10月5日説教「わたしたちの主イエス・キリスト」

2025年10月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:サムエル記下7章8~17節

    ローマの信徒への手紙1章1~7節

説教題:「わたしたちの主イエス・キリスト」

 使徒パウロがローマの信徒への手紙を執筆した主な動機の一つに、彼自身の自己紹介と彼が宣べ伝えていた主キリストの福音をローマの教会に知ってもらうことがありました。世界の中心都市であったローマに、パウロはまだ足を踏み入れたことがありませんでした。ローマの教会員との面識もほとんどありませんでした。パウロは当時、なんとかしてローマに行きたい。そこで福音を語りたい。それから、ローマを足掛かりにしてさらにその西の果てイスパニアまで伝道の範囲を広げたいとの切なる願いを持っていました(15章22節以下参照)。そこで、これから訪ねるローマの教会に自分のことを知ってほしい、いやそれ以上に、自分が携えていく主キリストの福音がどのようなものであるのかを、ぜひとも知ってほしい、その思いがこの手紙を執筆する動機になったのです。

 手紙の冒頭から、パウロのそのような、はやる思いをうかがい知ることができます。彼は当時の手紙の書式を破って、まず自分の名前を書いた後で次に相手の名前を書くべきところを、1節の「神の福音」という言葉を受けて、2節からすぐにもその神の福音について語りだしているのです。それが6節まで続きます。7節になってようやく、手紙の受取人であるローマの教会の名前が出てきます。2節から6節までの長い挿入文によって、パウロは手紙の本文で書くべき神の福音について、主イエス・キリストについて書いているのです。

 きょうは3節から4節を学ぶことにします。【3~4節】。「神の福音」、福音とは良い知らせ、幸いな善きおとずれという意味ですが、それは「御子に関するもの」であると、パウロは言います。神のみ子である主イエス・キリストが神の福音の中心であり、全内容であり、神の福音そのものであると言うのです。ここで重要なポイントは、福音とは神のみ子である主イエス・キリストという、一人の人格的な存在者に関するものであるということです。たとえば、何らかの真理とか、哲学や思想とかではなく、また、金とかダイヤモンドとかの物質でもなく、あるいはまた、ある種の世界観や人生観とかでもなく、主イエス・キリストという一人の人間となられた神のみ子であり、まことの神であり、まことの人であられる主イエス・キリスト、神がこの世にお遣わしになられた一人の救い主、主イエス・キリストこそが、福音の中心、全内容、福音そのものであるということです。

 これは神の福音と言われているように、神を起源とし、神からやってくるものです。この世のどこかで創り出されたものではありません。この世にも福音と呼ばれるものがあるでしょうが、パウロが今問題にしている福音は、この世のものでも人間の発見でもなく、天におられる全能の父なる神から与えられる福音なのです。したがってそれは、すべての人にとっての永遠の福音です。神が、罪に支配されているこの世をお見捨てにならず、神を見失っているこの世界をなおもみ心にかけてくださり、この地に住んでいるわたしたち一人一人を愛してくださり、罪から救い出すためにみ子を世にお遣わしになられた、このみ子の派遣こそが神の福音なのです。

 わたしたちは福音を求めて遠くへ出かける必要はありません。それを探すために天に上らなければならないのでもありません。あるいはまた、それを受け取るために、何らかの資格や努力が必要だということもありません。神ご自身が、天から降って来られ、この地に降りて来てくださったのです。そして、神ご自身がわたしたちに近づいて来てくださり、わたしたちを尋ね求め、見いだしてくださったのです。ここに神の福音の初めがあります。そして、すべての人がこの福音を聞くことができるように、神はわたしたちに聖書を与え、また教会をお建てくださり、わたしたちひとり一人を礼拝へとお招きくださったのです。

 3節後半から4節では、み子主イエス・キリストの肉による存在と、聖なる霊による存在という、全く性質が違った二つの存在が一つの人格の中に共存していることが語られます。まず、肉という言葉ですが、これは聖書では、弱くもろいもの、やがて朽ちていくほかないもの、それゆえに死と滅びから逃れることができない人間の性質全体を表現しています。神のみ子はこの人間の肉を身にまとわれたということです。神のみ子主イエス・キリストはわたしたち人間と全く同じ肉の姿となられ、肉の存在としてこの世にお生まれになり、この世界の中で、罪びとたちの歴史の中で、一人の紛れもない人間として生きられたのです。神が人間となられたということです。これを受肉と言います。

 ガラテヤの信徒への手紙4章4節にはこう書かれています。「時が満ちると、神は、御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」。また、ヘブライ人への手紙5章7節以下にはこうあります。「キリストは、肉において生きられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、ご自身に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです」(7~10節)。このようにして、神のみ子主イエス・キリストはわたしたち人間を罪から救うために、わたしたち肉にある者たち、罪びとたちの一人となってくださったのです。

 「肉によればダビデの子孫から生まれ」とあります。マタイ福音書、ルカ福音書によれば、主イエスの父ヨセフはダビデの家系に属していました。ダビデ家のヨセフからお生まれになったということは、主イエスの誕生が旧約聖書の預言の成就であったことを語っています。サムエル記下7章に預言されているように、神はダビデ王に「あなたの家系から永遠の王が出るであろう」と約束されました。これをダビデ契約と言います。神は天地創造の初めから計画しておられた救いのみわざを、イスラエルの民の選びとダビデとの契約によって前進させ、ついに時満ちて、ダビデの子孫であるヨセフとマリアの子として、主イエスをこの世に誕生させました。それによって、ご自身の永遠の救のご計画を成就されたのです。主イエスは父なる神の永遠の救いのご計画の中で、肉となられ、まことの人となられ、クリスマスの日に誕生されました。そして、わたしたちのための救いを成就されたのです。

 「神の御子と定められた」とありますが、主イエスが復活によって始めて神のみ子になったということではありません。主イエスは永遠の始めから神のみ子でしたが、肉にある間は、そのことはいわば隠されていました。復活によって、神のみ子であることがはっきりと示されたという意味です。死から命を生み出される神の全能の力だけが、人間の罪と死とに勝利することができます。

 主イエスはこのように、全く違った二つの性質、二つの存在、肉にあるまことの人間としての存在と、神の霊によるまことの神としての存在、その二つの存在によって、わたしたちの救いを完全なものにしてくださったのです。主イエスはまことの人として、わたしたち人間の弱さや痛みのすべてを知っていてくださいます。そして、わたしたち罪びとたちの一人となってくださり、罪の重荷を担ってくださいました。

 しかしまた、主イエスはまことの神として、聖なる神の霊のみ力によって、肉なるものを打ち破り、罪と戦い、復活によって罪と死とに勝利されたのです。主イエスは人間としてのすべての試練や痛みを経験されたゆえに、試練や痛みの中にある人を思いやることができます。しかも、試練の中で父なる神の全き服従を貫かれて、十字架の死に至るまで従順であられることによって、罪と死とに勝利されたのです。それゆえにまた、試練の中にある人に勇気と希望を与え、試練に打ち勝つ力を与えることができるのです。

 4節の「死者の中からの復活」とある「死者」は複数形です。主イエスは死者たちの中から復活されたという意味です。十字架につけられ死なれた主イエスが三日目に復活されたということは、主イエスを信じるすべてのキリスト者たちの中から復活されたということであり、主イエスは罪のゆえに死すべきわたしたちすべての人間たちの、その代表として死なれたのであり、またその初穂として復活されたという意味です。主イエスの十字架の福音を信じるキリスト者にとっては、主イエスの復活はその初穂であり、またその保証なのです。わたしたちはまことの神でありまことの人であられる主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活によって、罪ゆるされ、救われ、永遠の命の約束を与えられているのです。

 「この方が、わたしたちの主イエス・キリストである」とパウロは結んでいます。ここには、初代教会の最も初歩の信仰告白があると言われています。「わたしたちの主イエス・キリスト」とは、「イエスはわたしたちの主であり、キリストである」という文章をちぢめたものです。この信仰告白は新約聖書の中にたびたび出てきます。フィリピの信徒への手紙2章11節には「すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べ伝えて、父である神をほめたたえる」とあります。「イエスはキリストであり主である」、これが信仰告白の原点であり、ここから発展して、『使徒信条』や宗教改革期の多くの信仰告白が作成され、またわたしたちの『日本キリスト教会信仰の告白』も制定されたのです。

 イエスは名前です。旧約聖書音ヘブライ語ではヨシア、ヨシュア、「神は救いである」という意味の、ユダヤ人に一般的な名前です。主イエスの場合、決定的に違う点は、神がこの名前の名付け親であるということ、また主イエスが生まれる前から神がこの名前を決めておられたということ、そして事実、神はこの主イエスによってご自身の救いのみわざを成就されたということです。

 キリストはヘブライ語ではメシア、油注がれた者という意味です。イスラエルでは、王や預言者、祭司がその職に任じられる際には頭からオリブ油を注がれました。主イエスは、まことの永遠の王として、また、まことの永遠の預言者として、そして、まことの永遠の祭司として、父なる神から託された全人類のための救いのお働きを完全に成し遂げられたメシア・キリスト・救い主であられます。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたはみ子、主イエス・キリストによってわたしたちのための救いのみわざを完全に成し遂げてくださいました。わたしたちはもはや罪の奴隷ではありません。死と滅びに支配されている者でもありません。あなたからの新しい命によって生かされ、来るべきみ国での永遠の命を信じます。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

9月28日説教「エルサレム使徒会議でのヤコブの証言」

2025年9月28(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:アモス書9章11~15節

    使徒言行録15章11~15節

説教題:「エルサレム使徒会議でのヤコブの証言」

 紀元48年、あるいは49年に開催されたエルサレム使徒会議は、世界最初の教会会議でした。初代教会の中で大きな問題であったユダヤ人キリスト者とユダヤ人以外の異邦人キリスト者との間にあった対立や信仰理解の違いが、この会議によって、両者が共通の理解を深め、一致を見いだし、初代教会のさらなる成長と発展のために大きな貢献をする役割を果たしたのでした。

 このエルサレム使徒会議は、古代・中世から今日に至るまでの世界教会会議の原点となりました。世界の教会はそれぞれの時代の異端的な間違った教えを排除し、また教会の共通の課題に取り組むために、世界教会会議(あるいは公会議とも言われますが)を開催し、会議によって問題を解決し、新たな課題に一致して取り組むということを続けてきました。第一回世界教会会議として今日位置づけられているのは紀元325年のニカイア会議です。第2回は381年のコンスタンティノープル会議、第3回が431年のエフェソ会議、第4回が451年のカルケドン会議などが重要です。これらの教会会議によって、今日わたしたちが一般に信じている、主キリストはまことの神であり同時にまことの人であるとか三位一体論とかのキリスト教の基本的な教理が確立されたのです。エルサレム使徒会議はその原点です。

 エルサレム使徒会議で取り上げられた問題は、15章1節に書かれていました。エルサレム教会に属するユダヤ人キリスト者は、もともとはユダヤ教で、神に選ばれた契約のしるしとして男子はみな割礼を受けていました。しかし、ユダヤ人ではない異邦人、ギリシャ人でキリスト者になった人たちは割礼を受けていませんし、ユダヤ人が古くから大切にしてきた律法の教えや慣習も知りません。そこで、エルサレム教会からやって来たユダヤ人キリスト者がアンティオキア教会のギリシャ人キリスト者に対して、「あなたがたも割礼を受けなければ救われない」と主張したことから、両者の間で激しい議論に発展し、その問題を解決するために両者がエルサレム教会に集まって会議を開くことになったというわけです。

 会議では、まずアンティオキア教会の議員であるパウロとバルナバが第一回世界伝道旅行で多くの異邦人・ギリシャ人が主イエス・キリストの福音を信じて救われたことを報告しました。しかし、それに対してエルサレム教会の議員であるユダヤ教ファリサ派からキリスト者になった人たちが、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と主張したと、5節に書かれていました。次に発言したのがエルサレム教会の指導者であるペトロでした。ペトロはかつて彼自身が経験した異邦人であるコルネリウス一族の回心の出来事(10章の詳しく書かれていた)を思い起こしながら、神は異邦人にもユダヤ人と同じように聖霊を注いで救いの道を開かれたことを証言しました。ペトロの証言の結論は11節に書かれています。【11節】。

 このペトロの発言によって、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との間の激しい議論に終止符が打たれることになりました。12節にこう書かれています。【12節】。ペトロは当時エルサレム教会の指導的立場にありましたから、そのペトロの発言の重さは確かにあったと思われますが、これまでの対立と激しい議論に終止符を打つことになった要因は、発言者がペトロであったからというよりは、その発言の内容そのものであったと言うべきでしょう。天の父なる神が主イエス・キリストによって、ユダヤ人だけでなく異邦人をも、全世界のすべての人の救いのみわざを、今この時になしてくださった。人間の側の何らかの功績やわざによらず、神の側から差し出された一方的な恵みによって、すべての人をまことの救いへとお招きくださっておられる。その恵みの事実こそが、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の間の論争を終わらせたのです。

 ペトロの発言に続いて、アンティオキア教会からの議員であるバルナバとパウロが再び発言します。その内容については詳しく紹介されていませんが、わたしたちがすでに学んできた13章から14章に書かれていた第一回世界伝道旅行での数々の伝道の成果についてでした。しかし、それはパウロたちの業績では全くなく、ここでの主語は神です。「自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業」のことです。人間の側の割礼なしに、律法の行いなしに、ただ一方的に神の側から差し出された救いの恵みによって、異邦人もまた救いへと招き入れられたのです。すべては神のみわざです。

 次に、エルサレム教会の長老ヤコブが13節から発言します。あとで、19節以下の箇所で、会議のまとめのような発言をしていますので、このヤコブが会議の議長を務めていたと推測されています。

 ヤコブは主イエスの肉親の兄弟です。マルコによる福音書6章3節によれば、主イエスにはヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの4人の兄弟と姉妹も何人かいたと書かれています。また、使徒言行録1章14節によれば、主イエスの十字架のあと、主イエスの母マリアと兄弟たちが12弟子の群れに加わって、一緒に祈りながら、ペンテコステの日に聖霊が注がれるのを待っていたと書かれています。彼らは主イエスの十字架の死後になって、主イエスを救い主と信じる信仰へと導かれたのでした。そして、ヤコブはエルサレム教会の長老に選ばれ、ペトロのあとに教会の指導者となりました。神はこのようにして、主イエスの肉親である母マリアや兄弟たちにとってはおそらく耐え難い不幸でしかなかったであろう、長男であった主イエスの十字架の死という悲惨な出来事の中で、その悲劇の主人公であったマリアと兄弟たちをも、不思議な導きによって救いへと招き入れてくださり、エルサレム教会のよき働き人としてお用いになったという、驚くべき大きな救いの恵みを、わたしたちはここに見るのです。

 ヤコブの発言を聞きましょう。【13~14節】。シメオンとは、シモン・ペトロのエルサレム教会での呼び名でした。ヤコブはパウロの書簡から推測すれば、ずいぶんとユダヤ教的な古い伝統に縛られていた人であったと考えられていますが、そのヤコブであっても、ペトロが語ったコルネリウス一族がキリスト者となったという出来事の意味を認めないわけにはいきませんでした。さらに、彼は旧約聖書を引用して、そのように神の福音がユダヤ人から異邦人へと広げられていくことは、神が古くから預言者たちによって語っておられたことであるとつけ加えています。

 16節~18節は、旧約聖書アモス書9章11~12節およびイザヤ書45章21節のみ言葉です。【16~18節】。アモスは紀元前8世紀の預言者でした。彼はイスラエル王国がその罪のゆえに神の裁きを受けてやがて滅ぼされるであろうと預言しました。しかしまた同時に、アモスは神がそののち、ダビデ王国を回復し、残りの者たちを集め、それに異邦人をも増し加えて、新しい神の民として再建してくださると預言しました。ヤコブの理解によれば、ここで預言されているように、イスラエル・ダビデ王国の回復と異邦人も神の民に増し加えられるであろうというこの預言は、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって成就したのだと言うのです。その神の全世界的な救いのみわざが、ペトロやパウロたち、また初代教会の宣教活動によって現実となって実現したのだと言うのです。しかも、そのことは神が天地万物を創造された初めの時から、神の永遠なるご計画であったのだとヤコブは語ります。旧約聖書で預言されていたことはすべて新約聖書において、主イエス・キリストによって、成就されたのです。

 神は初めにイスラエルの民をお選びになり、この民をとおして救いのみわざをなさいました。イスラエルの罪と背きによってイスラエル王国は滅びましたが、神はその切り株から新しい芽を生え出ださせ、一人のメシア・キリスト・救い主として、主イエス・キリストをお送りくださいました。この主キリストは罪なき神のみ子であられたにもかかわらず、すべての人の罪を担われ、すべての人の死の裁きをご自身で担われ、十字架で死んでくださいました。それによって、神はわたしたちすべての人の罪をおゆるしくださったのです。ユダヤ人だけでなく、異邦人も、全世界のすべての人の罪が、神のみ子の十字架の死によって贖われ、ゆるされています。

 そこで、会議の議長であるヤコブは19節でこのように結論づけます。【19節】。ユダヤ人キリスト者からなるエルサレム教会の指導者であったペトロの発言と同じように、ヤコブもまた、異邦人教会の指導者パウロとバルナバの主張を認め、異邦人の律法の重荷からの解放を宣言し、割礼の義務からも自由にしたのです。ユダヤ人も異邦人も、一方的に差し出された神の救いの恵みによって、その救いを信じる信仰によって救われるということを結論づけました。このエルサレム教会で決められたことは、今日全世界の教会での一致した理解になっています。

 20節以下に付則として追加されている決議については、なぜこれが付け加えられたのか、よくわかっていません。律法と割礼の義務から解放した異邦人に対して、なぜこのような規定が必要だったのか。ある意味で、これはパウロたち異邦人教会側がエルサレム教会に妥協したとも受け取れます。ユダヤ人は偶像礼拝を厳しく戒め、また血の中には命があって、その命は本来神のものであるという考えも強くありましたから、エルサレム教会としては、この点はどうしてもゆずれなかったからであろうと推測されています。

 20節の「偶像に備えて汚れた肉」とは、偶像に備えられた肉はその偶像の神々の汚れが染みついているので、それを食べることは偶像礼拝に参加したことになるとして、ユダヤ人は決して食べませんでした。「みだらな行い」とは、レビ記18章などで禁じられている近親相姦のことです。また「絞め殺した動物の肉と、血とを避けるように」とは、先ほど言いましたように、血をそのまま食べることは神を冒涜することになるとユダヤ人は考えたからです。初代教会では、偶像にささげられた肉を食べてよいかどうかや近親相姦などの問題があったということが、パウロの書簡から知ることができます。エルサレム教会会議ですべてが解決されたわけではありませんでしたが、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が一つの教会の群れを共に形成するという道が開かれたことは、初代教会の成長、発展にとって大きな役割を果たしたことは間違いありません。ここにも、神の尊いお導きがあったのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちはあなたの救いの恵みを受け取るに値しない神を知らない者たちであり、罪多い者たちでありましたが、あなたの大きな憐れみと愛によって救いへと招かれておりますことを、心から感謝いたします。どうか、世界のすべての人たちにこの救いの恵みが与えられますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

9月21日説教「まことの光に照らされている人」

2025年9月21(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編119編106~112節

    ルカによる福音書11章33~36節

説教題:「まことの光に照らされている人」

 ルカによる福音書11章33節からの説教の中で、主イエスは「ともし火」と「光」をたとえにして語っておられます。「ともし火」はランプのことです。「光」そのランプが照らしている光のことです。きょうの聖書の箇所を正しく、また深く学ぶために、まず聖書全体に目を向けてみましょう。

 聖書では、ともし火や光という言葉は、非常に印象的に、また数多く用いられています。聖書辞典で調べてみると、ともし火という言葉は新約聖書で20数回用いられていますが、そのほとんどは主イエスの説教です。光の方は旧約・新約聖書で250回ほど用いられています。太陽の光とか、ランプの光のように、光を発する物を指す場合と、何らかの比喩や象徴として用いられている場合もあります。

 古代の人々にとって、ともし火や光は、今日のわたしたち以上に強い印象を与えたであろうということは、容易に推測できます。今日のわたしたちは電気で作られた人工的な光に囲まれており、いつでもスイッチをひねれば、すぐに周囲全体が明るくなります。光のありがたさとか大切さ、またその働きの大きさに気づくことはあまりありません。光がない世界の暗さとか、その恐怖とか戸惑いとかを強く意識することもありません。それに比べて、夜の暗闇を照らす光として、ランプやたいまつしかなかった古代の人々にとって、光はわたしたち以上に印象深く、強いイメージを与えたと思われます。

 まず、聖書の最初のページには、創世記1章3節に、神が最初に創造された特別な光について書かれています。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」神は天地万物を創造された時、第一日目に光を創造されました。この光は太陽とか月星の光とは違います。太陽や月が創造されるのは第四日目になってからです。第一に目に創造されはこの光は、特別な光であって、すべての光の根源のようなものであり、この光の中で、第二日目以降の天地万物が創造されるので、この光がなければ何ものも存在することができないような、すべての存在している被造物の、その存在を根底から支えているような、そのような光のことです。

 聖書は、そのような特別な光を考えているのです。神が第一日目に創造されたこの光がなければ、何物も存在することができない、生きることも、動くことも、歴史や歩みを刻むこともできない、そのようなすべての存在と命と歩みとを可能にしている光、それを支えている光、それを導いている光、そのような特別な光を、聖書は考えているのです。

 詩編119編105節に、印象深いみ言葉があります。「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす光」。ここでは、光は比喩として用いられていますが、ここでも創世記1章3節の特別な光が暗示されているように思います。神のみ言葉の光なしでは、わたしは安全な道を、正しい道を、まことの命に至る道を歩むことはできないと、この詩人は告白しているのです。

 もう一つ、わたしたちがよく知っている新約聖書のみ言葉は、ヨハネ福音書1章です。「言(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(4~5節)。そして、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(9節)。ヨハネ福音書は、言(ことば)、命、光という言葉によって、クリスマスの日に誕生された主イエスご自身と、その主イエスによってこの世界のすべての人もたらされる命と救いを語っているのです。主イエスこそが天地創造の初めからおられた神の言葉であり、その神の言葉によって与えられるまことの光であり、またその光によってすべての人の存在と命とが支えられ、導かれ、救いへと招き入れられる、そのような光であるとヨハネ福音書は語っているのです。

 以上、光につて教えている聖書の箇所を見てきたことから明らかなように、きょうの主イエスの説教で語られているともし火、光は、主イエスご自身のことであり、また主イエスが宣べ伝えておられる神の国の福音のことを指しているということを、まず確認しておくことが重要です。

 では、33節から読んでいきましょう。【33節】。ともし火、ランプは部屋を照らす光です。当時の家は、たいてい一部屋で、小さな窓があり、一つのランプで部屋全体を照らします。夜の家の中はランプがなければ真っ暗で、何も見えません。

 33節と同じような表現は、すでに8章16節にもありました。また、マタイ福音書5章13節以下では、光とともし火は、世にあってキリスト者として生きているあなたがたの生き方を教える比喩として用いられています。その箇所を読んでみましょう。【14~16節】(6ページ)。わたしたちキリスト者は、すでに罪ゆるされ、救われている者たちとして、いまだ罪の支配の中にあるこの世の暗闇の中で、主イエス・キリストの光を反射して、光の存在として生きるように招かれているということが、ここでは教えられています。

 それに対して、ルカ福音書11章では、前からの続きから判断すると、33節のともし火は、キリスト者の信仰生活を指すというよりは、主イエスご自身を、あるいは主イエスが語られた福音を指していると考えられます。29節以下との関連を見てみましょう。主イエスはユダヤ人が目に見えるしるしを求めていることを嘆いて、あなたがたユダヤ人の不信仰を、異邦人でありながらヨナの説教によって悔い改めたニネベの人たちが裁くであろうと言われました。そして、今の時代にはヨナのしるし以外には与えられないと言われました。ヨナのしるしとは、ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいて、三日目にそこから出てきたように、主イエスが十字架で死に、墓に葬られ、三日目に墓の中から出てきて復活されるというしるしのことで、この十字架と復活の福音を聞いて信じ、罪を悔い改めることによってこそ、あなた方は救われるのだと主イエスは説教されたのです。

 けれども、彼らユダヤ人は主イエスを信じませんでした。主イエスが語られた神の国の福音を信じませんでした。それに対して、33節のみ言葉が語られたのです。【33節】。暗い罪の世を照らすまことの光として世に来られた主イエス、また主イエスが語られた神の国の福音、そして主イエスの十字架の死と復活の福音、それは家全体を明るく照らすともし火である。イスラエルの民と全世界のすべての人を照らし、罪から救う光である。そうであるのに、そのともし火を穴倉の中や升の下に閉じ込めて、その光を覆い隠してしまうとは、なんと愚かなことか。なんとかたくなで罪深いことか。これが、33節の意味です。

イスラエルの民ユダヤ人が神の愛によって選ばれているのは、またわたしたちがこの世から選び出され、教会の民とされているのは、救い主、主イエスの光を高く掲げ、主イエスの福音の光をすべての人に見えるようにし、この世を照らすまことの光を証しするためなのです。

そうすると、ルカ福音書11章33節とマタイ福音書5章13節以下の「地の塩、世の光」についての主イエスの説教とは、本質的には同じことを語っているということが分かります。ルカでは、ともし火と光は主イエスご自身と主イエスの福音を表す比喩として用いられ、またマタイ福音書ではわたしたちキリスト者を表す比喩として用いられていますが、わたしたちキリスト者が世の光として輝くのは、わたしたち自身が持っている何らかの能力とか資質とかによるのではなく、まことの光である主イエスに照らされ、その主イエスの光を、いわば反射して輝くのですから、ルカ福音書とマタイ福音書は、本質的には同じ内容を語っていると言えます。

次に、34節からは、まことの光である主イエスによって照らされているわたしたちキリスト者の在り方が、同じようにともし火と光の比喩を用いて語られています。【34~36節】。目は、そこから光が入ってくる入り口です。目から光が入ってくることによって、あたかも全身が明るくなったように感じます。目を閉じたり目隠しをしていれば、光があっても、その光は体の中には届かず、全身が暗くなったように感じます。

主イエスは、「あなたの目が澄んでいれば、あなたの全身が明るい」と言われます。澄んだ目とは、光をまっすぐにとらえ、自分の体の中に受け入れる目のことです。光が照らしていても、その光から目をそらしたり、光とは反対の方向を向いていては、澄んだ目を持っているとは言えませんし、全身も明るくなりません。澄んだ目とは、まことの光であり、救いと命の光である主イエスと出会い、その福音を従順な心で聞き、受け入れ、信じることを言うのです。

そのような澄んだ目で主イエスの福音の光を受け入れるならば、それによって、その人の全身が明るくなると36節で語られています。まことの光である主イエスによって、その人の全身が明るく照らされるのです。その人は、まことの光の中に招き入れられ、まことの光に包まれたようになるのです。それが、わたしたちキリスト者であると主イエスは言われます。また、パウロはそのようなキリスト者のことを、ガラテヤの信徒への手紙2章20節で、「生きているのは、もはやわたしではない。キリストがわたしの内に生きておらるのだ」と言っています。そこから、わたしたちキリスト者の新しい信仰生活が始まります。

その新しい信仰生活を、きょうの箇所から二つにまとめてみましょう。一つは、わたしたちがまことの光である主イエスによって照らされるなら、わたしたちの中にあった闇が追い払われ、主イエスの光を反射して生きる者とされるということです。主イエスの十字架と復活の福音によって罪ゆるされている者として、その罪のゆるしの恵みに感謝して生きる者とされるのです。主イエスは「あなたがたはこの世の光である」と言われました。コリントの信徒への手紙二2章15節では、キリスト者は主キリストによって神にささげられた良い香りであると言われています。わたしたちキリスト者は、主イエスの光を反射し、主イエスの香りを放つ存在とされているのです。

 第二には、そのようにして、まことの光によって照らされているキリスト者は、この世を支配している闇に対して信仰によって戦いをいどみ、絶えず襲ってくる罪の誘惑と戦いつつ、ついにはそれに勝利する約束に生きるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちを罪と悪が支配するこの邪悪な世から守ってください。あなたのみ心を行う信仰者としてください。そして、ついにはあなたのみ国が勝利することを信じさせてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

9月14日説教「イスラエルのエジプト脱出」

2025年9月14(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記12章21~42節

    ローマの信徒への手紙6章15~23節

説教題:「イスラエルのエジプト脱出」

 エジプトで奴隷の民として苦難の中にあったイスラエルは、ヘブルの暦でニサンの月の14日夕方に、一歳の小羊をほふり、その血を家の入り口の2本の柱とかもいとに塗り、夜にはその肉を焼き、パン種を入れない固いパンと苦菜とを添えてその肉を食べました。これが過越の祭りの最初となりました。その過越の祭りの定めが、出エジプト記12章1~13節に書かれたいます。そして、14節では、【14節】と命じられています。イスラエルの民はその日の夜中に、エジプトの奴隷の家から脱出をしたのですが、それ以降、彼らが40年間荒れ野を旅した間も、約束の地カナンに着いてからも、千数百年間にわたって、毎年ニサンの月の14日には欠かすことなく、家族がみな集まり、過越の祭りを祝い、過越の食事を食べるという習慣を守り続けてきました。

 過越の祭りは、神の民イスラエルの誕生を祝う祭りであり、神が彼らをエジプトの奴隷の家から解放してくださり、彼らの命を小羊の血によって贖ってくださったことを神に感謝する礼拝でした。イスラエルの血につながるユダヤ人は、だれでも、どこに住んでいても、必ず過越しの祭りを守るようにと、律法で定められていました。

 新約聖書には主イエスもまた家族と、あるいは弟子たちとこの過越の祭りをエルサレムで祝ったことが書かれています。主イエスの時代には、子羊をほふってその血を神にささげるという礼拝は、エルサレム神殿でしか許可されていませんでしたから、ユダヤ人はみなエルサレムまで巡礼をして過越の祭りを祝う必要があったからです。主イエスが神の国の福音を宣べ伝えて公の宣教活動を行われたのは3年間ほどと推測されていますが、福音書を読むと主イエスがエルサレムで過越の祭りを祝われたのが通算して3回であったということから、そのように考えられています。

 けれども、主イエスはそれまでと同じように過越の祭りを祝われたのではありませんでした。主イエスが弟子たちと最後に祝った過越の食事、それが一般的に最後の晩餐と言われているのですが、その食卓で、主イエスは過越しの食事に全く新しい意味をお与えになったということを、わたしたちは福音書の終わり近くの受難週の記録から知らされています。すなわち、子羊の血がイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から贖いだすという過越の祭りは、主イエスの十字架の死と復活によってその役割を終えることになったということです。そして、十字架で流される罪のない神のみ子の尊い血が、イスラエルだけでなく、全人類のすべての人々の罪を、永遠に贖い、罪と死から救い出し、主イエスの三日目の復活によって、信じるすべての信仰者に神の国での永遠の命の保証が与えられるという福音が、新しい過越の食事である聖餐によってわたしたちに与えられたということです。

 では、きょうは出エジプト記12章21節から読んでいくことにしましょう。【21~23節】。6節以下の、神が過越の食事を制定された箇所で語られていたことが、ここで繰り返されています。モーセは神が彼に語られたことを民の長老たちに伝えます。これがモーセの務めです。モーセは最初の預言者です。彼自身は、このつとに召されたときに、何度も神の招きを断りました。「わたしは口が重く、舌の重いものです」と(4章10節)。けれども、預言者は自分の言葉を語るのではありません。自分の能力で語るのでもありません。神がお語りになった言葉を、いわば口移しで、神がお与えくださる霊の力によって語るのです。預言者に必要なことは、ただ神の命令に従順であることです。

 預言者モーセの言葉を聞いたイスラエルの長老たちと民は、それに従います。この夜の最初の過越の食事は、まだそのことが起こっていないときに、信仰によって実施されました。まだイスラエルの民はエジプトを脱出してはいません。まだ滅ぼす者がエジプト人を撃っていません。まだイスラエルの奴隷の状態は続いています。けれども、彼らは信仰によって、すでに神の裁きのみ手から救われているように、すでにエジプトに勝利しているかのように、すでに自由の民とされているかのように、最初の過越を祝うのです。

 次に、【24~28節】。すでに14節で、イスラエルが過越の祭りを毎年繰り返し、いつまでも守り続けるべき重要な祭りであることが言われていました。それがイスラエル誕生の原点であり、イスラエルがそののちに神の民として生きていく原点でもあるからです。イスラエルは自分たちの誕生の原点、救いの原点、自由と解放の原点であるこの出来事を決して忘れませんでした。そして、毎年各家庭で祝われる過越の祭りの中で、その信仰を受け継いでいったのです。過越の食卓は、たんに祝いの食事をおいしく食べる時であるのではなく、家族全体と特に子どもたちの信仰教育の時であり、信仰告白の時でありました。「主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々を過ぎ越し、我々の家を救われたのである」という信仰告白によって彼らは生きていくのです。この信仰の家庭によって、神の民イスラエルは形成されていくのです。

 29節からは、イスラエルの家庭で最初の過越の食事が祝われているまさにその夜に、エジプトの家々で起こっている初子の死について書かれています。王ファラオの家からエジプト全土のすべての家の長男と家畜の初子が、滅ぼす者によって撃たれて死ぬという奇跡が起こりました。そして、その大いなる災いを恐れたファラオは夜中のうちにモーセとアロンを呼び寄せて、早くこの国から出ていくようにと要求します。

 【31節】。今まで、イスラエルの民を解放することをかたくなに拒んできたファラオが、ここでは「早く出ていくように」と要望しています。神はモーセとアロンにそのことをあらかじめ何度も語っておられました。エジプトで二人が神の杖によって行った9つの災い、奇跡のみわざを見て、いったんはイスラエルの解放を約束していながら、すぐに翻してきたかたくなになったファラオが、ついにイスラエルの主なる神の権威と力とを認めざるを得なくなり、これ以上エジプトでの被害が広がることを恐れて、イスラエルの民を追い出すのです。イスラエルが主なる神を礼拝する民となることを認めざるを得なくなるのです。イスラエルの主なる神がついにエジプトの王ファラオとすべてのエジプトの神々とに勝利されたことをわたしたちは知らされます。

【37~39節】。いよいよイスラエルのエジプト脱出が決行されます。イスラエルの民は長い期間ナイル川の流域ラメセスに住み、穀物貯蔵のための倉庫造りとレンガ焼きの労働についていました。彼らが400年余り前にエジプトに移住したときには、ヤコブの12人の兄弟たちとその家族70人であったと、1章5節に書かれていました。それが、出エジプトの時には壮年男子だけでも60万人であったと、きょうの箇所には書かれています。妻たちや子どもたちの全部を含めると、およそ200万人にも上るであろうと思われますが、それが実際の数であるとは考えられないと、今日の研究者は言います。出エジプト記38章26節や民数記1章46節などでも60万を超える数字が書かれていますが、これには誇張があると考えられています。わずかな数でエジプトに移住したが、神の祝福を受けて、民の数が増え広がったということを、強調していると考えられています。

39節からは、酵母を入れないパンについて書かれていますが、これは15節以下で詳しく定められいた、7日間の種入れぬパンの祭り、除酵祭の起源となりました。イスラエルがその夜に急いでエジプトを出たために、パン種を仕込んだ柔らかなパンを食べることができなかったから、また、エジプトでの苦しい生活と、その苦しみから救ってくださった神の救いの恵みの大きさを覚えるために、種入れぬパンの祭りは過越の祭りと結合して、イスラエルの出エジプトを記念し、お祝いする重要な祭りとなったのです。

わたしたちここで改めて、イスラエルの民が過越の祭りと種入れぬパンの祭りで覚え、祝い、感謝してきた内容について、まとめてみたいと思います。この二つの祭りで最も強調されている点は、出エジプトの出来事は最初から最後まで、そのすべてが主なる神の強い意志と大きな愛に貫かれているということです。紀元前13世紀ころのエジプト王朝の絶対的な権力と軍事力の中で、寄留の民、奴隷の民であったイスラエルが、なぜ、どのようにして、その奴隷の家から解放されることができなのか。それはイスラエル自身の何らかの働きや力によるのではなく、すべては主なる神のイスラエルに対する愛であり、また、神がかつてアブラハム、イサク、ヤコブと誓われた約束を成就しようとする神の強い救いの意志であったということです。神は奴隷の民であるイスラエルを選ばれ、これを愛され、この民をご自身の宝の民とされたのです。イスラエルの出エジプトは、このような神の強い愛の意志、救いの意志に貫かれています。

さらに言うならば、神はこの大きな愛のゆえに、イスラエルやその指導者であるモーセの疑いや迷い、弱さや、時には彼らの挫折をもお用いになって、彼らの救いに必要なすべてのみわざを、彼らに先立って行われたということです。それだけでなく、エジプト王ファラオのかたくなさや反逆をすらもお用いになって、神がご自身の偉大さ、その全能のみ力、権威をお示しになりました。神は人間たちのすべての罪をお用いになって、全人類の救いのみわざをなさるのです。

第三に、神はご自身の救いのみわざをイスラエルが決して忘れないように、いつまでもその救いの恵みの中にとどまっていることができるように、彼らに過越の祭りと種入れぬパンの祭りを定められました。イスラエルは神を礼拝する民として、絶えず繰り返してこの祭りを祝い、感謝して、神への喜ばしい服従の生活を続けるのです。イスラエルの出エジプトは、このような神を礼拝する民の形成を目指していたということを、今一度確認しておきましょう。

そして、今確認した三つのことは、主イエス・キリストの十字架と復活のみわざによって罪から救い出されているわたしたちにもそのままに当てはまります。神はみ子主イエス・キリストによってわたしたちの救いのためにすべてのみわざを成し遂げてくださいました。神はわたしたちのすべての罪、不従順、疑い、弱さや欠けをもゆるしてくださいました。そして、わたしたちをこの教会の礼拝の民の一人としてお招きくださいました。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちを罪の奴隷から解放してくださり、わたしたちが自由と喜びとをもってあなたに従っていく道を備えてくくださいましたことを、心から感謝いたします。どうか、多くの人たちがこの救いに招かれますように。重荷を負っている人、道に迷っている人、苦難の中にある人、孤独な人を、あなたが顧みてくださり、まことの光で照らしてくださいますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

9月7日説教「神の契約の成就としての福音」

2025年9月7(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書52章7~10節

    ローマの信徒への手紙1章1~7節

説教題:「神の契約の成就としての福音」

 ローマの信徒への手紙1章1~7節は、当時の手紙の書式にならっています。まず、差出人であるパウロの名前と簡単な自己紹介が1節に書かれています。普通であれば、その次に手紙の受取人であるローマの教会の名前が挙げられ、それから差出人から受取人へのあいさつが続くというのが、一般的です。その書式に従えば、1節から直接には7節へと続くことになるはずですが、その間に2節から6節までの長い文章が挿入されたかたちになっています。日本語の翻訳でも、そのことが分かるように1節の終わりと6節の終わりに線が引かれています。2節から6節までが挿入文だということが分かります。

 パウロは1節で、自己紹介をするにあたって、自分が「神の福音のために選び出され、召されて使徒となった」と書いた後で、もとのギリシャ語原典では、「神の福音」という言葉が1節の最後に置かれているのですが、その「神の福音」という言葉を受けて、その福音とはいかなるものであるかを2節から6節で説明しているわけです。そのことは、手紙の正式な書式からすれば、いわば寄り道と言えるかもしれません。まだ、手紙の差出人の名前しか書いておらず、受取人がだれであるのかも、あいさつもまだ済んでいないのに、いきなりの寄り道です。いきなり、わき道にそれています。

 でも、パウロにとっては、それは余計な寄り道では決してありません。「わたしは神の福音のために選び出され、召された」と書いた、その「神の福音」こそが、彼がこの手紙でローマの教会に語ろうとしている中心的な主題であるからです。自分を紹介して「神の福音のために」と書きだした、まさにその時に、パウロの思いは熱くなり、抑えきれなくなって、手紙の本文で書くべきそのことを、あふれる思いにかき立てられるかのようにして、2節からすぐに、「この福音は」と語らざるを得なくなった、「わたしはあなたがたにこの福音を語りたいのだ」というパウロの熱意と激しい息遣いというものを、わたしたちはここに感じ取るのです。

 2節から6節までの挿入文にはもう一つの意味があります。この挿入文によって、1節の差出人と7節の受取人とが引き離されたようなかたちになっているのですが、実はその反対で、この挿入文で語られている「神の福音」が、またその内容である主イエス・キリストが、両者を固く結びつけているのだということに、気づかされます。まだ出会ったことがないパウロとローマの教会、遠くに離れているパウロとローマの教会とを、「神の福音」が結びつけているのです。「神の福音」によって与えられる親しい兄弟姉妹の愛と信仰の交わりが両者を結びつけているのです。

 パウロとローマの教会については、5節と6節に少し具体的に紹介されています。ユダヤ人であるパウロ、使徒であるパウロと、異邦人であるローマの教会とを、「神の福音」が一つの神の民として結びつけ、はるかに遠くにいる両者を、民族の違いをも乗り越えて、一つの信仰による交わりによって固く結びつけているのです。また、パウロはこの手紙の中で、何度もローマの教会に対して「兄弟たちよ」と親しく呼びかけていますが、「神の福音」はそのことをも可能にしているのです。

 ここにこそ、教会の真実の交わりがあります。ともに神の福音を聞くことによって、共に主イエス・キリストの福音を聞き、信じ、罪ゆるされ、神の国の民とされていることによって、わたしたちもまた一つの神の家族とされ、一つの兄弟姉妹の交わりの中へと招かれているのです。

 では、2節を読んでみましょう。【2節】。きょうはこの2節のみ言葉を深く学んでいきましょう。冒頭の「この福音」が1節の「神の福音」を指していることは今確認したとおりです。パウロを主イエス・キリストの使徒として召した神の福音、また6節にあるように、ローマの教会をも召した神の福音のことです。これは、「神の」ですから、人間のとか、この世のとか、他の何かのではなく、「神の」です。「天におられる、全能の父なる神」とわたしたちが信じている神から与えられた福音です。したがって、一つの国とか民族にとって福音であるだけでなく、一部の人たちにとっての福音でもなく、ある世代の人たちにとっての福音であるのでもなく、地に住むすべての人にとっての、永遠に変わらない、唯一の福音であるということです。

 「神の福音」の「の」は、一般的には主格的属格と考えられます。「の」には、大きく分けて所有格的属格と主格的属格があります。「わたしの聖書」と言えば、「わたしが持っている聖書」という意味で、これは所有の属格です。「神の言葉」とは、「神が語られる言葉」、これは主格的属格とか行為の属格と言います。「神の福音」は、後者の用法ですが、さらに深い意味を持っています。ある人はこれを「創造者の属格」と名づけています。「神の福音」とは、神がわたしたちにお与えくださった福音、神がお伝えくださった、あるいは神がもたらしてくださった福音という意味だけでなく、神が何もない所から全く新たに創造された福音、そして、ただ全能者であられる神だけが創造することができる福音という意味をここに読み取るべきだと言うのです。

 創世記1章のみ言葉を思い起こしてみましょう。「初めに、神は天地を創造された。……神は言われた。『光あれ。』こうして光があった」と書かれています(1節、3節)。神はみ言葉をお語りになることによって、闇の中に光を創造され、無から有を呼び出だすようにして、死から命を生み出すようにして、天地万物とわたしたち人間を創造されました。神の創造とは、神のみ言葉が新しい現実を生み出すということです。

 神の福音もまた同じように、罪と死に支配されているこの闇の世界に、人間たちの邪悪と不正義に覆われているこの時代に、あるいは不安と孤独に病んでいるわたしたちの現実に、神がすべての人を照らすまことの光を創造し、全人類のための喜ばしいおとずれを創造してくださったということなのです。それは、この世にあるどのような福音よりも大いなるものであり、永遠なるものであり、普遍的であり、この世界とわたしたちの現実を上から覆い、その福音の命と力によって、新しい現実を創造していくような神の福音なのです。それはまた、人間の罪をゆるし、死を命に変え、邪悪と不正義とを愛と平和とに変え、不安と孤独とを喜びと共にある交わりに変えるのです。そのような神の福音を、神はこの世界に、わたしたちのために創造してくださったのです。パウロはそのような神の福音を、今語ろうとしているのです。

 パウロは2節で、その福音について具体的に語りだします。ここでは、3つのことが語られています、一つは、この福音は神がお遣わしになった預言者たちによって預言されていたということ、二つには、聖書の中に書き記され、保存されてきたということ、そして三つに、古い時代から神によってあらかじめ約束されていたということです。この三つの内容についてさらに詳しくみてきましょう。

 第一に、神の福音はパウロ以前にも、またパウロと同時代のキリスト者たちよりも前に、多くの証人たちを持っているということです。神の福音は神のみ子主イエス・キリストによって最終的に世界にもたらされましたが、それ以前にも旧約聖書の中で多くの証人たち、預言者たちが神の福音を証し、預言してきました。ヘブライ人への手紙1章1、2節にはこのように書かれています。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」。11章では、カインとアベルから始まって、ノア、アブラハム、モーセなどの旧約聖書の信仰者たちの名前を挙げたあとで、12章1、2節で次のように言います。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐をもって走りぬこうではないか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら……」。

 このように、旧約聖書の信仰者たち、預言者たちはみな主イエス・キリストを指し示し、証し、預言したのです。そして、終わりの日に神がお遣わしくださるメシア・キリスト、救い主を待ち望んでいたのです。このように、神の福音は多くの証人たちに取り囲まれている確かな真理なのです。

 第二は、神の福音は聖書の中に、すなわち旧約聖書の中に書き記され、保存されてきたということです。神の福音は、主イエス・キリストとしてはっきりとした姿をもって現される以前から、いわば隠された姿で、しかし確かな文書として、千年以上もの長い期間、大切に保存されてきました。旧約聖書の民イスラエルは、この聖書を神の言葉として、神への恐れと信仰をもって書き記し、保存し、礼拝で朗読し、学び、そのみ言葉に従ってきたのです。一字一句をもおろそかにせず、それに付け加えたり差し引いたりせず、神の言葉として読み続けてきたのです。そして、そこに預言されている神の福音の成就の時を待ち望んできました。

 わたしたちもまた、この聖書の中に(わたしたちとっての聖書は、旧約聖書と新約聖書ですが)、その中に神の福音のすべてが余すところなく、また不足するところなく、完全に証しされていると信じます。神はこの聖書の中で、わたしたちの救いにとって必要なすべてのことをお語りくださいました。わたしたちが神の福音、主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって罪ゆるされ、救われために必要なすべてが、聖書にあると信じています。

 第三に、神の福音は神がずっと以前から、天地創造の初めから神が予定され、計画されていた永遠なる約束であり、今それが主イエス・キリストによって成就したということです。わたしたち人間がそれを願い求めるはるか以前に、否、わたしたちがまだそれを求めていないときに、その必要性にまだ気づいていなかった時に、わたしたちがまだ罪の中に眠りこけていた時に、神ご自身の方からわたしたちに救のみ手をさしのべ、ご自身のみ子をこの世にお遣わしになったのです。

 パウロは弟子のテモテにあてて書いた手紙でこのように言っています。テモテへの手紙二1章9~10節を読んでみましょう。「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現わしてくださいました」。

 神の福音、主イエス・キリストの十字架と復活の福音は、永遠の昔から永遠の終わりに至るまで、変わることなく真実であり、確かであり、その福音を信じるわたしたちを罪と死と滅びから救い、永遠の命を与えるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたはわたしたちを罪と死と滅びから救い出してくださり、み国にある永遠の命の約束をお与えくださいました。この世のものがすべて変わりゆき、過ぎ去ろうとも、あなたのこの約束は永遠に真実であり、確かであると信じます。どうか、わたしたちが朽ちゆくものに心を奪われることなく、永遠なるみ国へと目を向け、天に蓄えられている、朽ちず汚れずしぼむことのない財産を受け継ぐ者としてくださいますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

8月31日説教「エルサレム使徒会議でのペトロの証言」

2025年8月31(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書56章1~8節

    使徒言行録15章6~11節

説教題:「エルサレム使徒会議でのペトロの証言」

 使徒言行録15章に記されているエルサレム使徒会議が開催されたのは、パウロとバルナバによる第一回世界伝道旅行が終わって間もなく、紀元48年か49年と推測されています。主イエスの十字架の死と復活、そしてペンテコステの聖霊降臨とエルサレム教会誕生が紀元30年ころとすれば、それからわずか20年足らずの間に、教会は驚くべき発展と成長を遂げてエルサレムから北のサマリア地方、さらにはその北のシリア州へ、その中心はパウロとバルナバが属していたアンティオキア教会でしたが、そしてさらにその北の小アジアの各地へと拡大していったということを、わたしたちはこれまで読んできました。

 このような教会の急激な成長・発展のエネルギー源は、神の言葉そのものの力と命であり、主イエス・キリストの福音の恵みの豊かさであり、そして聖霊なる神のお働きであるということをも、わたしたちは何度も確認してきました。神の言葉は、この世のどのような鎖によっても決してつながれることはありません。聖霊は無から有を呼び出だし、死から命を生み出す神であられます。そのことは、今日のわたしたちの時代にも全く変わりません。わたしたちもまたそのことを固く信じて、福音宣教の務めに仕えていきたいと思います。

 主キリストの福音がパレスチナ地域から全世界へと拡大していったことは、同時に、ユダヤ人からユダヤ人以外の異邦人へと広がっていったことでもありました。そしてそこから、いわゆるユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との間に、信仰理解の違いが生じようになりました。15章1節にこのように書かれています。【1節】。ユダヤ人キリスト者は、生まれて8日目に男子はみな割礼を受けていましたが、異邦人キリススト者にはその習慣はありません。割礼はユダヤ人が神に選ばれ、神の契約の民となったことのしるしとして、アブラハム以来最も重要な慣習として守り続けてきた儀式です。割礼を受けていない異邦人キリスト者も割礼を受けて、旧約聖書以来の神の契約の民の仲間に加わらなければ、洗礼だけでは不十分だと、ユダヤ人キリスト者たちは考えたのでした。

 エルサレム教会はほとんどがユダヤキリスト者でしたから、そのような意見が特に強く、一方、アンティオキア教会の多くはギリシャ人で、割礼を受けていない人がほとんどでしたから、エルサレム教会から来た人たちがアンティオキア教会にやって来て、「あなたがたも割礼を受けなければ救われない」と主張したということです。そこで、アンティオキア教会を代表するパウロやバルナバとエルサレム教会から来た人たちとの間に激しい論争が生じました。そこで、この問題を協議するために、エルサレム教会に集まって教会会議を開催することになりました。これがエルサレム使徒会議です。

 6節にこう書かれています。【6節】。この教会会議に出席した代議員は「使徒たちと長老たち」と書かれています。22節でも、使徒たちと長老たちと言われています。使徒とは、教会の中で主に説教の務めを担当し、時には教会の外へ出張伝道の働きをする務めを指し、長老とは、教会の中で選ばれ、信徒の教育や指導、貧しい人たちへの配慮などを担当していたと推測されます。説教をする、いわば聖職者だけでなく、教会で選ばれた長老の代表者をも加えた教会会議であったと推測できます。

これは、今日のわたしたちの教会、日本キリスト教会の長老制とほぼ同じです。説教職の牧師だけで会議をする監督制ではなく、牧師と信徒全員が集まる会衆制でもなく、牧師と教会で選ばれた長老の代議員で会議をする長老制をわたしたちの教会が採用しているのは、聖書に記録されている初代教会の教会運営の在り方に最も近いからです。

 アンティオキア教会の使徒職はパウロとバルナバ、長老職は2節にあるように数名が出席し、エルサレム教会からはおそらく主イエスの12弟子を受け継ぐ使徒たち、そのリーダーはペトロですが、それから教会で選ばれた長老たち、彼らが最初に選ばれたのは、6章1節以下にある最初の殉教者となったステファノをはじめとする7人でした。また、13節で発言しているヤコブ、この人は主イエスの実の弟で、主イエスの復活ののちにエルサレム教会員となり、このころはペトロと共に教会の指導的な立場にありました。彼はエルサレム教会の長老であったと思われます。二つの教会以外に他の地域からの出席者があったのかどうかについてははっきりしませんが、このエルサレム使徒会議での決議事項は当時の世界の諸教会全体の決議として公認されたことが、22節以下の使徒書簡が諸教会で回覧されたことから推測できます。

 では次に、7節からのペトロの証言の前半について読んでみましょう。【7~9節】。ペトロは主イエスの12弟子のひとりであり、エルサレム教会のリーダーでした。彼はユダヤ人であり、割礼を受けたキリスト者でしたが、彼は5節のファリサイからキリスト者になった人たちとは違った意見を表明します。ペトロがここで証言している出来事は、10章に詳しく書かれていた、カイサリアでのコルネリウスと彼の一族が集団で洗礼を受けたことです。コルネリウスはローマ軍の百人隊長でした。ユダヤ人ではない異邦人でしたが、ペトロと出会い、ペトロの働きによって、主イエス・キリストを救い主と信じる信仰へと導かれたのでした。これは、最初の異邦人伝道の大きな成果として、使徒言行録ではかなり長い10章全体をさいて記録しています。主なる神はこの最初の異邦人伝道のために、ペトロをお用いになってのです。

 それを簡略に振り返ってみましょう。ある日、ペトロは不思議な幻を見ました。空から大きな入れ物が降りてきて、その中にはユダヤ人が食べてよいと律法で定められていた清い動物と。食べるなと命じられていた汚れた動物が一緒に入っていました。その時、神はどの動物もすべては清い動物になったのだから、どれでも食べなさい、と言われました。同じことが3度もあったので、ペトロはそのことの深い意味を考え、これは神が今まではユダヤ人と異邦人とを区別しておられたが、主イエスが全人類の救い主となられたのだから、今はその区別がなくなった。すべての人が神の救いへと招かれている。そのことを、神はこの不思議な幻でお示しくださったのだということに、ペトロは気づたのでした。

 そして、彼は異邦人コルネリウスの家に入り、主イエスの十字架の死と復活の福音を語りました。10章44節以下を読んでみましょう。【44~48節】(234ページ)。

 このようにして、神はユダヤ人キリスト者であるペトロをお用いになって、異邦人であるコルネリウスとその一族に聖霊をお授けになり、主イエス・キリストを信じる信仰をお与えになり、彼らの罪をおゆるしになって、神の国の民にお加えになったのです。神はユダヤ人であるか異邦人であるかに関係なく、したがって、割礼があるかないかにも関係なく、律法を守っているかどうかにも関係なく、主イエスの福音を信じる信仰だけによって、信じる人に聖霊を注ぎ、救いの恵みをお与えくださったのです。ペトロはそのことを彼自身が体験し、知らされたのだと、ここで証言しているのです。

 ペトロは続けてこういいます。【10~11節】。「先祖もわたしたちも負いきれなかった軛」とは、イスラエルの民に与えられた「律法」のことです。ペトロはユダヤ人が重んじていた律法を、だれもそれを負うことができない、つまり、だれもそれを完全に守り行うことができない重荷であると言うのです。これは主イエスご自身のお考えと一致しています。主イエスはマタイ福音書23章で、律法学者たちを批判してこのように言われます。「彼らは追いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために指一本貸そうともしない」(23章4節)と。

 律法は神がイスラエルにお与えになった戒めです。それはイスラエルが誤った道に進まないように導く、いわばたずなのようなものでした。また、律法はだれもそれを完全に守り行うことができると誇ることができない、いわば高いハードルでもあり、重荷、軛でもありました。なぜならば、だれも完全に神のみ心を行うことができず、律法を行おうとすればするほどに、律法を完全に行うことができない人間の罪が明らかにされるからです。パウロがローマの信徒への手紙3章20節で、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」と書いているとおりです。

 主イエスはそのような律法の重荷からイスラエルの民と全人類とを解放するために、この世界に来てくださったのです。マタイ福音書11章28以下で、主イエスはこうに言われます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(28~30節)。

主イエスご自身が、十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従され、だれも人間が行うことができなかった律法を完全に成し遂げられました。したがって、もはやだれも律法を行うことによって救われる道を歩む必要はなくなり、主イエスを信じる信仰によって救われる道が開かれたのです。ユダヤ人であれ、異邦人であれ、だれ一人律法の重荷やくびきを負う必要は、もはやありません。パウロは、ローマの信徒への手紙3章22節以下でこのように書いています。「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべての与えられる神の義です。……ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(22~24節)。

 使徒会議の証言に立ったペトロは、11節でこう言います。【11節】。ユダヤ人も異邦人・ギリシャ人も、そしてわたしたち一人一人も、ただ神の恵みによってのみ、そしてこの救いを信じる信仰によってのみ、神のみ前に義とされ、罪ゆるされ、救われるのです。その救いの真理を、ペトロはコルネリウス一族の異邦人伝道によって経験したのでした。このペトロの証言によって、ユダヤ人と異邦人の救いに関する論争がテーマであったエルサレム使徒会議の議論に終止符が打たれ、会議の出席者全員がこの救いの真理を承認したのでした。そしてそれが、今日の全世界の救いの真理として、すべての教会で信じ告白されているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの救いのみわざは、かくも偉大であり、永遠であり、確かな真理であります。あなたは罪びとであるわたしたちを罪から救うために、あなたの聖なるみ子を十字架におささげくださるほどに、わたしたちを愛してくださいました。あなたのこの大きな愛からわたしたちを引き離すものは、何もありません。罪も死も、この世の悪の力も、どのような試練や災いも、この救いの真理からわたしたちを引き離すことができないことを、固く信じさせてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

8月24日説教「ヨナのしるしと主イエスのしるし」

2025年8月24(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:ヨナ書2章1~11節

    ルカによる福音書11章24~32節

説教題:「ヨナのしるしと主イエスのしるし」

 前回学んだルカ福音書11章16節に、こう書かれていました。【16節】。きょう朗読された29節からの主イエスがお話になったヨナのしるしについての説教は、しるしを求めるユダヤ人に対する主イエスのお答えです。ユダヤ人が主イエスに天からのしるしを求めたという記録は、ルカ福音書ではこの箇所だけですが、マタイ福音書では12章38節以下と16章1節以下の2か所に記されています。いずれも、ファリサイ派やサドカイ派という当時のユダヤ教の指導者たちが、主イエスに対して、主イエスが確かに神から遣わされたメシア・救い主であるならば、その証拠となるしるしを見せて欲しいと、要求しています。彼らは主イエスが神の国の説教をしたり、罪のゆるしを宣言したり、また驚くべき奇跡をしているのを見て、どうしてそのようなことができるのか、その権威はどこからきているのかを確かめたいと願ったのでしょう。

 パウロはコリントの信徒への手紙一1章22節で、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探す」と言っています。ユダヤ人はしばしば主イエスに対して、「天からのしるしを見せて欲しい。それを見たら、信じよう」と要求していました。そして最後には、「今すぐ十字架から降りるがよい。そうすれば、信じてやろう」(マタイ福音書27章42節)と言って、十字架の主イエスをあざ笑いました。しかし、パウロは「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えます」(コリントの信徒への手紙一1章23節)と宣言しています。わたしの罪のために、わたしに代わって十字架につけられた主イエスをわたしの救い主と信じる信仰こそが、わたしをすべての罪から救うのです。

 ルカ福音書の前の箇所、14節以下で、主イエスが神からの権威によって悪霊を追い出していると言うのなら、そして、主イエスが神の指で悪霊を追い出す時に、神の国はあなたがかのところに来ていると言うのなら、その証拠を見せて欲しい、確かなしるしを見せて欲しいと、彼らは要求しているのです。

けれども、そのような目に見えるしるしを求める信仰、しるしを必要とする信仰は、本当の信仰と言えるでしょうか。どうか、考えてみてください。自分が信じ、従おうとしている神が、もしかして、やがて自分を裏切って信じるに値しない神になるのではないかと疑いながら信じる信仰が、はたして本当の信仰と言えるでしょうか。この信仰にわたしの全生涯をかけてもよいかどうかを疑いながら信じる信仰、あるいは、わたしが信じる神が唯一の永遠の真理であるのかどうかを証明する証拠や目に見えるしるしを求める信仰は、本当の信仰と言えるでしょうか。わたしがもはや一点の疑いもないほどに、わたしが再び迷ったりつまずいたりしないで済むような確かな保証としるしを要求する信仰は、いったい本当の信仰と言えるでしょうか。

ユダヤ人がそのようなしるしを求めたのに対して、主イエスはこうお答えになりました。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしは与えられない。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」(29節)と。主イエスは、しるしを求める時代は邪悪でよこしまであると言われます。主イエスはこのような時代について他の箇所では、不義な時代、不信仰な時代、曲がった時代、罪深い時代とも言われます。しるしを求める信仰、しるしを必要とする信仰は、もはや信仰ではなく、いや、むしろそれは不信仰なのであり、罪なのだと言われるのです。

ではここで、主イエスご自身のご生涯のことを考えてみましょう。主イエスはご自身が神のみ子であり、キリスト・メシア、救い主であることを保証するしるしを、ことごとく拒否されたということに、わたしたちは気づきます。誕生の時にすでにそうでした。主イエスは全人類の唯一の救い主として誕生されましたが、だれにも注目されない、そまつで貧しい家畜小屋の飼い葉おけの中に布にくるまれて寝かされておりました。ルカ福音書2章12節には、「これがあなたがたへのしるしである」と書かれています。

荒れ野での誘惑の時にもそうでした。悪魔は「おまえが神の子ならば……」と、三度主イエスを誘惑しましたが、主イエスは三度とも神のみ子であることのしるしを拒否されました。主イエスの裁判の時には、ことさらに一切のしるしを拒否されたことをわたしたちは知っています。裁判の席でヘロデ王の前に立たれた主イエスは、しるしや奇跡を期待していたヘロデ王に何もお答えになりませんでした。

そして、十字架の上では、「もしあなたが神の子ならば自分自身を救え。そして、十字架から降りてこい。そうしたら信じよう」と叫ぶ人々の要求を、主イエスはすべて拒否され、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」との祈りによって息を引き取られました。主イエスはこのようにして、地上での全ご生涯において、ご自身が神のみ子であり、メシア・キリストであることを保証するしるしを一切お用いにはなりませんでした。

また、復活された主イエスは、疑う弟子のトマスに対して、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました(ルカ福音書20章29節)。ヘブライ人への手紙11章1節にはこのように書かれています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することである」と。

わたしたちの信仰は、しるしを見て信じる信仰ではありません。何かの化学的、物理的論証や実験によって証明されるような信仰でもありません。わたしたちの信仰を確かなものとして保証するのは、神ご自身です。神の言葉である聖書です。聖書に証しされ、宣べ伝えられた主イエス・キリストの十字架と復活の福音を聞き、そして信じる信仰です。主イエス・キリストがわたしの罪のために十字架に死んでくださり、ご自身の汚れのない尊い血によってわたしの罪をすべて贖ってくださった。それによって、わたしの罪が永遠にゆるされている。そのことをわたしが信じ、告白するならば、神はわたしをご自身のみ国の民の一人としてくださり、み国での永遠の命を約束してくださいます。その信仰によって、わたしは救われるのです。その信仰はいかなるしるしをも必要としません。神ご自身が、聖霊によって、わたしの信仰を保証し、確かなものとしてくださるからです。したがって、わたしたちは他のすべてのしるしや保証を放棄することによって、その信仰が強めらるのです。ただ信仰によって生きるときに、その信仰がわたしの希望となり、生きる力となり、また永遠の慰めとなるのです。

主イエスは、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言われました。これは、ヨナのしるしだけで、十分だ、ヨナのしるしを見て、聞いて、信じることを、神はあなたがたに求めておられるのだという意味です。

では、そのヨナのしるしとはどのようなものでしょうか。30節と32節を読んでみましょう。【30、32節】。並行箇所であるマタイ福音書12章40節以下では。もう少し詳しく語られていますので、そこを参考に読んでみましょう。【40~41節】(23ページ)。ヨナの説教を聞いて罪を悔い改め、神に立ち帰ったニネベの人たちにとって、ヨナがしるしとなったように、否、ヨナにもはるかにまさる主イエスこそが今の時代に対してより大きな、確かなしるしとなるであろうと、主イエスは教えておられるのです。

主イエスが今の時代に対してヨナ以上のしるしとなるとは、具体的にどのようなことを言うのでしょうか。3つのポイントにまとめてみましょう。第一点は、ヨナが三日三晩大魚の中にいたように、主イエスは十字架で死んで、墓に葬られ、三日目に墓から復活されたというしるし、このしるしによって、主イエスはご自身が神が約束しておられたメシア・キリストであり、全世界の唯一の救い主であることを、今の時代の人々に証しをされたということです。このしるし以外には、他のしるしは今の時代に対して何も与えられることはない。否、このしるしだけで十分である。それゆえに、主イエスの十字架の死と復活の福音を宣べ伝え、その福音を聞いて信じる以外には、わたしたちが救われる道はどこにもない、否、この道だけで十分であるという意味です。

第二点は、ニネベの人々がヨナの説教によって罪を悔い改めたように、主イエスはこの時代のユダヤ人とすべての罪びとたちを、悔い改めへと招いておられるということです。そして、悔い改めるすべての罪びとを、罪のゆるしへと招いておられるということです。悔い改めとは方向転換のことです。これまでは神から遠ざかる方向へと歩んでいた罪びとが、方向転換して、神の方へと向き変わる。そうすれば、神ご自身の方から罪びとへと近づいて来てくださる。主イエスはその道を開かれたのです。神と人間を隔てていた罪という厚い壁を主イエスは取り除いてくださり、わたしが神と出会う道を備えてくださったのです。

第三点は、ニネベの人々がヨナの説教によって悔い改め、救われたという旧約聖書の出来事は、今の時代になってもかたくなに信じようとしないユダヤ人に対する神の最後の裁きのしるしとなるであろうということです。この点については、ソロモン王の知恵を聞くために、南の国からはるばるやって来た女王の例も挙げられています。悔い改めて信じたニネベの人たちも、ソロモンを訪ねて来た南の国の女王も、不信仰で悔い改めることをしないユダヤ人にとっては、神の裁きのしるしとなるのです。

ニネベの人たちも南の国の女王も、ユダヤ人から見れば異邦人であり、神に選ばれた民ではありませんでしたが、その異邦人が悔い改めて救われたということは、自ら選ばれていることを自認し、誇っていたにもかかわらず、悔い改めず、不信仰なユダヤ人に対しては、大きな辱めとなり、神の厳しい裁きのしるしとなるのです。

主イエスの救いは、その背後に、神の厳しい裁きを伴った救いであり、神の最後の裁きからの救いであるということが、ここでは明らかにされています。それゆえに、その救いは、力あるもの、真実なもの、そして大きな、永遠の恵みに満ちた救いなのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、主イエスは不信仰でかたくななわたしたちをもみ前にお招きくださいます。どうか、わたしたちを従順な者としてください。あなたの救いの恵みを感謝して受け取り、またその恵みに応えて、あなたのご栄光をあらわす者としてください。

〇父なる神よ、重荷を負っている人たち、道に迷っている人たち、飢え乾いている人たちを、どうか憐れんでください。あなたからの顧みがありますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

8月17日説教「エジプトで祝う過ぎ越しの祭り」

2025年8月17(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記12章1~20節

    マルコによる福音書14章22~26節

説教題:「エジプトで祝う過ぎ越しの祭り」

 出エジプト記12章には、のちにイスラエルの最大の祭りとなる過ぎ越しの祭りとそれに続く種入れぬパンの祭り(『新共同訳聖書』では除酵祭)が制定されたことが記されています。前後との関連を見てみると、11章では、エジプトで起こる第10番目の災い、すなわち、その日の真夜中に、エジプト王ファラオの家からすべての家々の長男と家畜の初子がみな死ぬという災いについての予告が、神からモーセに、そしてモーセからエジプト王ファラオへと告げられていました。12章では、イスラエルの民の家々で、その同じ夜に、過ぎ越しの祭りを祝うことによって、彼らは災いから守られたことが書かれています。そして、12章29節からは、実際にエジプトで起こった大いなる恐るべき災いを恐れたファラオは、イスラエルの民をエジプトから追い出す決断を下し、イスラエルの民は安全に、また多くの金銀を携えてエジプトから脱出したことが書かれています。

 ここに書かれている過ぎ越しの祭りと種入れぬパンの祭りは、イスラエルがまだ奴隷の家エジプトに滞在しているときに、その最後の夜に、まだ実際には実現していない救いの出来事を、いわば先取りするようにして、祝っていることになります。そして、こののち、エジプトを脱出した彼らが荒れ野の40年の旅の間も、約束の地に到着してからの千年以上の彼らの歩みの中でも、毎年毎年、絶えず繰り返して、救われた恵みを感謝して守り続けてきた祭りでした。そしてそれはまた、わたしたち教会の民が、主イエス・キリストによって新たに制定された聖餐式として、終わりの日まで守り続けるべき大切な祭りとなったのです。わたしたちはこの出エジプト記12章で、その聖餐式の原形となった祭りについて学ぼうとしているのです。

 【1~2節】。1節に「エジプトの国で、主は……言われた」と書かれています。主なる神はまだそのことが起こる前に、そのことが起こるに備えて、エジプトに対する第10番目の災いから救われるために、イスラエルの民に過ぎ越しの祭りを祝うように命じておられます。したがって、ここでは信仰が求められています。神がやがて確かに、エジプトに対する災いを起こしてくださることを信じ、イスラエルの民をその災いから救ってくださることを信じて、そのことをいわば先取りして、彼らはこの最初の過越祭を祝うのです。そしてその次の年からは、神が確かに約束のとおりに彼らを救ってくださったことを感謝し、これからもまた変わることなくすべての災いから救ってくださることを信じて、この過越祭を祝うのです。

今日の聖餐式においてもそうです。主イエスは受難週木曜日の夜に、ご自身がまだ十字架につけられる前に、ご自身の裂かれる肉と流される血とを弟子たちに分かち与えられました。そして、そののち教会の民は実際に主イエスが十字架で裂かれた肉と流された血とを受け取るのです。

 2節も、神の救いの恵みの先取りと言ってよいでしょう。イスラエルが奴隷の家エジプトから解放され、救われるこの日、この月が、イスラエルの誕生の時であり、彼らにとっての初めの月、正月と定められました。ヘブライ語ではアビブの月と言います。アビブは大麦の穂という意味です。大麦を収穫する初めのころ、春3月から4月のころであり、のちにバビロン捕囚以後にはニサンの月と呼ばれるようになりました。

 出エジプトはイスラエルの民の誕生のときであり、過ぎ越しの祭りはその誕生を祝う重要な祭りであるということは、旧約聖書で繰り返し語られています。申命記7章6節以下では、神の選びとの関連で語られています。【申命記7章7~8節】(292ページ)。ここでは、イスラエルを選ばれ、奴隷の家エジプトから彼らを救い出され、ご自身の宝の民とされたのは、神の一方的な、そして強い愛であることが強調されています。主なる神がイスラエルの新しい歩み、新しい歴史を始めさせてくださったのです。イスラエル自身が自分たちの独立運動や革命や戦争によって国を興したのではありませんでした。主なる神の側からの一方的に注がれた強い愛による選び、大いなる救いの恵みによって、イスラエルは誕生し、またそののちも、常に神の側からの一方的な愛の選びと救いの恵みによって生きていくのです。過ぎ越しの祭りはそのことを覚え、感謝し、祝う祭りなのです。

 では、その祭りはどのように行われるのでしょうか。【3~4節】。「イスラエルの共同体全体」とは、神に呼び集められた礼拝の民を指す言葉です。6節の「会衆」と訳されている言葉と同じ意味です。新約聖書の「教会」も同じように、神に呼び出された群れという意味です。過ぎ越しの祭りを祝う食事は、家族ごとに子羊を屠って食べる、家々での祭りですが、それはイスラエルという一つの神の民、礼拝の民に属している家々であるということが、ここでは強調されているのです。のちの時代になって、紀元前7世紀のヨシヤ王の改革を期にして、過ぎ越の祭りはエルサレム神殿を中心にして祝う祭りへと変化していったと考えられています。

一つの家族で小羊一匹を食べきれない場合には、隣りの家族と一緒に食べるように定められたいます。のちになって、一つのグループは10人を下ってはならないと定められました。これは、食べ残しを防ぐためでした。聖なる食事である過ぎ越しの食事で、肉などが残って、それが捨てられたり、他の食事に用いられるのを禁じるためでした。

次に、【5~7節】。1歳になった雄の小羊または小山羊の中から傷のないものを選び分け、それをアビブの月14日までの間、他の家畜から区別しておくように命じられています。それは、神にささげられるべきものとして、聖別されなければならないからです。

アビブの月の14日の夕方にそれを屠り、その血を家の入り口の二つの柱とかもいに塗るように命じられています。そのことの意味については、あとで12節以下に説明されます。【12~13節】。22節以下では、もう少し詳しく説明されています。【22~23節】。

この日の夜に、主なる神はエジプト全土で第10番目の災いを行われるために滅ぼす者となって出て行かれ、エジプトの王ファラオの家をはじめ、エジプトのすべての家々の長男の命を滅ぼされ、またすべての家畜の初子をも滅ぼされますが、しかし、イスラエルの家々には、その入り口の柱とかもいに小羊の血が塗られているので、その前を通り過ぎられ、イスラエルの家は神に打たれることなく、彼らを守られると約束されています。エジプト王ファラオとエジプトの神々に下された神の災いと裁きは、神の民イスラエルにとっては奴隷の家からの解放であり、救いであったのです。神はイスラエルの解放と救いのために、小羊の血をお用いになりました。それによって、のちに新約聖書では、わたしたち罪びとたちを、罪の奴隷から解放し、救うために十字架で死なれた主イエス・キリストを「過越しの小羊」と呼ぶようになりました。

8節からは、過ぎ越しの食事の定めが続きます。小羊または小山羊の肉は火で焼いて食べなければならないと定められています。その理由はよく分かっていませんが、火が汚れを焼き清める働きをすると考えられたからかもしれません。酵母を入れないパンを食べるのは、この夜に急いでエジプトを脱出しなければならないので、あらかじめパン種を仕込んで発酵するのを待っている時間がなかったからです。また、一緒に食べる苦菜は、エジプトでの奴隷の苦しみを忘れないためであり、またその苦しみから救い出された神の大きな恵みを忘れないためでもありました。10節で、食べ残したものはすべて火で焼き、焼却しなければならないと命じられているのは、先ほども少し触れましたように、過ぎ越しの食事は神のみ前で祝う聖なる食事であり、その肉もその他の食物もすべて神にささげられるべき聖なるものであるゆえに、残ったものを捨てたり、他の世俗の食事に用いてはならないからです。

イスラエルの民はここで命じられている最初の過ぎ越しの食事を、旅支度をしながらあわただしく済ませ、その夜のうちにエジプトを脱出することになります。11節にはこのように書かれています。【11節】。この最初の過ぎ越しの食事は、ゆっくりと楽しみながらではなく、「腰帯をしめ、靴を履き、杖を手にし、急いで食べ」なければなりません。神の救いの時がすぐ間近に迫っているからです。

そして、14節ではこのように命じられています。【14節】。過ぎ越しの祭りは毎年この月に、アビブの月の14日に、これからのちとこしえに守り続けなればならないと定められています。ここで定められた過ぎ越しの食事は、福音書に記されている、主イエスと弟子たちとの、いわゆる最後の晩餐が、文字通り、最後の過ぎ越しの食事となりました。新約聖書で誕生した教会の民は、旧約聖書で定められていた過ぎ越しの祭りを同じようにして祝うことはありません。なぜならば、主イエスが神のみ子としての罪も汚れもない清く聖なる血を、すべての人々の罪を贖う血として、十字架でおささげくださったからです。もはや、動物の血を繰り返してささげる必要はありません。主イエスの1回限りの十字架の血の贖いが、すべての時代のすべての人に対して有効に働くからです。わたしたちは主イエスが新しくお定めくださった聖餐式によって、その救いの恵みを覚え、感謝し、繰り返して再体験するのです。

15節から、種入れぬパンの祭り、除酵祭の規定について書かれています。過ぎ越しの祭りに続いて7日間、酵母が入らない固いパンを食べる祭りです。8節に、過ぎ越しの食事の際にも酵母が入らない固いパンを苦菜と一緒に食べるとありましたが、その酵母が入らない固いパンを、そのあと1週間食べ続けるのが除酵祭です。なぜ除酵祭が過ぎ越しの祭りとは別々の祭りとなったのか、また二つがどのようにして結びついたのかについては、はっきりとは分かっておりません。1週間家の中から酵母菌を取り除くことによって、古くなった酵母菌を一掃することが目的だったのではいかとも考えられています。主イエスの時代には、この二つの祭りは完全に一つに合体して、「過越祭」または「除酵祭」と言われるようになりました。

いずれにしても、過越祭の除酵祭も、出エジプトの出来事と直接に関連付けられています。過越祭についてはすでに学びました。除酵祭については、17節でこのように言われています。【17節】。

主イエスは弟子たちと共に祝った最後の過ぎ越しの食事の席で、イスラエルの民が食べていた酵母菌が入らない固いパンを手に取って、「これはわたしの体である」と言われたのです。また、葡萄酒の杯を手に取り、「これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われました。主イエスが十字架で流された血と、裂かれた体によって、全人類の罪が贖われ、ゆるされ、すべての人が救われたのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが奴隷の民イスラエルをエジプトからお救いくださったように、今はまたわたしたちを罪の奴隷から解放してくださいました。そのために、あなたはご自身のみ子の血を十字架におささげくださるほどに、わたしたちを愛してくださいました。あなたのその強い愛によって、わたしたちを永遠にあなたのみ国につなぎとめてください。わたしたちが再び罪の奴隷となることがありませんように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

8月10日説教「剣を鋤に、槍を鎌に、もはや戦うことを学ばないために」

2025年8月10(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

             世界平和祈念礼拝

聖 書:イザヤ書2章1~5節

    マタイによる福音書5章1~12節

説教題:「剣を鋤に、槍を鎌に、もはや戦うことを学ばないために」

 預言者イザヤが活動した時代について、1章1節でこのように説明されています。【1節】(1061ページ)。6章1節以下に、イザヤがエルサレム神殿の中で神と出会って、預言者として召されたのは、ウジヤ王が死んだ年であると書かれていますので、それは紀元前742年のことでしたから、それからヒゼキヤ王の治世まで、おそらくは紀元前701年までであったと推測されていますが、およそ40年間がイザヤの活動の期間でした。

 イザヤの時代にイスラエルの周辺地域がどのような状況であったのかを概観すると、西は地中海沿岸から、その一角にイスラエルがあり、東はペルシャ湾にいたる中東諸国は、紀元前732年にシリア帝国を倒したアッシリア帝国が強大な軍事力で領土を拡大しつつありました。イスラエル北王国は722年にアッシリアによって滅ぼされ、南王国ユダも常にアッシリアの脅威にさらされ、時にエジプトに頼ったり、時に反アッシリア同盟に助けを求めたり、時にアッシリアに貢物を送ったりと、左右に揺れ動いていました。

 イザヤの時代が終わってからも、紀元前612年には新バビロニア帝国がアッシリアを倒し、紀元前597年に南王国ユダはこの新バビロニアによって滅ぼされ、イスラエル王国は完全に歴史から姿を消すことになります。そののちも、549年にはペルシャ帝国がさらに領土を広げてこの地域を支配することになりました。そして、538年には、ペルシャ帝国キュロス王によってバビロン捕囚の民イスラエルがエルサレムに帰還することがゆるされました。

 このようにして、紀元前9世紀から6世紀までの間に、シリア帝国からアッシリア帝国、新バビロニア帝国、そしてペルシャ帝国へと、4つの巨大帝国が次々と現れては消え、戦いを繰り返していました。預言者イザヤの時代は、まさに戦争の時代の真っただ中にあったのでした。小さな国であり、常備の軍隊を持っていなかったイスラエルは、その中で文字通り翻弄されていたのでした。

 きょうの礼拝で朗読されたイザヤ書2章1~5節の預言は、そのような時代背景の中で語られたのです。1節にこのように書かれています。【1節】。預言者イザヤが見た幻とは、1章1節にも同じ言葉がありましたが、彼が想像や空想で思い描いたことという意味ではありません。1節のヘブライ語を正確に翻訳すれば、「イザヤが見た言葉」となりますが、これでは日本語として通じませんから、「幻に見たこと」と翻訳したと思われます。つまりこれは、本来は「言葉」、神の言葉なのです。神が預言者にお語りなった言葉なのです。その言葉が、単に耳から響いてくる言葉としてではなく、あたかも目でも見ている出来事のように、鮮明に、現実的に、イザヤに示され、感じ取られたということを、このように表現しているのです。これは、神が確かに、現実的に、この世界に起こしてくださる出来事なのだということが強調されているということです。

 では、その確かな現実とは、どのようなことでしょうか。2節の冒頭に「終わりの日に」とあります。終わりの日とは、終末のことです。歴史の終わりの時のことです。旧約聖書でも新約聖書でも、ヘブライ人の時間、時の理解は、初めがあり、終わりがあるという、いわば一直線の時の理解をします。聖書の最初の書物、創世記1章に書かれているように、神は初め天と地とを創造されました。第一日目に「光あれ」と言われ、光が創造されました。ここから世界の歴史が、時がスタートします。そして、聖書の最後、ヨハネの黙示録にはこの世界の歴史が終わり、古いものすべてが崩壊し、そののちに全く新しい神の国が現れることが語られています。世界の歴史、時、すべての時間、そしてまたわたしの一生も、神が始められ、神がこれを終わらせ、完成されるというのがキリスト教の歴史理解、終末論です。

 預言者イザヤが今見ているのが、その終わりの時のことです。イザヤが生きていた時代は戦争が繰り返され、覇権争いと殺戮と破壊が繰り返されている世界でしたが、今イザヤはその現実を超えて、より確かな終わりの日の現実を見ているのです。彼はその終わりの日のことを、あらかじめ神によって示され、だれもまだ見ていないその出来事をあたかも現実として目で見ているかのようにはっきりと、見ているのです。したがって、イザヤにとっては、また神の言葉を聞く信仰者にとっては、それは遠い未来のことではなく、今すでに見ており、経験しており、現実となっていることとして、理解されているのです。

 2節、3節には、終わりの日に、シオン・エルサレムの神殿に多くの民が集い、主なる神を礼拝するようになると預言されています。イザヤはこのあと4節で、戦いの武器をすべて捨て去って、再び戦うことを学ばない真の、永遠の平和のことを語るのですが、その前に、全世界の民がみな一人の主なる神を礼拝するようになると語ります。

 3節のカギかっこの中に書かれている諸国の民の言葉は、正確に翻訳すれば「さあ、わたしたちは主の山に、ヤコブの神の家に上ろう。主はわたしたちにご自身の道を示される。わたしたちはその道を歩もう」。ここでは、「わたしたち」という言葉が何度か繰り返されています。つまり、諸国の民は一つの神の民、一つの神を礼拝する民、「我々、わたしたち」になるということが強調されているのです。イザヤの時代も、今の時代もそうですが、人々や国々はみな、「わたしは、我が国は」と自己主張をします。「わたし」が物事の中心となり、「わたし」が善悪の判断の基準だと考えます。しかし、そこでは「わたしたち、我々」という言葉は忘れ去られています。それゆえに、そこには平和はありません。自己主張と争い、戦争が、ますます人間の関係を破壊し、社会と世界、自然を破壊していきます。しかし、イザヤは戦争が繰り広げられている時代の中で、しかし、彼の信仰の目は、終わりの日の真の、永遠の平和を見ています。

 イザヤはここに人間の罪の終わりを見ているのです。終わりの日に、全世界の諸国民が、すべての人々が、一人の主なる神を礼拝するようになり、主なる神の教えを聞き、主なる神のみ言葉を聞くときに、人々は神との正しい関係を回復し、神によって罪をゆるされ、互いに「わたしたち」という関係につながれるのです。なぜなら、罪は神との関係を分断し、また人間の関係を分断する悪の力だからです。新約聖書のエフェソの信徒への手紙2章では、主イエス・キリストの十字架の福音が敵意という隔ての壁を取り壊して、二つもものを一つにし、一人の新しい人に造り上げて平和を実現させたと書かれています(2章14節以下)。イザヤは主イエスが到来されるはるか700年前に、主イエスの十字架と復活によって成し遂げられる平和を、あらかじめ見ているのです。

 4節で、その平和についてこのように書かれています。【4節】。ここには、真の平和の基となる神を礼拝することと、もう一つの平和の土台が示されています。それは、神が唯一の裁き主となることです。神が全世界の唯一の主として神の法廷に立たれ、国々を裁かれるとき、もはやだれも他者を裁く必要はありません。すべての人が、すべての国が、神の裁きに服し、神を恐れるとき、世界には争いや略奪は不要になります。戦争や破壊は不要になります。みなが神を礼拝する一つの民となるからです。みなが神の裁きのもとで、神によって罪ゆるされた一つの群れとなるからです。

 その平和はどのようにして実現するのでしょう。「彼らは剣を打ち直して……。もはや戦うことを学ばない」(4節)とイザヤは語ります。これまでは戦うための武器として用いていた剣を熱い熱で溶かして、畑を耕す道具である鋤に鋳直し、これまでは人を突き刺す武器として用いていた槍を、これも鋳直して麦を収穫する道具である鎌にする。そのようにして、人間の命を奪い、この世界と自然を破壊するための武器がすべて、人間の命を養い、地球と自然を実り豊かな大地とするための農機具に変えられる、とイザヤは語ります。これが、終わりの日に神によって与えられる真の、永遠の平和なのです。

 これはごく単純な論理であるように思われます。人を殺害するための武器を製造するではなく、自然や地球を破壊するための武器を製造するのでもなく、人間の命を養うための農具、自然や地球を守り、豊かにするための農具を製造することが、どんなにか人間にとって、地球全体にとって有益であるかを、だれもが知っています。そして、そうすることは、高い技術を必要とする高価な武器を製造するよりも、はるかに簡単であり、容易であることをも、みな知っています。そうなれば、だれも戦いのことを学ぶ必要がなくなり、高性能で高価な武器を製造するための技術を学ぶ必要もありません。

 世界の国々が年々増額する軍事費を、干ばつや洪水の災害で食料難に苦しむ人たちのパンを購入するために用いるならば。土地を失い家を失ってさまよう難民たちのテントや飲み水のために用いるならば。貧しい地域の子どもたちのミルクや薬のために用いるならば。ほかにももっともっと有益な用い方をいくつも挙げることができるであろうに。だれもがそれを知っており、そうしたいと願っているのに。多くの平和を願う人たちがそのように訴え、叫んでいるのに。機関銃ではなく、ペンを手にもって世界平和を訴える作家がいます。すべての武器を楽器にと歌う反戦平和歌手がいます。「世界に平和を」と祈る広島や長崎の子どもたちがいます。

 そうであるのに、なぜこの世界から戦争がなくならないのでしょう。なぜ、人間は戦うのでしょう。奪い合い破壊し合うのでしょう。なぜ、より悲惨で残酷で破壊的な戦いのために日夜研究を重ね、膨大なお金を投じるのでしょうか。 

聖書はそれが罪の人間の避け得ない現実だと言います。主なる唯一の神を見失い、神無き世界に住む罪の人間、神を畏れることをしない人間の罪の姿だと言います。そうです。人間には罪のゆるしの福音が必要です。主イエス・キリストの十字架と復活の福音こそが、真の平和への第一歩となるのであり、永遠の平和の土台となるのです。

 平和を祈るわたしたちの声は小さく、全世界には到底届かないでしょう。しかし、わたしたちの祈りをお聞きくださるのは天におられる父なる神です。父なる神はわたしたちの言葉にはならないうめきをも聞いてくださいます。すべての人の平和のための訴えを聞いてくださいます。そのことこそが、祈りの力なのです。そのことを信じて、わたしたちも祈りましょう。ご一緒に、「世界の平和を願う祈りを」祈りましょう。

(執り成しの祈り)

【世界の平和を願う祈り】

天におられる父なる神よ、

あなたは地に住むすべてのものたちの命の主であり、

地に起こるすべての出来事の導き手であられることを信じます。

どうぞ、この世界をあなたの愛と真理で満たしてください。

わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す人としてください。

神よ、

わたしをあなたの平和の道具としてお用いください。

憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、

分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、

絶望のあるところに希望を、闇があるところにあなたの光を、

悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

主よ、

慰められるよりは慰めることを、

理解されるよりは理解することを、

愛されるよりは愛することを求めさせてください。

なぜならば、わたしたちは与えることによって受け取り、

ゆるすことによってゆるされ、

自分を捨てて死ぬことによって永遠の命をいただくからです。

主なる神よ、

わたしたちは今、切にあなたに祈り求めます。

世界にまことの平和を与えてください。

深く病み、傷ついているこの世界の人々を憐れんでください。

あなたのみ心によっていやしてください。

わたしたちに勇気と希望と支え合いの心をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 (「聖フランシスコの平和の祈り」から)

8月3日説教「神の福音のために選び出されたパウロ」

2025年8月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書40章6~11節

    ローマの信徒への手紙1章1~7節

説教題:「神の福音のために選び出されたパウロ」

 先月から月1回の割で、ローマの信徒への手紙を読んでいます。キリスト教信仰とキリスト教教理の中心、または基礎を取り扱っている聖書ですから、短い聖句を取り上げて、一字一句を丁寧に、深く学んでいくことを心がけようと思っています。

 前回は1節の「キリスト・イエスの僕(しもべ)」の「僕」について学びましたが、もう少しこの言葉を掘り下げてみます。僕、奴隷のことですが、パウロは自分をローマ教会に自己紹介するにあたって、最初に「自分はキリスト・イエスの僕、奴隷だ」と言っているわけですが、これにはパウロのどのような信仰が言い表され、どのような意図、自己主張が含まれているのでしょうか。

 自分が「キリスト・イエスの僕」であるとは、「わたしの主はキリスト・イエスだけである」ということを第一に意味しています。わたしの主、わたしの所有者、わたしが服従すべき主、わたしの存在と命のすべてをささげてお仕えすべき主は、ただお一人、主イエス・キリストであるという信仰告白がここでは言い表されているのです。

 したがって、わたし自身はわたしの主ではない、この世のだれか、この世の何かがわたしの主であるのでもない、名誉や地位や財産がわたしの主であるのではない。あるいはまた、ローマ皇帝がわたしの主であるのでもない。わたしの罪のために十字架で死んでくださり、三日目に復活され、それによってわたしの罪をゆるし、わたしに新しい命をお与えくださったナザレの主イエスこそが、わたしの唯一の主である。パウロはまず第一に、自分はそのような者であると言うのです。

 このパウロの自己紹介は、もちろん彼自身が自分をアッピールするために考えついたものではありません。彼がこれから語ろうとするこの手紙の中心的な内容そのものであるのです。6章1節以下で、パウロは主キリストから与えられる救いの恵みについて語りますが、その中で、人はみな罪の奴隷であったが、主キリストの十字架の死と復活によって、罪から解放されていると語っています。それゆえに、主キリストの救いを信じる信仰者は罪の奴隷から解放され、自由にされているのです。同じことを、コリントの信徒への手紙一7章22節ではこう言っています。「というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身とされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。」

 主キリストによって罪から解放され、自由にされた信仰者は、主キリスト以外の何ものの奴隷でもなく、すべての束縛から自由されているのであり、ただ主キリストの奴隷、僕であるということです。パウロはこの自由によって、何ものによっても妨げられず、自由に、大胆に福音を語り、喜びをもって神と臨人とに仕えることができたのです。

 宗教改革者ルターは、『キリスト者の自由』という書物の冒頭に、次のような二つの命題を掲げています。一つは、「キリスト者はあらゆるものの最も自由な主であって、何ものにも隷属しない」。二つには、「キリスト者はあらゆるものの最も義務を負うている僕であって、すべてのものに隷属している」。そして、結論のところではこう言っています。「キリスト者は自分自身のために生きるのではなく、キリストと隣人のために生きる。そうでなければキリスト者ではない。信仰によってキリストに生き、愛によって隣人に生きる」。

 次に、「キリスト・イエス」についてですが、これについては何度も学んでいますので、簡潔にまとめておきます。「キリスト」はギリシャ語の「クリストス」ですが、これは旧約聖書のヘブライ語では「メシア」、油注がれた者と言う意味です。イスラエルでは、王、祭司、預言者がその務めに任じられる際に、頭からオリブ油を注がれるという習慣があり、終わりの日に神はイスラエルと世界を救うために、まことの、永遠の王、祭司、預言者であるメシア、油注がれた者をお遣わしになるという信仰から、メシア(ギリシャ語でクリストス)、救い主の到来を待望するという信仰がイスラエルに強くなりました。主イエスこそが、そのメシア・キリスト・救い主なのです。イエス・キリストという表現の中には「イエスこそがキリストである」という信仰告白が含まれているのです。

 「イエス」というお名前は、ギリシャ語では「イエスース」、これはヘブライ語の「ヨシュア、ヨシア」ですが、意味は「主は救いである」、ユダヤ人の一般的な名前ですが、主イエスの場合には、ルカ福音書1章31節にあるように、まだお生まれになる前から、主なる神がそのお名前を決めておられました。ということは、神はご自身がイエス「主は救いである」というお名前をお与えになったこの主イエスによって、実際に神の救いのみわざを成し遂げようとの、神の強い意志、永遠の救いのご計画をそこで明らかにされたのでした。

 キリスト・イエスという言い方と、イエス・キリストという言い方には、意味の違いはないと考えられます。4節と6節、7節では後者になっています。

 では次に、「神の福音のために選び出され、召されて使徒となった」という個所を学んでいきましょう。先ほど、宗教改革者ルターの言葉を紹介しましたように、「キリスト・イエスの僕」とされた自由人は、神と隣人とのために、自由と喜びとをもって仕え、生きるという新しい務めを与えられます。それが、パウロの自己紹介の続きで明らかにされます。すなわち、罪の奴隷から解放され、自由人とされたパウロは、「神の福音のために選び出され、召されて使徒となった」パウロであるのです。ここで言われている4つの言葉「神の福音」「選び出され」「召されて」「使徒となった」、それぞれの意味を考えながら、パウロが主イエス・キリストから託された務めについてみていくことにします。

 ギリシャ語原典の順序では「召されて」という言葉が最初にあります。同じ言葉が6節と7節でも用いられています。こちらでは、ローマの教会員について、「あなたがたは召されてイエス・キリストのものとなれた」、「あなたがたは召されて聖なる者となった」と言われています。パウロもローマの教会員も、そしてわたしたちもそうなのですが、共に「召された」者たちです。「召された」は受動態です。聖書の中で意味上の主語が隠されていて、受動態で言い表される場合は、ほとんどの場合、主語は神と考えられます。つまり、「神によって召されて」という意味です。また、「召す」と訳されている言葉は「呼ぶ」という意味です。

 パウロもローマ教会の使徒たちも、またわたしたちも、キリスト者はみな、神によって自分の名前を呼ばれ、神のみ前に呼び出されて、神に召された人たちです。自分の願いや意志とか好みとかによってではなく、あるいは何らかの能力とか資格とかによってでもなく、それらのすべてに先立って、神がわたしにみ声をかけてくださり、わたしの名を呼んでくださり、わたしを召してくださったのです。その招きに応答して、わたしはキリスト者となったのです。

 パウロがどのようにして召されたのかを見ていきましょう。使徒言行録9章に書かれています。彼はユダヤ教ファリサイ派の学者でした。律法を重んじるその信仰熱心から、キリスト教を激しく迫害していました。ある日パウロが迫害の息を弾ませながら、エルサレムからダマスコに行く途中、突然に天からの強い光に打たれて気を失い、地に倒れました。彼が再び立ち上がったとき、彼は復活された主イエスのみ声を聞き、その時から彼は主イエス・キリストの福音を宣べ伝える宣教者とされたのです。彼はキリスト教を迫害する者からキリスト教を宣教する者へ、彼自身が迫害される者へと変えられました。それは彼がもともと願っていたことではなく、むしろ彼の願いにまったく反して、主イエスの一方的な招きによることであり、天からの強い光による、神の圧倒的な力による呼びかけであり、招きだったのです。

 召されるということは直ちに、一つの新しい務め、使命を与えられることです。神の召しとは、神の務めへの召しです。ルターが言ったように、主キリストの僕となるということは、信仰によって喜んで主キリストに仕え、また愛によって隣人に仕える人になるということです。パウロは復活の主イエスと出会ったときに、全世界に福音を宣べ伝えるという使命を与えられました。それをパウロのここで「使徒となった」と言います。

 使徒とは、遣わされた者という意味です。主イエス・キリストによって遣わされた、主イエス・キリストの全権大使として、主イエス・キリストの十字架と復活の福音を携えて、全世界のすべての人々に罪のゆるしと救いを宣言し、語り伝えることが使徒の務めです。それゆえに、使徒の背後には。彼を遣わした方、主イエス・キリストの権威があります。その恵み、力、光栄があります。パウロはその権威によって、今、ローマの教会に語ろうとしているのです。彼がこれから語る内容は、彼自身に関することではもちろんありません。彼が発見したり、作り出した真理とかでもなく、あるいはだれか人間の知恵とかによる教えでもありません。彼が語るべき言葉は、彼を派遣された主イエス・キリストが語れと命じた神の言葉であり、主イエスご自身がその十字架の死と復活によって全世界のすべての人たちのためになし遂げてくださった罪のゆるしと救いの出来事であり、主イエス・キリストの福音以外ではありません。

 次は、「選び出され」についてです。これも受動態で、意味上の主語は神です。神によって選び出されたということです。パウロは自分の選びについて、ガラテヤの信徒への手紙1章15、16節でこう語っています。【15~16節】(343ページ)。神の選びは、人間の側の能力や資格、条件の一切に関係なく、神の側からの一方的な恵みの選びです。預言者エレミヤの選びについてはこう言われています。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者とした」(エレミヤ書1章5節)。神の選びは人間のすべてのことに先立つ、神の先行的な選びです。ここに、わたしたちの選びの確かさがあるのです。わたしが神よって選ばれてキリスト者とされているという選びの確かさは、神ご自身が保証しておられるのです。

 「選び出された」という言葉には、分離された、聖別されたという意味があります。『口語訳聖書』では「選び分かたれ」と訳されていました。キリスト者は主キリストに属する者たちですから、もはやこの世に属する者ではありません。この世から選び分かたれ、神にささげられたもの、神によって生き、死ぬ者とされているのです。ここにこそ、わたしたちキリスト者の永遠の幸い、祝福があるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはみ子・主イエス・キリストによってわたしたち一人一人を召し、選び、あなたに救われた民として教会にお集めくださいました幸いを覚え、心から感謝をささげます。わたしたちが再び罪の奴隷となることがありませんように、聖霊によってわたしたちを強くとらえてくださり、み国が完成される日までお導きください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。世界の為政者たちが唯一の主なる神であるあなたを恐れる者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。