12月28日説教「神殿で神にささげられた主イエス」

2025年12月28日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記13章11~16節

    ルカによる福音書2章22~38節

説教題:「神殿で神にささげられた主イエス」

 世界の教会が一般に用いている「教会暦」では、教会の新しい一年はアドヴェント(待降節)とクリスマス(降誕日)から始まります。週報の「主日礼拝式次第」の下に書かれています。「教会暦」は待降節第一主日から始まって、第二、第三、第四主日、そして降誕日、降誕後第一、第二主日、そして顕現日、顕現後第一、第二主日と数えていきます。この「教会暦」は、教会の本質をよく言い表しています。教会とは、アドヴェント、待降節、待ち望むことから、その成就である降誕日(クリスマス)へと、一年の歩みを始めていくのです。つまり、待望と成就から一年の歩みをはじめ、次の年の待望と成就へと歩みを進めていきます。教会は、この待望と成就とを繰り返しながら、終わりの日の完成に向けて進んでいるということ、これが主イエス・キリストを信じている信仰者の群れである教会の本質なのです。

 ここには、もう一つの意味が隠されています。アドヴェント、待ち望んでいる教会は、決して空しく、当てもなく待っているのではなく、すでに最初の成就を経験し、その成就を祝い、それによって第二の成就を確かに約束されているのだということを知らされつつ、その第二の成就の時を目指して、待ちつつ急ぎつつ進んでいくのです。すなわち、主イエス・キリストのご降誕を待ち望んでいた教会が、ついにその成就の時、降誕日、クリスマスを迎え、神の約束の確かな成就であるみ子の誕生を祝ったように、その確かな事実と保証の上に立って、教会は終わりの日に再び来たりたもう主イエス・キリストを待ち望みつつ生きているのだということです。

 このようにして、待降節と降誕節からその歩みを始めている教会は、神の約束の成就から生きているのだと言ってよいでしょう。きょう朗読された聖書の2章30節に、「わたしはこの目であなたの救いを見たからです」とあるように、この成就の恵みの事実から、教会の歩みが始まっているのです。「わたしはこの目であなたの救いを見た」という、この恵みの事実から、わたしたちの信仰の歩みが始まっています。待降節と降誕日から始まる教会に集められているわたしたちの待望の信仰は、すでにその待望の中に成就と完成とを内に含んでいるような、確かで、希望に満ちた歩みなのです。

 ルカ福音書2章22節以下には、待降節と降誕日から始まった教会の歩みの最初の信仰者となった二人の預言者、シメオンとアンナの待望の期間が、幼子・主イエスとの出会いによって成就したことが書かれてます。

 主イエスの両親であるヨセフとマリアは、主イエスの誕生後40日が過ぎてから、エルサレム神殿での清めの儀式と初子奉献の儀式を行います。清めの儀式については旧約聖書レビ記12章に定められています。出産後の母親は40日間、宗教的に汚れた状態にあるので、その間は家にとどまり、公の場に出てはならないとという決まりです。清めの期間が過ぎた40日後に、エルサレム神殿で1歳の雄羊か、もしくは2羽の山鳩ないしは家鳩をささげることによって清めの期間が終わると定められていました。

 初子奉献の起源は出エジプト記にあります。イスラエルの民が神の強いみ手によってエジプトの奴隷の家から解放されたとき、エジプト国内のすべての長男と家畜の初子(最初に生まれたオス)が、神から遣わされた滅ぼす者によって死んでしまいましたが、イスラエルの家では、門の入り口と家のかもいの柱に子羊の血を塗っていたために、滅ぼす者がその家の前を通り過ぎ、イスラエルの家はみな守られました。この出来事から、長男の命はすべて神のものであるから、神にささげられるべきであるが、長男の命を神にささげる代わりに銀5シェケルをささげて、贖うように民数記18章16節に定められていました。

 主イエスの両親は、このように、旧約聖書の律法でイスラエルの民が守るべきだと定められていた清めと初子奉献の儀式を忠実に守っていたことが分かります。ルカ福音書はこれによって重要ないくつかのことをわたしたちに語っているのです。

 一つには、主イエスはその両親と共に、イスラエルの民の一人として、神の律法に忠実に従われたということです。ヨセフとマリアの若い夫婦は決して裕福な家ではありませんでした。清めの儀式では雄羊をささげることができなかったので、鳩を一つがいささげました。それでも、生後40日後には幼子を連れて、ガリラヤ地方のナザレからエルサレムまでの100キロメートル余りの困難な旅をして、神殿で礼拝をささげることを怠りはしませんでした。主イエスは神がお選びになったイスラエルの民の一人としてお生まれになり、神がこの民に与えると約束された全人類のメシア・救い主として誕生されました。神の永遠なる救いのご計画は、この主イエスによって成就されるのです。

 第二には、パウロがガラテヤの信徒への手紙4章4~5節で言っていることと関連します。そこにはこうあります。「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」。主イエスは律法のもとにお生まれになり、ご自身もまたその律法に完全に服従されることによって父なる神のみ心を行われました。それによって、律法のもとにあって罪と死とに支配されていたイスラエルの民と全人類とを、罪と死の奴隷から解放し、救い出してくださったのです。

 もう一つ、わたしたちがここで見ておかなければならない重要な点は、主イエスの両親ヨセフとマリアが行った清めの儀式と初子奉献の儀式は、単に律法で定められていたことを忠実に行ったというのではなく、それは主イエスのご生涯全体と、特にその最後の十字架の死と復活によって成し遂げられた神の救いのみわざを、あらかじめ先取りするものであったということです。清めの儀式は、出産後の母親の汚れを清めるために行われますが、主イエスはわたしたちすべての罪びとたちを罪の汚れから洗い清めるために、ご自身の尊い血を十字架で流されました。それによって、全人類のための救いをなし遂げられました。初子奉献の儀式は、長男の命をひとたび神にささげてから、それを銀5シェケルで神から買い取り、贖うのですが、主イエスはやがてご自身の命そのものを実際に父なる神におささげになられ、十字架で死んでくださいました。それによって、わたしたちの罪の身代わりとなってくださり、わたしたちを罪から贖いだしてくださったのです。ルカ福音書2章にはすでに、主イエスの十字架と復活の光が差し込んでいます。

 さて、主イエスの両親が清めと初子奉献の儀式を行うためにエルサレムの神殿に入って行ったときに、二人の預言者に出会いました。ここでもまたわたしたちは、両親に抱かれた幼子・主イエスこそが、旧約聖書の時代から神がイスラエルに約束しておられたメシア・救い主であり、今やその待望の時が満たされ、成就の時が始まったという二人の預言者の証言を聞くのです。

 シメオンとは「聞かれた」という意味で、神によって祈りが聞き入れられたという信仰を言い表す名前です。そのギリシャ語はシモンです。その名のとおりに、彼の長い間の祈りと待望の歩みが今や神に聞き入れられたことが、25節から印象深く語られています。【25~28節】。

 もう一人の預言者アンア、その名は「神に恵まれた者」という意味ですが。彼女は84歳という、当時としては驚くほどに長い、そして神の恵みに満たされた彼女の歩みについては36節から書かれています。【36~38節】。

 この二人の預言者について、いくつかのポイントに焦点を当てて読んでいくことにしましょう。まず、この二人の預言者は神の約束の成就を待ち望むということが、その人生の中心的な務めであり、唯一の生きる目的、あるいは生きる喜びであったということです。シメオンはイスラエルに与えられるであろうメシア・救い主に会うまでは死なないという神の約束をいただいていて、ただひたすらにその時を待ち続けていたと書かれています。アンナもまた夜も昼も神殿で神に仕え、祈りと断食の日々に明け暮れていたと書かれています。彼らにとっては、待ち望みながら神にお仕えしていたというよりは、待ち望むそのことこそが、神にお仕えすることであったのです。だから、待ち望んでいるメシアの出会うまでは、彼らの生涯は決して満たされることはありません。

 待ち望むだけの人生は、ある意味とてもつらく、苦しい生涯であると言えるでしょう。未だに確かな事実を見ることができず、確実な実りを手に入れることができない、いつも飢え乾いているように、ただひたすら約束の成就を待ち望む以外にない人生。しかし、この二人の預言者は他にこの世の楽しみを何かに見いだそうとはしませんでした。神の約束の成就を待ち望むことによってこそ、彼らの信仰は強められていたのです。なぜならば、待ち望む信仰の歩みの行く手には、常に主なる神がおられるからです。その約束を成就してくださる主なる神によっていつも捕らえられているからです。

 そして今こそ、彼らの待望が満たされる時が来たのでした。幼子・主イエスが律法に定められていた儀式を行うために神殿に来られたその時に、その幼子こそが約束のメシアであることを彼らは聖霊によって知らされたのです。そしてその時に、彼らの人生が最終目的に達したのです。彼らの人生が満たされたのです。それゆえに、シメオンは神をほめたたえて歌いました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」と。

 信仰者にとって、いやすべての人間にとっても、救い主に出会うということによってこそ、その人の人生が本当の意味で満たされたものになります。人間にとって、他の何かによっては真の慰め、真の平安は得られません。わたしたちがこの地上での歩みを終えようとするとき、この世の富も、誉れも、健康も、愛する家族ですら、わたしの人生を本当の意味で満たすことはできません。わたしに真実の慰めと平安を与え、わたしの人生を最後の目標へと導くことはできません。

 しかし今やわたしたちは、預言者シメオンと共に、「主よ、今こそあなたはお言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」と告白することができるのです。この告白によって、わたしたちの信仰の歩みを始めることができ、また終えることができるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの約束のみ言葉はすべて成就され、出来事となることを信じます。どうか、あなたのみ言葉によって、わたしたちに真実の慰めと平安をお与えください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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