2026年5月31日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:イザヤ書40章27~31節
ルカによる福音書12章22~34節
説教題:「小さな群れよ、恐れるな。神の国はあなたがたに与えられる」
ルカによる福音書12章22節以下で、主イエスはわたしたち人間を日々の思い煩いから解放するために、「空の鳥を見よ」「野の花を見よ」と言われます。人間は、何としばしば、毎日毎日、きょうは何を食べようか、何を着ようかなどと、この世のさまざまなことで思い悩み、思い煩うことことか。主イエスはそのようなわたしたちの果てしない欲望や願い、あるいは迷いや不安をご存じです。わたしの心がいくつにも分裂して、この世の過ぎ去り行くものに縛り付けられ、ついには永遠なるものを見失い、神を見失っている現実を、主イエスは知っておられます。
そこで、主イエスはわたしたち目を、まず初めに、わたしの肉の目で見ることができる空の鳥や野の花へと向けさせます。それは、誰にでもできます。いつも身近に見ています。そして、そこから、空の鳥や野の花を日々に養い、美しく装ってくださる、造り主なる神へと、わたしたちの信仰の目を向けさせるのです。種を蒔くことも刈り取ることもしない空の鳥、また、紡ぎもせず糸を織ることもしない野の花。彼らをも日々に必要なものすべてを備えてくださる神。そして、その神は、あの空の鳥や野の花よりも、何十倍も、いや何万倍もの大きな愛をもって人間を創造された神。今もなお、その偉大なる愛によって守り導いておられる神。その神へとわたしたちの信仰の目を向けさせるのです。そのような神がいますのであるから、その神があなたにとって必要なものを日々に備えてくださらないことなどあるだろうか、と主イエスは言われるのです。そのようにして、主イエスはわたしたちをすべての思い悩み、思い煩いから解放してくださり、わたしたちの信仰の目を父なる神へと向けさせてくださるのです。
28節以下で主イエスはこのように言われます。【28~30節】。「異邦人」とは、神に選ばれた信仰の民であるイスラエル、ユダヤ人以外の、信仰を持っていない諸国民、神を知らない人々を指しています。神を知らない人は、神がどれほどに人間一人一人を愛しておられるかを知りませんし、神が天地万物を創造され、人間をご自身のかたちに似せて、被造物の冠として創造されたことも知りません。ですから、彼らは神のご配慮を信じることができずに、すべてを自分の力で手に入れなければならないと考えて、毎日あくせくと動き回り、自分の欲望がかなえられなければ、思い悩み、不安になるのです。
けれども、主イエスは言われます。「あなたがたは父なる神を知っているではないか。その神は、あなたがたに必要なものが何かを知っていてくださるではないか。あなたがたが本当は必要でないものまでも追い求めて心を煩わしているときに、あなたがたの父であられる神は、子どもであるあなたがたに今何が必要であるのかを最もよく知っておられるので、それを与えてくださらないはずがないではないか」と。
30節の言葉でもう一つ注目したいのは、神が「あなたがたの父」と言われている個所です。神を「わたしの父、わたしたちの父」と呼ぶことは、旧約聖書では非常にまれでした。というのは、イスラエルの信仰においては、神はいと高き天におられる神であり、すべての造られたもの、被造物のはるか上に君臨しておられる絶対的な存在ですから、その神を人間の親子の関係で表現することは神の尊厳を損なうことになりかねないので、イスラエルでは避けられていました。
新約聖書になってから、神を人間の親子関係と同じように、「父なる神」と呼ぶようになったのは、言うまでもなく、主イエスが神をご自分の父と呼ばれたからです。事実、主イエスは父なる神の御ひとり子であられます。すでにわたしたちが読んだ箇所ですが、10章21節以下を改めて読んでみましょう。【21~22節】(126ページ)。主イエスはここではっきりと神をご自身の父と呼ばれ、父であられる神が主イエスにその父のみ心をすべて明らかにされたと言っておられます。神のひとり子であられる主イエスによって、わたしたちもまた神を「天におられるわたしたちの父なる神よ」と、親しく呼びかけることが許されているのです。
主イエスがきょうの箇所で「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」と言われたことの深い意味を、ここでわたしたちは気づかされます。主イエスによってわたしたちの父となってくださった神は、わたしたちに今最も必要なものが何であるのかを知っておられ、またそれをお与えくださる神なのだということです。わたしたちをこの世のすべての思い煩いから解放してくださり、まことの喜びと平安をお与えくださる神は、わたしたちを罪の奴隷からお救いくださるために、ご自身のひとり子であられる主イエスをご受難と十字架への道へとお導きになられたということを、わたしたちはここで気づかされるのです。
わたしたち人間がまだ自らの罪に気づかずにいたときに、罪と戦うこともなく、罪から救われたいと願うことすらまだしていなかった時、いやむしろ、罪の中に安住し、自ら気づかずに死と滅びへと向かっていたときに、父なる神はわたしたちを罪から救い出すために、ひとり子なる主イエスをこの世にお遣わしくださり、主イエスの十字架の死によってわたしたちを罪の奴隷から解放してくださったのです。それによって、わたしたちの罪がゆるされること、そして神との交わりが回復されること、わたしたちが神の子どもたちをされること、神から与えられる永遠の命に生かされること。それこそが、わたしたち人間にとって今最も必要なことであるということを、わたしたちの父であられる神が知っておられ、そのことを実現されるために、み子主イエスをわたしたちのためにお遣わしくださったのです。パウロはローマの信徒への手紙8章でこのように言います。「ご自身のひとり子さえも惜しまずにわたしたちの罪の贖いのための供え物としてお与えくださった神が、み子のみならず、万物をも賜らないはずがあろうか」(8章32節参照)と。
そこで、主イエスは続けて31節でこのように言われます。【31節】。「神の国」とは、主なる神が唯一の王として支配しておられる王国を言います。主イエスが宣教された福音は「神の国の福音」と言われます。罪が支配し、人間の邪悪や悪の霊が満ちているこの世界に、今や神のみ子が来てくださり、十字架への道を進んでおられるこの時に、神の新しいご支配が始まった。神の愛と恵みによるご支配が始まった。だから、人は皆、自分の罪を悔い改めて、主なる神に立ち帰りなさい。これが、主イエスが語られた神の国の福音です。
主イエス・キリストの十字架と復活を信じるわたしたちキリスト者にとっては、神の国、神の愛と恵みのご支配はすでに始まっています。主イエスが十字架の死と復活によって、罪と死とに勝利しておられることを信じているからです。この神の国の福音を信じているわたしたちにとっては、パウロが語っているように、み子だけでなく、万物がすでに与えられているのです。
主イエスは32節でこのように続けます。【32節】。31節と32節は似たような構文になっています。まず、主イエスの命令文があり、そのあとに主イエスの約束が語られています。「神の国を求めよ」。「そうすれば、これらは与えられる」。「恐れるな」。「なぜなら、あなたがたの父は喜んで神の国をお与えくださる」。このように、主イエスがわたしたちに何かをお命じになるときには、いつもその命令には大きな恵みの約束が伴っています。主イエスは言われます。「求めよ」。「そうすれば、与えられる」。「探せ」。「そうすれば、見いだす」。「門をたたけ」。「そうすれば、開けてもらえる」。「祈れ」。「そうすれば、あなたの願いは聞かれる」。「悔い改めよ」。「そうすれば、神があなたの方に近づいてきてくださる」。「信じよ」。「そうすれば、救われる」。そのように、わたしたちが主イエスの言葉に聞き従う時、それは決して空しく終わることはありません。豊かな救いの約束を伴っているからです。
31節と32節のもう一つの関連は、31節で「神の国を求めなさい」と命じられており、32節では「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」という約束が語られています。わたしたちが神の国を求めることができるのは、わたしたちに神の国を与えようとされる父なる神の強い意志があるからであり、み心があるからなのです。わたしたちが、何よりもまず第一に、神の国を求めなさいと命じられているのは、このような神のみ心があるからなのです。
主イエスは弟子たちに「小さな群れよ、恐れるな」と呼びかけておられます。主イエスの弟子たちは選ばれた12人と、あと少しの仲間でした。主イエスに反対する勢力であるユダヤ人指導者たち、ファリサイ派、サドカイ派、またヘロデ王家の数に比べれば、本当に小さな群れでしかありませんでした。あるいはまた、当時世界を支配していたローマ帝国と比較するならば、大海に浮かぶ小さな木の葉にすぎませんでした。けれども、主イエスはそのような小さな群れにこそ、神の国をお与えになると言われるのです。なぜならば、彼らが主イエスの福音を信じ、神の愛と恵みのご支配を信じているからです。それゆえにまた、彼らは小さな群れではあっても、この世のどのように大きな権力であろうとも決して恐れるには及びません。天におられる主なる神が彼らの王であるからです。
最後に、主イエスは33節以下でこのように言われます。【33~34節】。主イエスはわたしたちの目と心とを天に向けさせます。この地上の過ぎ去り行くものに目と心とを奪われ、あれも欲しい、これも手に入れようと、毎日思い煩っているわたしの目と心とを、地上のものから離して、父なる神がいましたもう天へと向けさせます。天にこそ、朽ちることのない永遠の宝が備えられているからです。
きょうの主イエスの説教の前半、22節から語られていた内容と、終わりの部分31節以下で語られている内容とを比較してみてください。前半では、わたしたち人間が自分の命のことや体のことで、あれもこれも手に入れようと思い煩っていた様子が語られていました。ところが、わたしたちが主イエス・キリストによって罪ゆるされ、神の国の民として招かれていることを知らされてからは、わたしが持っているものを喜んで隣人に分かち与えるように変えられていくことが語られています。神の国の福音に生きる人、主イエスの十字架の福音に生きる人は、そのようにして、すべての思い煩いから解放されます。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、あなたが御ひとり子をわたしたちにお与えくださるほどに、わたしたち人間を愛してくださったことを覚え、心から感謝いたします。どうか、わたしたちの目と心とを、あなたがいます天へと向けさせてください。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
