9月28日説教「エルサレム使徒会議でのヤコブの証言」

2025年9月28(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:アモス書9章11~15節

    使徒言行録15章11~15節

説教題:「エルサレム使徒会議でのヤコブの証言」

 紀元48年、あるいは49年に開催されたエルサレム使徒会議は、世界最初の教会会議でした。初代教会の中で大きな問題であったユダヤ人キリスト者とユダヤ人以外の異邦人キリスト者との間にあった対立や信仰理解の違いが、この会議によって、両者が共通の理解を深め、一致を見いだし、初代教会のさらなる成長と発展のために大きな貢献をする役割を果たしたのでした。

 このエルサレム使徒会議は、古代・中世から今日に至るまでの世界教会会議の原点となりました。世界の教会はそれぞれの時代の異端的な間違った教えを排除し、また教会の共通の課題に取り組むために、世界教会会議(あるいは公会議とも言われますが)を開催し、会議によって問題を解決し、新たな課題に一致して取り組むということを続けてきました。第一回世界教会会議として今日位置づけられているのは紀元325年のニカイア会議です。第2回は381年のコンスタンティノープル会議、第3回が431年のエフェソ会議、第4回が451年のカルケドン会議などが重要です。これらの教会会議によって、今日わたしたちが一般に信じている、主キリストはまことの神であり同時にまことの人であるとか三位一体論とかのキリスト教の基本的な教理が確立されたのです。エルサレム使徒会議はその原点です。

 エルサレム使徒会議で取り上げられた問題は、15章1節に書かれていました。エルサレム教会に属するユダヤ人キリスト者は、もともとはユダヤ教で、神に選ばれた契約のしるしとして男子はみな割礼を受けていました。しかし、ユダヤ人ではない異邦人、ギリシャ人でキリスト者になった人たちは割礼を受けていませんし、ユダヤ人が古くから大切にしてきた律法の教えや慣習も知りません。そこで、エルサレム教会からやって来たユダヤ人キリスト者がアンティオキア教会のギリシャ人キリスト者に対して、「あなたがたも割礼を受けなければ救われない」と主張したことから、両者の間で激しい議論に発展し、その問題を解決するために両者がエルサレム教会に集まって会議を開くことになったというわけです。

 会議では、まずアンティオキア教会の議員であるパウロとバルナバが第一回世界伝道旅行で多くの異邦人・ギリシャ人が主イエス・キリストの福音を信じて救われたことを報告しました。しかし、それに対してエルサレム教会の議員であるユダヤ教ファリサ派からキリスト者になった人たちが、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と主張したと、5節に書かれていました。次に発言したのがエルサレム教会の指導者であるペトロでした。ペトロはかつて彼自身が経験した異邦人であるコルネリウス一族の回心の出来事(10章の詳しく書かれていた)を思い起こしながら、神は異邦人にもユダヤ人と同じように聖霊を注いで救いの道を開かれたことを証言しました。ペトロの証言の結論は11節に書かれています。【11節】。

 このペトロの発言によって、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との間の激しい議論に終止符が打たれることになりました。12節にこう書かれています。【12節】。ペトロは当時エルサレム教会の指導的立場にありましたから、そのペトロの発言の重さは確かにあったと思われますが、これまでの対立と激しい議論に終止符を打つことになった要因は、発言者がペトロであったからというよりは、その発言の内容そのものであったと言うべきでしょう。天の父なる神が主イエス・キリストによって、ユダヤ人だけでなく異邦人をも、全世界のすべての人の救いのみわざを、今この時になしてくださった。人間の側の何らかの功績やわざによらず、神の側から差し出された一方的な恵みによって、すべての人をまことの救いへとお招きくださっておられる。その恵みの事実こそが、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の間の論争を終わらせたのです。

 ペトロの発言に続いて、アンティオキア教会からの議員であるバルナバとパウロが再び発言します。その内容については詳しく紹介されていませんが、わたしたちがすでに学んできた13章から14章に書かれていた第一回世界伝道旅行での数々の伝道の成果についてでした。しかし、それはパウロたちの業績では全くなく、ここでの主語は神です。「自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業」のことです。人間の側の割礼なしに、律法の行いなしに、ただ一方的に神の側から差し出された救いの恵みによって、異邦人もまた救いへと招き入れられたのです。すべては神のみわざです。

 次に、エルサレム教会の長老ヤコブが13節から発言します。あとで、19節以下の箇所で、会議のまとめのような発言をしていますので、このヤコブが会議の議長を務めていたと推測されています。

 ヤコブは主イエスの肉親の兄弟です。マルコによる福音書6章3節によれば、主イエスにはヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの4人の兄弟と姉妹も何人かいたと書かれています。また、使徒言行録1章14節によれば、主イエスの十字架のあと、主イエスの母マリアと兄弟たちが12弟子の群れに加わって、一緒に祈りながら、ペンテコステの日に聖霊が注がれるのを待っていたと書かれています。彼らは主イエスの十字架の死後になって、主イエスを救い主と信じる信仰へと導かれたのでした。そして、ヤコブはエルサレム教会の長老に選ばれ、ペトロのあとに教会の指導者となりました。神はこのようにして、主イエスの肉親である母マリアや兄弟たちにとってはおそらく耐え難い不幸でしかなかったであろう、長男であった主イエスの十字架の死という悲惨な出来事の中で、その悲劇の主人公であったマリアと兄弟たちをも、不思議な導きによって救いへと招き入れてくださり、エルサレム教会のよき働き人としてお用いになったという、驚くべき大きな救いの恵みを、わたしたちはここに見るのです。

 ヤコブの発言を聞きましょう。【13~14節】。シメオンとは、シモン・ペトロのエルサレム教会での呼び名でした。ヤコブはパウロの書簡から推測すれば、ずいぶんとユダヤ教的な古い伝統に縛られていた人であったと考えられていますが、そのヤコブであっても、ペトロが語ったコルネリウス一族がキリスト者となったという出来事の意味を認めないわけにはいきませんでした。さらに、彼は旧約聖書を引用して、そのように神の福音がユダヤ人から異邦人へと広げられていくことは、神が古くから預言者たちによって語っておられたことであるとつけ加えています。

 16節~18節は、旧約聖書アモス書9章11~12節およびイザヤ書45章21節のみ言葉です。【16~18節】。アモスは紀元前8世紀の預言者でした。彼はイスラエル王国がその罪のゆえに神の裁きを受けてやがて滅ぼされるであろうと預言しました。しかしまた同時に、アモスは神がそののち、ダビデ王国を回復し、残りの者たちを集め、それに異邦人をも増し加えて、新しい神の民として再建してくださると預言しました。ヤコブの理解によれば、ここで預言されているように、イスラエル・ダビデ王国の回復と異邦人も神の民に増し加えられるであろうというこの預言は、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって成就したのだと言うのです。その神の全世界的な救いのみわざが、ペトロやパウロたち、また初代教会の宣教活動によって現実となって実現したのだと言うのです。しかも、そのことは神が天地万物を創造された初めの時から、神の永遠なるご計画であったのだとヤコブは語ります。旧約聖書で預言されていたことはすべて新約聖書において、主イエス・キリストによって、成就されたのです。

 神は初めにイスラエルの民をお選びになり、この民をとおして救いのみわざをなさいました。イスラエルの罪と背きによってイスラエル王国は滅びましたが、神はその切り株から新しい芽を生え出ださせ、一人のメシア・キリスト・救い主として、主イエス・キリストをお送りくださいました。この主キリストは罪なき神のみ子であられたにもかかわらず、すべての人の罪を担われ、すべての人の死の裁きをご自身で担われ、十字架で死んでくださいました。それによって、神はわたしたちすべての人の罪をおゆるしくださったのです。ユダヤ人だけでなく、異邦人も、全世界のすべての人の罪が、神のみ子の十字架の死によって贖われ、ゆるされています。

 そこで、会議の議長であるヤコブは19節でこのように結論づけます。【19節】。ユダヤ人キリスト者からなるエルサレム教会の指導者であったペトロの発言と同じように、ヤコブもまた、異邦人教会の指導者パウロとバルナバの主張を認め、異邦人の律法の重荷からの解放を宣言し、割礼の義務からも自由にしたのです。ユダヤ人も異邦人も、一方的に差し出された神の救いの恵みによって、その救いを信じる信仰によって救われるということを結論づけました。このエルサレム教会で決められたことは、今日全世界の教会での一致した理解になっています。

 20節以下に付則として追加されている決議については、なぜこれが付け加えられたのか、よくわかっていません。律法と割礼の義務から解放した異邦人に対して、なぜこのような規定が必要だったのか。ある意味で、これはパウロたち異邦人教会側がエルサレム教会に妥協したとも受け取れます。ユダヤ人は偶像礼拝を厳しく戒め、また血の中には命があって、その命は本来神のものであるという考えも強くありましたから、エルサレム教会としては、この点はどうしてもゆずれなかったからであろうと推測されています。

 20節の「偶像に備えて汚れた肉」とは、偶像に備えられた肉はその偶像の神々の汚れが染みついているので、それを食べることは偶像礼拝に参加したことになるとして、ユダヤ人は決して食べませんでした。「みだらな行い」とは、レビ記18章などで禁じられている近親相姦のことです。また「絞め殺した動物の肉と、血とを避けるように」とは、先ほど言いましたように、血をそのまま食べることは神を冒涜することになるとユダヤ人は考えたからです。初代教会では、偶像にささげられた肉を食べてよいかどうかや近親相姦などの問題があったということが、パウロの書簡から知ることができます。エルサレム教会会議ですべてが解決されたわけではありませんでしたが、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が一つの教会の群れを共に形成するという道が開かれたことは、初代教会の成長、発展にとって大きな役割を果たしたことは間違いありません。ここにも、神の尊いお導きがあったのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちはあなたの救いの恵みを受け取るに値しない神を知らない者たちであり、罪多い者たちでありましたが、あなたの大きな憐れみと愛によって救いへと招かれておりますことを、心から感謝いたします。どうか、世界のすべての人たちにこの救いの恵みが与えられますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

9月21日説教「まことの光に照らされている人」

2025年9月21(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編119編106~112節

    ルカによる福音書11章33~36節

説教題:「まことの光に照らされている人」

 ルカによる福音書11章33節からの説教の中で、主イエスは「ともし火」と「光」をたとえにして語っておられます。「ともし火」はランプのことです。「光」そのランプが照らしている光のことです。きょうの聖書の箇所を正しく、また深く学ぶために、まず聖書全体に目を向けてみましょう。

 聖書では、ともし火や光という言葉は、非常に印象的に、また数多く用いられています。聖書辞典で調べてみると、ともし火という言葉は新約聖書で20数回用いられていますが、そのほとんどは主イエスの説教です。光の方は旧約・新約聖書で250回ほど用いられています。太陽の光とか、ランプの光のように、光を発する物を指す場合と、何らかの比喩や象徴として用いられている場合もあります。

 古代の人々にとって、ともし火や光は、今日のわたしたち以上に強い印象を与えたであろうということは、容易に推測できます。今日のわたしたちは電気で作られた人工的な光に囲まれており、いつでもスイッチをひねれば、すぐに周囲全体が明るくなります。光のありがたさとか大切さ、またその働きの大きさに気づくことはあまりありません。光がない世界の暗さとか、その恐怖とか戸惑いとかを強く意識することもありません。それに比べて、夜の暗闇を照らす光として、ランプやたいまつしかなかった古代の人々にとって、光はわたしたち以上に印象深く、強いイメージを与えたと思われます。

 まず、聖書の最初のページには、創世記1章3節に、神が最初に創造された特別な光について書かれています。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」神は天地万物を創造された時、第一日目に光を創造されました。この光は太陽とか月星の光とは違います。太陽や月が創造されるのは第四日目になってからです。第一に目に創造されはこの光は、特別な光であって、すべての光の根源のようなものであり、この光の中で、第二日目以降の天地万物が創造されるので、この光がなければ何ものも存在することができないような、すべての存在している被造物の、その存在を根底から支えているような、そのような光のことです。

 聖書は、そのような特別な光を考えているのです。神が第一日目に創造されたこの光がなければ、何物も存在することができない、生きることも、動くことも、歴史や歩みを刻むこともできない、そのようなすべての存在と命と歩みとを可能にしている光、それを支えている光、それを導いている光、そのような特別な光を、聖書は考えているのです。

 詩編119編105節に、印象深いみ言葉があります。「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす光」。ここでは、光は比喩として用いられていますが、ここでも創世記1章3節の特別な光が暗示されているように思います。神のみ言葉の光なしでは、わたしは安全な道を、正しい道を、まことの命に至る道を歩むことはできないと、この詩人は告白しているのです。

 もう一つ、わたしたちがよく知っている新約聖書のみ言葉は、ヨハネ福音書1章です。「言(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(4~5節)。そして、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(9節)。ヨハネ福音書は、言(ことば)、命、光という言葉によって、クリスマスの日に誕生された主イエスご自身と、その主イエスによってこの世界のすべての人もたらされる命と救いを語っているのです。主イエスこそが天地創造の初めからおられた神の言葉であり、その神の言葉によって与えられるまことの光であり、またその光によってすべての人の存在と命とが支えられ、導かれ、救いへと招き入れられる、そのような光であるとヨハネ福音書は語っているのです。

 以上、光につて教えている聖書の箇所を見てきたことから明らかなように、きょうの主イエスの説教で語られているともし火、光は、主イエスご自身のことであり、また主イエスが宣べ伝えておられる神の国の福音のことを指しているということを、まず確認しておくことが重要です。

 では、33節から読んでいきましょう。【33節】。ともし火、ランプは部屋を照らす光です。当時の家は、たいてい一部屋で、小さな窓があり、一つのランプで部屋全体を照らします。夜の家の中はランプがなければ真っ暗で、何も見えません。

 33節と同じような表現は、すでに8章16節にもありました。また、マタイ福音書5章13節以下では、光とともし火は、世にあってキリスト者として生きているあなたがたの生き方を教える比喩として用いられています。その箇所を読んでみましょう。【14~16節】(6ページ)。わたしたちキリスト者は、すでに罪ゆるされ、救われている者たちとして、いまだ罪の支配の中にあるこの世の暗闇の中で、主イエス・キリストの光を反射して、光の存在として生きるように招かれているということが、ここでは教えられています。

 それに対して、ルカ福音書11章では、前からの続きから判断すると、33節のともし火は、キリスト者の信仰生活を指すというよりは、主イエスご自身を、あるいは主イエスが語られた福音を指していると考えられます。29節以下との関連を見てみましょう。主イエスはユダヤ人が目に見えるしるしを求めていることを嘆いて、あなたがたユダヤ人の不信仰を、異邦人でありながらヨナの説教によって悔い改めたニネベの人たちが裁くであろうと言われました。そして、今の時代にはヨナのしるし以外には与えられないと言われました。ヨナのしるしとは、ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいて、三日目にそこから出てきたように、主イエスが十字架で死に、墓に葬られ、三日目に墓の中から出てきて復活されるというしるしのことで、この十字架と復活の福音を聞いて信じ、罪を悔い改めることによってこそ、あなた方は救われるのだと主イエスは説教されたのです。

 けれども、彼らユダヤ人は主イエスを信じませんでした。主イエスが語られた神の国の福音を信じませんでした。それに対して、33節のみ言葉が語られたのです。【33節】。暗い罪の世を照らすまことの光として世に来られた主イエス、また主イエスが語られた神の国の福音、そして主イエスの十字架の死と復活の福音、それは家全体を明るく照らすともし火である。イスラエルの民と全世界のすべての人を照らし、罪から救う光である。そうであるのに、そのともし火を穴倉の中や升の下に閉じ込めて、その光を覆い隠してしまうとは、なんと愚かなことか。なんとかたくなで罪深いことか。これが、33節の意味です。

イスラエルの民ユダヤ人が神の愛によって選ばれているのは、またわたしたちがこの世から選び出され、教会の民とされているのは、救い主、主イエスの光を高く掲げ、主イエスの福音の光をすべての人に見えるようにし、この世を照らすまことの光を証しするためなのです。

そうすると、ルカ福音書11章33節とマタイ福音書5章13節以下の「地の塩、世の光」についての主イエスの説教とは、本質的には同じことを語っているということが分かります。ルカでは、ともし火と光は主イエスご自身と主イエスの福音を表す比喩として用いられ、またマタイ福音書ではわたしたちキリスト者を表す比喩として用いられていますが、わたしたちキリスト者が世の光として輝くのは、わたしたち自身が持っている何らかの能力とか資質とかによるのではなく、まことの光である主イエスに照らされ、その主イエスの光を、いわば反射して輝くのですから、ルカ福音書とマタイ福音書は、本質的には同じ内容を語っていると言えます。

次に、34節からは、まことの光である主イエスによって照らされているわたしたちキリスト者の在り方が、同じようにともし火と光の比喩を用いて語られています。【34~36節】。目は、そこから光が入ってくる入り口です。目から光が入ってくることによって、あたかも全身が明るくなったように感じます。目を閉じたり目隠しをしていれば、光があっても、その光は体の中には届かず、全身が暗くなったように感じます。

主イエスは、「あなたの目が澄んでいれば、あなたの全身が明るい」と言われます。澄んだ目とは、光をまっすぐにとらえ、自分の体の中に受け入れる目のことです。光が照らしていても、その光から目をそらしたり、光とは反対の方向を向いていては、澄んだ目を持っているとは言えませんし、全身も明るくなりません。澄んだ目とは、まことの光であり、救いと命の光である主イエスと出会い、その福音を従順な心で聞き、受け入れ、信じることを言うのです。

そのような澄んだ目で主イエスの福音の光を受け入れるならば、それによって、その人の全身が明るくなると36節で語られています。まことの光である主イエスによって、その人の全身が明るく照らされるのです。その人は、まことの光の中に招き入れられ、まことの光に包まれたようになるのです。それが、わたしたちキリスト者であると主イエスは言われます。また、パウロはそのようなキリスト者のことを、ガラテヤの信徒への手紙2章20節で、「生きているのは、もはやわたしではない。キリストがわたしの内に生きておらるのだ」と言っています。そこから、わたしたちキリスト者の新しい信仰生活が始まります。

その新しい信仰生活を、きょうの箇所から二つにまとめてみましょう。一つは、わたしたちがまことの光である主イエスによって照らされるなら、わたしたちの中にあった闇が追い払われ、主イエスの光を反射して生きる者とされるということです。主イエスの十字架と復活の福音によって罪ゆるされている者として、その罪のゆるしの恵みに感謝して生きる者とされるのです。主イエスは「あなたがたはこの世の光である」と言われました。コリントの信徒への手紙二2章15節では、キリスト者は主キリストによって神にささげられた良い香りであると言われています。わたしたちキリスト者は、主イエスの光を反射し、主イエスの香りを放つ存在とされているのです。

 第二には、そのようにして、まことの光によって照らされているキリスト者は、この世を支配している闇に対して信仰によって戦いをいどみ、絶えず襲ってくる罪の誘惑と戦いつつ、ついにはそれに勝利する約束に生きるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちを罪と悪が支配するこの邪悪な世から守ってください。あなたのみ心を行う信仰者としてください。そして、ついにはあなたのみ国が勝利することを信じさせてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

9月14日説教「イスラエルのエジプト脱出」

2025年9月14(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記12章21~42節

    ローマの信徒への手紙6章15~23節

説教題:「イスラエルのエジプト脱出」

 エジプトで奴隷の民として苦難の中にあったイスラエルは、ヘブルの暦でニサンの月の14日夕方に、一歳の小羊をほふり、その血を家の入り口の2本の柱とかもいとに塗り、夜にはその肉を焼き、パン種を入れない固いパンと苦菜とを添えてその肉を食べました。これが過越の祭りの最初となりました。その過越の祭りの定めが、出エジプト記12章1~13節に書かれたいます。そして、14節では、【14節】と命じられています。イスラエルの民はその日の夜中に、エジプトの奴隷の家から脱出をしたのですが、それ以降、彼らが40年間荒れ野を旅した間も、約束の地カナンに着いてからも、千数百年間にわたって、毎年ニサンの月の14日には欠かすことなく、家族がみな集まり、過越の祭りを祝い、過越の食事を食べるという習慣を守り続けてきました。

 過越の祭りは、神の民イスラエルの誕生を祝う祭りであり、神が彼らをエジプトの奴隷の家から解放してくださり、彼らの命を小羊の血によって贖ってくださったことを神に感謝する礼拝でした。イスラエルの血につながるユダヤ人は、だれでも、どこに住んでいても、必ず過越しの祭りを守るようにと、律法で定められていました。

 新約聖書には主イエスもまた家族と、あるいは弟子たちとこの過越の祭りをエルサレムで祝ったことが書かれています。主イエスの時代には、子羊をほふってその血を神にささげるという礼拝は、エルサレム神殿でしか許可されていませんでしたから、ユダヤ人はみなエルサレムまで巡礼をして過越の祭りを祝う必要があったからです。主イエスが神の国の福音を宣べ伝えて公の宣教活動を行われたのは3年間ほどと推測されていますが、福音書を読むと主イエスがエルサレムで過越の祭りを祝われたのが通算して3回であったということから、そのように考えられています。

 けれども、主イエスはそれまでと同じように過越の祭りを祝われたのではありませんでした。主イエスが弟子たちと最後に祝った過越の食事、それが一般的に最後の晩餐と言われているのですが、その食卓で、主イエスは過越しの食事に全く新しい意味をお与えになったということを、わたしたちは福音書の終わり近くの受難週の記録から知らされています。すなわち、子羊の血がイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から贖いだすという過越の祭りは、主イエスの十字架の死と復活によってその役割を終えることになったということです。そして、十字架で流される罪のない神のみ子の尊い血が、イスラエルだけでなく、全人類のすべての人々の罪を、永遠に贖い、罪と死から救い出し、主イエスの三日目の復活によって、信じるすべての信仰者に神の国での永遠の命の保証が与えられるという福音が、新しい過越の食事である聖餐によってわたしたちに与えられたということです。

 では、きょうは出エジプト記12章21節から読んでいくことにしましょう。【21~23節】。6節以下の、神が過越の食事を制定された箇所で語られていたことが、ここで繰り返されています。モーセは神が彼に語られたことを民の長老たちに伝えます。これがモーセの務めです。モーセは最初の預言者です。彼自身は、このつとに召されたときに、何度も神の招きを断りました。「わたしは口が重く、舌の重いものです」と(4章10節)。けれども、預言者は自分の言葉を語るのではありません。自分の能力で語るのでもありません。神がお語りになった言葉を、いわば口移しで、神がお与えくださる霊の力によって語るのです。預言者に必要なことは、ただ神の命令に従順であることです。

 預言者モーセの言葉を聞いたイスラエルの長老たちと民は、それに従います。この夜の最初の過越の食事は、まだそのことが起こっていないときに、信仰によって実施されました。まだイスラエルの民はエジプトを脱出してはいません。まだ滅ぼす者がエジプト人を撃っていません。まだイスラエルの奴隷の状態は続いています。けれども、彼らは信仰によって、すでに神の裁きのみ手から救われているように、すでにエジプトに勝利しているかのように、すでに自由の民とされているかのように、最初の過越を祝うのです。

 次に、【24~28節】。すでに14節で、イスラエルが過越の祭りを毎年繰り返し、いつまでも守り続けるべき重要な祭りであることが言われていました。それがイスラエル誕生の原点であり、イスラエルがそののちに神の民として生きていく原点でもあるからです。イスラエルは自分たちの誕生の原点、救いの原点、自由と解放の原点であるこの出来事を決して忘れませんでした。そして、毎年各家庭で祝われる過越の祭りの中で、その信仰を受け継いでいったのです。過越の食卓は、たんに祝いの食事をおいしく食べる時であるのではなく、家族全体と特に子どもたちの信仰教育の時であり、信仰告白の時でありました。「主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々を過ぎ越し、我々の家を救われたのである」という信仰告白によって彼らは生きていくのです。この信仰の家庭によって、神の民イスラエルは形成されていくのです。

 29節からは、イスラエルの家庭で最初の過越の食事が祝われているまさにその夜に、エジプトの家々で起こっている初子の死について書かれています。王ファラオの家からエジプト全土のすべての家の長男と家畜の初子が、滅ぼす者によって撃たれて死ぬという奇跡が起こりました。そして、その大いなる災いを恐れたファラオは夜中のうちにモーセとアロンを呼び寄せて、早くこの国から出ていくようにと要求します。

 【31節】。今まで、イスラエルの民を解放することをかたくなに拒んできたファラオが、ここでは「早く出ていくように」と要望しています。神はモーセとアロンにそのことをあらかじめ何度も語っておられました。エジプトで二人が神の杖によって行った9つの災い、奇跡のみわざを見て、いったんはイスラエルの解放を約束していながら、すぐに翻してきたかたくなになったファラオが、ついにイスラエルの主なる神の権威と力とを認めざるを得なくなり、これ以上エジプトでの被害が広がることを恐れて、イスラエルの民を追い出すのです。イスラエルが主なる神を礼拝する民となることを認めざるを得なくなるのです。イスラエルの主なる神がついにエジプトの王ファラオとすべてのエジプトの神々とに勝利されたことをわたしたちは知らされます。

【37~39節】。いよいよイスラエルのエジプト脱出が決行されます。イスラエルの民は長い期間ナイル川の流域ラメセスに住み、穀物貯蔵のための倉庫造りとレンガ焼きの労働についていました。彼らが400年余り前にエジプトに移住したときには、ヤコブの12人の兄弟たちとその家族70人であったと、1章5節に書かれていました。それが、出エジプトの時には壮年男子だけでも60万人であったと、きょうの箇所には書かれています。妻たちや子どもたちの全部を含めると、およそ200万人にも上るであろうと思われますが、それが実際の数であるとは考えられないと、今日の研究者は言います。出エジプト記38章26節や民数記1章46節などでも60万を超える数字が書かれていますが、これには誇張があると考えられています。わずかな数でエジプトに移住したが、神の祝福を受けて、民の数が増え広がったということを、強調していると考えられています。

39節からは、酵母を入れないパンについて書かれていますが、これは15節以下で詳しく定められいた、7日間の種入れぬパンの祭り、除酵祭の起源となりました。イスラエルがその夜に急いでエジプトを出たために、パン種を仕込んだ柔らかなパンを食べることができなかったから、また、エジプトでの苦しい生活と、その苦しみから救ってくださった神の救いの恵みの大きさを覚えるために、種入れぬパンの祭りは過越の祭りと結合して、イスラエルの出エジプトを記念し、お祝いする重要な祭りとなったのです。

わたしたちここで改めて、イスラエルの民が過越の祭りと種入れぬパンの祭りで覚え、祝い、感謝してきた内容について、まとめてみたいと思います。この二つの祭りで最も強調されている点は、出エジプトの出来事は最初から最後まで、そのすべてが主なる神の強い意志と大きな愛に貫かれているということです。紀元前13世紀ころのエジプト王朝の絶対的な権力と軍事力の中で、寄留の民、奴隷の民であったイスラエルが、なぜ、どのようにして、その奴隷の家から解放されることができなのか。それはイスラエル自身の何らかの働きや力によるのではなく、すべては主なる神のイスラエルに対する愛であり、また、神がかつてアブラハム、イサク、ヤコブと誓われた約束を成就しようとする神の強い救いの意志であったということです。神は奴隷の民であるイスラエルを選ばれ、これを愛され、この民をご自身の宝の民とされたのです。イスラエルの出エジプトは、このような神の強い愛の意志、救いの意志に貫かれています。

さらに言うならば、神はこの大きな愛のゆえに、イスラエルやその指導者であるモーセの疑いや迷い、弱さや、時には彼らの挫折をもお用いになって、彼らの救いに必要なすべてのみわざを、彼らに先立って行われたということです。それだけでなく、エジプト王ファラオのかたくなさや反逆をすらもお用いになって、神がご自身の偉大さ、その全能のみ力、権威をお示しになりました。神は人間たちのすべての罪をお用いになって、全人類の救いのみわざをなさるのです。

第三に、神はご自身の救いのみわざをイスラエルが決して忘れないように、いつまでもその救いの恵みの中にとどまっていることができるように、彼らに過越の祭りと種入れぬパンの祭りを定められました。イスラエルは神を礼拝する民として、絶えず繰り返してこの祭りを祝い、感謝して、神への喜ばしい服従の生活を続けるのです。イスラエルの出エジプトは、このような神を礼拝する民の形成を目指していたということを、今一度確認しておきましょう。

そして、今確認した三つのことは、主イエス・キリストの十字架と復活のみわざによって罪から救い出されているわたしたちにもそのままに当てはまります。神はみ子主イエス・キリストによってわたしたちの救いのためにすべてのみわざを成し遂げてくださいました。神はわたしたちのすべての罪、不従順、疑い、弱さや欠けをもゆるしてくださいました。そして、わたしたちをこの教会の礼拝の民の一人としてお招きくださいました。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちを罪の奴隷から解放してくださり、わたしたちが自由と喜びとをもってあなたに従っていく道を備えてくくださいましたことを、心から感謝いたします。どうか、多くの人たちがこの救いに招かれますように。重荷を負っている人、道に迷っている人、苦難の中にある人、孤独な人を、あなたが顧みてくださり、まことの光で照らしてくださいますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

9月7日説教「神の契約の成就としての福音」

2025年9月7(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書52章7~10節

    ローマの信徒への手紙1章1~7節

説教題:「神の契約の成就としての福音」

 ローマの信徒への手紙1章1~7節は、当時の手紙の書式にならっています。まず、差出人であるパウロの名前と簡単な自己紹介が1節に書かれています。普通であれば、その次に手紙の受取人であるローマの教会の名前が挙げられ、それから差出人から受取人へのあいさつが続くというのが、一般的です。その書式に従えば、1節から直接には7節へと続くことになるはずですが、その間に2節から6節までの長い文章が挿入されたかたちになっています。日本語の翻訳でも、そのことが分かるように1節の終わりと6節の終わりに線が引かれています。2節から6節までが挿入文だということが分かります。

 パウロは1節で、自己紹介をするにあたって、自分が「神の福音のために選び出され、召されて使徒となった」と書いた後で、もとのギリシャ語原典では、「神の福音」という言葉が1節の最後に置かれているのですが、その「神の福音」という言葉を受けて、その福音とはいかなるものであるかを2節から6節で説明しているわけです。そのことは、手紙の正式な書式からすれば、いわば寄り道と言えるかもしれません。まだ、手紙の差出人の名前しか書いておらず、受取人がだれであるのかも、あいさつもまだ済んでいないのに、いきなりの寄り道です。いきなり、わき道にそれています。

 でも、パウロにとっては、それは余計な寄り道では決してありません。「わたしは神の福音のために選び出され、召された」と書いた、その「神の福音」こそが、彼がこの手紙でローマの教会に語ろうとしている中心的な主題であるからです。自分を紹介して「神の福音のために」と書きだした、まさにその時に、パウロの思いは熱くなり、抑えきれなくなって、手紙の本文で書くべきそのことを、あふれる思いにかき立てられるかのようにして、2節からすぐに、「この福音は」と語らざるを得なくなった、「わたしはあなたがたにこの福音を語りたいのだ」というパウロの熱意と激しい息遣いというものを、わたしたちはここに感じ取るのです。

 2節から6節までの挿入文にはもう一つの意味があります。この挿入文によって、1節の差出人と7節の受取人とが引き離されたようなかたちになっているのですが、実はその反対で、この挿入文で語られている「神の福音」が、またその内容である主イエス・キリストが、両者を固く結びつけているのだということに、気づかされます。まだ出会ったことがないパウロとローマの教会、遠くに離れているパウロとローマの教会とを、「神の福音」が結びつけているのです。「神の福音」によって与えられる親しい兄弟姉妹の愛と信仰の交わりが両者を結びつけているのです。

 パウロとローマの教会については、5節と6節に少し具体的に紹介されています。ユダヤ人であるパウロ、使徒であるパウロと、異邦人であるローマの教会とを、「神の福音」が一つの神の民として結びつけ、はるかに遠くにいる両者を、民族の違いをも乗り越えて、一つの信仰による交わりによって固く結びつけているのです。また、パウロはこの手紙の中で、何度もローマの教会に対して「兄弟たちよ」と親しく呼びかけていますが、「神の福音」はそのことをも可能にしているのです。

 ここにこそ、教会の真実の交わりがあります。ともに神の福音を聞くことによって、共に主イエス・キリストの福音を聞き、信じ、罪ゆるされ、神の国の民とされていることによって、わたしたちもまた一つの神の家族とされ、一つの兄弟姉妹の交わりの中へと招かれているのです。

 では、2節を読んでみましょう。【2節】。きょうはこの2節のみ言葉を深く学んでいきましょう。冒頭の「この福音」が1節の「神の福音」を指していることは今確認したとおりです。パウロを主イエス・キリストの使徒として召した神の福音、また6節にあるように、ローマの教会をも召した神の福音のことです。これは、「神の」ですから、人間のとか、この世のとか、他の何かのではなく、「神の」です。「天におられる、全能の父なる神」とわたしたちが信じている神から与えられた福音です。したがって、一つの国とか民族にとって福音であるだけでなく、一部の人たちにとっての福音でもなく、ある世代の人たちにとっての福音であるのでもなく、地に住むすべての人にとっての、永遠に変わらない、唯一の福音であるということです。

 「神の福音」の「の」は、一般的には主格的属格と考えられます。「の」には、大きく分けて所有格的属格と主格的属格があります。「わたしの聖書」と言えば、「わたしが持っている聖書」という意味で、これは所有の属格です。「神の言葉」とは、「神が語られる言葉」、これは主格的属格とか行為の属格と言います。「神の福音」は、後者の用法ですが、さらに深い意味を持っています。ある人はこれを「創造者の属格」と名づけています。「神の福音」とは、神がわたしたちにお与えくださった福音、神がお伝えくださった、あるいは神がもたらしてくださった福音という意味だけでなく、神が何もない所から全く新たに創造された福音、そして、ただ全能者であられる神だけが創造することができる福音という意味をここに読み取るべきだと言うのです。

 創世記1章のみ言葉を思い起こしてみましょう。「初めに、神は天地を創造された。……神は言われた。『光あれ。』こうして光があった」と書かれています(1節、3節)。神はみ言葉をお語りになることによって、闇の中に光を創造され、無から有を呼び出だすようにして、死から命を生み出すようにして、天地万物とわたしたち人間を創造されました。神の創造とは、神のみ言葉が新しい現実を生み出すということです。

 神の福音もまた同じように、罪と死に支配されているこの闇の世界に、人間たちの邪悪と不正義に覆われているこの時代に、あるいは不安と孤独に病んでいるわたしたちの現実に、神がすべての人を照らすまことの光を創造し、全人類のための喜ばしいおとずれを創造してくださったということなのです。それは、この世にあるどのような福音よりも大いなるものであり、永遠なるものであり、普遍的であり、この世界とわたしたちの現実を上から覆い、その福音の命と力によって、新しい現実を創造していくような神の福音なのです。それはまた、人間の罪をゆるし、死を命に変え、邪悪と不正義とを愛と平和とに変え、不安と孤独とを喜びと共にある交わりに変えるのです。そのような神の福音を、神はこの世界に、わたしたちのために創造してくださったのです。パウロはそのような神の福音を、今語ろうとしているのです。

 パウロは2節で、その福音について具体的に語りだします。ここでは、3つのことが語られています、一つは、この福音は神がお遣わしになった預言者たちによって預言されていたということ、二つには、聖書の中に書き記され、保存されてきたということ、そして三つに、古い時代から神によってあらかじめ約束されていたということです。この三つの内容についてさらに詳しくみてきましょう。

 第一に、神の福音はパウロ以前にも、またパウロと同時代のキリスト者たちよりも前に、多くの証人たちを持っているということです。神の福音は神のみ子主イエス・キリストによって最終的に世界にもたらされましたが、それ以前にも旧約聖書の中で多くの証人たち、預言者たちが神の福音を証し、預言してきました。ヘブライ人への手紙1章1、2節にはこのように書かれています。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」。11章では、カインとアベルから始まって、ノア、アブラハム、モーセなどの旧約聖書の信仰者たちの名前を挙げたあとで、12章1、2節で次のように言います。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐をもって走りぬこうではないか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら……」。

 このように、旧約聖書の信仰者たち、預言者たちはみな主イエス・キリストを指し示し、証し、預言したのです。そして、終わりの日に神がお遣わしくださるメシア・キリスト、救い主を待ち望んでいたのです。このように、神の福音は多くの証人たちに取り囲まれている確かな真理なのです。

 第二は、神の福音は聖書の中に、すなわち旧約聖書の中に書き記され、保存されてきたということです。神の福音は、主イエス・キリストとしてはっきりとした姿をもって現される以前から、いわば隠された姿で、しかし確かな文書として、千年以上もの長い期間、大切に保存されてきました。旧約聖書の民イスラエルは、この聖書を神の言葉として、神への恐れと信仰をもって書き記し、保存し、礼拝で朗読し、学び、そのみ言葉に従ってきたのです。一字一句をもおろそかにせず、それに付け加えたり差し引いたりせず、神の言葉として読み続けてきたのです。そして、そこに預言されている神の福音の成就の時を待ち望んできました。

 わたしたちもまた、この聖書の中に(わたしたちとっての聖書は、旧約聖書と新約聖書ですが)、その中に神の福音のすべてが余すところなく、また不足するところなく、完全に証しされていると信じます。神はこの聖書の中で、わたしたちの救いにとって必要なすべてのことをお語りくださいました。わたしたちが神の福音、主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって罪ゆるされ、救われために必要なすべてが、聖書にあると信じています。

 第三に、神の福音は神がずっと以前から、天地創造の初めから神が予定され、計画されていた永遠なる約束であり、今それが主イエス・キリストによって成就したということです。わたしたち人間がそれを願い求めるはるか以前に、否、わたしたちがまだそれを求めていないときに、その必要性にまだ気づいていなかった時に、わたしたちがまだ罪の中に眠りこけていた時に、神ご自身の方からわたしたちに救のみ手をさしのべ、ご自身のみ子をこの世にお遣わしになったのです。

 パウロは弟子のテモテにあてて書いた手紙でこのように言っています。テモテへの手紙二1章9~10節を読んでみましょう。「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現わしてくださいました」。

 神の福音、主イエス・キリストの十字架と復活の福音は、永遠の昔から永遠の終わりに至るまで、変わることなく真実であり、確かであり、その福音を信じるわたしたちを罪と死と滅びから救い、永遠の命を与えるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたはわたしたちを罪と死と滅びから救い出してくださり、み国にある永遠の命の約束をお与えくださいました。この世のものがすべて変わりゆき、過ぎ去ろうとも、あなたのこの約束は永遠に真実であり、確かであると信じます。どうか、わたしたちが朽ちゆくものに心を奪われることなく、永遠なるみ国へと目を向け、天に蓄えられている、朽ちず汚れずしぼむことのない財産を受け継ぐ者としてくださいますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。