8月3日説教「神の福音のために選び出されたパウロ」

2025年8月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書40章6~11節

    ローマの信徒への手紙1章1~7節

説教題:「神の福音のために選び出されたパウロ」

 先月から月1回の割で、ローマの信徒への手紙を読んでいます。キリスト教信仰とキリスト教教理の中心、または基礎を取り扱っている聖書ですから、短い聖句を取り上げて、一字一句を丁寧に、深く学んでいくことを心がけようと思っています。

 前回は1節の「キリスト・イエスの僕(しもべ)」の「僕」について学びましたが、もう少しこの言葉を掘り下げてみます。僕、奴隷のことですが、パウロは自分をローマ教会に自己紹介するにあたって、最初に「自分はキリスト・イエスの僕、奴隷だ」と言っているわけですが、これにはパウロのどのような信仰が言い表され、どのような意図、自己主張が含まれているのでしょうか。

 自分が「キリスト・イエスの僕」であるとは、「わたしの主はキリスト・イエスだけである」ということを第一に意味しています。わたしの主、わたしの所有者、わたしが服従すべき主、わたしの存在と命のすべてをささげてお仕えすべき主は、ただお一人、主イエス・キリストであるという信仰告白がここでは言い表されているのです。

 したがって、わたし自身はわたしの主ではない、この世のだれか、この世の何かがわたしの主であるのでもない、名誉や地位や財産がわたしの主であるのではない。あるいはまた、ローマ皇帝がわたしの主であるのでもない。わたしの罪のために十字架で死んでくださり、三日目に復活され、それによってわたしの罪をゆるし、わたしに新しい命をお与えくださったナザレの主イエスこそが、わたしの唯一の主である。パウロはまず第一に、自分はそのような者であると言うのです。

 このパウロの自己紹介は、もちろん彼自身が自分をアッピールするために考えついたものではありません。彼がこれから語ろうとするこの手紙の中心的な内容そのものであるのです。6章1節以下で、パウロは主キリストから与えられる救いの恵みについて語りますが、その中で、人はみな罪の奴隷であったが、主キリストの十字架の死と復活によって、罪から解放されていると語っています。それゆえに、主キリストの救いを信じる信仰者は罪の奴隷から解放され、自由にされているのです。同じことを、コリントの信徒への手紙一7章22節ではこう言っています。「というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身とされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。」

 主キリストによって罪から解放され、自由にされた信仰者は、主キリスト以外の何ものの奴隷でもなく、すべての束縛から自由されているのであり、ただ主キリストの奴隷、僕であるということです。パウロはこの自由によって、何ものによっても妨げられず、自由に、大胆に福音を語り、喜びをもって神と臨人とに仕えることができたのです。

 宗教改革者ルターは、『キリスト者の自由』という書物の冒頭に、次のような二つの命題を掲げています。一つは、「キリスト者はあらゆるものの最も自由な主であって、何ものにも隷属しない」。二つには、「キリスト者はあらゆるものの最も義務を負うている僕であって、すべてのものに隷属している」。そして、結論のところではこう言っています。「キリスト者は自分自身のために生きるのではなく、キリストと隣人のために生きる。そうでなければキリスト者ではない。信仰によってキリストに生き、愛によって隣人に生きる」。

 次に、「キリスト・イエス」についてですが、これについては何度も学んでいますので、簡潔にまとめておきます。「キリスト」はギリシャ語の「クリストス」ですが、これは旧約聖書のヘブライ語では「メシア」、油注がれた者と言う意味です。イスラエルでは、王、祭司、預言者がその務めに任じられる際に、頭からオリブ油を注がれるという習慣があり、終わりの日に神はイスラエルと世界を救うために、まことの、永遠の王、祭司、預言者であるメシア、油注がれた者をお遣わしになるという信仰から、メシア(ギリシャ語でクリストス)、救い主の到来を待望するという信仰がイスラエルに強くなりました。主イエスこそが、そのメシア・キリスト・救い主なのです。イエス・キリストという表現の中には「イエスこそがキリストである」という信仰告白が含まれているのです。

 「イエス」というお名前は、ギリシャ語では「イエスース」、これはヘブライ語の「ヨシュア、ヨシア」ですが、意味は「主は救いである」、ユダヤ人の一般的な名前ですが、主イエスの場合には、ルカ福音書1章31節にあるように、まだお生まれになる前から、主なる神がそのお名前を決めておられました。ということは、神はご自身がイエス「主は救いである」というお名前をお与えになったこの主イエスによって、実際に神の救いのみわざを成し遂げようとの、神の強い意志、永遠の救いのご計画をそこで明らかにされたのでした。

 キリスト・イエスという言い方と、イエス・キリストという言い方には、意味の違いはないと考えられます。4節と6節、7節では後者になっています。

 では次に、「神の福音のために選び出され、召されて使徒となった」という個所を学んでいきましょう。先ほど、宗教改革者ルターの言葉を紹介しましたように、「キリスト・イエスの僕」とされた自由人は、神と隣人とのために、自由と喜びとをもって仕え、生きるという新しい務めを与えられます。それが、パウロの自己紹介の続きで明らかにされます。すなわち、罪の奴隷から解放され、自由人とされたパウロは、「神の福音のために選び出され、召されて使徒となった」パウロであるのです。ここで言われている4つの言葉「神の福音」「選び出され」「召されて」「使徒となった」、それぞれの意味を考えながら、パウロが主イエス・キリストから託された務めについてみていくことにします。

 ギリシャ語原典の順序では「召されて」という言葉が最初にあります。同じ言葉が6節と7節でも用いられています。こちらでは、ローマの教会員について、「あなたがたは召されてイエス・キリストのものとなれた」、「あなたがたは召されて聖なる者となった」と言われています。パウロもローマの教会員も、そしてわたしたちもそうなのですが、共に「召された」者たちです。「召された」は受動態です。聖書の中で意味上の主語が隠されていて、受動態で言い表される場合は、ほとんどの場合、主語は神と考えられます。つまり、「神によって召されて」という意味です。また、「召す」と訳されている言葉は「呼ぶ」という意味です。

 パウロもローマ教会の使徒たちも、またわたしたちも、キリスト者はみな、神によって自分の名前を呼ばれ、神のみ前に呼び出されて、神に召された人たちです。自分の願いや意志とか好みとかによってではなく、あるいは何らかの能力とか資格とかによってでもなく、それらのすべてに先立って、神がわたしにみ声をかけてくださり、わたしの名を呼んでくださり、わたしを召してくださったのです。その招きに応答して、わたしはキリスト者となったのです。

 パウロがどのようにして召されたのかを見ていきましょう。使徒言行録9章に書かれています。彼はユダヤ教ファリサイ派の学者でした。律法を重んじるその信仰熱心から、キリスト教を激しく迫害していました。ある日パウロが迫害の息を弾ませながら、エルサレムからダマスコに行く途中、突然に天からの強い光に打たれて気を失い、地に倒れました。彼が再び立ち上がったとき、彼は復活された主イエスのみ声を聞き、その時から彼は主イエス・キリストの福音を宣べ伝える宣教者とされたのです。彼はキリスト教を迫害する者からキリスト教を宣教する者へ、彼自身が迫害される者へと変えられました。それは彼がもともと願っていたことではなく、むしろ彼の願いにまったく反して、主イエスの一方的な招きによることであり、天からの強い光による、神の圧倒的な力による呼びかけであり、招きだったのです。

 召されるということは直ちに、一つの新しい務め、使命を与えられることです。神の召しとは、神の務めへの召しです。ルターが言ったように、主キリストの僕となるということは、信仰によって喜んで主キリストに仕え、また愛によって隣人に仕える人になるということです。パウロは復活の主イエスと出会ったときに、全世界に福音を宣べ伝えるという使命を与えられました。それをパウロのここで「使徒となった」と言います。

 使徒とは、遣わされた者という意味です。主イエス・キリストによって遣わされた、主イエス・キリストの全権大使として、主イエス・キリストの十字架と復活の福音を携えて、全世界のすべての人々に罪のゆるしと救いを宣言し、語り伝えることが使徒の務めです。それゆえに、使徒の背後には。彼を遣わした方、主イエス・キリストの権威があります。その恵み、力、光栄があります。パウロはその権威によって、今、ローマの教会に語ろうとしているのです。彼がこれから語る内容は、彼自身に関することではもちろんありません。彼が発見したり、作り出した真理とかでもなく、あるいはだれか人間の知恵とかによる教えでもありません。彼が語るべき言葉は、彼を派遣された主イエス・キリストが語れと命じた神の言葉であり、主イエスご自身がその十字架の死と復活によって全世界のすべての人たちのためになし遂げてくださった罪のゆるしと救いの出来事であり、主イエス・キリストの福音以外ではありません。

 次は、「選び出され」についてです。これも受動態で、意味上の主語は神です。神によって選び出されたということです。パウロは自分の選びについて、ガラテヤの信徒への手紙1章15、16節でこう語っています。【15~16節】(343ページ)。神の選びは、人間の側の能力や資格、条件の一切に関係なく、神の側からの一方的な恵みの選びです。預言者エレミヤの選びについてはこう言われています。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者とした」(エレミヤ書1章5節)。神の選びは人間のすべてのことに先立つ、神の先行的な選びです。ここに、わたしたちの選びの確かさがあるのです。わたしが神よって選ばれてキリスト者とされているという選びの確かさは、神ご自身が保証しておられるのです。

 「選び出された」という言葉には、分離された、聖別されたという意味があります。『口語訳聖書』では「選び分かたれ」と訳されていました。キリスト者は主キリストに属する者たちですから、もはやこの世に属する者ではありません。この世から選び分かたれ、神にささげられたもの、神によって生き、死ぬ者とされているのです。ここにこそ、わたしたちキリスト者の永遠の幸い、祝福があるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはみ子・主イエス・キリストによってわたしたち一人一人を召し、選び、あなたに救われた民として教会にお集めくださいました幸いを覚え、心から感謝をささげます。わたしたちが再び罪の奴隷となることがありませんように、聖霊によってわたしたちを強くとらえてくださり、み国が完成される日までお導きください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。世界の為政者たちが唯一の主なる神であるあなたを恐れる者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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