5月19日説教「主イエスによる聖霊の約束」

2024年5月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

              聖霊降臨日(ペンテコステ)

聖 書:ヨエル書3章1~3節

    ヨハネによる福音書14章25~31節

説教題:「主イエスによる聖霊の約束」

 ペンテコステは元来ユダヤ人の収穫感謝の祭りでした。イスラエルの民が奴隷の家エジプトから脱出したことを祝う過ぎ越しの祭りから50日目に、約束の地に導き入れられた彼らが小麦の収穫の初穂を神にささげて、感謝する祭りで、五旬祭、七週の祭り、初穂の祭りなどと呼ばれていました

 このペンテコステの日に、エルサレムに集まっていた12弟子たちをはじめ多くのキリスト信者たちに聖霊が注がれ、彼らは神から与えられた力に満たされて、主イエス・キリストの福音を大胆に、力強く、説教しました。それを聞いた多くのユダヤ人が主イエスを救い主と信じて洗礼を受け、ここに世界最初の教会であるエルサレム教会が誕生しました。そのことが使徒言行録2章に詳しく描かれています。

 12弟子の一人ペトロはその説教の中で、こう語りました。「今、このように信者たちが主イエス・キリストの十字架と復活の福音を大胆に語っているのは、旧約聖書の預言者ヨエルが預言していたように、彼らに聖霊が注がれたからである」と。ヨエルはこのように預言しました。

 「神は言われる。終りの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、霊を注ぐ。すると彼らは預言する。……主の名を呼び求める者は皆、救われる」(使徒言行録2章17~21節参照)と。

 そのヨエルの預言が今、成就した。今や、神の救いのみわざがすべて成就される終わりの時が来た。聖霊降臨の時が始まり、救いと恵みの時が始まったのだ。ペトロはそのように説教しました。わたしたちもまた今、その終わりの時、聖霊の時、救いと恵みの時に生きているのです。

 聖霊降臨は、主イエスご自身が十字架の死の前に弟子たちに約束しておられたことでもありました。ヨハネによる福音書14章からのいわゆる「主イエスの告別説教」の中で、主イエスは何度も聖霊なる神について語っておられます。直接に聖霊について語っておられる箇所は、14章15~17節、きょうの礼拝で朗読された25~26節、15章26節、16章4~15節です。これらの主イエスご自身のみ言葉から、聖霊なる神について、そのお働きについて、そしてその約束が成就されたペンテコステの出来事について、ご一緒に学んでいくことにしましょう。

 ヨハネ福音書のこれらの箇所では、聖霊はいくつかの違った名前で呼ばれています。14章16節では「別の弁護者」、17節では「真理の霊」、同じ節では「霊」が何度か出てきます。26節では「弁護者」、そのあとでは「聖霊」、15章26節でも「弁護者」、「真理の霊」、16章7節では「弁護者」、13節では「真理の霊」。これらはいずれも聖霊なる神を言い表しています。

 まず、「弁護者」と訳されている言葉は、『口語訳聖書』では「助け主」と訳されていました。宗教改革者マルチン・ルターは聖書を最初に母国語であるドイツ語に翻訳しましたが、彼は「慰め主」と訳しました。もとのギリシャ語はパラクレートスですが、「パラ」は「かたわらに、そばに」という意味で、「クレートス」は「呼び出された人」という意味です。一般には弁護する人という意味です。裁判の席で、被告人の隣にいてその人を弁護する人です。そこから、困っている人のかたわらで助ける人、悲しむ人の隣で慰める人という意味にもなります。

 14章15節では、「父は別の弁護者を遣わす」と言われており、「別の」とは、「もう一人の」という意味です。主イエスが十字架につけられ、この地から取り去られた後に、父なる神は主イエスとは別の、もう一人の弁護者である聖霊を遣わすということがここでは語られているのです。すなわち、主イエスが地上におられた間は、主イエスご自身が弟子たちにとっての弁護者であられ、助け主であられ、慰め主であられたのですが、主イエスの十字架後には、父なる神が聖霊を地上に派遣されて、その主イエスの役割、お働きを引き継がせるということです。

 14章18節以下で、主イエスが弟子たちに、「わたしはあなたがたをみなしごにはしない。しばらくすれば世の人はわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る」と言われたのは、聖霊がそののちも常に弟子たちと共におられるという約束なのです。主イエスのお姿は弟子たちの目からは見えなくなりましたが、弟子たちは主イエスを失って、この世に取り残されたのではなく、父なる神から遣わされる聖霊によって、主イエスは常に弟子たちと、信仰者たちと共におられ、彼らの弁護者、助け主、慰め主として、今もなお、そして永遠に、働いておられるということを、主イエスはここで約束しておられるのです。

 このことから分かるように、父なる神と子なる神・主イエス・キリストと聖霊なる神は互いに切り離されることなく、互いに連携し合いながら、一つの救いのみわざのためにお働きになるのです。これが、キリスト教教理の「三位一体論」です。神は、父なる神として、子なる神として、聖霊なる神として、その性質や性格、その働きや役割は違っていますが、一つの救いのお働きをする、唯一の神であられます。神はわたしの救いのためにも、三位一体なる神として、いわばその全ご人格と、すべての愛と、すべての恵みをもって、いと小さなこのわたしのためにお働きくださるのだということです。

 次に、今学んだことと関連している26節を読んでみましょう。【26節】(197ページ)。ここでは二つのことが重要です。一つは、聖霊は「主イエスの名によって、父なる神がお遣わしになる」と言われています。15章26節と比較してみましょう。【26節】(199ページ)。ここではよりはっきりと「主イエスが父なる神のもとから聖霊を遣わす」と言われており、聖霊は父なる神と子なる神・主イエス・キリストの両者から派遣されると理解できるように思われます。西方教会・ローマ教会はそのように理解しましたが、東方教会・ギリシャ教会は父なる神からのみ派遣されると理解しました。この理解の違いが西方教会と東方教会の分裂の原因になったと言われます。わたしたちプロテスタント教会は西方教会と同じ、「聖霊は父と子の両者から発出される」と理解しています。

 もう一つのことは、「聖霊はあなたがたにすべてのことを教え、わたし(つまり主イエス)が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」ということです。また、16章13節以下でも、同じようなことは強調されています。【13~14節】(200ページ)。ここでもまた、聖霊は主イエスのみわざ、そのお働きを受け継ぐということが何度も強調されています。14章16節で「別の弁護者」と表現されていたこと、すなわち、聖霊は別の、いわばもう一人の主イエスとして、いつまでも弟子たちと共にいてくださると約束されていたように、ここでは、聖霊は主イエスが話され教えられたこと、主イエスがなさった救いのみわざ、そのすべてを弟子たちにもう一度思い起こさせ、理解させ、信じさせてくださる、それが聖霊のお働きだと言われているのです。

 わたしたちが今学んでいる『日本キリスト教会信仰の告白』で、「聖書の言葉の中で語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕かに示す」と告白されているのはこのことです。聖霊のお働きは父なる神のみ言葉と主イエス・キリストの救いのみわざと常に固く結びつき、この三者は切り離されることなく、お一人の神として、わたしたちの救いのためにお働きくださるのです。

 聖霊はわたしたちに主イエスが神のみ子であり、わたしの救いのためにすべてのみわざをなしてくださったということを悟らせ、信じさせてくださいます。主イエスが語られた説教、なされた数々の奇跡のみわざ、特にそのご生涯の終わりの十字架の死と復活、そのすべてが神のみ子としての救いのみわざであり、ほかでもないこのわたしの救いのためのみわざであるということを、わたしに悟らせ、信じさせてくださるのです。聖霊は、わたしがそのことを信じ、悔い改めて洗礼を受けた時に、わたしのすべての罪がゆるされ、わたしが死と滅びから救い出され、神から与えられる新しい命に生かされているということを確信させてくださるのです。そしてまた、聖霊は、天に昇られた主イエスが今もなおわたしのために絶えず執り成しておられ、わたしの救いの完成の時まで、わたしと共におられ、わたしを天のみ国へと導いてくださることを信じさせてくださるのです。そのようにして、聖霊はわたしの日々の信仰生活のすべてを、主イエスのみ言葉によって導き、支え、時にわたしの弁護者として、時にわたしの助け主として、時にわたしの慰め主として、わたしのかたわらにいてくださるのです。

 最後に、14章17節や15章26節、16章13節で、聖霊が「真理の霊」と言われていることに触れておきましょう。15章26節では、「父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」と書かれています。ここでも、聖霊が主イエスのことをわたしたちに対して証しをすると言われており、それがわたしたちにとっての真理を悟ることなのだと言われています。

 16章13節では、「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と書かれています。「真理」とは何を言うのでしょうか。世界の思想家や哲学者、宗教家が何千年もの間、「真理とは何か」と問い続けてきました。難しい議論を繰り広げてきました。主イエスは言われます。神の真理はすべてわたしの中にあるのだと。主イエス・キリストの十字架の死と復活にあるのだと。すなわち、罪のない神のみ子が世の罪びとたちの代わりに裁かれ、神のみ子でありながら徹底的に弱く、貧しく、低くなられ、十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従された。それによって、神に義とされ、神の救いのみ心を完全に成し遂げられ、三日目に死の墓から復活させられた。そして、罪と死と滅びに勝利された。ここにこそ、神の真理があり、すべての人のための救いの道があるのです。わたしたちはこの主イエス・キリストの十字架と復活の福音を聞き、それを信じる時に、そこに聖霊が働き、すべての罪がゆるされ、死と滅びから救われるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、きょうのペンテコステの礼拝にわたしたちをお招きくださり、あなたの命のみ言葉を聞かせてくださいました幸いを心から感謝いたします。どうかわたしたちを罪と死の支配から救い出し、あなたにあるまことの命に生きる者としてください。ここにこそ、まことの平安と慰めがあることを信じさせてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。