2026年2月1日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:出エジプト記14章6~8節
ヨハネによる福音書12章37~43節
説教題:「葦の海辺へと導かれた出エジプトの民」
イスラエルの民は神の強いみ手によってエジプトの奴隷の家から脱出し、神が約束された乳と蜜の流れる地、カナンへと向かいます。エジプトからカナン、すなわち今のパレスチナまでの最短の道は、この時代、紀元前13世紀ころからよく整備されていたペリシテの道と呼ばれていた地中海沿岸を北上する道がありましたが、神は彼らをその道へは導かず、東の方角へ、砂漠地帯へと導かれました。そして、彼らはその砂漠地帯を40年間、さまようかのようにして、放浪の旅を続けることになります。そこには、イスラエルの民を、敵対する強い民族から守り、また砂漠地帯の困難な旅の中で彼らを信仰的に訓練するという、神の深いみ心があったということを、前回わたしたちは学びました。きょうのテキストである14章でも、同じようなテーマが続いていることが分かります。主なる神は、エジプトの奴隷の家から強いみ手をもって救い出されたイスラエルの民を、更に深い信仰へと導くために、彼らに試練をお与えになります。彼らがいついかなる時にも、ただ主なる神だけを信じる信仰に生きる民となるように、訓練をなさるのです。
では、14章1節【1節】。エジプトの奴隷の家から解放され、自由にされたイスラエルの民は、主なる神が語られる言葉を聞かなければなりません。彼らが自分勝手に、好きな道へ進むために自由にされたのではありません。本当の自由は、神の言葉に喜んで聞き従って生きるときにこそ与えられられるからです。そうでなければ、イスラエルの民はやがてまた別の新しい何かの奴隷になるからです。
神はモーセを通して民に語られます。モーセは旧約聖書では最初の最も偉大な預言者に位置づけられています。民はモーセの口を通して語られる神の言葉を聞き、それに聞き従います。この関係が崩れるならば、神と神の民イスラエルとの関係もまた崩れてしまいます。
【2~4節】。2節に出てくるいくつかの地名については、今日その場所を特定できていません。「ミグドル」は「塔、やぐら」を意味する言葉と考えられていますので、エジプト・ナイル川の河口付近に建てられた見張り台のようなものがあったらしいということしか分かっていません。でも、神がここで「その場所へ行きなさい」と命じておられる意図は、明らかです。それは、もと来た道を「引き返す」ことであり、そのようなイスラエルの民の動きを見たエジプト王ファラオが「彼らは道に迷っている」と思い込み、また「荒れ野が彼らの行く手をふさいでいる」と判断するためであったというのです。そして更には、ファラオがイスラエルの民の後を追い、エジプトの軍隊を派遣して彼らを捕らえて、エジプトに連れ戻そうとする決断をする、そのような機会をファラオに与えるためであったと書かれているのです。
しかも、それらのすべてのことが、神のみ心であり、神のご計画であると書かれているのです。神がファラオにそのように判断するように仕向け、神がファラオの心をかたくなにされ、神がファラオにイスラエルの後を追わせるようにする。いや、それだけでなく、神がついには追ってきたエジプト全軍を破って、ご自身の栄光を現わされる。そしてまた、それによってエジプト人がイスラエルの神こそが唯一の主なる神であることを知るようになるということ。これらのいくつものことが、しかも旧約聖書と聖書全体の中で非常に重要なテーマがいくつもが、ここには一気に書かれているのです。
実は、この箇所からわたしたちが教えられることは、イスラエルの出エジプトの出来事とそれに続く紅海の奇跡、または葦の海の奇跡と言われるこの二つの出来事が、旧約聖書全体の中で、またイスラエルの信仰の中で、いかに重要な意味を持っていたかということなのです。この二つの出来事の中には、聖書で教えられているわたしたちの信仰の中心的なテーマがいくつも教えられているということです。また実際に、旧約聖書ではこの二つの出来事が、詩編や預言書の中何度も繰り返して取り上げられています。その信仰の中心的なテーマを簡潔にまとめておきましょう。
第一には、出エジプトの出来事が主なる神によるエジプトの奴隷の家からのイスラエルの救いであったということ、また救われた民イスラエルの誕生であり、信仰の民の誕生であったということ。第二には、救われた民は、その後は救い主である神の言葉に聞き従って生きるべきであるということ。神の言葉に聞き従って生きるとき、それは時には困難で試練に満ちた道であるかもしれないが、神の言葉を聞くこと以外によっては、救われた民は幸いに生きることができないのだということ。第三には、主なる神は救われた民のために継続的に信仰の訓練をお与えになるということ。そのために、神は信仰の民をあえて困難な道へと導き、試練を通して彼らの信仰を鍛え、救いの完成へと至らせるということ。第四には、神は信仰の民に敵対する不従順な者たちをもお用いになって、彼らが信仰の民を迫害することをお許しになるということ。しかし第五には、神はついには迫害する者たちの滅びを通して、ご自身の栄光を現わされるということ。そして最後には、不信仰な者たちもまた主なる神の偉大なる救いの力を知らされ、救いの神を信じる信仰へと導かれるのだということ。これらのイスラエルの信仰、旧約聖書の信仰、そしてそれはわたしたちの信仰でもあるのですが、そのすべてがこの短い文章の中で語られているのです。
5節からは、エジプト王ファラオの実際の行動とそれに対するイスラエルの民の反応について、そしてモーセの対応について書かれています。順に見ていきましょう。ファラオはエジプト全土に起こった恐るべき災いが、イスラエルの神がなさったことであると悟って、これ以上に災いが広がるのを恐れて、モーセの要求どおりに彼らを開放する決断をしました。つまり、王の家をはじめ、全エジプト人の家の長男と家畜の長子が滅ぼす者によってその命を奪われるということが起こったからです。このままイスラエルの民を国内にとどめておけば、より大きな災いが起こることをファラオは恐れたのです。
いったんはそのように決断したファラオでしたが、イスラエルの民が途中で道に迷ってうろうろしているようだという情報を聞いて、彼は奴隷の民を失った損失を悔やむようになりました。そこで王はエジプト自慢の戦車隊を総動員して、イスラエルの人々の後を追わせました。4節で、「わたしはファラオの心をかたくなにし、彼らの後を追わせる」と神がすでにお語りになったことが成就したのです。
エジプトでは紀元前17世紀ころから、馬に木で作った二輪車をひかせ、それに槍を持った兵士が乗り込むという戦車が考案され、戦争の強力な兵器とされていました。6節には「えり抜きの戦車6百をはじめ、エジプトの戦車すべてを動員し」と書かれています。エジプトを出たイスラエルの民が何万人であったのか、正確な数は分かりませんが、イスラエルには正式な軍隊組織はありませんでしたし、急いでエジプトから脱出したのですから、武器などはほとんど携帯していなかったと推測されます。そのイスラエルの人々を負うために、これほどの戦車と軍隊が必要であるとはとても思えませんが、ファラオのイスラエルの神に対する恐怖の大きさが、そうさせたのかもしれません。
エジプト軍はついにイスラエルの民に追いつきました。9節にこう書かれています。【9節】。ここで「海辺に」とあるのは2節で言われていた「海辺」と同じで、これはおそらく13章18節で「葦の海」と言われていたのと同じ場所を指していると考えられます。そして、この海に向かって、16節でモーセが「杖を高く上げて、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分ける」という奇跡を行ったのです。しかし、イスラエルの民はまだその奇跡を見ていません。彼らが今見ているのは、行く手を阻んでいる海と、後ろに迫ってきているエジプトの軍隊です。そして、その両者にはさまれている無力な自分たちです。
【10~12節】。10節に、「イスラエルの人々が目を上げてみると」と書かれています。彼らは追い迫る強力なエジプトの軍隊を見ています。そのとき彼らは恐れる以外にありません。けれども、彼らが見るべきものは何だったのでしょうか。彼らが目を上げて見るべきものは、彼らをエジプトの奴隷の家から強いみ手をもって救い出された主なる神をこそ見るべきなのではなかったでしょうか。彼らが本当に見るべきものを見ず、見るべきでないものに目を奪われていた時、彼らは恐れざるを得ません。そして、彼らがそのようにして恐れるに値しないものを恐れるとき、彼らの信仰は揺らぎます。疑いと不安とつぶやきが始まります。しかも、彼らのつぶやきは、かつての奴隷の生活を懐かしみ、またあの奴隷の生活に戻りたいとさえ願うのです。ここには、底知れない人間の罪の恐るべき姿が見えるような気がします。信仰者は、いつの時代にも、このような罪の誘惑の中に置かれています。弱く、たどたどしく、また愚かでもあり、どこまでも落ちていくしかない人間の罪の深さをここに見るような気がします。そうであるからこそ、神はわたしたちの弱さや愚かさをご存じであられ、救われたわたしたちをなおも変わらずに愛され、訓練されるために、あえて苦難や試練の中にわたしたちを導き、その中でいついかなる時でも主なる神を信頼し、神の言葉に聞き従い、ただ主なる神だけを見上げて生きるようにと招いてくださるのです。
【13~14節】。ここでもわたしたちは「恐れるな」との神の命令を聞きます。「恐れるな」とは、わたしたちが何かを恐れることを禁止し、わたしたちから恐れを取り除くとともに、恐れに代わって、わたしたちに救いの恵みと信頼と希望とを与える神の命令です。「あなたがたが見るべきものは、強力なエジプ軍ではない。自分たちの無力な姿でもない。主なる神を、主なる神がなさる力強い救いのみわざを見なさい」と神はモーセを通して言われます。
「主があなたたちのために戦われる」。この言葉は、旧約聖書の中で繰り返して語られます。このあとの14章25節、15章3節、申命記1章30節などです。神はイスラエルが苦難の中にあった時にはもちろん、彼らが罪の中で眠りほうけてていた時にも、常に変わらず、神は目覚めておられ、彼らの救いのために戦っておられました。
そして、今もなお、神は罪の中で滅びんとしているわたしたちのために、一人目覚めておられ、天におられるみ子主イエス・キリストの執り成しによって、わたしたちの救いの完成のために戦っておられるのです。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、わたしたちの弱い信仰を憐れんでください。たちまちに罪の誘惑に負けてしまうわたしたちを顧みてください。そして、いついかなるときでも、ただあなたに信頼する信仰をお与えください。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
