2月22日説教「父なる神と主イエス・キリストから恵みと平和があるように」

2026年2月22日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:民数記6章22~27節

    ローマの信徒への手紙1章1~7節

説教題:「父なる神と主イエス・キリストから恵みと平和があるように」

 ローマの信徒への手紙1章1~7節は、当時の手紙の書式にならって、手紙の差し出し人であるパウロの名前と簡単な自己紹介が1節に書かれ、受けり取人であるローマの教会について7節前半で書かれ、その間の2~6節には、神の福音についての説明文が長く挿入されていて、そして7節後半で祝福の言葉が語られるという構造になっています。このような書式は、長い挿入文は別として、聖書に収録されている他のパウロの書簡でも、またパウロ以外の書簡でも、ほぼ共通しています。

 きょうは7節後半の祝福の言葉について学びます。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストから恵みと平和が、あなたがたにあるように」。このように、手紙の冒頭で相手の祝福を祈るという習慣は、古代社会では一般的であったと言われています。手紙の冒頭で相手に祝福を祈るという古代社会での習慣について、改めてその深い意味を思わされます。今日のように、交通が便利ではなく、頻繁に顔を合わせることができない時代、あるいは電話とか電信による通話ができなかった時代に、遠くに離れた相手に自分の思いや願いを伝える唯一の手段であった手紙の一字一句に、深い思いと祈りを込めて書くということの意味を、考えさせられます。

 それだけでなく、聖書にあるパウロの書簡、他の使徒たちの書簡では、より深く重要な意味があったということを、わたしたちは確認しておく必要があります。パウロが「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と書いた時、それは当時の一般的な慣習としての挨拶ではありませんでした。また、「あなたに祝福があるように」という個人的な願いというのでもありませんでした。パウロが書いた祝福の言葉には、父なる神とみ子なる主イエス・キリストによる偉大な救いのみわざがすでにあり、その救いのみわざを信じている信仰者の群れである教会がすでにそこに建てられているという、大きな救いの出来事があり、確かな事実があり、それに基づいて、「恵みと平和があなたがたにあるように」と祈られているのだということに気づかされるのです。

 したがって、「あなたがたにあるように」とのパウロの祈りは、「そうあったらよいね、そうなってほしいね」という彼の個人的な願いではなく、「すでに、神と主キリストから、恵みと平和が、確かに、豊かに、あなたがたに与えられている。そのことを覚えて感謝せよ。また、わたしと一緒にその恵みと平和を分かち合いましょう」という、神の恵みと平和への招きの言葉なのであり、あるいは、神の恵みと平和によって与えられている信仰者の霊的な、深い交わりの確認というような意味も含まれているのです。パウロのこの言葉は、祝福を祈るというよりは、祝福を与える、届ける言葉であると言ってよいでしょう。これが、聖書の中で言われている祝福の祈りの意味なのです。

 では次に、パウロの他の手紙の挨拶文と祝福の言葉を調べてみましょう。コリントの信徒への手紙一1章3節(299ページ)では、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」。これは、ローマ書と全く同じです。コリントの信徒への手紙二1章2節(325ページ)、これも全く同じ。このほか、エフェソ書、フィリピ書、それからテサロニケ書二の三箇所もすべて同じです。テサロニケ書一1章1節だけは「恵みと平和が、あなたがたにあるように」と、簡潔になっています。パウロの手紙の中でこのテサロニケ書一が最も早く、紀元50年ころに書かれたと推測されていますので、これが基準になって、これに「父なる神と主イエス・キリストから」という言葉が付け加えられていったと考えられています。

 ところで、みなさんは手紙の冒頭にどのような挨拶を書くでしょうか。クリスチャンであれば多くは「主の御名を賛美します」と書いておられるのではないでしょうか。それでよいのですが、パウロの書簡を読んでいるわたしたちは、パウロにならって、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストから、恵みと平和があるように」と書くのもよいのではないでしょうか。

 さて、この祝福の言葉の内容について学んでいくことにしましょう。「わたしたちの父なる神」と「主イエス・キリスト」が「恵みと平和」の源泉、出どころと言われています。この点において、一般社会での手紙の祝福の言葉とは根本的に違っています。パウロの手紙では、「恵みと平和」がどこから来るのかをはっきりと知っています。それだけでなく、前にも言いましたように、「恵みと平和」はすでに父なる神と主キリストから豊かに、確かに、与えられているということを、パウロもローマの教会員も知っているのです。

 父なる神と主イエス・キリストが、どのような関係にあるのかについては、ここでは何も語られていません。キリスト教教理の中心である「三位一体論」は、パウロ書簡の中ではまだ明確になっていません。父なる神とみ子なる神・主イエス・キリスト、そして聖霊なる神が、三つの位格を持つ一人の神であるであるという「三位一体論」は紀元2世紀から4世紀にかけて、次第に形成されていきました。しかしそれは、パウロ書簡などの聖書の証言とは違った教えを、教会が勝手に創作したということでは全くありません。福音書での主イエスご自身の教えとお働き、またパウロ書簡やその他の使徒たちの証言と信仰を土台として、聖書全体のみ言葉から導き出された結論として、「三位一体論」の教理が形成され、今日の教会の中心的な教理となったのです。パウロ書簡の中にも、当然「三位一体論」の基本があると言えます。

 旧約聖書の伝統的な信仰から言えば、父である神から恵みと平和が来ると考えられますが、ここでは「主イエス・キリストから」が付け加えられています。なぜならば、主イエス・キリストによって、神がわたしたちの父であることが旧約聖書時代よりもより明確に現わされ、その父なる神の恵みと平和がより豊かに、より現実的にわたしたちに与えられるようになったからです。神が主イエス・キリストによって、わたしたちのためのすべての救いのみわざを成し遂げてくださいました。それゆえに、わたしたちは主イエス・キリストをわたしたちの救い主と告白し、父なる神を唯一の天の父として持ち、神の子どもたちとされているのです。

 「恵み」という言葉は、ギリシャ語では「カリス」ですが、当時のギリシャ社会ではごく一般的に用いられていた言葉です。日常の挨拶で、「カイレ」(恵みあれ)、と言葉を交わしていました。ちなみに、今日のギリシャ語では、カリス(恵み)と「日」を意味する「メーラ}を合わせて、「カリメーラ」(良い日)と挨拶しているそうです。

 聖書では恵みという言葉には特別な意味が込められています。パウロ書簡では恵み(カリス)という言葉は100回以上も用いられており、パウロの信仰と神学を特徴づけています。聖書でいう恵みとは、本来それを受けるに値しない人に、神の側から、神の憐れみによって、無償で、また一方的に差し出される恵みのことであり、わたしたち人間の側では、その恵みをただ感謝と恐れとをもって受け取り、その恵みが持つ圧倒的な力に驚きつつ、その恵みに応えて、新しい自分となって生きるようにされる、そのような恵みを言います。

 パウロにとってその恵みとは、第一には、罪びとに与えられた罪のゆるし、救いの恵みです。人間はみな罪びとであり、神の裁きを受けて死すべき者であるにもかかわらず、神のみ子主イエス・キリストが罪びとたちの罪をすべて負ってくださり、罪びとたちに代わって十字架で死んでくださいました。ご自身の聖なる汚れのない血を贖いの供え物として父なる神におささげくださいました。それによって、すべての罪が贖われいます。すべての罪がゆるされています。だれでも、この主イエス・キリストの十字架の福音を信じるならば、神からの恵みによって、一方的に神から差し出される恵みによって罪ゆるされ、救われます。これが、わたしたちに与えられている救いの恵みです。これこそが、わたしたち人間に与えられた最も大きな、高価で高貴な、そして偉大なる恵みです。その恵みが、わたしたちの父である神と主イエス・キリストから、わたしたち一人一人に与えられているのです。

 平和という言葉は、旧約聖書のヘブライ語では「シャローム」、新約聖書のギリシャ語では「エイレーネー」です。ユダヤ人は今日でも挨拶を交わす時は「シャローム」と言うそうです。旧約聖書のシャロームという言葉は、神と人間との関係が完全であり、破れがなく、すべてにおいて満たされている状態を意味すると考えられています。パウロもそのシャロームのギリシャ語である「エイレーネー」を「平安、平和」という意味でたびたび用いています。

 以前に使用していた『口語訳聖書』では、その箇所に応じて「平安」または「平和」と訳し分けられていましたが、『新共同訳聖書』ではほとんどが「平和」と訳されています。日本語のニュアンスは少し違いがあるように思われます。「平安」が心の中の安心感や平穏な思いという、内面的意味合いが強いのに対して、「平和」には社会的・政治的意味合いが強くなるように感じられます。どちらに翻訳するにしても、この言葉は神と人間との関係が内面的にも外面的にも、すべてが満たされている状態を意味しています。

 では、実際にパウロはこの手紙の中で「平和」をどのような文脈で用いているかをみていきましょう。【5章1~2節】(279ページ)。ここでは、平和が神と人間との正しい関係を言い表していることが明らかです。10節では「神との和解」という言葉も用いられています。罪によって神から離れ、神なしで生きていた人間、それだけでなく神に敵対して生きていた人間が、み子主イエス・キリストの十字架の死によって罪ゆるされ、神との敵対関係が終わり、神と和解が与えられた、それが平和です。この神との平和の関係は、どのような第三者の介入によっても決して破られることがない永遠の平和です。神のみ子がご自身の死をもってわたしたちのために築いてくださった平和だからです。

 パウロは14章17節でこのように書いています。「神の国は……聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」。わたしたちは今すでにこのような永遠なる神の国での義と平和の中に招き入れられています。そして、終わりの日には父なる神とみ子主イエス・キリストとの完全で永遠なる平和の中で喜びと希望と慰めに生きるようにされるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちがあなたとの全き平和の中に招き入れられておりますことを感謝いたします。わたしたちからすべての恐れや不安、迷いを取り去ってください。あなたがわたしの中でわたしのすべてとなってくださいますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

2月15日説教「主イエスを受け入れる人は、主イエスに受け入れられる」

2026年2月15日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編103編1~13節

    ルカによる福音書12章8~12節

説教題:「主イエスを受け入れる人は、主イエスに受け入れられる」

 主イエスは地上の歩みをしておられるときすでに、弟子たちがのちになって経験するであろう迫害について、しばしば語っておられました。前回学んだルカによる福音書12章4~7節ときょう朗読された8~12節でも、弟子たちを待ち受けている迫害に備えるべきことが教えられています。4~7節で、主イエスは言われます。「あなたがたはこの世の権力者たちによって命を奪い取られるほどの迫害を経験するかもしれない。でも、体の命を奪い取る者はそれ以上のことはできない。だから、恐れるには及ばない。本当に恐れるべきは、剣によって命を奪い取るこの世の権力者ではなく、人間を永遠の滅びに定める権威を持っておられる天の神である。最後の審判をなさる天の神をこそ恐れよ。この神は、あなたがたを愛し、あなたの髪の毛一本をも残らず数えておられるからだ」と。

 また、主イエスはご自身が弟子たちに先立ってユダヤ人指導者たちから迫害を受け、排斥され、殺されるであろうと予告されたした。マタイ、マルコ、ルカの共観福音書にはそれぞれ3回の受難予告が語られています。ルカ福音書の1回目は9章22節です。【22節】(122ページ)。この時から、エルサレムに向かっての主イエスのご受難の道が、十字架への道が始まります。そして、更にこのあと、9章44節と18章31節以下で、主イエスはご自身の受難予告をされます。

 この主イエスの受難予告と弟子たちの迫害予告とは密接に関連しています。主イエスはイスラエルと全人類の救い主、メシア・キリストとして神から遣わされましたが、ユダヤ人指導者たちは彼を救い主として受け入れず、主イエスを偽りの裁判で裁き、十字架に引き渡しました。主イエスを信じ、従う弟子たちもまた、主イエスと同じ道を歩まざるを得ません。弟子たちは、不信仰でかたくななユダヤ人とこの世の権力を誇るローマ帝国から厳しい弾圧と迫害を受け、命の危険にさらされなければなりません。主イエス・キリストを信じる信仰者はいつの時代にも、罪と不信仰に支配されているこの世から敵視され、排斥されるのです。

 主イエスと弟子たちとの共通点は、同じような苦難と迫害の道を歩むということだけではありません。主イエスはご自身の受難と十字架への道をご存じでしたが、それが父なる神のみ心であり、神が備えられた道であると信じて、その道を避けようとはなさらず、むしろ喜びをもってその道を進み行かれました。また、主イエスが弟子たちに迫害の予告をされた際にも、彼らがどうしたら迫害を避けて通ることができるかを話されたのではなく、むしろそれを当然のこととして、神のみ心として受け入れるべきであるということ。いや、それだけでなく、彼らがどのような苦難や試練の中にあっても、神は強いみ手と大きな愛をもって彼らをお守りくださるということを、主イエスは何度も強調されたのです。一羽の雀すらも、それを創造された神のみ心なしには地に落ちることがないように、いや、それ以上の大きな神の愛が人間に注がれているのであるから、神のみ心なしには一本の髪の毛すらも地に落ちることはない。それゆに、弟子たちは、またわたしたち信仰者は主なる神をこそ恐れるべきなのであり、それゆえにまた、主なる神以外のいかなるものをも恐れるべきではない、恐れる必要はないのだと、主イエスは言われるのです。

 8節から、主イエスは続けてこのように言われます。【8~9節】。ここでも、弟子たちの迫害の状況が予想されているように思われます。弟子たちはこの世の人たちの前で、「おまえはイエスの仲間か。イエスを信じるのか」と問われます。また、時には、この世の法廷に立たされ、「おまえはイエスを主と告白するのか。もし、そのように告白するなら、おまえの命はないぞ」と迫られます。そのような迫害と命の危機の中で、弟子たちが、そしてわたしたちが、主イエスこそがわたしの主であり、わたしの救い主であり、また全世界の唯一の主であると告白する信仰が、ここでは求められているのです。

 8節で「言い表す」と訳されているもとのギリシャ語は、他の箇所では多く「告白する」と訳されます。人々の前で、あるいはこの世の法廷で、自分の信仰を公に言い表す、告白するという意味です。2節と3節でも同じようなことが言われていました。主イエスの福音は今や隠されてはいません。神の国の福音は、人となられた主イエスによってこの世界に現れ、誰の目にも確認できるようにはっきりと現わされました。そのことは、すでに8章16節以下でも、ともし火のたとえで語られていました。罪のこの世を照らし、すべての人のまことの光なる主イエス・キリストの福音は、燭台の上に高く掲げられ、すべての人に公にされていると、主イエスは語られました。それゆえに、主イエスを信じ従う弟子たちは、またわたしたち信仰者は、いついかなる時にも、どのよう場所や場面でも、「わたしは主イエスの仲間である。主イエスを信じる者である。主イエスに従う者である」と告白するように、招かれているのです。

 「人の子」とは主イエスご自身を指しています。主イエスがご自分のことを「人の子」と言われる場合には、ご自分が旧約聖書の中で神が約束しておられたメシア・キリスト・救い主であるということを強調していると思われます。先ほど読んだ主イエスの第1回目の受難予告である9章21節でも、「人の子は必ず多くの苦しみを受け」と言われていました。主イエスは神のみ子であられましたが、人間となられ、ヨセフとマリアの子としてクリスマスの日にこの世界に誕生されました。主イエスはわたしたち罪びとと同じ人間となられ、わたしたち人間の罪をご自身が担ってくださり、わたしたち罪びとの一人に数えられ、裁かれ、十字架で死んでくださったのです。そのようにして、神の救いのみわざを成し遂げてくださったのです。「人の子」という表現には、そのような救いのみわざが暗示されています。

 ここでも一つ重要なポイントは、「人々の前で」と「神の天使たちの前で」とが対比されていることです。「人々の前」でとは、この世界で、今の時代の中でという意味であり、「神の天使たちの前で」とは、終末の時の神の最後の審判の場でという意味です。「神の天使たち」とは、最後の裁きの法廷で裁判長であられる神の傍らで仕える天使たちを指しています。主イエスはここで、すべての人間は終わりの日に、終末の時に、主なる神のみ前に引き出され、それぞれの地上の歩みに応じて神の最後の審判を受けるという、終末信仰について語っておられます。このような主イエスの終末信仰は、福音書の中に数多くみられます。最もよく知られているのが、マタイ福音書25章31節以下で語られている最後の審判に様子です。その時には、羊飼いが羊と山羊を右と左に分けるように、永遠の祝福を受ける者と永遠の呪いを受ける者とに分けるであろうと教えられています。この主イエスの終末信仰は、新約聖書全体に貫かれており、使徒言行録と書簡でも詳しく教えられています。

 わたしたちの信仰の歩みは、この世の、この世界での、わたしの地上の生涯と歩みだけで完結するのではありません。わたしの地上の歩みが他の人と比べて少しばかり幸いであったとか不幸であったとか、そのような評価でわたしの信仰の歩みのすべてが測られるのではありません。あるいはまた、わたしの信仰の歩みがすべて順調であり、幸いであったとか、わたしの信仰の歩みは苦難と試練の連続であり、迫害の苦しみの連続であったとか、そのような評価によっても、最終的に測られるのでもありません。最後の審判は主なる神がなさいます。主なる神がわたしの信仰を完成させてくださり、わたしを永遠のみ国へと招き入れてくださいます。そして、主イエスがその最後の審判の席で、わたしの傍らに弁護人として立ってくださるのです。

 それゆえに、地上の信仰の歩みにおいて主イエスを救い主と告白する信仰者を、終わりの日の最後の審判の時には、天の裁判官たちの前で、主イエスは「あなたはわたしのもの、わたしの仲間である。だから、永遠のみ国を受け継ぎなさい」と言ってくださるのです。この時までは、わたしたちの信仰は未完成です。未完成ではありますが、完成を目指しています。最後の日に、神から賜る永遠に朽ちることのない天の宝を目指して、その約束を信じて、信仰の歩みを続けるのです。

 次の10節は非常に難解な聖句であると言われます。人の子、すなわち主イエスに対してはどのような悪口を言っても許されるけれども、聖霊なる神を冒涜する者は許されないとは、どういう意味なのか。さまざまな理解がなされていますが、最も一般的な理解を一つ紹介します。主イエスが人の子・メシア・救い主であるということは、主イエスの地上のご生涯においては、ある意味で隠されていたと言えます。主イエスの十字架の死と復活、そして聖霊降臨までは、誰もはっきりとその信仰を告白することはできませんでした。12弟子たちも、そのリーダーであったペトロも、みな主イエスの十字架につまずき、主イエスを見捨てて十字架から逃げてしまいました。それは、主イエスご自身がある意味でご自分がメシアであることを秘密にしておられたからでもあります。

 しかし、主イエスの十字架と復活の出来事があり、聖霊が降ってからは、誰でも聖霊に導かれ、信仰を持って主イエスの十字架と復活の福音を信じ受けいれるならば、誰でも主イエスこそがメシア・救い主であると告白することができるようになったのであるから、それでもなおも主イエスの福音を信じないなら、それは聖霊なる神のお働きを否定することであって、それは許されることはなく、神の最後の裁きを招くことになる、という理解です。主イエスの十字架と復活、そして聖霊降臨によって、主イエスがメシア・キリスト・救い主であることが、もはや隠されることなく、はっきりと啓示されたのであるから、その福音を信じないことは聖霊なる神のお働きを否定することになります。それは神の最後の裁きと永遠の滅びをその身に招くことになるという意味です。わたしたちはこの10節のみ言葉から、そのような厳しさを読み取るべきです。

 しかし、聖霊は裁きの神であるのではありません。【11~12節】。聖霊はわたしたちに主イエス・キリストを告白する力と勇気とをお与えくださり、信仰の道を導いてくださいます。また、聖霊はわたしたちの助け主、慰め主であられます。聖霊はわたしたちの信仰を、終わりの日の救いの完成の時に至るまで導いてくださいます。わたしたちが試練や迫害にあう時にも、常にわたしの傍らに共にいてくださり、必要な助けと励ましをお与えくださいます。聖霊はわたしたちを天の父なる神、そして主イエス・キリストと固く結びつけ、そこから与えられるすべての恵みを、わたしたちに分かち与えてくださる神です。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちの信仰告白をいよいよ強くしてください。邪悪や不義がはびこり、不信仰と罪とに覆われているこの世界に、あなたのみ名を力強く告白し、証ししていくことができますように。あなたのご栄光と主イエス・キリストの救いの恵みを高く掲げて歩む教会としてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

2月8日説教「マケドニア伝道の幻」

2026年2月8日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書61章1~11節

    使徒言行録16章1~10節

説教題:「マケドニア伝道の幻」

 

 パウロとバルナバの第一回世界伝道旅行は、シリア州のアンティオキア教会から出発し、地中海のキプロス島へ、それから小アジア、今のトルコ共和国、当時のローマ帝国ピシディア州の町々をめぐっての宣教活動を行い、各地に教会が立てられました。パウロはバルナバに、それらの教会を再訪問して、彼らの信仰を強めるために、第二回の伝道旅行を提案したことが14章36節に書かれていました。ところが、マルコを連れていくかどうかで二人の意見が激しく対立し、ついにバルナバはマルコを連れて船でキプロス島へ、パウロはシラスを連れて、陸路で小アジア地方へと、二人は別行動をとることになりました。

 パウロとバルナバの対立と別れは、当初の計画とは違って、ある意味では残念で不幸な結果となったように思われますが、しかし神はそのことをも憐れみを持って導いてくださり、その不幸な出来事をもお用いになって、福音宣教にとっての大きな益としてくださいます。これによって、パウロとバルナバが別々の道を行くことになり、宣教の範囲がより広がっていくことになったのです。それだけでなく、パウロは新たな弟子シラスの協力を得ることになりましたが、シラスはエルサレム教会創立当初からの中心的なメンバーでしたから、彼が第二回伝道旅行に加わることによって、異邦人教会であるアンティアオキア教会だけでなく、ユダヤ人教会であるエルサレム教会も共に世界伝道の活動に参画するという結果になったのです。ここには、隠れた神の深いご計画があるように思われます。神はご自身に仕える者たちを導いて、すべてを益としてくださるのです。

 では、1~2節を読みましょう。【1~2節】。1節と2節のデルベ、リストラ、イコニオンは第一回伝道旅行で訪れた町々です。14章にその時のことが書かれていました。前回は、地中海のベルゲという港から上陸して、北上したのち東へと移動したのに対して、今回は陸路でシリア州からパウロの生まれ故郷であるキリキア州を経由して西へと移動していますので、町の名前の順序は逆になっています。

 これらの町々に建てられた教会を再訪問し、信者たちの信仰を強め、迫害や試練の中でも力強く伝道活動を続けるようにと彼らを励ますのが、第二回伝道旅行の主な目的でした。その具体的な内容についての記述はありませんが、この伝道旅行でパウロの最も大きな出来事は、弟子のテモテとの出会いでした。

 テモテはリストラの教会員であったようですが、周囲の教会でも評判の良い青年であったと書かれています。テモテはこのあと、パウロの最も信頼する弟子となり、また最も強力な同労者となりました。パウロがテモテにあてて書いた手紙が2通、聖書に収められています。また、テモテへの手紙二1章5節以下によると、祖母ロイスと母エウニケはユダヤ人であって、熱心で忠実なキリスト者であったと書かれていますから、まさに信仰の家庭の中で育った有能な青年でした。パウロはぜひともこのテモテを伝道旅行に連れていきたいと願いました。

 【3節】。テモテの祖母と母はユダヤ人であり、キリスト者になりましたが、父はギリシャ人であって、キリスト者ではなかったと推測されます。当時は、ユダヤ人の慣習によればユダヤ人とギリシャ人の結婚は一般的には禁止されていましたが、小アジアの地方都市では許容されていたようです。ユダヤ人の母から生まれた子は原則ユダヤ人と考えられていました。パウロはこのテモテに割礼を授けたと書かれています。ここに、パウロのどのような意図があったのか、「その地方に住むユダヤ人の手前」としか書かれていませんので、詳しくは分かりません。しかし、パウロの割礼に対する基本的な考え方や、更にはエルサレム使徒会議で決議された内容から考えれば、これには大きな疑問が残ります。わたしたちが知っているパウロの信仰はこうです。「だれでも主イエス・キリストの十字架の福音を信じて洗礼を受けるならば、みな神から与えられる一方的な恵みによって罪ゆるされ救われる。ユダヤ人であるかギリシャ人であるかに関係いなく、また割礼があるかないかにも関係なく、その他どのような人間の側の違いにも関係なく、ただ信仰によって、神の恵みのみによって、人は救われる。」これがパウロの信仰でありました。また、エルサレム使徒会議で決議されて内容もその信仰に沿っていました。そうであるのに、なぜパウロはここでテモテに割礼を授けたのか。わたしたちにその真意は分かりません。

 ただ、はっきりと確認できることがあります。ここでは、割礼が救いにとって必要だとは考えられてはいないということです。割礼があってもなくても、テモテはすでに洗礼を受けて救われているのですら、割礼は彼の信仰の本質にとって全く関係ありません。ただ、テモテがこれから伝道者として、特にユダヤ人に対してより良い働きができるようにと考えたすえのパウロの決断であったのでしょう。わたしたちにはこれ以上のことは分かりません。

 次に、【4~5節】。4節の「規程」とは、15章23節以下にあった、いわゆる「使徒通達」と言われるエルサレム使徒会議での決議事項を記した書面のことです。これを世界の諸教会に伝えることも、第二回伝道旅行の目的でした。

5節は、パウロの第二回伝道旅行の前半のまとめです。このようにして、パウロは第一回伝道旅行で誕生した小アジア地方の諸教会の群れを励まし、信仰を強め、教会員の数を増し加え、主イエス・キリストの体なる教会の基礎を固く据えるという今回の伝道旅行の目的を十分に果たし終えました。それによって、これらの諸教会が、外に向かって新な伝道活動を行うための力が蓄えられていったのでした。教会はこのように、教会内の信仰の成長と、教会の外に向かっての成長と、この両方が共に連携して強められることが重要です。

 6節からは、第二回伝道旅行の新たな展開が始まります。【6~8節】。パウロの第二回伝道旅行の主な目的は達成されていました。5節がそのまとめでした。これで当初の目的は達せられたのですが、しかしパウロはすぐに母教会であるアンティオキア教会へ戻ろうとはしませんでした。彼は更に新しい開拓伝道の計画を立てていたようでした。ところが、「アジア州で御言葉を語ることを聖霊によって禁じられたので」と書かれています。この表現から、パウロがどこへ向かおうとしていたのか、多くの人はおそらくリストラとイコニオンから小アジア州を更に西の方向へ進み、小アジア最大都市であったエフェソに行こうとしていたのではないかと推測しています。しかしながら、そのパウロの計画を「聖霊が禁じた」と書かれており、また7節でも、パウロが「ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった」と書かれています。これは一体どういうことなのでしょうか。ここでは、パウロの伝道計画が聖霊によってことごとく否定されているように思われます。それは、どうしてなのでしょうか。その確かな理由は、何も書かれていませんし、わたしたちにもよく分かりません。聖霊なる神は何を意図しておられたのか、今の時点では分かりませんから、そのまま疑問符を付けたままにしておきたいと思います。

ただ、わたしたちはここで二つのことを確認しておきましょう。一つには、聖霊なる神はわたしたちに神の言葉を語ることをお命じになり、誰に対しても恐れずに勇気をもって語るための力をお与えくださると同時に、また「ここでは語るな」と命じることもあるということ、沈黙することも聖霊なる神のお導きだということです。いずれの場合にも、わたしたちは聖霊なる神のみ旨に従い、聖霊のお導きに従うのです。もう一つには、パウロが考えた伝道計画が聖霊によって変更されることがあるのだということです。どんなによく準備され、綿密に計画されたことであっても、人間が立てた計画は途中で崩れ去ることがあります。主なる神のみ旨とご計画に従って教会の伝道計画は進められなければなりません。教会の伝道計画においても、わたしたち一人一人の人生の旅路においても、わたしたちは絶えず神のみ心を尋ね求め、それに服従する信仰を失ってはならないのです。

パウロはここで何度も自分の計画が神によって退けられていますが、しかし彼はそれによって少しも落胆したり、途中であきらめてしまうこともしてはいません。聖霊のお導きと力とを信じて、示された道を前進し続けています。なぜならば、神によってある道が禁じられるということは、神が別の道をお示しくださるという約束だからです。神は確かに、服従する者に新しい、よりよき道を備えてくださるでしょう。

6節から8節に書かれている地名を正確にたどることはできませんが、おおよその方角は、聖書の後ろの付録の地図などを参考にすれば分かります。小アジアの北側、黒海に近い方向の地方をジグザグに進んでいるように思われます。そして、最終的に小アジアの北側の西海岸のトロアスまで来て、そこでパウロは幻を見ました。【9~10節】。ここで初めて、パウロは神の積極的なお導きを見ました。これまで、二度にわたって禁止され、変更を余儀なくされていた彼の伝道活動に、今や新しい道が示されたのです。

「幻を見る」とは、寝ていて夢で見ることもあり、また9章10節では、起きているときに何かの声を聞いたり、10章では何かの現象を見たりすることが、聖書では何度も「幻を見る」と書かれています。これは、夢うつつで、おぼろげに見るということでは全くなく、むしろはっきりと、確かに、しかしこの世界の現実とは違った、神がお示しになった確実なこととして、自覚することです。パウロはここで、神のご計画を確かに聞き、見たと悟りました。これまで妨げられてきた道が、今や明確に示され、新しい宣教の道が開かれたのです。

「一人のマケドニア人」とは誰のことかは分かりません。これ以後も、誰であるかを暗示する箇所はありませんので謎のままですが、その人の訴えは、パウロたちに強く響きました。パウロたちは彼の願いに、神のみ心があると悟り、少しも躊躇することなく、トロアスから船に乗ってマケドニア州へと入りました。

マケドニア州は小アジアからエーゲ海を隔ててヨーロッパの入り口にあたり、当時のギリシャ文化の中心地でした。わたしたちによく知られているフィリピ、テサロニケなどの町々があります。これによって、主イエス・キリストの福音が初めてアジア州を越えて、エーゲ海を渡り、ヨーロッパへと広められていくことになったのです。そして、ここから、パウロの第二回世界伝道旅行の後半が始まります。それは、当初は全く計画にはなかったことではありましたが、聖霊なる神の不思議なお導きによって開かれた、新しい福音宣教の道でありました。神の言葉は決してつながれてはいません。すべての困難や迷いや失敗を通しても、神の言葉は前進します。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたは使徒パウロにマケドニア伝道の幻をお与えくださいました。そして、その新しい伝道の働きを導いてくださいました。主よどうぞ、わたしたちにも伝道の幻を与えてください。この日本の地に、アジアの諸国に、そして全世界へと出ていく宣教の幻を与えてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

2月1日説教「葦の海辺へと導かれた出エジプトの民」

2026年2月1日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記14章6~8節

    ヨハネによる福音書12章37~43節

説教題:「葦の海辺へと導かれた出エジプトの民」

 イスラエルの民は神の強いみ手によってエジプトの奴隷の家から脱出し、神が約束された乳と蜜の流れる地、カナンへと向かいます。エジプトからカナン、すなわち今のパレスチナまでの最短の道は、この時代、紀元前13世紀ころからよく整備されていたペリシテの道と呼ばれていた地中海沿岸を北上する道がありましたが、神は彼らをその道へは導かず、東の方角へ、砂漠地帯へと導かれました。そして、彼らはその砂漠地帯を40年間、さまようかのようにして、放浪の旅を続けることになります。そこには、イスラエルの民を、敵対する強い民族から守り、また砂漠地帯の困難な旅の中で彼らを信仰的に訓練するという、神の深いみ心があったということを、前回わたしたちは学びました。きょうのテキストである14章でも、同じようなテーマが続いていることが分かります。主なる神は、エジプトの奴隷の家から強いみ手をもって救い出されたイスラエルの民を、更に深い信仰へと導くために、彼らに試練をお与えになります。彼らがいついかなる時にも、ただ主なる神だけを信じる信仰に生きる民となるように、訓練をなさるのです。

 では、14章1節【1節】。エジプトの奴隷の家から解放され、自由にされたイスラエルの民は、主なる神が語られる言葉を聞かなければなりません。彼らが自分勝手に、好きな道へ進むために自由にされたのではありません。本当の自由は、神の言葉に喜んで聞き従って生きるときにこそ与えられられるからです。そうでなければ、イスラエルの民はやがてまた別の新しい何かの奴隷になるからです。

 神はモーセを通して民に語られます。モーセは旧約聖書では最初の最も偉大な預言者に位置づけられています。民はモーセの口を通して語られる神の言葉を聞き、それに聞き従います。この関係が崩れるならば、神と神の民イスラエルとの関係もまた崩れてしまいます。

 【2~4節】。2節に出てくるいくつかの地名については、今日その場所を特定できていません。「ミグドル」は「塔、やぐら」を意味する言葉と考えられていますので、エジプト・ナイル川の河口付近に建てられた見張り台のようなものがあったらしいということしか分かっていません。でも、神がここで「その場所へ行きなさい」と命じておられる意図は、明らかです。それは、もと来た道を「引き返す」ことであり、そのようなイスラエルの民の動きを見たエジプト王ファラオが「彼らは道に迷っている」と思い込み、また「荒れ野が彼らの行く手をふさいでいる」と判断するためであったというのです。そして更には、ファラオがイスラエルの民の後を追い、エジプトの軍隊を派遣して彼らを捕らえて、エジプトに連れ戻そうとする決断をする、そのような機会をファラオに与えるためであったと書かれているのです。

 しかも、それらのすべてのことが、神のみ心であり、神のご計画であると書かれているのです。神がファラオにそのように判断するように仕向け、神がファラオの心をかたくなにされ、神がファラオにイスラエルの後を追わせるようにする。いや、それだけでなく、神がついには追ってきたエジプト全軍を破って、ご自身の栄光を現わされる。そしてまた、それによってエジプト人がイスラエルの神こそが唯一の主なる神であることを知るようになるということ。これらのいくつものことが、しかも旧約聖書と聖書全体の中で非常に重要なテーマがいくつもが、ここには一気に書かれているのです。

 実は、この箇所からわたしたちが教えられることは、イスラエルの出エジプトの出来事とそれに続く紅海の奇跡、または葦の海の奇跡と言われるこの二つの出来事が、旧約聖書全体の中で、またイスラエルの信仰の中で、いかに重要な意味を持っていたかということなのです。この二つの出来事の中には、聖書で教えられているわたしたちの信仰の中心的なテーマがいくつも教えられているということです。また実際に、旧約聖書ではこの二つの出来事が、詩編や預言書の中何度も繰り返して取り上げられています。その信仰の中心的なテーマを簡潔にまとめておきましょう。

 第一には、出エジプトの出来事が主なる神によるエジプトの奴隷の家からのイスラエルの救いであったということ、また救われた民イスラエルの誕生であり、信仰の民の誕生であったということ。第二には、救われた民は、その後は救い主である神の言葉に聞き従って生きるべきであるということ。神の言葉に聞き従って生きるとき、それは時には困難で試練に満ちた道であるかもしれないが、神の言葉を聞くこと以外によっては、救われた民は幸いに生きることができないのだということ。第三には、主なる神は救われた民のために継続的に信仰の訓練をお与えになるということ。そのために、神は信仰の民をあえて困難な道へと導き、試練を通して彼らの信仰を鍛え、救いの完成へと至らせるということ。第四には、神は信仰の民に敵対する不従順な者たちをもお用いになって、彼らが信仰の民を迫害することをお許しになるということ。しかし第五には、神はついには迫害する者たちの滅びを通して、ご自身の栄光を現わされるということ。そして最後には、不信仰な者たちもまた主なる神の偉大なる救いの力を知らされ、救いの神を信じる信仰へと導かれるのだということ。これらのイスラエルの信仰、旧約聖書の信仰、そしてそれはわたしたちの信仰でもあるのですが、そのすべてがこの短い文章の中で語られているのです。

 5節からは、エジプト王ファラオの実際の行動とそれに対するイスラエルの民の反応について、そしてモーセの対応について書かれています。順に見ていきましょう。ファラオはエジプト全土に起こった恐るべき災いが、イスラエルの神がなさったことであると悟って、これ以上に災いが広がるのを恐れて、モーセの要求どおりに彼らを開放する決断をしました。つまり、王の家をはじめ、全エジプト人の家の長男と家畜の長子が滅ぼす者によってその命を奪われるということが起こったからです。このままイスラエルの民を国内にとどめておけば、より大きな災いが起こることをファラオは恐れたのです。

 いったんはそのように決断したファラオでしたが、イスラエルの民が途中で道に迷ってうろうろしているようだという情報を聞いて、彼は奴隷の民を失った損失を悔やむようになりました。そこで王はエジプト自慢の戦車隊を総動員して、イスラエルの人々の後を追わせました。4節で、「わたしはファラオの心をかたくなにし、彼らの後を追わせる」と神がすでにお語りになったことが成就したのです。

 エジプトでは紀元前17世紀ころから、馬に木で作った二輪車をひかせ、それに槍を持った兵士が乗り込むという戦車が考案され、戦争の強力な兵器とされていました。6節には「えり抜きの戦車6百をはじめ、エジプトの戦車すべてを動員し」と書かれています。エジプトを出たイスラエルの民が何万人であったのか、正確な数は分かりませんが、イスラエルには正式な軍隊組織はありませんでしたし、急いでエジプトから脱出したのですから、武器などはほとんど携帯していなかったと推測されます。そのイスラエルの人々を負うために、これほどの戦車と軍隊が必要であるとはとても思えませんが、ファラオのイスラエルの神に対する恐怖の大きさが、そうさせたのかもしれません。

 エジプト軍はついにイスラエルの民に追いつきました。9節にこう書かれています。【9節】。ここで「海辺に」とあるのは2節で言われていた「海辺」と同じで、これはおそらく13章18節で「葦の海」と言われていたのと同じ場所を指していると考えられます。そして、この海に向かって、16節でモーセが「杖を高く上げて、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分ける」という奇跡を行ったのです。しかし、イスラエルの民はまだその奇跡を見ていません。彼らが今見ているのは、行く手を阻んでいる海と、後ろに迫ってきているエジプトの軍隊です。そして、その両者にはさまれている無力な自分たちです。

 【10~12節】。10節に、「イスラエルの人々が目を上げてみると」と書かれています。彼らは追い迫る強力なエジプトの軍隊を見ています。そのとき彼らは恐れる以外にありません。けれども、彼らが見るべきものは何だったのでしょうか。彼らが目を上げて見るべきものは、彼らをエジプトの奴隷の家から強いみ手をもって救い出された主なる神をこそ見るべきなのではなかったでしょうか。彼らが本当に見るべきものを見ず、見るべきでないものに目を奪われていた時、彼らは恐れざるを得ません。そして、彼らがそのようにして恐れるに値しないものを恐れるとき、彼らの信仰は揺らぎます。疑いと不安とつぶやきが始まります。しかも、彼らのつぶやきは、かつての奴隷の生活を懐かしみ、またあの奴隷の生活に戻りたいとさえ願うのです。ここには、底知れない人間の罪の恐るべき姿が見えるような気がします。信仰者は、いつの時代にも、このような罪の誘惑の中に置かれています。弱く、たどたどしく、また愚かでもあり、どこまでも落ちていくしかない人間の罪の深さをここに見るような気がします。そうであるからこそ、神はわたしたちの弱さや愚かさをご存じであられ、救われたわたしたちをなおも変わらずに愛され、訓練されるために、あえて苦難や試練の中にわたしたちを導き、その中でいついかなる時でも主なる神を信頼し、神の言葉に聞き従い、ただ主なる神だけを見上げて生きるようにと招いてくださるのです。

 【13~14節】。ここでもわたしたちは「恐れるな」との神の命令を聞きます。「恐れるな」とは、わたしたちが何かを恐れることを禁止し、わたしたちから恐れを取り除くとともに、恐れに代わって、わたしたちに救いの恵みと信頼と希望とを与える神の命令です。「あなたがたが見るべきものは、強力なエジプ軍ではない。自分たちの無力な姿でもない。主なる神を、主なる神がなさる力強い救いのみわざを見なさい」と神はモーセを通して言われます。

 「主があなたたちのために戦われる」。この言葉は、旧約聖書の中で繰り返して語られます。このあとの14章25節、15章3節、申命記1章30節などです。神はイスラエルが苦難の中にあった時にはもちろん、彼らが罪の中で眠りほうけてていた時にも、常に変わらず、神は目覚めておられ、彼らの救いのために戦っておられました。

そして、今もなお、神は罪の中で滅びんとしているわたしたちのために、一人目覚めておられ、天におられるみ子主イエス・キリストの執り成しによって、わたしたちの救いの完成のために戦っておられるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちの弱い信仰を憐れんでください。たちまちに罪の誘惑に負けてしまうわたしたちを顧みてください。そして、いついかなるときでも、ただあなたに信頼する信仰をお与えください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。