2025年4月13日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
棕櫚の主日(受難週)
聖 書:詩編98編1~9節
ルカによる福音書19章28~44節
説教題:「ロバに乗ってエルサレムに入場された平和の王」
ルカ福音書19章28節にこのように書かれています。【28節】。主イエスのエルサレムへの最後の旅は、いよいよ終わりに近づきました。主イエスの地上の歩みの最後の1週間が、ここから始まります。それは、教会の暦で言えば、受難週の始まりです。主イエスは受難週の日曜日に、ろばに乗ってエルサレムに入場されました。それから、ほとんど毎日エルサレム神殿とその近くで説教されました。木曜日の夕方、弟子たちと一緒に過ぎ越しの食事をされ、その夜はゲツセマネの園で徹夜の祈りをされ、金曜日の朝方ユダヤの役人たちによって捕らえられ、裁判を受け、十字架につけられ、午後3時ころに十字架の上で息を引き取られました。その日のうちに墓に葬られ、翌日の安息日を挟んで3日目の日曜日の朝早くに、墓から復活されました。これが、主イエスの受難週から復活に至る1週間の歩みです。
そのような主イエスの歩みを思いながら、28節の「先に立って進み、エルサレムに上って行かれた」というみ言葉を読むとき、ここに深い意味が込められていることに気づくのです。主イエスはご自身の受難と十字架への道を、これまでにもそうであったように、エルサレムに近づいていよいよ確かな決意をもって、弟子たちの先頭に立って進み行かれるのです。弟子たちだけでなく、わたしたちすべての人間の先頭に立って進み行かれるのです。なぜならば、ただお一人、神のみ子であり、また人の子となられた主イエスだけが、わたしたちの罪をゆるすことがお出来になるからであり、主イエスの十字架の死だけがわたしたち人間の罪を完全に贖うことができるからです。
この世の人のうち、いったいだれが他の人のために自ら進んで苦難と十字架への道を選び取ろうとするでしょうか。人々の先頭に立ちたいと願う人はたくさんいるでしょう。多くの人は、列の先頭に立ちたい、だれよりも先に進みたいと願って、競い合っています。他の人よりも大きな名誉を得ようと、競争し合っています。けれども、困難な道、険しい道、屈辱と苦難の道では、だれも先頭に立ちたいとは願いません。ましてや、自分のためではなく、他の人のための苦難の道だとすれば、なおさらに、だれもがそれを避けたいと思うに違いありません。
しかし、主イエスはそうではありませんでした。ご自身が進んで、強い決意をもって、そしてまた喜びつつ、ご受難と十字架への道を、先頭に立って進み行かれたのです。そして、わたしたちの罪のために、わたしたちをすべての罪から贖いだすために、ご自身の罪も汚れもない、神のみ子としての尊い血を流され、その命をおささげになったのです。ここにこそ、わたしたちを罪から救う主イエスの大きな愛があり、それゆえにまた、わたしたちのすべての罪をゆるし、神との豊かな交わりへと導く命と力があるのです。
ご受難と十字架の死への道を先頭に立って進み行かれて主イエスは、また、わたしたち一人一人の人生の歩みの先頭に立って導いてくださいます。わたしたちが時として道に迷い、不安や恐れに襲われるとき、試練や困難に出合い悩むとき、大きな壁に突き当たって一歩も前に進めなくなるとき、主イエスはわたしの先頭に立って、わたしのために道を切り開いてくださり、最も良い道を備えてくださいます。わたしたちはどのような時にも、先頭に立って進み行かれる主イエスに従い、信頼して、わたしのすべてをお委ねすることができます。
さて、主イエスはエルサレムに入場される際に、ろばの子にお乗りになりました。普通、王が戦いに勝利して凱旋帰国するするときや、新しい王が即位する式では、立派な軍馬にまたがって入場行進するのですが、この時の主イエスは軍馬ではなく、ろばの子に乗ってエルサレムに入られました。エルサレムは敵からの攻撃に備えて周囲を高い壁で囲まれていましたから、あたかも城の城壁のようなので、エルサレム市街に入るときには入場という表現を用います。
主イエスはなぜ軍馬ではなくロバの子に乗ってエルサレムに入場されたのでしょうか。マタイ福音書21章4節には、それは旧約聖書の預言が成就されるためであったと書かれています。その預言の箇所を読んでみましょう。【ゼカリヤ書9章9~11節】(1489ページ)。ここに預言されている王は、柔和で謙遜な王であり、戦いのために武器をもって軍馬にまたがる王ではなく、むしろ戦いのための戦車や武器をすべて投げ捨てて、もはや戦いのことを学ぶことのない真の平和をもたらす王であり、そして永遠の契約を守り実行するために、捕らわれていた人々を解放する王であると言われています。主イエスはまさにそのような柔和で謙遜な王として、平和の王として、救いの王として、この受難週の日曜日に、エルサレムに入場されたのです。
当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にありました。エルサレムの住民の多くは、神の民であるユダヤ人が異邦人ローマの支配から解放されて、自由の民となることを願っていました。一部の人たちは、武器を持ってでも、ローマの支配に立ち向かう、勇敢で英雄的な王を期待していました。そのような王ならば、たくましい軍馬に乗ってエルサレムに入場されるかもしれません。あるいはまた、支配者階級にある指導者たちの多くは、強大なローマと戦っても勝ち目がないので、その支配に甘んじ、抵抗しないで、今の状態の平和を選び取るべきだと考えていました。だれかがローマの支配に抵抗して暴動を起こしたら、かえってローマ政府の締め付けが厳しくなることを恐れてもいました。そのような状況の中で、主イエスはエルサレムに入場されたのです。
37節で、「弟子たちの群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた」と書かれてあり、それに続いて38節では詩編118編26節のみ言葉から、【38節】と書かれてありますが、この賛美がロバの子に乗られた主イエスのことを正しく理解したうえでの賛美であったのかどうかについては、いくつかの解釈が可能です。
一つには、この弟子の群れは、12弟子をも含んで、ガリラヤ地方から主イエスと共に過ぎ越しの祭りを祝うためにエルサレムに上って来た人々全体を指しているようですが、彼らは主イエスの驚くべき奇跡のみわざを多く見ていましたので、主イエスこそが神がイスラエルの救いのためにお遣わしになったメシア・救い主であると信じて、その救いのみわざがこれからエルサレムで完成されるのではないかという期待をもって、主イエスのエルサレム入場を歓迎していると理解することができます。
また、39節では、ファリサイ派の人たちがその群衆の歓声を抑えようとしたことが書かれていますが、彼らは群衆が騒ぎを起こして暴動にでも発展したら、ローマ政府からより厳しく弾圧されるかもしれないと恐れていたと思われます。もしそうなれば、自分たちの宗教活動が自由にできなくなるからです。
あるいはまた、他の福音書を読むと、エルサレムの住民の多くが主イエスをローマの支配から解放してくれる政治的メシアと理解して、熱狂的に歓迎していたことが分かります。
以上のように、ガリラヤ地方から主イエスについてきた弟子たちと、ファリサ派に代表されるイスラエルの宗教指導者たちと、そしてローマからの解放を期待する民衆と、三者三様に、主イエスのエルサレム入場を理解していたと推測されます。
けれども、結論的に言えば、彼らのだれも、主イエスのご受難と十字架の死をあらかじめ予想してはいなかったし、彼らのだれも、主イエスのご受難と十字架の死を正しく受け止めることができなかった、その意味を正しく理解できてはいなかったということが、このあと福音書を読み進んでいけば明らかになるのです。したがって、ここでも、だれ一人として、主イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入場されたことの本当の意味を理解してはいなかったのだと言わなければなりません。主イエスは確かに、12弟子たちからも見捨てられ、ユダヤ人指導者たちからは神を冒涜する者だと訴えられ、民衆からは、メシアならまず自分自身を十字架刑から救い出してみよ、そうしたら信じようと侮られ、すべての人に見捨てられ、ただお一人でご受難と十字架への道を進み行かれたのです。そして、父かる神のみ心に従順に従い、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に服従され、それによって父なる神の救いのみ心を完全に成し遂げられたのです。
主イエスはご自身が乗るろばの子を、ご自身で用意されました。30節から34節には、不思議なことが書かれています。主イエスが二人の弟子たちに、向こうの村に行ってロバの子を連れてくるようにとお命じになりました。顔見知りとは思えない人に、「主がお入り用なのです」と言えば、その人はそのろばの子を提供してくれるからと言われました。そして、実際にそのようになりました。ある人は、主イエスがあらかじめその人と打ち合わせをしておられたと考えます。でも、そうだとすれば、そのことをなぜ弟子たちに話さなかったのか疑問が残ります。主イエスはその人が知り合いかどうかということは全く問題にしておられません。
「主イエスが言われる。『主がお入り用なのです』」。このことだけが重要なのです。主イエスはご自身に託された神の権威と主権をもって、ご自分が乗られるロバの子を選ばれたのです。そこには、柔和と謙遜によってこの世界にまことの平和をもたらすために、十字架の死に至るまでご自身を低くされ、貧しくされ、卑しくされる道を選ばれた主イエスの固い決意が表されているように思われます。まだだれをも乗せたことのないロバの子が、ご受難と十字架の道を進まれる主イエスを初めて乗せるために用いられます。
主イエスは平和の王として、ろばの子に乗って、この受難週にわたしたちのところにおいでくださいました。ご受難と十字架の主として、わたしたちのところにおいでくださいました。それは、神とわたしたち人間との間の、まことの平和、永遠の平和をもたらすためです。神が永遠にわたしたち人間と共にいてくださることによって与えられる平和、神との豊かな交わりの中に招き入れられている平和、平安、祝福を、わたしたち一人一人に与えるためです。この神と間の平和こそが、わたしたちの日々の生活全体の平和の基礎であり、この社会と国家、また全世界のまことの平和の基礎でもあるのです。
(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ、み子主イエス・キリストのご受難を思い、自らの深い罪をみ前に告白するとともに、あなたがみ子の血によってわたしたちのすべての罪をおゆるしくださいましたことを、大きな喜びと感謝とをもって信じ、告白いたします。願わくは、主よ、あなたの大いなる愛とゆるしの福音が、罪と分断と争いに覆われ、闇に閉ざされているこの世界に、まことの光と平和をもたらしますように、切に祈ります。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。