2025年8月10(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
世界平和祈念礼拝
聖 書:イザヤ書2章1~5節
マタイによる福音書5章1~12節
説教題:「剣を鋤に、槍を鎌に、もはや戦うことを学ばないために」
預言者イザヤが活動した時代について、1章1節でこのように説明されています。【1節】(1061ページ)。6章1節以下に、イザヤがエルサレム神殿の中で神と出会って、預言者として召されたのは、ウジヤ王が死んだ年であると書かれていますので、それは紀元前742年のことでしたから、それからヒゼキヤ王の治世まで、おそらくは紀元前701年までであったと推測されていますが、およそ40年間がイザヤの活動の期間でした。
イザヤの時代にイスラエルの周辺地域がどのような状況であったのかを概観すると、西は地中海沿岸から、その一角にイスラエルがあり、東はペルシャ湾にいたる中東諸国は、紀元前732年にシリア帝国を倒したアッシリア帝国が強大な軍事力で領土を拡大しつつありました。イスラエル北王国は722年にアッシリアによって滅ぼされ、南王国ユダも常にアッシリアの脅威にさらされ、時にエジプトに頼ったり、時に反アッシリア同盟に助けを求めたり、時にアッシリアに貢物を送ったりと、左右に揺れ動いていました。
イザヤの時代が終わってからも、紀元前612年には新バビロニア帝国がアッシリアを倒し、紀元前597年に南王国ユダはこの新バビロニアによって滅ぼされ、イスラエル王国は完全に歴史から姿を消すことになります。そののちも、549年にはペルシャ帝国がさらに領土を広げてこの地域を支配することになりました。そして、538年には、ペルシャ帝国キュロス王によってバビロン捕囚の民イスラエルがエルサレムに帰還することがゆるされました。
このようにして、紀元前9世紀から6世紀までの間に、シリア帝国からアッシリア帝国、新バビロニア帝国、そしてペルシャ帝国へと、4つの巨大帝国が次々と現れては消え、戦いを繰り返していました。預言者イザヤの時代は、まさに戦争の時代の真っただ中にあったのでした。小さな国であり、常備の軍隊を持っていなかったイスラエルは、その中で文字通り翻弄されていたのでした。
きょうの礼拝で朗読されたイザヤ書2章1~5節の預言は、そのような時代背景の中で語られたのです。1節にこのように書かれています。【1節】。預言者イザヤが見た幻とは、1章1節にも同じ言葉がありましたが、彼が想像や空想で思い描いたことという意味ではありません。1節のヘブライ語を正確に翻訳すれば、「イザヤが見た言葉」となりますが、これでは日本語として通じませんから、「幻に見たこと」と翻訳したと思われます。つまりこれは、本来は「言葉」、神の言葉なのです。神が預言者にお語りなった言葉なのです。その言葉が、単に耳から響いてくる言葉としてではなく、あたかも目でも見ている出来事のように、鮮明に、現実的に、イザヤに示され、感じ取られたということを、このように表現しているのです。これは、神が確かに、現実的に、この世界に起こしてくださる出来事なのだということが強調されているということです。
では、その確かな現実とは、どのようなことでしょうか。2節の冒頭に「終わりの日に」とあります。終わりの日とは、終末のことです。歴史の終わりの時のことです。旧約聖書でも新約聖書でも、ヘブライ人の時間、時の理解は、初めがあり、終わりがあるという、いわば一直線の時の理解をします。聖書の最初の書物、創世記1章に書かれているように、神は初め天と地とを創造されました。第一日目に「光あれ」と言われ、光が創造されました。ここから世界の歴史が、時がスタートします。そして、聖書の最後、ヨハネの黙示録にはこの世界の歴史が終わり、古いものすべてが崩壊し、そののちに全く新しい神の国が現れることが語られています。世界の歴史、時、すべての時間、そしてまたわたしの一生も、神が始められ、神がこれを終わらせ、完成されるというのがキリスト教の歴史理解、終末論です。
預言者イザヤが今見ているのが、その終わりの時のことです。イザヤが生きていた時代は戦争が繰り返され、覇権争いと殺戮と破壊が繰り返されている世界でしたが、今イザヤはその現実を超えて、より確かな終わりの日の現実を見ているのです。彼はその終わりの日のことを、あらかじめ神によって示され、だれもまだ見ていないその出来事をあたかも現実として目で見ているかのようにはっきりと、見ているのです。したがって、イザヤにとっては、また神の言葉を聞く信仰者にとっては、それは遠い未来のことではなく、今すでに見ており、経験しており、現実となっていることとして、理解されているのです。
2節、3節には、終わりの日に、シオン・エルサレムの神殿に多くの民が集い、主なる神を礼拝するようになると預言されています。イザヤはこのあと4節で、戦いの武器をすべて捨て去って、再び戦うことを学ばない真の、永遠の平和のことを語るのですが、その前に、全世界の民がみな一人の主なる神を礼拝するようになると語ります。
3節のカギかっこの中に書かれている諸国の民の言葉は、正確に翻訳すれば「さあ、わたしたちは主の山に、ヤコブの神の家に上ろう。主はわたしたちにご自身の道を示される。わたしたちはその道を歩もう」。ここでは、「わたしたち」という言葉が何度か繰り返されています。つまり、諸国の民は一つの神の民、一つの神を礼拝する民、「我々、わたしたち」になるということが強調されているのです。イザヤの時代も、今の時代もそうですが、人々や国々はみな、「わたしは、我が国は」と自己主張をします。「わたし」が物事の中心となり、「わたし」が善悪の判断の基準だと考えます。しかし、そこでは「わたしたち、我々」という言葉は忘れ去られています。それゆえに、そこには平和はありません。自己主張と争い、戦争が、ますます人間の関係を破壊し、社会と世界、自然を破壊していきます。しかし、イザヤは戦争が繰り広げられている時代の中で、しかし、彼の信仰の目は、終わりの日の真の、永遠の平和を見ています。
イザヤはここに人間の罪の終わりを見ているのです。終わりの日に、全世界の諸国民が、すべての人々が、一人の主なる神を礼拝するようになり、主なる神の教えを聞き、主なる神のみ言葉を聞くときに、人々は神との正しい関係を回復し、神によって罪をゆるされ、互いに「わたしたち」という関係につながれるのです。なぜなら、罪は神との関係を分断し、また人間の関係を分断する悪の力だからです。新約聖書のエフェソの信徒への手紙2章では、主イエス・キリストの十字架の福音が敵意という隔ての壁を取り壊して、二つもものを一つにし、一人の新しい人に造り上げて平和を実現させたと書かれています(2章14節以下)。イザヤは主イエスが到来されるはるか700年前に、主イエスの十字架と復活によって成し遂げられる平和を、あらかじめ見ているのです。
4節で、その平和についてこのように書かれています。【4節】。ここには、真の平和の基となる神を礼拝することと、もう一つの平和の土台が示されています。それは、神が唯一の裁き主となることです。神が全世界の唯一の主として神の法廷に立たれ、国々を裁かれるとき、もはやだれも他者を裁く必要はありません。すべての人が、すべての国が、神の裁きに服し、神を恐れるとき、世界には争いや略奪は不要になります。戦争や破壊は不要になります。みなが神を礼拝する一つの民となるからです。みなが神の裁きのもとで、神によって罪ゆるされた一つの群れとなるからです。
その平和はどのようにして実現するのでしょう。「彼らは剣を打ち直して……。もはや戦うことを学ばない」(4節)とイザヤは語ります。これまでは戦うための武器として用いていた剣を熱い熱で溶かして、畑を耕す道具である鋤に鋳直し、これまでは人を突き刺す武器として用いていた槍を、これも鋳直して麦を収穫する道具である鎌にする。そのようにして、人間の命を奪い、この世界と自然を破壊するための武器がすべて、人間の命を養い、地球と自然を実り豊かな大地とするための農機具に変えられる、とイザヤは語ります。これが、終わりの日に神によって与えられる真の、永遠の平和なのです。
これはごく単純な論理であるように思われます。人を殺害するための武器を製造するではなく、自然や地球を破壊するための武器を製造するのでもなく、人間の命を養うための農具、自然や地球を守り、豊かにするための農具を製造することが、どんなにか人間にとって、地球全体にとって有益であるかを、だれもが知っています。そして、そうすることは、高い技術を必要とする高価な武器を製造するよりも、はるかに簡単であり、容易であることをも、みな知っています。そうなれば、だれも戦いのことを学ぶ必要がなくなり、高性能で高価な武器を製造するための技術を学ぶ必要もありません。
世界の国々が年々増額する軍事費を、干ばつや洪水の災害で食料難に苦しむ人たちのパンを購入するために用いるならば。土地を失い家を失ってさまよう難民たちのテントや飲み水のために用いるならば。貧しい地域の子どもたちのミルクや薬のために用いるならば。ほかにももっともっと有益な用い方をいくつも挙げることができるであろうに。だれもがそれを知っており、そうしたいと願っているのに。多くの平和を願う人たちがそのように訴え、叫んでいるのに。機関銃ではなく、ペンを手にもって世界平和を訴える作家がいます。すべての武器を楽器にと歌う反戦平和歌手がいます。「世界に平和を」と祈る広島や長崎の子どもたちがいます。
そうであるのに、なぜこの世界から戦争がなくならないのでしょう。なぜ、人間は戦うのでしょう。奪い合い破壊し合うのでしょう。なぜ、より悲惨で残酷で破壊的な戦いのために日夜研究を重ね、膨大なお金を投じるのでしょうか。
聖書はそれが罪の人間の避け得ない現実だと言います。主なる唯一の神を見失い、神無き世界に住む罪の人間、神を畏れることをしない人間の罪の姿だと言います。そうです。人間には罪のゆるしの福音が必要です。主イエス・キリストの十字架と復活の福音こそが、真の平和への第一歩となるのであり、永遠の平和の土台となるのです。
平和を祈るわたしたちの声は小さく、全世界には到底届かないでしょう。しかし、わたしたちの祈りをお聞きくださるのは天におられる父なる神です。父なる神はわたしたちの言葉にはならないうめきをも聞いてくださいます。すべての人の平和のための訴えを聞いてくださいます。そのことこそが、祈りの力なのです。そのことを信じて、わたしたちも祈りましょう。ご一緒に、「世界の平和を願う祈りを」祈りましょう。
(執り成しの祈り)
【世界の平和を願う祈り】
天におられる父なる神よ、
あなたは地に住むすべてのものたちの命の主であり、
地に起こるすべての出来事の導き手であられることを信じます。
どうぞ、この世界をあなたの愛と真理で満たしてください。
わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す人としてください。
神よ、
わたしをあなたの平和の道具としてお用いください。
憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、
絶望のあるところに希望を、闇があるところにあなたの光を、
悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。
主よ、
慰められるよりは慰めることを、
理解されるよりは理解することを、
愛されるよりは愛することを求めさせてください。
なぜならば、わたしたちは与えることによって受け取り、
ゆるすことによってゆるされ、
自分を捨てて死ぬことによって永遠の命をいただくからです。
主なる神よ、
わたしたちは今、切にあなたに祈り求めます。
世界にまことの平和を与えてください。
深く病み、傷ついているこの世界の人々を憐れんでください。
あなたのみ心によっていやしてください。
わたしたちに勇気と希望と支え合いの心をお与えください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。
(「聖フランシスコの平和の祈り」から)
