2025年12月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
待降節(アドヴェント)第二主日
聖 書:イザヤ書61章1~4節
ルカによる福音書1章39~56節
説教題:「マリアの賛歌」
ルカによる福音書1章と2章では、先駆者ヨハネと主イエスの誕生予告と誕生の記録が、交互に配置されています。1章5節からは、来るべきメシアである主イエスのために道を整える先駆者ヨハネの誕生予告が語られ、続く26節から、そのメシア・救い主である主イエスご自身の誕生予告が、そしてきょう朗読された39節~45節では、二人の母親となるエリサベトとマリアの出会いの場面、更に46節からはマリアが歌った賛歌と続きます。二人の誕生が予告されたとおりに、57節以下ではヨハネが誕生したことが、それに続いてヨハネの父ザカリアの賛歌、2章1節からはメシア・救い主である主イエスの誕生の記録が語られていきます。
ルカ福音書はこのように先駆者ヨハネと救い主・主イエス・キリストとを並べて配置することによって、旧約聖書で預言されていたメシア・救い主の到来が実際にこのようにして成就したのだということを強調しているのです。旧約聖書時代の長い長い待降節、アドヴェントの期間、救い主を待ち望む期間が、今や終わろうとしている。神の救いのご計画が今やその最後の完成へと向かいつつある、待降節(アドヴェント)から降誕節(クリスマス)へと確かに世界の歴史が進みつつあるということを、ルカ福音書は語っているのです。
そのような意味からいっても、きょうのエリサベトとマリアの出会いの場面は、非常に興味深く、また印象的な場面であると言えます。ここで出会っている二人の母になろうとしている婦人は、共に神の奇跡によって、特別な使命を与えられた男の子を胎内に身ごもっています。エリサベトは年老いて、もはや子どもが授かる可能性がなくなってから、神の奇跡によって男の子を宿しました。「あなたの胎内に宿っている男の子をヨハネと名づけなさい。その子は主・メシアに先立って、人々が来るべきメシアを迎えるために道を整えるであろう」との神の約束のみ言葉を聞きました。
一方、マリアはヨセフと婚約していましたが、まだ一緒になる前に次のような神の約束のみ言葉を聞きました。「あなたの胎内に宿っている男の子は聖霊なる神から与えられる命である。その子をイエスと名づけなさい。その子はまことの神でありまことの人として、ダビデ王に約束された永遠の王国を打ち立てるであろう」と。
エリサベトとマリアはいずれも神の奇跡によって母になろうとしています。神の奇跡によって母となり、生まれ出るその子が神からの偉大なる使命を託されている、そのような二人の婦人がここで出会っています。ここで起こっている出会いの、深い意味を更に探っていくことにしましょう。ここでは、神の奇跡と神の奇跡とが出会っています。一つの神の奇跡が起こるとき、それはだれにとっても大きな驚きであり、感動であり、喜びであり、また恵みです。しかもここでは、二つの神の奇跡が出会っているのです。神の奇跡と神の奇跡とが出会っているのです。奇跡の中の奇跡、奇跡×奇跡ともいうべき奇跡がここでは起こっているのです。
ここで実際に起こっている二人の婦人の出会いという奇跡を考えてみましょう。年老いてから母になったエリサベトと、結婚前に聖霊によって母になるであろうと言われたマリアは、36節によれば、親類関係でした。どういう関係かは明らかではありませんが、エリサベトはユダの町に住む祭司ザカリアの妻であり、マリアはずっと北のガリラヤ地方のナザレという町に住む庶民でした。二人が出会う機会は、そんなになかったでしょう。でも今回は、聖霊によって母になるであろうとの神の約束のみ言葉を聞いてまだ不安に思っていたマリアが、その不安を取り除き、神の約束が確かであることを確認するために、神の導きによって出会う機会を与えられたのです。36節へもう一度目を移しましょう。【36節】。マリアはこの神のみ言葉に導かれて、エリサベトが住むユダの町へと急いだのでした。
わたしたちも人生の歩みの中でさまざまな出会いを経験します。感動的な出会いもあります。そうでない出会いもあるかもしれません。でも、いずれにしても、ここで起こっているエリサベトとマリアのような出会いを、わたしたちもぜひとも経験したいものだと願います。共に神の奇跡によって大きな、驚くべき恵みをいただいている二人の婦人の出会い、神の永遠なる救いのご計画の中心を担うべき二人の人物の母として選ばれたエリサベトとマリア、そしてその出会いによってお互いの喜びと希望を再確認するような出会い、神からいただいた恵みをお互いに確認し合い、その信仰を強め合うような出会い、そのような出会いを、わたしたちもぜひとも経験したいと願います。
もう少し、ここで起こっている出会いの意味を探っていきましょう。ここでは、旧約聖書の預言と新約聖書の成就とが出会っていると言えるでしょう。先駆者ヨハネは旧約聖書の預言者たちの列の最後に立って、来るべきメシア・救い主のすぐ前で、6か月後に誕生するであろうメシア、主イエス・キリストを指し示し、イスラエルの民が長く待ち望んだメシア到来を告げるのですが、その先駆者ヨハネの母となるエリサベトと、先駆者ヨハネが指し示したメシアである主イエスの母となるマリアとが、ここで出会ったいるのですから、ここではまさに旧約聖書と新約聖書とが出会っていると言えるでしょうし、神の預言と神の成就とが出会っている、とも言ってよいでしょう。神のみ言葉はすべて出来事となり、神の救いのご計画はすべて成就されるということを、わたしたちはここから知らされます。
もう一つ、ここで起こっている出会い、もう一つというよりは、これこそがここで起こっている不思議な出会いの中心である、次のこの出会いへと目を向けなければなりません。40節以下を読みましょう。【40~45節】。なんと、ここでは、エリサベトの胎内にいる、受胎後6か月を過ぎた先駆者ヨハネと、マリアの胎内におられる、受胎告知を受けてまだ間がない救い主・主イエスとが出会っているということが語られているのです。受胎して半年が過ぎれば、胎動が感じられるようになると、一般的には説明されるかもしれません。その説明は、実際にリアルです。まだ表に現れ出ていない命の胎動が母親のおなかから伝わってくるということは、とても感動的です。でも、ここで起こっている出会いはそれ以上です。というのは、マリアの胎内に宿っている命は、まだ数日、あるいは数週間に過ぎないからです。しかも、その小さな、小さな命の存在と、エリサベトの胎内に宿っている6か月を過ぎたばかりの命が、お互に出会っている、いやそれだけでなく、エリサベトの胎内の命がマリアの胎内の命に、いわば敬意を表して、喜び躍っていると書かれているのです。すべての預言者たちを代表している先駆者ヨハネが、その預言者たちの預言の成就の時が今来たことを知り、そのメシア・主イエスと直接対面してお迎えしていることを知らされて、喜びに満たされて、躍っている。そのことが今すでにエリサベトとマリアの出会いの時に実現している様子がここには描かれているのです。これほどに感動的で、意味深い出会いはどこにあるでしょうか。わたしたちもまたこの大いなる出会いの感動と恵みに共にあずかりたいと切に願う者です。
マリアはエリサベトと出会って、貧しい自分に神から与えられている大きな祝福を覚え、賛美の歌を歌いました。46節からは「マリアの賛歌」と言われる歌が記されています。この歌は、わたしたちがこれまで学んできたエリサベトとマリアの出会いの中に含まれていた神の救いの恵みとマリアに与えられた神の大いなる祝福に対する、マリアの応答として歌われています。この歌は、まだ主イエス誕生の出来事そのものではなく、待降節の中で歌われているのですが、わたしたちがすでにエリサベトとマリアの出会いの箇所で学んだように、すでにここで待降節と降誕節とが出会っていますので、この歌の中でも、すでにクリスマスの出来事の意味が歌われています。それを読み取っていきましょう。
「そこで、マリアは言った。『わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神をほめたたえます』」(46~47節)。この歌のラテン語訳聖書の冒頭の言葉、「あがめる」という意味のラテン語から「マグニフィカート」と呼ばれます。マリアは冒頭で「わたしの魂は」「わたしの霊は」と繰り返しています。これは、単に「わたしは」と言うよりも強調した言い方です。わたしの魂と精神、わたしの体と心、その全身、その全存在をもって、主なる神をほめたたえますという意味あいです。わたしの全生活をもって、わたしの全生涯を貫いて、わたしのすべての命をかけて、わたしは主なる神をあがめます、喜びたたえますという意味です。これこそが、神の奇跡によって救い主の母とされたマリアがなすべきことなのだと言えます。そしてまた、今主のご降誕を待ち望みつつ、救い主をお迎えしようとしているわたしたちがなすべきことも、これ以外ではありません。
「あがめる」という言葉は本来「大きくする」という意味を持っています。「主をあがめる」とは、主なる神だけを大きくする、他のすべてを、わたしとわたしの周辺にあるすべてをも含めて、それらを主なる神のみ前で限りなく小さくしていくということです。特にも、わたし自身を主なる神のみ前に小さくしていくということです。自らを主なる神のみ前で小さくし、低くし、貧しくし、謙遜になる。そして主なる神だけを大きくしてあがめる。そうすることによって、すべての善きものを主なる神から期待し、願い求める。これが救い主をお迎えするわたしたちの正しい姿勢、生き方なのです。
マリアは47節で、主なる神を「わたしの救い主」と呼んでいます。ここには二つの意味が含まれています。一つには、マリアは救いを必要としている罪びとであるという告白です。マリアはメシア・救い主の母となるために神に選ばれました。それは、なんという大きな神からの祝福であることでしょうか。42節でエリサベトは「あなたは女の中で祝福された方です」と言っています。マリア自身も48節で、「いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」と言っています。でも、彼女自身に何か優れている点があって、そうなのではありません。マリアが祝福されているのは、ほかでもなく彼女が胎内に宿している神のみ子・主イエスが祝福された方であるからであって、彼女自身は38節でも48節でも、「わたしは主のはしため・僕(しもべ)です」と告白しています。「わたしは貧しく、低く、神の救いを必要としている罪びとです」。このマリアの告白が、彼女を祝福された人にしているのです。
「救い主」のもう一つの意味は、これこそがクリスマスの中心的な意味なのですが、主なる神は救いの神であるということです。マリアにとってそうであるだけでなく、全世界のすべての人にとって、神は救いの神として、今この時この世界においでになられたのです。わたしたちすべてを罪から救うために、神はみ子主イエス・キリストとしてこの世においでくださいました。そして、このみ子の十字架の死と復活によって、わたしたちの救いを成し遂げてくださったのです。それゆえに、今全世界のすべての人々と共に、このみ子のご降誕をお祝いするのです。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、あなたがこの罪の世を顧みてくださり、み子をわたしたち人間と同じお姿でこの世にお遣わしになったことを、心から感謝いたします。願わくは、このアドヴェントの時に、すべての人々があなたのみ前に自らの罪を告白し、あなたがみ子・主イエス・キリストによってお与えくださった救いの恵みを、心から待ち望む者とされますように。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
