11月16日説教「イエス・キリストの恵みによって使徒とされたパウロ」

2025年11月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書52章7~10節

    ローマの信徒への手紙1章1~7節

説教題:「イエス・キリストの恵みによって使徒とされたパウロ」

 パウロがローマの信徒への手紙を書いた主な目的は、ローマ教会訪問の前に、まだ会ったことがないローマの教会員に自分を知ってもらうこと、それと同時に、自分がこれから携えていく主イエス・キリストの福音がどのようなものであるのかを知ってもらうこと、そして、ローマ教会を拠点としてさらに西の果てイスパニア(今のスペイン)にまで福音を宣べ伝えるという自分の計画をあらかじめ知ってもらい、そのためにローマ教会の協力を得たい、これが手紙を執筆した主な理由でした。きょう学ぶ5節では、自分がどのようにしてイエス・キリストの使徒とされたのかについて語っています。

 【5節】。パウロはすでに1節でこのように自己紹介をしていました。【1節】。この1節で自己紹介は済んでいたはずなのに、5節で更に自分の使徒としての務めについて付け加えていることになりますが、実はこの箇所は2節の冒頭にあるように、「この福音」つまり1節の「神の福音」を説明する2節から6節までの長い挿入文であって、神の福音である主イエス・キリストのことを語っている個所になります。その主イエス・キリストを語る中で、「この方により……恵みを受けて使徒とされました」と自分のことについて触れているわけです。つまり、「神の福音」である「御子、主イエス・キリスト」のお働きの一つとして、パウロが使徒として召されたことがあるというのです。

 そしてまた、続く6節では、もう一つの主イエス・キリストのお働きとして、【6節】と付け加えられています。パウロが使徒として召されたことも、ローマの教会員が異邦人の中から選ばれて主キリストのものとなるように召されていることも、共に主イエスのお働きなのであり、主イエスによる召し、招きなのであり、それによってパウロとローマの教会とは、互いにまだ直接にあったことはないけれど、また何百キロメートルも離れているけれども、両者は固く信仰によって結ばれているのです。

 パウロは6節で「わたしたちは」と言っていますが、これはいわば文学的表現で、パウロ自身を指しています。自分が特別に異邦人に対して福音を宣べ伝える務めを託されているという強い自覚がこの言い方に込められているのかもしれません。

 「この方により」とは、2節から4節で語られていた神のみ子であり、ダビデの子孫から生まれ、死者からの復活によって力ある神のみ子と定められた主イエス・キリストによって、という意味です。パウロが使徒となったのは、自分がそうなりたいと願ったからではありませんでした。だれかに勧められたからでもなく、だれかに命令されてでもありません。死者の中から復活された主イエス・キリストからの直接の任命によって使徒とされたのだとパウロは言うのです。

 すでに1節の自己紹介で「召されて使徒となったパウロ」と書いたのに加えて、この5節でも「この方によって、恵みを受けて使徒とされた」と、自分が使徒であることを繰り返し語っていることには、理由があります。というのは、パウロは主イエスの本物の使徒ではないという意見が彼の周囲には少なからずあったからです。パウロは地上の主イエスと会ったことも、その説教を聞いたこともありませんし、もちろん主イエスの12人の弟子でもありません。それだけでなく、彼はキリスト教会を迫害するユダヤ教ファリサイ派の学者であり指導者でした。だから、彼は自称の使徒であり、使徒としての権威もなく、彼が教えている内容も本当に主イエスの教えなのか疑わしい。彼は使徒であることを自称して世の評判を求めているに過ぎない。そのようにパウロを批判する人たちがいたということが、パウロ自身が書いた書簡から明らかです。

 では、実際にはどうであったのかと言いますと、使徒言行録9章に、パウロが復活の主イエスと出会ったことが書かれています。彼は、キリスト教会を迫害し、信徒たちを捕らえて牢獄に閉じ込めるために、エルサレムから北のダマスコの町に向かっている途中に、突然天からの強い光に照らされ、彼は地に倒れました。とのとき天から声がありました。「サウル、サウル(これはパウロの古い呼び名でした)、なぜわたしを迫害するのか」。それは、復活された主イエスの呼びかけでした。その後、パウロが起き上がると、彼は主イエスのみ名をイスラエルやすべての国々の人々に宣べ伝える器として選ばれた者であることを復活の主イエスから伝えられたのです。

 このようにして、迫害者であった彼が主イエスの福音の宣教者に変えられた経験をしたパウロは、ガラテヤの信徒への手紙1章1節では自らをこのように紹介しています。「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」。更に、1章15、16節ではこのように書いています。「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによりって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、この福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき」。

 このように、パウロがイ主エス・キリストの福音を宣べ伝える使徒とされたのは、徹底して父なる神とみ子主イエス・キリストによることなのだと、パウロは繰り返して語っているのです。しかし、それがパウロの誇りになるのでは決してなく、彼は神の恵みの前に徹底して謙遜になり、自分は使徒と呼ばれる資格も値打ちもない者であり、ただ「神の恵みによって今日のわたしがある」(コリントの使徒への手紙15章9節)のであるから、その神の恵みが無駄になることがないように、他のすべての使徒たちよりも熱心に働いてきたのだと、彼は別の手紙の中で書いています。

このように、パウロが使徒として召されたことを語る際に、きょうの箇所でもガラテヤの使徒への手紙でも、また他の書簡でも共通していることは、死者の中から復活された主イエスとの関連で語っているということです。教会の迫害者であったパウロが、主イエスの福音を宣べ伝える宣教者へと変えられたことは、まさに死からの復活に等しいと言えます。それは、無から有を呼び出だし、死から命を生み出される全能の父なる神のみわざなのです。神はその偉大なる力によって、復活の主イエスとの出会いをとおして、パウロを新しい命に生かしてくださり、新しい使命に生きる者としてくださったのです。そのような神の偉大なる力は、今日も、復活の主イエスとの出会いをとおして、わたしたち一人一人に働いているのです。

では、きょうの5節のみ言葉に戻りましょう。パウロはここでも、自分が異邦人のための伝道者であると自覚していることを語っています。手紙を受け取るローマの教会も、次の6節から推測すると、多くはユダヤ人以外の異邦人、ギリシャ人であったと思われますから、彼がそのことを強調する理由にもなっているのでしょう。実際にパウロは、使徒言行録9章の記録でも、また彼の書簡でも、自分は異邦人のために遣わされている使徒であることをしばしば語っています。

でも、そのこととは別に、パウロは神がイスラエルの民を選ばれたという、神の選びの重要性についても語っています。神は全世界の民の中からイスラエルを選ばれ、この民と契約を結ばれ、この民をとおして救いのみわざを行われました。そのことを書いているのが旧約聖書です。そして、神はこの今の時になって、その救いのご計画を最終目的に至らせるために、ご自身の一人子なる主イエス・キリストを世にお遣わしになって、全世界のすべての人のための救いのみわざを成就されました。主イエスの十字架の死と復活によって、その救いが成就されたのです。

パウロは神のこの救いの順序、秩序を重んじました。そして、宣教活動にために新しい町に入ると、まずユダヤ人の会堂で、ユダヤ人に対して主イエスの福音を語りました。わたしたちは使徒言行録の学びをとおしてそのことを知らされています。けれども、ユダヤ人は主イエスの福音を信じませんでした。パウロたちを迫害し、町から追い出しました。そこで、パウロの足は異邦人、ギリシャ人へと向かったのでした。パウロが異邦人の伝道者となったのは、彼の選択とは決意とかによるのではありませんでした。それが神の救いの秩序とユダヤ人の罪のゆえでした。それはまた、神の永遠なる救いのご計画でもあったのです。それゆえにパウロは常にユダヤ人の救いのために祈り続けました。神はユダヤ人も異邦人も、全世界のすべての人が主イエスの福音を聞いて罪を悔い改め、救われて、神の民となることを望んでおられます。パウロも、そしてわたしたちも、そのために仕えるようにと召されているのです。

パウロは使徒としての務めを、「その御名を広める」ためであると言います。この箇所を直訳すると「彼のみ名のために」であって、広めるという言葉は本来ありません。もちろん、主イエスのお名前を世界に広めるということも含んでいると思いますが、主イエスのお名前が崇められ、賛美されるために、その御名の栄光のために、またそのお名前が真実に告白されるために、ということも含まれるでしょう。当時の世界では、ローマ皇帝の名が崇められ、皇帝の名前と顔が刻まれた銀貨が流通していました。皇帝の名前には、「主」という言葉をつけて呼ばれていた中で、しかし、キリスト者はそうではなく、主イエス・キリストこそが全世界の唯一の主であり、崇められ、礼拝され、賛美されるべき唯一の方であり、主と告白されるべき唯一の方であると告白しました。

「信仰による従順へと導くために」という言葉の中には、パウロの信仰理解の特徴がよく表れています。信仰とは、ただ漠然と神の存在を信じるとか、何かの真理や信条を信じるとか、あるいは何か宗教的な感情に浸るということではなく、信じている神のみ心を知り、それに従って生きること、神のみ言葉への従順な服従なのだとパウロは言います。けれども、その服従は信仰による服従でなければなりません。信仰を伴わない服従は悪しき服従であり、悪魔的な服従であり、そこには本当の喜びも感謝もありません。主イエス・キリストを信じる信仰によって、主イエスの救いの恵みを知らされ、主キリストの十字架と復活によって示された神のみ心に服従することは、自由と喜びと感謝に満ちた服従です。この信仰による服従こそが、わたしたち本当に生かし、他のすべての束縛から自由にするのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちを主イエス・キリストによる救いの恵みによって罪の奴隷から解放してくださり、自由と喜びとをもってあなたと隣人にお仕えする者としてくださったことを感謝いたします。どうか、わたしたち一人一人をも、主イエスの福音を持ち運ぶ働き人としてお用いくださいますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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