5月25日説教「生ける神に立ち帰りなさい」

2025年5月25日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記11章13~21節

    使徒言行録14章8~20」節

説教題:「生ける神に立ち帰りなさい」

 使徒パウロとバルナバの第一回世界伝道旅行の舞台は、地中海の北、小アジアと言われる地域、今のトルコ共和国になりますが、当時はローマ帝国のいくつかの州に分けられていた地域が、その舞台になっています。最初の伝道地はピシディア州のアンティオキアでした。そこから東に130キロにあるイコニオン、さらにそこから南に30キロにあるリストラでの伝道活動が、きょう読んだ14章8節以下に書かれています。

これまでの彼らの道のりを振り返ってみると、ある共通点が見えます。それは、迫害が彼らの次の新しい伝道地を切り開いてきたということです。13章50~51節にこのように書かれていました。【50~51節】(240ページ)。また、【14章5~7節】。そして、きょうの箇所の終わりでも、【19~20節】。その町でパウロたちを襲ってきた迫害、そして命の危険から逃れることが、彼らの次の伝道地を用意していた、生み出していたということが分かります。彼らが自分たちで相談して、次の伝道地を決めていたのではありませんでした。迫害を逃れて、というよりはむしろ、迫害を契機として、迫害をばねとして、迫害を新しいエネルギーとして、彼らは世界伝道を続けていったのでした。

そして、そのたびごとにわたしたちが確認してきた二つのことを、きょうももう一度思い起こしてみましょう。一つは、主なる神の言葉、主イエスの福音は、この世のどのような圧力によっても、人々の不信仰と攻撃によっても、決してその力を失うことはないということ、神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれることはないということです。神の言葉をそれらのすべてを打ち砕き、突き破って、前進していく、命と力とを持つ、永遠の言葉であるのだということです。

二つには、使徒たちはその神の言葉を固く信じて、どのような困難や迫害の中でも、神の言葉だけにより頼み、恐れることなく、むしろますます大胆に、熱心に神の言葉を語り続けたということです。

迫害や試練、困難にあるときほど、わたしたちは真剣に、また忠実に、神の言葉に聞くことが大切です。すべての力と希望は、神の言葉から与えられるからです。主イエス・キリストの十字架と復活の福音こそが、罪と死と滅びに支配されているこの世を救い、変革し、また主キリストの教会を固く立てることができるからです。

では、きょうの8節以下を読んでいくことにしましょう。【8~10節】。リストラにはユダヤ人住民が少なく、ユダヤ教の会堂がなかったのかもしれません。13節には、「町の外にゼウスの神殿があった」と書かれていますので、ギリシャの神々を信奉する人が多かったと推測されます。

ここでは、生まれつき足が不自由で一度も立って歩いたことがない人を、パウロが立ち上がらせたという一つの奇跡がクローズアップされていますが、その奇跡の根本にはパウロが語った神の言葉、主イエス・キリストの福音があったということに注目しなければなりません。9節に、「この人が、パウロが話すのを聞いていた」と書かれてあるように、この奇跡が起こったのはパウロの説教が語られ、それを信じた信仰者がいたということにその始まりがあったのです。ここにはパウロの説教は具体的に記されてはいませんが、彼が主イエス・キリストの十字架と復活の福音を語ったことは疑う余地はありません。

13章16節~41節までには、パウロの長い説教が書かれていました。そして、それを多くの異邦人が信じたと48節に書かれていました。14章3節には、パウロとバルナバが勇敢に語り、その説教と彼らが行ったしるしと不思議なわざのことが書かれていました。そこでは常に、使徒たちが語った神の言葉と信仰、そしてしるしと不思議なわざとが結びつけられています。きょうの箇所でも同様です。使徒たちが行ったしるしと不思議なわざは、彼らが語った神の言葉の命と力が具体的な出来事となって現れた実例なのであり、主イエス・キリストの救いの恵みが信じる人を新しい命によって生きる者とする具体的な実例なのです。

語られた神の言葉から分離して、奇跡そのものだけを特別視することは誤りであり、また、奇跡を行った使徒たちを、神の言葉から分離して特別視するのも誤りです。初代教会も、またその後の2千年間の教会においても、奇跡のわざそのものを教会の宣教の課題にしたり、伝道の道具のように利用したりすることは決してありえませんでした。

パウロはこのリストラの町でも神の言葉を語ります。主イエス・キリストの福音を語ります。そして、その説教を聞いて信じる信仰者が起こされます。そこから、奇跡が始まるのです。

9節に、「パウロは彼を見つめ」と書かれています。「見つめる」という言葉は、3章4節でも用いられていました。そこでは、「じっと見る」と訳されていました。その箇所で起こった奇跡ときょうの奇跡とは非常によく似ていますので、そこを読んでみましょう。【3章4~7節】(217ページ)。

「見つめる」「じっと見る」というこの言葉は、その人の顔や外見を肉の目で見るのではなく、その人のこれまでの苦悩に満ちた歩みのすべてを感じ取り、今神の言葉の説教を聞いて、彼に救いの道が開かれていることを知らされ、信仰を受け入れる備えが彼にできていることを見る、そして彼がこれからも主イエス・キリストをわたしの唯一の救い主と信じて歩み続けようとするする決意があることを見る、そのように、その人の過去、現在、未来のすべてを、その人の全体を見ることを意味しています。

実は、この言葉は福音書の中では、主イエスが12弟子たちを召されたときにもたびたび用いられていました。主イエスはガリラヤ湖で漁をしていたペトロとアンデレをご覧になり、「わたしについて来なさい」とお命じになりました。また、ヤコブとヨハネが船の中で網の手入れをしているのをご覧になり、彼らをお呼びになりました。すると、彼らはすぐに主イエスの招きに応えて、すべてを捨てて主イエスに従ったと書かれています(マタイ福音書4章18節以下参照)。弟子たちをご覧になり、ご自身の弟子としてお招きになられた主イエスの目が、使徒ペトロとパウロにも与えられているのです。もちろん、この目もまた、信仰の目であり、霊の目であり、神の言葉、主イエス・キリストの福音の宣教と固く結びついている目であることは言うまでもありません。神の言葉の説教者であるペトロとパウロは、説教を聞いていたその人の中に芽生えつつある信仰を見て取り、そして実際に、その人の信仰が豊かな救いの恵みを受け取ることを可能にするのです。

パウロは、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と命じます。すると、その人がすぐに立ち上がり、歩き出すという奇跡が起こったのです。これはパウロの口を通して語られた言葉ですが、その言葉の中で実際に働いておられたのは主なる神です。神は、神の言葉の宣教のために仕える人たちの口と言葉とをお用いになって、今もこのような救いのわざをなしてくださいます。

ところが、この奇跡がパウロたちに大きな問題を引き起こす原因となりました。【11~13節】。リストラにはゼウス神殿があり、ギリシャの神々が礼拝されていました。ゼウスはギリシャ神話の最高の位にある主神であり、ヘルメスはゼウスの子どもであり、神々の使いとされていました。町の人々はパウロとバルナバをゼウスとヘルメスの神々が人間の姿をとって下って来たのだと考え、彼らに犠牲をささげようとしました。最初のうちは、パウロたちにとっては現地の言葉が理解できずに、何が起こっているのか分からなかったようですが、犠牲にささげる動物や花輪を目の前に差し出されて、二人は初めて事の成り行きを察し、あわてて、驚きと怒りをあらわにして、人々の行動を必死にやめさせようとしました。

【14~15節】。14節では、「使徒たち」という言葉が用いられています。5節でも用いられていました。いずれの場合にも、パウロとバルナバが主なる神から遣わされた神の仕え人であることが強調されています。14節では、二人は旧約聖書の神、イスラエルの神を信じ、その神にお仕えし、その神によってこの町に伝道者として派遣されているということが意識されているように思われます。

すなわち、イスラエルの神、また主イエス・キリストの父なる神を信じている信仰者にとっては、その主なる神以外には神はいない、その主なる神以外は礼拝しない、他の神々と言われているものはすべて偶像に過ぎないという信仰が当然だということです。それゆえに、神ではない偶像の神々を礼拝することは最も神を冒涜する罪であり、神の厳しい裁きを受けねばなりません。天地万物と人間を創造された主なる神のみが唯一の、信じ、仕え、礼拝すべき神です。他のものはすべて、自然であれ、宇宙であれ、あるいは人間であれ、それらはみな神によって創造された被造物なのであって、神にはなり得ないのです。礼拝の対象にはなり得ないのです。これが旧約聖書以来、今日の教会へと受け継がれている信仰の土台です。

パウロとバルナバはギリシャの神々を信じている人々に対して、「このような偶像礼拝から離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです」と語ります。天地万物の創造者なる神、また主イエス・キリストの父なる神こそが、全世界に唯一の生ける神です。

「生ける神」という言葉には二つの意味が込められています。一つには、ご自身が唯一の生ける神、命の神、永遠に生きている神であるということです。他のものはすべて、過ぎ去り行くもの、朽ち果てる者もの、死ぬべきものです。

もう一つには、生かす神であるということ、この世界に存在するすべてのものに命を与え、その命を支え、その命を導く神であるということです。主なる神は、無から有を呼び出だすようにして新しい命を生み出し、また死から命を生み出すようにして、死すべきものに復活の命をお与えになります。

その生ける主なる神が、十字架につけられた主イエスを墓から復活させ、罪と死とに勝利した復活の命をお与えになり、また、罪の中にあって死すべきであるわたしたち一人一人にも、罪のゆるしと永遠の祈りの保証をお与えくださるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちをすべての偶像礼拝からお救いください。唯一の生ける神であられるあなただけを礼拝し、お仕えする者となりますように。また、罪と死とに勝利され、今は天におられてわたしたちのために執り成していてくださる主イエス・キリストを、わたしの唯一の救い主と信じて、どのような時にも、信仰の上に固く立つことができますように、お支えください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月18日説教「わたしたちを誘惑にあわせないでください」

2025年5月18日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記3章1~7節

    ルカによる福音書11章1~4節

説教題:「わたしたちを誘惑にあわせないでください」

 ルカによる福音書11章で教えられている「主の祈り」を学んできました。きょうはその最後になります。4節後半の「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」、この祈りは、マタイ福音書6章13節では、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」となっており、マタイ福音書をテキストにしている式文の「主の祈り」では「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」となっています。少しずつ違いがありますのが、その違いについてはのちほど説明をします。

 「わたしたちを誘惑にあわせないでください」。この祈りによって、わたしたち人間とはどのような者であるのかについて、二つのことをわたしたちは告白します。一つは、わたしたち人間はだれもみな、多くの誘惑、試み、試練に取り囲まれているということです。わたしたちの人生は危険に満ちています。だれにとっても、それは決して安易な道のりではありません。特にも、主イエスを信じて歩む信仰者の道は、そうでない人に比べても、より多くの危険に満ちており、信仰者は他の人よりも多くの誘惑や試みとの戦いを強いられるかもしれません。主イエスはそのことをよくご存じであられます。だから、「わたしたちを誘惑にあわせないでください」と祈るように命じておられます。

 さらに、わたしたち人間はそのような誘惑や試みに対して、自分の知恵や力で立ち向かい、勝利することができない、弱い者であるということを、この祈りによって告白するのです。わたしたちは小さな誘惑や試練にあっても、すぐに心を乱し、悩み、迷い、あるいは泣き言を言い、不安に襲われます。どんなに頭脳や体力を鍛えても、ささいなことでつまずき、弱音を吐き、くずおれてしまいます。主イエスもまた、わたしたちがそのように弱い者であることをよく知っておられます。それゆえに、「わたしたちを誘惑にあわせないでください」と祈ってよいと言われるのです。わたしたちは英雄的な信仰者である必要はありません。自ら進んで危険と冒険の道を選び取っていく必要もありません。日本の戦国時代の武士、山中鹿之助のように、「我に七難八苦を与えたまえ」と祈るのではなく、「我を試みにあわせないでください」と祈りなさいと、主イエスはお命じなっておられます。

 16世紀の宗教改革者マルチン・ルターは、「わたしたち人間はだれもみな周囲を危険な試みに取り囲まれ、だれもみな自分の力ではその試みに勝つことができない弱い人間なのだ」と言っています。彼は、当時の腐敗した教会に対して、迫害や死をも恐れずに、その誤りを告発し、国家の指導者たちの脅迫に対しても決して屈せず、聖書の真理と福音を証し続け、ついにはローマ教会から破門されたのでしたが、彼は決して改革の英雄として立ち上がったのではなく、ただひたすら忠実な主イエスの僕(しもべ)たろうとしたのであって、彼自身は自分の弱さを最もよく知っていたのです。それゆえに、「主よ、我を試みにあわせないでください」と、主なる神の守りと導きとを信じて、真剣に祈ったのでした。

 主イエス・キリストを救い主と信じてキリスト者になるということは、誘惑や試みが全くない、平穏無事で楽な人生を歩む保証を得たということでは決してありません。ご利益主義の宗教はそれを約束します。しかし、主イエスはマタイ福音書10章16節で、弟子たちのこのように言われました。「わたしがあなたがたを遣わすのは、羊を狼の群れに送り込むようなものである」と。また、ヨハネ福音書16章33節では、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と。さらに、ペトロの手紙一1章4節などでは、キリスト者が経験する試練は、信仰がためされ、鍛えられるためのものであるから、むしろそれを喜びなさいとも、勧められています。

 したがって、「わたしたちを誘惑にあわせないでください」という祈りは、試みを避けて、安全な道だけを通ることができるようにと願っているのではありません。この祈りは、どのような誘惑や試練、あるいはそこからやってくる迷いや悩みの中でも、それがわたしを神から引き離す原因とさせないでください。むしろ、わたしがそれらに勝利することができるように、わたしを守り、導いてくださいということを願う祈りなのです。「次々にわたしを襲ってくる試み、試練、災い、不安、恐れの中で、わたしを守るのは、主なる神よ、ただお一人、あなただけなのですから、わたしはあなたのもとに逃れ、あなたにわたしのすべてをお委ねする以外にありません。わたしにはそれらからわが身を守る知恵も力もありません。しかし、主よ、あなたにはすべての力と知恵とがあります。あなたはわたしたちを耐えられないような試練にあわせることをなさらないだけでなく、それに耐えることができるように、逃れの道を備えてくださいます。それゆえに、わたしはあなたにこう祈ります。どうか、わたしを試みにあわせないでください」と。

 では次に、わたしたち信仰者にとっての誘惑、試み、試練とはどのようなものなのかを聖書からさぐっていきましょう。実は、主イエスご自身が宣教活動を始められる前に、悪魔の誘惑にあわれたということを、マタイ、マルコ、ルカの3つの共観福音書が一致して伝えています。ルカ福音書では4章1節から記されています。そこに記されている悪魔の誘惑をみると、それは必ずしも、最初から悪意に満ちたものではなかったということが分かります。悪魔は表面的には優しい顔をして、人の同情をかうかのようにして近づいて来て、思いやりのある言葉を語り、相手の興味や関心、心の中に眠っている欲望を引き出すように語ります。

 「イエスよ、お前が神の子ならば、この石にパンになるように命じたらどうだ。お前自身の空腹が満たされるだけでなく、多くの人たちを飢餓から救うことだってできるのだから」。また、悪魔は誘惑します。「イエスよ、お前にこの国の一切の権力と繁栄とを与えよう。もしお前がわたしに仕えるならば、すべてはお前のものになる」。悪魔は続けます。「お前が神の子ならば、神殿の屋根から飛び降りてみよ。神は天使たちによってお前を助けるだろから。そして、多くの人々の前でお前が神の子であることを証明して見せよ」。

そのようにして、悪魔は最終的には人間が神なしでも生きていけるように錯覚させ、人間が自ら神のようになれると思いこませるのです。そのようにして、人間をついには神から引き離そうとするのです。これが悪魔の試みの最も恐るべき実体なのです。創世記3章に書かれている誘惑者蛇もまた同様だったことを思い起こします。

 わたしたちが信仰者として生きていくとき、日々の信仰の歩みの中でもまた同じような誘惑や試みがわたしたちを襲ってきます。わたしが願っていなかった苦しみとか重荷、突然にやってくる災いや試練が、わたしの信仰を脅かすことがありますが、それ以上に、悪魔は時として好ましい姿で、優しい顔でわたしと神との間に入り込み、わたしを神から引き離そうとすることがあります。あるいはまた、この世の栄誉や地位への誘惑が、あるいは人間の正義感や倫理、道徳、勤勉であること、健康志向や理想を追い求めること、その他あらゆることが、わたしを神なしでも生きていくことができるという誤った自信や傲慢な思いを生み出す原因となるのです。

 わたしたちの人生は、日々に多くの危険に取り囲まれています。そうであるからこそ、主イエスは、「わたしたちを誘惑にあわせないでください」と祈るように命じておられるのです。この祈りなしには、わたしたちは一歩も安全に信仰の道を進むことができないのです。主なる神の助けと導きとを祈り求めることなしには、わたしたちはだれもみな信仰の歩みを全うすることはできません。

 エフェソの信徒への手紙6章10節以下では、厳しい信仰の戦いの中で苦闘する信仰者を、このように励まし、勇気づけています。【10~18節】(359ページ)。わたしたちが悪魔の誘惑に打ち勝って、固く立つことができるために、神はこのように多くの信仰の武具をわたしたちに授けてくださいます。その中でも祈りは最大、最強の武具です。なぜなら、祈りは神ご自身がわたしのために戦ってくださることだからです。祈りによって、わたしたちは神に結ばれます。祈りによって神に結ばれることで、わたしを神から引き離そうとする悪魔の誘惑をすぐに悟ることができるようになります。祈りによって、わたしたちは悪魔の誘惑の正体を正しく知ることができるようになるからです。

 ここで、マタイ福音書とルカ福音書、また式文の違いについて少しふれておきましょう。ルカ福音書では、マタイ福音書にある「悪い者から救ってください」が省略されています。なぜ省略されたのかは、はっきりとは分かっておりませんが、たぶんルカ福音書では「わたしたちを誘惑にあわせないでください」の中に「悪い者から救ってください」という祈りも含まれていると理解したからではないかと、推測されています。また、マタイ福音書では「悪い者」となっているのに対して、式文では「悪より」となっているのは、翻訳の違いです。もとのギリシャ語では、中性名詞と男性名詞とが同じ表記になるために、どちらに訳すことも可能です。ただし、今日多くの学者は男性名詞と理解し「悪しき者」と訳すべきだと主張しています。聖書の悪は、抽象的なものではなく、人格的な、生き物のような存在として人間を襲ってくるように描かれているからです。

 最後に、わたしたちは主イエスがその宣教活動の始めに悪魔の誘惑にあわれ、それに勝利されたことを思い起こしながら、主イエスはまたそのご生涯の最後には、最も恐るべき悪魔と罪の誘惑に最終的に勝利されたことを確認しておきたいと思います。ヘブライ人への手紙4章15節にこのように書かれています。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」。

また、2章18節には、「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けているいる人たちを助けることがおできになるのです」。

主イエスはわたしたちを罪と死から救い出すために、ご自身が十字架の死という大きな試み、試練を経験されました。そして、父なる神への全き服従によって、罪と死に勝利されました。この主イエス・キリストが共にいてくださるならば、どのような試練も災いも、死すらも、わたしたちを神から引き離すことはできないのです(ローマの信徒への手紙8章31節以下参照)。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちは多くの悪しき者や罪の誘惑にさらされています。また、その誘惑に負けてしまう弱い者たちです。神よどうか、わたしたちをお守りください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月11日説教「エジプトでモーセが行ったしるしと奇跡」

2025年5月11日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記7章1~13節

    使徒言行録7章35~38節

説教題:「エジプトでモーセが行ったしるしと奇跡」

 出エジプト記3章から6章までは、モーセが出エジプトという神の偉大なる救いのみわざのために仕える指導者として選ばれ、立てられるという、モーセの召命について、かなり長く、詳しく書かれていました。これを、預言者が預言者の務めに召される召命の記録と比べてみますと、たとえばイザヤ、エレミヤが神に選ばれて預言者として立てられる召命の記録がそれぞれの書に書かれていますが、そのいずれも、このモーセの召命の記録ほどには長くはありません。イザヤは自分が罪に汚れているので預言者としてはふさわしくないと言って神の招きを拒みました。エレミヤは、自分は年が若いから預言者にはふさわしくないと言って断りました。でも、その二人の預言者の召命の記録はこのモーセの召命の記録ほどには長くはありません。モーセは、神の招きに対して何度も何度も、数えてみれば実に5回も、自分は口が重く、臆病者で、指導者としては向いていないなどと理由を並べて、神の招きを拒みました。それが、モーセの召命の記録がこれほどに長くなった理由でした。

 そのモーセに対して、7章1節で、神はこのように言われます。【1節】。神はここで、モーセをファラオに対して神の代わりとすると言われます。これはどういうことでしょうか。この箇所のヘブライ語原典を直訳するとこうなります。「主はモーセにこのように言われた。見よ、わたしはあなたをファラオに対して神とした。あなたの兄弟アロンはあなたの預言者となるであろう」。これは驚くべき神の言葉です。神はモーセをファラオに対して、あるいはファラオのために、神としたと言われたのです。『新共同訳聖書』では「神の代わりとする」と翻訳し、他の日本語でも「神のように」と訳すことによって、モーセが直接神になるという誤解を生まないように工夫しています。けれども、「……の代わりに」とか「……のように」という言葉は本来はありませんから、「モーセを神とする、神と任じる」と言われているのであって、しかも動詞は完了形になっていますから、「わたしはあなたを神として立てた」という意味で言われているのです。さらに、冒頭には「見よ」という強調する言葉があって、その神のみわざが強調されているのです。わたしたちは驚くべきこの神のみ言葉をどう理解すべきなのでしょうか。いくつかの視点から考えていきましょう。

 一つは、神の召命を受けながらも何度も躊躇し、拒絶し、その務めから逃れようとしていた弱く、貧しく、頼りないモーセを、神はまさに神として立て、エジプト王ファラオの前でイスラエルの神として立つようにお招きになった、あるいはそうなるようにお命じになったということです。モーセをそのようにされるのは主なる神です。モーセに、そのようになれ、とお命じになるのは主なる神です。たとえ、モーセ自身がどのように欠けや破れの多い人間であっても、神はそのモーセをお用いになって、神の働きをなさしめるのだと言われるのです。すべては神がなさることです。モーセはその神に黙って服従するのです。

 エジプト王「ファラオに対して」とあるのは、エジプトではファラオが神の化身、すなわち現人神と信じられていたことと関連すると考えられます。そのエジプトの神の化身であるファラオの前に立ち、その王と対峙し、しかもそのエジプトの神が偽りの神であり、偶像の神であることを明らかにするために、そして、イスラエルの神こそがまことの唯一の真実なる神であることを示すために、モーセはファラオの前にイスラエルの主なる神として立つようにと命じられているのだということです。

 もう一つ考えておかなければならないことは、人間が神となることの危険性についてです。創世記3章に書かれているように、最初に創造された人間アダムとエヴァは、その実を食べたら神のようになれるよとの誘惑者蛇の誘いにのって、神に食べるなと禁じられていた木の実を食べ、神の戒めを破りました。これが人間の罪の根源、原罪です。そこには、人間が神のようになるという誘惑がありました。人間が自ら神のようになることによって、もは神を必要としなくなること、それが人間の罪の根源です。

 神がここでモーセを神とすると言われることには、その危険性はないのでしょうか。しかし、わたしたちはこれまでのモーセの召命の記録を読んできて何度も確認したように、これはモーセ自身の願いとか意志によるのではなく、神からの招きであり、神の命令だということは、はっきりしています。モーセ自身が自ら神になろうとしているのではなく、むしろモーセは人間の中でも能力に欠け、意欲も野心もなく、取るに足りない者であることを自覚しているのです。彼は自分の無力さに絶望していました。彼はただ神の招きと命令によって、ファラオの前にイスラエルの神の代理として立つことができるのです。

 1節の神の招きのみ言葉は、これまでにも何度か語られていました。【4章14~16節】(99ページ)。神はモーセの弱さや不安、迷いを取り除くために、何度も繰り返してみ言葉をお語りになり、彼を励まし、彼に力をお与えになりました。神が常にモーセと共におられ、またアロンと共におられ、彼らにみ言葉をお語りになり、彼らになすべきことをお示しになるという、この神の約束のみ言葉こそが、モーセを神としてファラオの前に立たせ、またアロンを預言者として立てるのです。

 7章1節でもう一つ注目したい言葉があります。「預言者」という言葉が出エジプト記の中でここに最初に用いられています。旧約聖書の時代で最も早くに預言者と呼ばれているのがモーセの兄アロンです。のちの時代のイスラエルのいわば専門職としての預言者とは多少違いますが、ここには預言者の務めの基本が語られています。2節に書かれているように、主なる神がまずモーセにみ言葉を語り、次にモーセがアロンに神が語られてように語り、それをアロンがそのようにファラオに語る、そのようにして神の言葉がファラオにもたらされるというのです。先ほど読んだ4章14節以下にも同じようなことが言われていました。

 つまり、預言者とは神が語った言葉をそのまま他の人に、イスラエルの民やエジプト王ファラオの語る、そうすれば、そこで神の言葉が出来事となり、神の裁きと救いのみわざがなされる、それが預言者の務めであるということです。預言者とは、神の言葉を聞き、それを預かり、それをそのままに他者に、民に語り、そこで神の出来事を引き起こすのがその務めです。、モーセとアロン以後、イスラエルは千年以上の期間、神によって召された預言者たちが語った神の言葉によって導かれてきました。そしてついに、まことの預言者であられ、神の言葉そのものが受肉された主イエス・キリストによって、神の救いのみわざが、成就されたのです。

 次に、【7章3~7節】。モーセがファラオの前で神として立てられるという神の約束は、モーセがこれからのち試練や苦難に遭遇しないということではありません。むしろ、3節では、主なる神ご自身がファラオの心をかたくなにするから、モーセが語る言葉を彼は簡単には聞かないであろうと言われています。イスラエルの民を解放するようにとのモーセの要求は、エジプトの国で行われる多くのしるしと奇跡を見ても、ファラオはかたくなに拒み続けるであろうと言われているのです。モーセとアロンの務めは、多くの困難に直面し、神は二人を困窮させるであろうと言われているのです。モーセとアロンの務めは容易ではありません。

 神がこれほどまでして、ファラオの心をかたくなにし、モーセとアロンの務めを困難にされるのはなぜでしょうか。5節後半に、このように書かれています。「エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる」と。神はイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から救い出されるという本来の救いのみわざをなさるだけでなく、エジプト王ファラオのかたくなさによって、より偉大なる神のみ力を表され、それによって異邦人である不信仰なジプト人もまたイスラエルの神こそが全地の唯一の主であることを知るようになるのだと言われます。神はエジプト王ファラオのかたくなな心をも支配しておられます。それだけでなく、神はイスラエルの民ユダヤ人と異邦人であるギリシャ人のすべての人間の不信仰と罪の中で、主イエス・キリストによる救いのみわざを成就なさるのです。

 7節には、モーセがファラオの前に立ったのは80歳であったと書かれています。申命記34章7節によれば、出エジプト後のイスラエルが荒れ野の40年の旅を終えて約束の地を前に、120歳でモーセは世を去ったとありますから、その記録と合致します。また、使徒言行録7章のステファノの説教によれば、モーセは誕生してから40年間はエジプトの王宮でファラオの娘の子として育ち、その後40年間はアラビヤのミディアンの地で過し、80歳の時に神の召命を受けてイスラエルの指導者として立てられたという内容とも一致します。モーセはそれぞれの年代と時代に、神によって定められた人生を歩み、神の僕(しもべ)、神の預言者としての務めを全うしたのです。

 8節以下には、モーセに与えられた「神の杖」によって、モーセとアロンがファラオの前で奇跡を行ったことが書かれています。【8~13節】。この箇所の重要なポイントを二つにまとめてみましょう。一つには、この奇跡によって、イスラエルの神がエジプトの魔術師たちや神々に勝利したということが語られています。イスラエルの主なる神は、エジプトの神々や神の化身と自称する王ファラオとに勝利され、ご自身が選ばれたイスラエルの民をその全能のみ力によってエジプトから導き出されるということがここですでに暗示されているのです。

 もう一つは、エジプトの魔術師たちは人間の能力を超えた力を発揮したり、人々を驚かせたりすることはできるけれども、それはエジプトや世界の歴史を変えることも、人々にまことの救いをもたらすことはできないのに対して、神がモーセとアロンに与えた「神の杖」は、数々のしるしや奇跡を起こし、それによって主なる神の偉大さを示し、ついにはイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出すであろうことをも、あらかじめ暗示されています。モーセとアロンはその「神の杖」によって、これから7章14節以下に記されているように、エジプトの地で数々のしるしと奇跡を行って、神の救いのみわざのためにお仕えするのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から救い出され、また、今この時には、み子主イエス・キリストの十字架と復活によって、全人類を罪と死から救い出されました。あなたの救いのみわざは今もなお続けられています。どうか、迷いと悩みの中にあるこの世界をお救いください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月4日説教「古代教会の信仰告白」

2025年5月4日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(42)

聖 書:申命記26章5~11節

    コリントの信徒への手紙一15章1~11節

説教題:「古代教会の信仰告白」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の5段落目の文章、これは『信仰告白』の「前文」と後半の『使徒信条』とを結んでいる文章ですが、「古代の教会は……」から始まって、「……共に告白します」までは、直接的にはこのあとの『使徒信条』のことを説明しています。

 この箇所は、1890年(明治23年)の『(旧)日本基督教会信仰の告白』をほとんどそのままに受け継いでいます。それを紹介してみます。「往時(いにしえ)の教会は、聖書によりて、左の告白文を作れり。我等もまた、聖徒がかつて伝えられたる、信仰の道を奉じ、讃美と感謝とをもって、その告白に同意を表す」。古い文体ですが、内容としては、ほとんど同じです。

このことからも分かりますように、日本キリスト教会は1890年に創立されて以来今年で145年になりますが、古代の教会が告白した『使徒信条』が自分たちの教会の信仰の土台であり、中心であるということを、ずっと自覚してきました。福音が語られる国や場所が変わっても、あるいは文化や慣習、また時代が変わっても、自分たちがこの国で宣べ伝えるべき福音は、古代教会が信じ、告白してきた『使徒信条』を土台としているということを、いつも忘れませんでした。

 そこできょうは、「古代の教会は、聖書によって次のように信仰を告白しました」という個所を学んでいきます。まず、「古代の教会」についてですが、1953年に制定された「文語体」では、1890年と同様に「いにしへの教会は」と言われていたのを、2007年の「口語文」でこのように言い換えられました。「古代の教会」「いにしへの教会」とは、『使徒信条』が形成された時代を指していることになりますが、それが紀元何年ころなのかについては、研究者によって開きがあります。紀元4世紀から5世紀にかけてという説が一般的です。

 また、『使徒信条』のもとになったと推測されているローマ信条と言われる信仰告白があります。これは、ローマにある教会で洗礼を受ける人が告白した信仰告白で、紀元2~3世紀のものと考えられています。『使徒信条』と非常によく似ていますので、紹介します。

 「わたしは全能の父なる神を信じます。わたしはその独り子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。主は聖霊と処女マリアによって生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで十字架につけられ、葬られ、三日目に死者の中から復活し、天に昇り、父なる神の右の座に就いておられます。そこから、生ける者と死せる者とを裁くために来られます。わたしは聖霊を、聖なる教会を、罪のゆるしを、体の復活を、永遠の生命を信じます」。

 このようなローマ信条などをもとにして、諸教会で告白されていた信仰告白が長い年月をかけて、今日の『使徒信条』が成立したと考えられています。

 ちなみに、初期のころのキリスト教の時代区分についてですが、一般的に言うならば、主イエスの十字架の死と復活、そして聖霊降臨とエルサレム教会が誕生した、紀元30年代から、紀元2、3世紀ころまでを、初代教会時代と言います。古代教会時代と言えば、それよりは少し幅が広く、紀元1世紀から4世紀ころまでを言い、5世紀から16世紀初めの宗教改革期までを中世と呼ぶのが一般的です。

 では次に、「聖書によって、次のように告白しました」の「聖書によって」という言葉に注目したいと思います。これは、『使徒信条』が聖書の言葉をもとにして形成されたということを言い表しているのですが、それだけでなく、そもそも信仰告白とは、聖書に書かれている神の言葉をその土台としている。聖書の中で神が語っておられる言葉、あるいは神の真理、神の救いのみわざ、それらを源泉として、『使徒信条』もすべての信仰告白も作成されているということを、言い表しています。

 そのことは、これまで『信仰告白』の「前文」の箇所を学んできた際にいつも確認してきたことですが、聖書と信仰告白との関係を、一般に次のように言い表します。「聖書はすべてを規範づけている規範であり、信仰告白は聖書によって規範づけられた規範である」。あるいは、このような言い方もできるでしょう。「信仰告白は聖書に対する信仰者の応答である」と。

 しかも、信仰者一人一人の応答というのではなく、信仰者の群れ、教会の応答として、長い年月にわたって、多くの信仰的、また学問的な推敲作業を経てまとめられた要約としての応答、それがその時代の教会の信仰告白として文章にされ、多くの教会員がそれに賛同し、共に告白することを表明する。そのようにして作成されたのが信仰告白です。ちなみに、新約聖書のギリシャ語で「信仰を告白する」という言葉は、本来は「共に言葉にする、共に言う」という意味を持っています。

 実は、旧約聖書の中にも、イスラエルの民が神の救いのみわざに対して感謝の応答をして作成されたと思われる信仰告白が数多くあると理解する学者がおります。詩編などの多くは、イスラエルの礼拝でそのような信仰の応答として礼拝者全員で唱和した信仰告白であったと推測できます。また、きょうの礼拝で朗読されて申命記26章5節以下もそのような信仰告白の一つだと言われます。【5~11節】(320ページ)。

 以上のことから、信仰告白の役割について、二つの点を確認しておきましょう。一つは、信仰告白は聖書の要約であるということです。聖書は、新・旧約聖書合わせて2500ページもの膨大な量ですから、その中で語られ教えられている内容を短く要約することは容易ではありません。でも、長い信仰の歩みと学問的な研鑽を積み重ね、その中の重要なポイントをまとめて一つの文章とするという作業は、イスラエルにおいても教会においても続けられてきました。また、その作業の中で、異端的な教え、間違った教えを取り除き、体系的なキリスト教教理と言われるものを積み重ねてきました。信仰告白は異端的教えに対する戦いの要素も強く含まれていました。

 もう一点は、信仰告白は告白共同体を形成するということです。一人一人が自由勝手に聖書を理解するのではなく、教会の群れとして、共に一致して一人の主にお仕えしていくために、共に同じ信仰を告白する、一つの群れを形成していくという役割が信仰告白にはあります。わたしたちの教会、日本キリスト教会はまさにそのことを重視する「信仰告白の教会」であることを特徴の一つにしています。それはまた、神の言葉である聖書によって結集している教会であることをも意味しています。だれか偉大な指導者や監督によって一致し、結集している教会ではなく、また教会の組織とか伝統とかによって一つにまとめられた教会でもなく、神の言葉である聖書、またその聖書に対する信仰の応答である信仰告白によって一致し、結集している教会、そのような教会を目指しているのです。

 前に、旧約聖書の中の信仰告白について触れましたが、新約聖書の中にも、初期のころの教会の信仰告白を見いだすことができます。その代表的な例として、コリントの信徒への手紙一15章を挙げることができます。【1~5節】。3節の「すなわち」以下から5節までが、パウロがコリントの教会に告げ知らせた福音の内容と思われます。パウロはそれを、「わたしも受けたものです」と言っているように、彼は他の教会で信仰告白のように言い伝えられていた内容を、コリントの教会にも伝えました。この手紙が書かれたのは紀元54年か55年、パウロのコリント伝道はその数年前ですから、主イエスの十字架の死と復活、そしてエルサレム教会誕生が紀元30年代はじめとすると、それから20年余りの間に、このような文章が信仰告白として作成され、他の教会へも伝えられていたことが分かります。教会は誕生した当初から、信仰告白の共同体であったと言ってよいでしょう。

 さらに研究を進めていくと、信仰告白の最も初期の原点ともいうべきものが見えてきます。ローマの信徒への手紙10章9節を読んでみましょう。【9節】(288ページ)。ここに、「イエスは主であると告白して」書かれています。また、コリントの信徒への手紙一12章3節には、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」と書かれています。もう一か所、フィリピの信徒への手紙2章11節には、「すべての舌が、『イエスは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」と書かれています。

 これらの箇所から分かるように、「イエスは主である」あるいは「イエス・キリストは主である」、すなわち「イエスはキリストであり、主である」という告白が、最もオリジナルな信仰告白の原点であったのではないかと推測できます。このオリジナルな信仰告白を核として、それにいろんな告白がつけ加えられ、コリントの信徒への手紙一15章のパウロが伝えた信仰告白や、紀元2世紀のローマ信条、そして『使徒信条』へと発展していったと考えられています。

 「イエスは主である」あるいは「イエスはキリストであり、主である」というこのオリジナルな信仰告白は、やがて初代教会の迫害の時代に、教会にとっての大きな闘いの武具となっていきました。ローマ皇帝は自らを「生ける神にして主」と称しましたが、キリスト者は「いや、皇帝は神でもなければ、主でもない。わたしたちのために十字架で死なれた、神のみ子であり人の子である主イエスだけが、わたしたちの、そして全人類の唯一の主であり、救い主であり、来るべき神の国の王である」と告白したのです。「イエスは主である」という信仰告白は、今日のわたしたち一人一人にとっても、信仰の闘いのための力強い武具なのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、「イエスは主である」という信仰告白を、わたしたちの教会とわたしたち一人一人の力強い信仰告白としてください。他のいかなるものをも、決して主とせず、礼拝せず、主イエス・キリストにわたしのすべてをお委ねする者となりますように。

〇主なる神よ、この世界にあなたの義と平和とが実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。