12月28日説教「神殿で神にささげられた主イエス」

2025年12月28日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記13章11~16節

    ルカによる福音書2章22~38節

説教題:「神殿で神にささげられた主イエス」

 世界の教会が一般に用いている「教会暦」では、教会の新しい一年はアドヴェント(待降節)とクリスマス(降誕日)から始まります。週報の「主日礼拝式次第」の下に書かれています。「教会暦」は待降節第一主日から始まって、第二、第三、第四主日、そして降誕日、降誕後第一、第二主日、そして顕現日、顕現後第一、第二主日と数えていきます。この「教会暦」は、教会の本質をよく言い表しています。教会とは、アドヴェント、待降節、待ち望むことから、その成就である降誕日(クリスマス)へと、一年の歩みを始めていくのです。つまり、待望と成就から一年の歩みをはじめ、次の年の待望と成就へと歩みを進めていきます。教会は、この待望と成就とを繰り返しながら、終わりの日の完成に向けて進んでいるということ、これが主イエス・キリストを信じている信仰者の群れである教会の本質なのです。

 ここには、もう一つの意味が隠されています。アドヴェント、待ち望んでいる教会は、決して空しく、当てもなく待っているのではなく、すでに最初の成就を経験し、その成就を祝い、それによって第二の成就を確かに約束されているのだということを知らされつつ、その第二の成就の時を目指して、待ちつつ急ぎつつ進んでいくのです。すなわち、主イエス・キリストのご降誕を待ち望んでいた教会が、ついにその成就の時、降誕日、クリスマスを迎え、神の約束の確かな成就であるみ子の誕生を祝ったように、その確かな事実と保証の上に立って、教会は終わりの日に再び来たりたもう主イエス・キリストを待ち望みつつ生きているのだということです。

 このようにして、待降節と降誕節からその歩みを始めている教会は、神の約束の成就から生きているのだと言ってよいでしょう。きょう朗読された聖書の2章30節に、「わたしはこの目であなたの救いを見たからです」とあるように、この成就の恵みの事実から、教会の歩みが始まっているのです。「わたしはこの目であなたの救いを見た」という、この恵みの事実から、わたしたちの信仰の歩みが始まっています。待降節と降誕日から始まる教会に集められているわたしたちの待望の信仰は、すでにその待望の中に成就と完成とを内に含んでいるような、確かで、希望に満ちた歩みなのです。

 ルカ福音書2章22節以下には、待降節と降誕日から始まった教会の歩みの最初の信仰者となった二人の預言者、シメオンとアンナの待望の期間が、幼子・主イエスとの出会いによって成就したことが書かれてます。

 主イエスの両親であるヨセフとマリアは、主イエスの誕生後40日が過ぎてから、エルサレム神殿での清めの儀式と初子奉献の儀式を行います。清めの儀式については旧約聖書レビ記12章に定められています。出産後の母親は40日間、宗教的に汚れた状態にあるので、その間は家にとどまり、公の場に出てはならないとという決まりです。清めの期間が過ぎた40日後に、エルサレム神殿で1歳の雄羊か、もしくは2羽の山鳩ないしは家鳩をささげることによって清めの期間が終わると定められていました。

 初子奉献の起源は出エジプト記にあります。イスラエルの民が神の強いみ手によってエジプトの奴隷の家から解放されたとき、エジプト国内のすべての長男と家畜の初子(最初に生まれたオス)が、神から遣わされた滅ぼす者によって死んでしまいましたが、イスラエルの家では、門の入り口と家のかもいの柱に子羊の血を塗っていたために、滅ぼす者がその家の前を通り過ぎ、イスラエルの家はみな守られました。この出来事から、長男の命はすべて神のものであるから、神にささげられるべきであるが、長男の命を神にささげる代わりに銀5シェケルをささげて、贖うように民数記18章16節に定められていました。

 主イエスの両親は、このように、旧約聖書の律法でイスラエルの民が守るべきだと定められていた清めと初子奉献の儀式を忠実に守っていたことが分かります。ルカ福音書はこれによって重要ないくつかのことをわたしたちに語っているのです。

 一つには、主イエスはその両親と共に、イスラエルの民の一人として、神の律法に忠実に従われたということです。ヨセフとマリアの若い夫婦は決して裕福な家ではありませんでした。清めの儀式では雄羊をささげることができなかったので、鳩を一つがいささげました。それでも、生後40日後には幼子を連れて、ガリラヤ地方のナザレからエルサレムまでの100キロメートル余りの困難な旅をして、神殿で礼拝をささげることを怠りはしませんでした。主イエスは神がお選びになったイスラエルの民の一人としてお生まれになり、神がこの民に与えると約束された全人類のメシア・救い主として誕生されました。神の永遠なる救いのご計画は、この主イエスによって成就されるのです。

 第二には、パウロがガラテヤの信徒への手紙4章4~5節で言っていることと関連します。そこにはこうあります。「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」。主イエスは律法のもとにお生まれになり、ご自身もまたその律法に完全に服従されることによって父なる神のみ心を行われました。それによって、律法のもとにあって罪と死とに支配されていたイスラエルの民と全人類とを、罪と死の奴隷から解放し、救い出してくださったのです。

 もう一つ、わたしたちがここで見ておかなければならない重要な点は、主イエスの両親ヨセフとマリアが行った清めの儀式と初子奉献の儀式は、単に律法で定められていたことを忠実に行ったというのではなく、それは主イエスのご生涯全体と、特にその最後の十字架の死と復活によって成し遂げられた神の救いのみわざを、あらかじめ先取りするものであったということです。清めの儀式は、出産後の母親の汚れを清めるために行われますが、主イエスはわたしたちすべての罪びとたちを罪の汚れから洗い清めるために、ご自身の尊い血を十字架で流されました。それによって、全人類のための救いをなし遂げられました。初子奉献の儀式は、長男の命をひとたび神にささげてから、それを銀5シェケルで神から買い取り、贖うのですが、主イエスはやがてご自身の命そのものを実際に父なる神におささげになられ、十字架で死んでくださいました。それによって、わたしたちの罪の身代わりとなってくださり、わたしたちを罪から贖いだしてくださったのです。ルカ福音書2章にはすでに、主イエスの十字架と復活の光が差し込んでいます。

 さて、主イエスの両親が清めと初子奉献の儀式を行うためにエルサレムの神殿に入って行ったときに、二人の預言者に出会いました。ここでもまたわたしたちは、両親に抱かれた幼子・主イエスこそが、旧約聖書の時代から神がイスラエルに約束しておられたメシア・救い主であり、今やその待望の時が満たされ、成就の時が始まったという二人の預言者の証言を聞くのです。

 シメオンとは「聞かれた」という意味で、神によって祈りが聞き入れられたという信仰を言い表す名前です。そのギリシャ語はシモンです。その名のとおりに、彼の長い間の祈りと待望の歩みが今や神に聞き入れられたことが、25節から印象深く語られています。【25~28節】。

 もう一人の預言者アンア、その名は「神に恵まれた者」という意味ですが。彼女は84歳という、当時としては驚くほどに長い、そして神の恵みに満たされた彼女の歩みについては36節から書かれています。【36~38節】。

 この二人の預言者について、いくつかのポイントに焦点を当てて読んでいくことにしましょう。まず、この二人の預言者は神の約束の成就を待ち望むということが、その人生の中心的な務めであり、唯一の生きる目的、あるいは生きる喜びであったということです。シメオンはイスラエルに与えられるであろうメシア・救い主に会うまでは死なないという神の約束をいただいていて、ただひたすらにその時を待ち続けていたと書かれています。アンナもまた夜も昼も神殿で神に仕え、祈りと断食の日々に明け暮れていたと書かれています。彼らにとっては、待ち望みながら神にお仕えしていたというよりは、待ち望むそのことこそが、神にお仕えすることであったのです。だから、待ち望んでいるメシアの出会うまでは、彼らの生涯は決して満たされることはありません。

 待ち望むだけの人生は、ある意味とてもつらく、苦しい生涯であると言えるでしょう。未だに確かな事実を見ることができず、確実な実りを手に入れることができない、いつも飢え乾いているように、ただひたすら約束の成就を待ち望む以外にない人生。しかし、この二人の預言者は他にこの世の楽しみを何かに見いだそうとはしませんでした。神の約束の成就を待ち望むことによってこそ、彼らの信仰は強められていたのです。なぜならば、待ち望む信仰の歩みの行く手には、常に主なる神がおられるからです。その約束を成就してくださる主なる神によっていつも捕らえられているからです。

 そして今こそ、彼らの待望が満たされる時が来たのでした。幼子・主イエスが律法に定められていた儀式を行うために神殿に来られたその時に、その幼子こそが約束のメシアであることを彼らは聖霊によって知らされたのです。そしてその時に、彼らの人生が最終目的に達したのです。彼らの人生が満たされたのです。それゆえに、シメオンは神をほめたたえて歌いました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」と。

 信仰者にとって、いやすべての人間にとっても、救い主に出会うということによってこそ、その人の人生が本当の意味で満たされたものになります。人間にとって、他の何かによっては真の慰め、真の平安は得られません。わたしたちがこの地上での歩みを終えようとするとき、この世の富も、誉れも、健康も、愛する家族ですら、わたしの人生を本当の意味で満たすことはできません。わたしに真実の慰めと平安を与え、わたしの人生を最後の目標へと導くことはできません。

 しかし今やわたしたちは、預言者シメオンと共に、「主よ、今こそあなたはお言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」と告白することができるのです。この告白によって、わたしたちの信仰の歩みを始めることができ、また終えることができるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの約束のみ言葉はすべて成就され、出来事となることを信じます。どうか、あなたのみ言葉によって、わたしたちに真実の慰めと平安をお与えください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

12月21日説教「あなたがたのために救い主が誕生した」

2025年12月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

              降誕節(クリスマス)礼拝

聖 書:イザヤ書9章1~6節

    ルカによる福音書2章1~21節

説教題:「あなたがたのために救い主が誕生した」

 ルカによる福音書は主イエス・キリストが誕生されたクリスマスの出来事を世界史との関連の中で語っています。2章1、2節にこのように書かれています。【1~2節】。また、3章の初めでは、メシア・救い主であられる主イエスのための道を整える役割を果たす先駆者ヨハネが、ユダの荒れ野で「来るべきメシアに備えて、罪を悔い改めて、神に立ち帰りなさい」と説教し始めたことも、世界史との関連で語っています。これらの記述から、主イエスが誕生された時代と年代、主イエスが先駆者ヨハネに続いて神の国の福音を宣教し始めた時代と年代をほぼ特定することができます。今日の研究によれば、主イエスの誕生は紀元1年よりは少し前の紀元前4年ころ、主イエスが公の宣教活動を始められたのが紀元28年ころと考えられています。

 主イエスの誕生を世界史との関連の中で記述することによって、この福音書記者は主に二つの重要なメッセージをわたしたちに残しているのです。その一つは、聖書が記している主イエスの誕生と主イエスの福音宣教のお働きが歴史的な事実であるということです。それは架空の神話ではなく、だれかの作り話でもなく、確かに世界の歴史の中で、しかもあの時代のヨーロッパと地中海沿岸沿岸、中東地域全体を支配していた世界の支配者ローマ帝国の中で起こった出来事であるということを、この福音書は語っているのです。

 さらにこの福音書が語る重要なことは、初代ローマ皇帝アウグストゥス・オクタヴィアヌスと、第2代皇帝ティべリウス・カエサルとその時代の他の支配者たち数人の名前がそこでは挙げられていますが、彼ら世界の支配者たちの中で、神がこれからなそうとしておられる神の救いのみわざは、彼ら世界の支配者のだれかによってなされるのではなく、全くもって世界の指導者からは遠くにいる、ごくごく小さな、貧しい、だれからも注目されることもない、目立たない、ユダヤのベツレヘムに生まれる幼子と、ユダヤの荒れ野で説教する先駆者ヨハネによって、神はご自身の偉大なる救いのみわざを始められるということ、神はこの小さな者たちをお用いになって、ご自分の偉大なる救いのみわざをなそうとしておられるのだということ、そのことをルカ福音書は強調しているのです。

 では、この二つのルカ福音書の特徴から、わたしたちは何を学ぶべきなのでしょうか。一つには、主イエスの誕生というクリスマスの出来事は歴史の事実であり、この歴史の中で主なる神がお働きになられたのだということ、また今も働いておられるのだということを知ることです。神はわたしたち人間の歴史の中へ、わたしたちの生活と歩みの中に入って来られます。神はかつては旧約聖書の時代にはイスラエルの民の中に入って来られ、彼らの中で救いのみわざをなさいました。そして、今、神は全人類の、全世界の歴史の中に、わたしたちすべての人生の歩みの中へと入って来られたのです。

 10、11節にはこのように書かれています。【10~11節】。ここで「民全体」とは、この時点ではイスラエルの民のことを指しているかもしれません。また、「あなたがたのために」とは、神に選ばれたイスラエルの民一人一人を指しているのかもしれません。でも、14節の天使たちの賛美で、【14節】の「地には平和、あれ」の地とは、全世界を指していることは疑いえませんし、1、2節で当時のローマ帝国の皇帝の名前によって全世界のすべての民族が言い表されていることも、疑いえません。神がこの日この世界に誕生させたもうたみ子主イエス・キリストは、全世界のすべての人のための救い主として与えられたのです。クリスマスの出来事は全世界のすべての人に深く関係しているのです。それゆえに、全世界のすべての人がこれを大きな喜びをもってお祝いするようにと促されているのです。

 クリスマスの出来事はおよそ2千年ほど前のあの時代にだけ関係しているのではありません。あの時、世界の歴史の中に入って来られた主なる神は、今もなおこの歴史の中で生きて、働いておられます。わたしたちが今現実に目にしているこの世界の中でも、クリスマスの出来事は大きな意味を持っています。世界の各地で繰り返されている戦争や紛争、爆撃と破壊、失われていく数々の命、あるいは自然破壊、飢餓と貧困、その他あらゆる問題、課題が山積している今日の世界の中で、クリスマスの出来事はそれらのすべてと無関係ではありません。そこでもまた、「恐れるな、わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」というこのクリスマスのメッセージが語られなければならないのです。それが、きょうのクリスマス礼拝に招かれたわたしたちの託されている使命なのです。

 もう一つ、わたしたちがここから学ぶべきことは、このクリスマスの日に誕生された神のみ子主イエス・キリストは目立たない、貧しいお姿でこの世界においでになられたということです。12節にはこのように書かれています。【12節】。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」がクリスマスのしるしであると言われています。世界の歴史の中に入って来られ、偉大なる救いのみわざを始められた神は、このような小さな、貧しい、目立たないしるしをわたしたちに与えておられます。この小さなしるしを、わたしたちは見失わないようにしなければなりません。わたしたちの目は、多くは華々しく見栄えが良く、人の欲望をそそるものへと向けられます。わたしたちの心は、多くは価値があるもの、強いもの、高いものを追い求めようとします。しかし、そこでは、クリスマスのしるしを見いだすことはできません。そこでは、クリスマスの大きな喜びも祝福も恵みを、受け取ることはできません。

 わたしたちがこの小さな貧しいクリスマスのしるしを見いだすためには、神のみ声を聞かなければなりません。「ここにこそ、クリスマスのしるしがある」と言われた神の言葉に耳を傾けなければなりません。そして、信仰の目をもってそのしるしを見なければなりません。わたしたちが信仰の目をもってこの小さな貧しいクリスマスのしるしを見るときにこそ、そこにある大きな喜びと祝福と恵みを受け取ることができるのです。

では、その小さなしるしを信仰をもって見極めるためにはどうすべきなのでしょうか。実は、クリスマスのこの小さなしるしは、この日に誕生された主イエスのご生涯全体と、特に最後の地上の歩みである受難週にまで続いているのです。16世紀の宗教改革者マルチン・ルターは、「布と飼い葉桶の背後には十字架が見える」と言っています。布にくるまれて飼い葉桶の中に寝かされた幼子主イエスは、だれからも注目されず、見捨てられたようにして、家畜小屋で誕生されました。7節に、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」と書かれています。だれも神のみ子の誕生のために、暖かい部屋を提供する者はいませんでした。柔らかなベッドも布団もありませんでした。そのようにして誕生された主イエスの道は、受難週の十字架の死へと続いていくのです。神がすべての人の救い主としてこの世界にお遣わしになった神のみ子を、だれも受け入れず、信じませんでした。主イエスはただお一人で、十字架への道を進まれたのです。そして、ご自身神のみ子であり、聖なる、罪なきお方であられたにもかかわらず、罪びとの一人として裁かれ、十字架で処刑されました。

しかし、ここに、神の隠された救いのみわざがありました。神はわたしたち人間の罪のすべてを、わたしたちに代わってご自身のみ子に背負わせたのです。主イエス・キリストはわたしたちの罪を担われ、わたしたちの罪のための裁きを引き受けられ、わたしたちを罪から救うためにご自身の命を父なる神にささげ尽くされたのです。「あなたがたのための救い主」とはこのような十字架につけられた主イエス・キリストのことなのです。わたしたちがクリスマスの小さなしるしを見るためには、この十字架につけられた主イエス・キリストを信じる信仰が必要なのです。ルターが言ったように、「布と飼い葉桶の背後にある十字架」を見なければならないのです。

ルターは、「布と飼い葉桶」に、わたしたち人間の罪を見ています。神がお遣わしになった救い主をお迎えするための部屋を持っていない人間の罪、神のみ心を悟る知恵を持たず、神なき世界で、自らの欲望と傲慢のままに生きていたわたしたち人間の罪が、そこに象徴されているのです。その罪に気づき、告白し、悔い改めて神に立ち返ることなしには、だれもクリスマスの本当のしるしを見いだすことはできません。。

最後に、ルカ福音書が主イエス誕生のクリスマスの出来事を世界史との関連の中で語っていることのもう一つの意味について考えてみましょう。2章と3章の初めに、当時のローマ帝国の初代皇帝と第2代皇帝の名前と、イスラエル周辺世界の支配者たちの名前が幾人か書かれていますが、それらの支配者たちはクリスマスの出来事の主人公ではありません。世界の救い主ではありません。クリスマスの出来事は彼らのわきをすり抜けていきます。そして、歴史からは見捨てられているかのように思われる、小さく貧しいあのしるしへと行きつくのです。布にくるまれて飼い葉桶の中に寝かされている幼子主イエスこそが、全世界の救い主であり、すべての人の唯一の主なのです。

ルカ福音書はこのことによって、当時世界の支配者であり主であると自称していたローマ皇帝が世界最高の主なのではなく、わたしたちのために十字架で死んでくださり、わたしたちを罪から救ってくださった主イエス・キリストこそが、全世界の、唯一の主であるのだということを、あの時代に向かって、また今の時代に向かって語っているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、 きょうの秋田教会のクリスマス礼拝にわたしたち一人一人をお招きくださいましたことを、心から感謝いたします。どうか、わたしたちの上にクリスマスの大きな喜びと祝福、そして恵みが与えられますように。そして、世界のすべての人たちにもクリスマスのメッセージが届けられますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

12月14日説教「主イエスのために道を整える洗礼者ヨハネ」

2025年12月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

              待降節(アドヴェント)第三主日

聖 書:マラキ書3章1~3節

    ルカによる福音書1章57~80節

説教題:「主イエスのために道を整える洗礼者ヨハネ」

 待降節(アドヴェント)の2週の主の日の礼拝で、これまでわたしたちはルカによる福音書1章を続けて読んできましたが、そこでは2人の男の子が神の奇跡によって誕生するであろうという約束が語られていました。一人は、年老いてから神の奇跡によって初めての子どもを授かったザカリアとエリサベト夫妻に生まれるであろう先駆者ヨハネ。もう一人は、婚約中でありまだ一緒になっていなかったヨセフとおとめマリアに聖霊によって生まれるであろうメシア・キリストなる主イエス。

そして、この二人の誕生予告に続いて、きょう読んだ57節には、このように書かれています。【57節】。ザカリアとエリサベトに語られた男の子誕生予告がここで成就しています。わたしたちはここであらかじめ、半年先に起こることを先取りして、2章6節、7節を読んでみましょう。【6~7節】(102ページ)。ここでは、ヨセフとマリアに語られた男の子誕生予告もまた成就します。

このように、神の約束のみ言葉は必ず成就します。神の二つの奇跡が共に出来事になります。このことは、ごく自然に起こっていると言えるのかもしれません。母親が受胎して一定の期間が過ぎると、子どもの出産のときを迎えるということは自然な経過と言えるでしょう。しかし、わたしたちはここに神の特別なみわざを見るのです。それは、神がお語りになったみ言葉は必ず成就する、神のみ言葉は出来事となるという真理を、ここに読み取ることができるということです。

1章57節に「月が満ちて」と書かれており、また2章6節にも「マリアは月が満ちて」と書かれています。「月が満ちる」と訳されているギリシャ語原典は直訳すると「時が満ちる」です。時が満ちるとは、この場合はエリサベトとマリアの妊娠の期間が満ちて、出産の時を迎えたという意味ですが、ここでは二組の夫婦に語られた神の約束の時が成就したという意味も当然含まれています。それだけではありません。「時が満ちる」とは、神が語られたすべてのみ言葉が、その成就の時へと向かっているということの約束であり、また成就であり、その実現なのです。預言者イザヤはイザヤ書55章でこう預言しています。「雨も雪も天から降れば、それは空しく天に帰ることはない。大地を潤し、芽を出させ、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉は、空しくわたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」(イザヤ書55章8~11参照)と。同じような神のみ言葉は旧約聖書と新約聖書に数多く見いだされます。

ある人は、教会を妊娠した女性にたとえています。教会は神の約束の言葉を聞き、神の国の完成の時、救いの完成の時、永遠の命が与えられる時を待ち望みながら今を生きている人たちの群れです。それはちょうど、胎内に子どもを宿し、出産の時を待つ女性と同じだというのです。教会は神の言葉を聞き、その言葉が成就することを信じながら生きています。終わりの日には、今のこの混乱した世界が終わり、新しい神の国が完成するであろうことを信じ、またわたしの弱くたどたどしい信仰がその日には完成され、わたしに永遠の命が与えられるであろうことを信じ、その日を待ち望みながら生きている信仰者たちの群れ、それが教会です。胎内に子どもを宿した女性は、日に日に新しい命の胎動を強く、確かに感じながら、出産の時が近づいていることを、喜びと希望を抱きながら、時が満ちるのを待ち望んでいます。わたしたちの教会もまた、それと同じように、神の言葉である聖書に聞きつつ、その聖書の解き明かしである説教を聞きつつ、神の約束の時が確かに近づいてきていることを信じつつ、「主よ、来たりませ」と祈りつつ、時が満ちるのを待ち望んでいるのです。神の言葉はまだ現実とはなっておらず、出来事としては起こっておらず、いまだ成就の時は来ていないけれども、その神の約束の言葉の中にはすでに成就を含んでいるのだということを、わたしたちは知らされます。それゆえに、神の言葉を聞きつつ待ち望む信仰者の待望の時は、決して空しく終わることはありません。

次に、58節を読みましょう。【58節】。ここでは、ザカリアとエリサベトの年老いた夫婦の喜びが、その家の中だけにとどまらずに、多くの人たちの喜びとなったことが語られています。一人の人の喜びが他の人の喜びになる。このような喜びこそが、本当の喜びであると言えるでしょう。そのような喜びはどこから来るのでしょうか。「主がエリサベトを大いに憐れまれたと聞いて」と書かれています。この喜びは天の父なる神から与えられた喜びです。人が自分の努力で勝ち取った喜びではありません。この世には、そのような喜びがあるでしょうが、しかし、その喜びの背後には多くの場合、別の人の悲しみや妬みや怒りがあったりします。自分の喜びを手に入れるために、だれかの喜びを奪い取るということもあります。そもそもわたしたち人間は、共に喜びを分かち合ったり、共に重荷を負い合ったりすることができない、自己中心的な罪びとなのです。

けれども、神から来る喜びは、わたしたちが共に喜び合うことを可能にします。神が大きな憐れみをおかけくださったことを知らされた人が、どうしてそれを自分だけに閉じ込めておくことができましょうか。そこでは、妬み合いや奪い合いは起こりえません。共に分かち合うようにと導かれます。教会は神の憐れみと恵みによって罪から救われている人たちの群れであり、共に喜び合う群れです。それゆえにまた、共に悲しみや重荷や痛みをも分かち合い、担い合うことができる信仰者たちの群れなのです。

実は、このザカリアとエリサベトの家とその周辺に広がった喜びは、後で2章に書かれているクリスマスの大きな喜びの照り返しなのであり、いわばその先取りなのです。2章10節、11節を読んでみましょう。【10~11節】(103ページ)。ザカリアとエリサベトとから生まれる先駆者ヨハネが、来るべきメシア・主イエスのために道を整える務めを持ち、やがておいでになる主イエスを指し示し、主イエスのために道を整える務めを託されている特別な人物であるゆえに、その来るべきクリスマスの大きな喜びが、ここにすでに差し込んできているのです。

59節からは、生まれて8日目の割礼を施す儀式と名前をつける儀式のことが記されています。旧約聖書の律法に定められているように、イスラエルの民は神に選ばれた契約のしるしとして、男の子は生後8日目に生殖器の一部の皮を切り取る割礼を受けます。同時に、命名の儀式も行いました。多くの親類が彼らの家に集まっていました。その時に、不思議なことが起こりました。

名前をつけることは父親の務めでした。けれども、父ザカリアは20節に書かれていたように、、子どもが与えられるという神の約束の言葉を信じなかったために、神の裁きを受けて口がきけなくされていましたから、家に集まっていた親族たちが父親の代役を果たすことになりました。彼らは父の名前と同じザカリアにしようと相談します。ところが、エリサベトは「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と、彼らの考えに反対します。ここで、最初の不思議なことが起こっています。当時は、今よりははっきりとした男性社会でしたから、公の場での女性の発言はほとんど認められていませんでした。しかし、ここでエリサベトは多くの男性たちの前で、彼らの意見に反対して、はっきりと自分の主張を宣べています。なぜ、どうしてエリサベトはこのようなことを言うのでしょうか。多くの男性たちの前で、彼らに反対して、しかもその家系に伝わる名前とは全く違っている名前を主張するのでしょうか。彼女をこのように大胆に勇気ある女性にしているのは何なのでしょうか。

その答えは、すでにわたしたちも聞いてきたように、主なる神が父ザカリアに男の子が与えられるであろうと約束された際に、「その子をヨハネと名づけなさい」と13節でお命じになっておられたからです。エリサベトもその神の約束を聞いていたからです。神の言葉に聞き従う時、エリサベトはその時代の慣習や社会制度や、多くの男たちの意見にはっきりと逆らって、自分の意見を述べる大胆さと勇気とを与えられるのです。そのようにして、エリサベトは神のみ心を行うのです。

さらに不思議なことが続きます。【62~63節】。ここで、エリサベトとザカリアとの意見が一致します。この夫婦の一致は、共に神の約束のみ言葉に聞き従ったことによって与えられた一致です。ここにこそ、夫婦の一致があります。また、人間と人間の一致があります。単に、性格が似ているとか、価値観が同じとか、そのようなことからくる一致ではなく、共に神の言葉に聞き従うことから与えられる一致こそが、真の一致です。そしてこの一致によって、共に家庭や社会の慣習を変革していく力、この世の常識とか価値観とかをも打ち破っていく勇気が与えられるのです。ザカリアとエリサベトはそのような固い一致に結ばれました。

【64節】。ザカリアが神の言葉に聞き従わなかった時には、彼は口を利くことができませんでした。彼が神に不従順であった時には、彼は言葉を失っていました。神によって言葉を奪われていました。しかし今、彼は神の約束の言葉を信じるようになり、書き板に「その子の名はヨハネ」と書くのです。その時、ザカリアに言葉が与えられました。神を疑ってつぶやくための言葉ではなく、神に不従順であった時に語った自己を誇る言葉でもなく、まただれかを傷つける愛のない言葉でもなく、神を賛美する言葉を与えられたのです。それが、68節以下のザカリアの賛歌です。

このザカリアの賛歌は、46節以下のマリアの賛歌と同様、まだ待降節(アドヴェント)であると時にうたわれた歌ですが、その内容はすでに降誕日(クリスマス)に与えられであろう神の救いの恵みを歌っています。冒頭の67節~70節を読みましょう。【67~70節】。そして、メシア・救い主に先だって道を整える先駆者ヨハネ自身については、76節以下でこのように歌われています。【76~80節】。このようにして、待降節(アドヴェント)から降誕日(クリスマス)へと進むのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたのみ言葉は命と力とを持ち、またわたしたちの罪をゆるし、わたしたちを新しい命へと導きます。どうか、わたしたちをあなたのみ言葉に従順な者にしてください。喜んであなたのみ言葉に聞き従うことによって、あなたのご栄光を現わすことができますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

12月7日説教「マリアの賛歌」

2025年12月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

             待降節(アドヴェント)第二主日

聖 書:イザヤ書61章1~4節

    ルカによる福音書1章39~56節

説教題:「マリアの賛歌」

 ルカによる福音書1章と2章では、先駆者ヨハネと主イエスの誕生予告と誕生の記録が、交互に配置されています。1章5節からは、来るべきメシアである主イエスのために道を整える先駆者ヨハネの誕生予告が語られ、続く26節から、そのメシア・救い主である主イエスご自身の誕生予告が、そしてきょう朗読された39節~45節では、二人の母親となるエリサベトとマリアの出会いの場面、更に46節からはマリアが歌った賛歌と続きます。二人の誕生が予告されたとおりに、57節以下ではヨハネが誕生したことが、それに続いてヨハネの父ザカリアの賛歌、2章1節からはメシア・救い主である主イエスの誕生の記録が語られていきます。

ルカ福音書はこのように先駆者ヨハネと救い主・主イエス・キリストとを並べて配置することによって、旧約聖書で預言されていたメシア・救い主の到来が実際にこのようにして成就したのだということを強調しているのです。旧約聖書時代の長い長い待降節、アドヴェントの期間、救い主を待ち望む期間が、今や終わろうとしている。神の救いのご計画が今やその最後の完成へと向かいつつある、待降節(アドヴェント)から降誕節(クリスマス)へと確かに世界の歴史が進みつつあるということを、ルカ福音書は語っているのです。

 そのような意味からいっても、きょうのエリサベトとマリアの出会いの場面は、非常に興味深く、また印象的な場面であると言えます。ここで出会っている二人の母になろうとしている婦人は、共に神の奇跡によって、特別な使命を与えられた男の子を胎内に身ごもっています。エリサベトは年老いて、もはや子どもが授かる可能性がなくなってから、神の奇跡によって男の子を宿しました。「あなたの胎内に宿っている男の子をヨハネと名づけなさい。その子は主・メシアに先立って、人々が来るべきメシアを迎えるために道を整えるであろう」との神の約束のみ言葉を聞きました。

一方、マリアはヨセフと婚約していましたが、まだ一緒になる前に次のような神の約束のみ言葉を聞きました。「あなたの胎内に宿っている男の子は聖霊なる神から与えられる命である。その子をイエスと名づけなさい。その子はまことの神でありまことの人として、ダビデ王に約束された永遠の王国を打ち立てるであろう」と。

 エリサベトとマリアはいずれも神の奇跡によって母になろうとしています。神の奇跡によって母となり、生まれ出るその子が神からの偉大なる使命を託されている、そのような二人の婦人がここで出会っています。ここで起こっている出会いの、深い意味を更に探っていくことにしましょう。ここでは、神の奇跡と神の奇跡とが出会っています。一つの神の奇跡が起こるとき、それはだれにとっても大きな驚きであり、感動であり、喜びであり、また恵みです。しかもここでは、二つの神の奇跡が出会っているのです。神の奇跡と神の奇跡とが出会っているのです。奇跡の中の奇跡、奇跡×奇跡ともいうべき奇跡がここでは起こっているのです。

 ここで実際に起こっている二人の婦人の出会いという奇跡を考えてみましょう。年老いてから母になったエリサベトと、結婚前に聖霊によって母になるであろうと言われたマリアは、36節によれば、親類関係でした。どういう関係かは明らかではありませんが、エリサベトはユダの町に住む祭司ザカリアの妻であり、マリアはずっと北のガリラヤ地方のナザレという町に住む庶民でした。二人が出会う機会は、そんなになかったでしょう。でも今回は、聖霊によって母になるであろうとの神の約束のみ言葉を聞いてまだ不安に思っていたマリアが、その不安を取り除き、神の約束が確かであることを確認するために、神の導きによって出会う機会を与えられたのです。36節へもう一度目を移しましょう。【36節】。マリアはこの神のみ言葉に導かれて、エリサベトが住むユダの町へと急いだのでした。

 わたしたちも人生の歩みの中でさまざまな出会いを経験します。感動的な出会いもあります。そうでない出会いもあるかもしれません。でも、いずれにしても、ここで起こっているエリサベトとマリアのような出会いを、わたしたちもぜひとも経験したいものだと願います。共に神の奇跡によって大きな、驚くべき恵みをいただいている二人の婦人の出会い、神の永遠なる救いのご計画の中心を担うべき二人の人物の母として選ばれたエリサベトとマリア、そしてその出会いによってお互いの喜びと希望を再確認するような出会い、神からいただいた恵みをお互いに確認し合い、その信仰を強め合うような出会い、そのような出会いを、わたしたちもぜひとも経験したいと願います。

もう少し、ここで起こっている出会いの意味を探っていきましょう。ここでは、旧約聖書の預言と新約聖書の成就とが出会っていると言えるでしょう。先駆者ヨハネは旧約聖書の預言者たちの列の最後に立って、来るべきメシア・救い主のすぐ前で、6か月後に誕生するであろうメシア、主イエス・キリストを指し示し、イスラエルの民が長く待ち望んだメシア到来を告げるのですが、その先駆者ヨハネの母となるエリサベトと、先駆者ヨハネが指し示したメシアである主イエスの母となるマリアとが、ここで出会ったいるのですから、ここではまさに旧約聖書と新約聖書とが出会っていると言えるでしょうし、神の預言と神の成就とが出会っている、とも言ってよいでしょう。神のみ言葉はすべて出来事となり、神の救いのご計画はすべて成就されるということを、わたしたちはここから知らされます。

もう一つ、ここで起こっている出会い、もう一つというよりは、これこそがここで起こっている不思議な出会いの中心である、次のこの出会いへと目を向けなければなりません。40節以下を読みましょう。【40~45節】。なんと、ここでは、エリサベトの胎内にいる、受胎後6か月を過ぎた先駆者ヨハネと、マリアの胎内におられる、受胎告知を受けてまだ間がない救い主・主イエスとが出会っているということが語られているのです。受胎して半年が過ぎれば、胎動が感じられるようになると、一般的には説明されるかもしれません。その説明は、実際にリアルです。まだ表に現れ出ていない命の胎動が母親のおなかから伝わってくるということは、とても感動的です。でも、ここで起こっている出会いはそれ以上です。というのは、マリアの胎内に宿っている命は、まだ数日、あるいは数週間に過ぎないからです。しかも、その小さな、小さな命の存在と、エリサベトの胎内に宿っている6か月を過ぎたばかりの命が、お互に出会っている、いやそれだけでなく、エリサベトの胎内の命がマリアの胎内の命に、いわば敬意を表して、喜び躍っていると書かれているのです。すべての預言者たちを代表している先駆者ヨハネが、その預言者たちの預言の成就の時が今来たことを知り、そのメシア・主イエスと直接対面してお迎えしていることを知らされて、喜びに満たされて、躍っている。そのことが今すでにエリサベトとマリアの出会いの時に実現している様子がここには描かれているのです。これほどに感動的で、意味深い出会いはどこにあるでしょうか。わたしたちもまたこの大いなる出会いの感動と恵みに共にあずかりたいと切に願う者です。

マリアはエリサベトと出会って、貧しい自分に神から与えられている大きな祝福を覚え、賛美の歌を歌いました。46節からは「マリアの賛歌」と言われる歌が記されています。この歌は、わたしたちがこれまで学んできたエリサベトとマリアの出会いの中に含まれていた神の救いの恵みとマリアに与えられた神の大いなる祝福に対する、マリアの応答として歌われています。この歌は、まだ主イエス誕生の出来事そのものではなく、待降節の中で歌われているのですが、わたしたちがすでにエリサベトとマリアの出会いの箇所で学んだように、すでにここで待降節と降誕節とが出会っていますので、この歌の中でも、すでにクリスマスの出来事の意味が歌われています。それを読み取っていきましょう。

「そこで、マリアは言った。『わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神をほめたたえます』」(46~47節)。この歌のラテン語訳聖書の冒頭の言葉、「あがめる」という意味のラテン語から「マグニフィカート」と呼ばれます。マリアは冒頭で「わたしの魂は」「わたしの霊は」と繰り返しています。これは、単に「わたしは」と言うよりも強調した言い方です。わたしの魂と精神、わたしの体と心、その全身、その全存在をもって、主なる神をほめたたえますという意味あいです。わたしの全生活をもって、わたしの全生涯を貫いて、わたしのすべての命をかけて、わたしは主なる神をあがめます、喜びたたえますという意味です。これこそが、神の奇跡によって救い主の母とされたマリアがなすべきことなのだと言えます。そしてまた、今主のご降誕を待ち望みつつ、救い主をお迎えしようとしているわたしたちがなすべきことも、これ以外ではありません。

「あがめる」という言葉は本来「大きくする」という意味を持っています。「主をあがめる」とは、主なる神だけを大きくする、他のすべてを、わたしとわたしの周辺にあるすべてをも含めて、それらを主なる神のみ前で限りなく小さくしていくということです。特にも、わたし自身を主なる神のみ前に小さくしていくということです。自らを主なる神のみ前で小さくし、低くし、貧しくし、謙遜になる。そして主なる神だけを大きくしてあがめる。そうすることによって、すべての善きものを主なる神から期待し、願い求める。これが救い主をお迎えするわたしたちの正しい姿勢、生き方なのです。

マリアは47節で、主なる神を「わたしの救い主」と呼んでいます。ここには二つの意味が含まれています。一つには、マリアは救いを必要としている罪びとであるという告白です。マリアはメシア・救い主の母となるために神に選ばれました。それは、なんという大きな神からの祝福であることでしょうか。42節でエリサベトは「あなたは女の中で祝福された方です」と言っています。マリア自身も48節で、「いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」と言っています。でも、彼女自身に何か優れている点があって、そうなのではありません。マリアが祝福されているのは、ほかでもなく彼女が胎内に宿している神のみ子・主イエスが祝福された方であるからであって、彼女自身は38節でも48節でも、「わたしは主のはしため・僕(しもべ)です」と告白しています。「わたしは貧しく、低く、神の救いを必要としている罪びとです」。このマリアの告白が、彼女を祝福された人にしているのです。

「救い主」のもう一つの意味は、これこそがクリスマスの中心的な意味なのですが、主なる神は救いの神であるということです。マリアにとってそうであるだけでなく、全世界のすべての人にとって、神は救いの神として、今この時この世界においでになられたのです。わたしたちすべてを罪から救うために、神はみ子主イエス・キリストとしてこの世においでくださいました。そして、このみ子の十字架の死と復活によって、わたしたちの救いを成し遂げてくださったのです。それゆえに、今全世界のすべての人々と共に、このみ子のご降誕をお祝いするのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがこの罪の世を顧みてくださり、み子をわたしたち人間と同じお姿でこの世にお遣わしになったことを、心から感謝いたします。願わくは、このアドヴェントの時に、すべての人々があなたのみ前に自らの罪を告白し、あなたがみ子・主イエス・キリストによってお与えくださった救いの恵みを、心から待ち望む者とされますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。