6月7日説教「福音は信じる人すべてを救う神の力」

2026年6月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編42編1~12節

    ローマの信徒への手紙1章16~17節

説教題:「福音は信じる人すべてを救う神の力」

 きょうの礼拝で朗読されたローマの信徒への手紙1章16節、17節には、この手紙の主題が書かれていると言われます。【16~17節】。この箇所を数回に分けて学んでいきます。きょうは16節を中心に学びます。

まず、パウロは「わたしは福音を恥としない」と語りだします。この文章は「わたしは恥じない」という否定の言葉で始まります。ギリシャ語では「ウー」と発音する語が文頭に置かれています。英語のNo、日本語では「ない、否」という言葉にあたります。いきなり否定語で文章が始まるというのは、奇妙な感じがしますし、ドキッとします。事実、この表現は、強く、積極的な意味が強調されているのです。つまり、「恥ない」とは、その反対の、「誇りとする」とか、「自信と確信とを持って、断固として語る」という意味を強調しているのです。「わたしは福音を恥ない」という文章の内容に従って言い換えるならば、「わたしは福音を大胆に告白する」となります。

同じ言葉は、パウロが弟子のテモテにあてて書いた手紙に何度か用いられています。テモテへの手紙二1章8節を読んでみましょう。【8節】(391ページ)。「恥じてはなりません」は直訳すると「あなたは恥じるな」であり、12節でも「わたしは恥じない」、16節では「彼は恥じない」と、手紙を書いているパウロと、それを受け取るテモテ、そしてパウロに助けの手を差し伸べたオネシフィロの家族、三者について「恥じない」という言葉が用いられています。主イエス・キリストの福音を宣べ伝えたことによって迫害を受け、手足を縛られ、囚人として獄につながれているパウロですが、彼自身はもちろん、パウロの身を案じるテモテもパウロの協力者たちも、すべての人たちに対して、パウロは「恥じるな」と命じているのです。

「恥じるな」とは、心理的に恥ずかしく思うなとか、尻込みをするなという消極的な意味で用いられているのではありません。どのような迫害や、困難や試練の中にあっても、いやそのような状況の中にあってこそ、その迫害と困難に立ち向かい、それと果敢に戦い、より一層大胆に、積極的に、喜びをもって、主イエスの福音を宣べ伝え、主イエスの福音を告白するということを強調した言い方なのです。

そのことを確認したうえで、パウロがなぜ「わたしは福音を恥じない」という表現を用いたのか、その理由を考えてみましょう。パウロはコリントの信徒への手紙一1章で、このように書いています。「主イエスの十字架の福音は、しるしを求めるユダヤ人にはつまずかせるものであり、知恵を求めるギリシャ人には愚かなものである」(18節以下参照)と。その十字架の福音を宣教するということは、この世の価値感や人間的な知恵によれば、それは恥でしかないと人々には思われるのです。「しかし、それにもかかわらず、わたしたちは十字架につけられた主キリストを宣べ伝える」と、パウロは続けて語ります。この世の多くの人たちからは愚かで、つまずかせるものであり、恥でしかないように思われる十字架の福音を、しかし、この世のあざけりや迫害の中で、大胆に、勇気をもって、わたしたちは語り続けるのだ、とパウロは強調します。

主イエス・キリストの十字架の福音を宣べ伝えるということは、いつの時代でも、どこの国においても、迫害と軽蔑と敵意とを受けることを余儀なくされます。そのような中で、それにもかかわらず、福音を語り続けていくためには、「わたしは福音を恥ない」という、断固とした決意と、忍耐強い抵抗と戦いの姿勢が必要とされます。また、主イエス・キリストの福音は、そのような勇気と決意とを、信じる人たちに与えるのです。

「わたしは福音を恥ない」という言葉は、すぐ前の14、15節との関連もあります。パウロはそこで、「わたしにはユダヤ人にもギリシャ人にも福音を告げ知らせる責任がある」と語り、それゆえにローマにいるあなたがたにもぜひ福音を告げ知らせたいと語っていました。彼は全世界のすべの民に主キリストの福音を宣教する務めが自分にあるということを強く自覚していました。彼は、コリントの信徒への手紙一9章16節以下で、「わたしが福音を宣べ伝えているのは、そうせずにはいられないからだ。もしわたしが福音を語らないなら、それはわたしにとって災いだ」とまで言っています。キリスト教会の熱心な迫害者であったパウロが、神に選ばれて、福音の宣教者として立てられてからは、その大きな恵みに感謝して、それに答えることが、彼の生涯の使命だと、彼は強く自覚していました。いや、それ以上に、福音を宣べ伝えることを彼の大きな負債のように感じていました。自分の残りの全生涯をそのために尽くしたとしても、到底支払いを完了することができないほどの大きな負債を、主イエス・キリストの十字架によって、自分に代わって支払ってもらっていると、彼は考えていたのです。それゆえに、パウロはどのような厳しい戦いや屈辱を強いられたとしても、苦難や試練を積み重ねたとしても、「わたしは福音を恥ない」と力強く断言するのです。

パウロがこれから訪問しようと計画しているローマとの関連を考えてみましょう。当時はローマ帝国の急成長の時代でした。全世界の文化、芸術、学問、哲学、そして宗教、権力がこの世界都市に集中していました。その中で、十字架につけられた主イエス・キリストの福音を語ることは、何を意味していたでしょうか。それは、明らかに大きなつまずきであり、愚かであり、恥であったでしょう。パレスチナの一角で、貧しい家畜小屋に生まれ、ローマの地方総督ポンティオ・ピラトのもとで裁かれ、人々のあざけりの中、十字架で死んでいった一人の不遇で哀れな男を、全世界の救い主と信じ、告白し、その方のために自らの命と生涯のすべてをささげるということは、ローマに住む人々にとっては、その都の権力者にとっては、どんなにか大きなつまずきであり、愚かであり、恥であったことでしょうか。

しかし、パウロは「わたしは福音を恥ない」を断言します。このような神のみ子の貧しさと、低さと、弱さの中にこそ、神の罪びとたちに対する偉大な愛があり、ゆるしがあるからです。このような主キリストにこそ、すべての人のための唯一の救いがあるからです。神のみ子主イエス・キリストご自身が、ご受難と十字架の死において、ご自身のすべての弱さと愚かさと恥の中で、しかし、「恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍ばれた」(ヘブライ人への手紙12章2節)のであれば、この主にお仕えする僕(しもべ)たちがどうしてそれとは違うことがあり得ましょうか。神のみ子がこのような低さと貧しさの中で、罪と死とに勝利されたのであれば、その主にお仕えする僕たちもまた、そのことを信じることが許されているに違いありません。

もしパウロが、幾度も迫害され、捕らえられ、鞭うたれ、鎖でつながれた時、彼自身の知恵や力、雄弁とか、あるいは人間的な、この世的な助けを期待していたのであれば、彼はあるいは恥じなければならなかったかもしれません。恐れなければならなかったかもしれません。しかし、彼はただひたすらに主キリストの十字架の福音にだけ信頼し、そこにのみ自分の助けと救いがあることを信じ、「わたしは福音を恥ない」という告白を貫きとおしたのです。

なぜ彼はそうしたのか。なぜ彼はそうできたのか。その理由が16節に続けて書かれています。【16節b】。パウロはこの神の力を信じていたからこそ、どのような困難な状況の中でも、この世からのどのような迫害や敵対の中でも、「わたしは福音を恥としない」ということができたのです。主イエス・キリストの十字架の福音にこそ、最も偉大で、最も驚くべき神の力が働き、すべての人に救いをもたらすからです。

では、その神の力とはどのような力のことでしょうか。まず確認しておくべきことは、それは神の力、神からやってくる力のことであり、他のどこからから来る力ではないということです。パウロ個人の力ではなく、他の誰かの力でもなく、あるいは他の何かの力でもない、神のみから来る、神ご自身だけが持っておられる力のことです。

わたしたちはさまざまなものの力について語ることができるでしょう。この時代であれば、ローマ皇帝カイザルの力について、ユダヤ人が恐れていたヘロデ大王の力について、19世紀にヨーロッパを席捲(せっけん)したナポレオンの力について、あるいは一瞬にして多くの命を奪う大量殺りく兵器の力について、または突然に襲い来る自然の力について、わたしたちはそれらの力や脅威について語ることができるでしょう。しかし、そこではまた同時に、それらの力の限界についても語ることができますし、語らなければなりません。

けれども、神の力については、どれだけ語ることができるでしょうか。それについては、おそらくわたしたちは全く不十分にしか語ることができません。誰も神の力を見極めることができませんし、それを語り尽くすこともできません。ただ、不十分な言葉で、「神は全能の神である」と語ることができるだけです。ましてや、神の力の限界などということについては、いったい誰が語りうるでしょうか。神の力は、この世のあらゆる力をはるかに超えていると言うことができるだけです。そして、さらに重要なことは、神の力はこの世にあるすべての力にその限界を与えるということです。

「救いをもたらす神の力」と言われています。神の偉大なる力、全能の力、無限の力が、今この時に、主イエス・キリストによって、わたしたち人間の救いのために働く福音として、その力を発揮したのだとパウロは言っています。神はご自身の偉大な力のすべてを、その全能なる力を、わたしたち人間を罪から救うために集中的にお用いになったのです。主イエス・キリストの十字架の福音は、それを聞き、信じる人に、偉大なる全能の力として働き、その人に救いをもたらします。主イエス・キリストの十字架の福音を語る神の言葉は、空しく語られることはありません。それは救いの出来事を生み出します。

創世記に書かれているように、神は言葉によって闇の中に光を創造され、混沌の中に天地万物と人間とを創造されました。神の言葉は無から有を呼び出だし、死から命を生み出します。神の口から出る言葉は、空しく神のもとに帰ることはありません。神に立ち帰る罪びとたちに豊かなゆるしを与えます。

「信じる者すべてに」と言われています。神の救いの力は、ただ信仰によってのみわたしたちに届きます。わたしには何がなくても、あるいは何かが多くあったとしても、それには全く関係せず、ただ主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によって、神の救いの力がすべての人に与えられるのです。別の表現を用いるならば、ただ神の恵みと憐れみによって、すべての人の罪がゆるされ、神との豊かな霊にある交わりの中に招き入れられ、来たるべき神の国の民の一人とされるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの恵みと慈しみとは、とこしえからとこしえに至るまで絶えることはありません。また、あなたの救いの恵みは、全地のすべての人の上に限りなく与えられます。どうか主よ、この世界を憐れんでください。すべての人があなたの救いに招き入れられ、まことの命と平安に生きる者とされますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。