2026年8月9日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:マラキ書3章1~5節
ルカによる福音書12章41~48節
説教題:「主キリストの再臨は遅くなることはない」
前回から学んでいるルカによる福音書12章35節以下の主イエスの説教は、キリスト教教理で終末論と言われる教えに関連しています。終末の時、人の子・主イエス・キリストが再臨される時、今あるこの古い世界はすべて滅び去り、神がご支配される新しい世界、神の国が完成される。その時には、すべての人は主なる神のみ前で最後の審判を受け、永遠の救いか永遠の滅びかに分けられる。主イエス・キリストを信じる人は神から永遠の命を与えられ、永遠に神と共にいる神の国の民とされる。これが、キリスト教終末論のあらましです。
福音書に書かれている主イエスの説教は、ほとんどが終末論的な内容を含んでいます。主イエスはそれを「神の国のたとえ」として語っておられます。ルカ福音書でも、このあとに記されている主イエスの説教の多くが、終末論的な要素を含んでいます。
わたしたちは今日、「終末」ということをあまり意識しません。キリスト教の教理の中にそのような項目があるという程度にしか受け止めておらず、自分自身の信仰の歩みや、教会形成、教会の宣教の課題などの中で終末論が議論されることはほとんどありません。でも、それは主イエスの説教、教え、主イエスの十字架と復活の福音の中にある終末論という、かなり大きな、重要な内容を見失っているのではないだろうかと、反省してみなければなりません。主イエスご自身の教えの中に確かに終末論があるのですから、また聖書の中の書簡等に書かれているように、初代教会の信仰の中にも確かに終末論があるのですから、わたしたちもそれを無視できません。そこから教えられる終末論を、今日のわたしたちの信仰の内容、信仰の課題として真剣に受け止めることが必要です。
『使徒信条』でわたしたちは礼拝のたびに告白していることを思い起こしましょう。「(主は)そこから来て、生きている者と死んでいる者とをさばかれます」。また、『日本キリスト教会信仰の告白』の中では、「終わりの日に備えつつ、主が来られるのを待ち望みます」と告白しています。今は天におられ、父なる神の右に座しておられる主イエス・キリストが再びわたしたちのところに来て、わたしたちの信仰を完成させてくださる終末の時を待ち望み、その時に備えて生きるというのが、わたしたちキリスト者の生き方です。
ルカ福音書12章40節で、主イエスはこのように言われます。【40節】。人の子・主イエスは、誰もが予想しえないときに、ある日突然に来られるということが、ここでは強調されています。35節からの最初のたとえ話でもそのことが暗示されていました。だから主イエスは、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。目を覚ましている人は幸いだ」と言われたのです。また、39節では【39節】との言われたのです。
きょう朗読された41節以下のたとえ話では、主人の帰りが遅いことがテーマになっています。これもまた、人の子・主イエスがいつ来られるのかは誰にも知られていない、全く思いがけない時に、人の子は来られるという40節に関連しています。
では、きょうの箇所を学んでいきましょう。【41~44節】。35節からの最初のたとえ話でも、42節からの第二のたとえ話でも共通している舞台設定があります。一つには、家の主人が旅行で家を留守にするという設定です。もう一つは、家の主人と僕たち、あるいは管理人という関係です。主人が用事で出かけている間、僕と管理人はその家を守る責任が託されています。きょうのたとえ話では特にそのことが強調され、家の管理人が召使たちに食べ物を分配させる責任をきちんと果たしているかが問われています。
主イエスはここにどのような意図を持っておられたのでしょうか。いくつのことが推測できます。一つは、主イエスは復活されて40日目に天に昇られ、わたしたちの目の前からはそのお姿は見えなくなりましたが、やがてまた帰って来られるということです。これは推測と言うよりは、主イエスご自身の確かな約束ですが。これがキリスト教終末論の再臨ということです。
二つには、主イエスが天に昇られて再びこの地に帰って来られるまでの間、主イエスの僕であるわたしたち信仰者は、主イエスから託された務めを忠実に果たしながら、主イエスがお建てくださった家を守り、管理し、いつご主人が帰って来てもよいように、家の中も、迎える本人の心と行動をも、整えて、準備しておくべきであるということです。きょうの二つ目のたとえ話では、家の僕たちに時間どおりに食事を分配する管理人のことが言われていますから、これはもしかしたら、教会の指導者の務め、その責任の重大さを教えているのかもしれません。
すなわち、わたしたちは今、主イエス・キリストが最初においでになられた降誕日・クリスマスと、再びおいでになる再臨の時・終末の時という、この二つの「時の間」にいるのだということです。そして、その「時の間」にいるわたしたちは、主イエスがお建てくださった教会という神の家で共同生活を続け、主イエスから託された務めに忠実に励み、主イエスのお帰りを待ちつつ、その時に備えているのです。
主イエスがお話になった他の多くの「神の国のたとえ」でも、同じような舞台設定なっていることを確認できます。マタイ福音書25章の「十人のおとめのたとえ」や「タラントンのたとえ」などはその代表例です。主イエスは地上の歩みをしている間、弟子たちに何度もご自分の受難予告をなさいました。「わたしはこれからエルサレムで長老や祭司長たちから捨てられ、裁判にかけられ、十字架につけられ、そして三日目に復活することになっている」と。主イエスはそれだけでなく、天に昇られてから世の終わりと神の国が完成されるときに至るまでの、神の永遠の救いのご計画をあらかじめ知っておられ、その時に至るまでの教会の歩みをも暗示しておられたのです。
次に、最初に挙げたこのたとえ話の大きな特徴である、主人の帰りが遅いということについてです。これは第一のたとえではいつ主人が帰って来るか分からないから、いつ帰って来てもよいように、いつも目を覚まして、待っていなさいと言われていたことと関連しています。主イエス・キリストの再臨がいつになるのか、つまり世の終わり、神の国が完成される終末はいつ来るのかは誰にも分からない。これがキリスト教終末論の、見落としてはならない大きな特徴なのです。ですからまた、いつも目を覚ましているべきこと、いつでもその備えをしているべきこと、今のすべての時が、終末に向かっての一刻一刻、一日一日だということを主イエスは強調しておられるのです。
それとともに、のちの教会の民がいつ主イエスの再臨があるのだろうかと待っている間に、その時を知りたくなって、勝手に自分たちで日にちを決めたり、あるいは待ちくたびれて、主イエスの再臨はまだまだ先のことだから、今からその準備をする必要はないと考えたりする、そのような間違った考えが生じるということをも、主イエスはご存じだったのです。
実際に、教会が誕生して20年、50年が過ぎると、紀元1世紀後半の初代教会の中では、主イエスの再臨は主イエスが言われたよりも遅れているのではないかとか、主イエスの再臨はないかもしれないというように考える教会もあったということが、知られています。その箇所をいくつか読んでみましょう。
まず、【ペトロの手紙二3章3~4節、8~9節】(439ページ)。
次に、テサロニケの教会にあてて書かれた二通の手紙は、その内容のほとんどが主イエス・キリストの再臨と終末のことに関して教えられています。その手紙一4章13節からは(377ページ)、主イエス・キリストが再臨されるときにはすべての信仰者が神のラッパの号令によって天に引き上げられ、主キリストと出会い、永遠に主と共にいることになると教えられているあとで、このように書かれています。【5章1~6節】(378ページ)。
これらの聖書で教えられていることをまとめてみます。異教世界の中に建てられた教会が人々の反対やあざけりにあい、迫害を経験し、それが長く続いていくにつれて、信仰の戦いに疲れ果て、信仰を捨ててしまいたいと思う時代がやって来ます。主イエスが再臨されるときにはすべてが新しくされ、救いが完成されると約束してくださったけれども、その主イエスの再臨は遅くなり、いまだその約束は果たされていません。初代教会の多くがそのような試練の中にありました。そしてやがて、ローマ帝国による大規模な迫害が始まろうとしています。
そのような試練の中で、パウロや他の使徒たちは弱っている教会、迷っている教会を励まし、主イエス・キリストが約束された再臨の時は必ず来る。その時にはすべての罪と悪、そして死が滅ぼされ、神の国が完成される。そして、キリスト者の信仰が完成される。死者の復活が起こり、永遠の命が与えられ、教会の民は永遠に主と共にいることになる。だから、その終末の時、主イエスの再臨の時を確かな信仰を持って、この苦難の時代を耐え忍びなさい。そのように勧めているのです。
わたしたちもまた、同じ信仰を持って、「主の委託により正しくみ言葉を宣べ伝え、聖礼典を行い、信徒を訓練し、終わりの日に備えつつ、主が来られるのを待ち望みます」。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、あなたがお始めになった救いのみわざは、終わりの完成に向かってきょうもまた前進しています。そのことを信じて、わたしたちもまた世界の諸教会と共に、主キリストの再臨の時を待ち望みつつ、あなたから託されている福音宣教の務めを果たすことができますように、お導きください。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
