5月31日説教「小さな群れよ、恐れるな。神の国はあなたがたに与えられる」

2026年5月31日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書40章27~31節

    ルカによる福音書12章22~34節

説教題:「小さな群れよ、恐れるな。神の国はあなたがたに与えられる」

 ルカによる福音書12章22節以下で、主イエスはわたしたち人間を日々の思い煩いから解放するために、「空の鳥を見よ」「野の花を見よ」と言われます。人間は、何としばしば、毎日毎日、きょうは何を食べようか、何を着ようかなどと、この世のさまざまなことで思い悩み、思い煩うことことか。主イエスはそのようなわたしたちの果てしない欲望や願い、あるいは迷いや不安をご存じです。わたしの心がいくつにも分裂して、この世の過ぎ去り行くものに縛り付けられ、ついには永遠なるものを見失い、神を見失っている現実を、主イエスは知っておられます。

 そこで、主イエスはわたしたち目を、まず初めに、わたしの肉の目で見ることができる空の鳥や野の花へと向けさせます。それは、誰にでもできます。いつも身近に見ています。そして、そこから、空の鳥や野の花を日々に養い、美しく装ってくださる、造り主なる神へと、わたしたちの信仰の目を向けさせるのです。種を蒔くことも刈り取ることもしない空の鳥、また、紡ぎもせず糸を織ることもしない野の花。彼らをも日々に必要なものすべてを備えてくださる神。そして、その神は、あの空の鳥や野の花よりも、何十倍も、いや何万倍もの大きな愛をもって人間を創造された神。今もなお、その偉大なる愛によって守り導いておられる神。その神へとわたしたちの信仰の目を向けさせるのです。そのような神がいますのであるから、その神があなたにとって必要なものを日々に備えてくださらないことなどあるだろうか、と主イエスは言われるのです。そのようにして、主イエスはわたしたちをすべての思い悩み、思い煩いから解放してくださり、わたしたちの信仰の目を父なる神へと向けさせてくださるのです。

 28節以下で主イエスはこのように言われます。【28~30節】。「異邦人」とは、神に選ばれた信仰の民であるイスラエル、ユダヤ人以外の、信仰を持っていない諸国民、神を知らない人々を指しています。神を知らない人は、神がどれほどに人間一人一人を愛しておられるかを知りませんし、神が天地万物を創造され、人間をご自身のかたちに似せて、被造物の冠として創造されたことも知りません。ですから、彼らは神のご配慮を信じることができずに、すべてを自分の力で手に入れなければならないと考えて、毎日あくせくと動き回り、自分の欲望がかなえられなければ、思い悩み、不安になるのです。

 けれども、主イエスは言われます。「あなたがたは父なる神を知っているではないか。その神は、あなたがたに必要なものが何かを知っていてくださるではないか。あなたがたが本当は必要でないものまでも追い求めて心を煩わしているときに、あなたがたの父であられる神は、子どもであるあなたがたに今何が必要であるのかを最もよく知っておられるので、それを与えてくださらないはずがないではないか」と。

 30節の言葉でもう一つ注目したいのは、神が「あなたがたの父」と言われている個所です。神を「わたしの父、わたしたちの父」と呼ぶことは、旧約聖書では非常にまれでした。というのは、イスラエルの信仰においては、神はいと高き天におられる神であり、すべての造られたもの、被造物のはるか上に君臨しておられる絶対的な存在ですから、その神を人間の親子の関係で表現することは神の尊厳を損なうことになりかねないので、イスラエルでは避けられていました。

 新約聖書になってから、神を人間の親子関係と同じように、「父なる神」と呼ぶようになったのは、言うまでもなく、主イエスが神をご自分の父と呼ばれたからです。事実、主イエスは父なる神の御ひとり子であられます。すでにわたしたちが読んだ箇所ですが、10章21節以下を改めて読んでみましょう。【21~22節】(126ページ)。主イエスはここではっきりと神をご自身の父と呼ばれ、父であられる神が主イエスにその父のみ心をすべて明らかにされたと言っておられます。神のひとり子であられる主イエスによって、わたしたちもまた神を「天におられるわたしたちの父なる神よ」と、親しく呼びかけることが許されているのです。

 主イエスがきょうの箇所で「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」と言われたことの深い意味を、ここでわたしたちは気づかされます。主イエスによってわたしたちの父となってくださった神は、わたしたちに今最も必要なものが何であるのかを知っておられ、またそれをお与えくださる神なのだということです。わたしたちをこの世のすべての思い煩いから解放してくださり、まことの喜びと平安をお与えくださる神は、わたしたちを罪の奴隷からお救いくださるために、ご自身のひとり子であられる主イエスをご受難と十字架への道へとお導きになられたということを、わたしたちはここで気づかされるのです。

 わたしたち人間がまだ自らの罪に気づかずにいたときに、罪と戦うこともなく、罪から救われたいと願うことすらまだしていなかった時、いやむしろ、罪の中に安住し、自ら気づかずに死と滅びへと向かっていたときに、父なる神はわたしたちを罪から救い出すために、ひとり子なる主イエスをこの世にお遣わしくださり、主イエスの十字架の死によってわたしたちを罪の奴隷から解放してくださったのです。それによって、わたしたちの罪がゆるされること、そして神との交わりが回復されること、わたしたちが神の子どもたちをされること、神から与えられる永遠の命に生かされること。それこそが、わたしたち人間にとって今最も必要なことであるということを、わたしたちの父であられる神が知っておられ、そのことを実現されるために、み子主イエスをわたしたちのためにお遣わしくださったのです。パウロはローマの信徒への手紙8章でこのように言います。「ご自身のひとり子さえも惜しまずにわたしたちの罪の贖いのための供え物としてお与えくださった神が、み子のみならず、万物をも賜らないはずがあろうか」(8章32節参照)と。

 そこで、主イエスは続けて31節でこのように言われます。【31節】。「神の国」とは、主なる神が唯一の王として支配しておられる王国を言います。主イエスが宣教された福音は「神の国の福音」と言われます。罪が支配し、人間の邪悪や悪の霊が満ちているこの世界に、今や神のみ子が来てくださり、十字架への道を進んでおられるこの時に、神の新しいご支配が始まった。神の愛と恵みによるご支配が始まった。だから、人は皆、自分の罪を悔い改めて、主なる神に立ち帰りなさい。これが、主イエスが語られた神の国の福音です。

 主イエス・キリストの十字架と復活を信じるわたしたちキリスト者にとっては、神の国、神の愛と恵みのご支配はすでに始まっています。主イエスが十字架の死と復活によって、罪と死とに勝利しておられることを信じているからです。この神の国の福音を信じているわたしたちにとっては、パウロが語っているように、み子だけでなく、万物がすでに与えられているのです。

 主イエスは32節でこのように続けます。【32節】。31節と32節は似たような構文になっています。まず、主イエスの命令文があり、そのあとに主イエスの約束が語られています。「神の国を求めよ」。「そうすれば、これらは与えられる」。「恐れるな」。「なぜなら、あなたがたの父は喜んで神の国をお与えくださる」。このように、主イエスがわたしたちに何かをお命じになるときには、いつもその命令には大きな恵みの約束が伴っています。主イエスは言われます。「求めよ」。「そうすれば、与えられる」。「探せ」。「そうすれば、見いだす」。「門をたたけ」。「そうすれば、開けてもらえる」。「祈れ」。「そうすれば、あなたの願いは聞かれる」。「悔い改めよ」。「そうすれば、神があなたの方に近づいてきてくださる」。「信じよ」。「そうすれば、救われる」。そのように、わたしたちが主イエスの言葉に聞き従う時、それは決して空しく終わることはありません。豊かな救いの約束を伴っているからです。

 31節と32節のもう一つの関連は、31節で「神の国を求めなさい」と命じられており、32節では「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」という約束が語られています。わたしたちが神の国を求めることができるのは、わたしたちに神の国を与えようとされる父なる神の強い意志があるからであり、み心があるからなのです。わたしたちが、何よりもまず第一に、神の国を求めなさいと命じられているのは、このような神のみ心があるからなのです。

 主イエスは弟子たちに「小さな群れよ、恐れるな」と呼びかけておられます。主イエスの弟子たちは選ばれた12人と、あと少しの仲間でした。主イエスに反対する勢力であるユダヤ人指導者たち、ファリサイ派、サドカイ派、またヘロデ王家の数に比べれば、本当に小さな群れでしかありませんでした。あるいはまた、当時世界を支配していたローマ帝国と比較するならば、大海に浮かぶ小さな木の葉にすぎませんでした。けれども、主イエスはそのような小さな群れにこそ、神の国をお与えになると言われるのです。なぜならば、彼らが主イエスの福音を信じ、神の愛と恵みのご支配を信じているからです。それゆえにまた、彼らは小さな群れではあっても、この世のどのように大きな権力であろうとも決して恐れるには及びません。天におられる主なる神が彼らの王であるからです。

 最後に、主イエスは33節以下でこのように言われます。【33~34節】。主イエスはわたしたちの目と心とを天に向けさせます。この地上の過ぎ去り行くものに目と心とを奪われ、あれも欲しい、これも手に入れようと、毎日思い煩っているわたしの目と心とを、地上のものから離して、父なる神がいましたもう天へと向けさせます。天にこそ、朽ちることのない永遠の宝が備えられているからです。

 きょうの主イエスの説教の前半、22節から語られていた内容と、終わりの部分31節以下で語られている内容とを比較してみてください。前半では、わたしたち人間が自分の命のことや体のことで、あれもこれも手に入れようと思い煩っていた様子が語られていました。ところが、わたしたちが主イエス・キリストによって罪ゆるされ、神の国の民として招かれていることを知らされてからは、わたしが持っているものを喜んで隣人に分かち与えるように変えられていくことが語られています。神の国の福音に生きる人、主イエスの十字架の福音に生きる人は、そのようにして、すべての思い煩いから解放されます。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが御ひとり子をわたしたちにお与えくださるほどに、わたしたち人間を愛してくださったことを覚え、心から感謝いたします。どうか、わたしたちの目と心とを、あなたがいます天へと向けさせてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

5月24日説教「ペンテコステの日のペトロの説教」

2026年5月24日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

              ペンテコステ(聖霊降臨日)

聖 書:ヨエル書2章12~20節

    使徒言行録2章14~21節

説教題:「ペンテコステの日のペトロの説教」

 使徒言行録2章1節に書かれている「五旬祭」とは、イスラエルの三大祭りの一つで、旧約聖書では「七週の祭り」「初穂の祭り」などと呼ばれ、小麦の初穂を神にささげて感謝する祭りでした。主イエスの時代にはギリシャ語で「五十番目」を意味するペンテコステと呼ばれていました。50番目とは、イスラエル最大の祭りである過越祭から数えて50日目に祝われる祭りであったからです。

過越祭はイスラエル誕生の出来事であるエジプト脱出を祝う祭りであり、それから50日目の五旬祭は、約束の地カナンでの収穫の初穂を神にささげる祭りでした。そして、旧約聖書のこの二つの祭りは、新約聖書では主イエスによる救いの出来事と深く関連していました。すなわち、主イエスは過越祭の時期に、全人類を罪の奴隷から解放するためにささげられた過ぎ越しの小羊として、ご自身の命を十字架でおささげになりました。その十字架の出来事から50日目のペンテコステの日に、エルサレムに集まっていた弟子たちの上に聖霊が注がれ、聖霊によって語られた主イエスの福音の説教を聞いて信じた人々3千人ほどが洗礼を受けてキリスト者となり、ここに世界最初の教会であるエルサレム教会が誕生したのでした。主イエスの十字架の死と三日目の復活によって人間を罪の奴隷から解放する神の救いのみわざが、今やその収穫の初穂としての救われた人々の魂が、この日に主なる神にささげられ、教会が誕生したのです。神の永遠なる救いのご計画は、このようにして成就しました。

 きょうは、その日のペトロの説教についてご一緒に聞き、わたしたちもまたペンテコステに与えられた聖霊の恵みを共に受けたいと思います。4節に、【4節】とあり、また11節には、「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っている」書かれていますが、聖霊に満たされて語った弟子たちの説教の一例が、12節で「ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた」と書かれている具体的な内容であると理解されます。

 ペトロは主イエスと地上の歩みを共にしていた時にも12弟子のリーダーでしたが、復活された主イエスが天に昇られたあと、そして聖霊によって誕生した初代教会においても指導的な立場にありました。けれども、ペトロは12弟子のリーダーとしての立場を、そのまま引き継いだのではありません。ペトロは主イエスの十字架の際に大きなつまずきを経験していました。主イエスが捕らえられ、大祭司の家に連行されて行った際、彼は周囲の人たちに「あなたもあの男と一緒だった」と言われた時、「いや、わたしは知らない。わたしはあの人を知らない。関係ない」と、3度までも主イエスを拒み、見捨てたのでした。ペテロは主イエスの十字架から逃げ去りました。もはや弟子と呼ばれる資格はありません。そのリーダーでもありません。

 けれども、復活された主イエスは彼をお見捨てにはなりませんでした。再び、弟子としてお招きになり、弟子たちのリーダーとしての新しい務めを授けられたのです。それだけではありません。それまでのペトロは主イエスの説教を聞く人でした。ところが、ペンテコステの日の聖霊降臨は、ペトロを説教者として誕生させたのです。ペトロは聖霊を注がれてからは、説教する人、主イエスの福音を語る人へと変えられたのです。ほかの弟子たちもみな同じです。みな主イエスの十字架から逃げ去り、主イエスを見捨てたのでしたが、彼らもまた聖霊を受けて、今新しく主イエスの復活の証人たちとして、福音の宣教者たちとして立てられたのです。聖霊は罪の中で死んでいた人を、再び立ち上がらせ、その人に新しい務めを授けます。

 では、【14~16節】を読みましょう。聖霊を注がれた弟子たちが、エルサレムに集まってきていたいろんな国の言葉で語りだしたので、それを聞いた人々は驚き、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っている」と言って、あざ笑ったと13節に書かれていましたが、ペトロはまずその誤解を訂正しています。当時の信仰熱心なユダヤ人は朝9時と昼、そして夕方と、日に三度祈りをささげていたと伝えられています。朝9時の祈りをささげるまでは朝食をとらないという習慣もあったようです。ペトロは説明します。「ですから、この人たちは酒に酔っているのではない。これは、旧約聖書ヨエル書の預言で語られていたように、神の霊、聖霊を注がれた主イエスの弟子たちが、神がお示しくださった幻を語り、神の言葉を預言しているのだ」と。

 17~21節までは、ヨエル書3章1~5節からの引用です。ヨエル書が書かれた年代については諸説があり、紀元前9世紀から紀元前4世紀と、大きな幅があります。その預言の内容は一貫しており、終末論、すなわち世の終わりの時のことが預言されています。神が諸国を裁く時が迫ってきている。神の怒りの日が来る。だれも神の最後の裁きを避けることはできない。それゆえに、悔い改めて神に立ち帰れ。その日には、神はご自身の民の救いを完成させ、すべての人に神の霊を注ぐ。これがヨエルの預言です。ペトロはペンテコステの日に、このヨエルの預言が成就したのだと語ったのです。エルサレムに集まっていた主イエスの弟子たちの上に聖霊が注がれ、彼らが新しい言葉で神の偉大な救いの出来事である主イエスの福音を語りだしたのは、ヨエルが預言した終末が今始まったことの確かなしるしなのだと説教したのです。

 17節の「終わりの時」とは、今あるこの世、この世界、この時代が終わるときのことを言います。それを一般に終末と言いますが、聖書の終末にはもっと重要な意味が含まれます。今あるこの世界が終わる時、新しい神の国が到来するということです。もはや人間の罪もなく、死も滅びもない、永遠に神が支配される神の王国、神の国が完成する。これが、聖書が教える終末です。ここには、聖書の時の理解が関係しています。聖書では、時には初めがあり、終わりがあると教えます。初めに、神は天地万物を創造されました。けれども、人間の罪によってこの世界は汚されてしまいました。終わりの時、神はもう一度すべてを新しくされます。その時、古い世界はすべて滅ぼされます。この地球も、自然も、宇宙も、太陽や月、星も、みな滅び去ります。これが、聖書が教える時の理解です。19、20節に書かれている「主なる神の不思議な業」とは、このような時の終わりに全世界が滅び去ることを語っています。今わたしたちが生きているこの時、この時代、この世界は、すべてその終わりへと向かっている。そして、終わりの日の神の国の完成へと向かっている。これが、聖書が教えている終末です。

 ペトロの説教で引用されているヨエル書の預言は、この終末の時に起こる出来事を語っているのです。その視点から、改めてヨエルの預言を読んでみましょう。【17~18節】。「わたしの霊」とは、神の霊、聖霊のことです。聖霊がすべての人に注がれることによって、終わりの時、終末、そして神の国が完結する、完成するということです。神の霊、聖霊は罪の中で死んでいた人に新しい命を与えるからです。古い世界を新しく再創造するからです。

 ここで、キリスト教の教えの最も大切な教理である「三位一体論」について少しお話をしておきましょう。キリスト教は、旧約聖書のイスラエルの信仰から、一神教、唯一神教を受け継ぎました。聖書の神は多くの神々の中の一つの神であるのではなく、天地万物を創造され、イスラエルを選ばれた神は唯一の神であり、神々と言われるものが他にあるとしても、それらはすべて偶像であり、偽りの神々であるという信仰です。その唯一神教を土台にしながら、神のみ子主イエス・キリストはまことの神であり、また聖霊もまことの神である。神は、父なる神、子なる神、聖霊なる神として存在し、またお働きになられる。しかし三つの神であるのではなく、一つの本質、一つの実体をもつ神である。これが、キリスト教の「三位一体論」です。

 したがって、この三位一体論によれば、父なる神も子なる神イエス・キリストも聖霊なる神も、永遠の昔から唯一の神として存在していたことになります。

でも、旧約聖書の中には、はっきりとした姿でみ子なる神と聖霊なる神は現れません。新約聖書の時代になってから、クリスマスの時にみ子なる神主イエス・キリストがこの世界に人間のお姿で誕生され、そして今、聖霊なる神が、このペンテコステの日に、激しい風のように吹きつけ、地響きのように地を震わせ、炎のような舌のかたちで(2~3節参照)、弟子たちの上に注がれたのです。この聖霊なる神の働きがあって、三位一体なる神の救いのみわざが完了することになったのです。

 旧約聖書の時代にヨエルが預言した終末の時、古い時代の終わりと新しい神の国の完成の時が、今このようにして到来したのだと、ペトロは説教しています。父なる神が天地万物の創造によってお始めになった神の永遠の救いのご計画が、み子主イエス・キリストの十字架の死と復活、そして聖霊の降臨によって、今ペンテコステの日に完了したのです。

 ペンテコステの日の出来事について、ペトロの説教で語られていることをいくつかのポイントにまとめてみましょう。一つは、聖霊降臨は神の天地創造と永遠の救いのご計画の完成を意味すると同時に、終わりの日、終末の時の開始、始まりであるということです。わたしたちは今そのような時に生きているのです。

 第二には、すべての人に聖霊が注がれて、男と女、奴隷と自由人、その他すべての人間の違いが取り除かれ、それらからくる束縛や差別から解放され、人間は全く自由になり、一つの神の民とされるということです。その具体的な姿が教会です。聖霊の時、終末の時は教会の時として具体化されます。

 第三には、聖霊が注がれると、人はみな神の幻を見、神の言葉を預言するようにされます。今わたしたちの目の前に繰り広げられている世界の現実だけを見るのではなく、神が聖霊によってお示しになる新しい神の国を見るようにされ、神のみ心を悟るようにされるのです。

 そして第四に、21節に書かれているように、【21節】。「主の名を呼び求める」とは、主イエス・キリストをわたしの唯一の救い主と信じ、告白することを言います。わたしの罪のために、わたしに代わって苦難の道を歩まれた主イエス・キリスト、わたしの罪を贖うために十字架で死んでくださった主イエス・キリスト、わたしを新しい命に生かすために、罪と死とに勝利され、三日目に復活された主イエス・キリスト、この主イエス・キリストを聖霊に導かれてわたしの救い主と信じ、受け入れることによって、わたしは罪ゆるされ、永遠に主なる神と共にあり、神の国の民とされるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたは天地万物を創造され、今もないそのすべてを強いみ手をもって支え、導いておられます。また、あなた永遠の救いのご計画は、今もなお終わりの日の完成に向かって前進しています。どうか、あなたの命の霊をあなたの民の上に豊かに注いでください。そして、あなたの救いのみわざがいよいよ力強く行われますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

5月17日説教「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」

2026年5月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記12章11~19節

    使徒言行録16章25~34節

説教題:「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」

 パウロの第二回世界伝道旅行の後半、マケドニア州とギリシャ地方への伝道活動の最初の都市は、フィリピでした。フィリピでは、まず紫布の商売をしていたリディアという女性とその一家が洗礼を受けました。リディアの家はフィリピ教会の基礎となり、しばらくの期間、この家で集会が行われていました。

 次に、パウロは占いの霊に取りつかれていた女奴隷から、その悪しき霊を追い出し、彼女を自由にしましたが、彼女を金もうけの道具にしていた男たちがパウロを訴えたために、パウロとシラスの二人が捕らえられ、投獄されることになりました。きょうは16章25節から読んでいくことにしましょう。

 【25節】。パウロとシラスは何度も鞭で打たれ、足には足かせがはめられていたと22節以下に書かれていました。足かせは、囚人の両足を大きく広げ、固定する拷問の器具であり、睡眠を妨げるほどの痛みを伴います。二人はほかの囚人たちよりも厳しい監視下に置かれ、牢の一番奥に入れられていました。そのようにして、パウロとシラスは痛みと不安、恐れの中で眠られない夜を迎えたのでしたが、しかし彼らの心は沈んではいませんでした。彼らの魂、思い、そして彼らの唇、神賛美の歌声は、決して鎖につながれてはいませんでした。この世のいかなる鎖によっても、神の言葉は決してつながれてはいません。神の言葉の証人として仕える信仰者の口も決してつながれてはいません。パウロとシラスはそれらの鎖を引きちぎり、喜びと感謝と希望とをもって、神に祈りと賛美をささげていました。

 パウロたちの賛美と祈りの声が牢全体に響き渡り、ほかの囚人たちはこれを聞いていたと書かれています。神賛美と神への祈りとが、牢全体を聖なる空気で包み、そこに神のご臨在を感じさせるような雰囲気をわたしたちは感じます。それだけではありません。実際に神ご自身がそこにおられ、そこで力強く働いておられるということを、わたしたちは知らされるのです。

 「ほかの囚人たちはこれを聞き入っていた」とありますが、ここからわたしたちは、囚人たち以上に、神ご自身がパウロたちの賛美と祈りとを聞いておられたのだということに気づかされます。【26節】。これは偶然に起こった自然現象としての地震ではありません。これはパウロたちの祈りに対する主なる神のお答えなのです。主なる神のみわざです。神の言葉に仕えるキリスト者たちの勝利を証しするために働かれる全能の父なる神のみわざなのです。というのも、「すべての囚人の鎖も外れてしまった」と書かれているからです。普通の地震ならば、囚人たちの鎖が外れたり、パウロたちの足かせが外れるということは起こり得ないからです。

 神はこのような奇跡を行われることによって、ご自身の言葉はこの世の鎖によっては決してつながれることはないということを、また神の言葉の証人として仕えるキリスト者たちも決してこの世の鎖によってつながれたままでいることはないのだということを、それゆえに、神の言葉の証人として仕えるキリスト者こそが、まことの、永遠の自由に生きることを許されているのだということを、わたしたちにお示しになったのです。

 27節からは、この不思議な神の奇跡である大地震を経験した看守のことが書かれています。【27~28節】。当時のローマの法律によれば、囚人の監視にあたる看守が、もし囚人に逃亡されたら、その囚人が受けるべき刑罰を看守自身が受けなければならないと定められていました。パウロとシラス、それにほかの囚人たちも、地震で鎖が外れ、牢の扉が開き、みな逃げ出したとすれば、当然看守は死刑になります。それを悟った看守は自殺しようとします。しかし、パウロが急いでそれを止めます。パウロは今まさに死なんとしていた看守を命へと導いています。ここで、看守とパウロの立場が逆転していることが分かります。看守は死刑判決を受けるかもしれないパウロたちを、死の牢獄につなぎ留めておくための務めを担っていました。しかし、今パウロの方が、自らの死へと向かおうとしている看守を命へと導くために働いているのです。神の言葉に仕えるキリスト者は、このようにして、自らがまことの自由と命に生きる道へと導かれるとともに、他の人をも、死へと向かおうとしているこの世の人たちをも、まことの命へと導くために仕えることが許されるのです。

 自らの死から救われた看守は、そこに聖なる神のみ力が働いていることに気づき始めました。【29~30節】。「震えながらひれ伏し」とは、看守がその所に聖なる神のご臨在とご支配とを感じたことを言い表しています。彼はこの大地震が偶然に起こった自然現象なのではなく、天地万物を天からご支配しておられる神のお働きであり、牢の扉がみな開き、囚人たちの鎖が外され、自殺しようとしていた自分に止めるようにと声をかけてくれたパウロたちの導き、そのすべてが神のお働きであったことを悟ったのです。

 このようにして、聖なる神との出会いへと導かれた看守は、深い罪の自覚とともに、救われたいとの強い願いが生じてきました。そして、パウロとシラスに尋ねます。「救われるためにはどうすべきでしょうか」。この問いかけは、弟子たちに聖霊が注がれたペンテコステの日に、ペトロの説教を聞いたエルサレムの人たちの場合と同じです。その箇所を読んでみましょう。【2章37~39節】(216ページ)。主イエス・キリストをわたしの救い主と信じて洗礼を受ける。その信仰によって、すべての人は罪ゆるされ、救われます。そのことはいつの時代にも、誰にとっても同様です。

 パウロとシラスは看守に答えました。【31節】。責任を感じて自殺しようとした看守は、パウロたちによって自殺を止められ、命を救われました。でも、それはまだ本当の救いではありません。その人が神のみ前に自らの罪を告白し、主イエス・キリストの福音を信じる信仰を告白することによって、彼は本当の救いを与えられます。

 この31節には、キリスト教信仰の二つの大きな特徴が語られています。一つは、わたしたちが救われるのは、主イエスを信じる信仰によってであるということです。これは、わたしたちがいつでも繰り返して聞いているキリスト教信仰の原点です。わたしたち人間の側に何らかの救いに至る道や可能性があるというのでは全くなく、救いはただ主イエスからのみ来る。わたしたちの罪のために十字架で死んでくださった主イエス・キリストからのみ、わたしの救いは来る。わたしはその救いの恵みを信仰によって感謝して受け取る以外にないし、それで十分である。なぜならば、主イエス・キリストがわたしの救いのために必要なすべてのことをすでに成し遂げてくださったからである。これが、わたしたちの信仰の原点です。

 ここで語られているもう一つのことは、救いがその人一人だけでなく、家族全員に及ぶということです。このことについて、少し深く考えてみましょう。一人の人の信仰とその人に与えられている神の恵みが、その人だけでなく、家族全員に及ぶということは、旧約聖書の信仰の民イスラエルにおいては、疑うことができない事実でした。創世記12章で、神はアブラハムにこのように言われました。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。……地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」(2~3節参照)。

 アブラハムに与えられたこの祝福は、その子イサクへ、またその子ヤコブへと受け継がれ、彼らの家族全員に受け継がれました。更には、ヤコブすなわちイスラエルから彼の12人の子どもたち、イスラエルの12部族とその家族へと受け継がれ、そしてやがて、ダビデの遠い子孫であったヨセフとマリアによって主イエスへと受け継がれたのです。これは、神がイスラエルの民をお選びになり、この民と契約を結ばれたからです。イスラエルの家に生まれた子どもは皆神の祝福を受け継ぎ、その信仰を受け継ぐのです。

 新約聖書になって、イスラエルだけでなく全世界のすべての人が主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じる信仰によって救われるようになってからも、旧約聖書の信仰と救いの連帯性という考えは受け継がれていきました。たとえば、マタイによる福音書9章に書かれている、中風で寝たきりの人をベッドのまま運んできて、屋根をはぎ、天井からつるして主イエスに出会わせた人たちの信仰を主イエスがご覧になって、その病人をいやされたという場面では、病人の信仰は全く問題にされてはいません。運んできた人たちの信仰によって、その病人がいやされたのでした。ルカによる福音書9章に書かれている会堂長ヤイロの一人娘が重い病気であった時、主イエスがその家に向かう途中で亡くなったとの知らせが届きましたが、その時に主イエスはヤイロにこう言われました。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」と。そして、彼の家に着いてから主イエスがその娘の手を取って、「娘よ、起きなさい」とお命じになると、彼女が生き返ったという奇跡が起こりました。これもまた、父親の信仰が主イエスの奇跡を生み出して、娘を生き返らせたという実例です。

 このような、信仰の連帯性、神の恵みの連帯性を示す実例は、新約聖書の中に数多く見出すことができます。神の救いの恵みは、その恵みの豊かさのゆえに、一人の人をはるかに超えて、その人の家族へ、その地域へ、町々村々へ、そして全世界へと広がっていくのです。そしてまた、この信仰があるからこそ、その恵みの豊かさを信じる信仰者が、自分の家族に、また周囲に、そして全世界へと、救いの恵みを告げ知らせ、それを広めていくということが実際に可能なのです。

 わたしたちはここでもう一つのことを確認しておらなければなりません。今お話ししたことが、いわば機械的に、自動的に起こるというのではなく、そこには神が教会に託しておられる宣教と信仰教育というべき教会の働きがあるということです。

 【32~34節】。パウロとシラスはその看守の家に行き、彼の家族に神の言葉を語り、主イエスの福音を語ったことが書かれています。彼と彼の家族は短い信仰準備教育を受け、それからその信仰を告白し、洗礼を受けたのです。教会はこのようにして、必要に応じて、神から託されている信仰教育を行うのですが、それは救いの恵みの豊かさに対する教会の信仰であり、また奉仕であると言えます。そして、教会は新しく加えられた信仰の仲間と共に、聖餐の食卓を共にし、共に救いの恵みを喜び合う群れを形成していくのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたのみ言葉と主イエス・キリストの福音が持っている偉大な力と恵みの豊かさを、どうぞわたしたちにも信じさせてください。その力と恵みの豊かさによって、わたしたちの宣教の働きを強めてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

5月10日説教「荒れ野へと導かれたイスラエルの民」

2026年5月10日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記15章22~27節

    ヘブライ人への手紙3章7~15節

説教題:「荒れ野へと導かれたイスラエルの民」

 イスラエルの民がエジプトの奴隷の家から脱出した出エジプトがいつの時代のことであったのかについては、諸説があって確定されていません。出エジプトの出来事は聖書の記述以外には、他の記録は全く発見されていません。エジプト側の記録にもありません。したがって、聖書の記述から推測する以外にありません。一つのヒントになるのが、出エジプト記1章11節に、「イスラエルの人々はファラオの物資貯蔵の町、ピトムとラメセスを建設した」とあることから、このラメセスの町とは、エジプト第19王朝のファラオ、ラメセスⅡ世が建設したラメセスの家であろうと推測し、そこから出エジプトは紀元前1280年代であろうというのが、最も有力な説です。また、前回学んだ、いわゆる「紅海の奇跡」も、今日の紅海の海を指すのではなく、葦の草が生えている湖での奇跡であろうと考えられています。更に、わたしたちがこれから学ぼうとしている荒れ野の地名の多くについても、今日その場所を特定できていないものがほとんどで、荒れ野での40年間の行程を正確にたどることはできません。

 このように、歴史的に、また地理的には不明確な点が多くありますが、出エジプトという出来事そのものが持つ意義、その影響力、その救いの恵みの大きさ、偉大さについては、誰も疑うことはできません。旧約聖書の民であるイスラエルにとっては、出エジプトはイスラエルの民誕生の出来事であり、イスラエルに対する神の救いの恵みの原点であり、またイスラエルの信仰と命の原点でありました。彼らは荒れ野の40年間の旅を続け、ついに神の約束の地カナン到着し、そこで神の契約の民、信仰の民、神を礼拝する民として生きるのですが、彼らは常に繰り返して、この信仰と命の原点に立ち帰るべきことを忘れませんでした。それは、わたしたちキリスト者がいついかなる時にも、わたしたちの救いと信仰の原点である主イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事を忘れてはならないのと同様です。

 では、きょうは出エジプト記15章22節から読んでいきましょう。22節の初めに、「モーセはイスラエルを、葦の海から旅立たせた」と書かれています。イスラエルの民にとっては、出エジプトの出来事と、それに続く葦の海の奇跡は、同じほどの重要な意味を持っていました。葦の海の奇跡は、特に彼らの荒れ野の40年間の困難な旅を導く神の確かな保証となりました。すなわち、イスラエルの民が一方からはエジプトの強大な軍隊に追われ、もう一方では海が彼らの行く手を阻んで、もはや絶体絶命の危機にあったとき、神がその強いみ手によって海の水を二つに分け、彼らを安全に通らせたように、荒れ野の長く困難な旅をも、神は彼らが生きるのに必要なすべてのものを備えてくださり、彼らをカナンの地まで必ずや導いてくださるという約束を与えられているのです。荒れ野は砂漠地帯が広がり、人間が生きるために最低限必要な水や食料をほとんど得ることができません。畑を耕す土も野菜に必要な水もありません。けれども、彼らを荒れ野へと導かれた神は葦の海の奇跡を行われた神です。その神が荒れ野の40年間の旅にも、絶えず彼らと共にいてくださるという約束を、彼らは与えられているのです。それゆえに、彼らはこれから待ち受けるであろう多くの困難を少しも恐れることなく、葦の海の奇跡から荒れ野へと旅立っていくことができるのです。

 わたしたちは新しい一週の歩みを礼拝から始めます。この礼拝で、主なる神がイスラエルの民に対してなされた奇跡のみわざを聞き、また主イエス・キリストの十字架と復活の福音を聞き、その神の救いの救いの恵みから、一人一人の新しい一週の歩みを始めることを許されています。たとえ、わたしの一週の歩みにどのような困難が待ち受けていようとも、予期せぬ突然の試練があろうとも、わたしは恐れることはありません。神の救いの恵みから出発し、常に変わらずに神がわたしと共におられ、救いの恵みをもってわたしを導いてくださるからです。

 この神の約束は、前回学んだモーセとイスラエルの民が歌った葦の海の歌の中でもすでに暗示されていました。15章12節の【12節】は、葦の海の奇跡でエジプトの軍隊が海の底に沈んだことを歌っていますが、次の【13節】では、荒れ野の旅を神が導かれることを、また約束の地カナンでの神の聖なる住まいとなるエルサレム神殿をもあらかじめ暗示しているように思われます。神の出エジプトと葦の海での奇跡のみわざが、あまりにも大きくあり、偉大であり、救いの恵みに満ち溢れているために、その力と影響力とが荒れ野の40年間の旅にも、更には約束のカナンでの新しい生活全体にも及んでいるということを歌っているように思われます。

 そのようにして、モーセとイスラエルの民は荒れ野への第一歩を踏み出したのです。彼らはシュルの荒れ野から三日目にはマラに着いたと書かれていますが、この二つの地名を今日正確に特定することはできません。おそらくは、葦の海からシナイ半島の西、あるいは南の方角へと進んだと推測されます。この方角は、前にも触れましたが、エジプトからカナンの地、今日のパレスチナ地方へと向かう最短の道、すなわち地中海沿岸を北上するペリシテの道と呼ばれていたルートとは違っていたことは確かです。当時からよく整えられていたペリシテの道を通れば、どんなにゆっくりと移動しても1、2か月で約束の地へと到着できたのに、神はあえてイスラエルの民を荒れ野へと導かれ、40年もの長い間荒れ野をさまよわせたのでした。それは、イスラエルに対する神の愛の訓練のためにあったと、聖書は繰り返して語っています。今一度、申命記8章2~6節を読んでみましょう。【2~6節】(294ページ)。

 さて、荒れ野へと導かれたイスラエルの民は、三日間飲み水を得ることができずに、マラに着いた時、ようやく水のある場所を見つけましたが、そこの水は苦くて飲むことができなかったので、民はモーセに不平を言ったと書かれています。神の愛による訓練を受けているイスラエルの民は早くもその訓練につまずきました。彼らの不平は、この後にも何度も繰り返されます。【16章2節】。また【17章3節】(122ページ)。神の愛による訓練の期間は、イスラエルの繰り返しの不平の時でもあったのです。彼らは神の救いの恵みを忘れ、神の約束の言葉を疑い、何度も指導者モーセに不平を言い、神に背くのです。神の愛と救いの恵みがイスラエルに注がれる時、同時にイスラエルの不従順と罪が明らかにされるのです。神の愛と救いの恵みを受け取るに値しないイスラエルの罪、その愛と恵みに感謝をしないイスラエルの罪、すぐに忘れてしまい、不平や不満を言う罪、荒れ野の40年間の神の訓練の期間、そのようなイスラエルの不従順と罪が繰り返されます。

 しかし、神はこのような罪のイスラエルを決してお見捨てになることはありません。神はモーセに一本の木を示されました。モーセがその木を水に投げ込むと、水は甘くなり、飲めるようになったと25節に書かれています。神はここでも奇跡をもってイスラエルの民を救われました。彼らの命をつなぐ水をお与えくださいました。それだけでなく、25節後半にはこのように書かれています。【25節b~26節】。ここで「彼」と言われているのが、モーセ個人を指すのかイスラエルの民を指すのかははっきりしませんが、その両者と考えてよいでしょう。イスラエルの民の指導者として立てられているモーセに与えられた恵みは、民全体に与えられた恵みでもあります。神は苦い水を甘い水に変えられただけでなく、彼らに「掟と法」を与えられました。掟と法の内容が何であったかは書かれていませんが、イスラエルの民は神がお与えくださった奇跡の水、甘い水を飲んで肉体を癒し、力づけることが許されただけでなく、神の言葉である「掟と法」をも与えられ、彼らの魂がまことの命によって生きるための言葉を与えられたのです。この掟と法は、のちに20章でモーセの十戒として、また契約の書として具体的な文書になって彼らに与えられることになります。

 イスラエルの民は神がお語りくださる神の言葉に聞き従い、その神の言葉を彼らの歩みと生活の中で行うことによって、神のみ心を実現し、それによって神によって救われた民であることを証しするのです。それが、エジプトの奴隷の家から導き出されたイスラエルの民の信仰の歩みであり、そして葦の海の奇跡によって救われた神の民の新しい生き方になるのです。

 わたしたちはここで、旧約聖書の民イスラエルと新約聖書の民教会の大きな特徴を確認することができます。それは、主なる神のみ声に聞き従う民、その神の命令に耳を傾け、その神がお与えになるすべての掟を守って生きる民であるということです。これこそがわたしたちの信仰の大きな特徴です。別の言葉で言えば、言葉の宗教であるということです。神の言葉に生きる宗教だということです。

 世界には多種多様な宗教があります。言葉を発せず、黙想し、瞑想を深めることによって悟りへと至ると説く宗教もあれば、修行や苦行を積み重ね、肉体を極限まで苦しませることによって魂の平安を求める宗教、あるいは善行や社会貢献などによって徳を高めることを重んじる宗教など、さまざまです。しかし、わたしたちが信じているキリスト教という宗教、その信仰はそれらとは違っています。わたしたちは神の言葉を聞き、それを信じ、それに従うことによって生きるのです。主体、主導権は、神の言葉にあります。神は「掟と法」によって、それはわたしたちにとっては聖書ですが、それによって語られます。日々新たに、その人その人に、その時その時に、わたしたちが真実に生きた者となるために、必要な言葉をお語りになります。わたしたちはそれに聞き従うことによって、神によって守られ、導かれて生きるのです。どのような試練や危険や恐れの中にあっても、神はわたしと共に歩んでくださいます。

 最後に【27節】。エリムがどこを指すのか分かっていませんが、この後のイスラエルの民の道のりから推測するなら、アラビア半島(今のサウジアラビア)の西側、紅海に面して南下し、モーセの山(シナイ山)に至る途中に位置すると推測されています。「12の泉」「70本のなつめやし」、12も70も聖書ではいわゆる「聖なる数、完全数」なので、これから続くであろうイスラエルの荒れ野の旅のすべてに、神の恵みと導きとが一つも欠けることなく、豊かに注がれるであろうことを暗示しているのかもしれません。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたは日々にわたしたちの命に必要なすべてのものを備えてくださいますことを感謝いたします。わたしたちはあなたから多くをいただいておりながら、その恵みに気づくこと遅く、感謝することの少ない者であることを、懺悔いたします。どうかわたしたちの信仰の目を開いてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

5月3日説教「ローマに福音を告げ知らせる責任」

2026年5月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書40章3~11節

    ローマの信徒への手紙1章8~15節

説教題:「ローマに福音を告げ知らせる責任」

 パウロがローマの信徒への手紙を書いたのは、彼の第三回世界伝道旅行の終わりころ、コリントの町に滞在していた紀元58年ころと推測されています。この時点で、パウロはまだローマに行ったことはなく、ローマの教会との交流もほとんどありませんでした。ちなみに、ギリシャ地方のコリントからイタリア半島のローマまでは、直線距離でアドリア海を挟んで北西に1200キロ以上も離れています。

 そのローマにある教会になぜパウロが手紙を書くことになったのか、その理由が1章8節以下に書かれています。ここには、パウロがどんなにかローマ行を熱望していたか、そのパウロの熱い思いが語られています。なぜパウロがこの手紙を書いたのか、またなぜ彼がローマの教会を尋ねたいと願ったのかを、きょうのみ言葉から聞き取っていきましょう。

まず、8節でパウロは、「あなた方の信仰が全世界に言い伝えられていることを神に感謝する」と書いています。ローマに主キリストの教会が建てられている、そこに主イエス・キリストを主と信じ、唯一の救い主と信じている信仰者の群れが形成されている。そのことが全世界的な、大きな意味を持つことなのだというのです。ここからわたしたちは、ローマに主キリストの教会が存在しているということに対して、パウロが特別な重要性を見いだしていたということに気づかされます。

当時から、「すべての道はローマに通じる」と言われており、ローマの町はローマ帝国の首都であると同時に、全世界の中心都市であり、全世界のあらゆる民族が集まり、あらゆる文化、思想、経済、そしてこの世の権力のすべてがここに集中していました。ローマ皇帝カイザルがここから世界を支配していました。そのローマに、一握りの小さな信仰者の群れが存在している。この地上の世界にルーツを持つのではなく、神の国に本来の国籍を持ち、この世の権力に従うのではなく、十字架につけられ三日目に復活された主イエス・キリストに全き服従を誓い、復活して天に昇られた主イエス・キリストを唯一の主と信じる小さな信仰者の群れが存在している。そのことの、大きな、驚くべき意味を、パウロは知っています。そして、彼らと同じ信仰を持つパウロが、彼らと直接に会って信仰の交わりを深め、彼らの信仰の闘いに共に参加し、同じ信仰を共に告白したい、そのようにパウロは願ったのです。

この手紙を書いたもう一つの直接的な理由が15章22節以下に書かれています。それによれば、パウロは、当時世界の果てと考えられていた、ヨーロッパ大陸の西の果てイスパニア(今のスペイン)にまで福音宣教の足を延ばしたいと願っていましたが、そのためにローマを拠点にして、ローマ教会の支援を受けてイスパニア伝道を始めたいという計画があったのでした。パウロがそう願ったのは、ローマの教会に自分の働きのために支援をお願いしたいとの思いからだけではありません。ローマの教会が他の教会のために仕える教会になるということは、その教会にとって大きな祝福となるからです。世界の中心都市であるローマに建てられた教会が、世界に仕える教会となることによって、ローマの教会はいよいよ祝福された教会となるのです。

そのようなわけで、パウロはまだ会ったことがないローマの教会に、自分のことを知ってもらうために、いやそれ以上に、彼が携えていく主キリストの福音がどのようなものであるのかをあらかじめ知ってもらうために、この手紙を書いたのです。

パウロがどれほど熱心にローマ教会訪問を強く願っていたかは、きょうの箇所にそのことが繰り返して書かれていることから十分知ることができます。9、10節では、「わたしが祈るときにはいつも……願っています」【9~10節】。11節でも、「あなたがたにぜひ会いたい」、15節では、「ローマにいるあなたがたにも……告げ知らせたい」【15節】き。これらから、パウロがどんなにかローマ教会訪問を強く願っていたかが伝わってきます。ローマ行きはパウロの長年の祈りであり、切望であったのでした。

パウロがこれほどまでにローマ教会訪問の思いを繰り返して語ることには、今挙げた理由のほかにもあったことが、13節から推測されます。【13節】。パウロのローマ行の計画が何回も妨げられてきたと彼は言います。何によって妨げられたのかは分かりません。彼が他の地域での宣教活動に忙しかったからか、あるいは外部から何らかの妨害があったからか、彼自身の心境のことかは分かりません。ある人はこう推測します。パウロは世界の大都市であるローマで宣教することを怖がっていたので、何かにと理由をつけて行きたがらなかったのだと言っている人たちが周囲にいたのではないか。あるいは、パウロは他の人が建てた教会へは行きたがらなかったのではないか。自分が建てたコリントの教会へ何度も出かけていくのに、ローマの教会はそうではないから積極的に行こうとしなかったと言っている人たちがいたのではないか。そういう人たちに対して、パウロはここで弁明しているのではないか。そのように推測する人もいます。

どのような理由にせよ、パウロのローマ行きの願いは決して失われることはありませんでした。妨げられれば妨げられるほどに、その思いはいよいよ強まるばかりです。もしパウロの願いが、人間の思いから出たものならば、彼自身の名誉とか自己保身とかがその理由であったのであれば、その願いは妨げにあって、やがて消え去るほかになかったでしょう。けれども、そうではなかったことは確かです。妨げにあえばあうほどに、彼の願いは強くなっていったのでした。それは、彼自身の願いというよりは、彼が仕えていた主イエス・キリストと父なる神に押し出されて、主キリストの福音を宣べ伝えるという、彼に託された使命感から湧き上がる熱意だったというべきなのでしょう。もっと言えば、それは神のみ心によることであり、主キリストのご命令によることなのです。神のみ心、神の救いのご計画は、あらゆる困難やこの世の鎖をも断ちきって、前進するからです。

そのことを、9~10節から読み取ることができます。【9~10節】。パウロはここで、ローマ教会訪問計画が決して一時的な思いつきではなく、偽りでもないこと、真実で切実なものであること証しする証人として神を立てています。更に、その神とは、彼が全身全霊を傾けて、み子イエス・キリストの福音を宣べ伝えるために仕えている神であると言っています。この神が、パウロのローマ教会訪問の願いと計画が真実であることを証明してくださるということは、そもそもそれが神のみ旨なのであり、神のご計画であるということをパウロが信じていたということにほかなりません。パウロがローマに行くこと、そこで主キリストの福音を宣べ伝えることは、彼を使徒として召してくださった神、特にユダヤ人以外の異邦人に福音を語るように召してくださった神ご自身の意志なのだと、パウロは固く信じていたのです。それゆえに、その計画はどのような妨害にあおうとも、変更されることはないのです。

10節で「何とかしていつかは神の御心によって」というパウロの祈りは、わたしたちが『主の祈り』の第二の祈願で、「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈る祈りと同じです。どのような困難な状況にあっても、前方にどのような厚い壁が立ちふさがっていようとも、「神よ、あなたのみ心がなりますように」と祈ることは、パウロに許されている祈りであるとともに、わたしたちにも許されており、また命じられてもいる祈りです。

パウロのローマ行きの祈りがどのようにしてかなえられたかは、使徒言行録21章以下で知ることができます。それは、誰も、おそらくはパウロ自身も予測できなかった、全く奇しき神のご計画でした。第三回世界伝道旅行を終えてエルサレムに帰って来たパウロは、ユダヤ人たちによって捕らえられ、裁判を受けることになったのですが、ローマの市民権を持っていたパウロは皇帝の法廷に上訴します。数年後、彼は囚人として、ローマに護送されることになったのでした。

ローマに着いたパウロがその後どうなったのかについては、使徒言行録は何も記してはいませんが、すぐ前のページの使徒言行録28章30~31節にはこのように書かれています。【30~31節】。ここには、「まったく自由に何の妨げもなく」と書かれています。ローマ行きを何度も妨げられてきたパウロでしたが、今やそのローマで、何の妨げもなく、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えることができたのでした。神のみ心はこのようにして実現したのです。

11節からは、ローマ教会訪問の具体的な目的が書かれています。【11~12節】。「霊の賜物を分け与えて力づけ、お互いの信仰を励まし合う」ことがその目的です。これこそが、教会と教会が交わる際の、また信仰者と信仰者が交わる際の、最も大きな目的です。お互いの安否を問い合うとか、それぞれの町の特産品を交換するとか、教会の情報や課題を分かち合うことも有益ではあります。しかし更に大きな恵みは、霊の賜物を分かち合うこと、同じ信仰に立つ者たちとして励まし合うことにあります。

「霊の賜物」とは、神から一人一人に与えられた、あるいはまた教会に与えられた恵みのことです。その人が自分の能力や努力で手に入れたものではなく、むしろ、自分が神のみ前に貧しく無力なものに過ぎないことを知り、ただひたすら神から与えられた恵みによって生きようとする者に、神から賜る恵みのことです。主イエスはそれをタラントと言われました。霊の賜物、恵み、タラントを神から与えられ、それを感謝する人は、他の人にそれを分かち与えます。分かち与える人は、いよいよ豊かに与えられます。

「信仰による励まし合い」も同じです。パウロにとっても、またローマの教会にとっても、その時代の中で、その地にあって、信仰に生きるということは、多くの労苦に満ちていました。信仰の闘いの連続でした。もし、自分の信仰のことだけを考えていたら、やがて疲れ、倒れてしまうかもしれません。けれども、同じ信仰の闘いをしている者たちが、互いに祈り合い、支え合い、直接に顔を合わせてその信仰を確認し合うことは、どんなにか大きな励ましであり、慰めとなることでしょうか。

使徒パウロは一人で立っているのではありません。ローマの教会もそうです。共に主キリストによって立つことを許されているということを確認し合うことによって、共に励ましを与えられるのです。

最後に、14節の「果たすべき責任がある」という言葉に注目したいと思います。直訳すれば「負債(つまり借金)がある」という意味です。この言葉はしばしば人間の罪を言いあらわす際に用いられます。主イエス・キリストによって1万タラント(数百億円)もの大きな罪の負債をゆるしていただいたパウロは、またわたしたちは、他の人たちを罪のゆるしへと導くための負債を負っているということです。わたしたちはみな主キリストの福音を宣べ伝えるという、喜ばしい責任を負っているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、主イエス・キリストの福音が全世界のあらゆる町々村々に宣べ伝えられ、主キリストの教会が建てられています。あなたはそのすべての宣教活動を導き、支えておられます。主よ、どうかその一つひとつの教会をあなたがいよいよ祝福してくださり、あなたを信じる民を増し加えてくださいますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

4月26日説教「思い悩むな。ただ、神の国を求めなさい」

2026年4月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:詩編39編1~14節
    ルカによる福音書12章22~34節
説教題:「思い悩むな。ただ、神の国を求めなさい」

 ルカによる福音書の特徴の一つが、この世の富や財産に対する人間の欲望についての問題を多く取り扱っているという点にあることを、前回の12章13節以下の愚かな金持ちのたとえの箇所で学びました。この世の富や財産を追い求める人間の果てしなき欲望が、人間の本当の命が何であるのかを見失わせ、人間の命の主であられる神を見失わせ、自らが死すべき存在であることを見失わせている。そして、ついには、神によって最も賢く、尊い生き物として創造された人間を、他のすべての生き物よりも愚かな存在としている。ルカ福音書はそのことをわたしたちに気づかせようとしているのです。
今日の豊かさを求める世界、現実主義的で自己の欲望を追及する社会、人間の知恵や知識が賞賛される世界に住んでいるわたしたちにとって、ルカ福音書は、また聖書全体は、厳しい挑戦状を突きつけているのです。あなたが本当に追い求めるべきものは何なのか、あなたの本当の命はどこにあるのか。あなたが今一番大切なものとして追い求めているものが、本当にあなたを生かすものなのかどうか。本当の幸い、平安、喜び、救いはどこにあるのか。そのことを、聖書はわたしたちに問いかけ、語りかけてくるのです。
 きょうの箇所でも、同じテーマが取り扱われています。ここで、主イエスは繰り返して「あなたがたは思い悩むな」と語っておられます。【22節】。同じような言葉は【29節】にも。また【25~26節】。
わたしたち人間は思い悩む生き物であることを、主イエスは良く知っておられます。というよりも、人間だけがすべての生き物の中で唯一思い悩む生き物であるということを、主イエスはわたしたちに気づかせようとしておられるのでしょう。わたしたちがそのような愚かな者になっていることに気づかせ、いや、そうではない、神はあなたがた人間を最も神に近い者として、神に似た者として創造され、最も神に愛されている者として、神はあなたに必要なすべてのものを備えていてくださるのだから、思い悩むな、思い悩む必要などないということを、わたしたちに信じさせようとしておられるのです。
 では、主イエスの「思い悩むな」というみ言葉からみていくことにしましょう。この否定的命令形は、「恐れるな」というみ言葉と似ています。これは、思い悩むことは良くないことだからやめなさいとか、思い悩んでもどうにもならないし、それは非生産的だからやめなさい、という理由で、思い悩むことを禁止しているのではありません。主イエスが「あなたがたは思い悩むな」とお命じになるときには、第一には思い悩むことを禁止し、否定する命令です。それだけではありません。その思い悩みそのものを取り去る約束のみ言葉でもあるのです。主イエスが「思い悩むな」とお命じになるときに、主イエスはわたしたちからその思い悩みを取り去ってくださり、それに代わる平安や喜び、希望、そして信仰をお与えくださるのです。そうすることによって、主イエスはわたしたちをすべの思い悩むことから解放されるのです。そのことを信じて、きょうのみ言葉を学んでいきましょう。
 思い悩むとは、心がいくつにも分裂している状態のことを言います。主イエスはここで、「何を食べようか、何を着ようか」と二つの思い悩みを挙げていますが、これはたくさんある思い悩みの代表であり、そのほかにも実に数えきれないほど多くの事柄に、わたしたちの心は分裂していきます。あれが欲しい、これにも心が奪われている。心がいくつにも分かれ、その方向性を失ってしまう。そして、欲しいものが手に入らないとき、思いどおりに事が進まないときに、不満が募り、不安に襲われ、思い悩みがいよいよ増し加わる。思い悩む人間は、さらに思い悩みを拡大させていくしかない。その人は決して満たされることはない。それが人間の姿です。
 主イエスは、いくつにも分裂したわたしたち人間の心を一つの方向に向かわせるために、まずわたしたちの目を空の鳥や野原の花へと向けさせます。そしてその次には、空の鳥や野原の花をさえ日々に養っておられる神へと、わたしたちの心を向けさせます。【24節】。
主イエスは空の鳥の中でも特にカラスを例に挙げています。カラスは、日本でもそんなに好まれる鳥ではなく、不気味で不吉な予感させさせる鳥と考えられています。聖書では、神にささげることができる聖なる生き物から除外され、食べてはならない宗教的に汚れた生き物に数えられています。そのようなカラスでさえも、あくせくと働いたり蓄えたりすることなく、思い煩うこともしないのに、神は彼らを養っておられるではないか。そうであるならば、カラスよりもはるかに価値があるあなたがた人間を、神はさらに大きな愛と恵みとをもって養ってくださらないはずがあろうか、と主イエスは言われます。
 続けて主イエスは27節以下では、野原の花へとわたしたちの目を向けさせます。【27~28節】。野原の花とは、パレスチナ地方によくみられるユリであろうと考えられています。アネモネ、あるいはグラジオラスと考える人もいますが、いずれもパレスチナ地方の春を彩る花です。その美しさ、神秘的な生命の不思議には、人間の手が全く加えられていないにもかかわらず、華やかに繫栄したソロモン王でさえも、その花の一輪にも見劣りがするではないかと、主イエスは言われます。野原の花は自ら手入れをして着飾ったり、あくせくと働くこともしません。そうであるのに、神はその野原の花をもこれほどに美しく装ってくださり、養い育ててくださいます。そうであるならば、野原の花よりもはるかにまさった者であり、尊い存在であるあなたがた人間を、神はさらに大きなご配慮と恵みとをもって愛してくださらないはずがあろうか、と主イエスは強調されます。
 ここで重要なポイントは、24節の「あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか」というみ言葉、また28節の「まして、あなたがたにはなおさらのことである」というみ言葉です。ここでは、鳥や花と人間とを単純に比較して、どちらが尊いかを比較しているのではありません。むしろ、比較できないほどの違いがあるではないかということを強調しているのです。
この決定的な違いを理解するには、信仰が必要です。主イエスは28節で「信仰の薄い者たちよ」と呼びかけておられます。空の鳥や野原の花を見て、そこから神の偉大なる愛を理解するに至るためには、信仰が必要なのです。空の鳥や野原の花よりも、はるかに大きな愛によって神がわたしたち人間を愛しておられるということを正しく知るためには、信仰が必要なのです。
 ここで一つ注意しておかなければならないことは、主イエスはここで、いわゆる自然神学を語っておられるのでは決してないということです。自然の美しさや神秘的な様子を見て、そこから神の存在を感じたり、神の創造の偉大さを知るということは、ある程度は誰でもが認識することができます。でもそれは、人間の感情や感覚の作用にすぎません。そこに信仰がなければ、本当の意味での救いや平安、慰めを得ることはできません。主イエスのみ言葉を正しく理解するためには、信仰が必要なのです。神が主イエス・キリストによってわたしたち人間をどのように愛してくださったか、神がその独り子をわたしたちにたまうほどにわたしたち人間を愛してくださったという福音を信じる信仰が、必要なのです。
 もう一つ重要な点は、主イエスはここでわたしたちの目を空の鳥や野原の花に向けさせ、次にその鳥や花を創造された神へとわたしたちの目と心とを向けさせておられるということです。最終目的は、わたしたちが天地万物を創造された神へとわたしの全身を向けるということが主イエスのみ心だということです。それによって、わたしたちをすべての思い悩みから解放することが主イエスのみ心だということです。
 わたしたちはここで創造者なる神のことを知る必要があります。神が天地万物を創造されたことについては、創世記1章と2章に詳しく語られています。天地創造の初めに、神は第一日目に光を創造されました。次に、その光の中で、大空と海と乾いた地とを創造され、草や木、空に光る太陽や月、地に住む生き物、それを飛ぶ鳥を創造され、最後の第六日目に、人間を創造されました。
人間の創造には特別な神の配慮がありました。一つには、人間が生きるためのすべての舞台が整ってから、最後に人間を、すべての被造物の冠として創造されたということです。もう一つは、人間をご自身お姿に似せて創造されたということです。人間は他のどの生きものよりも神に似ている存在として、神の近くに存在する者として、神のみ心を知る者として、神のパートナーとして創造されたのだと、創世記は語っています。
また創世記2章7節には、神は土の塵で人間を造られ、命の息をその鼻から吹く入れて、人間を生きる者にされたと書かれています。人間は神の息を吹き入れられることによって、はじめて生きる者となったのです。神の息がなければ、人間はたちまちにして土に帰るほかありません。
人間を旧約聖書の言語であるヘブライ語ではアーダームと言います。土はアダマーです。発音が非常によく似ています。わたしたち人間は土・アダマーから造られた人・アーダームなのです。旧約聖書の民ヘブライ人は、そのことを決して忘れませんでした。それゆえに、人間は神の命の息を吹き入れていただかなければ、本当に生きることはできないのだということを、決して忘れなかったのです。
 最後に、わたしたちの目を空の鳥と野原の花へと向け、さらには天地万物と人間を創造された神へと向けさせ、わたしたちをすべての思い悩みから解き放ってくださる主イエスご自身へと目を注がなければなりません。主イエスは、ほかでもないわたしたち人間を罪から救うためにご自身の尊い命を十字架におささげくださったのです。わたしたちの命と存在のすべては、神のみ子の尊い犠牲の血によって買い戻され、もはや罪の奴隷ではなく、主イエス・キリストのものとされたのです。ここにこそ、わたしたち人間の命と存在を他のすべての生きものよりも尊く、価値あるものとしている根拠があるのです。
 使徒パウロはローマの信徒への手紙8章32節でこのように書いています。「ご自身のみ子をさえ惜しまずに死に渡された神は、み子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがあるでしょうか」と。その大きな神の愛によって愛されているわたしたち人間に、神はわたしの命に必要なすべてのものを備えてくださらないことなどありません。その信仰に生きるとき、わたしたちはすべての思い悩みから解放されるのです。

(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、わたしたちはこの世の過ぎ去りゆくものに目と心とを奪われ、しばしばあなたを見失ってしまうことがあります。主よ、どうかわたしたちをあなたの命のみ言葉のもとにつなぎとめてください。主イエス・キリストによってあなたがわたしたちにお示しくださった大いなる愛の中に、わたしたちをつなぎとめてください。そして、まことの平安と救いの喜びとを、お与えください。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

4月19日説教「フィリピでの伝道と迫害」

2026年4月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記3章1~10節

    使徒言行録16章16~24節

説教題:「フィリピでの伝道と迫害」

 パウロの第二回世界伝道旅行は、当初の予定では第一回伝道旅行で建てられた小アジア地方の諸教会を再訪問して彼らを励ますというのが主な目的でした。その目的がほぼ果たし終えたのちに、彼は小アジアの北西はしにあるトロアスという町で、一つの幻を見ました。「マケドニアに渡って来て、わたしたちを助けてください」という声を聞いたのです。そこで、パウロはそれを神の導きと信じ、すぐにエーゲ海を渡ってヨーロッパ大陸の入り口であるマケドニア地方(今のギリシャ)へと旅を続けることにしたのでした。その最初の伝道地が、当時ローマの植民都市であったフィリピでした。そして、この町でリディアという女性とその一家が洗礼を受けました。この一家がフィリピ教会の大きな柱、土台となっただけでなく、これから先のマケドニア(ギリシャ)地方の伝道、更にはヨーロッパ伝道全体にとっても、強力な伝道の拠点となったということを、パウロがのちにこの教会にあてて書いた手紙から、わたしたちは知ることができます。この時に誕生したフィリピ教会がパウロのこののちの伝道旅行のために経済的にも、また特別に親しい信仰の交わりにおいても、大きな支えとなったのでした。神はこのようにして、パウロの当初の予定や目的をはるかに超えた豊かな恵み、大きな実りをお与えになって、全世界に主キリストの福音を告げ広めるお働きを続けてくださいました。

 では、きょうはフィリピでの伝道活動の後半の箇所を読んでいくことにしましょう。【16節】。「祈りの場所に行く途中」とありますから、13節と同様に、ユダヤ人の安息日である土曜日に、ユダヤ人が集まって来ていることを期待して、パウロたちは出かけて行ったと推測できます。「わたしたち」という主語が10節から始まっていますが、前回説明しましたように、パウロと最初から同行していたシラス、途中から加わったテモテ、そして、たぶんマケドニアから参加した、この使徒言行録の著者であるルカ、この4人を指すと考えられます。

 パウロたちがフィリピで経験した第二の出会いも女性でした。彼女は「占いの霊に取りつかれている女奴隷」であったと書かれています。「占いの霊」は原語のギリシャ語では「ピュトンの霊」という言葉であり、ピュトンとはギリシャの神デルフィからのお告げをする霊で、腹話術のようにこわ声を使って話をしていたようです。下北半島恐山のイタコや沖縄のユタと似ているところがあります。紀元1世紀のギリシャにおいても、21世紀の日本の地においてもそうであるように、人間の運命を司る神々が信じられ、自分の将来を知りたいと願う人間の欲求を満たすために、多額の報酬をもらい、神々の声に真似て語る占い師という者が、いつの世にも存在しています。

 しかし、わたしたちキリスト者はそのような偽りの神々の声に惑わされることは決してありません。わたしたちが信じている神は天地万物を創造され、造られたものを今もなお見えざる強いみ手を持って保持され、導いておられる全能の父なる神であられ、ご自身のみ子・主イエス・キリストによって、わたしたちの救いに必要なすべてのみ言葉をお語りくださり、終わりの日に神の国を完成される日まで、すべての被造物をご自身の摂理によってご支配くださる主なる神であられます。それゆえに、わたしたちは他のどのような神々と言われるものがあろうとも、その声に耳を傾ける必要はありませんし、それらの神々を恐れる必要もありません。

 この占いの霊に取りつかれた女性は女奴隷と言われています。彼女には何人かの主人がおり、その人たちの奴隷となって、彼女が占いで得た収入はすべてそれらの主人のものになりました。彼女は偽りの悪しき霊に支配され、悪しき人間たちにも支配され、彼女には人間としての基本的な人権も自由もありませんでした。哀れで悲惨な罪の奴隷でした。偽りの神々に仕える人は皆、そのように、人間としての尊厳と自由とを失い、哀れな罪に支配された人間となる以外にありません。

 【17~18節】。占いの女性がパウロたちについて語ったことは、確かにそのとおりであると言えるように思われます。パウロたちは「いと高き神の僕」たちであり、主イエス・キリストの十字架と復活の福音による救いの道をフィリピの人々に、また全世界の人々に宣べ伝える伝道者たちであることは事実でした。にもかかわらず、パウロはその彼女の告白を受け入れてはいません。それは、悪しき霊による偽りの告白だと、退けています。

 なぜパウロはそうしたのか。二つの理由が考えられます。一つは、彼女の告白の内容が正しいとしても、その告白をさせているのが悪しき霊、偽りの神によるのだとすれば、それは真実の告白ではないからです。主イエスもまた、マルコによる福音書1章21節以下で、汚れた霊に取りつかれていた男の人が、主イエスを「神の聖者だ」と叫んだ時に、その告白を受け入れずに、「黙れ、この人から出ていけ」とお命じになって、彼から汚れた霊を追い出されたことが書かれています。主イエスは悪しき霊による告白を拒絶され、それだけでなく、悪しき霊を滅ぼされ、その人を悪しき霊から解放し、救われたのです。

 もう一つの理由として考えられることは、この占いの女性の告白がギリシャの主神であるゼウスの神を考えていたのかもしれないという理由です。「いと高に神」が聖書で証しされている主なる神ではなく、ギリシャの神を指していたということが考えられます。それは全く正しい告白ではありません。

 パウロは占いの霊に対してこう命じます。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」と。そうするとすぐに、その霊が彼女から出ていったと書かれています。「主イエスの名によって」という言葉は、使徒言行録の中でこれまでも何度か繰り返して語られていました。【3章6節】(217ページ)。ペトロは生まれつき足が不自由だった男の人を、「イエス・キリストのみ名によって」立ち上がらせ、神を賛美して歩く人に変えました。また【4章10節】(219ページ)。「イエス・キリストの名によって」とは、主イエス・キリストご自身を指しています。また、主イエス・キリストの人格、みわざ、み言葉のすべてを指しています。主イエス・キリストのご受難と十字架の死、そして三日目の復活、40日目の召天によって示された救いの恵み、そのみ力、その権威のすべてを指しています。主イエスはすでに十字架の死と復活によってすべての悪しき霊と罪と死とに勝利しておられます。その主イエスの勝利が今ここで占いの霊に対する主イエスの勝利として宣言されたのです。

そのようにして、主イエス・キリストは今日のわたしたちの教会においても、主イエス・キリストのみ名が語られ、信じられ、賛美されるときに、わたしたちのすべての奉仕や祈りの中で、今もなお力強く働いてくださいます。「イエス・キリストの名によって」洗礼が授けられる時、そこに罪ゆるされて新しい命に生かされている信仰者が誕生します。「イエス・キリストの名によって」わたしたちが祈るときに、そこに神のみ心が実現します。「イエス・キリストのみ名によって」わたしたちが礼拝をささげ、み言葉を聞き、捧げものをささげ、奉仕と愛の交わりをなす時に、そこに主キリストの体なる教会が建てられます。

では次に【19~24節】。占いの霊に取りつかれていたこの女性は、パウロによって悪しき霊の支配から自由にされましたが、彼女の占いによってお金をもうけていた主人たちは、収入減が絶たれたという全く個人的な理由によって、パウロとシラスを捕らえ、二人を役人に引き渡しました。裁判の席では、主人たちは自分たちの個人的な理由ではなく、パウロたちがフィリピの町全体を混乱させている犯罪人として告白しています。

彼らが挙げている告発理由の第一点は、パウロたちがユダヤ人であるということです。フィリピはローマの植民都市として、本国から移住してきたローマ人がほとんどでしたから、この町ではユダヤ人であること自体が住民の反感をかう理由になったと推測されます。第二の告発理由は、町の秩序をかき乱す騒乱罪、第三は、ローマ人にとって違法な慣習を宣伝していることが挙げられています。当時のローマ帝国においては、ユダヤ教の教えは一般的には黙認されていたようですが、ローマ人に直接その宗教を宣伝することは禁じられていました。彼らはパウロたちの教えをユダヤ教と理解していたのかもしれません。占いの霊を追い出したのは、ユダヤ教の教えによるものだと考えたのかもしれません。

けれども、パウロたちが宣べ伝えていた福音が、主イエス・キリストの福音であるということに、彼らはまだ気づいてはいません。主イエス・キリストの福音が、今全世界のすべての人々に、罪と死に対する大いなる勝利をもたらしたのだということを、彼らはまだ知りません。というのも、彼らは自分たちの収入源が失われたことにしか関心がなかったからです。一人の女性が主イエス・キリストのみ名によって悪しき霊の支配から解放されたという救いの事実を彼らはまだ見ていないからです。

それにしても、ローマの植民都市であり、他の宗教の設立が法律で禁じられたいたこのフィリピの町にキリスト教会が建てられたということ、またこののちには、テサロニケやコリントの町々にも次々と教会が建てられていったということ、それは実に驚くべき出来事であったということが分かります。

パウロとシラスはむち打ちの刑を受けることになり、その後、厳重に見張られた牢獄につながれることになりました。むち打ちの刑は、公衆の面前で衣服を脱がされて裸にされ、動物の骨や石を縫い込んだむちで打たれるという、屈辱と痛みを伴う、耐え難い刑でした。パウロはコリントの信徒への手紙二11章でこのように書いています。【23節b~25節】(338ページ)。「鞭で打たれたことが三度」とある、その一回がフィリピでのこのことを指していると思われます。

けれども、わたしたちはここでもこの聖書のみ言葉を思い起こします。「しかし、神の言葉は決してつながれてはいない」(テモテへの第二の手紙2章9節)。神の言葉はやがてパウロたちがつながれている鎖を断ち切ることになるでしょう。そしてまた、神の言葉はすべての困難を越えて、今もなお前進していきます。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの永遠なる救いのご計画が今もなお世界のあらゆる国々で、町々で、進められていることを信じます。どうか、この秋田の地においても、あなたを信じる人が次々と起こされ、あなたの救いの福音が力強く宣べ伝えれていきますように、切に祈ります。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

4月12日説教「葦の海の奇跡を行われた神の威光を賛美する歌」

2026年4月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記15章1~21節

    マルコによる福音書4章35~41節

説教題:「葦の海の奇跡を行われた神の威光を賛美する歌」

 エジプトの奴隷の家を脱出したイスラエルの民は、約束の地カナンへ通じる道ではなく、荒れ野、砂漠地帯へと至る道に導かれました。それはイスラエルの民を選ばれ、この民を愛された主なる神の深いみ心によることでした。神は約束の地カナンでイスラエルの民が神によって選ばれ、救われた民として、いついかなる時にも、ただ主なる神だけを礼拝し、主なる神の言葉にのみ聞き従う民として生きていくための信仰の訓練をするために、何もない荒れ野でただ神だけを頼りにして生きることを学ばせたのです。神は愛する者たちを訓練するために、時に困難や試練を与え、その中でも主なる神を疑わず、主なる神の導きを信じて、すべての困難に耐え抜く信仰を養われるのです。

 荒れ野へと出ていく前に、彼らにはもう一つの信仰の試練と訓練が与えられました。エジプト軍が大勢の戦車隊を率いて彼らの後を追ってきたのです。行く手には海が彼らの逃げ道をふさいでいます。軍隊も武器も持たないイスラエルの民にはなすすべがありません。でも、そのような絶体絶命の危機の時でも、神はイスラエルの民をお見捨てにはなりませんでした。彼らはなおも主なる神を信じる信仰によって、エジプトの王ファラオとその大軍とに勝利することができるという奇跡を経験しました。モーセが杖を高く挙げると、海は二つに分かれ、乾いた地が現われ、イスラエルの民はその道を安全に渡ることができ、彼らが渡り終えてから再びモーセが手を差し伸べると、海の水がもとに戻り、そこを渡っていたエジプト軍はみな海の中にのみ込まれてしまったのでした。

 これを一般には紅海の奇跡と呼びますが、ヘブライ語原典では葦の海となっていますので、『新共同訳聖書』ではその翻訳を採用しています。

 出エジプト記15章にはその葦の海の奇跡を歌った二つの歌が記されています。1節から19節は、モーセとイスラエルの民が歌った歌、20節から21には、モーセの兄弟であるアロンの姉、ミリアムの歌です。

 先に、ミリアムの歌の方を見ていきましょう。ここには、古代の慣習が反映されていると考えられています。古代社会では、男たちが戦いから帰ってくると、家で待っていた女性たちが太鼓やタンバリンを持って帰還する兵士たちを勝利の歌で出迎えたといいます。

 このミリアムの歌はわずか1節だけです。【21節】。モーセの歌の15章1節とほぼ同じです。【1節】。モーセの歌では「わたしは歌おう」と1人称単数ですが、ミリアムの歌では「あなたがたは歌え」と2人称複数の命令形になっています。モーセは自分が今経験し、見た、驚くべき神の奇跡を、わたしの神賛美として、わたしの信仰告白として歌っています。ミリアムの歌では、共に集まっている礼拝者が一緒になって神賛美を歌い、信仰告白へと参加するように招いています。

 ここには、神を賛美する讃美歌と、神への信仰の内容を告白する信仰告白が持っている二つの特徴があるように思います。すなわち、わたしたちが礼拝で讃美歌を歌い、また信仰告白を唱和することには、この二つの意味、役割があるということです。一つは、わたしの神賛美の歌を歌い、わたしの信仰を告白するということ、もう一つには、礼拝者一同が共にその賛美によって一つの群れとされ、その信仰告白によって、一つの信仰告白共同体とされるということ、この二つを常に意識してわたしたちは礼拝で讃美歌を歌い、また信仰告白を唱和するのです。

 では次に、モーセの歌の内容について学んでいきましょう。1節の「主は大いなる威光を現わし」と訳されている個所は、もとのヘブライ語を直訳すれば、「高々と高くなった」という意味で、「高い」という同じ意味の言葉が重ねられ、その高さが強調されています。いろんな翻訳が可能で、『口語訳聖書』は「輝かしくも勝利を得られた」と訳していました。これは、葦の海の奇跡で神がなし遂げられたエジプト軍に対する勝利のみわざを、具体的に表現した翻訳と言えますし、『新共同訳聖書』はそのような奇跡のみわざをなされた神の本質をとらえて、「大いなる威光を現わし」と訳したと思われます。最も新しい翻訳である『聖書協会共同訳』(2018年)では、「なんと偉大で、高く上げられる方」と訳しています。

 わたしたちはここで、創世記11章に書かれている「バベルの塔」の物語を思い起こします。古代の人々が発達した文明を誇り、レンガを高く積み上げて天にまで高く昇れば、自ら神のようになれると思ったとき、神は天からそれを見降ろされ、ご自身が天から降りてこられ、人間が積み上げた高い塔を崩され、人々を地に散らされたという物語です。人間がどんなに努力しても到達できない、はるかに高い天に神はおられるのです。そのように、神はすべてにおいて人間よりもはるかに高い所におられるのです。その力においても、その偉大さにおいても、その愛と恵みの大きさにおいても、その知恵においても、その栄光と誉れにおいても、神は人間のはるかに高いところにおられます。もちろん、エジプト王ファラオの権力やエジプト軍の破壊力や、また彼らの知恵よりも、神はすべてにおいて、はるかに高く、偉大であり、栄光に満ち、彼らのすべてのたくらみに対して勝利されるのです。

 2節以下には、神の特徴とそのお働きを意味する言葉である「力」「救い」「いくさびと」などの言葉が繰り返されています。6節には「あなたの右の手」、また7節には「大いなる威光」「あなたの怒り」、10節には「あなたの息」、11節では「聖」と「輝き」「ほむべき御業、くすしき御業」などの言葉が続きます。これらのすべての言葉が、イスラエルを救われた主なる神にこそ最もふさわしいものです。しかも、それらのすべてにおいて、神はエジプト王ファラオやエジプトの軍隊、そしてすべての人間よりもはるかに高く、強く、偉大であり、また永遠なるお方なのです。神はその偉大なるみ力によって、葦の海を二つに分けてイスラエルの民を安全に渡らせ、後を追ってきたエジプト軍の全部隊を、再び戻ってきた海の水の奥底へと沈めたのです。

 イスラエルの民は葦の海の奇跡によって、このような神の偉大な救いのみわざを体験しました。これから先、彼らは40年もの長い荒れ野での旅を続けなければなりませんが、神は常に変わらずそのような高きにいます偉大な神であり続けられ、イスラエルの民に必要なものすべてを備えてくださるで神であり続け、困難な道のすべてを終わりまで導いてくださり、約束の地カナンへと彼らを導き入れてくださるという、確かな約束を、彼らはこの葦の海の奇跡で受け取ることができたのです。そして、モーセはこの歌によって、その信仰を告白しているのです。

 わたしたちが信じ、礼拝している主イエス・キリストの父なる神は、ここでモーセが賛美しているイスラエルの神と同じ神です。わたしたちにとっても、わたしのすべての魂と心と思いとを尽くして賛美すべき神は、この神以外にはありません。わたしたち人間よりもはるかに高きところにおられ、はるかに大いなる力と威光とを持っておられ、はるかに強い、いくさ人として、わたしのために、わたしに代わって、すべての敵と戦ってくださり、ついにはすべての罪と悪とに勝利される神を、わたしたちもまた共に賛美し、ほめ称え、またこの神に信仰を告白するようにと招かれています。わたしたちもまた、「あなたがたは主に向かって歌え」とのミリアムの呼びかけに応えて、また、「主に向かってわたしは歌おう」とのモーセと声を合わせて、イスラエルの主なる神、主イエス・キリストの父なる神、いと高き天におられる神に向かって、賛美の歌を歌い続けるのです。

 11節からの歌の後半では、葦の海の奇跡を行われた神とはどのような神であるのかがより具体的に、歌われています。【11~13節】。11節の「神々の中に」とあるのは、主なる神以外に他の神々の存在を認めている、いわゆる多神教の考えを肯定しているような表現に聞こえるかもしれませんが、内容的には必ずしもそうではなく、「誰があるでしょうか」とは、「いや、だれもいない。どのような神も存在しない」という意味であり、「聖」という言葉も、他のものから区別するという意味を持ちますから、イスラエルの主なる神だけが聖なるまことの神であり、他のすべてのものは、神々と呼ばれることがあったとしても、それはまことの神ではなく、偶像に過ぎないということが言われています。

 13節は、神がイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から、子羊の血によって贖われたことを告白しています。「慈しみ」というヘブライ語は「ヘセド」という発音ですが、旧約聖書の至る箇所に頻繁に出てくる重要な言葉ですから、覚えておいてください。多くは「慈しみ」と訳されます。慈しみ、ヘセドとは、神とイスラエル、また神と人間との契約に基づく、永遠に変わらない神の愛を意味する言葉であると言われます。この神の慈しみは、み子主イエス・キリストをこの世に派遣され、み子の十字架の死と復活によって全人類の救いのみわざをなし遂げてくださるまで、変わりませんでした。また、世の終わりのみ国の完成に至るまでも変わりません。

 13節の「聖なる住まい」とは、約束の地カナンを指すと考えられます。14節以下のペリシテ、エドム、モアブなどは約束の地カナンにもともと住んでいた民族を指しますから、ここではすでにイスラエルの民が約束の地に到着することが暗示されていると言えます。葦の海の奇跡は、荒れ野の40年間の旅を安全に守り導かれるという神の保証であるだけでなく、カナンの地を与えるという神の約束の保証でもあったのです。

 最後に、紅海の奇跡の出来事は、旧約聖書においても新約聖書においても、イスラエルの出エジプトと並んで大きな出来事として、何度も繰り返して思い起こされ、歌われ、告白されてきました。その一部を読んでみましょう。最初は、【申命記11章4節】(298ページ)。次に【詩編136編13~15節】(977ページ)。新約聖書では【ヘブライ人への手紙11章29節】(356ページ)。出エジプトと紅海の奇跡を行われた主なる神、そして主イエス・キリストによって全人類の救いをなし遂げてくださった父なる神を、わたしたちは永遠にほめ歌い、告白していきましょう。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの慈しみは永遠であり、すべての人間たちの思いや行いをはるかに超えて、あなたはその救いのみわざを実現されます。わたしたちは唯一の主なる神であるあなたを誉め歌い、告白します。どうぞ、今この世界にあっても、あなたのみ心が行われますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

4月5日説教「主キリストの死と復活から始まる新しい命」

2026年4月5日(日) 復活日(イースター礼拝)

秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編16編1~11節

    コリントの信徒への手紙一15章12~20節

説教題:「主キリストの死と復活から始まる新しい命」

 きょうは主イエス・キリストの復活を記念する復活日、イースターです。教会で日曜日に礼拝がささげられるようになったのは、主イエスが復活された日が日曜日の朝であったので、それまではユダヤ人の安息日は土曜日でしたが、この日に変更されたということは知っておられると思います。いつからそうなったのかについては、正確な記録は見つかっていませんが、紀元30年ころに教会が誕生してから、そんなに期間を置かずに、日曜日の礼拝が定着したのではないかと推測されます。というのも、ヨハネ福音書の終わりの箇所に書かれているように、日曜日の朝に最初に墓で主イエスの復活の知らせを聞いた婦人に続いて、その日の夕方には弟子たちが集まっている場所に復活された主イエスがそのお姿を現わされ、そして1週間後の日曜日にも、また弟子たちの集まっていた場所に復活の主イエスが現れたということがあったからです。主イエスが復活されてから天に上られる昇天の日まで、40日間にわたって、主イエスは多くの弟子たちに復活のお姿を現わされました。その経験から、日曜日にはまた復活の主イエスにお会いできるであろうという期待、願い、信仰が自然に生じてきたことが、容易に推測できるからです。

 コリントの信徒への手紙一15章で、使徒パウロは初代教会の信仰告白を引用して、こう書いています。【3節b~8節】。主イエスの復活という出来事はこのような多くの、多種多様な証人たちの証言と信仰によって支えられ、証明され、証しされているのです。そして、それから2千年の世界の教会の歩みの中で、事実、多くの信仰者が、日曜日、主の日の礼拝の中で、復活された主イエス・キリストと、信仰によって、霊的な体験によって、生きた出会いを経験してきたのです。主イエス・キリストの復活はキリスト教信仰と教会誕生の土台であり基礎であると言えます。それだけでなく、主キリストの復活はわたしたちの信仰と教会の存在、そしてその命のすべてを支える土台であり基礎でもあります。

きょうの礼拝で朗読された14節にこのように書かれています。【14節】。また、【17節】。先ほど述べたように、キリスト教の信仰と教会の存在が主キリストの復活にその土台と基礎を持っているということが、ここではその反対側から語られています。それによって、その事実がより強調されているのです。すなわち、もし主キリストの復活がなければ、キリスト教の信仰も教会の誕生もあり得なかったではないか。しかし、今現在、コリントの町に教会が建てられ、あなたがた信仰者が存在し、そして主の日ごとに礼拝がささげられているという確かな現実をあなたがたは見ており、経験しているではないか。そうであるとすれば、いったい誰が、どのようにして、主キリストの復活なんてなかったなどと言うことができるであろうか。パウロはそのように言って、主キリストの復活の確かさを再確認しているのです。

 いつの時代でも、主イエスの復活を信じきれない、そんなことが実際にあったなどとは考えられないという意見を言う人がおります。主イエスの時代も、今日でも同様です。おそらくは、人間はみなそれほどに死に支配され、死の恐怖から逃れられないからでしょう。あるいは、死に敗北せざるを得ないからでしょう。32節にこのように書かれています。「もし、死者が復活しないとしたら……」【32節】。人間は誰も死に勝利することはできません。死の前では、諦めるか、無視するかしかできません。

 でも、パウロは15章の終わりで、ただお一人、死に勝利された主イエス・キリストを仰ぎ見ながら、このように勝利宣言をしています。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか……」【54~57節】。主イエス・キリストは十字架の死と三日目の復活によって、死のとげである罪に勝利されました。人間を死の中に閉じ込めていた罪を取り除き、神との生ける交わりを回復してくださったのです。そのようにして、主イエスを信じる信仰者たちにも勝利の約束をしてくださったのだと、パウロはこの復活の章と言われている15章を締めくくっています。そのようにして、主キリストの復活を信じきれないわたしたち人間に、復活信仰を持つことができるように、希望を与えてくださったのです。

 さて、パウロがこの手紙で取り上げている復活信仰をめぐる問題点のもう一つの課題は、12節に書かれてあるように、「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などないと言っている」こと、つまり、主キリストの復活は教会の信仰告白として受け継がれてきたのだから、そのことは信じるとしても、わたしたち人間が死んでから復活するということは信じられない、という人がコリントの教会の中にいたということです。

 この人たちがなぜ死者の復活を否定していたのかについては、いくつかの推測がなされています。この人たちは主イエス・キリストの十字架の死と復活を信じている信仰者ですから、彼らが信仰者の復活、人間の復活を信じないことには特別な理由があったと考えられます。その一つが、当時一般的であったギリシャ思想によって、霊魂不滅を信じていたという理由です。人間が死んで肉体は朽ちていくが、霊魂は永遠に生きるのだから、肉体の復活には重要な意味を見いだしていなかったからです。それが、哲学者プラトン以来のギリシャ思想の流れでした。キリスト教会にもそれが影響を与えました。

 死者の復活を否定したもう一つの理由として考えられているのが、初期のキリスト教会の中で起こった熱狂的な信仰運動で、今日グノーシス派と呼ばれている人たちの考えです。彼らは、洗礼を受けてキリスト者となったときに神の霊を受けて、神との深い霊的な交わりの中に招き入れられているので、すでにその時に復活が済んでいる。だから、終末の時の復活を期待する必要はないと考えていました。

 死者の復活を否定している彼らに対して、パウロはここで具体的な反論はしていません。パウロが彼らの考えが間違っている理由として挙げているのは、ただ一つ、主キリストご自身の復活の事実です。また、その主キリストの復活の事実が死者の復活と切り離しがたく、密接に結びついているということだけを語ります。【13節】。もし、死者の復活を否定するならば、主キリストご自身の復活をも否定することになるではないか、と。そうなれば、主キリストの復活を信じる信仰から始まったあなたがたの信仰生活と教会の存在は、何ら根拠のない偽りの証言によって始められたことになり、そのすべては全く空しくなってしまうのではないか、と。また、【14節】。そのようなことはあり得ないのだから、主キリストの復活を信じているあなたがたは、死者の復活をも信じる信仰へと招かれているのであり、それを信じるべきなのだ、と。

 わたしたちはここで死者の復活を否定していた理由として挙げた、ギリシャ思想の霊魂不滅の考えと、グノーシス派の復活はすでに済んだという考えの誤りについて少し考えてみたいと思います。この二つの考え方に共通している誤りは、そこでは人間の罪と死という事実が真剣にとらえられていないということです。人間の霊魂が永遠に生きるとか、神との直接的・霊的交わりによって永遠の命をすでに獲得しているという神秘的な考えは、人間の罪と死の現実を軽視させることになります。それは聖書の本来の教えではありませんし、キリスト教の正しい信仰でもありません。もし、彼らの考えのとおりだとするならば、なぜ天におられる神が人となられ、肉体をまとわれてこの世においでになられたのでしょうか。なぜ、神のみ子・主イエス・キリストが十字架で苦しまれ、血を流され、死なれたのでしょうか。それは、人間の罪のためであり、人間の罪に対する神の裁きとしての死を、罪なき神のみ子が経験されるためでした。主イエスはわたしたち人間の罪と取り組んで戦われ、わたしたちを罪の支配から救い出すために、十字架で苦しまれ、そして死なれたのです。ご自身の神のみ子としての尊い命をささげ尽くして、わたしたちの罪を贖ってくださったのです。罪の支配から買い戻してくださったのです。そして、主イエスは三日目に復活され、わたしたち人間の最後の最も恐るべき敵である罪と死に勝利されたのです。神のみ子である主イエス・キリストの十字架の死と復活こそが、ただそれのみが、わたしたちの罪と死の問題に正面から取り組み、文字どおりに命をかけて取り組み、またその解決と救いの道をわたしたちに与えるのです。

 では、どのようにして、主イエスの罪と死に対する勝利が、わたしたちの勝利となるのでしょうか。【20節】。旧約聖書のレビ記23章によれば、イスラエルの民は神の約束の地に到着して、春に大麦の収穫をするときに、その最初の穂を神にささげなさいと命じられています。初穂の祭りと言われます。それは、約束の地へと導かれ、その地を祝福して収穫をお与えくださった神に感謝するとともに、その初穂に続いて次々と豊かな収穫をお与えくださる神の約束を信じ、感謝するためです。初穂には、次の収穫が確かに続くという神の約束を伴っています。それと同じように、主キリストの復活には、わたしたち信仰者の復活がそれに続くという確かな約束を伴っているのです。

 パウロはその約束の実現の時について、23節以下で次のようにいます。【23~26節】。そのようにして、最後の敵である死が完全に滅ぼされるときに、主キリストの復活を信じる信仰者に主キリストと同じ勝利が与えられるのです。

 キリスト教信仰と教会の歩みは、主キリストの死と復活から始まっています。罪と死に対する主キリストの勝利から始まっています。わたしたちの信仰の歩みも同様です。それゆえに、わたしたちはどのような試練の時にも、苦しみや痛み、悲しみの中にあっても、そして死に臨んでも、決して希望を失うことなく、落胆することなく、神が約束しておられる終わりの日の勝利を目指して、歩み続けることができるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、主イエス・キリストの復活を記念するこの日の礼拝に、わたしたち一人一人をお招きくださいました幸いを心から感謝いたします。わたしたちの周辺には、あなたのみ心を痛めるような、さまざまな混乱や分断、争いがあり、悪と不正義が弱く貧しい人々を不安と困窮におとしいれています。主よどうか、この罪に支配されている世を憐れんでください。救ってください。主イエス・キリストの十字架と復活の福音が全世界に宣べ伝えられますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

3月29日説教「弟子たちの足を洗われた主イエス」

2026年3月29日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記12章1~14節

    ヨハネによる福音書13章1~20節

説教題:「弟子たちの足を洗われた主イエス」

 過越祭は旧約聖書の民イスラエルの最大の祭りでした。それは、信仰の民であるイスラエル誕生の原点であり、彼らの救いの原点でもありました。出エジプト記12章には、エジプトの地で奴隷であったイスラエルの民が主なる神の強いみ手によってそこから解放される夜に、最初に祝った過越祭について書かれています。イスラエルの民はそののち毎年同じ日に、同じようにして過越祭を祝ってきました。出エジプトの時代から1200年余りのちの主イエスの時代も同様でした。

 出エジプト記12章の定めによれば、イスラエルの新年、アビブの月、主イエスの時代にはニサンの月と言われていましたが、その月の14日の夕方に、子羊を屠り、家族ごとに集まってその肉を、苦菜やパン粉が入っていない固いパンと一緒に食べて、エジプトの奴隷の家から救い出されたことを覚え、神の救いのみわざに感謝するというのが過越祭の守り方でした。

 主イエスがエルサレムで地上の最後の1週間を歩まれた受難週が、ちょうどこの過越祭の時期であったと、福音書は語っています。それは単に、偶然時期が同じであったというのではなく、主なる神の永遠なる救いのご計画の中で、かつての出エジプトの出来事によってなされたイスラエルの民の救いのみわざが、主イエスのご受難と十字架の死によって、全世界のすべての人の救いのみわざとして成就されたということを、聖書は語っているのです。神がかつてイスラエルの民を奴隷の家エジプトから救い出されることによって始められたご自身の救いのみわざが、今や、ご自身のみ子である主イエス・キリストのご受難と十字架の死によって、わたしたちすべてを罪の奴隷からお救いくださる救いのみわざとして完成されたのです。

 新約聖書の4つの福音書は、主イエスのご受難と十字架の死が過越祭の時期であったこと、そして、過越祭で祝われていた神の救いのみわざが主イエス・キリストのご受難と十字架の死によって、その成就と完成に至ったという中心的なメッセージは一致していますが、その日付については、共観福音書とヨハネ福音書では1日のずれがあります。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)では、受難週の木曜日、ニサンの月14日の夕方、主イエスと弟子たちは共に集まり、過越の夕食を囲みました。その席で、主イエスはパンを取り、「これはあなたがたのために与えられるわたしの体である」と言われ、ぶどう酒を注いだ杯を取り、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約である」と言われました。それは、次の日のご自身の十字架の死を指し示していました。これが、のちの聖餐式の制定語となったのです。

 ところが、ヨハネ福音書13章1節には、「過越祭の前のことである」と書かれています。ここから17章の終わりまでは、主イエスと弟子たちの最後の夕食の席での主イエスの最後の長い説教が語られていますが、この中には過越の食事のことも、聖餐式の制定後にあたる言葉も書かれていません。実は、ヨハネ福音書では、翌日の金曜日、主イエスが十字架に付けられたその日が、ニサンの月の14日、子羊が屠られる日と考えられているのです。そのことから、ヨハネ福音書では主イエスご自身が過越しの小羊、世の罪と取り除く神の小羊(ヨハネ福音書1章29節)と呼ばれています。主イエスは過越しの小羊が屠られるまさにその同じ時刻、ニサンの月の14日、午後に、十字架でご自身の命をおささげになられ、人々の罪の贖いを成し遂げられたと、ヨハネ福音書は語っているのです。

 共観福音書とヨハネ福音書の1日の日付のずれがどうして生じたのかについては、分かっていませんが、それぞれの強調点の違いと理解すべきでしょう。いずれの福音書も、また新約聖書全体も、主イエスのご受難と十字架の死が、わたしたちを罪から救うという中心的なメッセージは全く変わりません。

 ヨハネ福音書13章に書かれている、主イエスが弟子たちの足を洗われたというこの行為も、同じメッセージをわたしたちに語っているということを、まず確認しておきましょう。主イエスが弟子たちの足を洗われたことをまねて、司祭や教師が教会員の足を洗うという、いわゆる「洗足式」をこの日に儀式として行っている一部の教派があるようですが、わたしたちはこの出来事を主イエスによる罪のゆるし、罪の贖い、罪からの清めという、あくまでも主イエスご自身の救いのみわざとして理解すべきであると考えます。

1節から読んでいきましょう。「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り」と書かれています。ここにはヨハネ福音書の特徴がよく表現されています。ヨハネ福音書では、主イエスのご受難と十字架の死は、それに続く三日目の復活、更に40日後の召天、そして50日目のペンテコステ・聖霊降臨、これらのすべてが一続きの出来事であり、神のみ子である主イエスがご栄光を受ける時であり、救いが完成される時であり、天の父なる神のみもとへの凱旋帰国であると考えられているのです。そして、主イエスは神のみ子として、ご自身の最後の目的に向かって、自覚的に、喜んで、進んで行かれるのです。それはまさに、「御自分の時が来た」ということなのです。

ここから主イエスの受難物語が始まりますが、その内容は共観福音書とほとんど同じです。主イエスは弟子のユダに裏切られ、弟子のリーダーであるペトロによって3度も「あの人は知らない」と拒絶され、この世の指導者たちによって裁かれ、すべてのユダヤ人から見捨てられ、民衆からはののしられて、ただお一人でご受難と屈辱と悲惨で非業な十字架での死を遂げられる主イエスのお姿がそこで描かれています。しかしヨハネ福音書は、そこに神のみ子主イエス・キリストのご栄光と勝利とを見ているのです。

2節と11節には、12弟子のひとり、イスカリオテのユダの裏切りについて書かれていますが、このユダの裏切りをも含めて、ペトロの拒絶、この世の支配者たちによる偽りの裁判、民衆の「十字架につけよ」という叫び、それらのすべての人間の罪の中で、それらの人間たちの罪を貫き、それをはるかに超えて、神の救いのみわざが成し遂げられていくのであり、主イエスはその父なる神が定められた道を決然としてお進みになるのです。

13章1節をさらに読み進むと、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と書かれています。「この上なく愛し抜かれた」という個所は、「最後に至るまで、極みまで、完成に至るまで、愛された」という意味を持ちます。ここから、いくつかの深い意味を読み取ることができます。第一には、文字どおり、最後に至るまで、主イエスのご生涯の初めから、弟子たちをお選びになられたその時から、目の前に迫っている十字架の死に至るまで、ご自身の命をかけて、ご自身の命のすべてを注ぎ込んで、弟子たちを、またわたしたちを愛されたという意味です。これが、主イエスのわたしたちに対する愛です。

第二には、愛の極みまで、愛の最高の高さ、深さ、真剣さを強調する意味です。聖書は至る所でこのような主イエスの愛、父なる神の愛について語っています。ローマの信徒への手紙8章にはこう書かれています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜わらないはずがありましょうか。……艱難であれ、迫害であれ、死であれ、どんなものであっても、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(8章31~39節参照)。また、ヨハネ福音書3章16節にはこうあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。これが神の最高の愛であり、主イエス・キリストの愛の極みです。これこそが、唯一愛の名に値する真実の愛です。それゆえに、「神は愛である」(ヨハネの第一の手紙4章16節)と言われます。

第三の意味として、最後の完成に至る愛、その本来の目的に到達した愛ということです。主イエスのご受難と十字架の死は、わたしたち罪びとに対する主イエスの愛の最後の目的地です。わたしたちに対する主イエスの愛の完成です。それゆえに、それがわたしたちをすべての罪から贖い、解放し、救う力を持つのです。主イエスの十字架による愛がわたしたちを罪から救うのです。他の何ものによっても、他のどのような方法によってもゆるされることがないわたしたちの罪が、このようにして、完全に贖われ、ゆるされ、わたしたちは罪と死と滅びとから解放されているのです。

以上のような主イエスの特別な愛と救いのみわざとして、ご受難と十字架の死があります。したがってまた、そのような特別な愛と救いのみわざとしての主イエスが弟子たちの足を洗われたという洗足の行為があります。ここから離れて、主イエスのこの行為を単なる謙遜とか、安っぽい隣人愛、奉仕として理解することはできませんし、すべきではありません。

【3~6節】。3節でも1節と同様に、主イエスの誕生からご受難、十字架の死、復活、昇天、聖霊降臨までが一続きの父なる神の救いのみわざであることが強調されています。主イエスはその父なる神のみ心に忠実に服従され、父なる神から託された救いのみわざを成し遂げられるために、弟子たちの足を洗われたことがここでも明らかにされています。ここで特に重要なポイントは、父なる神から託された救いのみわざを、主イエスはご受難と十字架の死によって成し遂げられようとしておられることです。そして、それゆえにまた、神からすべての権限を委託された神のみ子であられる主イエスが、奴隷のようになられ、弟子たちの足を洗われることによって、その神から託された権限を果たそうとしておられるのです。

ここには、神のみ子の完全なる自己否定、自己犠牲があります。人間社会の中で見られる、少しばかり身を低くして謙遜になって他者に仕えるというような教えや模範行為というのではなく、ご自身の命のすべてを注ぎだされ、神のみ子としての権威や栄光のすべてを投げ捨てられ、まさに奴隷となって罪びとにお仕えくださる主イエスの完全なる自己放棄があるのです。それによって、わたしたちの罪がゆるされているのです。その罪のゆるしがあって初めて、わたしたちもまた互いに仕え合う愛の奉仕へと招かれているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが独り子主イエス・キリストをご受難と十字架の死に引き渡されるほどに、わたしたち罪びとを愛してくださったことを覚え、深い感謝をささげます。あなたの大きな愛によって罪ゆるされているという救いの恵みに応える愛の心をわたしたちにお与えください。互いに許し合い、愛し合うことによって、あなたのご栄光を現わすことができますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。