2025年9月28(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:アモス書9章11~15節
使徒言行録15章11~15節
説教題:「エルサレム使徒会議でのヤコブの証言」
紀元48年、あるいは49年に開催されたエルサレム使徒会議は、世界最初の教会会議でした。初代教会の中で大きな問題であったユダヤ人キリスト者とユダヤ人以外の異邦人キリスト者との間にあった対立や信仰理解の違いが、この会議によって、両者が共通の理解を深め、一致を見いだし、初代教会のさらなる成長と発展のために大きな貢献をする役割を果たしたのでした。
このエルサレム使徒会議は、古代・中世から今日に至るまでの世界教会会議の原点となりました。世界の教会はそれぞれの時代の異端的な間違った教えを排除し、また教会の共通の課題に取り組むために、世界教会会議(あるいは公会議とも言われますが)を開催し、会議によって問題を解決し、新たな課題に一致して取り組むということを続けてきました。第一回世界教会会議として今日位置づけられているのは紀元325年のニカイア会議です。第2回は381年のコンスタンティノープル会議、第3回が431年のエフェソ会議、第4回が451年のカルケドン会議などが重要です。これらの教会会議によって、今日わたしたちが一般に信じている、主キリストはまことの神であり同時にまことの人であるとか三位一体論とかのキリスト教の基本的な教理が確立されたのです。エルサレム使徒会議はその原点です。
エルサレム使徒会議で取り上げられた問題は、15章1節に書かれていました。エルサレム教会に属するユダヤ人キリスト者は、もともとはユダヤ教で、神に選ばれた契約のしるしとして男子はみな割礼を受けていました。しかし、ユダヤ人ではない異邦人、ギリシャ人でキリスト者になった人たちは割礼を受けていませんし、ユダヤ人が古くから大切にしてきた律法の教えや慣習も知りません。そこで、エルサレム教会からやって来たユダヤ人キリスト者がアンティオキア教会のギリシャ人キリスト者に対して、「あなたがたも割礼を受けなければ救われない」と主張したことから、両者の間で激しい議論に発展し、その問題を解決するために両者がエルサレム教会に集まって会議を開くことになったというわけです。
会議では、まずアンティオキア教会の議員であるパウロとバルナバが第一回世界伝道旅行で多くの異邦人・ギリシャ人が主イエス・キリストの福音を信じて救われたことを報告しました。しかし、それに対してエルサレム教会の議員であるユダヤ教ファリサ派からキリスト者になった人たちが、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と主張したと、5節に書かれていました。次に発言したのがエルサレム教会の指導者であるペトロでした。ペトロはかつて彼自身が経験した異邦人であるコルネリウス一族の回心の出来事(10章の詳しく書かれていた)を思い起こしながら、神は異邦人にもユダヤ人と同じように聖霊を注いで救いの道を開かれたことを証言しました。ペトロの証言の結論は11節に書かれています。【11節】。
このペトロの発言によって、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との間の激しい議論に終止符が打たれることになりました。12節にこう書かれています。【12節】。ペトロは当時エルサレム教会の指導的立場にありましたから、そのペトロの発言の重さは確かにあったと思われますが、これまでの対立と激しい議論に終止符を打つことになった要因は、発言者がペトロであったからというよりは、その発言の内容そのものであったと言うべきでしょう。天の父なる神が主イエス・キリストによって、ユダヤ人だけでなく異邦人をも、全世界のすべての人の救いのみわざを、今この時になしてくださった。人間の側の何らかの功績やわざによらず、神の側から差し出された一方的な恵みによって、すべての人をまことの救いへとお招きくださっておられる。その恵みの事実こそが、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の間の論争を終わらせたのです。
ペトロの発言に続いて、アンティオキア教会からの議員であるバルナバとパウロが再び発言します。その内容については詳しく紹介されていませんが、わたしたちがすでに学んできた13章から14章に書かれていた第一回世界伝道旅行での数々の伝道の成果についてでした。しかし、それはパウロたちの業績では全くなく、ここでの主語は神です。「自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業」のことです。人間の側の割礼なしに、律法の行いなしに、ただ一方的に神の側から差し出された救いの恵みによって、異邦人もまた救いへと招き入れられたのです。すべては神のみわざです。
次に、エルサレム教会の長老ヤコブが13節から発言します。あとで、19節以下の箇所で、会議のまとめのような発言をしていますので、このヤコブが会議の議長を務めていたと推測されています。
ヤコブは主イエスの肉親の兄弟です。マルコによる福音書6章3節によれば、主イエスにはヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの4人の兄弟と姉妹も何人かいたと書かれています。また、使徒言行録1章14節によれば、主イエスの十字架のあと、主イエスの母マリアと兄弟たちが12弟子の群れに加わって、一緒に祈りながら、ペンテコステの日に聖霊が注がれるのを待っていたと書かれています。彼らは主イエスの十字架の死後になって、主イエスを救い主と信じる信仰へと導かれたのでした。そして、ヤコブはエルサレム教会の長老に選ばれ、ペトロのあとに教会の指導者となりました。神はこのようにして、主イエスの肉親である母マリアや兄弟たちにとってはおそらく耐え難い不幸でしかなかったであろう、長男であった主イエスの十字架の死という悲惨な出来事の中で、その悲劇の主人公であったマリアと兄弟たちをも、不思議な導きによって救いへと招き入れてくださり、エルサレム教会のよき働き人としてお用いになったという、驚くべき大きな救いの恵みを、わたしたちはここに見るのです。
ヤコブの発言を聞きましょう。【13~14節】。シメオンとは、シモン・ペトロのエルサレム教会での呼び名でした。ヤコブはパウロの書簡から推測すれば、ずいぶんとユダヤ教的な古い伝統に縛られていた人であったと考えられていますが、そのヤコブであっても、ペトロが語ったコルネリウス一族がキリスト者となったという出来事の意味を認めないわけにはいきませんでした。さらに、彼は旧約聖書を引用して、そのように神の福音がユダヤ人から異邦人へと広げられていくことは、神が古くから預言者たちによって語っておられたことであるとつけ加えています。
16節~18節は、旧約聖書アモス書9章11~12節およびイザヤ書45章21節のみ言葉です。【16~18節】。アモスは紀元前8世紀の預言者でした。彼はイスラエル王国がその罪のゆえに神の裁きを受けてやがて滅ぼされるであろうと預言しました。しかしまた同時に、アモスは神がそののち、ダビデ王国を回復し、残りの者たちを集め、それに異邦人をも増し加えて、新しい神の民として再建してくださると預言しました。ヤコブの理解によれば、ここで預言されているように、イスラエル・ダビデ王国の回復と異邦人も神の民に増し加えられるであろうというこの預言は、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって成就したのだと言うのです。その神の全世界的な救いのみわざが、ペトロやパウロたち、また初代教会の宣教活動によって現実となって実現したのだと言うのです。しかも、そのことは神が天地万物を創造された初めの時から、神の永遠なるご計画であったのだとヤコブは語ります。旧約聖書で預言されていたことはすべて新約聖書において、主イエス・キリストによって、成就されたのです。
神は初めにイスラエルの民をお選びになり、この民をとおして救いのみわざをなさいました。イスラエルの罪と背きによってイスラエル王国は滅びましたが、神はその切り株から新しい芽を生え出ださせ、一人のメシア・キリスト・救い主として、主イエス・キリストをお送りくださいました。この主キリストは罪なき神のみ子であられたにもかかわらず、すべての人の罪を担われ、すべての人の死の裁きをご自身で担われ、十字架で死んでくださいました。それによって、神はわたしたちすべての人の罪をおゆるしくださったのです。ユダヤ人だけでなく、異邦人も、全世界のすべての人の罪が、神のみ子の十字架の死によって贖われ、ゆるされています。
そこで、会議の議長であるヤコブは19節でこのように結論づけます。【19節】。ユダヤ人キリスト者からなるエルサレム教会の指導者であったペトロの発言と同じように、ヤコブもまた、異邦人教会の指導者パウロとバルナバの主張を認め、異邦人の律法の重荷からの解放を宣言し、割礼の義務からも自由にしたのです。ユダヤ人も異邦人も、一方的に差し出された神の救いの恵みによって、その救いを信じる信仰によって救われるということを結論づけました。このエルサレム教会で決められたことは、今日全世界の教会での一致した理解になっています。
20節以下に付則として追加されている決議については、なぜこれが付け加えられたのか、よくわかっていません。律法と割礼の義務から解放した異邦人に対して、なぜこのような規定が必要だったのか。ある意味で、これはパウロたち異邦人教会側がエルサレム教会に妥協したとも受け取れます。ユダヤ人は偶像礼拝を厳しく戒め、また血の中には命があって、その命は本来神のものであるという考えも強くありましたから、エルサレム教会としては、この点はどうしてもゆずれなかったからであろうと推測されています。
20節の「偶像に備えて汚れた肉」とは、偶像に備えられた肉はその偶像の神々の汚れが染みついているので、それを食べることは偶像礼拝に参加したことになるとして、ユダヤ人は決して食べませんでした。「みだらな行い」とは、レビ記18章などで禁じられている近親相姦のことです。また「絞め殺した動物の肉と、血とを避けるように」とは、先ほど言いましたように、血をそのまま食べることは神を冒涜することになるとユダヤ人は考えたからです。初代教会では、偶像にささげられた肉を食べてよいかどうかや近親相姦などの問題があったということが、パウロの書簡から知ることができます。エルサレム教会会議ですべてが解決されたわけではありませんでしたが、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が一つの教会の群れを共に形成するという道が開かれたことは、初代教会の成長、発展にとって大きな役割を果たしたことは間違いありません。ここにも、神の尊いお導きがあったのです。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、わたしたちはあなたの救いの恵みを受け取るに値しない神を知らない者たちであり、罪多い者たちでありましたが、あなたの大きな憐れみと愛によって救いへと招かれておりますことを、心から感謝いたします。どうか、世界のすべての人たちにこの救いの恵みが与えられますように。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
