11月23日説教「律法学者の偽善を見抜かれる主イエス」

2025年11月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:歴代誌下24章17~22節

    ルカによる福音書11章45~54節

説教題:「律法学者の偽善を見抜かれる主イエス」

 きょうの礼拝で朗読されたルカ福音書11章46節に、「イエスは言われた。『あなたたち律法の専門家も不幸だ』」と書かれています。同じようなみ言葉は次の47節にも「あなたたちは不幸だ」とあり、また52節でも「あなたたち律法の専門家は不幸だ」と繰り返されています。それだけでなく、前回学んだ42節にも、「それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ」とあり、43節でも「あたたたちファリサイ派の人々は不幸だ」、44節にもう一度「あなたたちは不幸だ」と、合計6回、律法の専門家とファリサイ派の人々に対する「不幸だ」という言葉が語られています。

 「不幸だ」と訳されているもとのギリシャ語は、「ウーアイ」と発音します。これは一種の、嘆きや怒りを表現するうなり声で、「ああ、なんという災いであることか」という意味合いの言葉です。『口語訳聖書』では「わざわいである」と訳され、さらに古い『文語訳』では、「災いなるかな」と訳されていました。そうすると、この言葉は「幸いなるかな」という主イエスのお言葉と対比されているということに気づきます。実際に、主イエスはこの福音書の6章で、二つを対比させて語っておられました。その箇所を開いてみましょう。【6章20~26節】(112ページ)。ずっと以前にkoの箇所を学びましたが、「幸いである」という主イエスのお言葉は、天の父なる神から与えられる幸いのことであり、この地上にあるどんな幸いよりもはるかにまさって、何ものによっても再び奪い取られることも消え去ることもないような永遠の幸いのことであり、「幸いなるかな」とは、主イエスはその幸いを信じる信仰者たちに確かにお与えくださるという約束の言葉なのであるということを学びました。主イエスはその永遠の幸いをわたしたちにお与えになるために十字架で死なれ、三日目に復活されたのです。

 「災いなるかな」はそれとは正反対の内容ですから、この世の人間の基準で

考えて、この人は災いだ、不幸だというのではなく、天の父なる神から与えられる災い、あるいは呪い、裁き、さらに言うならば死の判決、そのような神の厳しい断罪を意味する言葉なのです。では、なぜ主イエスはファリサイ派や律法の専門家に何度も繰り返して「あなたがたは災いだ」と言われるのでしょうか。

 その理由を学んでいくにあたって、初めに一つ確認しておくべきことがあります。それは、主イエスはわたしたちに対して天の父なる神からの幸いを語ることができると同時に、また天の父なる神からの災いをも語ることができるお方だということです。また、それをわたしたちに与えることができるお方だということです。なぜならば、主イエスは神み子であられるからです。主イエスは聖霊によっておとめマリアの胎内に宿り、その命は完全に神からの命として、神ご自身の命として誕生されました。地上のすべての歩みもまことの人でありながらまた同時にまことの神として生きられました。そして、地上の歩みの最後に、わたしたち罪びとである人間のすべての罪をご自身に担われ、わたしたちに代わって神の裁きを受けられ、十字架で死なれました。しかし、三日目に死の墓から復活されました。無から有を呼び出だし、死から命を生みだされる神のみ力によって、罪と死とに勝利されたのです。わたしたちのためにご自身の命をもささげ尽くして、わたしたちを罪と死の裁きから救い出してくださった主イエスであられるからこそ、わたしたちに幸いを語り、また災いをも語ることがお出来になるのです。

 ここで、ファリサイ派と律法の専門家のことを簡単に説明しておきます。当時のイスラエルのユダヤ教はファリサイ派とサドカイ派との二つの大きな派に別れていました。サドカイ派はエルサレムの神殿で仕える祭司たちが中心でした。フアリサイ派は旧約聖書に書かれているモーセの律法やそれ以後に付け加えられたさまざまな教えや伝統を厳格に守ることを重視していました。その中の律法の専門家(『口語訳聖書』では律法学者といわれていました)は律法を詳細に研究し、さらに細かな規定をつくり、その解釈をする権限を持っていました。

 彼ら二つの教派は宗教的な地位はもちろん、社会的地位も高く、民衆からの尊敬を受け、また裕福であり、皆一様に、自分たちの生き方、考え方には自信を持っており、それを誇ってさえいました。先ほど読んだ6章で、主イエスが「あなたがたは不幸だ」と言われていたことがすべて彼らに当てはまるということが分かります。「富んでいるあなたがたは不幸である」、「今満腹しているあなたがたは不幸である」、「今笑っているあなたがたは不幸である」、「すべての人のほめられるとき、あなたがたは不幸である」、そのすべてが彼らに当てはまっています。

他方、多くの一般の民衆は、日常の生活を維持するだけで精一杯、律法や細かな規定を厳格に守ることはできず、彼ら宗教的エリートからは軽蔑的な言葉で「地の民」と呼ばれていました。彼らは、主イエスが「幸いである」と呼びかけられている貧しい人々であり、今飢えている人々であり、今泣いている人々でした。しかし、主イエスは彼らに幸いを約束され、神の国を約束されました。

主イエスが幸いと災いを考える基準はファリサイ派や律法学者とは全く違っていました。おそらくは、今日のわたしたちの基準とも違っているでしょう。そのことに注目しながら、主イエスが「災いだ」と語られたみ言葉を読んでいきましょう。

 42節から読んでいきます。【42節】。イスラエルの民は神の強いみ腕によってエジプトの奴隷の家から導き出され、神が約束されたカナンの地を受け継ぎました。その地は神から賜った地であり、その地から収穫されたすべての収穫物も神からの賜物でした。イスラエルの民はそのことを神に感謝して、収穫の初穂と、全収穫の10分の1を神におささげしました。そのことを定めた律法はレビ記や申命記の中の各所に記されています。

 当時の律法学者はこの律法をさらに細かく規定して、はっかやうんこうなどの小さな野菜にまで範囲を広げ、彼らは几帳面にそれを実行し、自分たちはここまで厳格に律法を守っているのだと誇っていたのです。それが自分たちの信仰の深さだと見せつけていたのです。

 けれども主イエスは言われます。「そのような細かなことにこだわっているあなたがたは、律法の最も根幹であり、中心である、神とあなたの隣人とを愛しなさいという律法には、全く心を用いていない。それを守ってもいないではないか」と。確かに彼らはそうでした。彼らは自分たちの信仰を他の人に見てもらうために、他の人からの誉れを求めて、神の律法を道具として利用しているだけで、神に対する信仰も服従も感謝も伴っていなかったのです。

マタイ福音書では、主イエスは彼らを「偽善者たち」と呼んでいます。偽善者とは、「仮面をかぶって自分ではない他の人物を演じる」という意味を持っています。それは神を欺く最も深い罪だと主イエスは言われるのです。主イエスがお求めになるのは、仮面をつけたわたしではなく、いわば素顔のわたしです。おそらくは、罪に満ちており、失敗や過ち、破れや欠けが多くあるであろうみすぼらしいわたしであるかもしれないけれども、神のみ心を知らず、傲慢で、他者を傷つけることが多いわたしであるかもしれないけれども、そのわたの素顔を、主イエスは見ていてくださるのです。そして、そのようなわたしを受け入れてくださるのです。そのようなわたしをも愛してくださり、そのようなわたしのために主イエスはご受難の道を歩まれ、十字架で死んでくださったのです。そして、わたしの罪をゆるしてくださり、わたしが喜んで神と隣人とにお仕えする人へと、わたしを新しく造り変えてくださるのです。それゆえに、わたしは別のだれかを演じる必要はありません。主イエスは、ほかでもないこのわたしを愛してくださるからです。

次に、【46節】。ファリサイ派と律法学者は、宗教的にも政治的にも民衆の指導者でした。主なる神から、民衆を神礼拝へと導く務めを託された人たちでした。そうであるのに、彼らは民衆に律法を守れと命じ、さらに細かな規則をたくさん作っては彼らに重荷を負わせ、それを守らない人たちを非難し、神の国から遠ざけることをしていました。それは、主なる神に対する最も悪意に満ちた反逆であり、罪でした。民衆の指導者である彼らこそが、民衆の苦しみや痛みをよく知り、それを思いやり、彼らと共に歩むようにと、神からの務めを託されているのです。彼らを慰め、励まし、彼らの重荷を共に負うように召されているのです。「すべて重荷を負い、苦労している人はわたしのものに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」と言われた主イエスにならうべきなのです。しかし、彼らはそうしていませんでした。それゆえに、彼らは神の呪いを受けて滅びなければならないと、主イエスは言われるのです。

主イエスは47節から、もう一つの彼らの偽善と罪の実例を挙げています。【47~51節】。51節の「アベルの血」とは創世記4章に書かれている兄のカインが弟アベルを殺したという、聖書に書かれている最初の殺人で流された血のことです。「ゼカルヤの血」とは、歴代誌下24章21節に書かれている、祭司の子ゼカルヤが迫害を受けて神殿の庭で殺されたことを指します。当時のユダヤ教のヘブライ語原典の編集では歴代誌が最後に配置されていましたので、時代的には最後に流された血というわけではありませんが、聖書の最初と最後に書かれている殺人で流された血という意味で、その間に迫害を受けて殉教した多くの預言者たちの血をすべて含んで、その血の責任が今のあなたがたにあるのだと、主イエスは言われるのです。なぜならば、彼ら宗教の指導者たちは、自分たちが先輩の偉大な預言者たちと同じように、主なる神にお仕えしている証しとして、預言者たちの墓を勝手に作っては、その墓を飾っていたからです。

主イエスがここで彼ら宗教的指導者たちの偽善と罪とを厳しく非難しておられるのは、彼らは預言者たちの墓を飾ってお祭り騒ぎをしているけれども、彼らは預言者たちが語った神の言葉そのものには全く耳を傾けていないからなのです。預言者たちは人々に対して、自分の罪を告白して、悔い改めて、神に立ち帰りなさいと語りました。けれども、彼らは悔い改めず、かえって、神の言葉を語った預言者たちを迫害し、殺しました。それと同じように、今あなたがたも、自分の罪に気づこうともせず、むしろそれを、仮面をつけて覆い隠し、あたかも罪がないかのように演じている、その偽善的信仰こそが、神の怒りを受けて、厳しい裁きを受けなければならないのだと、主イエスは言わるるのです。

主イエスがここで求めておられる真実の信仰とは、わたしの罪のために死んでくださった主イエスを、わたしの救い主と信じる信仰にほかなりません。主イエスがわたしのすべての罪を代わりに背負ってくださり、わたしに代わって裁きを受けてくださり、それゆえにわたしは今や罪ゆるされ、救われていることを信じ、その救いの恵みを神に感謝する信仰、その信仰をこそ主イエスはわたしたちに求めておられるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちは自らの罪に気づくこと遅く、悔い改めてあなたに立ち帰ることが少ない、傲慢で、かたくなな者であることをみ前に告白いたします。どうか、わたしたちの罪をおゆるしください。み子主イエス・キリストによって、わたしたち罪からお救いください。そして、これからのちは、喜んで主なる神であるあなたと、あなたがお与えくださった隣人に、心からお仕えする者としてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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