2025年8月24(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:ヨナ書2章1~11節
ルカによる福音書11章24~32節
説教題:「ヨナのしるしと主イエスのしるし」
前回学んだルカ福音書11章16節に、こう書かれていました。【16節】。きょう朗読された29節からの主イエスがお話になったヨナのしるしについての説教は、しるしを求めるユダヤ人に対する主イエスのお答えです。ユダヤ人が主イエスに天からのしるしを求めたという記録は、ルカ福音書ではこの箇所だけですが、マタイ福音書では12章38節以下と16章1節以下の2か所に記されています。いずれも、ファリサイ派やサドカイ派という当時のユダヤ教の指導者たちが、主イエスに対して、主イエスが確かに神から遣わされたメシア・救い主であるならば、その証拠となるしるしを見せて欲しいと、要求しています。彼らは主イエスが神の国の説教をしたり、罪のゆるしを宣言したり、また驚くべき奇跡をしているのを見て、どうしてそのようなことができるのか、その権威はどこからきているのかを確かめたいと願ったのでしょう。
パウロはコリントの信徒への手紙一1章22節で、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探す」と言っています。ユダヤ人はしばしば主イエスに対して、「天からのしるしを見せて欲しい。それを見たら、信じよう」と要求していました。そして最後には、「今すぐ十字架から降りるがよい。そうすれば、信じてやろう」(マタイ福音書27章42節)と言って、十字架の主イエスをあざ笑いました。しかし、パウロは「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えます」(コリントの信徒への手紙一1章23節)と宣言しています。わたしの罪のために、わたしに代わって十字架につけられた主イエスをわたしの救い主と信じる信仰こそが、わたしをすべての罪から救うのです。
ルカ福音書の前の箇所、14節以下で、主イエスが神からの権威によって悪霊を追い出していると言うのなら、そして、主イエスが神の指で悪霊を追い出す時に、神の国はあなたがかのところに来ていると言うのなら、その証拠を見せて欲しい、確かなしるしを見せて欲しいと、彼らは要求しているのです。
けれども、そのような目に見えるしるしを求める信仰、しるしを必要とする信仰は、本当の信仰と言えるでしょうか。どうか、考えてみてください。自分が信じ、従おうとしている神が、もしかして、やがて自分を裏切って信じるに値しない神になるのではないかと疑いながら信じる信仰が、はたして本当の信仰と言えるでしょうか。この信仰にわたしの全生涯をかけてもよいかどうかを疑いながら信じる信仰、あるいは、わたしが信じる神が唯一の永遠の真理であるのかどうかを証明する証拠や目に見えるしるしを求める信仰は、本当の信仰と言えるでしょうか。わたしがもはや一点の疑いもないほどに、わたしが再び迷ったりつまずいたりしないで済むような確かな保証としるしを要求する信仰は、いったい本当の信仰と言えるでしょうか。
ユダヤ人がそのようなしるしを求めたのに対して、主イエスはこうお答えになりました。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしは与えられない。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」(29節)と。主イエスは、しるしを求める時代は邪悪でよこしまであると言われます。主イエスはこのような時代について他の箇所では、不義な時代、不信仰な時代、曲がった時代、罪深い時代とも言われます。しるしを求める信仰、しるしを必要とする信仰は、もはや信仰ではなく、いや、むしろそれは不信仰なのであり、罪なのだと言われるのです。
ではここで、主イエスご自身のご生涯のことを考えてみましょう。主イエスはご自身が神のみ子であり、キリスト・メシア、救い主であることを保証するしるしを、ことごとく拒否されたということに、わたしたちは気づきます。誕生の時にすでにそうでした。主イエスは全人類の唯一の救い主として誕生されましたが、だれにも注目されない、そまつで貧しい家畜小屋の飼い葉おけの中に布にくるまれて寝かされておりました。ルカ福音書2章12節には、「これがあなたがたへのしるしである」と書かれています。
荒れ野での誘惑の時にもそうでした。悪魔は「おまえが神の子ならば……」と、三度主イエスを誘惑しましたが、主イエスは三度とも神のみ子であることのしるしを拒否されました。主イエスの裁判の時には、ことさらに一切のしるしを拒否されたことをわたしたちは知っています。裁判の席でヘロデ王の前に立たれた主イエスは、しるしや奇跡を期待していたヘロデ王に何もお答えになりませんでした。
そして、十字架の上では、「もしあなたが神の子ならば自分自身を救え。そして、十字架から降りてこい。そうしたら信じよう」と叫ぶ人々の要求を、主イエスはすべて拒否され、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」との祈りによって息を引き取られました。主イエスはこのようにして、地上での全ご生涯において、ご自身が神のみ子であり、メシア・キリストであることを保証するしるしを一切お用いにはなりませんでした。
また、復活された主イエスは、疑う弟子のトマスに対して、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました(ルカ福音書20章29節)。ヘブライ人への手紙11章1節にはこのように書かれています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することである」と。
わたしたちの信仰は、しるしを見て信じる信仰ではありません。何かの化学的、物理的論証や実験によって証明されるような信仰でもありません。わたしたちの信仰を確かなものとして保証するのは、神ご自身です。神の言葉である聖書です。聖書に証しされ、宣べ伝えられた主イエス・キリストの十字架と復活の福音を聞き、そして信じる信仰です。主イエス・キリストがわたしの罪のために十字架に死んでくださり、ご自身の汚れのない尊い血によってわたしの罪をすべて贖ってくださった。それによって、わたしの罪が永遠にゆるされている。そのことをわたしが信じ、告白するならば、神はわたしをご自身のみ国の民の一人としてくださり、み国での永遠の命を約束してくださいます。その信仰によって、わたしは救われるのです。その信仰はいかなるしるしをも必要としません。神ご自身が、聖霊によって、わたしの信仰を保証し、確かなものとしてくださるからです。したがって、わたしたちは他のすべてのしるしや保証を放棄することによって、その信仰が強めらるのです。ただ信仰によって生きるときに、その信仰がわたしの希望となり、生きる力となり、また永遠の慰めとなるのです。
主イエスは、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言われました。これは、ヨナのしるしだけで、十分だ、ヨナのしるしを見て、聞いて、信じることを、神はあなたがたに求めておられるのだという意味です。
では、そのヨナのしるしとはどのようなものでしょうか。30節と32節を読んでみましょう。【30、32節】。並行箇所であるマタイ福音書12章40節以下では。もう少し詳しく語られていますので、そこを参考に読んでみましょう。【40~41節】(23ページ)。ヨナの説教を聞いて罪を悔い改め、神に立ち帰ったニネベの人たちにとって、ヨナがしるしとなったように、否、ヨナにもはるかにまさる主イエスこそが今の時代に対してより大きな、確かなしるしとなるであろうと、主イエスは教えておられるのです。
主イエスが今の時代に対してヨナ以上のしるしとなるとは、具体的にどのようなことを言うのでしょうか。3つのポイントにまとめてみましょう。第一点は、ヨナが三日三晩大魚の中にいたように、主イエスは十字架で死んで、墓に葬られ、三日目に墓から復活されたというしるし、このしるしによって、主イエスはご自身が神が約束しておられたメシア・キリストであり、全世界の唯一の救い主であることを、今の時代の人々に証しをされたということです。このしるし以外には、他のしるしは今の時代に対して何も与えられることはない。否、このしるしだけで十分である。それゆえに、主イエスの十字架の死と復活の福音を宣べ伝え、その福音を聞いて信じる以外には、わたしたちが救われる道はどこにもない、否、この道だけで十分であるという意味です。
第二点は、ニネベの人々がヨナの説教によって罪を悔い改めたように、主イエスはこの時代のユダヤ人とすべての罪びとたちを、悔い改めへと招いておられるということです。そして、悔い改めるすべての罪びとを、罪のゆるしへと招いておられるということです。悔い改めとは方向転換のことです。これまでは神から遠ざかる方向へと歩んでいた罪びとが、方向転換して、神の方へと向き変わる。そうすれば、神ご自身の方から罪びとへと近づいて来てくださる。主イエスはその道を開かれたのです。神と人間を隔てていた罪という厚い壁を主イエスは取り除いてくださり、わたしが神と出会う道を備えてくださったのです。
第三点は、ニネベの人々がヨナの説教によって悔い改め、救われたという旧約聖書の出来事は、今の時代になってもかたくなに信じようとしないユダヤ人に対する神の最後の裁きのしるしとなるであろうということです。この点については、ソロモン王の知恵を聞くために、南の国からはるばるやって来た女王の例も挙げられています。悔い改めて信じたニネベの人たちも、ソロモンを訪ねて来た南の国の女王も、不信仰で悔い改めることをしないユダヤ人にとっては、神の裁きのしるしとなるのです。
ニネベの人たちも南の国の女王も、ユダヤ人から見れば異邦人であり、神に選ばれた民ではありませんでしたが、その異邦人が悔い改めて救われたということは、自ら選ばれていることを自認し、誇っていたにもかかわらず、悔い改めず、不信仰なユダヤ人に対しては、大きな辱めとなり、神の厳しい裁きのしるしとなるのです。
主イエスの救いは、その背後に、神の厳しい裁きを伴った救いであり、神の最後の裁きからの救いであるということが、ここでは明らかにされています。それゆえに、その救いは、力あるもの、真実なもの、そして大きな、永遠の恵みに満ちた救いなのです。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、主イエスは不信仰でかたくななわたしたちをもみ前にお招きくださいます。どうか、わたしたちを従順な者としてください。あなたの救いの恵みを感謝して受け取り、またその恵みに応えて、あなたのご栄光をあらわす者としてください。
〇父なる神よ、重荷を負っている人たち、道に迷っている人たち、飢え乾いている人たちを、どうか憐れんでください。あなたからの顧みがありますように。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
