8月9日説教「主キリストの再臨は遅くなることはない」

2026年8月9日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:マラキ書3章1~5節

    ルカによる福音書12章41~48節

説教題:「主キリストの再臨は遅くなることはない」

 前回から学んでいるルカによる福音書12章35節以下の主イエスの説教は、キリスト教教理で終末論と言われる教えに関連しています。終末の時、人の子・主イエス・キリストが再臨される時、今あるこの古い世界はすべて滅び去り、神がご支配される新しい世界、神の国が完成される。その時には、すべての人は主なる神のみ前で最後の審判を受け、永遠の救いか永遠の滅びかに分けられる。主イエス・キリストを信じる人は神から永遠の命を与えられ、永遠に神と共にいる神の国の民とされる。これが、キリスト教終末論のあらましです。

 福音書に書かれている主イエスの説教は、ほとんどが終末論的な内容を含んでいます。主イエスはそれを「神の国のたとえ」として語っておられます。ルカ福音書でも、このあとに記されている主イエスの説教の多くが、終末論的な要素を含んでいます。

 わたしたちは今日、「終末」ということをあまり意識しません。キリスト教の教理の中にそのような項目があるという程度にしか受け止めておらず、自分自身の信仰の歩みや、教会形成、教会の宣教の課題などの中で終末論が議論されることはほとんどありません。でも、それは主イエスの説教、教え、主イエスの十字架と復活の福音の中にある終末論という、かなり大きな、重要な内容を見失っているのではないだろうかと、反省してみなければなりません。主イエスご自身の教えの中に確かに終末論があるのですから、また聖書の中の書簡等に書かれているように、初代教会の信仰の中にも確かに終末論があるのですから、わたしたちもそれを無視できません。そこから教えられる終末論を、今日のわたしたちの信仰の内容、信仰の課題として真剣に受け止めることが必要です。

 『使徒信条』でわたしたちは礼拝のたびに告白していることを思い起こしましょう。「(主は)そこから来て、生きている者と死んでいる者とをさばかれます」。また、『日本キリスト教会信仰の告白』の中では、「終わりの日に備えつつ、主が来られるのを待ち望みます」と告白しています。今は天におられ、父なる神の右に座しておられる主イエス・キリストが再びわたしたちのところに来て、わたしたちの信仰を完成させてくださる終末の時を待ち望み、その時に備えて生きるというのが、わたしたちキリスト者の生き方です。

 ルカ福音書12章40節で、主イエスはこのように言われます。【40節】。人の子・主イエスは、誰もが予想しえないときに、ある日突然に来られるということが、ここでは強調されています。35節からの最初のたとえ話でもそのことが暗示されていました。だから主イエスは、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。目を覚ましている人は幸いだ」と言われたのです。また、39節では【39節】との言われたのです。

 きょう朗読された41節以下のたとえ話では、主人の帰りが遅いことがテーマになっています。これもまた、人の子・主イエスがいつ来られるのかは誰にも知られていない、全く思いがけない時に、人の子は来られるという40節に関連しています。

 では、きょうの箇所を学んでいきましょう。【41~44節】。35節からの最初のたとえ話でも、42節からの第二のたとえ話でも共通している舞台設定があります。一つには、家の主人が旅行で家を留守にするという設定です。もう一つは、家の主人と僕たち、あるいは管理人という関係です。主人が用事で出かけている間、僕と管理人はその家を守る責任が託されています。きょうのたとえ話では特にそのことが強調され、家の管理人が召使たちに食べ物を分配させる責任をきちんと果たしているかが問われています。

 主イエスはここにどのような意図を持っておられたのでしょうか。いくつのことが推測できます。一つは、主イエスは復活されて40日目に天に昇られ、わたしたちの目の前からはそのお姿は見えなくなりましたが、やがてまた帰って来られるということです。これは推測と言うよりは、主イエスご自身の確かな約束ですが。これがキリスト教終末論の再臨ということです。

 二つには、主イエスが天に昇られて再びこの地に帰って来られるまでの間、主イエスの僕であるわたしたち信仰者は、主イエスから託された務めを忠実に果たしながら、主イエスがお建てくださった家を守り、管理し、いつご主人が帰って来てもよいように、家の中も、迎える本人の心と行動をも、整えて、準備しておくべきであるということです。きょうの二つ目のたとえ話では、家の僕たちに時間どおりに食事を分配する管理人のことが言われていますから、これはもしかしたら、教会の指導者の務め、その責任の重大さを教えているのかもしれません。

 すなわち、わたしたちは今、主イエス・キリストが最初においでになられた降誕日・クリスマスと、再びおいでになる再臨の時・終末の時という、この二つの「時の間」にいるのだということです。そして、その「時の間」にいるわたしたちは、主イエスがお建てくださった教会という神の家で共同生活を続け、主イエスから託された務めに忠実に励み、主イエスのお帰りを待ちつつ、その時に備えているのです。

 主イエスがお話になった他の多くの「神の国のたとえ」でも、同じような舞台設定なっていることを確認できます。マタイ福音書25章の「十人のおとめのたとえ」や「タラントンのたとえ」などはその代表例です。主イエスは地上の歩みをしている間、弟子たちに何度もご自分の受難予告をなさいました。「わたしはこれからエルサレムで長老や祭司長たちから捨てられ、裁判にかけられ、十字架につけられ、そして三日目に復活することになっている」と。主イエスはそれだけでなく、天に昇られてから世の終わりと神の国が完成されるときに至るまでの、神の永遠の救いのご計画をあらかじめ知っておられ、その時に至るまでの教会の歩みをも暗示しておられたのです。

 次に、最初に挙げたこのたとえ話の大きな特徴である、主人の帰りが遅いということについてです。これは第一のたとえではいつ主人が帰って来るか分からないから、いつ帰って来てもよいように、いつも目を覚まして、待っていなさいと言われていたことと関連しています。主イエス・キリストの再臨がいつになるのか、つまり世の終わり、神の国が完成される終末はいつ来るのかは誰にも分からない。これがキリスト教終末論の、見落としてはならない大きな特徴なのです。ですからまた、いつも目を覚ましているべきこと、いつでもその備えをしているべきこと、今のすべての時が、終末に向かっての一刻一刻、一日一日だということを主イエスは強調しておられるのです。

 それとともに、のちの教会の民がいつ主イエスの再臨があるのだろうかと待っている間に、その時を知りたくなって、勝手に自分たちで日にちを決めたり、あるいは待ちくたびれて、主イエスの再臨はまだまだ先のことだから、今からその準備をする必要はないと考えたりする、そのような間違った考えが生じるということをも、主イエスはご存じだったのです。

 実際に、教会が誕生して20年、50年が過ぎると、紀元1世紀後半の初代教会の中では、主イエスの再臨は主イエスが言われたよりも遅れているのではないかとか、主イエスの再臨はないかもしれないというように考える教会もあったということが、知られています。その箇所をいくつか読んでみましょう。

 まず、【ペトロの手紙二3章3~4節、8~9節】(439ページ)。

 次に、テサロニケの教会にあてて書かれた二通の手紙は、その内容のほとんどが主イエス・キリストの再臨と終末のことに関して教えられています。その手紙一4章13節からは(377ページ)、主イエス・キリストが再臨されるときにはすべての信仰者が神のラッパの号令によって天に引き上げられ、主キリストと出会い、永遠に主と共にいることになると教えられているあとで、このように書かれています。【5章1~6節】(378ページ)。

 これらの聖書で教えられていることをまとめてみます。異教世界の中に建てられた教会が人々の反対やあざけりにあい、迫害を経験し、それが長く続いていくにつれて、信仰の戦いに疲れ果て、信仰を捨ててしまいたいと思う時代がやって来ます。主イエスが再臨されるときにはすべてが新しくされ、救いが完成されると約束してくださったけれども、その主イエスの再臨は遅くなり、いまだその約束は果たされていません。初代教会の多くがそのような試練の中にありました。そしてやがて、ローマ帝国による大規模な迫害が始まろうとしています。

 そのような試練の中で、パウロや他の使徒たちは弱っている教会、迷っている教会を励まし、主イエス・キリストが約束された再臨の時は必ず来る。その時にはすべての罪と悪、そして死が滅ぼされ、神の国が完成される。そして、キリスト者の信仰が完成される。死者の復活が起こり、永遠の命が与えられ、教会の民は永遠に主と共にいることになる。だから、その終末の時、主イエスの再臨の時を確かな信仰を持って、この苦難の時代を耐え忍びなさい。そのように勧めているのです。

 わたしたちもまた、同じ信仰を持って、「主の委託により正しくみ言葉を宣べ伝え、聖礼典を行い、信徒を訓練し、終わりの日に備えつつ、主が来られるのを待ち望みます」。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがお始めになった救いのみわざは、終わりの完成に向かってきょうもまた前進しています。そのことを信じて、わたしたちもまた世界の諸教会と共に、主キリストの再臨の時を待ち望みつつ、あなたから託されている福音宣教の務めを果たすことができますように、お導きください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

8月2日説教「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」

2026年8月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

             世界平和祈念礼拝

聖 書:イザヤ書2章1~5節

    マタイによる福音書5章1~10節

説教題:「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」

 日本キリスト教会は8月第一主日を「世界の教会を覚える日」と定めています。他の日本のキリスト教会では、「平和聖日」とか「世界の平和を覚える日」と定めている教派もあります。国連では、9月21日を世界平和記念日としています。日本のキリスト教会が、特にこの時期に日本と世界の平和を強く覚えるようにしている理由は、言うまでもなく、広島・長崎に原爆が投下された日、日本の終戦の日がこの時期だからです。秋田教会では2010年ころから8月第一主日を「世界の教会を覚える日」として、またその後には「世界の平和を祈念する日」として、世界の諸教会との連帯を強く覚えながら、また世界の平和を共に祈りながら、特別の礼拝をささげてきました。

 わたしたちの教会がこの時期に世界平和について深く考えるということに、どのような意味があるのかを改めて確認しておきたいと思います。日本の教会は1938年(昭和13年)の「国家総動員法」と翌年の「宗教団体法」が成立して以来、ほとんどの教派、教会が日本政府の戦争政策に迎合して、戦争に協力するという方向に傾きました。1941年には、日本のプロテスタント教会はみな「日本基督教団」に合同されました。礼拝の前には国民儀礼と称して、宮城遥拝を行い、戦争の遂行とその勝利のために祈り、軍用機のために献金をささげ、アジアの教会には神社参拝を強要しました。そのようにしてこの時代の日本の教会は、平和のためにではなく、戦争のために祈り、協力したのでした。そして、アジアへの侵略、「一億総玉砕」「特攻隊」「沖縄地上戦」「広島・長崎」そして「敗戦」、それらのすべてに、教会は積極的にかかわり、協力したのでした。

 わたしたちの教会が今日この日本の地で世界の平和を祈るときに、これらの過去の歴史を正しく認識し、それに対する真摯な反省と悔い改めとを持つことなしには、平和について考えるとか祈るということはできないのだということ、その重いたい歴史の反省に立って、平和を考え、平和のために祈らなければならないのだということ、そしてまた、わたしたちにはそのような非常に具体的な課題が与えられているのだということ、そのことを今改めて考えたいと思います。

 きょうの「世界平和祈念礼拝」で選んだ二つの聖書箇所、旧約聖書のイザヤ書2章1~5節と新約聖書、マタイによる福音書5章1~10節とを読み比べてみたいと思います。先に旧約聖書の方です。預言者イザヤは紀元前8世紀後半、強大なアッシリア帝国が近東諸国とパレスチナにまで勢力を拡大し、イスラエル南王国ユダにも戦争の足音が迫りつつあった、まさにその時に、イザヤは神から示された幻によって、終わりの日、終末の時に与えられるであろう永遠の平和を預言しました。全世界のすべての民が一人の主なる神を礼拝するようになる。人を殺戮し世界を破壊するすべての武器が火に溶かされてその役割を終え、新たに農地を耕す農具に打ち直される。人はもはや戦うことを学ぶ必要がなくなる。そのような永遠の平和が訪れるであろうと預言しました。

 それは、驚くべき預言です。いつの時代も、人間は自分の身を守るために、あるいは自分の国を守るために、武器を手にしてきました。より強力な武器を手にする者が、その時代とその世界とを支配することができると考えてきました。戦いは、自分を守るために、必要だと考えてきました。しかし、イザヤの預言はその根本を覆します。「もはや誰も戦うことを学ぶ必要がない。誰も武器を手に持つ必要がない」そのような時代が来ると、彼は預言しました。

 同じような平和の預言は9章にもあります。4節にはこのように書かれています。【9章4節】(1074ページ)。ここでも、戦争のために使用される兵士の靴や軍服がみな火で焼き尽くされると預言されています。なぜ、戦いの武器も軍服も必要なくなるのか。その理由が、5節以下に書かれています。【5~6節】。「平和の君」と呼ばれる一人のみどりごが生まれるからだと説明されています。この「平和の君」が世界の唯一の支配者、王として、「正義と恵みの業」によって全世界のすべての人、すべての民族を支配するようになるからだと。だから、誰も自分が世界の王になる必要がなくなる、世界の支配者になるために武器を手にする必要がなくなる。このひとりの王がすべての人を、すべての民族、すべての国を導き、それを守ってくれる。だから誰も自分を守るために武器を手に持つ必要がなくなる。イザヤはそのように預言しました。

 イザヤの預言は、彼の時代には百パーセント実現することはありませんでした。イザヤ以後の3千年近くの今日に至るまで、イザヤの預言は百パーセント実現したのを誰も見ていません。世界にはいつの時代には戦争があり、新たな武器が製造され、殺戮と破壊が繰り返されてきたのを、わたしたちは見てきました。でも、イザヤはやがていつかはその預言が成就され、永遠の平和がこの世界に与えられるであろうと信じていました。そして、わたしたちキリスト者もまた、神はやがてそのような永遠の平和を与えてくださるであろうと信じています。

 新約聖書では、主イエスが山上の説教の冒頭で、平和について教えておられます。【マタイ5章9節】(6ページ)。これも驚くべきみ言葉です。イザヤが預言した永遠の平和の預言にもまさって、主イエスはここでわたしたちに驚くべきみ言葉を語っておられます。預言者イザヤが旧約聖書で、終末の時の永遠の平和を預言したことを、わたしたちは驚きをもって読みました。もはや誰も戦いのことを学ばない、学ぶ必要がない真の平和が来る。すべての武器を手放して、皆が平和の中で地を耕す時代が来るとイザヤは預言しました。それに対して、主イエスはここで平和について、平和とは何かとか、いつどのようにしてその平和がくるのかということを語るのではなく、今主イエスのみ言葉を聞いているあなたに対して、わたしに対して、【9節】と語っておられるのです。

 すなわち、主イエスはこう言われます。「今、わたしの言葉を聞いているあなたがたは、なんと幸いであることか。あなたがたは平和を実現するために招かれている。あなたがたは神の子とされるためにここに招かれている。それは、なんと幸いなことか」と主イエスは語っておられるのです。ここでわたしたちは、平和についての解説とか説明を聞いているのではありません。平和についての勉強をしているのではありません。平和を実現する人として招かれているのです。これは驚くべき主イエスのみ言葉です。「えッ、このわたしが平和を実現するというのですか。その使命がわたしにあるというのですか」と思わず聞き返さなければならないほどに、大きな驚きをもって、わたしたちは主イエスのこのみ言葉を聞くのです。

 これはどういうことでしょうか。わたしたちはここで一つのことを確認できます。それは、主イエスが弟子たちに対して、またわたしたちに対して、「あなたがたは平和を実現する人として招かれている、あなたがたは平和を実現する幸いな人たちだ」と言っておられる背景には、すでにあなたがたには平和が与えられている、あなたがた自身が平和へと招き入れられているという事実があるからにほかなりません。でも、人間であるわたしが平和を創り出すことができるというのではないことは確かです。わたしたち人間は、聖書が至る所で教えているように、造り主なる神を捨て、神のみ言葉に背き、罪を犯し、それゆえに常に神と敵対し、また互いに敵対するほかにない罪びとです。

 そのようなわたしたちに対して、神は和解の使者として、ご自身のひとり子なる主イエス・キリストをお遣わしになったのです。そしてみ子の十字架の死と復活によって罪と死とに勝利してくださり、わたしたちとの和解を成し遂げてくださったのです。エフェソの信徒への手紙2章14節以下には次のように書かれています。【14~18節】(354ページ)。ここに、主イエス・キリストこそがわたしたちの平和であると教えられています。主イエスはご自身の十字架の死によって、神と人間と間を隔てていたすべての壁を打ち壊され、神とわたしたちとの間に真の平和を築いてくださいました。またその平和の福音を聞くわたしたちすべての人間をも平和の中へと招き入れてくださいます。

 わたしたちはすでに主イエス・キリストによって与えられた平和の福音の中へと招き入れられているのです。そのようなわたしたちに対して、【マタイ5章9節】と語りかけられているのです。神が主イエス・キリストの十字架の死という尊い犠牲を払って築いてくださった平和の中に招き入れられているわたしたちは、平和の使者として、この世へと遣わされいます。平和を実現する幸いな人として生きるようにと招かれているのです。そこにわたしたちの課題があります。

 ある人は日本の平和のために祈り、働きます。『日本国憲法』第9条で、 このように定められていることの重要さを訴えます。「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は 武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」どのような武器も国際紛争解決のためには用いないという決意は、イザヤ書の預言に接近しています。

 ある人は、「すべての武器を楽器に」と訴え、沖縄で反戦平和のために戦います。ある人は、核爆弾1個を製造する費用で、何人のおなかをすかせた子どもたちの食事を提供できるかという、途方もなくけた外れの計算に真面目に取り組もうとします。

 そして、ある人は、世界の平和のために神に祈ります。そうです。これこそが、すべての人に与えられている、そして平和を実現しなさいとの主イエスのご命令に忠実に従う人たちの、最も重要な課題であるのです。神がその祈りをお聞きくださり、神が終わりの日の永遠の平和を来たらせてくださるからです。では、皆さんで、「世界の平和を願う祈り」をささげましょう。

【世界の平和を願う祈り】

天におられる父なる神よ、

あなたは地に住むすべてのものたちの命の主であり、

地に起こるすべての出来事の導き手であられることを信じます。

どうぞ、この世界をあなたの愛と真理で満たしてください。

わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す人としてください。

神よ、

わたしをあなたの平和の道具としてお用いください。

憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、

分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、

絶望のあるところに希望を、闇があるところにあなたの光を、

悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

主よ、

慰められるよりは慰めることを、

理解されるよりは理解することを、

愛されるよりは愛することを求めさせてください。

なぜならば、わたしたちは与えることによって受け取り、

ゆるすことによってゆるされ、

自分を捨てて死ぬことによって永遠の命をいただくからです。

主なる神よ、

わたしたちは今、切にあなたに祈り求めます。

世界にまことの平和を与えてください。

深く病み、傷ついているこの世界の人々を憐れんでください。

あなたのみ心によっていやしてください。

わたしたちに勇気と希望と支え合いの心をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

7月26日説教「テサロニケでの伝道と迫害」

2026年7月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書53章6~12節

    使徒言行録17章1~9節

説教題:「テサロニケでの伝道と迫害」

 パウロの第二回世界伝道旅行は、当時のローマ帝国マケドニア州の町フィリピからテサロニケへと続けられました。この地方は今日ギリシャ共和国になっています。フィリピとテサロニケの二つの町の名前は、わたしたちには親しみ深く、よく知られています。と言うのも、パウロはのちになってこの二つの町にある教会に手紙を書き、それが聖書の中に残されているからです。フィリピの信徒への手紙とテサロニケの信徒への手紙一、および二の三通です。それぞれの手紙を読むと、パウロがこれらの教会の誕生に深くかかわっただけでなく、その後も長い期間交わりを持ち続け、お互いに祈り合い、支え合っていたということがよく分かります。

 フィリピでユダヤ人からの迫害を受け、投獄されるという経験をしたパウロとシラスはフィリピから西へ100キロメートル余り移動して次の伝道地テサロニケへと向かいましたが、その時のパウロの心境について使徒言行録は何も報告していません。テサロニケの信徒への手紙一2章にはこのように書かれています。【1~2】(374ページ)。そして、13節にはこう書かれています。【13節】。フィリピでユダヤ人からの激しい迫害を受けて、パウロはひどく動揺し、自分は神の栄光のために主キリストの福音を宣べ伝えているのだろうか、それとも、人間からの称賛を期待して伝道者として働いているのだろうかという、心の葛藤をかかえ、そのような不安と苦悩を抱いてテサロニケの町に入ったところ、この町の人たちはパウロが語る福音を神の言葉として受け入れ、信じてくれた、それは彼にとってどれほどに大きな励ましになったことか、ということをパウロはこの手紙に書いています。

 使徒言行録は伝道旅行のいわば旅行記、報告書のように書かれていますから、パウロとその地の教会との個人的な関係などについては、あまり語られてはいません。それと違って、手紙は個人的な関係や心の交流が書かれていますから、すでに学んだフィリピ教会とパウロの関係、これから学ぶテサロニケ教会とパウロの関係などをよく知るために、ぜひこれらの手紙を読んでおいてください。

 では、17章1節から読んでいきましょう。【1節】。フィリピからテサロニケまでの120キロほどの道のりですが、その途中の二つの町の名前が挙げられています。これらの町でも伝道活動をしたのかどうかについては何も書かれていません。でも、パウロの足取りは決して軽いものではなかったということが、先ほど読んだテサロニケ教会への手紙から明らかです。にもかかわらず、パウロは前進することを止めません。主キリストの福音を語り伝える使命に向かって歩み続けます。神が彼に神の言葉を語る勇気と力とをお与えくださったからであり、神の言葉そのものがこの世のいかなる鎖によっても決してつながれることがないからです。

 ここで、もう一つのことに触れておきたいと思います。16章10節から、主語が「わたしたち」になっていることを前回お話ししました。おそらくは、使徒言行録の著者であるルカがトロアスからパウロたちの一行に加わったからではないかと考えられているのですが、17章1節からは再び「パウロとシラスは」となっていますので、ルカだけはフィリピに留まったのではないかと推測されます。20章7節から「わたしたち」という表現が再開されます。

 では次に、【2~3節】。テサロニケはローマ帝国マケドニア州の首都であり、当時の人口は10数万人であったと言われています。商業活動が盛んであり、早くからユダヤ人が多く住み着き、ユダヤ人の会堂が建てられていました。パウロはここでも、前回のフィリピでもそうであったように、また第1回伝道旅

行の小アジアの町々でそうであったように、まずユダヤ人の会堂に出かけ、そこに集まっているユダヤ教徒やユダヤ教の神に関心を持っている、いわゆる敬神家と呼ばれるギリシャ人に、主イエス・キリストの福音を語りました。パウロはこれまで何度もユダヤ人から迫害を受けてきましたし、13章46節では、「ユダヤ人は神を拒み、自分たちを永遠の命を受けるに値しない者にしてしまった。だから、わたしはこれから異邦人の方に行く」と宣言していたのでしたが、しかしそれでもなおも、神が初めに全世界の中からイスラエルの民をお選びになったという、神の選びの秩序を変えることはできません。パウロはなおもその神の秩序を重んじています。そして、テサロニケでも彼ら選ばれた民であるユダヤ人に、主イエス・キリストの福音を語ります。

 3節に「聖書」とあるのは、旧訳聖書のことです。パウロは旧約聖書から語ります。しかし、旧約聖書そのものを語るのではありません。旧約聖書が預言し、指し示し、待ち望んだメシアのことを語ります。旧約聖書はメシア・救い主を預言している聖書です。旧約聖書で語られているすべてのことは、メシア・救い主であられる主イエス・キリストによって完全に成就されているということを、パウロは語ります。

「メシア」は旧約聖書の言語であるヘブライ語で、「油注がれた者」という意味です。新約聖書の言語であるギリシャ語ではキリストと言われます。旧約聖書時代のイスラエルでは、王、祭司、預言者がその職に任じられる際には、頭からオリブ油を注がれ、神の恵みと祝福が豊かに注がれることを祈るという儀式を行うのが普通でした。そこから、神がやがて理想的で永遠な王、祭司、預言者という三つの職務を完全に果たす「油注がれた者」メシアを遣わして、真実の救いを成し遂げてくださるという信仰がイスラエルの中に生まれました。主イエスの時代にはそのようなメシアの到来を待望する機運が、ユダヤ人の間で高まっていました。まさに、そのようなときに、神は主イエス・キリストをこの世にお遣わしになったのです。

しかし、パウロは言います。このメシアは「必ず苦しみを受ける。そして死ぬ。しかし、死者の中から復活することになっていた」と。ここで、「必ず……することになっていた」と訳されている言葉は、新約聖書の中で非常に重要な意味を持っている言葉で、主イエスご自身の受難予告で用いられていました。ルカ福音書9章22節を読んでみましょう。【22節】(122ページ)。ここでも、「必ず……することになっている」と訳されています。これは、「神がそのように定めておられる、神の救いのご計画に従っている」という意味を持っています。主イエスは地上のご生涯の中で、すでにご自身のご受難と十字架の死、そして三日目の復活を知っておられ、父なる神がお定めになったその苦難の道を進み行かれたのです。

パウロはここでおそらくはイザヤ書53章の「苦難の主の僕(しもべ)の歌」を引用したのではないかと推測されます。「彼はわたしたちの罪を担って、神によって打たれ、砕かれたのだ。彼は屠り場に引かれていく小羊のように口を開かず、捕らえられ、裁きを受けて、命を取られた。彼はわたしたちの罪のために執り成しをした。わたしたちは彼の死によっていやされ、救われ、神との平和を与えられた」(イザヤ53章4~12節参照)。イザヤが預言したこの苦難の僕こそが主イエスである、すなわち、ユダヤ人が待ち望んでいたメシア・キリスト・救い主・油注がれた者である、とパウロは語ったのです。これが、今からおよそ2千年前に主イエスがエルサレムで成し遂げられた救いのみわざであり、それから10数年後にパウロがテサロニケで語った福音であり、そして今わたしたちがこの秋田教会の礼拝で聞いている福音なのです。

【4~5節】。「神をあがめるギリシャ人」とは先ほど紹介した、ギリシャ人すなわち異邦人でありながら旧約聖書の神と信仰に深い関心を寄せ、ユダヤ人会堂に出入りしていた人たちのことです。彼らの多くが主イエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受け、キリスト者になりました。上流階級の婦人たちも多く信じたと書かれています。しかし、救われる人が多くいるところでは、迫害者もまた多く現れます。なぜならば、主イエスの福音はわたしたち人間の罪を明らかにするからです。その罪を認め、告白し、悔い改めて主イエスの福音を信じて救われることを求めるか、それとも、罪を覆い隠して神の招きに応えず、かたくなに罪の中に留まり続けようとするか、人間は決断と選択を迫られるからです。この町でも、ユダヤ人たちの多くは神の前に悔い改めることをせず、かえってパウロたちの伝道活動を妨害しようとしています。

ヤソンはヘブライ語ではヨシュア、そのギリシャ語で、彼はユダヤ人であり、この町で商売をしていたと思われます。彼も洗礼を受けてキリスト者になっていたと思われます。彼の家がパウロたちの宿泊場所や集会場所になっていたのでしょう。彼の名前は、ローマの信徒への手紙16章21節に、パウロの協力者として出てきます。ヤソンもまたパウロと同様に、主イエスを救い主と信じたために、同胞のユダヤ人から迫害を受けることになったのです。しかし、それで信仰を捨てることはありませんでした。9節に、【9節】と書かれているように、彼は大きな損害を受けながらも、パウロたちを守り、そしてそののちにも、パウロの協力者として働きました。

【6~8節】。ユダヤ人たちは聖書の論証という点については、パウロに正面から反論することはできませんでした。確かに、神が旧約聖書で語られ、約束された全人類の救いは、その預言のとおりに主イエスによって成就されたのです。そのパウロの論証に反論することはできません。でも、彼らは自分の罪を認めることができませんでした。神に選ばれた民であるという誤った栄誉と誇りを投げ捨てることができなかったのす。信仰を受け入れるためには、深い罪の自覚と悔い改めが必要です。それ以上に、主イエス・キリストがわたしの救いのためにご受難の道を進まれ、十字架で死んでくださったという信仰を感謝をもって受け入れることこそが重要です。

ユダヤ人の反対者たちはパウロとシラスを暴動や世界革命を画策したという罪で訴えましたが、パウロたちは身を隠して無事でした。7節の迫害者たちの訴えには、ある種の真実が含まれています。「ローマ皇帝以外のまことの、永遠の王国、神の国の王であられる主イエス・キリストがおられる」。これこそが、この時代のローマ帝国の中で語られた主イエス・キリストの福音です。また、今日のわたしたちの世界においても、同じ福音が語られねばなりません。わたしたちの罪のゆるしのために十字架で死んでくださり、三日目に復活された主イエス・キリストのみが、わたしの、またすべての人の、唯一の、永遠なる主であり、救い主であられます。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちが主イエス・キリストの十字架と復活の福音を聞いたとき、あなたの命のみ言葉を信じて、罪を悔い改め、主イエスをわたしの唯一の救い主と告白して、信じる者となりますように。また、多くの人たちがこの救いへと招かれれますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

7月19日説教「荒れ野の旅に伴われた神」

2026年7月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:出エジプト記17章1~16節
    コリントの信徒への手紙一10章1~13節
説教題:「荒れ野の旅に伴われた神」

 出エジプト記17章1節にはこのように書かれています。【1節】。シンの荒れ野とは、エジプトのナイル川河口地帯の東側、シナイ半島の北側に広がる砂漠地帯を指していると考えられます。エジプトの奴隷の家から神の強いみ手によって救い出されたイスラエルの民は、まっすぐに地中海沿いを北上する道ではなく、東の方角へ、砂漠地帯へと導かれ、彼らはそこで40年間の荒れ野の旅を続けることになりました。それが主なる神のみ心であり、ご計画であったということが、この1節でも繰り返して強調されています。冒頭に「主の命令により」とあり、また「旅程に従って」とも書かれています。「主の命令により」は直訳すれば「主の唇によって」であり、主なる神の言葉に導かれてという意味であることがはっきりします。
イスラエルの民はエジプトの奴隷の家から救い出されたのは、また彼らが荒れ野の旅へと導かれたのは、神を礼拝し、神の言葉に聞き従って生きる民となるためであったということを、わたしたちはこれまで何度も確認してきました。「共同体全体」という言葉も、礼拝のために召集された会衆という意味であることを前回16章1節で確認しました。特に、荒れ野では、ほかに彼らが頼るべきものは何一つありませんから、神の言葉に信頼し、それに聞き従うか、それとも神の言葉に対する疑いと反逆によって絶望と破滅へと向かうか、そのどちらかしか選択の余地がありませんから、彼らは必然的にと言うか、神の言葉に聞き従う道しかないことを、この荒野の旅で学ぶのです。
「旅程に従って」とは、朝にテントを張り、その地に宿営し、少ししてまたそのテントをたたみ、次の地へと移動するという砂漠地帯の遊牧民、ベドウィンの移動を意味する言葉ですが、この移動生活も、自分たちの好みや判断に合わせて選ぶ道ではなく、主なる神がお与えくださる道を、イスラエルは進みます。
荒れ野の40年間の旅路で、イスラエルの民は神の言葉によって生きるべきであることを学ばされました。申命記8章3節に書かれているように、また、マタイによる福音書4章4節で主イエスが教えられたように、「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つひとつの言葉で生きる」ということを学ぶのです。荒れ野には、イスラエルの民を安全に導くものは何もありません。舗装された道路も、道路標識も、食料や水も、文化や経済活動も、何もない荒れ野で、彼らはただ神の言葉によって導かれるのです。「人はパンだけで生きるのではない。神の言葉によってこそ生きる」ということを、実際に彼らは多くの体験をとおして学んだのです。その経験が、彼らがこののち行こうとしている神の約束の地カナンでの新しい生活においても、続けられるのです。たとえそこでは、パンが豊かに備えられていても、整えられた都市国家が形成されても、文化や経済活動が活発になされていても、彼ら信仰の民、神礼拝の民を正しく導くのは、神の言葉以外にはないということを、彼らはこの荒野で知らされるのです。
さて、彼らの次の宿営地はレフィディムであると書かれています。レフィディムがどこにあるのか、今日はっきりとは分かっていません。このあと6節では、ホレブという地名が出てきますが、ホレブはシナイと同じ地名であると考えられていますので、今日モーセの山、シナイ山と呼ばれている、シナイ半島の南方の山岳地帯を指していると考えられます。イスラエルの民はシンの荒れ野からシナイ半島の西側を紅海に沿って南下してきたと推測されます。
そして、このレフィディムでも、イスラエルの民は飲み水がないとつぶやきました。【2~3節】。エジプトを出てから、イスラエルの民のつぶやきを聞くのは、これが4回目です。1回目は、14章でエジプトの軍隊に追いつかれた時、「我々を連れ出したのはエジプトに墓がないからか。荒れ野で死なせるためなのか」と言って、モーセに抗議しました。2回目は、15章で、マラの水が苦くて飲めないときに、「何を飲んだらいいのか」とモーセに不平を言いました。3回目は、16章で、シンの荒れ野に入って間もなく、飢えと渇きのために、「我々はエジプトで肉鍋を囲み、パンを腹一杯に食べていた。あの時エジプトで死んでいた方がましだった」と。なんという、不信仰で、反逆的な言葉であることでしょうか。それは、彼らの指導者であるモーセに対する不満、つぶやきである以上に、彼らをエジプトの奴隷の家から強いみ手によって救い出された主なる神への不信仰であり、罪そのものです。更に今回の4度目のつぶやきは、「わたしだけではない、わたしの子どもたちや家畜までもが、のどの渇きで死にそうだ」と訴えています。
2節でモーセは、はっきりと「わたしに対するつぶやきは、主なる神に対する不信仰である」と、彼らの罪を指摘しています。彼らはこれまでに何度も主なる神の偉大なる救いのみわざを経験してきました。エジプト王ファラオの目の前で10個のしるしと奇跡とを行われ、ご自身の権威と主権とをあらわされた神、子羊の血によって彼らを奴隷の家から贖いだされた神、紅海の奇跡によって彼らを安全に乾いた海の底を渡らせた神、苦い水を甘い飲み水に変えてくださった神、荒れ野に不思議な食べ物マナを降らせ、日々に彼らを養われた神、そのような数々の神の救いと恵みとを経験したにもかかわらず、何度も何度もつぶやき、不平を言い、疑い、背くイスラエルの罪。いつまで彼らはその罪を続けるのでしょうか。いつまで神は彼らの罪をおゆるしになるのでしょうか。
モーセは4節で、主なる神に叫び、助けを願い求めます。【4~6節】。モーセはここで初めて自分の命の危険を感じています。イスラエルの民のための指導者、また預言者として神に立てられたモーセは、民の不従順と罪のゆえに、自らの命の危険にさらされています。これは、のちの時代の多くの預言者たちが受けた迫害の運命の始まりであったと言えます。主イエスは山上の説教の中でこう言われました。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口をあびせられるとき、あなたがたは幸いである。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」と(マタイ5章11~12節参照)。
モーセは彼をイスラエルの民に遣わした主なる神に、助けを願い求めます。迫害され、命の危険にあるモーセが逃れるべきところは、この神以外にはありません。神は命の危険にさらされているモーセをお守りになります。彼の叫びに耳を傾けられます。それはまた同時に、たびたび疑い、つまずく、不信仰で不従順なイスラエルに対する神の憐れみであり、ゆるしでもありました。神は罪の中で繰り返してつぶやくイスラエルの民をお見捨てにはなりません。ひとたびお選びになった彼らを、なおも愛し続けられます。
 モーセは神に命じられてように、ナイル川を打って、川の水を血に変えたあの神の杖を手に取って、ホレブの岩に向かいます。ホレブとは、先ほども説明しましたように、シナイ山(モーセの山)のふもとの山岳地帯を指すと考えられます。6節に、「見よ、わたしはあなたの前に立つ」と書かれています。モーセとイスラエルの民は、荒れ野でのこの命の危機の時に、神をこそ見上げなければなりません。いや、このような危機の時にこそ、彼らは主なる神を見上げるべきであり、また主なる神が彼らの傍らに立っていてくださるのを見ることが許されるのです。そして、そこで、主なる神の救いのみわざを見るべきであり、また見ることを許されているのです。
 わたしたちもまた、何かにつまずくとき、試練に会うとき、命の危険に脅かされるときに、わたしたちのためにご受難の道を進まれ、十字架で死んでくださった主イエス・キリストを見上げるべきであり、また見上げることを許されています。神はわたしたちに耐えられないような試練にあわせることはなさいません。また、試練から逃れ、試練に打ち勝つ力と道をも備えてくださいます。
 【7節】。この奇跡にちなんで、その地の名前はマサ、メリバと呼ばれたと書かれています。この地名はイスラエルの民の不従順と罪をのちの世に長く伝える役割を果たしました。彼らはこの地の名前を口にするたびに、その地で行われた神の奇跡とともに、自分たちの先祖の民が不信仰のゆえに神を試み、罪のゆえに神と争ったことを思い起こし、神の言葉に従順に聞き従うべき教訓としたのでした。
マサとメリバの二つの名前が違う場所を指すのか、同じ場所が二つの違った名前で呼ばれるようになったのかは、はっきりしません。詩編95編では違う場所のように言われています。【詩編95編7~9節】(934ページ)。旧約聖書の他の箇所でも、マサとメリバでイスラエルの民が主なる神を試み、そのみ声に聞き従わなかったことが取り上げられています。そして、新約聖書ではヘブライ人への手紙3章で、この出来事が取り上げられ、神の言葉に従順に聞き従うべきことの教訓として教えられています。わたしたちは神の言葉に聞き従うことをためらうべきではありません。後に引きのばすべきではありません。神の恵みをいただくのに、あるいはまた悔い改めて神に立ち帰るに際して、心をかたくなにし、あすを待つべきではありません。今この時、神の言葉を聞いた今、それに応えるべきです。今この時が、神の恵みのとき、神の救いのとき、悔い改めの時だからです。
8節以下にはアマレクとの戦いについて書かれています。【8~9節】。アマレク人は砂漠地帯に住んでいた攻撃的な遊牧民であったと考えられています。イスラエルとアマレクとの戦いは、こののちイスラエルがカナンの地に定住してからも、ダビデ王の時代にまで続いていたことがサムエル記で確認できます。9節にヨシュアの名が出てきますが、彼はモーセのあとの時代に、イスラエルの民を率いて約束の地に入るときの指導者となります。
アマレクとの戦いでは、モーセが神の杖を持っている手を挙げている間は、イスラエルの優勢であったと書かれていますが、これは主なる神のみ力が働いたことのしるしと考えられています。イスラエルの民は主なる神が共にいてくださるときは、すべての敵に勝利することができるという約束が、ここでは語られています。神が彼らの旅路に伴われるとき、信仰の民イスラエルはすべて必要なものを備えられ、すべての敵の攻撃から守られるのです。そのようにして、彼らは荒れ野の困難な旅を続けることができました。

(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、あなたはわたしたちの信仰の旅路にも、常に必要なのものを備えて、伴ってくださいます。どうぞ、わたしたちをあなたの命のみ言葉によって養い、導いてください。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

7月12日説教「正しい者は信仰によって生きる」

2026年7月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記15章1~6節

    ローマの信徒への手紙1章16~17節

説教題:「正しい者は信仰によって生きる」

 ローマの信徒への手紙の主題が1章16節と17節に提示されています。この手紙全体が、このテーマによって展開されていると言えます。きょうは17節の前半を中心に学びます。

原文のギリシャ語原典では、16節と17節は短い接続詞でつながれています。日本語には翻訳されていませんが、「なぜなら」「すなわち」という意味の言葉が17節の冒頭にあって、二つの文章をつないでいます。16節では、「福音は信じる人すべてに救いをもたらす神の力である」と言われ、続いて、なぜそうなのか、なぜ主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じると、その人に罪からの救いを与える神の力として働くのか。その理由は、「福音には神の義が啓示されているからである」と説明されているということになります。そこで、この2節を短くまとめると、「福音が信じるすべての人を救う神の力であるのは、その福音の中に神の義が啓示されているからである」となります。これがローマの信徒への手紙の主題であるということです。あるいは、順序を逆にして、「イエス・キリストの福音の中に神の義が啓示されている。証しされている。それゆえに、その福音を信じるすべての人に神の救いを与える力として働くのである」となります。もっと短く表現すれば、「神の義による救い」がこの手紙全体の主題であると言ってよいでしょう。神の義というテーマをめぐって、パウロはこの手紙を書いていると言えます。

そこできょうはまず、「神の義」について、聖書では「神の義」とは何を意味しているのか、その基本的な意味を正しく理解することから始めたいと思います。神の義は、旧約聖書においても新約聖書においても同じように重要なテーマであり、また特に宗教改革以後のプロテスタント教会が取り組んできた重要な課題であるのは言うまでもありません。

ではその神の義とは何かを、旧約聖書の主な箇所を引用して確かめたいのですが、実は、今わたしたちが使用している『新共同訳聖書』はヘブライ語で義を意味する「ツェデク、ツェダカー」を「義」とは翻訳していません。多くは「神の恵みの御業」と訳しています。200か所ほどある中の1か所だけを確認のために開いてみましょう。詩編5編9節です。【9節a】(837ページ)。ちなみに、『口語訳聖書』では、「あなたの義をもってわたしを導き、わたしの前にあなたの道をまっすぐにしてください」となっていました。こちらの方が、原文の意味と内容を正確に伝えているように思われます。

そこで、旧約聖書の箇所を一つ一つ取り上げることはしませんが、全体として神の義とはどのような意味なのかをまとめておきましょう。旧約聖書のヘブライ語原典で「義」または「神の義」という言葉は230回以上用いられています。新約聖書では、パウロの書簡を中心に、「義」という言葉は200回以上用いられています。このことからも、聖書全体において義、神の義がいかに重要なテーマになっているかが推測できます。

旧約聖書で義を意味するヘブライ語「ツェデク、ツェダカー」は、「堅い、しっかりしている、規範にかなっている」という内容と考えられています。先ほど説明しましたように、『新共同訳聖書』では多くは「恵みの御業」と翻訳していますが、「正しい、正義、公平」などと訳されたり、また文脈によっては「勝利、救い、助け、平和、繁栄」とも訳される、非常に幅広い意味を持っています。

旧約聖書の中では、神が義なる神であるとか、また神の義について語られている個所は無数と言ってよいほどにたくさんあります、時には、人間の義のことも語られます。ただし、人間の義は神の義に正しく応答するときの人間の義であって、人間が義なる存在であるとは言われていません。ただおひとり、主なる神だけが義なる神なのであり、義を行われる神であり、人間に義の恩恵をもたらし、また人間に義の応答を生み出す、そのような義なる神だと言われています。

旧約聖書でその言葉が用いられている個所を文脈から読み解くと、「義」とは関係概念であるという特徴を第一に挙げることができると思います。もちろん、神ご自身が義なる方、義なる存在であると言われていますが、それはただ神だけが独立して義であると言われているのではなく、神はご自身が義であると同時に、人間に対して義なる関係を持ってくださる、あるいは人間をご自身の義の中に招き入れてくださるという意味で、「神の義」、または「神は義である」と言われています。つまり、義とは神と人間との関係が正しく、固く保たれているということ、そこに真実な交わりがあることを言うのであり、あるいはまた、神を中心にして人間と人間との関係が正しく、固く保たれている状態を言うのです。

そのようにして、神とイスラエルの民とが義なる関係にあるとき、たとえイスラエルが敵に攻撃され、困難な状況にあっても、神の義によってイスラエルは勝利を確信することができ、救いを与えられるのです。また、そのような人間と人間との義なる関係があるときに、たとえ貧しくても、試練の中にあっても、そこには真実の平和があるのであり、本当の意味での豊かで平安な社会が築かれるのです。

新約聖書でパウロが義という言葉を用いる際にも、このような旧約聖書の意味が受け継がれていると考えられます。パウロもまた義を関係概念としてとらえています。そのことを念頭に置きながら、パウロが17節で、「福音には、神の義が啓示されている」と語っている意味を探っていきましょう。

「神の義」の「の」の文法的な用法について考えてみましょう。日本語の「の」の文法的用法は一般的には属格、所有格と言われます。属格を更に厳密に規定すれば、主格的属格と目的格的属格に分けられます。「神の義」という表現を主格的属格と理解すれば、神の義とは神ご自身が義である、義なる方であるという意味になります。神はご自身が唯一の義なる方、義なる存在であり、また義なる神として行動される。それだけでなく、義は神の占有であり、ただ神だけの所有であり、ただ神だけがいつどのようなときにも、誰に対しても、永遠に義を貫かれる。それが「神の義」の意味です。

目的格的属格と理解すれば、神の義とは、人間に与えられる義、人間のために神が造り出してくださる義、神から人間に差し出された義という意味になります。この場合でも、人間はただ神から義を与えられる時にのみ、神のみ前で義とされるということが強調されることになります。

次に、パウロはそのような義が主イエスの福音の中に啓示されたと言います。「啓示」という言葉も聖書の中で、また神学的に重要な意味があります。啓示とは、神の隠されていた本質や存在が、あるいは真理や神のみ心、神の意志が明らかにされること、また人間の目にはまだ見えていない神のご計画を、神ご自身がそのふたを開けて、覆われていた覆いを取り去って、人間の目に見えるようにされること、これを啓示と言います。したがって、啓示の主体は常に神です。神が明らかにされ、神が覆いを取り除かれます。「啓示される」と受け身、受動態で言われるのはそのことを意味しています。人間は常に受け身です。人間はどのような知恵をもってしても、どのような高度な科学的な分析を行なっても、どのような修練や経験を積み重ねても、神の奥義を知ることはできません。ただ神自らがご自身を啓示されることによってのみ、人間は神の本質、神のみ心を知ることができます。

「福音の中に神の義が啓示された」とあります。福音については、すでに1節で言及されていました。2節から6節には、その福音についての説明がありました。神のみ子・主イエス・キリストが十字架の死と復活によって、全人類の罪を贖い、ゆるし、救われたという、喜ばしい知らせのことです。この主イエスの福音によって、旧約聖書の中でイスラエルの民に示されていた神の義が

今やもっとも鮮やかに、確かに、明らかにされたということです。神はかつてはイスラエルの預言者たちや祭司たち、王たちによってイスラエルの民にお示しになられた神の義を、今や神ご自身のみ子であられる主イエス・キリストによって、しかも主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活という驚くべき神の救いのみわざ、神の救いの出来事によって、今のわたしたちに神の義とは何であるのかを、すべてもらすことなくお語りになられた、明らかに示されたと、言うのです。

 ここでもう一つ注意しておくべきことは、「啓示されている」と、現在形で語られていることです。主イエスの十字架と復活の出来事は、今からおよそ2000年前にパレスチナの一角のエルサレムで起こった出来事でしたが、その時に神の義が啓示されたのでしたが、それが今現在に至るまでずっと続いて啓示されているということを、この現在形は言い表しています。今この時に、主イエス・キリストの福音が語られ、聞かれ、信じられるときに、信じる人に今も鮮やかに神の義が啓示されているのであり、それが神の救いの力として働くのだということです。

 17節のみ言葉は、「それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」と続いています。ここは翻訳の難しい箇所です。17節のギリシャ語原典を直訳すると、「神の義は福音の中に啓示されている、信仰から信仰へ」となって、少し言葉足らずなので、『新共同訳聖書』は「初めから終わりまで」とか「実現される」という言葉を補って翻訳しています。ここでも『口語訳』を参照すると、「神の義は福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる」と訳しています。

 この箇所の理解については、次回にもう一度検討しますが、結論を先取りするならば、「神の義は福音の中に啓示されている」、そこで「わたしたちはそれをただ信仰によって受け取る」という意味に理解するのがよいと思われます。これが、宗教改革以来のわたしたちプロテスタント教会の共通した理解であるからです。主イエス・キリストの十字架の死と復活によってわたしたちに明らかにされた神の義を、わたしたちは信仰によって、感謝して受け取ります。そうすることによって、神はわたしたち罪ある者たちをも義と認めてくださり、主イエスのゆえに、神のみ前で罪なき者、神の義にあずかる者とされ、神との永遠の交わりの中へと招き入れられるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの恵みと慈しみとは永遠から永遠い至るまで、少しも変わることはありません。あなたは唯一義なる方、正しく、まっすぐで、あなたに背く者たちをも変わることなく愛してくださる方です。どうか主よ、わたしたち一人一人をあなたの義にあずからせてください。また、あなたの義を証しする者としてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

7月5日説教「主人の帰りを待っている僕(しもべ)」

2026年7月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:ダニエル書7章11~14節

    ルカによる福音書12章35~48節

説教題:「主人の帰りを待っている僕(しもべ)」

 ルカによる福音書12章40節で主イエスはこう言われます。「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」。「人の子」とは、一般的には「人間から生まれた子」という意味ですが、旧約聖書のダニエル書では、終わりの日に完成される神の国において、神からすべての権威とみ国を託される王なるメシア・救い主を指しています。福音書の中で主イエスはご自分のことをしばしば「人の子」と言われましたが、それは一般的な「人間から生まれた子」という意味と、ダニエル書の預言で言われている終わりの日、終末の時に神の国を完成されるメシアなる「人の子」という意味の、両方を含んでいたと推測されています。きょうの箇所ではダニエル書の預言の意味が強調されていると言えます。

 主イエスはここで、ご自身が十字架で死なれ、三日目に復活され、40日目に天に上られた後、終わりの日に再びこの地に到来される「人の子」であり、預言者ダニエルの預言を成就する「人の子」であると証ししているのです。そして、弟子たちに対して、その終わりの日の神の国の完成の時に備えて生きるようにと勧めているのです。

 人の子、主イエス・キリストの再臨の時に備えて生きる、これが主イエスの十字架の死と復活以後の弟子たちの生き方であり、また今日のすべてのキリスト者の生き方でもあります。主イエスはすぐ前の31、32節でこのように約束してくださいました。【31~32節】。「神の国を求めなさい」という命令を聞きつつ、神は確かにみ国をくださるという約束を聞きつつ、神の国の完成の時を待ちつつ、その時に備えつつ、人の子・主イエスの再臨を待ち望みつつ生きる。これがすべてのキリスト者の生き方です。

 では、終わりの日、終末の時、人の子・主イエス・キリストはどのようなお働きをするのでしょうか。簡単にまとめておきましょう。使徒言行録1章によれば、主イエスは復活されたのち、40日間にわたって弟子たちにご自身の復活のお姿を現され、神の国について説教されました。そして、こう言われました。【11節】(213ページ)。主イエスが天から降って再び地においでになる再臨の時、主イエスご自身が説教されたように、すべての人を右と左に分け、救いと滅びに分ける、最後の審判が行われます。『使徒信条』によってわたしたちが告白しているように、「生きている者と死んでいる者とを裁かれます」。そのようにして、ダニエル書で預言されているように、主イエスは父なる神からすべての権威を授けられ、永遠の王国を完成されます。信じる者には永遠の命が授けられ、永遠に神と共にいる完全な救いが与えられます。ヨハネの黙示録21章に描かれているように、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」新しい世界が完成されます。わたしたちキリスト者はみな、この終わりの日の完成に向かって一歩一歩進んでいるのです。来るべき主イエス・キリストとの再会を待ち望みつつ。

 主イエスはルカ福音書12章で、「人の子」主イエスの再臨を待ち望むわたしたちの姿勢について、教えておられます。では、35節以下の、目を覚まして、主人の帰りを待つ僕(しもべ)のたとえを学んでいきましょう。

 【35節】。「腰に帯を締める」とは、聖書にしばしば用いられる表現です。何か重要な使命を果たすために支度を整える、備えるという意味で用いられます。ペトロの手紙一1章13節にはこうあります。「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすらに待ちなさい」。ここでは「心に帯を締める」と言われています。それは、主イエス・キリストの再臨のときに与えられる救いの完成という大きな恵みに対して、常に心を開き、それを熱心に待ち望み、その最後の目標に向かって真っすぐに進むというキリスト者の生き方を言います。そこにはまた大きな喜びと恐れがあります。わたしには欠けや破れが多くあり、罪によって滅ぶしかなかったこのわたしが、神の恵みと憐れみによって罪ゆるされ、救われ、神の国の民とされ、永遠の命を与えられるという、この大きな恵みを受け取るために、喜びと恐れとをもって待ち望むこと、それが心に帯を締めることです。

 エフェソの信徒への手紙6章14節では、信仰の闘いへの備えとして「真理の帯を腰に締めなさい」と言われています。きょうの主イエスの教えをより具体的に展開している個所なので、そこを読んでみましょう。【10~18節】(359ページ)。主イエス・キリストの再臨の時を、目を覚まして待っているということは、ただじっとして動かないでいるということではなく、このような激しい、果敢な、そして熱心な信仰の闘い、信仰の訓練を怠らないということなのです。神はそのために必要な武具を、すべて用意して、与えてくださいます。「真理の帯」「正義の胸当て」「平和の福音」「信仰の盾」「救いの兜」「霊の剣」「神の言葉」そして「霊の助けによる絶えざる祈り」、神はこれらのすべての武具をわたしたち一人一人に備えてくださいます。

 「ともし火をともしていなさい」という勧めも、主イエス・キリストの再臨を待ち望む姿勢としてしばしば聖書に書かれています。マタイ福音書25章では、神の国のたとえとして、10人のおとめがあかりを持って花婿を迎えるたとえを主イエスは説教しておられます。あかりは暗闇を照らし、周囲がよく見えるようにします。あかりは主イエス・キリストの福音を表していると考えられます。神を見失って罪に支配されているこの世の暗闇を照らす主イエス・キリストの十字架と復活の福音、このあかりを照らしながら、わたしたちキリスト者は終わりの日の主キリストの再臨の時に至るまで、信仰の道を誤りなく進むことができます。主キリストの福音を高く掲げ、そのあかりに照らされることがなければ、わたしたちはたちまちこの世の闇の中にのまれてしまうほかはありません。主キリストの福音のあかりによってわたしたち自身が照らされ、またわたしの周囲をも明るく照らす時に、わたしが進むべき道が見えるようになってくるのです。

 36節からたとえが始まります。このたとえで「主人」とは、40節で「人の子」と言われている主イエスご自身のことを指していることは明らかです。主人は結婚式に出席するために、しばらくの間、家を留守にするという設定です。ここでも、終わりの日について語る際にしばしば用いられる二つのことに目を向けたいと思います。

 一つは、「婚宴」(結婚式)です。主イエスは終わりの日に完成される神の国のたとえに、何度も結婚式の比喩を用いました。結婚式は花婿と花嫁とが夫婦の誓約をしたことをみんなが祝う場です。終わりの日は主なる神と教会の民が愛によって結ばれた永遠の交わりを喜ぶ時なのです。その時には、もはや何ものも神と教会の民との関係を壊すことはできません。神が永遠に信じる者たちと共におられるからです。わたしたちが主の日ごとにささげている礼拝は、まさにこの終わりの日の神の国での結婚式の先取りなのです。

 もう一つのことは、家の主人である主イエスは、しばらくの間は家を留守にしているが、やがて必ず帰って来られるということです。ここことも、主イエスは神の国のたとえでしばしば語っておられます。主イエスは地上で救いのわざを行われたのち、天の父のみもとへとお帰りになりました。主イエスはこの地をお見捨てになられたのではもちろんありません。天において、地にあるわたしたち一人一人の救いと信仰のために執り成しの祈りをしておられます。そして、終わりの時には、再び地に降って来られ、信じるすべての人たちをみ国へと迎えてくださいます。わたしたち信仰者は主イエスが家を留守にしておられる間、主イエスから託されたタラント、賜物を生かして用い、託されている福音宣教の務めを忠実に果たしていくのです。

 37節を読んでみましょう。【37節】。この37節は「幸いなるかな」という言葉で始まっています。ルカ福音書6章の平地の説教、マタイ福音書5章の山上の説教で「幸いなるかな」と言われているのと同じです。天の神から与えられる最高の幸い、永遠の幸いのことです。なんとここでは、主人自らが僕(すなわち奴隷)のために食卓の給仕をしてくださると言われているのです。主人が奴隷のために食卓の奉仕をしてくださる、これはまさに主イエスの地上での歩みそのものでありました。主イエスは罪の奴隷であったわたしたちのために、ご自身が僕のように、奴隷のように、わたしたちのためにご自身の命をささげ尽くされ、わたしたちの救いのためにお働きくださったのでした。

 38節以下では「目を覚ましている」ことが再び強調されています。【38~40節】。ここでは、主人がいつ帰って来るのか、それは僕たちには分からないということが強調されているのです。主イエスの再臨の時、神の国が完成される時、その時がいつであるのかはわたしたちには分かりません。それは、神ご自身が、神のみ心によってお決めになることです。これまでのキリスト教会の歴史の中で、何度もその時を特定しようと試みたことがありました。今日でも、その日がいつであるのかを特定しようとする人たちがいます。けれども、その日、その時がいつであるのかは、ただ父なる神だけがご存じです。わたしたちは日々にその日、その時のために備えるのです。ある人は、終末に向かっているそのような緊張した時間を「待ちつつ、急ぎつつ」と表現しました。わたしたちは主イエスの再臨の時を、待ちつつ、、しかし急ぎつつ、その日に向かって歩み続けるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたは終わりの日にみ国を完成させてくださり、わたしたちに朽ちることのない永遠の命をお与えくださいます。そして、その日に至るまで、わたしたちの信仰の歩みをお導きくださいます。そのことを信じて、忠実なあなたの僕として、あなたと隣人とに仕える信仰者とされますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

6月28日説教「ローマ帝国の市民権を持つパウロ」

2026年6月28日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記22章1~14節

    使徒言行録16章35~40節

説教題:「ローマ帝国の市民権を持つパウロ」

 パウロの第二回世界伝道旅行の後半は、当時のローマ帝国マケドニア州にある植民都市フィリピから始められました。主イエス・キリストの福音が小アジアからエーゲ海を越えてはじめてヨーロッパに告げ広められることになりました。福音伝道の広がりは、また同時に迫害の広がりでもありました。パウロとシラスは町を混乱させたと訴えられ、捕らえられ、牢獄に入れられます。シラスはもともとはエルサレム教会の長老でしたが、マルコの代わりにパウロによって選ばれてこの伝道旅行に同行するようになったと、15章40節に書かれていました。彼自身の意志や意図では必ずしもありませんでしたが、パウロによって彼の同行者として選ばれたのでした。

それはまた同時に、この世からの迫害を受けるために選ばれたことでもありました。それは彼にとっては、不幸であり、苦難の道の選択であったと思われるかもしれませんが、しかし、そうではなく、彼はやがて不思議な神の奇跡によって、縛られていた手足の鎖がほどけ、牢獄の扉が開かれ、そこから解放されるという大きな恵みの経験をすることになったのでした。彼はこのような神の奇跡と大きな恵みの経験をするために、選ばれていたのだということを、この時に教えられたのです。

 この奇跡と恵みの経験の影響は、パウロとシラスの二人だけにとどまりませんでした。彼ら囚人の監視をしていた看守とその家族全体へと、途方もなく大きく広がっていったことが30節以下に書かれています。そして、看守とその家族みんなが、主イエス・キリストの福音を信じてバプテスマを受け、救われ、キリスト者となったのです。その印象的な場面を今一度読んでみたいと思います。【31~34節】。この世の鎖につながれたパウロとシラスでしたが、神の言葉は決してつながれてはいません。むしろ、この世からの迫害を通して、それを飛び越え、貫いて、主キリストの福音は前進し、救われる人を増し加えていくのです。

 きょうは35節以下を読んでいきます。【35~36節】。この記述は、前の部分と少しずれがあるように思われます。というのは、25節から書かれている大地震発生と牢獄の戸がみな開き、囚人たちが逃げてしまったと思って看守が自殺しようとしたこと、パウロがそれを思いとどまらせたこと、そして看守の家に行って家の者みんなが洗礼を受けたという34節までの記述は、真夜中から朝方にかけての出来事であったと思われますが、35節に「朝になると」とありますから、普通に考えれば、パウロとシラスは看守の家にいることになるのですが、ここでは二人は牢獄の中にいることになっているという点で、少しずれがあるように思われます。看守の家で洗礼式と食事が終わってから、彼らがもう一度牢獄に引き返したということなのか、そのあたりはよく分かりません。

ただ一つ確認できることは、36節で看守がパウロたちに「安心して行きなさい」と声をかけていることから、看守はすでに主イエスの福音を信じてキリスト者になっていたということです。「安心して行きなさい」は直訳すれば「平安のうちに行きなさい」ですが、この言葉は15章33節で、ユダとシラスがアンティオキア教会からエルサレム教会へと戻る際に交わした挨拶の言葉「平安のうちに見送られ」と同じ言い方であり、更にはルカによる福音書7章50節などでは、主イエスによって罪ゆるされた婦人に対して語られた言葉、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と同じです。「平安のうちに行きなさい」。この言葉は初代教会以来、キリスト者が出会い、分かれる際の挨拶の言葉となりました。

 そこでわたしたちは、34節から35節へと、多少のずれはありますが、連続した出来事として読んでいくことにします。真夜中の大地震で牢獄の扉がすべて開き、すべての囚人たちの鎖が外れてしまったにもかかわらず、だれ一人そこから逃亡しようとはしなかったと、26節から28節に書かれていました。彼らがなぜ逃げなかったのかについては説明されていませんが、パウロとシラスの賛美と祈りの声を共に聞いていたすべての囚人たちにとっても、神の奇跡によって起こった大地震によって、獄の扉がみな開き、自分たちを縛っていた鎖がみな外れてしまったことを経験した彼らは、自分たちはすでに神によって自由にされていると思われたのかもしれません。パウロとシラスもまだ牢獄の中にいましたけれど、すでに神によって鎖は外され、自由にされていました。

 【37~39節】。パウロたちを捕らえて、鞭で打ち、裁判にかけよとしたフィリピの町の高官たちは、パウロとシラスがローマの市民権を持っていると聞いて驚き、あわてました。当時の法律によれば、ローマの市民権を持つ者はその人権が尊重され、正式な裁判を受ける権利が保障され、むち打ちなどの残酷な刑は課せられてはいけないと定められていました。パウロたちが逮捕された時点では、事態が混乱していたために、パウロは自分たちがローマの市民権を持っていることを主張できなかったのではないかと推測されます。パウロがこの時になってそのことを主張したのはなぜであったのかは推測することしかできませんが、自分たちの名誉や人権の擁護を求めたというよりは、このあとのフィリピ教会の宣教活動や教会員のこの町での市民生活のことを考えて、キリスト教に対する市民の誤解を和らげようとしたのだと思われます。

 そこでパウロは、町の高官たちが自ら出向いて来て、ローマの市民権を持っている自分たちを不法に取り扱ったことを認めて、釈放するべきだと伝えます。パウロはここで、自らが持っているローマの市民権という権利を、最大限に活用しています。自分自身の利益のためではないことは今確認しましたが、ここにパウロにどのような意図があったのかを、さらに考えていきたいと思います。

 35節には、高官たちは「あの者どもを釈放せよ」と命じたことが書かれており、38節には、高官たちは「二人がローマ帝国の市民権を持つ者であると聞いて恐れ」と書かれています。高官たちの恐れは、ローマの市民権を持つ者に対して法に従って正しく取り扱わなかったという自分たちの落ち度を感じていることからくる恐れであると同時に、自分たちが捕らえて鎖で拘束した彼らが、神の奇跡によって牢の扉が開き、鎖が外されたということへの恐れもあったのだろうと推測されます。それで、彼らを釈放するように命じたと思われます。

神の言葉と主イエスの福音に仕える宣教者は、時にはこの世からは迫害を受け、辱めや攻撃を受けますが、その迫害の中にあっても、主なる神を信じ、主なる神の助けとお働きを固く信じる時に、神は彼らのために不思議な奇跡を起こしてくださいます。そして、神の言葉と主イエスの福音をさらに前進させてくださいます。その時には、この世もまたその神の奇跡とお働きを見て、神を恐れ、神の言葉に仕える宣教者を恐れるということもまた起こり得るのです。

パウロがどのようにしてローマの市民権を得たのかについては分かっていません。パウロはディアスポラ・離散のユダヤ人であり、熱心なユダヤ教徒であり、初めはキリスト教会の迫害者でした。彼の生まれは小アジアのキリキア州タルソスという町でした。のちに彼が第三回世界伝道旅行を終えてエルサレムに帰った際、神殿を汚したという罪で逮捕された時に、使徒言行録22章27節以下にはこのように書かれています。【27~29節】(259ページ)。パウロが生まれながらの市民権を持っていたということは、彼の父からそれを受け継いだことを意味しています。

そして、パウロはエルサレムで逮捕されたこの時にもう一度自分がローマの市民権を持っているという特権を行使することになります。25章11節で、「私は皇帝に上訴します」とローマの地方総督であったフェストゥスに申し出ます。これもまたローマ市民権を持つ者に与えられていた権利でした。パウロはユダヤ人の最高法院での裁判を望まず、ローマで裁判を受けることを希望しました。それは、ローマでの裁判なら無罪になると期待していたからではありませんでした。パウロはエルサレムで捕らえられた夜に、夢を見ていたのでした。【23章11節】(260ページ)。パウロは当時の世界の中心都市であるローマで、世界の支配者であったローマ皇帝カイザルのすぐ前で、主イエス・キリストを証しするために、彼に与えられていた地上の権利を用いたのです。そして、そのローマで、世界の本当の主はローマ皇帝ではなく、全人類の救いのために十字架で死んでくださり、三日目の復活された主イエス・キリストこそが、すべての人の主であり、唯一の救い主であるという福音を、ローマで、皇帝のすぐ近くで、語ったのです。そのために、ローマの市民権という権利を行使したのです。フィリピでのことも、そのこととの関連で見ることができるでしょう。

 16章40節に戻りましょう。【40節】。リディアという婦人はフィリピで最初にキリスト者となった人であったことが14節以下に書かれていました。彼女とその家族全員が洗礼を受けたと書かれていました。それ以来、彼女の家は礼拝のために用いられていたことがここで分かります。「兄弟たち」とは、信仰者の仲間、教会の群れを意味する言葉です。小さいながら、リディアの家でフィリピ教会が形成されつつありました。おそらく彼女の家に信者たちが集まり、捕らえられたパウロとシラスのために祈っていたのでしょう。

 「彼らを励ましてから出発した」と書かれています。パウロとシラスがフィリピの町を出たのは、この町の高官たちの願いに従ったからだとみることもできますが、しかしそれだけではなく、二人はこの町に誕生した小さな群れを主なる神のみ手にお委ねして、更に福音宣教を前進させるために次の宣教の地へと、新たな使命と希望とを持って出発したのだとみるべきです。パウロたちの第二回世界伝道旅行は更に続きます。主イエス・キリストの福音は更に前進します。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたは罪に支配されていたこの世界にみ子・主イエス・キリストをお遣わしくださり、み子の十字架の死と復活によって、罪と死とに勝利してくださいましたことを、感謝いたします。また、わたしたち一人一人をもその救いへとお招きくださいますことを、心から感謝いたします。どうか、主イエス・キリストの福音が全世界のすべての人たちに届けられますように。そのために、世界各地に建てられている主キリストの体なる教会を、聖霊によって強めてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

6月14日説教「天からの不思議な食べ物マナ」

2026年6月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記16章1~16節

    ヨハネによる福音書6章26~35節

説教題:「天からの不思議な食べ物マナ」

 神の強いみ手によってエジプトの奴隷の家から解放されたイスラエルの民は、荒れ野、アラビア半島の砂漠地帯へと導かれました。彼らの荒れ野での放浪生活は40年間続きました。イスラエルの荒れ野での40年間は、彼らにとって大きな試練の連続でしたが、それはまた同時に、神から与えられた信仰の訓練の時でもありました。神はお選びになった愛する信仰者たちを、あえて苦難の道へと導かれます。それによって彼らに信仰の訓練をお与えになり、彼らがいよいよ主なる神に対する信頼と服従を深めるようになるためです。

 申命記8章で、モーセは荒れ野での40年間の旅を振り返りながら、このように説教しました。何回か読んだ箇所ですが、きょう学ぶテキストと直接に関連していますので、今一度読んでみましょう。【2~6節】(294ページ)。3節は、主イエスが公の宣教活動を始められる前に、荒れ野で40日間断食をされた後で、悪魔の試みにあわれた時に引用されたみ言葉です。マタイによる福音書4章3~4節にはこのように書かれています。「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ』。イエスはお答えになった。『人はパンだけで生きるのものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」。また、5節は、ヘブライ人への手紙12章5~6節に引用されています。そこにはこのように書かれています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者をみな、鞭打たれるからである」。

 イスラエルの民が荒れ野の40年間の旅で経験し、学んだ試練や訓練は、そののちの彼らにとっての重要な教訓となったのです。また、新約聖書の民であるわたしたち教会の民にとっても、それは同様に、わたしたちの信仰の歩みにとっての大きな導きであり、励ましでもあります。

 では、【1~3節】。「共同体全体」という言葉は、神礼拝のために集められた群れ、礼拝の会衆を意味します。この言葉が用いられていることに暗示されているように、イスラエルの人々がエジプトの奴隷の家から解放されたその理由また目的は、真実の神礼拝の民となるためであるということを、わたしたちはここでも改めて確認します。更に、そののちに荒れ野で40年間の旅を続けることもまた、彼らがより一層真実の神礼拝の民となるための訓練の時であったということをも、確認できます。イスラエルの民は主なる神を唯一の救いの神として信じ、礼拝するために、一つの群れとして、神礼拝の会衆として集められました。また、これからのちにも、この唯一の救いの神だけを礼拝し、この神が礼拝で語られる一つ一つの言葉に聞き従って生きる民として歩み続けるのです。

 わたしたちキリスト者が、主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって罪から救われ、教会の民とされたのもまた、わたしたちが一つの神礼拝の民となるためであり、礼拝で語られる神の一つ一つの言葉に聞き従って生きるためなのです。

 1節の終わりに、「それはエジプトを出た年の第二の月の十五日であった」と書かれています。彼らがエジプトを脱出したのは、イスラエルの第一の月、正月、アビブの月の15日でした。アビブの月はバビロン捕囚以後にはニサンの月と呼ばれるようになりました。今日の太陽暦では3月末から4月にかけて、この日がイスラエルの誕生の時でした。それからちょうど1か月半後のことが、この16章に書かれています。シンの荒れ野がどこを指すのかははっきりしていませんが、アラビア半島の北西から、半島の西側の紅海に沿って南下する道を通っていると推測されています。

 そのシンの荒野でイスラエルの民は指導者モーセとアロンに対してつぶやいたと書かれています。15章23、24節でもそうでした。メラの水が苦くて飲めなかったので、彼らはモーセを批判し、つぶやきました。ここでもまた、彼らはモーセにつぶやき、不平を言い、よりはっきりと、自分たちの指導者であるモーセを批判しています。これはなんという悪意に満ちた、また不遜で、邪悪で、愚かでさえある不平の言葉であることでしょうか。エジプトでの10の災い、10の奇跡の時から民の先頭に立ってエジプト王ファラオと対決し、自分たちの救いのために戦ってきたモーセとアロンに対して、「あなたたちは我々をこの荒野に連れ出して、ここで全員を飢え死にさせようとしているではないか」と言って非難するとは。

 これは、指導者であるモーセとアロンに対するつぶやき、批判の言葉である以上に、彼らを奴隷の家から導き出された主なる神に対する不信仰であり、神の救いのみわざに対する反逆であるというべきです。1か月半前に自分たちに与えられた神の偉大な救のみわざを忘れ、その救いのみ力を疑う罪です。奴隷の家からの解放の奇跡、葦の海を二つに分けて、エジプト軍による追撃から逃れさせ、乾いた海の底を安全に渡らせた奇跡、そして、メラの苦い水を甘い水に変えた奇跡、それらの神の数々の偉大な奇跡を、彼らは早くも忘れてしまい、このようなつぶやき、疑い、非難の言葉を口にするとは、何という不信仰で、邪悪で、かたくなで、そして愚かでさえあるイスラエルの民であることか。二度も三度も、同じ罪を繰り返し、同じ不信仰と反逆を繰り返すイスラエルの民。

 イスラエルの民のつぶやきにはもう一つの罪の側面があります。それは、神によって立てられている自分たちの指導者たちに対する不従順ということです。モーセとアロンの兄弟は神によって召されてイスラエルの民の上に立てられ、エジプト脱出と荒れ野の旅の指導者とされました。また、実際に二人はそのために主なる神に忠実に仕え、また民全体のために働いてきました。モーセとアロンはイスラエルの民のために仕える神の代理者でした。神は二人の口を通して言葉を語られ、二人の働きを通してご自身の救いのみわざを行われました。イスラエルの民は主なる神に聞き従うように、モーセとアロンに聞き従うべきであり、主なる神を信頼するように二人に信頼しなければなりません。しかし、民は二人に対する信頼を投げ捨て、二人に対する服従を拒みました。それが彼らのもう一つの罪の実体でした。

 のちに、イスラエルの民が神の約束の地カナンに入って、一つの国家、一つの信仰共同体を形成していく時、彼らには王、祭司、預言者という指導者が立てられます。主なる神はこれらの地上の代理者である、王、祭司、預言者たちを通して、イスラエルを一つの礼拝の民、信仰の民として訓練され、み心にかなった一つの群れとして形成されます。民は主なる神に忠実であるように、地上の指導者である王、祭司、預言者に忠実に聞かなければなりません。荒れ野の40年間は、そのことを学ぶ期間でもあったのです。

 さて、このようにかたくなで罪深く、不信仰で反逆する民を、神はどうされたでしょうか。神は誰一人み心を行う者がなく、皆罪に汚れている人間を、お裁きになり、お見捨てになるのでしょうか。荒れ野のイスラエルの民をお見捨てになるのでしょうか。

【4~8節】。神はこれまでにも何度もイスラエルのつぶやき聞かれ、そのつど必要な助けと導きをお与えくださったことを、わたしたちは読んできました。今度もそうです。いや、今度はそのことが何度も繰り返して強調されていることが分かります。7節で、「主は、あなたたちが主に向かって不平を述べるのを主が聞かれたからだ」と書かれています。8節でも、同じ言葉が繰り返されています。さらに、11、12節には、主なる神ご自身の言葉として語られています。【11~12節】。神は何度も何度も、イスラエルのつぶやきを聞かれます。イスラエルの罪と反逆と不従順をゆるされ、彼らのつぶやきに耳を傾けられ、彼らの不平、不満、愚かな叫びにも、お答えくださいます。そのようにして、神は人間の果てしなく、底知れぬ、深い罪を、邪悪とかたくなさと愚かさに固められた恐るべき罪をもおゆるしくださるのです。その罪のゆるしのために、ご自身の一人子なるみ子を十字架におささげくださったのです。

神はイスラエルの民の叫びに応えて、彼らを空腹と飢えからお救いになるために、天からのパンと空からのうずらとをお与えくださいました。うずらと天からのパンについては13節以下で詳しく語られています。【13~16節】。

まず、うずらについてですが、うずらは世界各地に飛来する渡り鳥であり、その肉は今日でもヨーロッパや日本でも食べられています。おそらく、アラビア海や紅海から飛んできたうずらが、夕方に羽を休めるために砂漠地帯に降り立ったのだろうと推測されます。しかし、それは自然現象ではなく、主なる神がそのようにしてイスラエルの民に肉をお与えになったのだと言われています。

天からのパンについてですが、朝に荒れ野の地表に露が降りたようになり、それが渇くと、白くて甘い味がするコエンドロという砂漠に生える草の種のようなものであると31節に説明されています。【31節】。「マナ」とは、15節でイスラエルの人々が「これは何だろう」と言ったと書かれていますが、それがヘブライ語の発音では「マーン・フー」ですが、そこから「マーン」を日本語で「マナ」と発音されるようになりました。マナについては、今日、それが何であるのかと議論されますが、重要なのは、それが神から与えられた不思議な食物、パンであり、それが毎日毎日民全体を養うのに十分なほどに与えられたということです。欲張って二日分を集めると、それは翌日には虫がついて臭くなり、食べれなくなったと20節に書かれています。また、土曜日の安息日前の金曜日には、二日分集めても、それは臭くならなかったと24節に書かれています。

 このようにして、イスラエルの民は40年の荒れ野の旅の間中、日々に必要なパンを神から与えられ、神に養われました。神がお定めになった集め方に従わなかった場合には、マナは与えられず、食べられなくなってしまいました。ここで重要なことは、神の不思議はパンであるマナを得るために、神の言葉、神の定めに聞き従わなければならないということにあります。神の定めに聞き従わずに集めたマナは、彼らを養うことがありませんでした。

 もう一つの重要な点は、安息日の戒めを守るということです。ここではまだモーセの十戒は定められていませんから、厳密な意味での安息日の律法はありませんでしたが、荒れ野においても、安息日ごとの神礼拝は守られていました。その安息日に、神を礼拝することよりもマナを集めることを優先するならば、マナを得ることはできません。【27節】。これによって、イスラエルの民は安息日が神礼拝のために聖別された日であることを学んだのです。そして、安息日に共に主なる神のみ前に集い、神を礼拝する礼拝の民となるべきことを学んだのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたはわたしたちの命にとって必要なものすべてを、日ごとに備えてくださいます。それ以上に、わたしたちを日々にあなたの命のみ言葉によって養い、導いてくださいます。どうか、わたしたちの信仰の道にあなたが常に伴ってくださり、わたしたちが迷うとき、苦しむとき、悲しむとき、孤独を感じるときにも、必要なみ言葉をお語りくださり、終わりの日に至るまで、わたしたちをあなたの民として守ってください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

6月7日説教「福音は信じる人すべてを救う神の力」

2026年6月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編42編1~12節

    ローマの信徒への手紙1章16~17節

説教題:「福音は信じる人すべてを救う神の力」

 きょうの礼拝で朗読されたローマの信徒への手紙1章16節、17節には、この手紙の主題が書かれていると言われます。【16~17節】。この箇所を数回に分けて学んでいきます。きょうは16節を中心に学びます。

まず、パウロは「わたしは福音を恥としない」と語りだします。この文章は「わたしは恥じない」という否定の言葉で始まります。ギリシャ語では「ウー」と発音する語が文頭に置かれています。英語のNo、日本語では「ない、否」という言葉にあたります。いきなり否定語で文章が始まるというのは、奇妙な感じがしますし、ドキッとします。事実、この表現は、強く、積極的な意味が強調されているのです。つまり、「恥ない」とは、その反対の、「誇りとする」とか、「自信と確信とを持って、断固として語る」という意味を強調しているのです。「わたしは福音を恥ない」という文章の内容に従って言い換えるならば、「わたしは福音を大胆に告白する」となります。

同じ言葉は、パウロが弟子のテモテにあてて書いた手紙に何度か用いられています。テモテへの手紙二1章8節を読んでみましょう。【8節】(391ページ)。「恥じてはなりません」は直訳すると「あなたは恥じるな」であり、12節でも「わたしは恥じない」、16節では「彼は恥じない」と、手紙を書いているパウロと、それを受け取るテモテ、そしてパウロに助けの手を差し伸べたオネシフィロの家族、三者について「恥じない」という言葉が用いられています。主イエス・キリストの福音を宣べ伝えたことによって迫害を受け、手足を縛られ、囚人として獄につながれているパウロですが、彼自身はもちろん、パウロの身を案じるテモテもパウロの協力者たちも、すべての人たちに対して、パウロは「恥じるな」と命じているのです。

「恥じるな」とは、心理的に恥ずかしく思うなとか、尻込みをするなという消極的な意味で用いられているのではありません。どのような迫害や、困難や試練の中にあっても、いやそのような状況の中にあってこそ、その迫害と困難に立ち向かい、それと果敢に戦い、より一層大胆に、積極的に、喜びをもって、主イエスの福音を宣べ伝え、主イエスの福音を告白するということを強調した言い方なのです。

そのことを確認したうえで、パウロがなぜ「わたしは福音を恥じない」という表現を用いたのか、その理由を考えてみましょう。パウロはコリントの信徒への手紙一1章で、このように書いています。「主イエスの十字架の福音は、しるしを求めるユダヤ人にはつまずかせるものであり、知恵を求めるギリシャ人には愚かなものである」(18節以下参照)と。その十字架の福音を宣教するということは、この世の価値感や人間的な知恵によれば、それは恥でしかないと人々には思われるのです。「しかし、それにもかかわらず、わたしたちは十字架につけられた主キリストを宣べ伝える」と、パウロは続けて語ります。この世の多くの人たちからは愚かで、つまずかせるものであり、恥でしかないように思われる十字架の福音を、しかし、この世のあざけりや迫害の中で、大胆に、勇気をもって、わたしたちは語り続けるのだ、とパウロは強調します。

主イエス・キリストの十字架の福音を宣べ伝えるということは、いつの時代でも、どこの国においても、迫害と軽蔑と敵意とを受けることを余儀なくされます。そのような中で、それにもかかわらず、福音を語り続けていくためには、「わたしは福音を恥ない」という、断固とした決意と、忍耐強い抵抗と戦いの姿勢が必要とされます。また、主イエス・キリストの福音は、そのような勇気と決意とを、信じる人たちに与えるのです。

「わたしは福音を恥ない」という言葉は、すぐ前の14、15節との関連もあります。パウロはそこで、「わたしにはユダヤ人にもギリシャ人にも福音を告げ知らせる責任がある」と語り、それゆえにローマにいるあなたがたにもぜひ福音を告げ知らせたいと語っていました。彼は全世界のすべの民に主キリストの福音を宣教する務めが自分にあるということを強く自覚していました。彼は、コリントの信徒への手紙一9章16節以下で、「わたしが福音を宣べ伝えているのは、そうせずにはいられないからだ。もしわたしが福音を語らないなら、それはわたしにとって災いだ」とまで言っています。キリスト教会の熱心な迫害者であったパウロが、神に選ばれて、福音の宣教者として立てられてからは、その大きな恵みに感謝して、それに答えることが、彼の生涯の使命だと、彼は強く自覚していました。いや、それ以上に、福音を宣べ伝えることを彼の大きな負債のように感じていました。自分の残りの全生涯をそのために尽くしたとしても、到底支払いを完了することができないほどの大きな負債を、主イエス・キリストの十字架によって、自分に代わって支払ってもらっていると、彼は考えていたのです。それゆえに、パウロはどのような厳しい戦いや屈辱を強いられたとしても、苦難や試練を積み重ねたとしても、「わたしは福音を恥ない」と力強く断言するのです。

パウロがこれから訪問しようと計画しているローマとの関連を考えてみましょう。当時はローマ帝国の急成長の時代でした。全世界の文化、芸術、学問、哲学、そして宗教、権力がこの世界都市に集中していました。その中で、十字架につけられた主イエス・キリストの福音を語ることは、何を意味していたでしょうか。それは、明らかに大きなつまずきであり、愚かであり、恥であったでしょう。パレスチナの一角で、貧しい家畜小屋に生まれ、ローマの地方総督ポンティオ・ピラトのもとで裁かれ、人々のあざけりの中、十字架で死んでいった一人の不遇で哀れな男を、全世界の救い主と信じ、告白し、その方のために自らの命と生涯のすべてをささげるということは、ローマに住む人々にとっては、その都の権力者にとっては、どんなにか大きなつまずきであり、愚かであり、恥であったことでしょうか。

しかし、パウロは「わたしは福音を恥ない」を断言します。このような神のみ子の貧しさと、低さと、弱さの中にこそ、神の罪びとたちに対する偉大な愛があり、ゆるしがあるからです。このような主キリストにこそ、すべての人のための唯一の救いがあるからです。神のみ子主イエス・キリストご自身が、ご受難と十字架の死において、ご自身のすべての弱さと愚かさと恥の中で、しかし、「恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍ばれた」(ヘブライ人への手紙12章2節)のであれば、この主にお仕えする僕(しもべ)たちがどうしてそれとは違うことがあり得ましょうか。神のみ子がこのような低さと貧しさの中で、罪と死とに勝利されたのであれば、その主にお仕えする僕たちもまた、そのことを信じることが許されているに違いありません。

もしパウロが、幾度も迫害され、捕らえられ、鞭うたれ、鎖でつながれた時、彼自身の知恵や力、雄弁とか、あるいは人間的な、この世的な助けを期待していたのであれば、彼はあるいは恥じなければならなかったかもしれません。恐れなければならなかったかもしれません。しかし、彼はただひたすらに主キリストの十字架の福音にだけ信頼し、そこにのみ自分の助けと救いがあることを信じ、「わたしは福音を恥ない」という告白を貫きとおしたのです。

なぜ彼はそうしたのか。なぜ彼はそうできたのか。その理由が16節に続けて書かれています。【16節b】。パウロはこの神の力を信じていたからこそ、どのような困難な状況の中でも、この世からのどのような迫害や敵対の中でも、「わたしは福音を恥としない」ということができたのです。主イエス・キリストの十字架の福音にこそ、最も偉大で、最も驚くべき神の力が働き、すべての人に救いをもたらすからです。

では、その神の力とはどのような力のことでしょうか。まず確認しておくべきことは、それは神の力、神からやってくる力のことであり、他のどこからから来る力ではないということです。パウロ個人の力ではなく、他の誰かの力でもなく、あるいは他の何かの力でもない、神のみから来る、神ご自身だけが持っておられる力のことです。

わたしたちはさまざまなものの力について語ることができるでしょう。この時代であれば、ローマ皇帝カイザルの力について、ユダヤ人が恐れていたヘロデ大王の力について、19世紀にヨーロッパを席捲(せっけん)したナポレオンの力について、あるいは一瞬にして多くの命を奪う大量殺りく兵器の力について、または突然に襲い来る自然の力について、わたしたちはそれらの力や脅威について語ることができるでしょう。しかし、そこではまた同時に、それらの力の限界についても語ることができますし、語らなければなりません。

けれども、神の力については、どれだけ語ることができるでしょうか。それについては、おそらくわたしたちは全く不十分にしか語ることができません。誰も神の力を見極めることができませんし、それを語り尽くすこともできません。ただ、不十分な言葉で、「神は全能の神である」と語ることができるだけです。ましてや、神の力の限界などということについては、いったい誰が語りうるでしょうか。神の力は、この世のあらゆる力をはるかに超えていると言うことができるだけです。そして、さらに重要なことは、神の力はこの世にあるすべての力にその限界を与えるということです。

「救いをもたらす神の力」と言われています。神の偉大なる力、全能の力、無限の力が、今この時に、主イエス・キリストによって、わたしたち人間の救いのために働く福音として、その力を発揮したのだとパウロは言っています。神はご自身の偉大な力のすべてを、その全能なる力を、わたしたち人間を罪から救うために集中的にお用いになったのです。主イエス・キリストの十字架の福音は、それを聞き、信じる人に、偉大なる全能の力として働き、その人に救いをもたらします。主イエス・キリストの十字架の福音を語る神の言葉は、空しく語られることはありません。それは救いの出来事を生み出します。

創世記に書かれているように、神は言葉によって闇の中に光を創造され、混沌の中に天地万物と人間とを創造されました。神の言葉は無から有を呼び出だし、死から命を生み出します。神の口から出る言葉は、空しく神のもとに帰ることはありません。神に立ち帰る罪びとたちに豊かなゆるしを与えます。

「信じる者すべてに」と言われています。神の救いの力は、ただ信仰によってのみわたしたちに届きます。わたしには何がなくても、あるいは何かが多くあったとしても、それには全く関係せず、ただ主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によって、神の救いの力がすべての人に与えられるのです。別の表現を用いるならば、ただ神の恵みと憐れみによって、すべての人の罪がゆるされ、神との豊かな霊にある交わりの中に招き入れられ、来たるべき神の国の民の一人とされるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの恵みと慈しみとは、とこしえからとこしえに至るまで絶えることはありません。また、あなたの救いの恵みは、全地のすべての人の上に限りなく与えられます。どうか主よ、この世界を憐れんでください。すべての人があなたの救いに招き入れられ、まことの命と平安に生きる者とされますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

5月31日説教「小さな群れよ、恐れるな。神の国はあなたがたに与えられる」

2026年5月31日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書40章27~31節

    ルカによる福音書12章22~34節

説教題:「小さな群れよ、恐れるな。神の国はあなたがたに与えられる」

 ルカによる福音書12章22節以下で、主イエスはわたしたち人間を日々の思い煩いから解放するために、「空の鳥を見よ」「野の花を見よ」と言われます。人間は、何としばしば、毎日毎日、きょうは何を食べようか、何を着ようかなどと、この世のさまざまなことで思い悩み、思い煩うことことか。主イエスはそのようなわたしたちの果てしない欲望や願い、あるいは迷いや不安をご存じです。わたしの心がいくつにも分裂して、この世の過ぎ去り行くものに縛り付けられ、ついには永遠なるものを見失い、神を見失っている現実を、主イエスは知っておられます。

 そこで、主イエスはわたしたち目を、まず初めに、わたしの肉の目で見ることができる空の鳥や野の花へと向けさせます。それは、誰にでもできます。いつも身近に見ています。そして、そこから、空の鳥や野の花を日々に養い、美しく装ってくださる、造り主なる神へと、わたしたちの信仰の目を向けさせるのです。種を蒔くことも刈り取ることもしない空の鳥、また、紡ぎもせず糸を織ることもしない野の花。彼らをも日々に必要なものすべてを備えてくださる神。そして、その神は、あの空の鳥や野の花よりも、何十倍も、いや何万倍もの大きな愛をもって人間を創造された神。今もなお、その偉大なる愛によって守り導いておられる神。その神へとわたしたちの信仰の目を向けさせるのです。そのような神がいますのであるから、その神があなたにとって必要なものを日々に備えてくださらないことなどあるだろうか、と主イエスは言われるのです。そのようにして、主イエスはわたしたちをすべての思い悩み、思い煩いから解放してくださり、わたしたちの信仰の目を父なる神へと向けさせてくださるのです。

 28節以下で主イエスはこのように言われます。【28~30節】。「異邦人」とは、神に選ばれた信仰の民であるイスラエル、ユダヤ人以外の、信仰を持っていない諸国民、神を知らない人々を指しています。神を知らない人は、神がどれほどに人間一人一人を愛しておられるかを知りませんし、神が天地万物を創造され、人間をご自身のかたちに似せて、被造物の冠として創造されたことも知りません。ですから、彼らは神のご配慮を信じることができずに、すべてを自分の力で手に入れなければならないと考えて、毎日あくせくと動き回り、自分の欲望がかなえられなければ、思い悩み、不安になるのです。

 けれども、主イエスは言われます。「あなたがたは父なる神を知っているではないか。その神は、あなたがたに必要なものが何かを知っていてくださるではないか。あなたがたが本当は必要でないものまでも追い求めて心を煩わしているときに、あなたがたの父であられる神は、子どもであるあなたがたに今何が必要であるのかを最もよく知っておられるので、それを与えてくださらないはずがないではないか」と。

 30節の言葉でもう一つ注目したいのは、神が「あなたがたの父」と言われている個所です。神を「わたしの父、わたしたちの父」と呼ぶことは、旧約聖書では非常にまれでした。というのは、イスラエルの信仰においては、神はいと高き天におられる神であり、すべての造られたもの、被造物のはるか上に君臨しておられる絶対的な存在ですから、その神を人間の親子の関係で表現することは神の尊厳を損なうことになりかねないので、イスラエルでは避けられていました。

 新約聖書になってから、神を人間の親子関係と同じように、「父なる神」と呼ぶようになったのは、言うまでもなく、主イエスが神をご自分の父と呼ばれたからです。事実、主イエスは父なる神の御ひとり子であられます。すでにわたしたちが読んだ箇所ですが、10章21節以下を改めて読んでみましょう。【21~22節】(126ページ)。主イエスはここではっきりと神をご自身の父と呼ばれ、父であられる神が主イエスにその父のみ心をすべて明らかにされたと言っておられます。神のひとり子であられる主イエスによって、わたしたちもまた神を「天におられるわたしたちの父なる神よ」と、親しく呼びかけることが許されているのです。

 主イエスがきょうの箇所で「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」と言われたことの深い意味を、ここでわたしたちは気づかされます。主イエスによってわたしたちの父となってくださった神は、わたしたちに今最も必要なものが何であるのかを知っておられ、またそれをお与えくださる神なのだということです。わたしたちをこの世のすべての思い煩いから解放してくださり、まことの喜びと平安をお与えくださる神は、わたしたちを罪の奴隷からお救いくださるために、ご自身のひとり子であられる主イエスをご受難と十字架への道へとお導きになられたということを、わたしたちはここで気づかされるのです。

 わたしたち人間がまだ自らの罪に気づかずにいたときに、罪と戦うこともなく、罪から救われたいと願うことすらまだしていなかった時、いやむしろ、罪の中に安住し、自ら気づかずに死と滅びへと向かっていたときに、父なる神はわたしたちを罪から救い出すために、ひとり子なる主イエスをこの世にお遣わしくださり、主イエスの十字架の死によってわたしたちを罪の奴隷から解放してくださったのです。それによって、わたしたちの罪がゆるされること、そして神との交わりが回復されること、わたしたちが神の子どもたちをされること、神から与えられる永遠の命に生かされること。それこそが、わたしたち人間にとって今最も必要なことであるということを、わたしたちの父であられる神が知っておられ、そのことを実現されるために、み子主イエスをわたしたちのためにお遣わしくださったのです。パウロはローマの信徒への手紙8章でこのように言います。「ご自身のひとり子さえも惜しまずにわたしたちの罪の贖いのための供え物としてお与えくださった神が、み子のみならず、万物をも賜らないはずがあろうか」(8章32節参照)と。

 そこで、主イエスは続けて31節でこのように言われます。【31節】。「神の国」とは、主なる神が唯一の王として支配しておられる王国を言います。主イエスが宣教された福音は「神の国の福音」と言われます。罪が支配し、人間の邪悪や悪の霊が満ちているこの世界に、今や神のみ子が来てくださり、十字架への道を進んでおられるこの時に、神の新しいご支配が始まった。神の愛と恵みによるご支配が始まった。だから、人は皆、自分の罪を悔い改めて、主なる神に立ち帰りなさい。これが、主イエスが語られた神の国の福音です。

 主イエス・キリストの十字架と復活を信じるわたしたちキリスト者にとっては、神の国、神の愛と恵みのご支配はすでに始まっています。主イエスが十字架の死と復活によって、罪と死とに勝利しておられることを信じているからです。この神の国の福音を信じているわたしたちにとっては、パウロが語っているように、み子だけでなく、万物がすでに与えられているのです。

 主イエスは32節でこのように続けます。【32節】。31節と32節は似たような構文になっています。まず、主イエスの命令文があり、そのあとに主イエスの約束が語られています。「神の国を求めよ」。「そうすれば、これらは与えられる」。「恐れるな」。「なぜなら、あなたがたの父は喜んで神の国をお与えくださる」。このように、主イエスがわたしたちに何かをお命じになるときには、いつもその命令には大きな恵みの約束が伴っています。主イエスは言われます。「求めよ」。「そうすれば、与えられる」。「探せ」。「そうすれば、見いだす」。「門をたたけ」。「そうすれば、開けてもらえる」。「祈れ」。「そうすれば、あなたの願いは聞かれる」。「悔い改めよ」。「そうすれば、神があなたの方に近づいてきてくださる」。「信じよ」。「そうすれば、救われる」。そのように、わたしたちが主イエスの言葉に聞き従う時、それは決して空しく終わることはありません。豊かな救いの約束を伴っているからです。

 31節と32節のもう一つの関連は、31節で「神の国を求めなさい」と命じられており、32節では「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」という約束が語られています。わたしたちが神の国を求めることができるのは、わたしたちに神の国を与えようとされる父なる神の強い意志があるからであり、み心があるからなのです。わたしたちが、何よりもまず第一に、神の国を求めなさいと命じられているのは、このような神のみ心があるからなのです。

 主イエスは弟子たちに「小さな群れよ、恐れるな」と呼びかけておられます。主イエスの弟子たちは選ばれた12人と、あと少しの仲間でした。主イエスに反対する勢力であるユダヤ人指導者たち、ファリサイ派、サドカイ派、またヘロデ王家の数に比べれば、本当に小さな群れでしかありませんでした。あるいはまた、当時世界を支配していたローマ帝国と比較するならば、大海に浮かぶ小さな木の葉にすぎませんでした。けれども、主イエスはそのような小さな群れにこそ、神の国をお与えになると言われるのです。なぜならば、彼らが主イエスの福音を信じ、神の愛と恵みのご支配を信じているからです。それゆえにまた、彼らは小さな群れではあっても、この世のどのように大きな権力であろうとも決して恐れるには及びません。天におられる主なる神が彼らの王であるからです。

 最後に、主イエスは33節以下でこのように言われます。【33~34節】。主イエスはわたしたちの目と心とを天に向けさせます。この地上の過ぎ去り行くものに目と心とを奪われ、あれも欲しい、これも手に入れようと、毎日思い煩っているわたしの目と心とを、地上のものから離して、父なる神がいましたもう天へと向けさせます。天にこそ、朽ちることのない永遠の宝が備えられているからです。

 きょうの主イエスの説教の前半、22節から語られていた内容と、終わりの部分31節以下で語られている内容とを比較してみてください。前半では、わたしたち人間が自分の命のことや体のことで、あれもこれも手に入れようと思い煩っていた様子が語られていました。ところが、わたしたちが主イエス・キリストによって罪ゆるされ、神の国の民として招かれていることを知らされてからは、わたしが持っているものを喜んで隣人に分かち与えるように変えられていくことが語られています。神の国の福音に生きる人、主イエスの十字架の福音に生きる人は、そのようにして、すべての思い煩いから解放されます。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが御ひとり子をわたしたちにお与えくださるほどに、わたしたち人間を愛してくださったことを覚え、心から感謝いたします。どうか、わたしたちの目と心とを、あなたがいます天へと向けさせてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。