2月22日説教「父なる神と主イエス・キリストから恵みと平和があるように」

2026年2月22日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:民数記6章22~27節

    ローマの信徒への手紙1章1~7節

説教題:「父なる神と主イエス・キリストから恵みと平和があるように」

 ローマの信徒への手紙1章1~7節は、当時の手紙の書式にならって、手紙の差し出し人であるパウロの名前と簡単な自己紹介が1節に書かれ、受けり取人であるローマの教会について7節前半で書かれ、その間の2~6節には、神の福音についての説明文が長く挿入されていて、そして7節後半で祝福の言葉が語られるという構造になっています。このような書式は、長い挿入文は別として、聖書に収録されている他のパウロの書簡でも、またパウロ以外の書簡でも、ほぼ共通しています。

 きょうは7節後半の祝福の言葉について学びます。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストから恵みと平和が、あなたがたにあるように」。このように、手紙の冒頭で相手の祝福を祈るという習慣は、古代社会では一般的であったと言われています。手紙の冒頭で相手に祝福を祈るという古代社会での習慣について、改めてその深い意味を思わされます。今日のように、交通が便利ではなく、頻繁に顔を合わせることができない時代、あるいは電話とか電信による通話ができなかった時代に、遠くに離れた相手に自分の思いや願いを伝える唯一の手段であった手紙の一字一句に、深い思いと祈りを込めて書くということの意味を、考えさせられます。

 それだけでなく、聖書にあるパウロの書簡、他の使徒たちの書簡では、より深く重要な意味があったということを、わたしたちは確認しておく必要があります。パウロが「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と書いた時、それは当時の一般的な慣習としての挨拶ではありませんでした。また、「あなたに祝福があるように」という個人的な願いというのでもありませんでした。パウロが書いた祝福の言葉には、父なる神とみ子なる主イエス・キリストによる偉大な救いのみわざがすでにあり、その救いのみわざを信じている信仰者の群れである教会がすでにそこに建てられているという、大きな救いの出来事があり、確かな事実があり、それに基づいて、「恵みと平和があなたがたにあるように」と祈られているのだということに気づかされるのです。

 したがって、「あなたがたにあるように」とのパウロの祈りは、「そうあったらよいね、そうなってほしいね」という彼の個人的な願いではなく、「すでに、神と主キリストから、恵みと平和が、確かに、豊かに、あなたがたに与えられている。そのことを覚えて感謝せよ。また、わたしと一緒にその恵みと平和を分かち合いましょう」という、神の恵みと平和への招きの言葉なのであり、あるいは、神の恵みと平和によって与えられている信仰者の霊的な、深い交わりの確認というような意味も含まれているのです。パウロのこの言葉は、祝福を祈るというよりは、祝福を与える、届ける言葉であると言ってよいでしょう。これが、聖書の中で言われている祝福の祈りの意味なのです。

 では次に、パウロの他の手紙の挨拶文と祝福の言葉を調べてみましょう。コリントの信徒への手紙一1章3節(299ページ)では、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」。これは、ローマ書と全く同じです。コリントの信徒への手紙二1章2節(325ページ)、これも全く同じ。このほか、エフェソ書、フィリピ書、それからテサロニケ書二の三箇所もすべて同じです。テサロニケ書一1章1節だけは「恵みと平和が、あなたがたにあるように」と、簡潔になっています。パウロの手紙の中でこのテサロニケ書一が最も早く、紀元50年ころに書かれたと推測されていますので、これが基準になって、これに「父なる神と主イエス・キリストから」という言葉が付け加えられていったと考えられています。

 ところで、みなさんは手紙の冒頭にどのような挨拶を書くでしょうか。クリスチャンであれば多くは「主の御名を賛美します」と書いておられるのではないでしょうか。それでよいのですが、パウロの書簡を読んでいるわたしたちは、パウロにならって、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストから、恵みと平和があるように」と書くのもよいのではないでしょうか。

 さて、この祝福の言葉の内容について学んでいくことにしましょう。「わたしたちの父なる神」と「主イエス・キリスト」が「恵みと平和」の源泉、出どころと言われています。この点において、一般社会での手紙の祝福の言葉とは根本的に違っています。パウロの手紙では、「恵みと平和」がどこから来るのかをはっきりと知っています。それだけでなく、前にも言いましたように、「恵みと平和」はすでに父なる神と主キリストから豊かに、確かに、与えられているということを、パウロもローマの教会員も知っているのです。

 父なる神と主イエス・キリストが、どのような関係にあるのかについては、ここでは何も語られていません。キリスト教教理の中心である「三位一体論」は、パウロ書簡の中ではまだ明確になっていません。父なる神とみ子なる神・主イエス・キリスト、そして聖霊なる神が、三つの位格を持つ一人の神であるであるという「三位一体論」は紀元2世紀から4世紀にかけて、次第に形成されていきました。しかしそれは、パウロ書簡などの聖書の証言とは違った教えを、教会が勝手に創作したということでは全くありません。福音書での主イエスご自身の教えとお働き、またパウロ書簡やその他の使徒たちの証言と信仰を土台として、聖書全体のみ言葉から導き出された結論として、「三位一体論」の教理が形成され、今日の教会の中心的な教理となったのです。パウロ書簡の中にも、当然「三位一体論」の基本があると言えます。

 旧約聖書の伝統的な信仰から言えば、父である神から恵みと平和が来ると考えられますが、ここでは「主イエス・キリストから」が付け加えられています。なぜならば、主イエス・キリストによって、神がわたしたちの父であることが旧約聖書時代よりもより明確に現わされ、その父なる神の恵みと平和がより豊かに、より現実的にわたしたちに与えられるようになったからです。神が主イエス・キリストによって、わたしたちのためのすべての救いのみわざを成し遂げてくださいました。それゆえに、わたしたちは主イエス・キリストをわたしたちの救い主と告白し、父なる神を唯一の天の父として持ち、神の子どもたちとされているのです。

 「恵み」という言葉は、ギリシャ語では「カリス」ですが、当時のギリシャ社会ではごく一般的に用いられていた言葉です。日常の挨拶で、「カイレ」(恵みあれ)、と言葉を交わしていました。ちなみに、今日のギリシャ語では、カリス(恵み)と「日」を意味する「メーラ}を合わせて、「カリメーラ」(良い日)と挨拶しているそうです。

 聖書では恵みという言葉には特別な意味が込められています。パウロ書簡では恵み(カリス)という言葉は100回以上も用いられており、パウロの信仰と神学を特徴づけています。聖書でいう恵みとは、本来それを受けるに値しない人に、神の側から、神の憐れみによって、無償で、また一方的に差し出される恵みのことであり、わたしたち人間の側では、その恵みをただ感謝と恐れとをもって受け取り、その恵みが持つ圧倒的な力に驚きつつ、その恵みに応えて、新しい自分となって生きるようにされる、そのような恵みを言います。

 パウロにとってその恵みとは、第一には、罪びとに与えられた罪のゆるし、救いの恵みです。人間はみな罪びとであり、神の裁きを受けて死すべき者であるにもかかわらず、神のみ子主イエス・キリストが罪びとたちの罪をすべて負ってくださり、罪びとたちに代わって十字架で死んでくださいました。ご自身の聖なる汚れのない血を贖いの供え物として父なる神におささげくださいました。それによって、すべての罪が贖われいます。すべての罪がゆるされています。だれでも、この主イエス・キリストの十字架の福音を信じるならば、神からの恵みによって、一方的に神から差し出される恵みによって罪ゆるされ、救われます。これが、わたしたちに与えられている救いの恵みです。これこそが、わたしたち人間に与えられた最も大きな、高価で高貴な、そして偉大なる恵みです。その恵みが、わたしたちの父である神と主イエス・キリストから、わたしたち一人一人に与えられているのです。

 平和という言葉は、旧約聖書のヘブライ語では「シャローム」、新約聖書のギリシャ語では「エイレーネー」です。ユダヤ人は今日でも挨拶を交わす時は「シャローム」と言うそうです。旧約聖書のシャロームという言葉は、神と人間との関係が完全であり、破れがなく、すべてにおいて満たされている状態を意味すると考えられています。パウロもそのシャロームのギリシャ語である「エイレーネー」を「平安、平和」という意味でたびたび用いています。

 以前に使用していた『口語訳聖書』では、その箇所に応じて「平安」または「平和」と訳し分けられていましたが、『新共同訳聖書』ではほとんどが「平和」と訳されています。日本語のニュアンスは少し違いがあるように思われます。「平安」が心の中の安心感や平穏な思いという、内面的意味合いが強いのに対して、「平和」には社会的・政治的意味合いが強くなるように感じられます。どちらに翻訳するにしても、この言葉は神と人間との関係が内面的にも外面的にも、すべてが満たされている状態を意味しています。

 では、実際にパウロはこの手紙の中で「平和」をどのような文脈で用いているかをみていきましょう。【5章1~2節】(279ページ)。ここでは、平和が神と人間との正しい関係を言い表していることが明らかです。10節では「神との和解」という言葉も用いられています。罪によって神から離れ、神なしで生きていた人間、それだけでなく神に敵対して生きていた人間が、み子主イエス・キリストの十字架の死によって罪ゆるされ、神との敵対関係が終わり、神と和解が与えられた、それが平和です。この神との平和の関係は、どのような第三者の介入によっても決して破られることがない永遠の平和です。神のみ子がご自身の死をもってわたしたちのために築いてくださった平和だからです。

 パウロは14章17節でこのように書いています。「神の国は……聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」。わたしたちは今すでにこのような永遠なる神の国での義と平和の中に招き入れられています。そして、終わりの日には父なる神とみ子主イエス・キリストとの完全で永遠なる平和の中で喜びと希望と慰めに生きるようにされるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちがあなたとの全き平和の中に招き入れられておりますことを感謝いたします。わたしたちからすべての恐れや不安、迷いを取り去ってください。あなたがわたしの中でわたしのすべてとなってくださいますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。