2025年9月21(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:詩編119編106~112節
ルカによる福音書11章33~36節
説教題:「まことの光に照らされている人」
ルカによる福音書11章33節からの説教の中で、主イエスは「ともし火」と「光」をたとえにして語っておられます。「ともし火」はランプのことです。「光」そのランプが照らしている光のことです。きょうの聖書の箇所を正しく、また深く学ぶために、まず聖書全体に目を向けてみましょう。
聖書では、ともし火や光という言葉は、非常に印象的に、また数多く用いられています。聖書辞典で調べてみると、ともし火という言葉は新約聖書で20数回用いられていますが、そのほとんどは主イエスの説教です。光の方は旧約・新約聖書で250回ほど用いられています。太陽の光とか、ランプの光のように、光を発する物を指す場合と、何らかの比喩や象徴として用いられている場合もあります。
古代の人々にとって、ともし火や光は、今日のわたしたち以上に強い印象を与えたであろうということは、容易に推測できます。今日のわたしたちは電気で作られた人工的な光に囲まれており、いつでもスイッチをひねれば、すぐに周囲全体が明るくなります。光のありがたさとか大切さ、またその働きの大きさに気づくことはあまりありません。光がない世界の暗さとか、その恐怖とか戸惑いとかを強く意識することもありません。それに比べて、夜の暗闇を照らす光として、ランプやたいまつしかなかった古代の人々にとって、光はわたしたち以上に印象深く、強いイメージを与えたと思われます。
まず、聖書の最初のページには、創世記1章3節に、神が最初に創造された特別な光について書かれています。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」神は天地万物を創造された時、第一日目に光を創造されました。この光は太陽とか月星の光とは違います。太陽や月が創造されるのは第四日目になってからです。第一に目に創造されはこの光は、特別な光であって、すべての光の根源のようなものであり、この光の中で、第二日目以降の天地万物が創造されるので、この光がなければ何ものも存在することができないような、すべての存在している被造物の、その存在を根底から支えているような、そのような光のことです。
聖書は、そのような特別な光を考えているのです。神が第一日目に創造されたこの光がなければ、何物も存在することができない、生きることも、動くことも、歴史や歩みを刻むこともできない、そのようなすべての存在と命と歩みとを可能にしている光、それを支えている光、それを導いている光、そのような特別な光を、聖書は考えているのです。
詩編119編105節に、印象深いみ言葉があります。「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす光」。ここでは、光は比喩として用いられていますが、ここでも創世記1章3節の特別な光が暗示されているように思います。神のみ言葉の光なしでは、わたしは安全な道を、正しい道を、まことの命に至る道を歩むことはできないと、この詩人は告白しているのです。
もう一つ、わたしたちがよく知っている新約聖書のみ言葉は、ヨハネ福音書1章です。「言(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(4~5節)。そして、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(9節)。ヨハネ福音書は、言(ことば)、命、光という言葉によって、クリスマスの日に誕生された主イエスご自身と、その主イエスによってこの世界のすべての人もたらされる命と救いを語っているのです。主イエスこそが天地創造の初めからおられた神の言葉であり、その神の言葉によって与えられるまことの光であり、またその光によってすべての人の存在と命とが支えられ、導かれ、救いへと招き入れられる、そのような光であるとヨハネ福音書は語っているのです。
以上、光につて教えている聖書の箇所を見てきたことから明らかなように、きょうの主イエスの説教で語られているともし火、光は、主イエスご自身のことであり、また主イエスが宣べ伝えておられる神の国の福音のことを指しているということを、まず確認しておくことが重要です。
では、33節から読んでいきましょう。【33節】。ともし火、ランプは部屋を照らす光です。当時の家は、たいてい一部屋で、小さな窓があり、一つのランプで部屋全体を照らします。夜の家の中はランプがなければ真っ暗で、何も見えません。
33節と同じような表現は、すでに8章16節にもありました。また、マタイ福音書5章13節以下では、光とともし火は、世にあってキリスト者として生きているあなたがたの生き方を教える比喩として用いられています。その箇所を読んでみましょう。【14~16節】(6ページ)。わたしたちキリスト者は、すでに罪ゆるされ、救われている者たちとして、いまだ罪の支配の中にあるこの世の暗闇の中で、主イエス・キリストの光を反射して、光の存在として生きるように招かれているということが、ここでは教えられています。
それに対して、ルカ福音書11章では、前からの続きから判断すると、33節のともし火は、キリスト者の信仰生活を指すというよりは、主イエスご自身を、あるいは主イエスが語られた福音を指していると考えられます。29節以下との関連を見てみましょう。主イエスはユダヤ人が目に見えるしるしを求めていることを嘆いて、あなたがたユダヤ人の不信仰を、異邦人でありながらヨナの説教によって悔い改めたニネベの人たちが裁くであろうと言われました。そして、今の時代にはヨナのしるし以外には与えられないと言われました。ヨナのしるしとは、ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいて、三日目にそこから出てきたように、主イエスが十字架で死に、墓に葬られ、三日目に墓の中から出てきて復活されるというしるしのことで、この十字架と復活の福音を聞いて信じ、罪を悔い改めることによってこそ、あなた方は救われるのだと主イエスは説教されたのです。
けれども、彼らユダヤ人は主イエスを信じませんでした。主イエスが語られた神の国の福音を信じませんでした。それに対して、33節のみ言葉が語られたのです。【33節】。暗い罪の世を照らすまことの光として世に来られた主イエス、また主イエスが語られた神の国の福音、そして主イエスの十字架の死と復活の福音、それは家全体を明るく照らすともし火である。イスラエルの民と全世界のすべての人を照らし、罪から救う光である。そうであるのに、そのともし火を穴倉の中や升の下に閉じ込めて、その光を覆い隠してしまうとは、なんと愚かなことか。なんとかたくなで罪深いことか。これが、33節の意味です。
イスラエルの民ユダヤ人が神の愛によって選ばれているのは、またわたしたちがこの世から選び出され、教会の民とされているのは、救い主、主イエスの光を高く掲げ、主イエスの福音の光をすべての人に見えるようにし、この世を照らすまことの光を証しするためなのです。
そうすると、ルカ福音書11章33節とマタイ福音書5章13節以下の「地の塩、世の光」についての主イエスの説教とは、本質的には同じことを語っているということが分かります。ルカでは、ともし火と光は主イエスご自身と主イエスの福音を表す比喩として用いられ、またマタイ福音書ではわたしたちキリスト者を表す比喩として用いられていますが、わたしたちキリスト者が世の光として輝くのは、わたしたち自身が持っている何らかの能力とか資質とかによるのではなく、まことの光である主イエスに照らされ、その主イエスの光を、いわば反射して輝くのですから、ルカ福音書とマタイ福音書は、本質的には同じ内容を語っていると言えます。
次に、34節からは、まことの光である主イエスによって照らされているわたしたちキリスト者の在り方が、同じようにともし火と光の比喩を用いて語られています。【34~36節】。目は、そこから光が入ってくる入り口です。目から光が入ってくることによって、あたかも全身が明るくなったように感じます。目を閉じたり目隠しをしていれば、光があっても、その光は体の中には届かず、全身が暗くなったように感じます。
主イエスは、「あなたの目が澄んでいれば、あなたの全身が明るい」と言われます。澄んだ目とは、光をまっすぐにとらえ、自分の体の中に受け入れる目のことです。光が照らしていても、その光から目をそらしたり、光とは反対の方向を向いていては、澄んだ目を持っているとは言えませんし、全身も明るくなりません。澄んだ目とは、まことの光であり、救いと命の光である主イエスと出会い、その福音を従順な心で聞き、受け入れ、信じることを言うのです。
そのような澄んだ目で主イエスの福音の光を受け入れるならば、それによって、その人の全身が明るくなると36節で語られています。まことの光である主イエスによって、その人の全身が明るく照らされるのです。その人は、まことの光の中に招き入れられ、まことの光に包まれたようになるのです。それが、わたしたちキリスト者であると主イエスは言われます。また、パウロはそのようなキリスト者のことを、ガラテヤの信徒への手紙2章20節で、「生きているのは、もはやわたしではない。キリストがわたしの内に生きておらるのだ」と言っています。そこから、わたしたちキリスト者の新しい信仰生活が始まります。
その新しい信仰生活を、きょうの箇所から二つにまとめてみましょう。一つは、わたしたちがまことの光である主イエスによって照らされるなら、わたしたちの中にあった闇が追い払われ、主イエスの光を反射して生きる者とされるということです。主イエスの十字架と復活の福音によって罪ゆるされている者として、その罪のゆるしの恵みに感謝して生きる者とされるのです。主イエスは「あなたがたはこの世の光である」と言われました。コリントの信徒への手紙二2章15節では、キリスト者は主キリストによって神にささげられた良い香りであると言われています。わたしたちキリスト者は、主イエスの光を反射し、主イエスの香りを放つ存在とされているのです。
第二には、そのようにして、まことの光によって照らされているキリスト者は、この世を支配している闇に対して信仰によって戦いをいどみ、絶えず襲ってくる罪の誘惑と戦いつつ、ついにはそれに勝利する約束に生きるのです。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、わたしたちを罪と悪が支配するこの邪悪な世から守ってください。あなたのみ心を行う信仰者としてください。そして、ついにはあなたのみ国が勝利することを信じさせてください。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
