12月14日説教「主イエスのために道を整える洗礼者ヨハネ」

2025年12月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

              待降節(アドヴェント)第三主日

聖 書:マラキ書3章1~3節

    ルカによる福音書1章57~80節

説教題:「主イエスのために道を整える洗礼者ヨハネ」

 待降節(アドヴェント)の2週の主の日の礼拝で、これまでわたしたちはルカによる福音書1章を続けて読んできましたが、そこでは2人の男の子が神の奇跡によって誕生するであろうという約束が語られていました。一人は、年老いてから神の奇跡によって初めての子どもを授かったザカリアとエリサベト夫妻に生まれるであろう先駆者ヨハネ。もう一人は、婚約中でありまだ一緒になっていなかったヨセフとおとめマリアに聖霊によって生まれるであろうメシア・キリストなる主イエス。

そして、この二人の誕生予告に続いて、きょう読んだ57節には、このように書かれています。【57節】。ザカリアとエリサベトに語られた男の子誕生予告がここで成就しています。わたしたちはここであらかじめ、半年先に起こることを先取りして、2章6節、7節を読んでみましょう。【6~7節】(102ページ)。ここでは、ヨセフとマリアに語られた男の子誕生予告もまた成就します。

このように、神の約束のみ言葉は必ず成就します。神の二つの奇跡が共に出来事になります。このことは、ごく自然に起こっていると言えるのかもしれません。母親が受胎して一定の期間が過ぎると、子どもの出産のときを迎えるということは自然な経過と言えるでしょう。しかし、わたしたちはここに神の特別なみわざを見るのです。それは、神がお語りになったみ言葉は必ず成就する、神のみ言葉は出来事となるという真理を、ここに読み取ることができるということです。

1章57節に「月が満ちて」と書かれており、また2章6節にも「マリアは月が満ちて」と書かれています。「月が満ちる」と訳されているギリシャ語原典は直訳すると「時が満ちる」です。時が満ちるとは、この場合はエリサベトとマリアの妊娠の期間が満ちて、出産の時を迎えたという意味ですが、ここでは二組の夫婦に語られた神の約束の時が成就したという意味も当然含まれています。それだけではありません。「時が満ちる」とは、神が語られたすべてのみ言葉が、その成就の時へと向かっているということの約束であり、また成就であり、その実現なのです。預言者イザヤはイザヤ書55章でこう預言しています。「雨も雪も天から降れば、それは空しく天に帰ることはない。大地を潤し、芽を出させ、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉は、空しくわたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」(イザヤ書55章8~11参照)と。同じような神のみ言葉は旧約聖書と新約聖書に数多く見いだされます。

ある人は、教会を妊娠した女性にたとえています。教会は神の約束の言葉を聞き、神の国の完成の時、救いの完成の時、永遠の命が与えられる時を待ち望みながら今を生きている人たちの群れです。それはちょうど、胎内に子どもを宿し、出産の時を待つ女性と同じだというのです。教会は神の言葉を聞き、その言葉が成就することを信じながら生きています。終わりの日には、今のこの混乱した世界が終わり、新しい神の国が完成するであろうことを信じ、またわたしの弱くたどたどしい信仰がその日には完成され、わたしに永遠の命が与えられるであろうことを信じ、その日を待ち望みながら生きている信仰者たちの群れ、それが教会です。胎内に子どもを宿した女性は、日に日に新しい命の胎動を強く、確かに感じながら、出産の時が近づいていることを、喜びと希望を抱きながら、時が満ちるのを待ち望んでいます。わたしたちの教会もまた、それと同じように、神の言葉である聖書に聞きつつ、その聖書の解き明かしである説教を聞きつつ、神の約束の時が確かに近づいてきていることを信じつつ、「主よ、来たりませ」と祈りつつ、時が満ちるのを待ち望んでいるのです。神の言葉はまだ現実とはなっておらず、出来事としては起こっておらず、いまだ成就の時は来ていないけれども、その神の約束の言葉の中にはすでに成就を含んでいるのだということを、わたしたちは知らされます。それゆえに、神の言葉を聞きつつ待ち望む信仰者の待望の時は、決して空しく終わることはありません。

次に、58節を読みましょう。【58節】。ここでは、ザカリアとエリサベトの年老いた夫婦の喜びが、その家の中だけにとどまらずに、多くの人たちの喜びとなったことが語られています。一人の人の喜びが他の人の喜びになる。このような喜びこそが、本当の喜びであると言えるでしょう。そのような喜びはどこから来るのでしょうか。「主がエリサベトを大いに憐れまれたと聞いて」と書かれています。この喜びは天の父なる神から与えられた喜びです。人が自分の努力で勝ち取った喜びではありません。この世には、そのような喜びがあるでしょうが、しかし、その喜びの背後には多くの場合、別の人の悲しみや妬みや怒りがあったりします。自分の喜びを手に入れるために、だれかの喜びを奪い取るということもあります。そもそもわたしたち人間は、共に喜びを分かち合ったり、共に重荷を負い合ったりすることができない、自己中心的な罪びとなのです。

けれども、神から来る喜びは、わたしたちが共に喜び合うことを可能にします。神が大きな憐れみをおかけくださったことを知らされた人が、どうしてそれを自分だけに閉じ込めておくことができましょうか。そこでは、妬み合いや奪い合いは起こりえません。共に分かち合うようにと導かれます。教会は神の憐れみと恵みによって罪から救われている人たちの群れであり、共に喜び合う群れです。それゆえにまた、共に悲しみや重荷や痛みをも分かち合い、担い合うことができる信仰者たちの群れなのです。

実は、このザカリアとエリサベトの家とその周辺に広がった喜びは、後で2章に書かれているクリスマスの大きな喜びの照り返しなのであり、いわばその先取りなのです。2章10節、11節を読んでみましょう。【10~11節】(103ページ)。ザカリアとエリサベトとから生まれる先駆者ヨハネが、来るべきメシア・主イエスのために道を整える務めを持ち、やがておいでになる主イエスを指し示し、主イエスのために道を整える務めを託されている特別な人物であるゆえに、その来るべきクリスマスの大きな喜びが、ここにすでに差し込んできているのです。

59節からは、生まれて8日目の割礼を施す儀式と名前をつける儀式のことが記されています。旧約聖書の律法に定められているように、イスラエルの民は神に選ばれた契約のしるしとして、男の子は生後8日目に生殖器の一部の皮を切り取る割礼を受けます。同時に、命名の儀式も行いました。多くの親類が彼らの家に集まっていました。その時に、不思議なことが起こりました。

名前をつけることは父親の務めでした。けれども、父ザカリアは20節に書かれていたように、、子どもが与えられるという神の約束の言葉を信じなかったために、神の裁きを受けて口がきけなくされていましたから、家に集まっていた親族たちが父親の代役を果たすことになりました。彼らは父の名前と同じザカリアにしようと相談します。ところが、エリサベトは「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と、彼らの考えに反対します。ここで、最初の不思議なことが起こっています。当時は、今よりははっきりとした男性社会でしたから、公の場での女性の発言はほとんど認められていませんでした。しかし、ここでエリサベトは多くの男性たちの前で、彼らの意見に反対して、はっきりと自分の主張を宣べています。なぜ、どうしてエリサベトはこのようなことを言うのでしょうか。多くの男性たちの前で、彼らに反対して、しかもその家系に伝わる名前とは全く違っている名前を主張するのでしょうか。彼女をこのように大胆に勇気ある女性にしているのは何なのでしょうか。

その答えは、すでにわたしたちも聞いてきたように、主なる神が父ザカリアに男の子が与えられるであろうと約束された際に、「その子をヨハネと名づけなさい」と13節でお命じになっておられたからです。エリサベトもその神の約束を聞いていたからです。神の言葉に聞き従う時、エリサベトはその時代の慣習や社会制度や、多くの男たちの意見にはっきりと逆らって、自分の意見を述べる大胆さと勇気とを与えられるのです。そのようにして、エリサベトは神のみ心を行うのです。

さらに不思議なことが続きます。【62~63節】。ここで、エリサベトとザカリアとの意見が一致します。この夫婦の一致は、共に神の約束のみ言葉に聞き従ったことによって与えられた一致です。ここにこそ、夫婦の一致があります。また、人間と人間の一致があります。単に、性格が似ているとか、価値観が同じとか、そのようなことからくる一致ではなく、共に神の言葉に聞き従うことから与えられる一致こそが、真の一致です。そしてこの一致によって、共に家庭や社会の慣習を変革していく力、この世の常識とか価値観とかをも打ち破っていく勇気が与えられるのです。ザカリアとエリサベトはそのような固い一致に結ばれました。

【64節】。ザカリアが神の言葉に聞き従わなかった時には、彼は口を利くことができませんでした。彼が神に不従順であった時には、彼は言葉を失っていました。神によって言葉を奪われていました。しかし今、彼は神の約束の言葉を信じるようになり、書き板に「その子の名はヨハネ」と書くのです。その時、ザカリアに言葉が与えられました。神を疑ってつぶやくための言葉ではなく、神に不従順であった時に語った自己を誇る言葉でもなく、まただれかを傷つける愛のない言葉でもなく、神を賛美する言葉を与えられたのです。それが、68節以下のザカリアの賛歌です。

このザカリアの賛歌は、46節以下のマリアの賛歌と同様、まだ待降節(アドヴェント)であると時にうたわれた歌ですが、その内容はすでに降誕日(クリスマス)に与えられであろう神の救いの恵みを歌っています。冒頭の67節~70節を読みましょう。【67~70節】。そして、メシア・救い主に先だって道を整える先駆者ヨハネ自身については、76節以下でこのように歌われています。【76~80節】。このようにして、待降節(アドヴェント)から降誕日(クリスマス)へと進むのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたのみ言葉は命と力とを持ち、またわたしたちの罪をゆるし、わたしたちを新しい命へと導きます。どうか、わたしたちをあなたのみ言葉に従順な者にしてください。喜んであなたのみ言葉に聞き従うことによって、あなたのご栄光を現わすことができますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

12月7日説教「マリアの賛歌」

2025年12月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

             待降節(アドヴェント)第二主日

聖 書:イザヤ書61章1~4節

    ルカによる福音書1章39~56節

説教題:「マリアの賛歌」

 ルカによる福音書1章と2章では、先駆者ヨハネと主イエスの誕生予告と誕生の記録が、交互に配置されています。1章5節からは、来るべきメシアである主イエスのために道を整える先駆者ヨハネの誕生予告が語られ、続く26節から、そのメシア・救い主である主イエスご自身の誕生予告が、そしてきょう朗読された39節~45節では、二人の母親となるエリサベトとマリアの出会いの場面、更に46節からはマリアが歌った賛歌と続きます。二人の誕生が予告されたとおりに、57節以下ではヨハネが誕生したことが、それに続いてヨハネの父ザカリアの賛歌、2章1節からはメシア・救い主である主イエスの誕生の記録が語られていきます。

ルカ福音書はこのように先駆者ヨハネと救い主・主イエス・キリストとを並べて配置することによって、旧約聖書で預言されていたメシア・救い主の到来が実際にこのようにして成就したのだということを強調しているのです。旧約聖書時代の長い長い待降節、アドヴェントの期間、救い主を待ち望む期間が、今や終わろうとしている。神の救いのご計画が今やその最後の完成へと向かいつつある、待降節(アドヴェント)から降誕節(クリスマス)へと確かに世界の歴史が進みつつあるということを、ルカ福音書は語っているのです。

 そのような意味からいっても、きょうのエリサベトとマリアの出会いの場面は、非常に興味深く、また印象的な場面であると言えます。ここで出会っている二人の母になろうとしている婦人は、共に神の奇跡によって、特別な使命を与えられた男の子を胎内に身ごもっています。エリサベトは年老いて、もはや子どもが授かる可能性がなくなってから、神の奇跡によって男の子を宿しました。「あなたの胎内に宿っている男の子をヨハネと名づけなさい。その子は主・メシアに先立って、人々が来るべきメシアを迎えるために道を整えるであろう」との神の約束のみ言葉を聞きました。

一方、マリアはヨセフと婚約していましたが、まだ一緒になる前に次のような神の約束のみ言葉を聞きました。「あなたの胎内に宿っている男の子は聖霊なる神から与えられる命である。その子をイエスと名づけなさい。その子はまことの神でありまことの人として、ダビデ王に約束された永遠の王国を打ち立てるであろう」と。

 エリサベトとマリアはいずれも神の奇跡によって母になろうとしています。神の奇跡によって母となり、生まれ出るその子が神からの偉大なる使命を託されている、そのような二人の婦人がここで出会っています。ここで起こっている出会いの、深い意味を更に探っていくことにしましょう。ここでは、神の奇跡と神の奇跡とが出会っています。一つの神の奇跡が起こるとき、それはだれにとっても大きな驚きであり、感動であり、喜びであり、また恵みです。しかもここでは、二つの神の奇跡が出会っているのです。神の奇跡と神の奇跡とが出会っているのです。奇跡の中の奇跡、奇跡×奇跡ともいうべき奇跡がここでは起こっているのです。

 ここで実際に起こっている二人の婦人の出会いという奇跡を考えてみましょう。年老いてから母になったエリサベトと、結婚前に聖霊によって母になるであろうと言われたマリアは、36節によれば、親類関係でした。どういう関係かは明らかではありませんが、エリサベトはユダの町に住む祭司ザカリアの妻であり、マリアはずっと北のガリラヤ地方のナザレという町に住む庶民でした。二人が出会う機会は、そんなになかったでしょう。でも今回は、聖霊によって母になるであろうとの神の約束のみ言葉を聞いてまだ不安に思っていたマリアが、その不安を取り除き、神の約束が確かであることを確認するために、神の導きによって出会う機会を与えられたのです。36節へもう一度目を移しましょう。【36節】。マリアはこの神のみ言葉に導かれて、エリサベトが住むユダの町へと急いだのでした。

 わたしたちも人生の歩みの中でさまざまな出会いを経験します。感動的な出会いもあります。そうでない出会いもあるかもしれません。でも、いずれにしても、ここで起こっているエリサベトとマリアのような出会いを、わたしたちもぜひとも経験したいものだと願います。共に神の奇跡によって大きな、驚くべき恵みをいただいている二人の婦人の出会い、神の永遠なる救いのご計画の中心を担うべき二人の人物の母として選ばれたエリサベトとマリア、そしてその出会いによってお互いの喜びと希望を再確認するような出会い、神からいただいた恵みをお互いに確認し合い、その信仰を強め合うような出会い、そのような出会いを、わたしたちもぜひとも経験したいと願います。

もう少し、ここで起こっている出会いの意味を探っていきましょう。ここでは、旧約聖書の預言と新約聖書の成就とが出会っていると言えるでしょう。先駆者ヨハネは旧約聖書の預言者たちの列の最後に立って、来るべきメシア・救い主のすぐ前で、6か月後に誕生するであろうメシア、主イエス・キリストを指し示し、イスラエルの民が長く待ち望んだメシア到来を告げるのですが、その先駆者ヨハネの母となるエリサベトと、先駆者ヨハネが指し示したメシアである主イエスの母となるマリアとが、ここで出会ったいるのですから、ここではまさに旧約聖書と新約聖書とが出会っていると言えるでしょうし、神の預言と神の成就とが出会っている、とも言ってよいでしょう。神のみ言葉はすべて出来事となり、神の救いのご計画はすべて成就されるということを、わたしたちはここから知らされます。

もう一つ、ここで起こっている出会い、もう一つというよりは、これこそがここで起こっている不思議な出会いの中心である、次のこの出会いへと目を向けなければなりません。40節以下を読みましょう。【40~45節】。なんと、ここでは、エリサベトの胎内にいる、受胎後6か月を過ぎた先駆者ヨハネと、マリアの胎内におられる、受胎告知を受けてまだ間がない救い主・主イエスとが出会っているということが語られているのです。受胎して半年が過ぎれば、胎動が感じられるようになると、一般的には説明されるかもしれません。その説明は、実際にリアルです。まだ表に現れ出ていない命の胎動が母親のおなかから伝わってくるということは、とても感動的です。でも、ここで起こっている出会いはそれ以上です。というのは、マリアの胎内に宿っている命は、まだ数日、あるいは数週間に過ぎないからです。しかも、その小さな、小さな命の存在と、エリサベトの胎内に宿っている6か月を過ぎたばかりの命が、お互に出会っている、いやそれだけでなく、エリサベトの胎内の命がマリアの胎内の命に、いわば敬意を表して、喜び躍っていると書かれているのです。すべての預言者たちを代表している先駆者ヨハネが、その預言者たちの預言の成就の時が今来たことを知り、そのメシア・主イエスと直接対面してお迎えしていることを知らされて、喜びに満たされて、躍っている。そのことが今すでにエリサベトとマリアの出会いの時に実現している様子がここには描かれているのです。これほどに感動的で、意味深い出会いはどこにあるでしょうか。わたしたちもまたこの大いなる出会いの感動と恵みに共にあずかりたいと切に願う者です。

マリアはエリサベトと出会って、貧しい自分に神から与えられている大きな祝福を覚え、賛美の歌を歌いました。46節からは「マリアの賛歌」と言われる歌が記されています。この歌は、わたしたちがこれまで学んできたエリサベトとマリアの出会いの中に含まれていた神の救いの恵みとマリアに与えられた神の大いなる祝福に対する、マリアの応答として歌われています。この歌は、まだ主イエス誕生の出来事そのものではなく、待降節の中で歌われているのですが、わたしたちがすでにエリサベトとマリアの出会いの箇所で学んだように、すでにここで待降節と降誕節とが出会っていますので、この歌の中でも、すでにクリスマスの出来事の意味が歌われています。それを読み取っていきましょう。

「そこで、マリアは言った。『わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神をほめたたえます』」(46~47節)。この歌のラテン語訳聖書の冒頭の言葉、「あがめる」という意味のラテン語から「マグニフィカート」と呼ばれます。マリアは冒頭で「わたしの魂は」「わたしの霊は」と繰り返しています。これは、単に「わたしは」と言うよりも強調した言い方です。わたしの魂と精神、わたしの体と心、その全身、その全存在をもって、主なる神をほめたたえますという意味あいです。わたしの全生活をもって、わたしの全生涯を貫いて、わたしのすべての命をかけて、わたしは主なる神をあがめます、喜びたたえますという意味です。これこそが、神の奇跡によって救い主の母とされたマリアがなすべきことなのだと言えます。そしてまた、今主のご降誕を待ち望みつつ、救い主をお迎えしようとしているわたしたちがなすべきことも、これ以外ではありません。

「あがめる」という言葉は本来「大きくする」という意味を持っています。「主をあがめる」とは、主なる神だけを大きくする、他のすべてを、わたしとわたしの周辺にあるすべてをも含めて、それらを主なる神のみ前で限りなく小さくしていくということです。特にも、わたし自身を主なる神のみ前に小さくしていくということです。自らを主なる神のみ前で小さくし、低くし、貧しくし、謙遜になる。そして主なる神だけを大きくしてあがめる。そうすることによって、すべての善きものを主なる神から期待し、願い求める。これが救い主をお迎えするわたしたちの正しい姿勢、生き方なのです。

マリアは47節で、主なる神を「わたしの救い主」と呼んでいます。ここには二つの意味が含まれています。一つには、マリアは救いを必要としている罪びとであるという告白です。マリアはメシア・救い主の母となるために神に選ばれました。それは、なんという大きな神からの祝福であることでしょうか。42節でエリサベトは「あなたは女の中で祝福された方です」と言っています。マリア自身も48節で、「いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」と言っています。でも、彼女自身に何か優れている点があって、そうなのではありません。マリアが祝福されているのは、ほかでもなく彼女が胎内に宿している神のみ子・主イエスが祝福された方であるからであって、彼女自身は38節でも48節でも、「わたしは主のはしため・僕(しもべ)です」と告白しています。「わたしは貧しく、低く、神の救いを必要としている罪びとです」。このマリアの告白が、彼女を祝福された人にしているのです。

「救い主」のもう一つの意味は、これこそがクリスマスの中心的な意味なのですが、主なる神は救いの神であるということです。マリアにとってそうであるだけでなく、全世界のすべての人にとって、神は救いの神として、今この時この世界においでになられたのです。わたしたちすべてを罪から救うために、神はみ子主イエス・キリストとしてこの世においでくださいました。そして、このみ子の十字架の死と復活によって、わたしたちの救いを成し遂げてくださったのです。それゆえに、今全世界のすべての人々と共に、このみ子のご降誕をお祝いするのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがこの罪の世を顧みてくださり、み子をわたしたち人間と同じお姿でこの世にお遣わしになったことを、心から感謝いたします。願わくは、このアドヴェントの時に、すべての人々があなたのみ前に自らの罪を告白し、あなたがみ子・主イエス・キリストによってお与えくださった救いの恵みを、心から待ち望む者とされますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

11月30日説教「主イエスの誕生予告」

2025年11月30日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

              待降節(アドヴェント)第一主日

聖 書:創世記18章9~15節

    ルカによる福音書1章26~38節

説教題:「主イエスの誕生予告」

 教会の暦ではきょうからアドヴェント・待降節に入ります。主イエスの誕生を祝うクリスマス(降誕日)の前の4回の主の日(日曜日)を待降節第一、第二と数え、そのたびにアドヴェントクランツにローソクを1本ずつ増やし、主イエスのご降誕を待ち望みます。アドヴェントは、もとはラテン語で「到来、接近」を意味します。日本語の翻訳では、待降節、待ち望むというわたしたち人間の姿勢が表現されていますが、本来は、神がわたしたち人間の方に近づいて来てくださる、天におられる神が人間のお姿で地に降って来られ、わたしたち一人一人の近くおいでくださるという、神の行為を表現しています。

 今年のアドヴェントの礼拝では、ルカによる福音書をご一緒に読んでいくことにします。きょうの1章26節以下では、主イエスの誕生の予告が書かれています。【26節】。「六か月目」とは、すぐ前に書かれていた、祭司ザカリアと妻のエリサべトに男の子が生まれるであろうという神のみ言葉が告げられ、洗礼者ヨハネ誕生の予告がなされてから6か月目ということです。

 ルカ福音書では来るべきメシア・救い主である主イエスの誕生と、そのすぐ前で、メシアのために道を整える洗礼者ヨハネの誕生とを関連づけて描いています。それには深い理由があります。ヨハネは主イエス誕生の半年前に誕生し、自分の後にやってくるメシア・救い主を迎えるために、人々に「悔い改めて神に立ち帰れ」と説教し、ヨルダン川で悔い改めの洗礼を授けていました。それで、洗礼者ヨハネと呼ばれます。ヨハネは、実は、旧約聖書で活躍する預言者たちの列の最後に立っているのです。預言者たちは、主イエス誕生の千年も前から、神の救いのみわざを完成させるメシア・救い主の到来を預言していました。そして、今この時、神はご自身の一人子を、人間のお姿でこの世にお遣わしになったのです。この神のみ子によって、神は旧約聖書で預言されていた救いのみわざを成就されたのです。ヨハネはその預言者たちの列の最後に立って、最もメシアに近い所で、メシアのために道を整える使命を果たしているのです。

 ルカ福音書1章と2章とを概観すると、1章5~25節ではヨハネ誕生の約束と予告が描かれ、きょうの26~38節では、メシア・救い主である主イエスの誕生の約束と予告が描かれ、39~56節では、ヨハネの母になるエリサべトと主イエスの母になるマリアとの出会いが描かれ、次に57~80節では、ヨハネの誕生のことが描かれ、2章1節~20節で、主イエス誕生のことが描かれるというように、ヨハネと主イエスのことが交互に配置されていることが分かります。そして、救い主のために道を整える先駆者の後には、必ず救いの成就者であるメシアが続くのです。

 「天使ガブリエル」とは、3人いる天使長の一人と考えられていました。聖書にはしばしば天使が登場しますが、天使とは文字どおり天からの使い、天におられる神が地に住む人間に語りかける際に、人間に似たお姿で現れ、神の言葉をお語りになります。したがって、天使の言葉は神ご自身の言葉です。神が何か非常に重要なこととか奇跡的なこととかを人間に語られるときに、天使をとおしてお語りになります。

 すぐ前に書かれている洗礼者ヨハネ誕生の約束と予告の場面でも天使が語っています。1章11節に「天使が現われ」と書かれています。19節では、その天使が「わたしはガブリエル」と自己紹介をしています。ヨハネの父となるザカリアに告げられた神の言葉はこうでした。祭司ザカリアと妻エリサベトの間には長く子どもが与えられませんでした。でも、二人とも年を取ってほぼ諦めかけていた時に、天使は告げます。「あなたの妻エリサベトの胎内には男の子が宿っている。その子をヨハネと名づけなさい。彼は聖霊に満たされて、来るべき救い主のために道を整える使命を果たすであろう」と。洗礼者ヨハネの誕生は人間の可能性や能力をはるかに超えた全能の父なる神のみわざなのです。神の奇跡によって、ヨハネは誕生するのです。ヨハネの命もその存在も、すべてが主なる神に依存し、支えられ、導かれているのです。それゆえに、ヨハネは主なる神のために仕え、働き、そしてその命のすべてを主なる神にささげます。

 主イエスの誕生予告においても同様です。同様というよりは、ヨハネの誕生の奇跡にはるかにまさって、神の奇跡中の奇跡として、主イエスの誕生が起こるということを、天使ガブリエルはマリアに告げます。【27~35節】。

 では、主イエスの誕生の約束、予告にはどのような神の奇跡があるのでしょうか。26節に目を戻すと、「ナザレというガリラヤの町」と書かれれています。イスラエル北部のガリラヤやその南のサマリヤ地方は、かつての北王国に属しており、紀元前721年にアッシリア帝国によって滅ぼされてからは異国民が強制的にこの地に移住させられ、神の契約の民イスラエルという民族的・宗教的純粋性が失われてしまいました。敬虔なユダヤ人からはガリラヤからも、またその中の小さな村ナザレからも、何の善きものも出ないと言われていました(ヨハネ福音書1章46節、7章41、52節参照)。

 けれども、神はあえて軽蔑されていたガリラヤのナザレの地に住むヨセフとマリアとをお選びになり、この二人を神のみ子の両親とされたのです。当時の人々が期待していたエルサレムの都ではなく、また王の家でもなく、宗教的指導者の家でもなく、小さく貧しいナザレの村の、おそらく大工の息子であったヨセフと彼のいいなずけマリアをお選びになったのです。ここにすでに神の大きな奇跡があります。神はいと小さなもの、貧しく見栄えのしないもの、あるいはだれからも顧みられることのない、見捨てられているものをみ心におとめくださり、そこに豊かな恵みを注がれるのです。

 更に、神のより偉大なる奇跡が続きます。それは、マリアはまだヨセフと結婚してはおらず、同居もしていなかったということに関連しています。27節には「いいなずけであるおとめ」であると書かれています。そのおとめマリアに、「あなたは身ごもって男の子を産む」と告げられているのです。当然マリアは驚き、戸惑います。34節にはこう書かれています。【34節】。それに対する天使の約束はこうです。【35節】。

 これは、キリスト教教理では「処女降誕」と言われる教えです。わたしたちが礼拝で告白する『使徒信条』では、「主は聖霊によって宿り、処女(おとめ)マリアから生まれ」と告白されている内容です。主イエスの誕生は聖霊なる神による誕生であり、主イエスの命も存在も百パーセント神からのものであるということです。これは、神の偉大なる奇跡です。洗礼者ヨハネ誕生の場合には、ザカリアもエリサベトも年老いていたという人間の側の可能性がほとんどなかったということが強調されていましたが、人間の営みがなかったのではありませんでした。ところが、主イエス誕生の場合には人間の側での可能性も行動も全くなく、すべてが主なる神ご自身のみわざであったと言われているのです。

 主イエスの誕生がこのように、徹底して神ご自身のみわざであったがゆえに、主イエスは「聖なる者、神の子」と呼ばれるのです。そして事実、神はご自身のみ子によって、旧約聖書から約束されていたご自身の永遠の救いのみわざを成就されるのです。そのことは31節にも暗示されています。【31節】。イスラエルの家庭では普通は子どもが誕生して8日目に父親が名前をつけるのが習慣でした。でも、主イエスの場合には、まだ生まれる前から、しかも神ご自身がその名前を決めておられるのです。イエスとは、旧約聖書のヘブライ語の発音ではヨシア、あるいはヨシュアという名前です。イエスはそのギリシャ語による発音です。イスラエルではごく一般的な名前でした。「神は救いである」という意味です。しかし、ここでは神ご自身がその名前をつけることによって、神がイエスと呼ばれるご自身のみ子によって、確かにご自身の救いのみわざを成し遂げられるという、神の固い約束、神の強い意志が語られているのです。

 では、神はみ子主イエスによって、どのようにしてご自身の救いのみわざを成し遂げられるのでしょうか。それは、この福音書を終わりまで読めば明らかになるのですが、ここでは32節以下にこのように書かれています。【32~33節】。ここで語られていることは、クリスマスの日に誕生される主イエスは、まことの人であり、また同時にまことの神であるということです。主イエスはマリアの胎からお生まれになり、わたしたち人間と全く同じまことの人として、わたしたち罪を背負って生きている人間たちの一人となってくださいました。わたしたちすべての人間の罪を担って、裁かれ、死の判決をお受けになり、十字架で死んでくださったのです。また、2節の「いと高き方」とは神のことです。主イエスはおとめマリアの胎から聖霊によってお生まれになった神のみ子であり、まことの神です。主イエスはまことの神として、罪と死とに勝利され、死んで三日目に墓の中から復活され、わたしたち信じる者たちの復活の初穂となって、わたしたちに復活の命を約束してくださったのです。

 32、33節で語られているもう一つのことは、主イエスは神がかつてダビデに約束された永遠の王座に就かれるという約束です。この約束は旧約聖書サムエル記下7章12節に以下に書かれている、いわゆる「ダビデ契約」と呼ばれているものです。すなわち、主イエスは罪と死とに勝利されて、永遠の王国である神の国において、すべての信じる者たちを治める唯一の王となられるであろうとの約束です。

 この神の約束、契約が成就されるにあたって、もう一つの神の奇跡があります。27節に、「ダビデ家のヨセフ」と書かれていました。ヨセフはダビデ王の家系に属していました。とは言っても、ダビデ王家はもうすでに600年も前に滅びており、その末裔は全地に散っていて、だれも注目する人はいなかったのですが、でも確かにヨセフはダビデの家系に属するということがルカ福音書3章23節以下とマタイ福音書1章1節以下の家系図で確かめられています。ダビデ王家が完全に滅びてから長い年月を経てのち、しかし神は切り倒された木の切り株から出る小さな芽のように、まさに無から有を呼び出だすようにして、死から命を生み出されるようにして、み子主イエス・キリストによって全人類のための救いのみわざを成し遂げられたのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの救いのご計画は永遠に続きます。あなたがみ子主イエス・キリストによって成就された救いのみわざは、今もなお全世界で続けられています。あなたが全世界にお立てくださった主キリストの体なる教会をお用いくださり、あなたの救いの恵みがすべての人たちへと宣べ伝えられますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

11月23日説教「律法学者の偽善を見抜かれる主イエス」

2025年11月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:歴代誌下24章17~22節

    ルカによる福音書11章45~54節

説教題:「律法学者の偽善を見抜かれる主イエス」

 きょうの礼拝で朗読されたルカ福音書11章46節に、「イエスは言われた。『あなたたち律法の専門家も不幸だ』」と書かれています。同じようなみ言葉は次の47節にも「あなたたちは不幸だ」とあり、また52節でも「あなたたち律法の専門家は不幸だ」と繰り返されています。それだけでなく、前回学んだ42節にも、「それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ」とあり、43節でも「あたたたちファリサイ派の人々は不幸だ」、44節にもう一度「あなたたちは不幸だ」と、合計6回、律法の専門家とファリサイ派の人々に対する「不幸だ」という言葉が語られています。

 「不幸だ」と訳されているもとのギリシャ語は、「ウーアイ」と発音します。これは一種の、嘆きや怒りを表現するうなり声で、「ああ、なんという災いであることか」という意味合いの言葉です。『口語訳聖書』では「わざわいである」と訳され、さらに古い『文語訳』では、「災いなるかな」と訳されていました。そうすると、この言葉は「幸いなるかな」という主イエスのお言葉と対比されているということに気づきます。実際に、主イエスはこの福音書の6章で、二つを対比させて語っておられました。その箇所を開いてみましょう。【6章20~26節】(112ページ)。ずっと以前にkoの箇所を学びましたが、「幸いである」という主イエスのお言葉は、天の父なる神から与えられる幸いのことであり、この地上にあるどんな幸いよりもはるかにまさって、何ものによっても再び奪い取られることも消え去ることもないような永遠の幸いのことであり、「幸いなるかな」とは、主イエスはその幸いを信じる信仰者たちに確かにお与えくださるという約束の言葉なのであるということを学びました。主イエスはその永遠の幸いをわたしたちにお与えになるために十字架で死なれ、三日目に復活されたのです。

 「災いなるかな」はそれとは正反対の内容ですから、この世の人間の基準で

考えて、この人は災いだ、不幸だというのではなく、天の父なる神から与えられる災い、あるいは呪い、裁き、さらに言うならば死の判決、そのような神の厳しい断罪を意味する言葉なのです。では、なぜ主イエスはファリサイ派や律法の専門家に何度も繰り返して「あなたがたは災いだ」と言われるのでしょうか。

 その理由を学んでいくにあたって、初めに一つ確認しておくべきことがあります。それは、主イエスはわたしたちに対して天の父なる神からの幸いを語ることができると同時に、また天の父なる神からの災いをも語ることができるお方だということです。また、それをわたしたちに与えることができるお方だということです。なぜならば、主イエスは神み子であられるからです。主イエスは聖霊によっておとめマリアの胎内に宿り、その命は完全に神からの命として、神ご自身の命として誕生されました。地上のすべての歩みもまことの人でありながらまた同時にまことの神として生きられました。そして、地上の歩みの最後に、わたしたち罪びとである人間のすべての罪をご自身に担われ、わたしたちに代わって神の裁きを受けられ、十字架で死なれました。しかし、三日目に死の墓から復活されました。無から有を呼び出だし、死から命を生みだされる神のみ力によって、罪と死とに勝利されたのです。わたしたちのためにご自身の命をもささげ尽くして、わたしたちを罪と死の裁きから救い出してくださった主イエスであられるからこそ、わたしたちに幸いを語り、また災いをも語ることがお出来になるのです。

 ここで、ファリサイ派と律法の専門家のことを簡単に説明しておきます。当時のイスラエルのユダヤ教はファリサイ派とサドカイ派との二つの大きな派に別れていました。サドカイ派はエルサレムの神殿で仕える祭司たちが中心でした。フアリサイ派は旧約聖書に書かれているモーセの律法やそれ以後に付け加えられたさまざまな教えや伝統を厳格に守ることを重視していました。その中の律法の専門家(『口語訳聖書』では律法学者といわれていました)は律法を詳細に研究し、さらに細かな規定をつくり、その解釈をする権限を持っていました。

 彼ら二つの教派は宗教的な地位はもちろん、社会的地位も高く、民衆からの尊敬を受け、また裕福であり、皆一様に、自分たちの生き方、考え方には自信を持っており、それを誇ってさえいました。先ほど読んだ6章で、主イエスが「あなたがたは不幸だ」と言われていたことがすべて彼らに当てはまるということが分かります。「富んでいるあなたがたは不幸である」、「今満腹しているあなたがたは不幸である」、「今笑っているあなたがたは不幸である」、「すべての人のほめられるとき、あなたがたは不幸である」、そのすべてが彼らに当てはまっています。

他方、多くの一般の民衆は、日常の生活を維持するだけで精一杯、律法や細かな規定を厳格に守ることはできず、彼ら宗教的エリートからは軽蔑的な言葉で「地の民」と呼ばれていました。彼らは、主イエスが「幸いである」と呼びかけられている貧しい人々であり、今飢えている人々であり、今泣いている人々でした。しかし、主イエスは彼らに幸いを約束され、神の国を約束されました。

主イエスが幸いと災いを考える基準はファリサイ派や律法学者とは全く違っていました。おそらくは、今日のわたしたちの基準とも違っているでしょう。そのことに注目しながら、主イエスが「災いだ」と語られたみ言葉を読んでいきましょう。

 42節から読んでいきます。【42節】。イスラエルの民は神の強いみ腕によってエジプトの奴隷の家から導き出され、神が約束されたカナンの地を受け継ぎました。その地は神から賜った地であり、その地から収穫されたすべての収穫物も神からの賜物でした。イスラエルの民はそのことを神に感謝して、収穫の初穂と、全収穫の10分の1を神におささげしました。そのことを定めた律法はレビ記や申命記の中の各所に記されています。

 当時の律法学者はこの律法をさらに細かく規定して、はっかやうんこうなどの小さな野菜にまで範囲を広げ、彼らは几帳面にそれを実行し、自分たちはここまで厳格に律法を守っているのだと誇っていたのです。それが自分たちの信仰の深さだと見せつけていたのです。

 けれども主イエスは言われます。「そのような細かなことにこだわっているあなたがたは、律法の最も根幹であり、中心である、神とあなたの隣人とを愛しなさいという律法には、全く心を用いていない。それを守ってもいないではないか」と。確かに彼らはそうでした。彼らは自分たちの信仰を他の人に見てもらうために、他の人からの誉れを求めて、神の律法を道具として利用しているだけで、神に対する信仰も服従も感謝も伴っていなかったのです。

マタイ福音書では、主イエスは彼らを「偽善者たち」と呼んでいます。偽善者とは、「仮面をかぶって自分ではない他の人物を演じる」という意味を持っています。それは神を欺く最も深い罪だと主イエスは言われるのです。主イエスがお求めになるのは、仮面をつけたわたしではなく、いわば素顔のわたしです。おそらくは、罪に満ちており、失敗や過ち、破れや欠けが多くあるであろうみすぼらしいわたしであるかもしれないけれども、神のみ心を知らず、傲慢で、他者を傷つけることが多いわたしであるかもしれないけれども、そのわたの素顔を、主イエスは見ていてくださるのです。そして、そのようなわたしを受け入れてくださるのです。そのようなわたしをも愛してくださり、そのようなわたしのために主イエスはご受難の道を歩まれ、十字架で死んでくださったのです。そして、わたしの罪をゆるしてくださり、わたしが喜んで神と隣人とにお仕えする人へと、わたしを新しく造り変えてくださるのです。それゆえに、わたしは別のだれかを演じる必要はありません。主イエスは、ほかでもないこのわたしを愛してくださるからです。

次に、【46節】。ファリサイ派と律法学者は、宗教的にも政治的にも民衆の指導者でした。主なる神から、民衆を神礼拝へと導く務めを託された人たちでした。そうであるのに、彼らは民衆に律法を守れと命じ、さらに細かな規則をたくさん作っては彼らに重荷を負わせ、それを守らない人たちを非難し、神の国から遠ざけることをしていました。それは、主なる神に対する最も悪意に満ちた反逆であり、罪でした。民衆の指導者である彼らこそが、民衆の苦しみや痛みをよく知り、それを思いやり、彼らと共に歩むようにと、神からの務めを託されているのです。彼らを慰め、励まし、彼らの重荷を共に負うように召されているのです。「すべて重荷を負い、苦労している人はわたしのものに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」と言われた主イエスにならうべきなのです。しかし、彼らはそうしていませんでした。それゆえに、彼らは神の呪いを受けて滅びなければならないと、主イエスは言われるのです。

主イエスは47節から、もう一つの彼らの偽善と罪の実例を挙げています。【47~51節】。51節の「アベルの血」とは創世記4章に書かれている兄のカインが弟アベルを殺したという、聖書に書かれている最初の殺人で流された血のことです。「ゼカルヤの血」とは、歴代誌下24章21節に書かれている、祭司の子ゼカルヤが迫害を受けて神殿の庭で殺されたことを指します。当時のユダヤ教のヘブライ語原典の編集では歴代誌が最後に配置されていましたので、時代的には最後に流された血というわけではありませんが、聖書の最初と最後に書かれている殺人で流された血という意味で、その間に迫害を受けて殉教した多くの預言者たちの血をすべて含んで、その血の責任が今のあなたがたにあるのだと、主イエスは言われるのです。なぜならば、彼ら宗教の指導者たちは、自分たちが先輩の偉大な預言者たちと同じように、主なる神にお仕えしている証しとして、預言者たちの墓を勝手に作っては、その墓を飾っていたからです。

主イエスがここで彼ら宗教的指導者たちの偽善と罪とを厳しく非難しておられるのは、彼らは預言者たちの墓を飾ってお祭り騒ぎをしているけれども、彼らは預言者たちが語った神の言葉そのものには全く耳を傾けていないからなのです。預言者たちは人々に対して、自分の罪を告白して、悔い改めて、神に立ち帰りなさいと語りました。けれども、彼らは悔い改めず、かえって、神の言葉を語った預言者たちを迫害し、殺しました。それと同じように、今あなたがたも、自分の罪に気づこうともせず、むしろそれを、仮面をつけて覆い隠し、あたかも罪がないかのように演じている、その偽善的信仰こそが、神の怒りを受けて、厳しい裁きを受けなければならないのだと、主イエスは言わるるのです。

主イエスがここで求めておられる真実の信仰とは、わたしの罪のために死んでくださった主イエスを、わたしの救い主と信じる信仰にほかなりません。主イエスがわたしのすべての罪を代わりに背負ってくださり、わたしに代わって裁きを受けてくださり、それゆえにわたしは今や罪ゆるされ、救われていることを信じ、その救いの恵みを神に感謝する信仰、その信仰をこそ主イエスはわたしたちに求めておられるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちは自らの罪に気づくこと遅く、悔い改めてあなたに立ち帰ることが少ない、傲慢で、かたくなな者であることをみ前に告白いたします。どうか、わたしたちの罪をおゆるしください。み子主イエス・キリストによって、わたしたち罪からお救いください。そして、これからのちは、喜んで主なる神であるあなたと、あなたがお与えくださった隣人に、心からお仕えする者としてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

11月16日説教「イエス・キリストの恵みによって使徒とされたパウロ」

2025年11月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書52章7~10節

    ローマの信徒への手紙1章1~7節

説教題:「イエス・キリストの恵みによって使徒とされたパウロ」

 パウロがローマの信徒への手紙を書いた主な目的は、ローマ教会訪問の前に、まだ会ったことがないローマの教会員に自分を知ってもらうこと、それと同時に、自分がこれから携えていく主イエス・キリストの福音がどのようなものであるのかを知ってもらうこと、そして、ローマ教会を拠点としてさらに西の果てイスパニア(今のスペイン)にまで福音を宣べ伝えるという自分の計画をあらかじめ知ってもらい、そのためにローマ教会の協力を得たい、これが手紙を執筆した主な理由でした。きょう学ぶ5節では、自分がどのようにしてイエス・キリストの使徒とされたのかについて語っています。

 【5節】。パウロはすでに1節でこのように自己紹介をしていました。【1節】。この1節で自己紹介は済んでいたはずなのに、5節で更に自分の使徒としての務めについて付け加えていることになりますが、実はこの箇所は2節の冒頭にあるように、「この福音」つまり1節の「神の福音」を説明する2節から6節までの長い挿入文であって、神の福音である主イエス・キリストのことを語っている個所になります。その主イエス・キリストを語る中で、「この方により……恵みを受けて使徒とされました」と自分のことについて触れているわけです。つまり、「神の福音」である「御子、主イエス・キリスト」のお働きの一つとして、パウロが使徒として召されたことがあるというのです。

 そしてまた、続く6節では、もう一つの主イエス・キリストのお働きとして、【6節】と付け加えられています。パウロが使徒として召されたことも、ローマの教会員が異邦人の中から選ばれて主キリストのものとなるように召されていることも、共に主イエスのお働きなのであり、主イエスによる召し、招きなのであり、それによってパウロとローマの教会とは、互いにまだ直接にあったことはないけれど、また何百キロメートルも離れているけれども、両者は固く信仰によって結ばれているのです。

 パウロは6節で「わたしたちは」と言っていますが、これはいわば文学的表現で、パウロ自身を指しています。自分が特別に異邦人に対して福音を宣べ伝える務めを託されているという強い自覚がこの言い方に込められているのかもしれません。

 「この方により」とは、2節から4節で語られていた神のみ子であり、ダビデの子孫から生まれ、死者からの復活によって力ある神のみ子と定められた主イエス・キリストによって、という意味です。パウロが使徒となったのは、自分がそうなりたいと願ったからではありませんでした。だれかに勧められたからでもなく、だれかに命令されてでもありません。死者の中から復活された主イエス・キリストからの直接の任命によって使徒とされたのだとパウロは言うのです。

 すでに1節の自己紹介で「召されて使徒となったパウロ」と書いたのに加えて、この5節でも「この方によって、恵みを受けて使徒とされた」と、自分が使徒であることを繰り返し語っていることには、理由があります。というのは、パウロは主イエスの本物の使徒ではないという意見が彼の周囲には少なからずあったからです。パウロは地上の主イエスと会ったことも、その説教を聞いたこともありませんし、もちろん主イエスの12人の弟子でもありません。それだけでなく、彼はキリスト教会を迫害するユダヤ教ファリサイ派の学者であり指導者でした。だから、彼は自称の使徒であり、使徒としての権威もなく、彼が教えている内容も本当に主イエスの教えなのか疑わしい。彼は使徒であることを自称して世の評判を求めているに過ぎない。そのようにパウロを批判する人たちがいたということが、パウロ自身が書いた書簡から明らかです。

 では、実際にはどうであったのかと言いますと、使徒言行録9章に、パウロが復活の主イエスと出会ったことが書かれています。彼は、キリスト教会を迫害し、信徒たちを捕らえて牢獄に閉じ込めるために、エルサレムから北のダマスコの町に向かっている途中に、突然天からの強い光に照らされ、彼は地に倒れました。とのとき天から声がありました。「サウル、サウル(これはパウロの古い呼び名でした)、なぜわたしを迫害するのか」。それは、復活された主イエスの呼びかけでした。その後、パウロが起き上がると、彼は主イエスのみ名をイスラエルやすべての国々の人々に宣べ伝える器として選ばれた者であることを復活の主イエスから伝えられたのです。

 このようにして、迫害者であった彼が主イエスの福音の宣教者に変えられた経験をしたパウロは、ガラテヤの信徒への手紙1章1節では自らをこのように紹介しています。「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」。更に、1章15、16節ではこのように書いています。「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによりって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、この福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき」。

 このように、パウロがイ主エス・キリストの福音を宣べ伝える使徒とされたのは、徹底して父なる神とみ子主イエス・キリストによることなのだと、パウロは繰り返して語っているのです。しかし、それがパウロの誇りになるのでは決してなく、彼は神の恵みの前に徹底して謙遜になり、自分は使徒と呼ばれる資格も値打ちもない者であり、ただ「神の恵みによって今日のわたしがある」(コリントの使徒への手紙15章9節)のであるから、その神の恵みが無駄になることがないように、他のすべての使徒たちよりも熱心に働いてきたのだと、彼は別の手紙の中で書いています。

このように、パウロが使徒として召されたことを語る際に、きょうの箇所でもガラテヤの使徒への手紙でも、また他の書簡でも共通していることは、死者の中から復活された主イエスとの関連で語っているということです。教会の迫害者であったパウロが、主イエスの福音を宣べ伝える宣教者へと変えられたことは、まさに死からの復活に等しいと言えます。それは、無から有を呼び出だし、死から命を生み出される全能の父なる神のみわざなのです。神はその偉大なる力によって、復活の主イエスとの出会いをとおして、パウロを新しい命に生かしてくださり、新しい使命に生きる者としてくださったのです。そのような神の偉大なる力は、今日も、復活の主イエスとの出会いをとおして、わたしたち一人一人に働いているのです。

では、きょうの5節のみ言葉に戻りましょう。パウロはここでも、自分が異邦人のための伝道者であると自覚していることを語っています。手紙を受け取るローマの教会も、次の6節から推測すると、多くはユダヤ人以外の異邦人、ギリシャ人であったと思われますから、彼がそのことを強調する理由にもなっているのでしょう。実際にパウロは、使徒言行録9章の記録でも、また彼の書簡でも、自分は異邦人のために遣わされている使徒であることをしばしば語っています。

でも、そのこととは別に、パウロは神がイスラエルの民を選ばれたという、神の選びの重要性についても語っています。神は全世界の民の中からイスラエルを選ばれ、この民と契約を結ばれ、この民をとおして救いのみわざを行われました。そのことを書いているのが旧約聖書です。そして、神はこの今の時になって、その救いのご計画を最終目的に至らせるために、ご自身の一人子なる主イエス・キリストを世にお遣わしになって、全世界のすべての人のための救いのみわざを成就されました。主イエスの十字架の死と復活によって、その救いが成就されたのです。

パウロは神のこの救いの順序、秩序を重んじました。そして、宣教活動にために新しい町に入ると、まずユダヤ人の会堂で、ユダヤ人に対して主イエスの福音を語りました。わたしたちは使徒言行録の学びをとおしてそのことを知らされています。けれども、ユダヤ人は主イエスの福音を信じませんでした。パウロたちを迫害し、町から追い出しました。そこで、パウロの足は異邦人、ギリシャ人へと向かったのでした。パウロが異邦人の伝道者となったのは、彼の選択とは決意とかによるのではありませんでした。それが神の救いの秩序とユダヤ人の罪のゆえでした。それはまた、神の永遠なる救いのご計画でもあったのです。それゆえにパウロは常にユダヤ人の救いのために祈り続けました。神はユダヤ人も異邦人も、全世界のすべての人が主イエスの福音を聞いて罪を悔い改め、救われて、神の民となることを望んでおられます。パウロも、そしてわたしたちも、そのために仕えるようにと召されているのです。

パウロは使徒としての務めを、「その御名を広める」ためであると言います。この箇所を直訳すると「彼のみ名のために」であって、広めるという言葉は本来ありません。もちろん、主イエスのお名前を世界に広めるということも含んでいると思いますが、主イエスのお名前が崇められ、賛美されるために、その御名の栄光のために、またそのお名前が真実に告白されるために、ということも含まれるでしょう。当時の世界では、ローマ皇帝の名が崇められ、皇帝の名前と顔が刻まれた銀貨が流通していました。皇帝の名前には、「主」という言葉をつけて呼ばれていた中で、しかし、キリスト者はそうではなく、主イエス・キリストこそが全世界の唯一の主であり、崇められ、礼拝され、賛美されるべき唯一の方であり、主と告白されるべき唯一の方であると告白しました。

「信仰による従順へと導くために」という言葉の中には、パウロの信仰理解の特徴がよく表れています。信仰とは、ただ漠然と神の存在を信じるとか、何かの真理や信条を信じるとか、あるいは何か宗教的な感情に浸るということではなく、信じている神のみ心を知り、それに従って生きること、神のみ言葉への従順な服従なのだとパウロは言います。けれども、その服従は信仰による服従でなければなりません。信仰を伴わない服従は悪しき服従であり、悪魔的な服従であり、そこには本当の喜びも感謝もありません。主イエス・キリストを信じる信仰によって、主イエスの救いの恵みを知らされ、主キリストの十字架と復活によって示された神のみ心に服従することは、自由と喜びと感謝に満ちた服従です。この信仰による服従こそが、わたしたち本当に生かし、他のすべての束縛から自由にするのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちを主イエス・キリストによる救いの恵みによって罪の奴隷から解放してくださり、自由と喜びとをもってあなたと隣人にお仕えする者としてくださったことを感謝いたします。どうか、わたしたち一人一人をも、主イエスの福音を持ち運ぶ働き人としてお用いくださいますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

11月9日説教「生涯の日々を正しく数える知恵を与えてください」

2025年11月9日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

             逝去者記念礼拝

聖 書:詩編90編1~17節

    ペトロの手紙一1章22~25節

説教題:「生涯の日々を正しく数える知恵を与えてください」

 詩編90編の詩人は10節でこのように言っています。「人生の年月は七十年程のものです。健やか人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります」と。この詩人は、表題によればモーセという古い時代のイスラエルに生きた人です。紀元前13世紀ころの信仰者ですから、今から3500年以上も前の人ですが、人間の一生を考える感覚は、今日のわたしたちと全くと言ってよいほど変わりません。現代に生きている、年を重ねた多くの人たちも、このモーセと同じように、「わたしは70年間、もう少しで80年間、一生懸命に生きてきたけれど、苦労が多かったなあ、失敗も多かったなあ。だけど今振り返れば、あっという間だったような気がする」という言葉で、その人の一生を語るのかもしれません。多くの人がこの詩人に共感することでしょう。

そこで、さらに読み進めていくと、12節では詩人はこう言います。【12節】。ここで詩人は、彼がこれまで生きてきた70年、80年の生涯を振り返りながら、自分のすべての人生の歩みが、いったいどんな意味があったのだろうか。そして、残されたわずかの日々を、どのように生きていったらよいのだろうか、と深く考えながら、彼は「どうかわたしに人間として知るべき本当の知恵を与えてください」と願い求めているのです。では、ここで詩人が、「どうぞわたしに教えてください」と願っている相手は、だれでしょうか。それは、彼がこの詩の冒頭で呼びかけている相手です。「主よ、あなたは」と呼びかけている、主なる神のことです。詩人は、主なる神に対して、「主よ、どうぞわたしに、わたしの生涯の日々を正しく数える知恵を与えてください」と、祈り求めているのです。「なぜならば、その知恵を与えることがお出来になるのは、主なる神よ、ただあなたお一人だからです。そして、もしあなたからその知恵を与えられなければ、わたしの70年、80年の生涯の意味を、正しく理解することができず、正しく受け止めることができないからです。また、これからの残されているわずかな生涯を正しく生きることもできないからです」と、この詩人は言うのです。

では、「生涯の日を正しく数える知恵」とは、どのような知恵のことでしょうか。これが、きょうの逝去者記念礼拝の日の説教の中心、ポイントです。ご一緒に、詩編90編のみ言葉から、この問いの答えを見いだしていきましょう。

「知恵」という言葉は、旧約聖書の中では非常に重要で、また深い内容を持つ言葉です。旧約聖書の中には知恵文学に分類される文書があります。ヨブ記や、コヘレトの言葉、また箴言、詩編の一部も知恵文学に分類されます。イスラエルの人たちは「知恵」という言葉によって、人間がなぜ生きるのか、あるいはどのように生きるべきなのか。また、なぜ死ぬのか、なぜ苦しんだり迷ったりするのか。なぜ神を信じるのか、どのように神を信じるべきなのかという課題を取り扱いました。「知恵」はまさに人間を深く知ること、神を深く知ること、信仰を深く知ることに深くコミットメントしています。

箴言1章7節には、「主を恐れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」とあり、2章6節には、「知恵を授けるのは主。主の口は知識と英知を与える」と書かれています。人間が人間として知るべき知恵は、ただ主なる神からのみ与えられる。他の人間からも自然や宇宙からも、他のいかなるところからも本当の知恵は与えられない。そして、人間は神から与えられる知恵によって生きるときにこそ、本当の人間として、その人の人生を生きることができる。そのことを箴言は繰り返して教えているのです。

さて、では、本題です。「わたしの生涯の日々を正しく数える知恵」とはどのような知恵のことなのでしょうか。詩編90編の最初から改めて読んでいきましょう。そうすると、すぐに気づくことがあります。それは、この詩人は人間としての自分を考えるに際して、自分を主なる神との関係の中で考えているということです。【1~2節】。人間は人間仲間だけで生きているのではありません。他の生き物、自然、環境などとのかかわりの中で生きています。それ以上に、人間は主なる神との関係の中で、その神の大きなみ手の中で生きているのだというのが、この詩人の信仰です。

その信仰から、彼はさらに次のことを教えられます。神は天地万物を創造され、それらのすべてを今もなおご支配しておられる。その神の偉大さ、永遠性、普遍性、そして無限性に比べると、人間である自分はなんと小さく、弱く、はかなく、限りある存在であることか。詩人は3節からそのことを告白せざるを得ません。【3~6節】。天地万物を創造され、そのすべてをみ手に治めておられる神、生きるものすべての命を支えておられる神、その神の偉大さ、無限さ、永遠なる存在の前では、人間は朝に花を咲かせ、夕べにはしおれる草花に過ぎない。そのことを知ること、それこそがわたしたち人間が神から教えられる知恵なのだと言ってよいでしょう。

人間は、全能で永遠なる神のみ前に立つとき、そのみ手の中に包まれるときに、初めて自らの小ささ、はかなさを教えられるのです。そうでなければ、人間はどこまでも傲慢で、自らの有限性に気づかず、自ら死すべき者であることを忘れて、自らを小さな神々のように錯覚してしまうのです。聖書はそれこそが、神を忘れた人間の罪だと言うのです。

この詩人は、神のみ前での自らのはかなさ、死すべき存在を自覚させられるとともに、それだけでなく、それが人間の罪に対する神の怒りの結果であることをも知らされます。彼の告白はいよいよ深刻になります。【7~11節】。神のみ手の中にある人間、神のみ前に立たされている人間が、自らをどのような人間であるのか自覚させられるとき、その究極は、人間が神に背き、神から離れている罪びとであるということを知ること、神の怒りと裁きの前で消え去り、死すべき人間であることを知ること、これこそが人間が神から教えられる最大の知恵なのだと、詩人は告白しています。

そうしますと、きょうの説教の最初に読んだ10節のみ言葉は、単に人生のはかなさを嘆いたり、あるいは人生の無常を情緒的に歌ったのではなく、もっと深刻な、人間の死すべき存在、人間の罪の存在を、恐れとおののきとをもって告白していた言葉であったということに、わたしたちは気づかされるのです。

そしてまた、そのような人間の深刻な罪の存在を告白する詩人の祈り願いであるからこそ、12節の、【12節】という彼の祈りの真剣さが伝わってくるのです。「主なる神よ、ぜひとも、わたしのこの祈り願いをお聞きください。わたしのこれまでの生涯の日々を正しく数え、またこれからの残されているわずかな生涯の日々をも正しく数える知恵をあなたから与えられなければ、わたしのすべての生涯は空しく飛び去り、意味なく消え去っていくしかないのですから」。これが詩人の切なる祈り願いなのです。

では、これまで学んできたこの詩編の内容から、「生涯の日を正しく数える知恵」とはどのような知恵なのかを、探っていきましょう。一つには、数を数えるということは、1から数え始めて、最後は70になるか、または80になるか、あるいはそれ以上になるかは別として、いずれにしてもその数には終わりがくるということ、つまり、わたしの生涯には終わりがあるということ、わたしは死すべき存在なのだということを知ること、それが人間が知るべき知恵の第一であるということです。

わたしたち人間はしばしばそのことを忘れています。それを忘れるということは、本当は愚かなことであり、だれでもが簡単に気づくべきことなのに、人間は意識的にも無意識的にも、そのことを忘れています。そのことが人間の途方もない傲慢さを生み出し、神の存在をも脅かすほどの恐るべき悪や狂気を生み出し、世界の歴史を暗黒の狂乱と戦争、殺戮へと導くのです。

しかし、詩人は願うのです。「わたしの生涯には限りがあり、わたしは死すべき存在であるゆえに、どうか主なる神のみ前にあって、わたしを謙遜なものにしてください。神を恐れる者にしてください」と。

もう一つのことは、わたしに与えられたこれまでの70年、80年、あるいはまだ数十年の人もいるでしょうが、その過去の一日一日を数える知恵のことです。すなわち、わたしが歩んできたわたしの生涯のすべての日々、その一日一日のすべてが、神のみ手の中にあったのであり、神の恵みと導きの日々であったということを知り、その一日一日を神に感謝する日として数えるということです。あの時の苦しみのときにも、悩みのときにも、孤独であったときにも、神はわたしを忘れてはおられなかった。わたしをお見捨てにはならなかった。あるいはまた、わたしの失敗や過ちのすべてをも、神は覚えておられ、それでもわたしから離れなかった。その神が共に歩んでくださった過去の日々を、一日一日と数えて、神に感謝すること、これが人間に与えられている知恵なのです。

そして第三に、わたしの残されているあとわずかな生涯の歩み、あるいはこれから何十年も続くであろうわたしの生涯の歩みの一日一日を数えて、その日に与えられるであろう神の恵みと導きとを信じ、それを数えて生きていくという知恵です。

詩人は13節以下でこのように願っています。【13~17節】。神の慈しみは永遠に続きます。わたしが経験した多くの苦難や災いにもはるかにまさって、神の慈しみはわたしの人生を満たし、わたしの人生に意味を与え、わたしに喜びを与えます。わたしの生涯の終わりまで、神の慈しみは絶えることはありません。それのみか、わたしの生涯が終わったのちにも、神の慈しみはわたしから離れません。そのことを知る知恵こそが、わたしの生涯のすべての歩みを満たし、そしてまた、わたしに与えられている永遠の命の約束を確かにするのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちをきょうの逝去者記念礼拝へとお招きくださいました幸いを心から感謝いたします。あなたがこの秋田の地にわたしの教会をお建てくださり、多くの信仰者をここにお集めくださいました。わたしたちは今、彼ら多くの信仰の先達者たちに雲のように囲まれています。どうか、この教会の歩みを更にお導きください。きょうの礼拝に集まったすべての人にあなたからの祝福が豊かに与えられますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

11月2日説教「エルサレム使徒会議の決議と使徒通達」

2025年10月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:レビ記17章10~14節

    使徒言行録15章22~35節

説教題:「エルサレム使徒会議の決議と使徒通達」

 紀元48年か49年ころに開催されたエルサレム使徒会議は、二つの重要な意味を持っていました。一つは、当時の原始キリスト教会、初代教会とも言いますが、そこで大きな問題となっていたユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の間の信仰理解の違いからくる論争と分裂の危機に、この会議によって一定の共通理解が与えられ、原始キリスト教会が主イエス・キリストの福音のもとで一致することができたということです。第二には、のちの二千年にわたる全世界のキリスト教会にとって、教会の諸問題や諸課題に取り組む際に、教会の代表者が集まり、会議を開いて、話し合いによって事の解決を図るという、教会会議の原形がここで示されたということです。この二つのことは、今日のわたしたちの教会にとって、どれほどに有意義であったか、どれほどに世界の教会の存在を支え、健全に導く役割を果たしているか、そのことはどんなに強調しても強調し過ぎることはありません。

 きょうは、エルサレム使徒会議がのちの教会の歩みに与えた大きな意味を考えながら、その会議で決議されたことと、その決議を他のすべての教会に伝達するために作成された「使徒通達」と言われる文書について学んでいきます。

 会議に出席したメンバーは、現地のエルサレム教会からは使徒ペトロ、彼はエルサレム教会の指導的な立場にありましたが、それと主イエスの肉親の弟で、ペトロのあとにこの教会の指導者となったと考えられている長老のヤコブ、このヤコブが会議の議長を務めたと推測されます。それにユダヤ教のファリサイ派から信者になった何人かの長老たち。一方、エルサレムから北へ5、600キロのアンティオキア教会からは、使徒パウロとバルナバ、それに数人の長老たちでした。このほかの教会からの出席者があったかどうかは、具体的には記されてはいませんが、この会議に集まった議員たちは、当時パレスチナ地域だけでなく、地中海沿岸と小アジアの各地に広がっていた全世界の教会の代表者であるとの意識を、強く持っていたことは確かです。

 エルサレム教会とアンティオキア教会の成り立ちについて確認しておきましょう。エルサレム教会は、紀元30年ころ、主イエスがエルサレムで十字架につけられ、死んでから三日目に復活され、50日後のペンテコステのときに弟子たちの上に聖霊が降り、エルサレムに集まっていた3千人余りのユダヤ人がペトロの説教を聞いて、主イエスの福音を信じ、洗礼を受けてキリスト者となった、その時に誕生した世界最初の教会がエルサレム教会でした。教会員の全員がユダヤ人であり、かつてはユダヤ教の信者であり、神に選ばれた契約の民のしるしである割礼を受け、また旧約聖書の律法を重んじていました。彼らの多くはキリスト者になってからも、かつてのユダヤ教の教えや慣習を捨てきれずにいました。

 アンティオキア教会は、それから10年ほど後、エルサレム教会で起こった大迫害によって、使徒以外の多くのユダヤ人キリスト者がエルサレム市内から追放されたのですが、その何人かがアンティオキアまで逃れて来て、そこでユダヤ人以外のギリシャ人にも主イエス・キリストの福音を語り、多くのギリシャ人が洗礼を受けてキリスト者となりました。そのようにして誕生したのがアンティオキア教会ですから、そのメンバーのほとんどはギリシャ人でした。したがって、彼らは割礼を受けていませんでしたし、律法やユダヤ教の慣習を守るということもありませんでした。アンティオキア教会には、ペトロやバルナバのようにユダヤ人からキリスト者になった人もいましたから、各地に誕生した教会の多くも、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が一緒に教会生活をしていたと思われます。

したがって、エルサレム使徒会議で協議されたことは、エルサレム教会とアンティオキア教会だけの問題ではなく、全世界の教会の課題であったのです。すなわちそれは、異邦人にも割礼と律法が必要なのかどうか、ユダヤ人のように割礼を受け、律法とユダヤ教の慣習を守るように義務付けるべきかどうか、そうしなければ異邦人の信仰は不十分であり、救いは不完全なのかどうかという問題です。

使徒言行録15章7節以下の使徒ペトロの証言も、12節のパウロとバルナバの証言も、そして13節以下のヤコブの証言も、主イエス・キリストの十字架と復活の福音は、全世界のすべての人の救いにとって十分であるから、異邦人に割礼や律法の重荷を負わせるべきではなく、その必要もないということで一致していました。

 議長の役を務めたヤコブは、その結論とともに、20節で次の項目を付け加え、それを文書にして諸教会に届けることを提案しました。【20~21節】。前回にもお話ししましたように、ヤコブがなぜこの項目を付け加えたのかの理由については、はっきり分かっていません。会議で最終的に決議された内容は、異邦人には割礼も律法の重荷をも負わせないというものであったはずなのに、ヤコブは20節で、旧約聖書のレビ記などに書かれている律法を守らせる必要があると言い、また21節でもユダヤ教の慣習を持ち出していますので、これが会議全体の決議に基づくものなのか、それともヤコブ個人の意見が反映されているのかは不明ですが、いずれにしても、会議での決議からは少しそれて、ユダヤ人キリスト者の理解に傾いているという印象はぬぐえません。

 このヤコブの提案については、今日の研究者の間でも種々の議論がありますが、結論的に言えることは、このエルサレム会議で初代教会のユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の間の信仰理解の違いとそこから生じる諸問題のすべてが解決されたわけではないということです。そのことは、あとで見るように、パウロの書簡からも確認できます。

 議長ヤコブの提案により、エルサレム会議の決議とヤコブが提案した20節の付帯事項とを書簡にしてアンティオキア教会やその他の教会に通知することになりました。パウロとバルナバ、それにエルサレム教会から派遣されたバルサバと呼ばれるユダおよびシラスが書簡を携えて、この書簡は「使徒通達」とか「使徒教令」と言われますが、彼らはまずアンティオキア教会を訪問します。この教会はパウロとバルナバが議員として派遣された教会ですが、今回はエルサレム会議から派遣された使者として、エルサレム教会から派遣された長老たちと一緒に教会員の前に立ちます。

 【23~29節】。ここでは最初に、15章1節に書かれてあったこと、すなわちエルサレム教会からアンティオキア教会に行ったある人たちが、「あなたがた異邦人キリスト者もユダヤ人キリスト者と同じように、割礼を受けなければ救われない」と勝手に語って、アンティオキア教会の人たちを混乱させたことをお詫びすることから始まっています。彼らはエルサレム教会から正式に派遣されたのではないということを明確にしています。そして次に、エルサレム会議での決議事項を伝え、さらに議長のヤコブが提案した付帯事項が29節で告げられます。その内容は、20節と少し順序は違いますが、一致しています。

 しかし、28節、29節の表現から解釈すると、会議での決議の中心は、異邦人に割礼を受けさせる必要はないし、律法を守る義務を負わせる必要もない、ユダヤ教の慣例に縛られることもないという内容であったはずなのに、この文章だと29節の付帯事項の方に強調点が置かれているように読めます。なぜもっとはっきりと、のちにパウロがローマの信徒への手紙やガラテヤの信徒への手紙で語っているように、「ユダヤ人であるかギリシャ人であるかに関係なく、あるいはまた割礼があるかないかでもなく、だれであっても、すべての人は律法の行いによって救われるのはなく、ただ主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じる信仰によって、一方的に神から差し出されている恵みによって罪ゆるされ、救われ、神のみ前に義とされ、神の民とされるのだ」と、明確な結論を出せなかったのかと、不思議に思われるかもしれません。パウロがこの付帯事項に賛成したとは、どうしても思えません。今日の研究者たちもこの点に疑問を投げかけています。

 では、パウロ自身はこの付帯事項で言われていることについて、どのような考えをもっていたのか、聖書から確認しておきましょう。

 コリントの信徒への手紙一8章では、偶像の神々にささげられた肉を食することについて書かれています(309ページ)。ユダヤ人は伝統的に異教の神である偶像にささげられた肉は汚れているとして、食べることをしませんでした。もしその肉が、偶像の神々にささげられた後で市場に卸され、うっかりその肉を買って食べると、食べた自分も罪に汚れてしまうと考え、その肉がどこから来たのかを慎重に吟味してからでないと、食べませんでした。しかし、異邦人からキリスト者になった人にとっては、肉はみな同じ肉であって、その汚れが食べて人の中に入ってくることはないと考えました。そこで、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が同じ教会で共同の食卓を囲むということが困難になってきました。このような問題が、初代教会では頻繁に起こっていたのです。。

 パウロはこの問題を取り上げ、教会の中に分裂が起こっていることを嘆いて、8章4節以下でこのように書いています。【4~6節】。天地万物の唯一の創造者なる神と、そのみ子である唯一の救い主なる主イエス・キリストを信じる信仰によって、そもそも偶像なる神は存在しないのだから、どれが汚れた肉であるかそうでないかと吟味することは愚かなことだと言っています。教会は、国や人種の違い、男女の違い、社会的地位の違い、その他あらゆる違いをはるかに超えて、主イエス・キリストを信じる信仰によってこそ、すべて一致するからです。これがパウロの結論です。

 「みだらな行い」については、少し前の5章から6章で取り扱われています。ここでは主に二つのみだらな行いが挙げられています。一つは、5章1節で「ある人が父の妻をわがものにしている」ということ、つまり親と子の近親相姦です。6章15節以下では、神殿娼婦と交わることです。そのいずれも、神から賜った体を大切にしない、それを汚し損傷する行為であるから、みだらな行いを避けなさいと命じたあとで、6章19節でこのように言います。【19~20節】。神から賜っているあなたの体、主イエスの血という尊い代価を支払って買い取られたあなたの体を、聖霊が宿る神の神殿としなさい、その体で神の栄光を現わしなさいと勧めています。

 主イエス・キリストによって罪ゆるされ、新しい命を与えられているキリスト者は、それまでの自分とは全く違った新しい自分に再創造されているのですから、古い倫理や道徳や社会的慣習から解放され、また世にあるさまざまな偶像礼拝から解放されているのであり、そしてまた、罪と欲望からも解放されているのであるから、自由と喜びをもって、神への感謝と献身に生きる者とされているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがみ子主イエス・キリストの御血潮によって、わたしたちを罪の奴隷から贖いだしてくださり、あなたのものとしてくださいましたことを、心から感謝いたします。どうか、わたしたちが再び罪の奴隷となることがありませんように、あなたに固く結びついて、あなたのみ心を行う者としてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

10月26日説教「あなたの内側を清めなさい」

2025年10月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記6章1~9節

    ルカによる福音書11章37~44節

説教題:「あなたの内側を清めなさい」

 主イエスが、あるファリサイ派の人の家に招かれ、食事をされたとき、食前に手を洗わなかったことから、ファリサイ派との間に論争が起こったことが、37節から書かれています。主イエスはファリサイ派の人たちの偽善的な信仰を見抜かれ、彼らに厳しい非難の言葉を語られました。40節では、彼らを「愚か者たち」と呼び、また42節、43節、44節では、彼らを「不幸だ」と決めつけています。「不幸だ」と訳されている言葉は、もう少し厳しい響きを持っています。『口語訳聖書』では「災いだ」と訳されていました。「災いだ」というこの言葉は、主イエスがお語りになった「幸いだ」という言葉と対照的な意味を持っています。「幸いだ」は、天の父なる神から救いと祝福を約束され、その救いへと招かれている信仰者の幸いを意味していますが、それに対して、「災いだ」は、神の最終的な救いを拒んでいる、あるいはそれから外れている滅びの状態、神の永遠の裁きによって呪われている状態を意味している言葉なのです。主イエスは客人として招かれているファリサイ派の人の家で、「あなたがたは愚か者だ」「あなたがたは災いだ」と言われたのです。これはなんという失礼で、また厳しく、激しい言葉でしょうか。

 わたしたちはこの箇所を読むときに、主イエスのみ言葉の厳しさ、裁きの性格を見るように思います。多くの人が主イエスに対して抱いているイメージは、温厚で寛容なお心を持ち、わたしたちにゆるしと慰めのみ言葉をお語りくださる方というのが一般的だと思います。確かに主イエスはそのようなお方ではありますが、それと同時に、主イエスは厳しいお言葉で怒られ、裁かれ、災いをもお語りになります。そして、そのような温厚さと厳しさは、単に主イエスの人間としての性格や感情の二面性というのではなく、そのいずれもが父なる神の権威に基づくものであり、また主イエスの救いのみわざそのものなのです。主イエスがわたしたちを罪から救おうとなさるその熱心さ、あるいは確かさ、豊かさの現われなのです。主イエスは父なる神の権威によって、わたしたちに罪のゆるしと慰めのみ言葉をお語りになり、また、神の権威によってわたしたちの中に潜む偽善を見抜き、裁きのみ言葉をお語りになるのです。主イエスのみ言葉聞くときには、わたしたちはいつでも神の権威の前に立たされ、恐れおののかざるを得ないのです。

 詩編130編の詩人はこのように叫んでいます。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう」と。これはわたしたちの叫びでもあります。しかしまた、わたしたちはこの詩人と共に、続けてこう告白しなければなりません。「しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです」と。わたしたちは今、わたしの中に潜む偽善と罪を見抜き、裁かれる主イエスのみ前に恐れおののきつつ、しかしまた、わたしたちのすべての罪をゆるされる主イエスのみ前に感謝と平安に満たされながら立つことが許されているのです。

 では、きょうの箇所を読んでいきましょう。【37節】。ルカ福音書では主イエスが食事の席に招かれたという場面を数多く記しています。5章29節以下では、12弟子の一人となった徴税人レビの家で、7章36節以下では、あるファリサイ派の人の家で、14章1節以下では、ファリサイ派の議員の家で、食卓に招かれたことが書かれています。また15章2節には、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」とファリサイ派の律法学者たちが主イエスを非難したことが書かれています。主イエスは当時の宗教的指導者たちの家や、社会では罪びととして見捨てられていた人たちとも、しばしば食卓を共にされました。食卓を共にすることは、最も親しい交わりのしるしでした。主イエスは多くの人たちと食卓を共にすることによって、その人たちの近くに接近され、その人の心の中に入られ、親しい交わりを持たれました。そのもっとも典型的な場面は、主イエスと弟子たちとの最後の晩餐であったと言えましょう。わたしたちにとっては聖餐式がそうです。

 ところで、そのような親しい交わりのしるしである共同の食卓の席では、必ずと言ってよいほど、何かの対立や論争が引き起こされるということを、わたしたちは確認することができます。きょうの箇所では、主イエスが食前に手を洗わなかったということからファリサイの人との間に論争が起こり、その論争の中で主イエスはファリサイ派の偽善的信仰を明らかにし、また本当に清めるとはどういうことなのかをお語りになりました。5章27節以下の徴税人レビの家での食事のときには、ファリサイ派と律法学者たちから、「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」という非難の声が上がったことが書かれています。その非難に対して主イエスは、「健康な人には医者はいらない。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と宣言されました。7章36節以下のあるファリサイ派の人の家での食事のときには、一人の罪深い女の人が香油を主イエスに振りかけたことから、このファリサイ派の人が、「この人が預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と言って主イエス非難したことが書かれています。主イエスはその時、「この人は多くの罪を赦されたから、多くの愛をわたしに示した」と言われ、女の人に「あなたの罪は許された」と宣言されました。更に、14章1節以下の安息日に、あるファリサイ派の人の家での食事のときには、主イエスがその席にいた水腫を患っている人をいやされたことから、安息日に病気をいやすことが安息日の律法に違反しているかどうかという論争が始まりました。そこで、主イエスは「安息日に自分の息子が井戸に落ちたら、すぐに引き上げてあげないことがあろうか」とお答えになりました。主イエスは安息日にこそ、わたしたちの命を救うためのみわざをなさるのだということが、そこでは明らかにされています。

 このように、主イエスを中心にした食卓においては、ある種の論争が起こり、その論争をとおして、人間の中に潜む罪が明らかにされ、また真実が何であるかが明らかにされるということが、それぞれの場面に共通しています。主イエスがわたしたちと共に食卓を囲まれるとき、主イエスはわたしたちの心の中にまで入ってきてくださいます。わたしたちがその主イエスを、心を開いて受け入れるならば、主イエスは真実の救いへとわたしたちをお招きくださいます。けれども、心を閉ざし、かたくなに罪の中にとどまり続けるならば、主イエスの裁きが明らかにされます。そこでは、人間の中に潜んでいる罪や偽善が浮かび上がってくるのです。

 次に、38節を読みましょう。【38節】。ファリサイ派は旧約聖書の律法を厳格に守り、それだけでなく、律法をさらに細分化して多くの細かな規則を作っていました。食事の前に念入りに手を洗うこと、また食器などもていねいに洗い清めることもその一つでした。これは、衛生上の理由からではなく、宗教的な汚れから身を清く保つためでした。外出中に気づかずに宗教的に汚れたものに触れているかもしれない。その手で食事をすると、口からその汚れが体の中に入ると彼らは考えました。それを防ぐために、律法には書かれていないことまで細かに規定して、手を洗い、身を清めることに気を使っていたのでした。それが神に対する信仰だと考えていたのでした。

 しかし、主イエスは彼らの偽善的な信仰を見抜かれます。【39~41節】。ファリサイ派の人たちは手を洗ったり食器を清めたりして、外側から入ってくる汚(よご)れを防ぐことによって、あたかも自分の内側も清められたかのように錯覚しているが、しかしそれは、自らは清い罪のない人間であるかのように思い込み、自分の罪を隠そうとしている傲慢でかたくなな人間であることの証拠であると主イエスは言われます。それこそが主なる神に対する反逆なのであり、罪なのです。そもそも、罪や汚れは人間の外側から入ってくるものではなく、ましてや口から食べ物を介して入ってくるものでもありません。罪や汚れは、人間の中にあるものであり、その人自身の中に住みついているのであり、その人の心と魂が神から離れている、神のみ心に背いているところに人間の罪があるのであり、外側を洗い清めて、それで罪がないと考えることは、彼らの偽善であり、悪意に満ちた罪そのものなのだと主イエスは言われるのです。

 では、清くなるとはどういうことなのでしょうか。どうすれば罪や汚れから清められるのでしょうか。主イエスはまずわたしたちの目を創造者なる神に向けさせます。「外側をお造りになった神は、内側をもお造りになったではないか」と。わたしたちの外なる体、肉体も、また内なる心、魂も、共にみな神が創造されたものです。両者を分離することはできません。わたしたちの体も心も、造り主なる神のものです。その全体をもって、造り主なる神を崇め、神に感謝し、お仕えする者として、神は人間を創造されたのです。

 更に、主イエスは続けて「器の中にある物を人に施せ。そうすればあなたたちのすべては清くなる」と言われました。「器の中にある物」とは、直訳すれば「内にあるもの」で、『新共同訳聖書』ではそれを器の中にある物と理解して翻訳していますが、むしろ40節との関連から理解すれば、神の創造された人間の内側、その人の心と魂とを神に差し出せと命じられていると理解すべきと考えます。すなわち、あなたの内側である心と魂とを、あなたの外側である体と一緒に、主なる神に差し出しなさい、ささげなさい。そうすればあなたのすべてが清くされる、という意味に理解するのが良いと思います。神はわたしたちの罪に汚れた心を体をも、主イエス・キリストの十字架の血によって清め、受け入れてくださいます。

 42節からはファリサイ派に対する三つの「不幸だ」が語られています。最初にお話ししましたように、これは神の滅びの運命にある災いを語る厳しい裁きの言葉です。その内容については次回45節以下を学ぶ際に確認しますが、ここでもファリサイ派の偽善的で、自らの罪を覆い隠そうとする傲慢な思いだけでなく、他の人をも罪へと導く悪意に満ちた罪が語られています。

 42節で主イエスは、「正義の実行と神への愛」とを語っておられます。わたしたちの救い主であられる主イエスこそが、神の義を全うされ、神の愛に生きられ、十字架への道を進み行かれました。主イエスが十字架で成就してくださった神の義と愛によって、わたしたちは罪ゆるされ、救われています。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしの中に潜んでいる傲慢な思いやかたくなな思い、罪や汚れを、どうか主キリストの血によって清めてください。そして、わたしたちをあなたのみ心にかなう者たちとして受け入れてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

10月19日説教「預言者イザヤが望み見た永遠の平和」

2025年10月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

              伝道礼拝(世界の平和を願って)

聖 書:イザヤ書9章1~6節

    エフェソの信徒への手紙2章14~18節

説教題:「預言者イザヤが望み見た永遠の平和」

 きょうの伝道礼拝では、「平和」をテーマにしています。聖書辞典によれば、『新共同訳聖書』で「平和」という言葉が用いられている回数は、旧約聖書では217回、新約聖書では87回、計およそ300回ということになります。平和を意味する旧約聖書のヘブライ語は「シャローム」、新約聖書のギリシャ語は「エイレーネー」ですが、原語が同じでも「平和」と訳されたり「平安」と訳されたりしますし、平和を意味する言葉が用いられていなくても、平和を語っている個所も数多くありますので、数だけで論じることはできませんが、いずれにしても、聖書は全体的に、平和について深い関心を寄せ、平和を深く教えていると言えますし、わたしたちが信じている神、そしてわたしたちの救い主であられる神のみ子、主イエス・キリストは平和の王、平和の主であることは言うまでもありません。

 聖書が教える平和には、大きく3つの分野、領域があります。一つは、国と国、民族と民族、また人と人とが争わず、互いに相手を敵視して戦うことなく、互いに協力し合い、共に生きていることが平和です。二つには、社会の中で正義が行われ、差別や格差、偏見といったゆがんだ秩序がなく、特にイスラエルの社会では、弱い立場にある子どもや夫に死別した寡婦、老人、また他国からの寄留者などが保護され、正しく支援されてる社会秩序を平和と言います。単に争いや戦争がないというだけでなく、社会的な不正や権力者による搾取がない社会のことです。三つ目には、一人一人の人間、わたしが、本当に平安な状態にあることです。それは、主なる神とわたしとの関係に破れがないこと、神が常にわたしと共におられること、わたしが常に主なる神に従い、神のみ心を行い、神に感謝をして生きていることによって与えられるのですが、わたしがそのような平安の中にあること、それが平和です。そのような3つの分野、領域の平和ということを考えながら、きょうはイザヤ書が教えている平和について学んでいきたいと思います。

 8月10日の秋田教会平和祈念礼拝のときには、イザヤ書2章1~5節のみ言葉を学びました。もう一度その箇所を読んでみましょう。【1~5節】(1063ページ)。その時には紹介しませんでしたが、実は、ニューヨークにある国連本部に「イザヤの壁」と呼ばれる場所があり、その壁にこの4節のみ言葉「彼らは剣を打ち直して……もはや戦うことを学ばない」と英語で刻まれているそうです。国連に加盟している193か国の指導者たちが、重要な会議に出席するためにここに集う際に、彼らはこの壁に書いてあるイザヤ書のみ言葉をどのように読むのでしょうか。年々、核兵器の保有数を増やし、より大きな空母を製造し、より強力なミサイルを増設し合っている国々の代表者たちが、この聖書のみ言葉をどう理解するのでしょうか。「もはや戦うことを学ばない」と言われる神のみ言葉に真っ向から対抗して、「もっともっと戦うことを学ぼうではないか」と協議するのでしょうか。しかし、そうであってはならないと、わたしたちは言い続けなければなりません。キリスト教国と言われる国であろうと、そうでない国であろうとも、国連の建物に刻まれているこの聖書のみ言葉に、この建物に出入りする人は皆、責任を負わなければならないのではないかと、わたしたちは訴え続けなければなりません。たとえ、秋田に住むわたしたちの声が遠くて小さくあったとしても。

 きょうの礼拝で朗読されたイザヤ書9章4節に、同じようなみ言葉が書かれています。【4節】。2章では、戦争で兵士が手に持つ剣と槍が、農民が手に持つ鋤と鎌に打ち直されると言われていましたが、ここでは兵士自身が身に着けていた靴と軍服が火で焼き尽くされると書かれています。これによって、もはや再び兵士がそれを身に着ける必要がなくなった。今や戦争は終わって、永遠の平和が訪れたからだということが表現されているのです。

 預言者イザヤの時代、紀元前8世紀のイスラエルは、まさに激動の時代、戦争の時代でした。イスラエルの北には、当時近東諸国に破竹の勢いで支配を広げていたアッシリア帝国が迫り、南にはエジプト第25王朝が、馬にひかれた戦車を誇り、いまだ強い権力を保持していました。イスラエル北王国は紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされ、南王国ユダもアッシリアとエジプトの間で揺れ動いていました。

1節の、「闇の中を歩む民」、「死の陰の地に住む者」とは、常に戦争の脅威に脅かされ、文字どおりに日夜死と隣り合わせで生活しているイスラエルのことを言っていると思われます。わたしたちが生きている今日にも、それと同じ状況にいる人々が多くいることを、わたしたちは見ています。

 そのような戦国の時代に、預言者イザヤは、もはや再び武器を持たない、もはや再び軍服を着ない、平和を預言したのでした。イザヤが預言し、望み見ていたこの平和は、当時の指導者たちが考えていた国の課題とは、根本的に違っていました。イザヤが預言者活動をしていた紀元前742年から701年までの40年間にイスラエル南王国ユダの王はウジヤからヨタム、アハズ、ヒゼキヤと変わりましたが、それらの王たちは、ある時にはアッシリアに貢物を送り、ある時にはエジプトの戦車を頼り、またある時には他国との同盟に助けを求めていました。いずれの王たちも、それが国に平和をもたらすと考えていました。イスラエルだけでなく、周辺の他の諸国も同様でした。そのことは、今日の世界の諸国の指導者たちも同じであると言えます。

 けれども、イザヤはまったく違った平和を預言したのです。軍備の増強ではなく、どこの国と手を組むかでもない、そのような戦いの勝利のための手段ではなく、戦いそのものを放棄する、戦いを止めて、もはや戦いのことを学ばない、戦いの準備も必要がない、そのような平和を預言したのです。

 では、イザヤが預言した平和とはどのような平和のことなのでしょうか。その平和はどのようにしてやって来るのでしょうか。いくつかの基本的なことをまず確認しておきましょう。イザヤ書2章の預言では、4節の冒頭に「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる」と書かれてあるように、主なる神が諸国の最終的な裁判官としてお裁きになることを信じて、すべての国民が一人の主なる神を礼拝する神の民となることから、真の平和が来るであろうと教えています。

 また、9章では、天におられる神が天からまことの光で照らしてくださり、大きな喜びで満たしてくださるときに、諸国の間の憎しみや不安、恐れが消え去り、そこにまことの平和が訪れるであろうと預言されています。後半の5節以下では、そのとき一人のみどり子がわたしたちのために誕生し、その男の子によって全世界が治められ、永遠の平和が打ち立てられ、その平和の国は永遠に続くであろうと預言されています。

 以上の三つのこと、すなわち全世界のすべての民が一人の主なる神を礼拝する一つの神の民となること、天におられる神から与えられるまことの光と喜びにすべての民が満たされること、そして一人のみどり子の誕生によって築かれるであろう永遠の王国、これが平和の基本であると教えられます。

 けれども、まだ何か漠然としており、神を信じているイスラエルにとってはそうであるでしょうけれど、他の諸国に同じことを強要することはできないであろうし、そもそもイザヤの時代に、その預言がどのように成就されたのかということも、わたしたちにははっきりとは分かりません。イザヤの平和の預言には現実性が乏しい、あるいは理想論だと反論する人もいるでしょう。

 そこで、今日の聖書学者はこう考えます。このイザヤの預言は2章2節にあるように、「終わりの日」の預言であり、いわゆる終末論的に理解されなければならない。終末の時の理想の平和がここでは語られているのだと。またこう考えます。9章の「一人のみどり子」とは主イエス・キリストのことであり、この預言が新約聖書に至って、主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって成就されたのだと。

この二つの的理解に、わたしたちは100パーセント同意してよいでしょう。そして、その理解を更に深めていくことが大切と思われます。イザヤの預言には、確かに終末論的な要素が濃くあります。今この時に、この時代の中で、すべてのことが直ちに実現することを預言しているのでは必ずしもありません。とは言っても、キリスト教の終末論は、現在のことには関連しない未来のことだけを言うのではありません。神が、未来にこうなるであろう、終わりの日にはこのことが起こるであろうと言われるときに、信仰者はその未来を、いわば先取りして、未来に起こるべきことが今すでに起こると固く信じて、あたかもそのことが今すでに起こっているかのように固く信じて、行動をするのです。それがキリスト教の終末論であり、イザヤの預言もまたそのように理解されるのです。

まだ、世界の多くの国々は武器を増強し、核兵器までをも無限に増やそうとしています。宗教の違いと、そこから生じる理解の違いがあり、それはますます深まっていくように思われます。世界の現状はイザヤの平和預言からは遠く、遠くあるように思われます。けれども、わたしたちはイザヤの預言から、真の平和がどこにあるのか、どのようにしてその平和がこの地に築かれるのかを、はっきりと示されているのです。その平和のために、祈ることへと導かれているのです。そして、その平和は確かに主なる神によってこの地に、全世界にもたらされるのです。

エフェソの信徒への手紙2章14節14節以下にはこのように書かれています。【14~18節】(354ページ)。イザヤが預言した真の平和、永遠の平和は主イエス・キリストによって成就された、実現した、完成したのだと、わたしたちは信じます。そして、この福音を全世界に宣べ伝えることが、この平和の中にすでに生かされているわたしたちに託された使命なのです。教会の使命なのです。教会は、また教会に招かれているわたしたち一人一人は、この使命に生きることによって平和のために仕えるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、永遠の平和の主であれれる主イエス・キリストにあるまことの平安をわたしたちにお与えください。また、世界のすべての人々にお与えください。特にも、きょうの命が脅かされ、不安と恐れの中で暗闇を歩んでいる人々を、天からの光によって照らし、希望と平安とをお与えください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

イザヤ書の平和思想

〇2章1~5節、平和という言葉はない。終末論的。エルサレム・シオン伝承。主の律法と礼拝。武器から農具へ。戦うことを学ばない、永遠の平和。

〇7章14節、「インマヌエル預言」。

〇8章8~10節、インマヌエル、すべての戦略の放棄。

〇9章1~6節、「平和の君」の誕生。

〇11章1~5節、エッサイの株から出る芽。

〇11章6~10節、狼と小羊とが共存する。

〇26章1~6節、主に信頼する平和。

〇26章12節、平和をお授けください。

〇32章15~20節、霊が下される時の平和。

〇48章17~19節、「平和は大河のように」。

〇54章13~17節、神の義による平和。

〇57章18~21節、神のいやしと平和。

〇66章12節、「平和を大河のように」。

10月12日説教「出エジプトと初子の奉献」

2025年10月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記13章1~16節

    ルカによる福音書2章22~32節

説教題:「出エジプトと初子の奉献」

 イスラエルの民はアビブの月の15日早朝に、それまで400年以上寄留していた奴隷の家エジプトを脱出し、神がお導きになる約束の地カナンに向けて旅立ちました。彼らがエジプトに滞在していた期間は出エジプト記12章40節によれば430年、創世記15章13節の預言によれば400年でした。二つの説があったようです。アビブの月は、のちにはニサンの月と言われるようになりましたが、今日の太陽暦では春3月から4月にかけてのころです。この月がイスラエルにとっての新しい年の初め、正月に定められたことが、すでに12章1節に書かれていました。なぜならば、神の民イスラエルは出エジプトから始まったからです。出エジプトはイスラエルの民誕生の原点であり、彼らの歩み、歴史、そして信仰の原点であるからです。それはちょうど、主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活がわたしたちキリスト者の命と存在、信仰と生活の原点であるのと同様です。

 出エジプトの出来事はイスラエルののちの時代にまで続く重要な三つの祭り、祭儀とも言いますが、それと関連づけられています。一つは、イスラエルで最も重要な祭りである過越し祭、二つめは、過越し祭のあと7日間続く除酵祭(種入れぬパンの祭り)、そして三つめは初子(ういご)の奉献です。初子の奉献については、きょうのテキストである出エジプト記13章1~2節と、少し飛んで11~16節に記されています。3節から10節は除酵祭に関する内容です。初子の奉献については、ほかに22章28節以下や34章19節以下、それにレビ記、民数記にも初子奉献の規定が書かれています。過越し祭と除酵祭については、すでに学んだ12章と13章3節以下に繰り返して書かれていましたし、旧約聖書全体で幾度となく言及されていて、イスラエルにとって重要な祭りであったことが分かります。イスラエルの民はこれらの祭り、祭儀、礼拝をとおして、毎年毎年、また安息日ごとに、出エジプトの出来事を思い起こして、自分たちの命と存在の原点とその歩みの原点へと立ち返り、そこに現わされた主なる神の恵みを感謝し、その神が今もなお自分たち一人一人と共にいてくださり、苦難や試練の時にも、救いのみわざをなしてくださることを信じ、告白したのです。

 では、きょうは初子の奉献について、それが出エジプトの出来事とどのように関連づけられているのかを学んでいきたいと思います。【1~2節】。ここでは、出エジプトの出来事と初子の奉献との関連については触れられずに、一般的に人間と動物の初子は神のものであるので、それを聖別して神にささげるべきことが命じられています。11~13節でも同様です。ここではより詳しく、人間の男子で初めて生まれた長男と、家畜の最初に生まれたオスはすべて神にささげるべきことが命じられています。ただし、ろばは宗教的に汚れた動物とされ、神にささげることができないので、その場合には小羊によって贖うように定められています。贖うとは、神にささげるべきものを他の清い動物を代わりにささげることによって神から買い取るということです。

 また、人間の命はこれを殺して神にささげることはできませんので、他のもので贖わなければなりませんが、何によって贖うのかは、ここには明記されていません。民数記18章16節では、生後1か月後の男子を贖う金額は銀5シェケルとあります。1シェケルは10グラムほどと推測されます。また、民数記のこの箇所には、農作物や果物の初物もまた神にささげるべきと定められています。

 このように、初子や初物を特別視するという習慣は古代の他の民族にも一般的にみられます。特にイスラエルにおいては、人間の命はもちろん動物の命も、すべての命は神から与えられたものであるという信仰が強くありました。また、農作物や果物なども神から与えられたものと考えられました。そのために、初子や初物は特別に大きな神の恵みと祝福に満ちたものであって、それを感謝して神にささげることは最高のささげものであったのです。また、初子や初物を神に感謝してささげることは、そのあとに続く命と収穫もまたすべて神からの賜物であるという信仰告白であり、さらには、初子と初物にはそのあとに次ぎ次ぎと神の豊かな収穫と恵みが続くということの確かな保証でもありました。

 古い時代からあったそのような初子、初物を特別視する考え方に、出エジプトの出来事が結びついたのではないかと推測されています。きょうの聖書箇所の14~16節を読んでみましょう。【14~16節】。前の12章に書かれていたように、アビブの月の14日の夕暮れに、エジプトに寄留していたイスラエルの民は、家々で1頭の子羊を屠り、その血を家の柱とかもいに塗り、肉は種入れぬ固いパンと苦菜とを一緒に食べなさいと神に命じられていました。これがのちの過越しの食事です。この最初の過越しの食事は、神がイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から解放し、救い出してくださることを信じ、その前祝いとして、共同の食事を食べました。その夜、アビブの月の深夜、神から派遣された滅ぼす者によって、王ファラオの家からエジプト全土のすべてのエジプト人の家々の初子が、人も家畜もみな撃たれ、死んだために、エジプトに大いなる恐れと混乱が生じ、ついに王ファラオはイスラエルの民をエジプトから追い出すことにしたのでした。しかし、イスラエルの家々には小羊の血が塗られていたので、滅ばす者がその前を過ぎ越し、彼らの初子は守られました。

 このことから、子羊の血によってイスラエルの民の初子が贖われ、滅びから救われたと考えられ、それだけでなく、その子羊の血によってイスラエルの民全体がエジプトの奴隷の家から贖いだされたと考えられ、彼らにとっては初子は二重にも三重にも、主なる神のものであり、主なる神から賜った大いなる恵みと信じられるようになったのです。そこから、初子を神にささげるという儀式が出エジプトの出来事と関連づけられて行われるようになったと考えられます。

 ルカによる福音書2章22節以下によれば、主イエスの両親であるヨセフとマリアは生後40日が過ぎてからエルサレム神殿で清めの儀式と初子奉献の儀式を行ったことが書かれています。22、23節にこのように書かれています。「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるために、エルサレム神殿に連れて行った。それは主の律法に、『初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される』と書いてあるからである」。おそらく、このとき両親は初子の贖い金として銀5シェケルを神殿にささげ、幼子主イエスを贖って、神から買い戻したのであろうと思われます。

 主イエスの両親は旧約聖書の律法に忠実に従いました。主イエスご自身もまたそうであられました。主イエスもまた、というよりは、主イエスこそが完全な意味で、神の律法を成就されました。主イエスの両親は贖い金を神にささげて、神から買い戻したのですが、しかし主イエスご自身はご自分の全存在、全生涯を父なる神のためにおささげになられ、そしてついにはそのご生涯の終わりには、実際にご自身の命をおささげになられたのです。死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで父なる神に従順であられ、わたしたち全人類の罪の贖いのために、ご自身の命を十字架におささげくださったのです。出エジプトのときに、出エジプトの救いの出来事との関連によって定められた初子奉献の律法は、完全な意味で主イエスによって成就されたのでした。

 主イエスのご両親の初子奉献の場面で、もう一つ教えられることは、両親が幼子主イエスを抱いてエルサレム神殿に入ったときに、預言者シメオンがその主イエスを自らの腕に抱いてこのように言ったと、ルカ福音書2章29節以下に書かれています。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民の誉れです」(29~32節)。預言者シメオンは神がお遣わしになるメシア・救い主に会うまでは決して死なないとの神からのお告げを受けていましたが、今このとき、彼は幼子主イエスの奉献のこの時に、その神の約束が成就されたことを悟り、それによって彼の長い待望のときが終わり、彼の人生が満たされたことを知ったのです。わたしたち人間の人生、歩み、命は、救い主・主イエスと出会うことによって、本当の意味で満たされるのです。

 出エジプト記に戻りましょう。14節にこのように書かれています。【14節】。これと同じようなみ言葉は、8節では除酵祭に関連して、【8節】、また12章26節では過越しの食事に関連して、語られています。【26節】(112ページ)。過越し祭、除酵祭、そして初子奉献、これらはみな出エジプトという神の偉大なる救いと解放のみわざを覚え、感謝する重要な祭りとしてイスラエルの家庭で受け継がれ、また信仰の継承と子どもたちの信仰教育の場として毎年続けられてきたのです。それがのちには、エルサレム神殿での祭儀、礼拝の中で継承されていきました。そして、主イエスの十字架と復活によって、全人類の救いと解放が成就されたのです。

 16節に、【16節】。同じようなみ言葉は除酵祭に関連して8節にもありました。【8節】。「腕に付けて」とは、手に墨で何かの文字やしるしを書いたのであろうと推測しています。「額に付けて」とは、頭に何かの飾りをつけてそれを目と目の間に垂らしていたらしいと推測されています。9節の「口ずさむ」とは文字どおり出エジプトに関する何らかの文章を口で唱えることです。このように、手と目と口によって、出エジプトの神の救いの恵みを絶えず忘れないために、何かを身に着けていたようです。のちには、主イエスの時代も、また今日のユダヤ人もそうですが、テフィリンと言われる聖書のみ言葉を書いた紙を収めた小さな箱にバンドを付けて、手や額に巻き付けるという習慣になりました。手を伸ばして何かをつかもうとするとき、手首に付けられている神のみ言葉を思い起こすため、目を動かして何かを見るとき、目の前に付けられている神のみ言葉を思い起こすため、また口を動かして何かを発言するとき、いつも口ずさんでいた神のみ言葉を思い起こすため、イスラエルの民はそのような工夫をしました。わたしたちもまた、わたしが何かをなすとき、何かを話す時、何かを考えるとき、あらゆる機会に神の救いのみ言葉を思い起こすために、神のみ言葉をいつも身近に置いておく訓練をし、神のみ言葉を思い起こすように心がけたいと願います。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたのみ言葉はわたしの足を導くともし火、わたしの道を照らす光です。どうか、いつもわたしたちにあなたの命のみ言葉を熱心に慕い求める信仰をお与えください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。