人的な理由ではなく、パウロたちがフィリピの町全体を混乱させている犯罪人として告白しています。
彼らが挙げている告発理由の第一点は、パウロたちがユダヤ人であるということです。フィリピはローマの植民都市として、本国から移住してきたローマ人がほとんどでしたから、この町ではユダヤ人であること自体が住民の反感をかう理由になったと推測されます。第二の告発理由は、町の秩序をかき乱す騒乱罪、第三は、ローマ人にとって違法な慣習を宣伝していることが挙げられています。当時のローマ帝国においては、ユダヤ教の教えは一般的には黙認されていたようですが、ローマ人に直接その宗教を宣伝することは禁じられていました。彼らはパウロたちの教えをユダヤ教と理解していたのかもしれません。占いの霊を追い出したのは、ユダヤ教の教えによるものだと考えたのかもしれません。
けれども、パウロたちが宣べ伝えていた福音が、主イエス・キリストの福音であるということに、彼らはまだ気づいてはいません。主イエス・キリストの福音が、今全世界のすべての人々に、罪と死に対する大いなる勝利をもたらしたのだということを、彼らはまだ知りません。というのも、彼らは自分たちの収入源が失われたことにしか関心がなかったからです。一人の女性が主イエス・キリストのみ名によって悪しき霊の支配から解放されたという救いの事実を彼らはまだ見ていないからです。
それにしても、ローマの植民都市であり、他の宗教の設立が法律で禁じられたいたこのフィリピの町にキリスト教会が建てられたということ、またこののちには、テサロニケやコリントの町々にも次々と教会が建てられていったということ、それは実に驚くべき出来事であったということが分かります。
パウロとシラスはむち打ちの刑を受けることになり、その後、厳重に見張られた牢獄につながれることになりました。むち打ちの刑は、公衆の面前で衣服を脱がされて裸にされ、動物の骨や石を縫い込んだむちで打たれるという、屈辱と痛みを伴う、耐え難い刑でした。パウロはコリントの信徒への手紙二11章でこのように書いています。【23節b~25節】(338ページ)。「鞭で打たれたことが三度」とある、その一回がフィリピでのこのことを指していると思われます。
けれども、わたしたちはここでもこの聖書のみ言葉を思い起こします。「しかし、神の言葉は決してつながれてはいない」(テモテへの第二の手紙2章9節)。神の言葉はやがてパウロたちがつながれている鎖を断ち切ることになるでしょう。そしてまた、神の言葉はすべての困難を越えて、今もなお前進していきます。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、あなたの永遠なる救いのご計画が今もなお世界のあらゆる国々で、町々で、進められていることを信じます。どうか、この秋田の地においても、あなたを信じる人が次々と起こされ、あなたの救いの福音が力強く宣べ伝えれていきますように、切に祈ります。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
