12月14日説教「主イエスのために道を整える洗礼者ヨハネ」

2025年12月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

              待降節(アドヴェント)第三主日

聖 書:マラキ書3章1~3節

    ルカによる福音書1章57~80節

説教題:「主イエスのために道を整える洗礼者ヨハネ」

 待降節(アドヴェント)の2週の主の日の礼拝で、これまでわたしたちはルカによる福音書1章を続けて読んできましたが、そこでは2人の男の子が神の奇跡によって誕生するであろうという約束が語られていました。一人は、年老いてから神の奇跡によって初めての子どもを授かったザカリアとエリサベト夫妻に生まれるであろう先駆者ヨハネ。もう一人は、婚約中でありまだ一緒になっていなかったヨセフとおとめマリアに聖霊によって生まれるであろうメシア・キリストなる主イエス。

そして、この二人の誕生予告に続いて、きょう読んだ57節には、このように書かれています。【57節】。ザカリアとエリサベトに語られた男の子誕生予告がここで成就しています。わたしたちはここであらかじめ、半年先に起こることを先取りして、2章6節、7節を読んでみましょう。【6~7節】(102ページ)。ここでは、ヨセフとマリアに語られた男の子誕生予告もまた成就します。

このように、神の約束のみ言葉は必ず成就します。神の二つの奇跡が共に出来事になります。このことは、ごく自然に起こっていると言えるのかもしれません。母親が受胎して一定の期間が過ぎると、子どもの出産のときを迎えるということは自然な経過と言えるでしょう。しかし、わたしたちはここに神の特別なみわざを見るのです。それは、神がお語りになったみ言葉は必ず成就する、神のみ言葉は出来事となるという真理を、ここに読み取ることができるということです。

1章57節に「月が満ちて」と書かれており、また2章6節にも「マリアは月が満ちて」と書かれています。「月が満ちる」と訳されているギリシャ語原典は直訳すると「時が満ちる」です。時が満ちるとは、この場合はエリサベトとマリアの妊娠の期間が満ちて、出産の時を迎えたという意味ですが、ここでは二組の夫婦に語られた神の約束の時が成就したという意味も当然含まれています。それだけではありません。「時が満ちる」とは、神が語られたすべてのみ言葉が、その成就の時へと向かっているということの約束であり、また成就であり、その実現なのです。預言者イザヤはイザヤ書55章でこう預言しています。「雨も雪も天から降れば、それは空しく天に帰ることはない。大地を潤し、芽を出させ、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉は、空しくわたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」(イザヤ書55章8~11参照)と。同じような神のみ言葉は旧約聖書と新約聖書に数多く見いだされます。

ある人は、教会を妊娠した女性にたとえています。教会は神の約束の言葉を聞き、神の国の完成の時、救いの完成の時、永遠の命が与えられる時を待ち望みながら今を生きている人たちの群れです。それはちょうど、胎内に子どもを宿し、出産の時を待つ女性と同じだというのです。教会は神の言葉を聞き、その言葉が成就することを信じながら生きています。終わりの日には、今のこの混乱した世界が終わり、新しい神の国が完成するであろうことを信じ、またわたしの弱くたどたどしい信仰がその日には完成され、わたしに永遠の命が与えられるであろうことを信じ、その日を待ち望みながら生きている信仰者たちの群れ、それが教会です。胎内に子どもを宿した女性は、日に日に新しい命の胎動を強く、確かに感じながら、出産の時が近づいていることを、喜びと希望を抱きながら、時が満ちるのを待ち望んでいます。わたしたちの教会もまた、それと同じように、神の言葉である聖書に聞きつつ、その聖書の解き明かしである説教を聞きつつ、神の約束の時が確かに近づいてきていることを信じつつ、「主よ、来たりませ」と祈りつつ、時が満ちるのを待ち望んでいるのです。神の言葉はまだ現実とはなっておらず、出来事としては起こっておらず、いまだ成就の時は来ていないけれども、その神の約束の言葉の中にはすでに成就を含んでいるのだということを、わたしたちは知らされます。それゆえに、神の言葉を聞きつつ待ち望む信仰者の待望の時は、決して空しく終わることはありません。

次に、58節を読みましょう。【58節】。ここでは、ザカリアとエリサベトの年老いた夫婦の喜びが、その家の中だけにとどまらずに、多くの人たちの喜びとなったことが語られています。一人の人の喜びが他の人の喜びになる。このような喜びこそが、本当の喜びであると言えるでしょう。そのような喜びはどこから来るのでしょうか。「主がエリサベトを大いに憐れまれたと聞いて」と書かれています。この喜びは天の父なる神から与えられた喜びです。人が自分の努力で勝ち取った喜びではありません。この世には、そのような喜びがあるでしょうが、しかし、その喜びの背後には多くの場合、別の人の悲しみや妬みや怒りがあったりします。自分の喜びを手に入れるために、だれかの喜びを奪い取るということもあります。そもそもわたしたち人間は、共に喜びを分かち合ったり、共に重荷を負い合ったりすることができない、自己中心的な罪びとなのです。

けれども、神から来る喜びは、わたしたちが共に喜び合うことを可能にします。神が大きな憐れみをおかけくださったことを知らされた人が、どうしてそれを自分だけに閉じ込めておくことができましょうか。そこでは、妬み合いや奪い合いは起こりえません。共に分かち合うようにと導かれます。教会は神の憐れみと恵みによって罪から救われている人たちの群れであり、共に喜び合う群れです。それゆえにまた、共に悲しみや重荷や痛みをも分かち合い、担い合うことができる信仰者たちの群れなのです。

実は、このザカリアとエリサベトの家とその周辺に広がった喜びは、後で2章に書かれているクリスマスの大きな喜びの照り返しなのであり、いわばその先取りなのです。2章10節、11節を読んでみましょう。【10~11節】(103ページ)。ザカリアとエリサベトとから生まれる先駆者ヨハネが、来るべきメシア・主イエスのために道を整える務めを持ち、やがておいでになる主イエスを指し示し、主イエスのために道を整える務めを託されている特別な人物であるゆえに、その来るべきクリスマスの大きな喜びが、ここにすでに差し込んできているのです。

59節からは、生まれて8日目の割礼を施す儀式と名前をつける儀式のことが記されています。旧約聖書の律法に定められているように、イスラエルの民は神に選ばれた契約のしるしとして、男の子は生後8日目に生殖器の一部の皮を切り取る割礼を受けます。同時に、命名の儀式も行いました。多くの親類が彼らの家に集まっていました。その時に、不思議なことが起こりました。

名前をつけることは父親の務めでした。けれども、父ザカリアは20節に書かれていたように、、子どもが与えられるという神の約束の言葉を信じなかったために、神の裁きを受けて口がきけなくされていましたから、家に集まっていた親族たちが父親の代役を果たすことになりました。彼らは父の名前と同じザカリアにしようと相談します。ところが、エリサベトは「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と、彼らの考えに反対します。ここで、最初の不思議なことが起こっています。当時は、今よりははっきりとした男性社会でしたから、公の場での女性の発言はほとんど認められていませんでした。しかし、ここでエリサベトは多くの男性たちの前で、彼らの意見に反対して、はっきりと自分の主張を宣べています。なぜ、どうしてエリサベトはこのようなことを言うのでしょうか。多くの男性たちの前で、彼らに反対して、しかもその家系に伝わる名前とは全く違っている名前を主張するのでしょうか。彼女をこのように大胆に勇気ある女性にしているのは何なのでしょうか。

その答えは、すでにわたしたちも聞いてきたように、主なる神が父ザカリアに男の子が与えられるであろうと約束された際に、「その子をヨハネと名づけなさい」と13節でお命じになっておられたからです。エリサベトもその神の約束を聞いていたからです。神の言葉に聞き従う時、エリサベトはその時代の慣習や社会制度や、多くの男たちの意見にはっきりと逆らって、自分の意見を述べる大胆さと勇気とを与えられるのです。そのようにして、エリサベトは神のみ心を行うのです。

さらに不思議なことが続きます。【62~63節】。ここで、エリサベトとザカリアとの意見が一致します。この夫婦の一致は、共に神の約束のみ言葉に聞き従ったことによって与えられた一致です。ここにこそ、夫婦の一致があります。また、人間と人間の一致があります。単に、性格が似ているとか、価値観が同じとか、そのようなことからくる一致ではなく、共に神の言葉に聞き従うことから与えられる一致こそが、真の一致です。そしてこの一致によって、共に家庭や社会の慣習を変革していく力、この世の常識とか価値観とかをも打ち破っていく勇気が与えられるのです。ザカリアとエリサベトはそのような固い一致に結ばれました。

【64節】。ザカリアが神の言葉に聞き従わなかった時には、彼は口を利くことができませんでした。彼が神に不従順であった時には、彼は言葉を失っていました。神によって言葉を奪われていました。しかし今、彼は神の約束の言葉を信じるようになり、書き板に「その子の名はヨハネ」と書くのです。その時、ザカリアに言葉が与えられました。神を疑ってつぶやくための言葉ではなく、神に不従順であった時に語った自己を誇る言葉でもなく、まただれかを傷つける愛のない言葉でもなく、神を賛美する言葉を与えられたのです。それが、68節以下のザカリアの賛歌です。

このザカリアの賛歌は、46節以下のマリアの賛歌と同様、まだ待降節(アドヴェント)であると時にうたわれた歌ですが、その内容はすでに降誕日(クリスマス)に与えられであろう神の救いの恵みを歌っています。冒頭の67節~70節を読みましょう。【67~70節】。そして、メシア・救い主に先だって道を整える先駆者ヨハネ自身については、76節以下でこのように歌われています。【76~80節】。このようにして、待降節(アドヴェント)から降誕日(クリスマス)へと進むのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたのみ言葉は命と力とを持ち、またわたしたちの罪をゆるし、わたしたちを新しい命へと導きます。どうか、わたしたちをあなたのみ言葉に従順な者にしてください。喜んであなたのみ言葉に聞き従うことによって、あなたのご栄光を現わすことができますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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