2025年9月7(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:イザヤ書52章7~10節
ローマの信徒への手紙1章1~7節
説教題:「神の契約の成就としての福音」
ローマの信徒への手紙1章1~7節は、当時の手紙の書式にならっています。まず、差出人であるパウロの名前と簡単な自己紹介が1節に書かれています。普通であれば、その次に手紙の受取人であるローマの教会の名前が挙げられ、それから差出人から受取人へのあいさつが続くというのが、一般的です。その書式に従えば、1節から直接には7節へと続くことになるはずですが、その間に2節から6節までの長い文章が挿入されたかたちになっています。日本語の翻訳でも、そのことが分かるように1節の終わりと6節の終わりに線が引かれています。2節から6節までが挿入文だということが分かります。
パウロは1節で、自己紹介をするにあたって、自分が「神の福音のために選び出され、召されて使徒となった」と書いた後で、もとのギリシャ語原典では、「神の福音」という言葉が1節の最後に置かれているのですが、その「神の福音」という言葉を受けて、その福音とはいかなるものであるかを2節から6節で説明しているわけです。そのことは、手紙の正式な書式からすれば、いわば寄り道と言えるかもしれません。まだ、手紙の差出人の名前しか書いておらず、受取人がだれであるのかも、あいさつもまだ済んでいないのに、いきなりの寄り道です。いきなり、わき道にそれています。
でも、パウロにとっては、それは余計な寄り道では決してありません。「わたしは神の福音のために選び出され、召された」と書いた、その「神の福音」こそが、彼がこの手紙でローマの教会に語ろうとしている中心的な主題であるからです。自分を紹介して「神の福音のために」と書きだした、まさにその時に、パウロの思いは熱くなり、抑えきれなくなって、手紙の本文で書くべきそのことを、あふれる思いにかき立てられるかのようにして、2節からすぐに、「この福音は」と語らざるを得なくなった、「わたしはあなたがたにこの福音を語りたいのだ」というパウロの熱意と激しい息遣いというものを、わたしたちはここに感じ取るのです。
2節から6節までの挿入文にはもう一つの意味があります。この挿入文によって、1節の差出人と7節の受取人とが引き離されたようなかたちになっているのですが、実はその反対で、この挿入文で語られている「神の福音」が、またその内容である主イエス・キリストが、両者を固く結びつけているのだということに、気づかされます。まだ出会ったことがないパウロとローマの教会、遠くに離れているパウロとローマの教会とを、「神の福音」が結びつけているのです。「神の福音」によって与えられる親しい兄弟姉妹の愛と信仰の交わりが両者を結びつけているのです。
パウロとローマの教会については、5節と6節に少し具体的に紹介されています。ユダヤ人であるパウロ、使徒であるパウロと、異邦人であるローマの教会とを、「神の福音」が一つの神の民として結びつけ、はるかに遠くにいる両者を、民族の違いをも乗り越えて、一つの信仰による交わりによって固く結びつけているのです。また、パウロはこの手紙の中で、何度もローマの教会に対して「兄弟たちよ」と親しく呼びかけていますが、「神の福音」はそのことをも可能にしているのです。
ここにこそ、教会の真実の交わりがあります。ともに神の福音を聞くことによって、共に主イエス・キリストの福音を聞き、信じ、罪ゆるされ、神の国の民とされていることによって、わたしたちもまた一つの神の家族とされ、一つの兄弟姉妹の交わりの中へと招かれているのです。
では、2節を読んでみましょう。【2節】。きょうはこの2節のみ言葉を深く学んでいきましょう。冒頭の「この福音」が1節の「神の福音」を指していることは今確認したとおりです。パウロを主イエス・キリストの使徒として召した神の福音、また6節にあるように、ローマの教会をも召した神の福音のことです。これは、「神の」ですから、人間のとか、この世のとか、他の何かのではなく、「神の」です。「天におられる、全能の父なる神」とわたしたちが信じている神から与えられた福音です。したがって、一つの国とか民族にとって福音であるだけでなく、一部の人たちにとっての福音でもなく、ある世代の人たちにとっての福音であるのでもなく、地に住むすべての人にとっての、永遠に変わらない、唯一の福音であるということです。
「神の福音」の「の」は、一般的には主格的属格と考えられます。「の」には、大きく分けて所有格的属格と主格的属格があります。「わたしの聖書」と言えば、「わたしが持っている聖書」という意味で、これは所有の属格です。「神の言葉」とは、「神が語られる言葉」、これは主格的属格とか行為の属格と言います。「神の福音」は、後者の用法ですが、さらに深い意味を持っています。ある人はこれを「創造者の属格」と名づけています。「神の福音」とは、神がわたしたちにお与えくださった福音、神がお伝えくださった、あるいは神がもたらしてくださった福音という意味だけでなく、神が何もない所から全く新たに創造された福音、そして、ただ全能者であられる神だけが創造することができる福音という意味をここに読み取るべきだと言うのです。
創世記1章のみ言葉を思い起こしてみましょう。「初めに、神は天地を創造された。……神は言われた。『光あれ。』こうして光があった」と書かれています(1節、3節)。神はみ言葉をお語りになることによって、闇の中に光を創造され、無から有を呼び出だすようにして、死から命を生み出すようにして、天地万物とわたしたち人間を創造されました。神の創造とは、神のみ言葉が新しい現実を生み出すということです。
神の福音もまた同じように、罪と死に支配されているこの闇の世界に、人間たちの邪悪と不正義に覆われているこの時代に、あるいは不安と孤独に病んでいるわたしたちの現実に、神がすべての人を照らすまことの光を創造し、全人類のための喜ばしいおとずれを創造してくださったということなのです。それは、この世にあるどのような福音よりも大いなるものであり、永遠なるものであり、普遍的であり、この世界とわたしたちの現実を上から覆い、その福音の命と力によって、新しい現実を創造していくような神の福音なのです。それはまた、人間の罪をゆるし、死を命に変え、邪悪と不正義とを愛と平和とに変え、不安と孤独とを喜びと共にある交わりに変えるのです。そのような神の福音を、神はこの世界に、わたしたちのために創造してくださったのです。パウロはそのような神の福音を、今語ろうとしているのです。
パウロは2節で、その福音について具体的に語りだします。ここでは、3つのことが語られています、一つは、この福音は神がお遣わしになった預言者たちによって預言されていたということ、二つには、聖書の中に書き記され、保存されてきたということ、そして三つに、古い時代から神によってあらかじめ約束されていたということです。この三つの内容についてさらに詳しくみてきましょう。
第一に、神の福音はパウロ以前にも、またパウロと同時代のキリスト者たちよりも前に、多くの証人たちを持っているということです。神の福音は神のみ子主イエス・キリストによって最終的に世界にもたらされましたが、それ以前にも旧約聖書の中で多くの証人たち、預言者たちが神の福音を証し、預言してきました。ヘブライ人への手紙1章1、2節にはこのように書かれています。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」。11章では、カインとアベルから始まって、ノア、アブラハム、モーセなどの旧約聖書の信仰者たちの名前を挙げたあとで、12章1、2節で次のように言います。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐をもって走りぬこうではないか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら……」。
このように、旧約聖書の信仰者たち、預言者たちはみな主イエス・キリストを指し示し、証し、預言したのです。そして、終わりの日に神がお遣わしくださるメシア・キリスト、救い主を待ち望んでいたのです。このように、神の福音は多くの証人たちに取り囲まれている確かな真理なのです。
第二は、神の福音は聖書の中に、すなわち旧約聖書の中に書き記され、保存されてきたということです。神の福音は、主イエス・キリストとしてはっきりとした姿をもって現される以前から、いわば隠された姿で、しかし確かな文書として、千年以上もの長い期間、大切に保存されてきました。旧約聖書の民イスラエルは、この聖書を神の言葉として、神への恐れと信仰をもって書き記し、保存し、礼拝で朗読し、学び、そのみ言葉に従ってきたのです。一字一句をもおろそかにせず、それに付け加えたり差し引いたりせず、神の言葉として読み続けてきたのです。そして、そこに預言されている神の福音の成就の時を待ち望んできました。
わたしたちもまた、この聖書の中に(わたしたちとっての聖書は、旧約聖書と新約聖書ですが)、その中に神の福音のすべてが余すところなく、また不足するところなく、完全に証しされていると信じます。神はこの聖書の中で、わたしたちの救いにとって必要なすべてのことをお語りくださいました。わたしたちが神の福音、主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって罪ゆるされ、救われために必要なすべてが、聖書にあると信じています。
第三に、神の福音は神がずっと以前から、天地創造の初めから神が予定され、計画されていた永遠なる約束であり、今それが主イエス・キリストによって成就したということです。わたしたち人間がそれを願い求めるはるか以前に、否、わたしたちがまだそれを求めていないときに、その必要性にまだ気づいていなかった時に、わたしたちがまだ罪の中に眠りこけていた時に、神ご自身の方からわたしたちに救のみ手をさしのべ、ご自身のみ子をこの世にお遣わしになったのです。
パウロは弟子のテモテにあてて書いた手紙でこのように言っています。テモテへの手紙二1章9~10節を読んでみましょう。「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現わしてくださいました」。
神の福音、主イエス・キリストの十字架と復活の福音は、永遠の昔から永遠の終わりに至るまで、変わることなく真実であり、確かであり、その福音を信じるわたしたちを罪と死と滅びから救い、永遠の命を与えるのです。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、あなたはわたしたちを罪と死と滅びから救い出してくださり、み国にある永遠の命の約束をお与えくださいました。この世のものがすべて変わりゆき、過ぎ去ろうとも、あなたのこの約束は永遠に真実であり、確かであると信じます。どうか、わたしたちが朽ちゆくものに心を奪われることなく、永遠なるみ国へと目を向け、天に蓄えられている、朽ちず汚れずしぼむことのない財産を受け継ぐ者としてくださいますように。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
