1月25日説教「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの教会」

2026年1月25日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記7章6~8節

    ローマの信徒への手紙1章1~7節

説教題:「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの教会」

 ローマの信徒への手紙は古代のギリシャ世界の手紙の書き方にならって、1節に手紙の差し出し人の名前が書かれ、次に本来ならば手紙の受取人の名前が書かれるべきところ、2節から6節までは主イエス・キリストの福音について語った長い挿入文があり、7節でようやく手紙の受取人の名前と挨拶の言葉が書かれています。きょうは、その挿入文の最後の6節と、7節前半の手紙の受取人の箇所を学びます。

 【6~7節a】。6節は、長い挿入文の終わりで、主イエス・キリストの福音を異邦人へと広めるためにパウロは使徒とされたと語ったのですが、その異邦人の中にあなたがたローマの教会も含まれていると説明が続けられています。ここでも、パウロはまだ訪問したことがないローマの教会と自分との深いつながりを意識していることが伺われます。

 異邦人とは、神に最初に選ばれたイスラエルの民・ユダヤ人以外の人々を聖書では異邦人と言いますが、この言葉はイスラエルの民から区別された人々という意味よりも、かつては神に選ばれていなかったけれども、やがて選ばれることになっている、いや今こそ新たに招かれている神の民であるという意味合いが強く含まれています。

パウロがここで、「あなたがたもこの異邦人の中にいる」という場合、これには二つの意味があるように思われます。一つには、ローマの教会のメンバーの多くがユダヤ人以外のギリシャ人や他の民族で形成されていたということ、もう一つには、ローマの教会が異邦人社会の中に建てられているという意味です。当時のローマは世界の中心都市であり、すべての道はローマに通じていると言われていましたから、全世界のあらゆる民族、国民が集まっていました。その世界都市であるローマで、全世界のすべての人の救い主であり、全世界の唯一の主である主イエス・キリストの福音を宣べ伝えたい、それが自分の使命だというパウロの強い思いがここには現われているように思われます。

 6節の「イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがた」という言葉から、7節で手紙の受取人として名前が挙げられるローマ教会についての説明がすでに始まっています。「イエス・キリストのもの」、これがローマ教会を特徴づけている第一のことです。ローマ教会だけでなく、全世界のすべての教会、そしてまたわたしたちの教会も、みな主キリストのものです。「主キリストのものである」ということは、他の誰のものでもない、他の何ものの所有でもないということを意味します。ローマ教会は異邦人社会の真っただ中に建てられていました。けれども、ローマ教会は異邦人社会に属するのではなく、またローマ皇帝カイサルの所有でもなく、主キリストの所有であり、神の国の民です。

 どのようにして、主キリストのものになったのでしょうか。「召されて」という言葉が重要な意味を持ちます。同じ言葉はすでに1節でパウロ自身について言われていました。「召されて使徒となったパウロ」。また、次の7節にも、「召されて聖なる者となった」とあります。手紙の冒頭の書き出しの部分に計3回も用いられています。「召される」という言葉は、すべての信仰者、キリスト者について、また教会について、聖書の中で何度も繰り返して用いられています。キリスト教の用語では「召命」という言葉で表現されるのが一般的です。この言葉について、ここで改めて深く考えてみたいと思います。

 「召される」は受動態ですが、能動態では「召す」になります。もとのギリシャ語は「呼ぶ」という意味の簡単な言葉です。英語のcallに相当します。でも、聖書でこの言葉が用いられる場合には、特別な意味が込められています。まず、誰が呼ぶのか、主語は誰かということが常に意識されます。また、どこから呼び出されるのか。呼び出されてどこへ行くのか。更には、何のために呼ばれるのか。いつ、どのようにして呼ばれるのか。呼ばれたら、わたしはどうすべきなのか。そのようなことがすべて、この「呼ぶ」という言葉が用いられる際には、常に強く意識されているのです。

そして、この「呼ぶ」というギリシャ語から派生した言葉から、教会を意味するエクレーシアができました。教会、エクレーシアとは「呼び出された人たち、召された人たち」の群れという意味を持っています。

ではまず、「召された」の主語を考えてみましょう。前にも何度かお話ししましたが、聖書の中で主語をはっきり明記せずに受動態で表現される場合、その多くは主語として神が隠されていると理解されます。ここでもそう考えてよいでしょう。神によって召され、呼び出され、主キリストのものとされたということです。ローマの教会員が、またわたしたち一人一人もそうなのですが、この教会に招かれ、きょうの礼拝に呼び出され、信仰者、キリスト者とされ、礼拝者とされているのは、神の呼びかけによるのであり、神の召し、神の招きによるのであるということです。わたしの願いやわたしの意志、わたしの都合というよりは、よれよりもはるかに強い神のみ心、神の永遠のご計画によるのだということです。

次に、どこからどこへ、どのようにして召されたのでしょうか。そのことを考えることは、聖書全体、キリスト教の福音そのものと関連します。すなわち、神はご自身のみ子・主イエス・キリストをこの世にお遣わしになり、この主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって、その福音を信じる人たちを聖霊によってこの世から呼び出してくださり、罪のゆるしと永遠の命の約束をお与えくださいました。そのようにして、神は主イエス・キリストの体なる教会に信じる人たちを呼び集めてくださり、神を礼拝する民の中へと招き入れてくださったのです。神に呼び出された人たちは、罪の支配から神の恵みのご支配の中へと移され、闇の中から光の中へ、罪と死と滅びから救いと命へと移し入れられ、罪よって滅びるべきこの世から永遠なる神の国の民へと移し変えられているのです。

そのことが、次の「イエス・キリストのものとなるように」という言葉で言い表されています。主イエス・キリストの福音によって神に呼び出された人は、もはや罪が支配するこの世に属する者ではありません。主イエス・キリストが十字架で流された聖なる尊い血によって贖われ、罪の奴隷から買い戻され、救い主キリストのものとされているからです。

ここにこそ、わたしたち信仰者の救いの確信と確かな慰めがあるのだと、宗教改革時代に制定された『ハイデルベルク信仰問答』の第1問は告白しています。先週も紹介しました。

「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」

「それは、生きるにも死ぬにも、わたしは体も魂もわたしのものではなく、わたしの信実な救い主イエス・キリストのものであるということです。このお方が、その尊い血によってわたしのすべての罪の代償を完全に支払って下さり、まったく悪魔の権力のもとにあったわたしを解放してくださいました」。

それゆえに、わたしはわたしのものではなく、他の誰かや何かのものでもなく、わたしのために十字架で死んでくださった主キリストのものである。ここにこそ、わたしの信仰の確かさがあり、わたしの唯一の慰めがある。この主キリストはわたしの人生のすべての歩みに伴ってくださり、わたしに最も善き道を備えてくださるゆえに、たとえどのような困難や試練や災いがわたしを襲うとも、わたしは恐れない。わたしの死の時にも、主キリストはわたしをお見捨てにはならず、わたしと永遠に共にいてくださる。これが、神によって召され、主キリストのものとされているわたしたちキリスト者の信仰です。

紀元1世紀のこの時代、ローマ帝国の市民はみな皇帝カイサルのものだと考えられていました。しかし、キリスト者はそう考えませんでした。キリスト者は主キリストのものです。この世のどのような権力も暴力も、キリスト者を主キリストから引き離すことはできません。パウロはこの手紙の8章39節でこのように書いています。【39節】(286ページ)。

7節は、もとのギリシャ語を直訳すると、「ローマにいるすべての人たち」「神に愛されている人たち」「召されて聖となった人たち」、このような語順で並んでいます。いくつかの写本では、「ローマにいる」という言葉が省略されています。これはおそらく、パウロの手紙が諸教会の礼拝で朗読されるようになったからであろうと推測されます。聖書の他の箇所から、初代教会ではそのような習慣があったということが知られています。今日わたしたちも、この箇所に、「日本にいる」とか「秋田にいる」という言葉を当てはめてこの手紙を読むということは、正しい聖書の読み方と言えます。聖書の言葉は、今のわたしたちの時代に、今ここでこのわたしに対して語りかけられている神の言葉であるからなのです。

次の「愛されている」も「召されて」も、いずれも受動態ですから、主語は神です。特に、「愛されている」には「神に」という言葉がわざわざ付け加えられています。ここでは、単に主語が神であるというだけではなく、本当の意味で、愛することは神だけがなさることであるということが暗示されているように思われます。真実の愛、本当の意味で愛するのは、神だけであると聖書は教えています。ヨハネの手紙一4章10節にはこのように書かれています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を贖ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。「神は愛です」。また、パウロもこの手紙の5章8節でこう書いています。【8節】(279ページ)。

わたしたちの愛はしばしば歪んだ愛になったり、偽りであったり、敗れることもあります。しかし、神の愛は、その独り子さえも惜しまずにわたしたちのために十字架の死に渡されたほどの、驚くべき、大きな、真実の愛です。この愛によって神に愛されている信仰者は、神の愛の中へと招き入れられます。それゆえに、お互いに「愛されている者よ、愛する兄弟姉妹よ」と呼びかけ合うことができます。そして、神に愛され、神を愛するように、お互いにも愛し合うことができる者とされているのです。

 「召されて聖なる者となった」の聖なる者とは、神の召しによってこの世の者たちから区別され、分離されて、神にささげられた者とされた人たちのことを言います。いわゆる聖人という言葉でイメージされるような、立派な人物とか人格的に優れた人という意味ではありません。しかし、聖なる者たちにはそれ以上の誉れが与えられています。主イエス・キリストによって罪をゆるされている人たち、滅びるべきこの世に属するのではなく、永遠のみ国である神の国の民とされているという誉れと栄光とを与えられているからです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの信実な愛をわたしたち一人一人にもお与えください。あなたの信実な愛は、わたしたちの間にある憎しみや争い、分断、孤立のすべてをはるかに超えて、わたしたちを一つの愛の共同体として結びつけます。どうか、この世界をあなたの信実な愛で包んでください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA