2025年11月9日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
逝去者記念礼拝
聖 書:詩編90編1~17節
ペトロの手紙一1章22~25節
説教題:「生涯の日々を正しく数える知恵を与えてください」
詩編90編の詩人は10節でこのように言っています。「人生の年月は七十年程のものです。健やか人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります」と。この詩人は、表題によればモーセという古い時代のイスラエルに生きた人です。紀元前13世紀ころの信仰者ですから、今から3500年以上も前の人ですが、人間の一生を考える感覚は、今日のわたしたちと全くと言ってよいほど変わりません。現代に生きている、年を重ねた多くの人たちも、このモーセと同じように、「わたしは70年間、もう少しで80年間、一生懸命に生きてきたけれど、苦労が多かったなあ、失敗も多かったなあ。だけど今振り返れば、あっという間だったような気がする」という言葉で、その人の一生を語るのかもしれません。多くの人がこの詩人に共感することでしょう。
そこで、さらに読み進めていくと、12節では詩人はこう言います。【12節】。ここで詩人は、彼がこれまで生きてきた70年、80年の生涯を振り返りながら、自分のすべての人生の歩みが、いったいどんな意味があったのだろうか。そして、残されたわずかの日々を、どのように生きていったらよいのだろうか、と深く考えながら、彼は「どうかわたしに人間として知るべき本当の知恵を与えてください」と願い求めているのです。では、ここで詩人が、「どうぞわたしに教えてください」と願っている相手は、だれでしょうか。それは、彼がこの詩の冒頭で呼びかけている相手です。「主よ、あなたは」と呼びかけている、主なる神のことです。詩人は、主なる神に対して、「主よ、どうぞわたしに、わたしの生涯の日々を正しく数える知恵を与えてください」と、祈り求めているのです。「なぜならば、その知恵を与えることがお出来になるのは、主なる神よ、ただあなたお一人だからです。そして、もしあなたからその知恵を与えられなければ、わたしの70年、80年の生涯の意味を、正しく理解することができず、正しく受け止めることができないからです。また、これからの残されているわずかな生涯を正しく生きることもできないからです」と、この詩人は言うのです。
では、「生涯の日を正しく数える知恵」とは、どのような知恵のことでしょうか。これが、きょうの逝去者記念礼拝の日の説教の中心、ポイントです。ご一緒に、詩編90編のみ言葉から、この問いの答えを見いだしていきましょう。
「知恵」という言葉は、旧約聖書の中では非常に重要で、また深い内容を持つ言葉です。旧約聖書の中には知恵文学に分類される文書があります。ヨブ記や、コヘレトの言葉、また箴言、詩編の一部も知恵文学に分類されます。イスラエルの人たちは「知恵」という言葉によって、人間がなぜ生きるのか、あるいはどのように生きるべきなのか。また、なぜ死ぬのか、なぜ苦しんだり迷ったりするのか。なぜ神を信じるのか、どのように神を信じるべきなのかという課題を取り扱いました。「知恵」はまさに人間を深く知ること、神を深く知ること、信仰を深く知ることに深くコミットメントしています。
箴言1章7節には、「主を恐れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」とあり、2章6節には、「知恵を授けるのは主。主の口は知識と英知を与える」と書かれています。人間が人間として知るべき知恵は、ただ主なる神からのみ与えられる。他の人間からも自然や宇宙からも、他のいかなるところからも本当の知恵は与えられない。そして、人間は神から与えられる知恵によって生きるときにこそ、本当の人間として、その人の人生を生きることができる。そのことを箴言は繰り返して教えているのです。
さて、では、本題です。「わたしの生涯の日々を正しく数える知恵」とはどのような知恵のことなのでしょうか。詩編90編の最初から改めて読んでいきましょう。そうすると、すぐに気づくことがあります。それは、この詩人は人間としての自分を考えるに際して、自分を主なる神との関係の中で考えているということです。【1~2節】。人間は人間仲間だけで生きているのではありません。他の生き物、自然、環境などとのかかわりの中で生きています。それ以上に、人間は主なる神との関係の中で、その神の大きなみ手の中で生きているのだというのが、この詩人の信仰です。
その信仰から、彼はさらに次のことを教えられます。神は天地万物を創造され、それらのすべてを今もなおご支配しておられる。その神の偉大さ、永遠性、普遍性、そして無限性に比べると、人間である自分はなんと小さく、弱く、はかなく、限りある存在であることか。詩人は3節からそのことを告白せざるを得ません。【3~6節】。天地万物を創造され、そのすべてをみ手に治めておられる神、生きるものすべての命を支えておられる神、その神の偉大さ、無限さ、永遠なる存在の前では、人間は朝に花を咲かせ、夕べにはしおれる草花に過ぎない。そのことを知ること、それこそがわたしたち人間が神から教えられる知恵なのだと言ってよいでしょう。
人間は、全能で永遠なる神のみ前に立つとき、そのみ手の中に包まれるときに、初めて自らの小ささ、はかなさを教えられるのです。そうでなければ、人間はどこまでも傲慢で、自らの有限性に気づかず、自ら死すべき者であることを忘れて、自らを小さな神々のように錯覚してしまうのです。聖書はそれこそが、神を忘れた人間の罪だと言うのです。
この詩人は、神のみ前での自らのはかなさ、死すべき存在を自覚させられるとともに、それだけでなく、それが人間の罪に対する神の怒りの結果であることをも知らされます。彼の告白はいよいよ深刻になります。【7~11節】。神のみ手の中にある人間、神のみ前に立たされている人間が、自らをどのような人間であるのか自覚させられるとき、その究極は、人間が神に背き、神から離れている罪びとであるということを知ること、神の怒りと裁きの前で消え去り、死すべき人間であることを知ること、これこそが人間が神から教えられる最大の知恵なのだと、詩人は告白しています。
そうしますと、きょうの説教の最初に読んだ10節のみ言葉は、単に人生のはかなさを嘆いたり、あるいは人生の無常を情緒的に歌ったのではなく、もっと深刻な、人間の死すべき存在、人間の罪の存在を、恐れとおののきとをもって告白していた言葉であったということに、わたしたちは気づかされるのです。
そしてまた、そのような人間の深刻な罪の存在を告白する詩人の祈り願いであるからこそ、12節の、【12節】という彼の祈りの真剣さが伝わってくるのです。「主なる神よ、ぜひとも、わたしのこの祈り願いをお聞きください。わたしのこれまでの生涯の日々を正しく数え、またこれからの残されているわずかな生涯の日々をも正しく数える知恵をあなたから与えられなければ、わたしのすべての生涯は空しく飛び去り、意味なく消え去っていくしかないのですから」。これが詩人の切なる祈り願いなのです。
では、これまで学んできたこの詩編の内容から、「生涯の日を正しく数える知恵」とはどのような知恵なのかを、探っていきましょう。一つには、数を数えるということは、1から数え始めて、最後は70になるか、または80になるか、あるいはそれ以上になるかは別として、いずれにしてもその数には終わりがくるということ、つまり、わたしの生涯には終わりがあるということ、わたしは死すべき存在なのだということを知ること、それが人間が知るべき知恵の第一であるということです。
わたしたち人間はしばしばそのことを忘れています。それを忘れるということは、本当は愚かなことであり、だれでもが簡単に気づくべきことなのに、人間は意識的にも無意識的にも、そのことを忘れています。そのことが人間の途方もない傲慢さを生み出し、神の存在をも脅かすほどの恐るべき悪や狂気を生み出し、世界の歴史を暗黒の狂乱と戦争、殺戮へと導くのです。
しかし、詩人は願うのです。「わたしの生涯には限りがあり、わたしは死すべき存在であるゆえに、どうか主なる神のみ前にあって、わたしを謙遜なものにしてください。神を恐れる者にしてください」と。
もう一つのことは、わたしに与えられたこれまでの70年、80年、あるいはまだ数十年の人もいるでしょうが、その過去の一日一日を数える知恵のことです。すなわち、わたしが歩んできたわたしの生涯のすべての日々、その一日一日のすべてが、神のみ手の中にあったのであり、神の恵みと導きの日々であったということを知り、その一日一日を神に感謝する日として数えるということです。あの時の苦しみのときにも、悩みのときにも、孤独であったときにも、神はわたしを忘れてはおられなかった。わたしをお見捨てにはならなかった。あるいはまた、わたしの失敗や過ちのすべてをも、神は覚えておられ、それでもわたしから離れなかった。その神が共に歩んでくださった過去の日々を、一日一日と数えて、神に感謝すること、これが人間に与えられている知恵なのです。
そして第三に、わたしの残されているあとわずかな生涯の歩み、あるいはこれから何十年も続くであろうわたしの生涯の歩みの一日一日を数えて、その日に与えられるであろう神の恵みと導きとを信じ、それを数えて生きていくという知恵です。
詩人は13節以下でこのように願っています。【13~17節】。神の慈しみは永遠に続きます。わたしが経験した多くの苦難や災いにもはるかにまさって、神の慈しみはわたしの人生を満たし、わたしの人生に意味を与え、わたしに喜びを与えます。わたしの生涯の終わりまで、神の慈しみは絶えることはありません。それのみか、わたしの生涯が終わったのちにも、神の慈しみはわたしから離れません。そのことを知る知恵こそが、わたしの生涯のすべての歩みを満たし、そしてまた、わたしに与えられている永遠の命の約束を確かにするのです。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、わたしたちをきょうの逝去者記念礼拝へとお招きくださいました幸いを心から感謝いたします。あなたがこの秋田の地にわたしの教会をお建てくださり、多くの信仰者をここにお集めくださいました。わたしたちは今、彼ら多くの信仰の先達者たちに雲のように囲まれています。どうか、この教会の歩みを更にお導きください。きょうの礼拝に集まったすべての人にあなたからの祝福が豊かに与えられますように。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
