1月18日説教「恐れるべき方を恐れなさい」

2026年1月18日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書51章9~16節

    ルカによる福音書12章1~7節

説教題:「恐れるべき方を恐れなさい」

 主イエスはルカによる福音書12章1節で、「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」と弟子たちにお語りになっておられます。主イエスのファリサイ派に対する批判は前回学んだ11章31節から続いています。その箇所では、主イエスはファリサイ派の信仰や行動を具体的に取り上げて、彼らの偽善的な生き方を徹底的に批判し、彼らを「あなたたちは不幸だ」と何度も決めつけています。「不幸だ」という言葉は、深い嘆きや激しい怒りを表現している言葉で、『口語訳聖書』では「災いだ」と訳されていました。主イエスがこの言葉をお用いになる場合には、それは神からの災い、裁き、あるいは「呪い」や「死の宣告」をも暗示している強い意味の言葉です。

 なぜ、主イエスはこれほどの激しい批判の言葉でファリサイ派の人たちを攻撃されたのでしょうか。その理由を考える上でのヒントが、11章53、54節に書かれています。【53~54節】。彼らは主イエスを神から遣わされたメシア・救い主と認めず、受け入れず、反対に、主イエスを、神を冒涜する者、律法を破る者として当局に訴え、主イエスを殺そうとしていたのです。実は、そこにこそ彼らの本当の罪があったのです。彼らが最終的に神に厳しく裁かれなければならない、彼らの罪があったのです。主イエスはここで、彼らのその罪を明らかにしておられるのです。

 けれども、主イエスは自分を受け入れないファリサイ派に対して、単に感情的に怒りを爆発させているのではありません。彼らには宗教の指導者としても責任があるのです。彼らは民衆を教え、導き、イスラエルを神に選ばれた契約の民として、正しく神に仕え、神を礼拝する民になるように指導する羊飼いの務めが託されています。その責任を果たさず、いやむしろ、その務めを民衆のためにしていないだけでなく、自分自身の誉れや満足のために悪用していたのです。主イエスはそのような偽善的な信仰、しかも悪意に満ちたファリサイ派の信仰を、ここで非難しておられるのです。そして、彼らのように傲慢にならず、自らを偽らず、謙遜に主イエスのみ前に罪を告白し、悔い改め、主イエスをわたしの唯一の救い主と信じる信仰へと、わたしたちを導いておられるのです。

 12章1節の、「ファリサイ派の人々のパン種」という言葉が、きょうの箇所を理解する一つのヒントになると思われます。パン種とは、パンを柔らかくするために小麦粉に入れる酵母菌のことです。主イエスは神の国のたとえ話にパン種を用いておられます。【13章20~21節】(135ページ)。少しの量のパン種が小麦粉に混ぜられると、全体に増え広がり、その働きが増幅されていくように、神の言葉と神の恵みのご支配が一人の救い主・主イエスから始まってイスラエル全体へ、更には世界全体へと拡大していくことを、主イエスはパン種のたとえでお話になりました。

 ここでは、同じようなパン種の働きが、いわば悪い意味で、ファリサイ派の偽善と罪と悪が人々の中へと広がっていくことのたとえとして用いられています。彼らにはこの責任があるのです。民衆を正しく導く務めが託されているにもかかわらず、彼らはその務めを放棄し、しかもそれを自らのために悪用しているのです。「偽善」という言葉は、仮面をつけて他の人を演じるという意味を持つことを前回も紹介しましたが、ファリサイ派は偽りの仮面をつけて人々を欺くだけではなく、その地位と務めを利用して、民衆をも偽善と罪と悪へと導いているのです。主イエスはその責任を問われます。

 次の2節、3節も、ファリサイ派の偽善的な信仰と行動に対する非難として語られているように思われます。【2~3節】。ファリサ派が自分の顔を隠して、仮面をつけてごまかしているように装っても、主イエスは彼らの偽善を見抜かれます。彼らファリサイ派の人たちが民衆の指導者を自認し、神の律法を忠実に守り、実行していることを誇り、敬虔な祈りをささげ、熱心に神に仕えているように装ってはいても、主イエスは彼らの偽善をすべて見抜いておられます。主イエスは父なる神にご自身のすべてをささげてお仕えし、最後にはご自身の命のすべてをも十字架にささげられるほどに、忠実に、十字架の死に至るまで忠実に、神に服従される神のみ子であられるからです。主イエスの目には何も隠されるものはありません。主イエスの十字架の死は、わたしたちの中に隠れ潜んでいるすべての罪をも明らかにし、それを断罪し、そのようにして、わたしたちをすべての罪から救うのです。

 この2節と3節には、別の意味も含まれているように思われます。ルカ福音書8章16、17節で、主イエスはこのように教えておられました。【16~17節】(118ページ)。ここでは、主イエスが語られた神の救いの言葉は何かによって覆い隠されることはなく、多くの人たちによって聞かれ、信じられ、救いの出来事を生み出したいくのだから、弟子たちはそのことを信じて福音を語り伝えなさいという意味で語られていました。主イエスの福音はこの世のいかなるものによっても覆い隠されたり、力を失ってしまうことはありません。邪悪で不信仰な時代の中にあっても、主イエスの十字架の言葉は救いの力を発揮し、救いの出来事を生み出していきます。ここで、ファリサイ派に対して語られた厳しい非難の言葉は、わたしたちにとっては確かな約束の言葉であり、力強い招きの言葉でもあります。主イエスが語られたみ言葉は、ファリサイ派の人たちにとっても、わたしたちにとっても、真理です。彼らにとっては、彼らの偽善を見抜き、彼らの不信仰を裁く真理となり、わたしたちにとっては、すべての人を罪と滅びから救い出し、新しい命と存在を与える真理となるのです。

 では次に、【4~5節】。4~7節のみ言葉は、これまで語られていたファリサイ派の偽善に対する批判とは少し違うように思われます。あえて共通点を見いだそうとするならば、ファリサイ派の偽善に対して、ここでは何が真理であるのかを語っておられるというように読むことができます。あるいはまた、弟子たちや教会がこれから経験しなければならないであろう迫害に備えるべきことが語られているという読み方もできるでしょう。

まず、4節の「恐れるな」という言葉に注目したいと思います。「恐れてはならない」と訳されている言葉は、本来は命令形です。この命令形は、恐れることを禁止するとともに、その恐れから救い出し、恐れを取り除く救いへの招きの言葉でもあります。神が、あるいは主イエスが「恐れるな」と呼びかけられるとき、その呼びかけを聞いた人は、恐れが喜びや平安、信頼に変えられるのです。そして、本当に恐れるべき方を恐れるときには、他のいかなるものをも恐れる必要がなくなるのです。

ファリサイ派の偽善は、まさに真に恐れるべきである主なる神への恐れがないところにあります。彼らは神への恐れではなく、自分の仮面がはがされることへの恐れであったり、人々の前で自分の偽善があばかれることへの恐れであったりします。神の真理や神の権威の前に、恐れをもって服従することをしていません。彼らがどれほどに聖書の知識を持っていようが、熱心で長い祈りをささげようが、そこには本当の救いはありません。本当の平安も慰めもありません。主なる神の裁きと滅びがあるだけです。

主イエスの「恐れるな」という命令は、弟子たちがこれから経験するであろう迫害と殉教に向けて、彼らの信仰を支え、強めるみ言葉でもあります。弟子たちと教会は、初めはユダヤ教から、やがてローマ帝国から、そして多くの国家や権力者たちからの迫害を経験するでしょう。主イエスはすでにそのことを知っておられます。ご自身がユダヤ人によって裁かれ十字架刑で処刑され、すべての人間から見捨てられて死ななければならないことを知っておられます。そして、主イエスを信じ、従う信仰者もまた同じ道を進まなければならないことを知っておられます。そこでこう言われるのです。「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れるな」と。なぜならば、体を殺すだけでなく、その人を永遠の滅びによってお裁きになる権威を持っておられる主なる神を、あなたがたは知っているからだと。その主なる神があなた方を守っておられるからだと。

迫害者は信仰者をあらゆる手段を尽くして脅し、痛めつけ、そして殺すでしょう。しかし、迫害者はそれ以上のことはできません。それに対して、主なる神は最後の裁きをなさる権威を持っておられます。不信仰な者、不従順な者を永遠の滅びに定める権威を持っておられます。わたしたちはこの神をこそ恐れなければなりません。そして、主なる神への恐れは、他のすべての恐れからわたしたちを守り、いかなるものをも恐れない勇気と希望とを生み出します。神のみ子主イエス・キリストによってわたしたちを罪と死と滅びから救い出してくださり、神の国における永遠の命を約束してくださるからです。この神がわたしたちの味方となってくださるなら、たとえすべての人がわたしに敵対しようとも、わたしは何をも恐れるには及びません。

【6~7節】。1アサリオンはおよそ5円に相当します。雀は1羽では値がつかないほどに値打ちがないものです。けれども、その1羽ですらも、神によって創造され、神によって守られ、愛されており、神のみ心なしでは地に落ちることはないのだと主イエスは言われます。そうであるならば、あなたがた人間は神のかたちに似せて創造され、すべての被造物の冠として創造されているあなたがた人間は、雀よりもはるかに大きな愛と守りとを受けているのではないかと主イエスは言われるのです。主イエスのまなざしは神に愛され守られている1羽の雀に注がれます。しかし、それ以上に神の大きな愛に支えられているわたしたち人間に、集中的に注がれます。実に、これこそがキリスト教の創造信仰、創造論です。主イエスはわたしたちの創造信仰を完成されます。

「あなたがたの髪の毛までも1本残らず数えられている」と主イエスは言われます。神の愛は、主イエスの愛のまなざしは、わたしの髪の毛1本1本にまで注がれています。その髪の毛1本も、神のみ心なしでは抜け落ちることはないのです。

1563年に制定された『ハイデルベルク信仰問答』は次のような印象的な第1問で始まっています。「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」。「それは、生きるにも死ぬにも、わたしは体も魂もわたしのものではなく、わたしの信実な救い主イエス・キリストのものであるということです。この御方が、その尊い血によってわたしのすべての罪の代償を完全に支払ってくださり、まったく悪魔の権力のもとにあったわたしを解放してくださいました。そして、わたしを守り、天にいますわたしの御父のみ心なしには1本の髪もわたしの頭から落ちることなく、実にすべてのことが必ずわたしの祝福に役立つようにさえしてくださいます。……」。このようにして、天の父なる神に愛され、守られているわたしたちは、なんと幸いなことでしょう。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがわたしたち罪の中で滅びるべきであった者たちを、み子主イエス・キリストの十字架の血によって罪から贖い、救ってくださり、今もなおわたしたち一人一人のすべての歩みを最もよき道へとお導きくださっておられますことを信じ、心から感謝いたします。どうか、迷いと躓きが多く弱いわたしたちをあなたの永遠の愛によって包んでください。終わりの日に至るまで、あなたがわたしたち一人一人と共にいてくださいますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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