4月21日(日)「空の墓と主イエスの復活」

2019年4月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教(復活日)

聖 書:ヨブ記19章23~27節

    ルカによる福音書24章1~12節

説教題:「空の墓と主イエスの復活」

 主イエスは受難週の金曜日の午後3時ころに、十字架上で息を引き取られました。そして、日没までの少しの間に、アリマタヤ出身のヨセフというユダヤ最高議会の議員が、主イエスの亡骸を引き受け、自分が所有していた墓に葬りました。ユダヤ人は日没から一日が始まると考えましたから、安息日がすぐに始まります。安息日には何の仕事もしてはならないと律法で定められていました。神が六日の間に天地万物を創造され、七日目に休まれ、この日を聖なる日とされたからです。ルカによる福音書23章56節の終わりに、「婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ」と書かれてあるとおりです。

 続いて24章1節に「週の初めの日の明け方早く」と書かれています。十字架の死から数えて三日目になります。この1節には、同じような意味の言葉が3つも重ねられています。一つは、「週の初めの日」、新しい1週が始まる日、最初の日、新しい歩み、新しい出来事が開始される日、二つ目は、「明け方」、暗い夜が終わり、新しい光が差してき始める時、やがて希望の光に包まれる時、三つめは、「早く」、だれよりも早くに起き出て、他の何かをなすよりもまずこのことをなす、そのような一日が始まるような予感がします。聖書は、まさにそのような特別な一日がこれから始まろうとしているのだと語っているのです。

 「週の初めの日の明け方早く」、この日が特別な意味を持つ一日となるということを、主イエスのご生涯を振り返りながら見てみましょう。ルカ福音書は主イエスのご生涯を、誕生から少年時代、30歳になられてからの宣教活動、地上の最後の1週間である受難週の出来事、そして十字架の死というように、人の一生を伝記のような形式で描いていますが、普通の伝記であれば、その人の死をもって本文は終わります。けれども、ルカ福音書はそうではありません。主イエスの死を伝える23章で終わるのではなく、いやむしろ、それに続く24章から、何か新しいことが始まるという予感を、新しい出来事がこれから起こるという予感を、この24章1節の書き出しから、わたしたちは覚えるのです。

 24章に何が書かれているかを知っているわたしたちは、結論を先取りしてこう言うことができるでしょう。ルカ福音書は、また他の3つの福音書もすべてそうなのですが、この24章を土台として書かれている、24章の出来事から出発してすべてが書かれているのだと。すなわち、「主イエスはこの墓の中にはおられない。復活なさったのだ」という、この事実から、このことを宣べ伝えることからキリスト教の信仰が始まったのであり、教会の歴史が始まったのであり、ルカ福音書が始まったのだと。

 誕生から始まり、死をもって終わる人間の生涯ではなく、死を超えて、死の墓を打ち破って、死に勝利する新しい命が、今主イエスと共に始まる、そのような偉大な一日が「週の初めの日の明け方早く」始まろうとしているのです。創世記1章に書かれているように、かつて天地創造の初めに、神が「光あれ」と言われると光があったように、神がご自身のみ子、主イエス・キリストによって完成される新しい創造のみわざが、救いのみわざが今始まろうとしているのです。

 旧約聖書と新約聖書の歴史から見ると、この1節冒頭の言葉はどういう意味を持つでしょうか。旧約聖書の民イスラエル・ユダヤ人は、週の最後の日、土曜日を安息日として守りました。しかし、新約聖書の民教会は、週の最初の日、主イエスが復活された日曜日を新しい安息日として、この日にすべての仕事を休み、神を礼拝する日としました。つまり、23章56節に書かれている安息日は、旧約聖書時代の最後の安息日であって、24章1節は新約聖書時代の最初の安息日の始まりを告げているのです。わたしたち教会の民は、きょうの復活日の主日だけでなく、毎週の主の日に、主イエス・キリストの復活を記念し、覚え、罪と死とに勝利された主イエス・キリストの福音を聞くために、教会の礼拝に集められているのです。人間の死では終わらない、新しい命、復活の命、罪と死とに勝利した永遠の命のみ言葉を聞くために、ここに集められているのです。

 この日の朝早くに、主イエスの墓を訪れた婦人たちは香料を携えていたと1節に書かれています。これは、主イエスの亡骸に塗るためのものです。亡くなった人の体に香油を塗ることは当時の習慣によれば死者に対する大切な務めでした。本来ならば、墓に納める前にすべきでしたが、主イエスが金曜日の午後3時過ぎに十字架上で息を引き取られてから、翌日の安息日が始まるまでに時間的余裕がなく、香油を塗ることができなかったので、婦人たちは愛し慕っていた主イエスのお体に香油を塗るという、やり残した最後の奉仕をするために、急いで、ほかのすべての用事に先立って、起きてすぐに、主イエスを納めている墓にやってきたのでした。

 ところが、2、3節にこのように書かれています。【2~3節】。彼女たちが起きるよりも前に、墓に到着するよりも前に、神がすでに新しいみわざを始めておられたのです。墓の入り口をふさいでいる石は、男の人が数人で動かせるほどの大きく重い石です。婦人たちはそれをどうやって動かすつもりだったのかと、わたしたちが心配するには及びません。彼女たちが墓に到着する以前にすでに石が墓の入り口から取り除かれていたからです。それよりも彼女たちを戸惑わせたことは、主イエスのお体が墓の中になかったことでした。4節には「そのため途方に暮れていた」と書かれています。死者のためにやり残した最後の奉仕をしようとやって来たのに、それができなくなって墓の前で途方に暮れている婦人たち、この婦人たちの姿は、死すべき者や朽ち果てるもののために生きているわたしたち人間たちの、生きる真の目標を失った姿を象徴しているように思われます。死者のための奉仕、死すべき者のための奉仕、朽ち果てるほかないこの世のもののための奉仕は、すべてこのように途方に暮れてしまうほかにありません。しかし、婦人たちは間もなく、死者のための奉仕者ではなく、罪と死に勝利されて復活された主イエスのために奉仕する者へと変えられていきます。わたしたちもまた、主イエス・キリストの復活の証人として生きる者となり、わたしの救い主である主イエス・キリストに奉仕する者として生きる者となる時にこそ、本当の意味で喜びと希望があり、確かな目標がある人生を生きることが出来るのです。

 空になった墓を見て途方に暮れていた婦人たちは、輝く衣を着た二人の人が語る言葉を聞きます。【「5~7節」】。この二人の人とは神からの使い、天使のことです。天におられる神が地に住む人間にお語りになるときに、聖書ではしばしばこのような天使の姿で現れます。ここで最も重要なことは、主イエスの復活は神のみ言葉によって告げられるということです。婦人たちが実際に見たのは、墓の入り口をふさいでいた大きな石が取り除かれていたことと、主イエスのお体が墓にはなく、墓が空になっていたことでした。主イエスのお体がどのようにして生き返ったのか、止まった心臓がどのようにして動き出したのかというようなことについては、聖書は全く語っていません。主イエスの復活に関して、人間の目で見て確認できる事柄については、どちらかというと、否定的な側面や消極的な証拠しか、聖書は提供してくれません。なぜならば、復活信仰とは、復活を告げる神のみ言葉を信じる信仰だからです。目で見えること、人間が確認できることは、復活ではなく、いわゆる蘇生です。蘇生は、いずれにしても朽ち果てるほかない肉体の生き返りに過ぎません。それは、やがて再び死を迎えるほかありません。

しかし、主イエスの復活はそうではありません。主イエスの復活は、肉から霊に変えられる復活であり、再び朽ち果てることがない霊の命への復活であり、罪と死と滅びとに完全に勝利した永遠の命への復活なのです。わたしたちはこの主イエスの復活を信じる信仰へと招かれています。ヨハネによる福音書20章29節で、「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」と主イエスが言われたとおりです。

それゆえに、主イエスの復活は神のみ言葉として語られ、聞かれ、信じられるほかにありません。無から有を呼びい出し、死から命を生み出される全能の父なる神のみ言葉として、わたしたちは主イエスの復活の福音を聞き、信じ、主イエスの復活の証人として立てられるのです。主イエスの墓を訪れ、空になった墓を見た婦人たちも、天使たちが告げる主イエスの復活の知らせを聞いて、信仰へと導かれました。

では、どのようにして彼女たちが復活信仰へと導かれたのかを見ていきましょう。5、6節の神のみ言葉は、まず否定的な内容から始まります。「なぜ、……ここにはおられない」と。婦人たちは亡くなった主イエスに奉仕するために墓にやってきました。彼女たちの歩みは墓に向かっていました。彼女たちの目は死者の方に向けられていました。ここにも、人間の姿が象徴的に描かれているように思われます。すべての人間の歩みは墓に向かっています。人はみな死すべき者です。その運命を変えることはだれにもできません。墓をふさいでいる重い石を取り除くことはだれにもできません。

ところが今や、墓の石が内側から取り除かれました。死者を閉じ込めておく墓が、空にされました。人間が生まれて最後には死ぬという順序が、今や主イエスによって逆転されたのです。墓から始まる命、死から始まる命が主イエスによって開かれました。墓と死に向けられていた婦人たちの目が、復活された主イエスへと向けられます。「主イエスはこの墓の中にはおられない。復活された」と告げられます。この神のみ言葉が彼女たちに復活信仰を生み出します。

さらに、神のみ言葉は7節の主イエスがなさった受難予告を思い出させます。ルカ福音書では9章22節、44節、18章33節の三度の主イエスの受難予告を伝えています。主イエスが十字架につけられる前に予告しておられた神のご計画が、今や成就したのです。主イエスは父なる神のみ心とご計画に従順に服従されることによって、わたしたち罪びとたちの罪の贖いのみわざを、救いのみわざを成就されました。主イエスの三度の受難予告で主イエスご自身が語っておられた十字架の死と三日目の復活がすべてそのとおりに成就したことを知って、彼女たちの復活信仰はより強められました。

9節に【9節】と書かれています。この婦人たちは、10節にその名前が紹介されていますが、ルカ福音書によれば最初の復活の証人となり、最初に主イエスの復活の福音を宣べ伝えた宣教者となった人たちです。彼女たちは死人のための奉仕者から復活された主イエスに仕える者へと変えられました。墓に向かう人生から、主イエスによって開かれた復活の命へと向かう人生へと変えられました。主イエス・キリストの復活の福音を聞かされているわたしたちにも、死を超えて復活の命へと向かう道が備えられているのです。

(祈り)

4月14日 説教「主イエスの十字架」

2019年4月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教(受難週)

聖 書:イザヤ書53章1~13節

    ルカによる福音書23章32~43節

説教題:「主イエスの十字架」

 「十字架上の七つの言葉」と言われるものがあります。主イエスが十字架につけられたとき、息を引き取られる直前に十字架上でお語りになった言葉が、四つの福音書を合わせると合計で七つあります。マタイによる福音書とマルコ福音書は同じ言葉が一つ、ヨハネ福音書が三つ、そしてルカ福音書が三つです。きょう朗読された箇所の【「34節」】、【「43節」】、【「46節」】。きょうの受難週の礼拝では、この34節のみ言葉を中心にして、主イエスの十字架の意味について、ご一緒に聞いていきたいと思います。

 まず、主イエスの十字架上での七つの言葉がなぜ特別に重要なのかについて考えてみましょう。その理由の一つは、十字架上での七つの言葉が主イエスの地上のご生涯で最後に語られた言葉だからです。いわば、主イエスの遺言とも言うべき言葉だからです。しかも、十字架刑という、肉体的にも精神的にも、苦痛と屈辱との極限状態の中で、死の間際に最後の声を振り絞るかのようにして語られた言葉だからです。それゆえに、わたしたちは主イエスのそれらの言葉を、恐れおののきつつ、わたしの全存在を傾けて、わたしの命をかけて聞かなければなりません。

 もう一つの理由が考えられます。それは、主イエスが十字架上で語られた言葉が極めて少なく、また短く、それゆえに一つ一つの言葉に深く、重い意味が込められているからです。主イエスはこれまでにおよそ3年間の公の宣教活動をしてこられました。イスラエル全域の町々村々をめぐり、神の国の福音を説教してこられました。「今や、神の恵みのご支配が始まった、神の救いの時が近づいている、だから、罪を悔い改めて、神に立ち返りなさい、そうすれば、救いと新しい命が与えられる」と説教されました。福音書には、主イエスがお語りになった神の国の福音が数多く記されています。

 ところが、主イエスの裁判の時から十字架刑が執行される時までは、主イエスはほとんど口を開かれず、むしろ沈黙を守られました。イザヤ書に預言されている「苦難の僕(しもべ)」のように口を開かれませんでした。イザヤ書53章7節に次のように書かれています。「苦役を課せられ、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場にひかれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」。主イエスがこの「苦難の僕」のように、父なる神への全き服従を貫かれた沈黙の中で、わずかに語られた十字架上での七つの言葉は、特別な光を放ってわたしたちに迫ってくるのです。

 では、その十字架上での七つの言葉の一つ、34節をもう一度読んでみましょう。【34節】。これは、七つの言葉の中で、時間的には最初のものではないかと推測されています。正確にその順序は分かっていませんが、34節がその最初、46節の「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」が最後ではないかと考えられています。そうしますと、七つの言葉の最初と最後がルカ福音書に書かれていることになります。

 主イエスはここで、神を「父よ」と呼んでおられますが、これはイスラエルにおいては非常に珍しいことです。神に対して直接に「父よ」とか「わたしの父よ」と呼びかけることは、旧約聖書ではほとんど例がありません。というのも、イスラエルの民にとって神は、はるかに高い天におられる聖なる神であり、栄光と威厳に満ちた神であって、その神のみ前では人間はただ恐れおののくほかにない罪びとであって、神を親しく父よと呼ぶことは、その神の尊厳性を損なうことになり、神を冒涜することだと考えたからです。

 主イエスは初めて神を父、わが父と呼ばれました。言うまでもなく、主イエスにとっては、神はまさに、実際に、父であられます。神はわたしたち罪びとたちを罪から救うために、ご自身の独り子をこの世へとお遣わしになったのです。ヨハネ福音書3章16節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と書かれているとおりです。主イエスこそが神をわが父とお呼びになることができる唯一のみ子であられ、最初の方なのです。

 それだけでなく、主イエスはわたしたちもまた神を父と呼ぶことができるようにしてくださいました。わたしたちは主イエスによって罪ゆるされ、神との親しい交わりの中に招き入れられ、神の子どもたちとされました。主イエスはわたしたちにこのように祈りなさいと教えてくださいました。「天にまします我らの父よ、み名が崇められますように。み国が来ますように。み心がなりますように」と。

 主イエスが十字架上で神を「父よ」と呼びかけられたことには、更に深い意味があります。主イエスはすべてのユダヤ人から見捨てられ、恥ずかしめとあざけりを受けて十字架につけられましたが、それでもなお、神を「父よ」と呼ぶことができるのだということ、「父よ」と呼びかけることができる神が主イエスと共におられるということ、そのことにわたしたちは気づかされます。12弟子たちからも見捨てられ、ただお一人で、肉体と精神の苦痛と渇きの中で死に行く時にも、なおも「父よ」と呼びかけることができる神が主イエスと共におられるのです。この呼びかけは、絶望と死の淵から立ち上がって、希望と命に生きることを可能にする呼びかけです。わたしたちが神を父として持ち続けるならば、わたしたちの絶望と死もまた、希望と命に変えられていくということを信じることができます。

 もう一つ別の角度から「父よ」という呼びかけを見ていきましょう。主イエスはここで、神を「父よ」と呼ぶことができないような、神との関係を断ち切られるような深い淵の底から、「父よ」と呼びかけています。マタイとマルコ福音書では、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というもう一つの十字架上での言葉を記しています。主イエスは神のみ子であられたにもかかわらず、わたしたち罪びとたちと同じ側に立たれ、神の裁きを受けて、死すべき人間のお一人となられ、十字架上での苦悩と痛みとを経験しておられるのです。わたしたち罪びとたちが受けるべき神の裁きを、わたしたちに代わってお受けになられ、神の厳しい裁きを耐え忍ばれたのです。主イエスが父なる神に見捨てられようとする、まさにその時にこそ、神は父なる神として、主イエスの最も近くにおられ、主イエスと共におられたのだということを、わたしたちはここから知らされるのです。

 「彼らをお赦しください」の「彼ら」がだれを指すのかは、はっきりと特定できません。十字架刑を直接に執行しているのはローマの兵士たちですが、彼らを指しているのは確かでしょう。十字架の周りで「十字架につけよ」と叫んでいる群衆、あざ笑っているユダヤの役人たち、さらには主イエスの裁判にかかわったユダヤ人指導者たち、最終的に十字架刑を言い渡したローマの総督ピラト、また主イエスを見捨てて逃げ去った12弟子たち、それらのすべての人たちも、この「彼ら」から除外されることはないでしょう。いや、それのみか、自分では気づかないで神から離れ、罪の道を進んでいたわたしたちすべての人間たちが、この「彼ら」に含まれると言うべきでしょう。主イエスは、それらすべての人たちのために、今十字架の上で、彼らの罪のゆるしを祈っておられるのです。主イエスは罪なき神のみ子であられたにもかかわらず、わたしたちすべての罪びとたちの罪を代わってご自身に担われ、わたしたちに代わって神の裁きをお受けになり、大きな苦痛と苦悩の中で、ご自身を十字架につけている彼らすべての人たちのために、罪のゆるしを祈っておられるのです。これは何という大きな愛であり、偉大なゆるしであることでしょうか。この大きな十字架の愛とゆるしによって、わたしたちは罪ゆるされ、救われているのです。

 後の初代教会のキリスト教教理では、使徒パウロが彼の書簡で繰り返して語っているように、主イエスの十字架の福音を信じる信仰によって、すべての人は神のみ前で義と認められ、罪ゆるされ、救われるというのがキリスト教信仰の中心ですが、そのキリスト教理が形成される以前に、主イエスご自身の口から直接に語られた十字架上での言葉そのものに、わたしたちの罪のゆるしと救いの源泉があるのです。

 「自分で何をしているのか知らないのです」とは、だから責任がない、その行為がゆるされるという意味ではありません。自分では何をしているのか分からないままに、彼らは神がこの世にお遣わしになられたメシア・キリスト・救い主を十字架につけているのです。その罪を主イエスは告白しておられるのです。実は、自分では何をしているのかわからないというのが、人間の罪の実体なのです。自分では罪に気づいていない、自分はだれかを故意に傷つけたり、損害を与えてはいない、自分では神のみ心に背いていない、自分もまた主イエスの十字架にかかわっていることに気づいていない、いやむしろ自分は正しい人間だ、まじめな人間だ、間違ったことはしていない、だから自分には主イエスの十字架は無関係だと思っていること、それが人間の罪なのです。

 罪を言い表す旧約聖書のヘブル語「ハッター」も新約聖書のギリシャ語「ハマルテア」も、いずれも本来は的を外すという意味があります。弓を一生懸命に引いて矢を放つ、しかし、その矢は的に向けられていない、的から外れた方向を向いている、それゆえに、力を込めれば込めるほどに、矢は的から遠くに飛んでいく、それが人間の罪の現実だということを聖書は語っています。わたしたち人間はみな生まれながらにして罪に傾いており、神から遠く離れている罪びとなのです。主イエスは、わたしたちの隠れ潜んでいた罪をゆるすために、今十字架上で祈っておられます。「父よ、彼らをお赦しください」と。主イエスの十字架によって罪ゆるされる時に、わたしたちは初めて自分の罪に気づかされます。

 最後に、きょうの十字架の場面でルカ福音書が繰り返して語っていることに注目したいと思います。【「35節」】。【「37節」】。【「39節」】。けれども、主イエスはそれらの要求には全くお答えにならずに、むしろその要求を否定されるかのように、ご自身が全く無力になられ、貧しくなられ、低くなられて、神のみ子としての栄光をも誉れをも、威厳をも力をも、それらのすべてを投げ捨てられて、ご自身の尊い命とすべてを、わたしたちの救いのために、十字架にささげ尽されたのです。

フィリピの信徒への手紙2章6節以下にはこのように書かれています。【6~11節】(363ページ)。ここにこそ、わたしたちの本当の救いがあります。全人類のための永遠の救いがあります。

 それゆえにこそ、主イエスの十字架の福音によって罪ゆるされ、救われ、新しい命に生かされているわたしたちもまた、主イエスのために、またわたしの隣人のために、自らをささげて生きていくことが命じられ、またそれが可能とされているのです。

(祈り)