8月2日説教「故郷では尊敬されなかった主イエス」

2020年8月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:列王記上17章8~16節

    ルカによる福音書4章16~30節

説教題:「故郷では尊敬されなかった主イエス」

 主イエスは故郷ガリラヤ地方のナザレの会堂で安息日の礼拝に出席されました。聖書朗読の役を指名された主イエスは、イザヤ書61章のみ言葉を朗読された後、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(21節)と説教されました。主イエスは一人の礼拝者として会堂に来られたのではありませんでした。旧約聖書のみ言葉を成就するためにナザレの会堂に立っておられるのです。

22節に「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いた」とありますが、ナザレの人たちだけでなく、すべてのイスラエルの人々にとって、主イエスのこの説教は大きな驚きでした。いまだかつて、だれもこのように説教した人はいませんでした。たとえば、旧約聖書時代の預言者たちは、まだ見ぬ未来の出来事を、だれにも知られない神の永遠のご計画を、あらかじめ神から示され、「このように語れ」と命じられて、やがて起こるべき神の救いの出来事について預言しました。そして、そののちのすべてのイスラエルの説教家たちは、「かつて預言者たちはこう語った。やがてその預言の成就の時が来るであろう。それを信じて待ちなさい」と語りました。彼らすべては約束の時、待望の時に生きていたからです。

 けれども、主イエスの説教はそれらの預言者たちや説教家たちとは根本的に違っていました。主イエスは「この預言のみ言葉は、きょうこの時、あなたがたがわたしの口からきいたこの時に、成就した。すなわち、わたしが父なる神のみ言葉を実現するメシア・キリストとしてあなたがたの前に立ち、罪のゆるしと罪の奴隷からの解放の福音を語る時、そしてあなたがたがその福音を聞き、信じる時、神の恵みがすべてを支配する新しい年、新しい国、神の国が今この時に到来したのだと主イエスは説教されたのです。主イエスは預言の成就の時の初めに立っておられます。というよりも、主イエスが預言を成就されるメシアであり、主イエスご自身が預言の成就そのものであられます。主イエスはすべてのイスラエルの民に、それのみならず全人類に、罪からの解放と、救いの恵みを与え、すべての人を永遠の命に生かすメシア・キリスト・救い主として、この時ナザレの会堂に立っておられ、今わたしたちの会堂に立っておられるのです。

 マタイ福音書とマルコ福音書は主イエスが宣教された福音を「神の国の福音」と表現しています。それに対して、ルカ福音書はイザヤ書61章の預言の成就として、貧しいに人たちや捕らわれている人たちへの解放の福音として、主の恵みの年の告知と表現しています。ルカ福音書の特徴の一つがここにあります。

 もう一つ、ここからわたしたちが学ぶべき重要なことは、礼拝における主イエスのご臨在のリアリティというとです。かつて、ナザレの会堂で主イエスが聖書を朗読された時、その時そこで旧約聖書の預言が成就したと同様に、今日、わたしたちの教会の礼拝で、主イエスの福音が語られ、聞かれた時、今この時に、ここに十字架につけられた主イエスがご臨在しておられ、主イエスの救いの出来事が今この時に、わたしたしたち一人一人に、このわたしに、現実的なリアリティをもって迫ってくる、わたしの出来事となって、わたしの救いの確かさとなり、わたしの新しい力と命となる、そのような主イエスの現臨と救いのリアリティがわたしたちの礼拝にも与えられるようにと切に願います。

 22節に書かれているナザレの人たちの反応は、彼等の信仰と不信仰との両方を語っているように思われます。一方では、主イエスの恵み深い言葉に驚いていながら、他方では主イエスにつまずいています。彼等は確かにイザヤの預言を信じていました。そして、その預言が今成就した、新しいメシアの時代が来たと感じました。その信仰は全く正しいと言えます。

 けれども、彼等はその新しいメシアの時代を来たらせる救い主が自分たちと同じ故郷に住む同じ人間であるということにつまずきました。彼等はもっと偉大な指導者を期待していたのかもしれません。もっと力と威厳に満ちた英雄を期待していたのかもしれません。彼等は、主イエスの低さ、貧しさにつまずきました。それは結局は、神が人となられたことのつまずきであり、神がご自身をいやしくされ、人のお姿でこの世においでくださったことのつまずきであり、神のみ子がヨセフとマリアの子としてお生まれになられたことのつまずきであったと言うべきでしょう。そして、それは結局は、神のみ子の十字架の死のつまずきなのです。それゆえに、彼等は主イエスから差し出された救いの恵みを受け取ることができませんでした。

 主イエスは彼等の不信仰をすぐに見抜かれ、23、24節でこのように言われました。【23~24節】。ナザレの人たちは自分たちが子どものころからよく知っている主イエスが本当にメシア・救い主として神の恵みのみ言葉を語る資格があるのならば、そのしるしとなるものを見せてほしいと願いました。しかし、しるしを見て信じる信仰は本当の信仰ではありません。主イエスはすでに荒れ野での誘惑で、「あなたが神の子ならば、そのしるしを見せてほしい」と求めた悪魔の要求を退けられました(4章3節以下参照)。また、主イエスは十字架上で、「お前が神からのメシアならば、自分を救ってみろ。そしたら信じよう」という人々の要求を退けられました。しるしを求めることは人間の不信仰であり、主イエスの福音を否定することです。ヨハネ福音書20章29節で、主イエスは疑う弟子のトマスに言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」と。わたしたちは見ないで信じる幸いへと導かれているのです。

 主イエスはご自身が神のみ子であることを証しされるために奇跡やしるしを一切用いませんでした。むしろ、主イエスは神のみ子としての権威も栄光も、すべてをお捨てになり、貧しい僕(しもべ)のお姿でこの世においでになられ、人々のあざけりと侮辱の中を、ご受難と十字架の死へと進まれました。主イエスは旧約聖書の預言者たちが多くそうであったように、故郷のナザレの人々からは、あるいはまた同民族のユダヤ人からは歓迎されず、むしろ迫害を受けられました。

 そこで、主イエスは25節から古い時代の預言者エリヤとエリシャの実例を挙げ、ナザレの人々の不信仰を明らかにするとともに、神のみ心が何であるのかを語っておられます。二つのポイントがあります。一つは、しるしを求めるのではなく、見ないで信じる信仰についての実例。二つには、預言者は故郷では歓迎されないということわざの本来の意味について。この二つのポイントを考えながらみていきましょう。

 エリヤはイスラエル初期の預言者で、紀元前9世紀の中頃に活動しました。エリヤとサレプタのやもめのことは列王記上17章に書かれています。イスラエル北王国の王アハブは偶像の神バアルの祭壇を造ったために、神は預言者エリヤの口を通してイスラエルに裁きを語られました。神は3年6カ月にわたって天を閉じ、雨を降らせず、地に干ばつと飢饉を起こすと言われました。その飢饉の中で、エリヤは地中海の北にあるイスラエルの隣国フェニキアの町シドンのサレプタに住む一人のやもめの所に遣わされました。エリヤは彼女に「わたしのためにパンを焼いて持ってきてくれ」と頼みます。彼女は答えました。「これがわたしと一人息子の最後の食べ物です。もしこれを食べてしまえば、わたしたちは死を待つだけです」。しかし、エリヤは答えます。「イスラエルの神、主はこう言われる。主が地に雨を降らせるまで、壷の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」。彼女はその言葉を信じて、最後のパンをエリヤのために焼いたが、その後も彼女の家では幾日も食べ物に事欠かなかったという出来事です。この物語はユダヤ人であればだれもがよく知る有名な話であったので、主イエスはここでは詳しくは語る必要がなかったと思われます。

 もう一つのナアマンの物語もよく知られた話でした。これは列王記下5章に書かれている紀元前9世紀後半の出来事です。アラムの国の軍司令官ナアマンは重い皮膚病で苦しんでいる時、かつてイスラエルの捕虜として連れ帰った一人の少女から「イスラエルの預言者の所へ行けば、重い皮膚病をいやしてもらえるでしょう」と聞き、彼はその言葉を信じてイスラエルまで旅をし、預言者エリシャと出会います。エリシャはナアマンに「ヨルダン川の水で七たび身を洗いなさい」と命じます。ナアマンはその言葉を信じてヨルダン川に入ると、彼の体が清められたという出来事です。

 旧約聖書に書かれているこの二つの出来事は、信仰とは何か、また神のみ心はどこにあるのかを語る非常に重要なメッセージをわたしたちに告げています。すでに指摘したように、一つは、見ないで信じる信仰です。サレプタのやもめは、イスラエルから見れば異邦人ですが、彼女は自分と一人息子の命をつなぐ最後のパンを、預言者エリヤの言葉を信じ、イスラエルの主なる神を信じて、エリヤに提供しました。ナアマンも異邦人の軍人ですが、妻の召使であったイスラエルの少女の小さな提案を聞き、それを信じて、敵国であるイスラエルを訪ねました。彼はまた預言者エリシャの言葉を信じて、ヨルダン川に入りました。共に異邦人であり、イスラエルの信仰からは遠いと考えられていたサレプタのやもめとアラムのナアマンが、預言者の前で謙遜になり、預言者が語る神のみ言葉に従順に聞き従い、それによって神からの救いの恵みを受け取ることがゆるされたのです。そのことは、ナザレの人々の不信仰とかたくなで不従順な姿をより浮かび上がらせます。

 もう一つのこと、預言者は故郷では尊敬されないということわざについては、主イエスは別の視点から見ておられるように思われます。神はあらかじめそのことをよくご存じであられるので、預言者エリヤもエリシャも、最初からイスラエルの民のもとにではなく、異邦人のもとへと遣わされたのだということを旧約聖書は語っているということです。イスラエル全土に大飢饉が起こった時、神は預言者エリヤをイスラエルの家にではなく異邦人であるサレプタのやもめの所に遣わし、そこでご自身が恵み深い神であることを、貧しいやもめを養われる神であることをあらわされました。また、神はイスラエルの国の中で重い皮膚病で苦しむ多くの人の所に預言者エリシャを派遣したのではなく、異邦人の軍人ナアマンのもとへと遣わし、彼に対してご自身の偉大なみ力と恵みとをお示しになりました。神の救いの恵みは不信仰なイスラエルを通り抜けて、異邦人にまで及びました。

 主イエスの救いの恵みもそのようにして異邦人と全世界へと広げられていきました。神に選ばれた民であるイスラエルの不信仰とつまずきが、多くの民の救いとなったのです。神はそのようにして人間たちの不信仰をもお用いになって、救いのご計画を進めてくださいます。わたしたちもまたそのことを信じるようにと招かれています。

 (執り成しの祈り)

○主なる神よ、わたしたちの不信仰とかたくなな心とを、あなたの大きな恵みに

よって打ち砕き、わたしたちをみ前にあって従順な者としてください。

○神よ、どうぞこの世界を憐れんでください。あなたを離れて、滅びへと向かう

ことがありませんように。特に、あなたを信じる者たちがあなたのみ怒りと裁

きを恐れ、み前に謙遜な者とされ、あなたの憐れみとゆるしとを熱心に願い求

める者とされますように。

〇主よ、わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す者としてください。

 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月26日説教「大洪水とノアの箱舟」

2020年7月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記7章1~24節

    ペトロの手紙一3章13~22節

説教題:「大洪水とノアの箱舟」

 創世記7章1~5節にこのように書かれています。【1~5節】。ここには、神がこれから全地に対して何をなそうとしておられるか、またその目的、意図が何であるのか、そしてその神のご計画に備えて、ノアとノアの家族が何をなすべきなのかについて書かれています。

ここでわたしたちが第一に注目したいことは、1節冒頭の「主はノアに言われた」というみ言葉です。前回にも確認したことですが、6章~9章までの「大洪水物語」とか「ノアの箱舟」と言われる個所では、終始一貫して、ただ主なる神だけがお語りになり、主人公であるノアは一言も発言していないということ、ノアは黙して、主なる神のみ言葉に聞き従っているということ、このことこそが、大洪水物語りで神がわたしたちに語ろうとしておられる最も重要なメッセージなのだということを、わたしたちは今一度確認しておきたいと思います。6章22節にはこのように書かれていました。【6章22節】。また、7章5節には【5節】と書かれています。それゆえに、1節後半で「この世代の中であなただけはわたしに従う人だ」と言われているとおりです。また、6章8節で、「しかし、ノアは神の好意を得た」と言われ、9節では「この世代の中で、ノアは神に従う

無垢な人であった」と言われているのは、同じ意味からです。

新約聖書の証言も同じです。主イエスはマタイによる福音書24章37節以下でこのように言われました。「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである」。ヘブライ人への手紙11章7節にはこう書かれています。「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました」。そして、今日の礼拝で朗読されたペトロの手紙一3章20~21節にはこう書かれています。「この霊たちは、ノアの時代に箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです」。

それゆえに、主イエス・キリストの福音によって救われているわたしたちは、いまだ罪が世にはびこり、不義と暴虐、悪と偽りに満ちているこの時代にあって、主の日の礼拝ごとに神を礼拝し、神のみ言葉に耳を澄まし、黙々とそれに聞き従いつつ、来るべきみ国の完成の時を待ち望むのです。神はわたしたちの信仰の歩みを最後まで支え、導いてくださり、わたしたちの信仰を完成させてくださいます。

7章1節に再び目を戻しましょう。「あなただけはわたしに従う人だ」と訳されている箇所は、ヘブライ語原典を直訳すると「あなたはわたしの前で義なる人だ」となります。「口語訳聖書」では「わたしの前に正しい人」と訳されていました。6章9節でも「神に従う」と訳されている箇所は本来は「義なる人、正しい人」という言葉です。「新共同訳聖書」は神のみ前で義なる人、正しい人とは、神のみ言葉に聞き従う人であるという理解で、そのように翻訳しています。ノアの場合はそのことがよく当てはまります。

けれども、神のみ言葉に聞き従うということは多くの人にとって、特にノアにとっては、快いことではありませんし、納得できることでもありません。人々は飲み食いし、日々を楽しんでいます。神のみ言葉に聞き従うことよりも、もっと自分を満足させてくれること、あるいは世のためになること、今の時代にふさわしいことに励んだ方がよいと多くの人は考えます。でもノアだけは、世の人々の生き方に反して、あるいは周囲の状況にも反して、巨大で奇妙な形の箱船づくりに集中しています。陸地のど真ん中で、太陽が照る中で、人々追いが求める楽しみとは違った道を一人歩き続けています。「ノアはすべて主が命じられたとおりにした」と書かれているように。それが、神のみ前で義なる人、正しい人と言われるノアの生き方です。そのようなノアの生き方が、結果的に、罪の世を裁くことになり、信仰の義を受け継ぐことになったのだとヘブライ人への手紙は言っています。

そのような意味で、教会はしばしば箱舟にたとえられます。教会の民はこの世の罪の大洪水の中で、箱舟に招き入れられ、神の救いを与えられているノアの家族の一員です。しかし、箱舟はこの世から逃れるための隠れ家ではありません。むしろ、この世にあっての神の義の証し人であり、自らは神のみ言葉に聞き従うことによって結果的に罪のこの世を裁く務めをも果たすのです。いずれにしても、教会において最も重要なことは、言うまでもなく、そこで神のみ言葉が語られ、聞かれるということです。

2節からは、箱舟の中に連れていくべき動物や鳥などの生き物のことが書かれています。同じような内容が、13~16節でも繰り返されています。このような重複、繰り返しは、創世記を構成している元の資料の違いによると、今日の聖書学では説明されます。以前にも、1章~2章3節までの天地万物と人間創造の記録と2章4節からのもう一つの人間とその他のものの創造の記録とが、二つの違った資料に由来しているらしいという研究について少し触れました。このノアの大洪水の記録においても、二つあるいはそれ以上の資料が編集されたのではないかと考えられています。その資料の違いが一目で判別できるのが、「主」という言葉と「神」という言葉です。1節と16節後半では「主」とあり、9節と16節前半では「神」となっています。同じ神のことを一方の資料では「主」と呼び、他方の資料では「神」と呼んでいます。それにしても、資料の違いがあるとしても、わたしたちが一読してその違いを判別できないほどに密接に結びついていますし、それらが一つの神の救いのみわざを語っているということは言うまでもありません。

さて、ノアは神に命じられたとおりに、彼の妻と三人の息子とその妻たち、計八人、それに動物の雄と雌とを取って箱舟に入りました。これを見ていた当時の人々にとっては、何と愚かなことのように思われたに違いありません。まだ洪水が起こる前の乾いた地上に造られた箱舟と、その中に入るノアの家族。人々は日々の暮らしに忙しく、時に家族でレジャーを楽しみ、趣味に興じている。その中で、「ノアは、すべて主が命じられたとおりにした」のです。

前に、ノアの箱舟とよく似ている大洪水物語が世界各地に伝えられているということを紹介しましたが、その中でもバビロニアの「ギルガメシュ叙事詩」に描かれている大洪水物語がノアの箱舟と非常によく似ています。けれども、両者には決定的に違う点がいくつかあります。その一つが、船に乗り込むにあたって、何を一緒に持っていくかということです。「ギルガメシュ叙事詩」では、その人が所有しているすべての金銀であったと書かれていますが、ノアの場合には違います。ノアは神のお命じになったものだけ、洪水の後の新しい世界に住むべきノアの家族と生き物のつがいだけです。それらの生き物の中の清い生き物は、8章20節に書かれているように、洪水の後で神にささげられるためのものです。神礼拝に必要なもの以外には、食料とか着替えとかの必需品についても、聖書には何も書かれていません。ましてや、これまでの思い出の品とか預金通帳とか、緊急避難用品、あるいは新しい生活に備えての生活設計とかも、何一つ持っていくに及びません。新しい世界ではすべては神が備えてくださるからです。

主イエスは言われました。「何を食べようか、何を着ようかと、思い煩うな。神はあなたに必要なものをすべて知っていてくださる。だから、まず神の国と神の義とを求めなさい」と。

【10~12節】。創世記1章6~7節で、神は天地創造の二日目に、大空の下の水と上の水とを二つに分けられたと書かれていました。神は大空の上の水がためられている窓を時々開いて地に雨を降らせると考えられていました。ところがこの時には、天の窓全体が一気に開かれ、地に大量の雨が落ちてきて、それが40日間も続いたとあります。神の裁きの時の始まりです。地を覆っている罪と悪をすべて洗い流すための神の徹底的な裁きの時です。地にあるすべてのものは、高い建物も山も、人も他の生き物も、すべてがその形を失い、その命を失いました。

雨が降り続いた40日間は、ノアにとっては試練の時、苦難の時でした。しかしまた、その40日間は神の憐れみによって生きることを知らされるまでの訓練の時でもありました。エジプトの奴隷の家から解放されたイスラエルの民が約束の地に到着するまでの40年間の荒れ野での生活を主なる神によって導かれたこと、また主イエスが荒れ野で40日間の断食の後で悪魔の誘惑と戦われ、勝利されたこと、そしてまた主イエスの40日間の復活の顕現、これらに共通しているテーマをみることができるでしょう。

【21~23節】。ここでは、「ことごとく息絶えた」「ことごとく死んだ」「ぬぐい去られた」と繰り返され、神の裁きの徹底している様子が強調されています。多くの登山家や冒険家たちをの挑戦をはねのけてきた世界の最高峰であれ、あるいは人間が知恵と技術で築き上げた堅固で高い建物であれ、強大な国家であれ、高性能の武器であれ、大洪水の中にあっては、神の徹底した裁きの前では、全く無に帰してしまうほかにありません。高度な文明、科学、技術を競ってきた人類は、このことを決して忘れてはなりません。あるいはまた、どれほどに邪悪と暴虐と悲惨に満ちている世界であれ、そこにも神の裁きのみ手があることを覚えるべきです。

「ノアと、彼と共に箱舟にいたものだけが残った」。神の大いなる裁きの中で、しかし、神の憐れみによってわずかに残されたものがあると、聖書は語ります。神の大いなる裁きをくぐり抜けてきたものたちを、神は残してくださいます。それゆえに、ノアの箱舟に招き入れられ人たちは、ただ神の憐れみによって生きることをゆるされていることを忘れてはなりません。わたしたちもただ神の憐れみによって生かされている者たちとして、この教会に招かれているのです。

(執り成しの祈り)

○天の神よ、あなたの大いなる憐れみとゆるしとを心から感謝いたします。どう

か、あなたの憐れみによって生かされている者として、あなたのみ言葉に喜んで聞き従っていくことができますように、お導きください。

○全世界があなたの憐れみを求めて、祈っています。どうぞ、世界の人々に愛と

分かち合いの心をお与えください。特に、住む家や食料、医療で困窮している

人々を助けてください。

○世界の為政者たちが主なる神であるあなたを恐れ、あなたの義と真実と平和

を実現することができるように、あなたからの知恵と力とをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月19日説教「主イエスの昇天」

2020年7月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編30編1~13節

    使徒言行録1章6~11節

説教題:「主イエスの昇天」

 わたしたちは毎週の礼拝で『使徒信条』を告白していますが、その中で、「主は……三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます」と告白しています。その主イエスの昇天の出来事を記しているのが、きょうの使徒言行録1章のみ言葉です。主イエスの昇天はわたしたちの信仰にとって非常に大きな意味を持っています。そのことを考えながらきょうのみ言葉を読んでいきたいと思います。

 【6節】。「使徒たちが集まって」いた日は、3節から推測すれば、主イエスが復活されて40日目であろうと思われます。主イエスは十字架につけられて、三日目に復活され、その後40日間にわたって弟子たちに復活のお姿を現わされました。これを復活の顕現と言います。6節は4節と同じ日、復活の顕現の最後の日、弟子たちと共に食事をしていた時だと考えてよいと思います。

 その席で、弟子たちはイスラエルの再建の時が今なのかと主イエスに問いました。イスラエル再建の時とは、旧約聖書に預言されているように、神は終わりの時、メシア・救い主をイスラエルのために送ってくださり、このメシアによって全世界の民を一つに集め、すべての民がイスラエルと共に一人の神を礼拝する民となる。その時、イスラエルはすべての鎖から解き放たれて自由にされ、神の栄光を仰ぎ見る。そのようなメシア待望の希望が、イスラエルの信仰深い人たちの間に広がっていました。

ルカ福音書24章に描かれているエマオに向かう道で復活の主イエスと出会った二人の弟子たちも同じような希望を抱いていました。【ルカ福音書24章19~23節】(160ページ)。彼等のメシア待望は主イエスの死によって水泡に帰してしまったかに見えました。しかし今、主イエスが死の墓から復活されたという天使たちのみ告げが、新しい希望の光であるように感じられました。そして、確かに主イエスが復活されて、そのお姿を何度も弟子たちに現わされたことによって、弟子たちの期待がより強められていったのです。

 弟子たちの期待をさらに確信へと変えたのは、5節で主イエスが彼らに聖霊が注がれる時がすぐにでも来るからエルサレムで待っているようにと言われたことでした。神は終わりの日イスラエルの民をすべての束縛から解放される時に、神の霊、聖霊を注がれると、ヨエル書やハバクク書、またエレミヤ書に預言されていたからです。聖霊が注がれる時、それがイスラエル解放の時であり、神の国が完成される時だと弟子たちは理解したようです。

イスラエルの民は長い苦難の歴史を歩んできました。紀元前721年には北王国イスラエルが滅び、紀元前587年には南王国ユダもバビロンによって倒され、国家としての独立は完全に失われていました。主イエスの時代にはローマ帝国の支配下にありました。神の民イスラエルにとって、異教徒の王に支配され、自分たちの信仰の自由が脅かされていることは、大きな屈辱であり、重荷でした。人々はイスラエルが宗教的にも政治的にも自由とされる解放の時を切に待ち望んでいたのです。

 その時主イエスは言われました。【7~8節】。主イエスは弟子たちとその時代の人々のメシア待望、神の国の到来を待ち望む信仰を否定はされません。そのことは確かに旧約聖書に預言されていました。神がお選びになった神の民は決して見捨てられてはいません。けれども主イエスは、弟子たちのメシア待望、いわゆる終末信仰を三つの点で修正されます。

 その一つは、終末の時がいつ来るのか、神の国の完成の時がいつであるのかを人間が計算したり、人間が自分の力や何らかの仕方でそれを強引に引き寄せることができるという考えに反対されます。終末の出来事はすべて父なる神のみ手の中にあります。神が時期と場所をお定めになるのであって、人間が判断したり、人間がそれを造り出すことはできません。

 このような弟子たちの誤りはいつの時代にもありました。初代教会でも、16世紀の宗教改革の時代にも、今日にも、終末のことを少しでも人間の手に引き入れたいという誘惑にかられ、その時を計算したり、それを自分たちの宗教的活動と結びつけるということをしています。特に、熱心に布教活動をする教派や聖霊を強調する教派にその傾向があります。しかし、それは神の絶対的な権威と永遠の救いのご計画を侵害することです。終末は神が来たらせ、神がすべてを完成されます。信仰者はそのことを信じて、いつも終わりの日に備えて祈りつつ、待つのみです。

 第二には、弟子たちはイスラエルの国の復興のことだけを考えていましたが、しかしそれは狭い民族主義的な信仰です。イスラエルを選ばれた主なる神は、天地万物の創造者であられ、全世界とすべての国、民族の神でもあられます。全世界の完成者であられます。神がこの世にお遣わしになったメシア・キリスト・救い主は、イスラエルの救い主であられるだけでなく、全世界の、全人類の、すべての人の救い主であられます。

 では、イスラエルだけが先に選ばれたのはなぜでしょうか。それは、彼らが全世界の人々のための証人として、そのことをすべての人々に証しするためなのです。それが、主イエスが指摘される第三のことです。主イエスは8節で、イスラエルと弟子たちの証人としての務めについて語っておられます。神に選ばれたイスラエルは、また主イエスによって選ばれた弟子たちは、聖霊を注がれて、神からの力を与えられて、イスラエルの地だけでなく、全世界へ出て行って、主イエス・キリストの証人として、主イエス・キリストの十字架と復活の証人として立てられるという、新しい務めを授けられるのです。この務めを果たすことによって、終末の時に備えるのです。

 9節からは主イエスの昇天のことが描かれます。【9~11節】。復活された主イエスは天に引きあげられました。この個所には、「天に」「天を」という言葉が5回用いら、天が強調されています。天とは、人間が住む地からは遠くかけ離れている、地とは別の世界、父なる神がいます場所のことです。そこには、神のみ座があり、神の栄光と権威と全能の力とが満ちている所です。また、天とは、主イエスがそこから地に下って来られた所でもあります。主イエスはそこへとお帰りになられたのです。主イエスの昇天の第一の意味がこれです。主イエスは地上でのすべての救いのみわざをなし終えられ、十字架の死と復活によって罪と死に勝利され、勝利者として天に凱旋されたのです。そして、天の父なる神のもとへ帰還されたのです。

9節に「雲に覆われて」とあり、10節には「白い衣を着た二人の人」とあります。雲は、聖書では神の現臨を表します。白い衣を着た人は神のみ使い、天使のことです。主イエスは父なる神の栄光のうちに迎えられ、今は神の右に座しておられ、全地とすべての人を永遠に支配しておられます。これが主イエスの昇天の第一の意味です。

 第二は、主イエスのお体は今は地上にはなく、天にあるということです。天にある主イエスのお体を何らかの仕方によって地に引き下ろすということをわたしたちはすべきではありません。宗教改革者たちはこのことからローマ・カトリック教会の実体変化と言われる聖餐論に反対しました。彼らの考えによれば、聖餐式の、彼等の言葉では「聖体拝領、ミサ」ですが、その時のパンとぶどう酒は司祭の号令によって主イエスの肉と血とに実体が変化すると言います。しかし、主イエスのお体は地上にではなく天にあるのですから、ミサの時に天から地に降りてくるということはあり得ませんし、またそうすべきでもありません。それは、宗教改革者たちが激しく批判したように、主イエスのお体をミサのたびごとに十字架につけることになります。それは、聖書に書かれているあの一回限りの主イエスの十字架によっては、救いは不完全であるということにもつながります。そのことから、プロテスタント教会はカトリック教会のミサの考え方には、特に実体変化説には強く反対しています。また、同じ理由から、教会堂の中から主イエスのお姿を連想させる像や絵画を取り去りました。わたしたちが主イエスと出会い交わりを持つことができるのは、あくまでも信仰によってであり、み言葉と聖霊なる神によるのであって、肉の目や肉の体によってではありません。

 では、主イエスが今は地上にはおいでにならないのだとすれば、「わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる」(マタイ福音書28章20節参照)と言われた主イエスのお約束は果たされないということなのでしょうか。いや、そうではありません。否、むしろ、その反対に、主イエスのお体が天に移されたことによって、主イエスはわたしたちすべての人と永遠に共にいてくださるという約束がより確かになったのです。主イエスのお体が地上にあった時には、主イエスはそこにいた限られた弟子たちと共におられましたが、今は天におられ、すべての人と、永遠に共にいてくださるようになったのです。わたしたちは信仰によって、聖霊に導かれて、主イエスがいつもわたしと共におられ、わたしを導いてくださることを信じることができるのです。これが主イエスの昇天の第三の意味です。

 主イエスはそのことの確かなしるしとして、また保障として、聖霊をわたしたちに送ってくださいます。これが昇天の第四の意味です。5節と8節で約束されたように、天に上げられた主イエスは、聖霊なる神をわたしたちのもとに送ってくださいました。聖霊によって、わたしたちは主イエスがわたしと共におられるという信仰を持つことができ、主イエスの十字架の死と復活が、このわたしの救いのためであったことを信じることができるのです。

 もう一つのことを付け加えなければなりません。11節に、【11節】と書かれています。主イエスは世の終わりの時、終末の時、再び地上においでくださり、信じる人たちを天の神のみ国へと迎え入れてくださいます。その時、神の国が完成され、わたしたちの救いが完成し、朽ちることのない永遠の命が与えられるのです。その時に至るまで、主イエスは天におられて、地のすべてをご覧になり、お導きくださり、信じる人たちをお守りくださいます。それゆえに、わたしたちも目と心と体のすべてを天に向けて、主イエスの再臨を待ち望むのです。

教会の民は、主イエスの昇天と再臨の二つの時の間に生きている群れです。それゆえに、たしかな保障と約束を与えられ、終わりの日の完成に向かっているのです。

(執り成しの祈り)

○天の神様、わたしたちは今この地上にあって、さまざまな恐れや不安、混乱と

動揺の中におります。けれども、わたしたちの信仰の完成者であられる主イエスが天におられ、わたしたちのすべての歩みを導いておられます。どうぞ、わたしたちがかしらを上げて、天におられるあなたのみ心が行われることを信じさせてください。

○全世界があなたの憐れみを求めて、祈っています。どうぞ、世界の人々に愛と

分かち合いの心をお与えください。特に、住む家や食料、医療で困窮している

人々を助けてください。

○世界の為政者たちが主なる神であるあなたを恐れ、あなたの義と真実と平和

7月12日説教「主の恵みの年を告げる福音」

2020年7月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書42章1~7節

    ルカによる福音書4章18~21節

説教題:「主の恵みの年を告げ知らせる」

 主イエスはイスラエル北部のガリラヤ地方で公の宣教活動を始められました。ガリラヤ地方の南部、ガリラヤ湖から南西に25キロメートルにナザレという町があり、そこが主イエスがお育ちになった町でした。ルカ福音書4章16節から、そのナザレでの主イエスの活動について記されています。

【16節】。ユダヤ教の安息日は土曜日です。創世記に書かれているように、神が六日の間天地万物を創造され、七日目に休まれたから、この日、人はみな手の働きを休め、神の創造と救いのみわざを感謝し、神を礼拝する日と定められていました主イエスは安息日に主なる神を礼拝するためにナザレの会堂に入られました。

 ユダヤ人の礼拝の中心は首都エルサレムにある神殿でした。動物を犠牲としてささげる礼拝はエルサレム神殿だけに限定されていました。地方にある会堂では安息日ごとに礼拝がささげられていました。ユダヤ人男子10人以上が住む町には会堂(シナゴーグ)を建てるべしと定めれており、ナザレにも会堂がありました。主イエスはある安息日にナザレの会堂に入られました。神を礼拝するためです。16節に「イエスはお育ちになってナザレに来て」とありますが、主イエスが故郷のナザレに来られたのは、実家でしばらく休養するためとか、両親の顔を見るためとかではありません。会堂で神を礼拝するためです。それ以上に、ナザレの人々に福音を宣べ伝えるためです。

 当時の会堂での安息日の礼拝の式準がおおよそ分かっています。まず礼拝の冒頭で、申命記6章4節以下の「イスラエルよ、聞け」(ヘブライ語では「シェマー・イスラーエル」)で始まる信仰告白が唱えられます。次に、司会者によって祈祷がささげられ、聖書朗読がなされます。聖書朗読は司会者か、あるいはだれかを指名する場合もあります。その日の聖書の個所を解きあかした説教が長老によってなされます。その後、祈祷、施し、というプログラムですが、その中での中心は聖書朗読です。旧約聖書全体が3年サイクルで読み終えるような聖書日課が定められていました。この時代の聖書は、羊などの動物の皮をなめしてそれをつなぎ合わせて作ったものが、創世記、出エジプト記など各書に分けられて巻物にされていました。聖書の巻物は貴重品であり、丁寧に扱われました。

 ユダヤ教会堂での礼拝では聖書朗読が最も重要視されていました。そのことは、わたしたちの礼拝においても学ぶべきと思われます。今日のほとんどのプロテスタント教会の礼拝では、説教が重んじられる余り、聖書朗読は軽んじられている傾向があります。説教のテキストとして聖書が朗読されることから、聖書朗読そのものの意味が見失われがちになります。わたしたちの礼拝では説教が中心であることはもちろんですが、聖書朗読もまた重要な要素であることを忘れてはなりません。聖書朗読はたんに何かの文章を朗読して聞かせるということではなく、神のみ言葉の朗読です。聖書朗読それ自体が神のみ言葉の語りかけであり、福音の宣教なのです。聖書を朗読する人も、またそれを聞く人も、神のみ言葉の前に恐れを持ちつつ、神のみ言葉の恵みと力と命を覚えつつ、そして聖霊なる神のお働きを信じつつ、朗読し、また聞かなければなりません。

 ナザレの会堂で、この日の安息日に主イエスは聖書朗読の役を指名されて会衆の前に立ちあがりました。【17~19節】。聖書朗読の個所はあらかじめ聖書日課で決められているのが普通でしたから、それがイザヤ書61章1~2節のこの個所であったのか、たまたま主イエスが開かれたページがその個所だったのか、あるいは主イエスがご自分でこの個所を選ばれたのか、それは定かではありませんが、そこには主なる神のお導きがあったのだと言うべきでしょう。そして、聖書朗読のあとで主イエスは、21節に書かれているように、「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」と言われました。それはどういう意味でしょうか。

 第一に、主イエスはイザヤの預言で「わたし」と言われている人物を主イエスご自身のことであると言われました。イザヤが彼の時代の中で、自分は預言者として神から派遣されている、神の霊を注がれて、福音を宣べ伝え、人々を捕らわれている鎖から解放し、まことの自由を与え、主なる神の恵みのご支配が始まったことを告げ知らせる務めを神から授かった、と語ったのですが、その務めを今の時代に神から授かっているのが、実にこのわたしなのだと、主イエスは言われたのです。

 イザヤ書のこの預言は、紀元前6世紀のバビロン捕囚を背景にしていると考えられています。イスラエルの民は神との契約を破り、偶像礼拝や不従順を続けたために、神の裁きを受け、紀元前587年にバビロン帝国によって滅ぼされ、王と指導者、また民の多くが遠く西へ一千キロも離れたバビロンの地へ捕虜として連れ去られました。彼等は異教の地で50年余りの間、捕らわれの身となりました。いわゆるバビロン捕囚です。預言者イザヤはその捕囚の民に解放を告げる預言者として神に立てられました。イザヤ書40章からは捕囚の民に向けて語られた解放と救いの預言で満ちています。きょうの礼拝で朗読された42章1節以下では、預言者は「わたしの僕(しもべ)」つまり、主なる神の僕と呼ばれています。また、52章13節でも「主の僕」と呼ばれており、特に53章にかけては「苦難の主の僕の歌」と呼ばれ、主イエスのご受難と十字架の死を預言していると考えられています。

 神は、罪ゆえに自ら滅びの道をたどったイスラエルの民を憐れみ、彼等を異教徒の鎖から解き放ち、異教の地の汚れから彼らを洗い清め、彼等を再び約束の地カナンへと、神の都エルサレムへと連れ戻し、彼らが神に贖われた新しい民として、心から喜んで神を礼拝し、神にお仕えしていく民として再建される、そのための働き人として、その喜ばしい解放の福音を告げる預言者として、イザヤをお召しになったのでした。主イエスはその預言者イザヤの働きを、ご自身が今この時代の人々になすために、神はわたしをこの世界へ、このガリラヤへ派遣されたのだと説教されたのです。

 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。この主イエスの説教は、さらに大きな意味を含んでいます。預言者イザヤの預言は、紀元前538年にバビロンに代わって世界を支配したペルシャ帝国の王キュロスから出された捕囚民の解放令と第一次帰還、その後のエルサレム神殿再建によってすでに成就したと言えます。したがって、主イエスが説教された解放と自由の福音は実際にはイスラエルの民のバビロン捕囚からの帰還のことではあるというよりは、全世界のすべての人々の罪の奴隷からの解放の福音なのです。全人類が神から離れ、神なき世界で罪と死と滅びに閉じ込められ、罪の奴隷となって、太く重い鎖につながれ、未来への希望がない暗黒の世界にさまよっている、その人々に罪のゆるしと新しい命を与える神の喜ばしいおとずれ、救いの福音を、主イエスは説教なさったのです。

 では次に、イザヤの預言と主イエスの福音との関連性をさらに詳しく見ていきましょう。18節に「主の霊がわたしの上におられる」とあります。主なる神の霊、聖霊がイザヤに注がれる時、彼は預言者とされます。彼は聖霊によって、人間の目にはまだ見えていない神のご計画、神の救いのみわざをすでに見ることをゆるされ、だれの耳にも聞こえない神のみ言葉を彼は聞き取り、それをイスラエルの民に語ります。聖霊なる神がそのことを可能にするのです。

 主イエスのご生涯が、その誕生から神の霊に満たされていたということをルカ福音書は強調しています。3章22節の受洗の時もそうでした。4章1節の荒れ野の誘惑の場面でもそうでした。4章14節の宣教活動開始の時にもそうでした。主イエスはすべての活動、福音宣教のお働きを、聖霊なる神によってなさいます。キリスト教の教理である三位一体論の表現をすれば、父なる神と子なる神・主イエスと聖霊なる神とは、常に一体です。それによって、主イエスはわたしたちのための救いのみわざを完全に成し遂げてくださったのです。

 18節の「主がわたしに油を注がれた」はメシアという言葉の本来の意味を言い表しています。メシアは本来ヘブライ語で、「油注がれた者」という意味です。イスラエルでは王を始め、祭司や預言者がその職に任じられる際に、頭からオリブ油を注がれる儀式を行う習慣がありました。それは、神に選ばれたしるしであり、神によってその職に任じられたしるし、また神の霊によってその務めを果たすしるしでもありました。やがてイスラエルの民は、神が終わりの日に理想的な、また永遠の王として、預言者、祭司として、救い主をイスラエルのためにお遣わしになるという希望を抱くようになり、その救い主を「油注がれた者」・メシア(ギリシャ語ではキリスト)と呼ぶようになりました。主イエスはイザヤが預言し、証ししたメシア・キリスト・全人類の救い主であるということが、ここで明らかにされます。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と主イエスが言われたのは、その意味でもあります。

 イザヤの解放の預言を告げられる対象は、18節では「貧しい人」「捕らわれている人」「目の見えない人」「圧迫されている人」と言われています。これはバビロン捕囚の民を指すと考えられますが、主イエスの福音を聞くわたしたちにも、同じことが当てはまります。ここで第一に教えられることは、どんな貧しい人であれ、苦しみの中にある人であれ、この世では見捨てられ、圧迫されている人であれ、生きる希望を失っている人であれ、だれであれ神に見捨てられてはいない、いやむしろ、そのような人たちにこそ神の愛は激しく豊かに注がれ、神の福音がその人たちを捕え、解放と救いを与えるということが語られているのです。

 第二には、わたしたちが主イエスの福音を正しく聞くためには、自ら貧しい者であり、罪の奴隷となって自由を失っている者であり、この世のさまざまな鎖に縛られている者であり、真実の光を見失い暗闇をさまよっている者であるということを知り、そのことを告白しなければならないということです。わたしたちが自らの罪を告白し、主イエスのみ前に貧しくなる時、そして主イエスの十字架の福音を熱心に慕い求める時、わたしたち一人一人にとっても、21節の主イエスのみ言葉が語られます。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。

(執り成しの祈り)

○主なる神よ、この世界のすべての人々に、主イエス・キリストの自由と解放の

福音が語られますように。また、わたしたち一人一人が主イエスの福音の証し人となりますように、お導きください。

○全世界があなたの憐れみを求めて、祈っています。どうぞ、世界の人々に愛と

分かち合いの心をお与えください。特に、住む家や食料、医療で困窮している

人々を助けてください。

○世界の為政者たちが主なる神であるあなたを恐れ、あなたの義と真実と平和

を実現することができるように、あなたからの知恵と力とをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月5日説教「神の命令に従ったノア」

2020年7月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記6章1~22節

    ヘブライ人への手紙11章4~7節

説教題:「神の命令に従ったノア」

 創世記6章から9章には、「ノアの箱舟」あるいは「大洪水」と言われる長い物語が記されています。大洪水物語はさまざまな形で世界のいたる地域にもあったということが、今日知られています。古代オリエント、ギリシャ、インドその他の諸地域や諸部族で、古くから大洪水物語が語り伝えられてきました。古代の人々は、大洪水によって古い、悪に染まった世界が一掃され、洗い流されて、新しい大地が自分たちに与えられたということを、彼等の神々に感謝し、また、大水や洪水の恐ろしさを子孫に語り伝えてきたのだと思われます。

 それらの伝説の中で、19世紀末に古代バビロニア時代のニネベの図書館跡から発見された12枚の粘土板に刻まれた「ギルガメシュ叙事詩」に描かれていた大洪水物語は創世記のノアの洪水と非常によく似ていることが注目されました。また、20世紀になってから聖書考古学が盛んになり、バビロニアのチグリス・ユーフラテス川流域の発掘がなされた結果、紀元前4千年ころの古い地層から、この地域一帯を襲った大洪水の跡と思われる痕跡が発掘されました。

 これらの研究によって、創世記の大洪水物語が、神話や作り話ではなく、わたしたちにとって身近な史実性のあるものとなってきました。しかし、もちろんわたしたち信仰者にとって重要なことは、聖書を歴史や考古学のテキストとして読むことではなく、信仰の書として、神のみ言葉として読むことですから、神が今わたしたちに何を語りかけておられるのかをここから聞き取り、わたしたちがこのみ言葉にどう応答していくのか、そのことが問われ、求められているということは言うまでもありません。神が終わりの日に全世界をお裁きになられる時、主イエス・キリストが再臨される日、その終わりの日の神の国が完成される時を待ちつつ、急ぎつつあるわたしたちに対して神から与えられている時のしるしとして、神の語りかけとして読むことが、何よりも重要です。

 そこでわたしたちは、創世記の大洪水物語を読むにあたって、あらかじめ主イエスのみ言葉に耳を傾ける必要があります。【マタイ福音書24章35~39節】(48ページ)。わたしたちもまた、ノアのように目覚めて、人の子・主イエス・キリストの再臨の時に備えたいと願います。

 さて、創世記6章から9章の大洪水物語の主人公はだれかと言えば、当然、それはノアですと答えるでしょう。ノアという名前は、ヘブライ語で「休息する、安らぐ」という意味を持っています。5章29節ではこのように説明されています。【5章29節】(7ページ)。ノアは、地上に悪と暴虐が満ちた世にあって、ただ一人神に服従し、大洪水から救われ、洪水のあと、神と永遠の契約を結び、新しくされた世界の最初の人となって、のちの全人類に対して平和をもたらし、すべての人を慰める人となったのです。

 しかし、主人公であるノアは、実は、大洪水物語の中では、ただの一言も発言していないということをわたしたちは知らされます。6章から9章の中に、ノア自身が語る言葉を、わたしたちは一つも見いだすことはできません。ここでは、ただ神だけが語っておられます。神がみ言葉をお語りになり、神がすべてのことを計画され、すべてのことを実行されます。まず【3節】、次に【5~7節】。三度目もまた神がお語りになります。【13節】。ここから21節までは、神が語られるみ言葉が続きます。

 ノアは、ここでは、セリフを持たない無言の主人公です。ノアについて語っているみ言葉を読むと、まず【8節】、続いて【9~10節】。そして【22節】。ノアは神がお語りになるみ言葉を聞き、それに黙々と服従するだけです。これが、神に選ばれ、ただ一人神の好意を得、神に従う無垢な信仰者の姿です。

 ノアの大洪水物語がわたしたちに語る第一のことは、このことなのです。人の子主イエス・キリストの再臨を待ち望み、それに備えるためにわたしたち信仰者がなすべき第一のことはこのことなのです。寡黙にして、ただ神のみ言葉に聞き、それに服従して生きる。「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした」。そのように、わたしたちも神のみ言葉に聞き従う。それが、わたしたちがなすべき第一のことです。

 では、神が言われる3節のみ言葉から聞いていきましょう。【3節】。これは、罪の人間に対する神の嘆きと裁きのみ言葉です。創世記5章のアダムの系図では、人の一生は千年に少し足りないほどでしたが、ここでは大きく制限され120年となっています。ここには、人間の寿命の短さは神の裁きの結果であるという考えがあるように思われます。罪ある人間は肉なるものに過ぎません。しかも、甚だしく腐敗した肉です。それゆえに、肉なる人間は長く生き続けることがゆるされません。

 聖書では「肉なる者」とは、神の霊によって生きていない人、自分の欲望のままに、自分の知恵や力だけを頼んで生きている人間を言います。使徒パウロはローマの信徒への手紙8章で、肉によって生きる人と神の霊によって生きる人を対比してこのように言います。「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和です」(ローマの信徒への手紙8章5~6節)。したがって、肉にあって死すべきである人間は、主イエス・キリストを死人の中からよみがえらせた神の霊、聖霊によって再び命によみがえり、「生ける人、霊の人」とされる必要があるのです。

 2節の「神の子ら」、4節の「ネフィリム」は古くからの伝説に基づいています。天の父なる神のもとで仕えるべきである天使たちの一部が堕落して地上に降りて来て人間の娘たちと交わり、ネフィリムと呼ばれる巨人が誕生したという伝説です。人間の罪が天の領域にまで達して、天使たちをも巻き込むほどに拡大していることが語られています。

 そのような人間のはなはだしく邪悪で不法な罪を神は天からご覧になり、それを嘆き、悔いておられるということが、5~7節と11~12節に繰り返されています。特に11節、12節では、神のみ前でのこの地の不法と人間の堕落が何度も強調されています。地上には神を求める人はだれ一人もいません。すべての人間が、内も外も全部が病んでいます。そこで、7節には、神は人間を造られたことを後悔されたとあり、また13節ではこのように言われます。【13節】。

 そもそも、神はご自分がなさったみわざを後悔されて、そのみわざを取り消されるということなど、あり得るのでしょうか。神は全知全能であり、そのみわざはすべて正しいとわたしたちは信じ、告白しているのではないでしょうか。たとえ、この世界とそこに住む人間とが、どれほどに堕落し不法と不義に満ちているとしても、神はそれには動揺せずに、悠然として、それを天から見下ろしておられるべきではないでしょうか。

 いや、聖書の神はそうではありません。むしろ、わたしたちはこう言うべきです。神はここでただお一人、この世界と人間の罪に対してみ心を痛めておられ、嘆いておられるのだと。だれも自らの罪に気づかず、だれも自らの滅びの運命に心を痛めることもない、愚かで、かたくなで、傲慢不遜な人間たちの中で、ただお一人、神だけが人間の罪のためにこれほどまでに嘆いておられるのだと。

 わたしたちはここで、わたしたちの罪のために、ご自身が罪のない神のみ子であられた主イエス・キリストだけが、ただお一人、罪と戦われ、そのために十字架で清い血を流されたということを思い起こします。わたしたち罪びとのだれもが、おのれの罪に気づかず、罪と取り組んで戦うことをしなかった時に、主イエス・キリストただお一人が、わたしたちの罪のために苦難をお受けになり、それによって罪に勝利されたのです。

 「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう」と神は言われます。ご自身が創造された人間、しかもご自身に似せて、最も深い愛を注いで創造された人間をことごとく滅ぼさなければならない、その神のみ心の痛みをだれが知るでしょうか。そして、ひとり子を十字架に引き渡した神の痛みと愛とをだれが知るでしょうか。

 ノアの大洪水、それはまさに人間の罪の大洪水が引き起こしたものにほかなりません。人間の罪と暴虐が全地にみなぎっているからです。しかし、この大洪水によって人間の罪が勝利するのではありません。神が人間の罪を一掃するために、深いみ心によって引き起こされたものです。今はまだ隠されてはいますが、神の愛と恵みの大洪水なのです。神は罪に満ちた全地をとそこに住む人間たちを裁く決断をされました。それは神の聖なる決断です。それは、義なる神の厳しい裁きであると同時に、愛と恵みに満ちた決断でもあるのです。人間の罪が全地を覆いつくして、それによって全地が滅びてしまうことを神はおゆるしになりません。神はみ心によって人間の罪を一掃されます。古い罪の世界を洗い清められます。

 ノアは人間たちの中からただ一人選ばれて、神の好意を受けました。ノアが選ばれたのは、9節に書かれているように、神に従う人であったから、神と共に歩んだからです。ノアは、神の裁きのただ中で、神のみ言葉を聞き、それに従いました。【14~21節】。

 箱舟の設計者は神ご自身です。1アンマはおよそ45センチメートル。箱舟の長さは135メートル、幅は22・5メートル、高さは13.5メートル、上の方に明り取りの窓があり、側面に出入りする戸口がある3階建て、それに彼の家族とすべての生き物から雄と雌とを1つがい、その箱舟に入れと神は命じられました。説教の冒頭でも確認したように、ノアの箱舟物語ではすべて神がみ言葉を語られ、神が計画され、神が命じられます。

 それは何のためでしょうか。18節にあるように、神がノアと契約を結ばれるため、19節にあるように、ノアが箱舟に入った家族や生き物たちと共に生き延びるためです。

 【22節】。ノアはすべて神のみ言葉のとおりに実行しました。神のみ心に服従しました。主イエスがマタイ福音書24章で言われたように、人々が食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたその中で、ただ一人神のみ言葉に聞きつつ、来るべき裁きの時、来るべき救いの完成の時を待ち望み、その時に備えつつ、箱舟を造り、その中に入りました。

 ここに、わたしたち教会の民の原型があります。わたしたちも目覚めて、主キリストの再臨の時に備えましょう。

(執り成しの祈り)

○主なる神よ、聖霊によってわたしたちをあなたのみ言葉につなぎとめてくだ

 さい。信仰によって、わたしたちがいつも目覚めていることができますように、お導きください。

○全世界があなたの憐れみを求めて、祈っています。どうぞ、世界の人々に愛と

分かち合いの心をお与えください。特に、住む家や食料、医療で困窮している

人々を助けてください。

○世界の為政者たちが主なる神であるあなたを恐れ、あなたの義と真実と平和

を実現することができるように、あなたからの知恵と力とをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月28日説教「聖霊の降臨を待ち望む」

2020年6月28日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:ヨエル書3章1~5節

    使徒言行録1章1~5節

説教題:「聖霊の降臨を待ち望む」

 フィリピの信徒への手紙を読み終えましたので、きょうから使徒言行録を説教テキストとして取りあげることにしました。使徒言行録を選んだ主な理由は二つあります。一つは、今読んでいるルカによる福音書と同じ著者によると考えられているからです。ルカ福音書では主イエスが全世界のすべての人々の救い主としてこの世においでになって、十字架の死と復活によってその救いのみわざを成就されたことを描いており、その続編である使徒言行録では、主イエスの十字架と復活の福音が、エルサレムから全世界へと宣べ伝えられ、世界の町々村々に教会が立てられていった次第を描いています。ルカ福音書と使徒言行録の連続性を考えながら二つの書を読んでいくことが有益と思われるからです。

もう一つは、今日、全世界の教会が様々な困難な状況の中にあり、教会の勢力が衰え、力と命を失いつつあるように思われる中にあって、最初に誕生した教会がどのようにしてその福音宣教の働きを展開していったのか、その力と命の源は何であったのかを探っていくことにあります。初代教会、古代教会と言われるその時代の教会に学ぶことによって、わたしたちの教会も新しい力と命を与えられたいとの願いをもって、ご一緒に読んでいくことにしましょう。

1~2節は献呈の辞と言われます。自分が書いた書物を特定の尊敬する人や親しい人に献呈するということは今日でも行われています。ルカ福音書1章3節でも同じテオフィロという人に献呈されています。テオフィロという人物については全く分かっていませんが、ルカ福音書の方では「敬愛するテオフィロさま」(口語訳聖書では「閣下」ですが)、この言葉は高い社会的身分を示していますので、キリスト教に理解があったローマ政府の高官であったのでないかと推測されています。ところが、使徒言行録ではその称号が付けられていないことから、ルカ福音書が書かれたころにはまだ求道者であったテオフィロが使徒言行録を書いた時には洗礼を受けていたので、この世的な称号は省いたのだと、興味深い推測をする人もいます。

第一巻のルカ福音書の内容を著者ルカは「イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのこと」という言葉でまとめています。これは、ルカ福音書24章の終わりの36節以下に書かれている内容を指しています。復活された主イエスがエルサレムで弟子たちの前にお姿を現わされ、彼等にお命じになりました。【ルカ福音書24章44~53節】(161ページ)。使徒言行録でも、4節で同じ主イエスの命令が繰り返されています。【使徒言行録1章3~5節】。

ここでまず注目したいことは、ルカ福音書の続編である使徒言行録も、「イエスは」という言葉で始まっているときことです。ルカ福音書の主人公、中心人物が主イエスであり、主イエスの救いのお働きがその中心的内容であることは言うまでもありませんが、第二巻の使徒言行録もその主人公は主イエスです。天に上げられ、父なる神の右に座しておられ、そこから聖霊を派遣され、弟子たちをお用いになってご自身の救いのみわざをさらに全世界へと広められる主イエスが、第二巻・使徒言行録でも主人公であられます。

そのことは、使徒言行録の初代教会の時代だけでなく、その後のすべての教会の歩みとその教会に招かれている信仰者一人一人にとっても、同様です。主イエス・キリストがそれらのすべての歩み、活動、歴史の主人公であられます。主イエス・キリストが教会の頭として生きて働いておられる教会、また、主キリストがわたしたち一人一人の中で生きて働いておられる信仰者、それゆえに「生きているのはわたしではない。主キリストがわたしのうちにあって生きておられる」と告白するキリスト者、そのような教会とそのような信仰者である時にこそ、そこに主キリストの力と命が与えられるのです。

次に、主イエスのご生涯とご受難から昇天に至るまでの道のりを確認しておきましょう。主イエスは年およそ30歳になってから公の宣教活動を始め、ガリラヤ地方からユダヤ地方へと、神の国の福音を宣べ伝えられました。その期間は3年ほどと考えられます。地上の歩みの最後の一週間はエルサレムで過ごされ、その週を受難週と言います。受難週の木曜日の夕方、弟子たちと最後の晩餐を囲まれました。共観福音書によれば、それはユダヤ人の祭り、過ぎ越しの食事でした。翌日早朝に、ユダヤ人指導者たちによって逮捕され、裁判を受け、最終的にはローマ総督ピラトによって十字架刑を言い渡されました。金曜日午後3時ころ、主イエスは十字架上で息を引き取られ、すぐに埋葬されました。一日置いて、日曜日の明け方に、主イエスは墓を打ち破り、復活されました。そのあと、3節に書かれているように、主イエスは弟子たちに復活のお姿を現わされました。それを復活の「顕現」と言います。それが40日間続きました。そのあと、9節にあるように、主イエスは天に上られました。それから10日後の、ユダヤ人の五旬祭(ペンテコステ)の日に、弟子たちに聖霊が注がれ、エルサレムに世界最初の教会が誕生しました。そのことが2章に書かれています。これが、福音書から使徒言行録に至る日程です。

ここでわたしたちは今一度3節のみ言葉に注目したいと思います。【3節】。このみ言葉が、福音書と使徒言行録とをつなげる鍵になります。主イエスの神の国の福音を宣教するお働き、主イエスの救いのみわざは、主イエスの死によって終わったのではありません。主イエスの十字架の死の三日後、日曜日の朝に主イエスは復活されました。それだけでなく、復活された主イエスは、40日間にわたって復活されたお姿を弟子たちに現わされ、彼等に福音書に描かれているのと同じように神の国の福音を説教され、彼等と共に食事をされ、4節が弟子たちと共同の食事の最後になるのですが、そのようにして主イエスはご自分が確かに生きておられることを弟子たちに証明されました。

使徒パウロはコリントの信徒への手紙一15章で主イエスの復活の顕現についてこのように書いています。【15章3~7節】(320ページ)。初代教会の信仰告白の中で復活の顕現についてこのように詳しく言い表していることをも注目したいと思います。

では次に、復活の顕現の重要性についていくつかのポイントをまとめてみたいと思います。第一点は、主イエスが罪と死に勝利されたことの確かなしるしであるということです。人間たちの罪が罪なき神のみ子を偽りの裁判で裁き、人間の罪が勝利したかに見えたその時に、主イエスは罪と死に勝利され、死の墓から復活されました。弟子たちは復活された主イエスのお体に十字架にくぎで刺された跡や鑓で突き刺された傷跡を確認しました。まさに十字架につけられた主イエスが復活されたのです。人間の罪の力が最後に勝利するのではなく、罪と死から起き上がり、新しい復活の命をお与えになる神の恵みと愛が、罪のゆるしが勝利するのです。復活された主イエスと出会った弟子たちはそのことを確認しました。

第二点は、主イエスが福音書で説教された神の国が今や成就したということです。3節に「神の国について話された」と書かれています。福音書の中で主イエスは近づきつつある神の国の福音を説教されました。人間の罪が支配していた世界が間もなく終わり、神の恵みと愛のご支配が始まる、神から与えられる罪のゆるしの福音が語られ、その福音を信じる信仰者に永遠の命が約束される、新しい神の国が今始まったのだと主イエスは話されました。使徒言行録は新しい神の国が始まったことの記録です。新しい神の国に生きる教会の記録です。

第三点は、復活の顕現を経験した弟子たちは、主イエスの復活の証人とされたということです。ルカ福音書24章48節で主イエスは弟子たちにこのように言われました。「あなたがたはこれらのことの証人となる」。また、使徒言行録1章8節では「あなたがたはわたしの証人となる」と言われました。さらに22節には、「主の復活の証人となる」と書かれています。初代教会はこれらの主イエス・キリストの復活の証人たちによって建てられたのです。主の復活の証人たちの証言によって、その説教によって、教会は誕生し、建てられ、生きていたのです。

ここに、教会の歴史的存在の確かな根拠、土台、基礎があるのです。それは、今日の全世界のすべての教会の存在の根拠であり、土台であり、基礎でもあります。わたしたちの教会もまた、主イエスの復活の顕現を体験した弟子たち、主イエスの復活の証人たちの証言、それを土台としています。ここに、教会の土台の確かさ、わたしたちの信仰の土台の確かさがあるのです。

4~5節では、弟子たちの上に聖霊が注がれるまで、エルサレムで待っていなさいとの主イエスの命令が語られます。ルカ福音書24章の終わりで語られていた内容と一致します。聖霊は「前にわたしから聞いた」こと、「父の約束されたもの」と言われています。聖霊はすでに旧約聖書で預言されていました。ヨエル書3章では、神が終わりの日にすべての人の上に聖霊を注ぐであろう、聖霊を受けた若者は預言をし、老人は夢を見るであろうと預言されています。また、ヨハネ福音書では主イエスがご自分の死後に別の助け主として聖霊を派遣すると何度も約束しておられます。【ヨハネ福音書15章26~27節】(199ページ)。

その聖霊が注がれる時まで、エルサレムで待っていなさいと命じられています。「待っていなさい」と命じられていることが、聖霊なる神のお働きと関連しています。つまり、聖霊が注がれるまでは、弟子たちは何もせずに、ただ祈って待っているようにと命じられているのです。弟子たちが自分たちの計画や力や知恵によって教会を建てたり、主イエスの福音を語ったりするのではなく、自分たちの計画や働きを中止して、自分たちの知恵や力に頼ることをやめて、聖霊なる神が自分たちの中で働かれるために、自らを空しくし、貧しくし、無にすることによって、聖霊なる神に自分を全面的に明け渡し、服従する。その時にこそ、聖霊なる神がわたしの中で働かれ、わたしを信仰者とし、主イエス・キリストの復活の証人としてわたしを立て、わたしを福音の宣教者としてこの世へと派遣してくださるのです。

(執り成しの祈り)

○神よ、わたしたちに聖霊をお注ぎください。わたしたちを聖霊によって強め、

励まし、主キリストの証人としてお立てください。

○主なる神よ、あなたが創造され、あなたが全能のみ手をもってご支配しておら

れるこの世界が、あなたのみ手を離れて滅び行くことがありませんように。全地のすべての国・民をあなたがあわれみ、この地にあなたのみ心を行ってください。

○神よ、特にも、小さな人たち、弱い人たち、見失われている人たちをあなたが

助け、励まし、導いてください。病んでいる人たち、重荷を負っている人たち、試練の中にある人たち、孤独な人たちの歩みにあなたが伴ってくださり、必要な助けをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月21日説教「主イエスの宣教活動」

2020年6月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書40章6~11節

    ルカによる福音書4章14~15節

説教題:「主イエスの宣教活動」

 新約聖書には四つの福音書があります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネですが、前の三つを「共観福音書」と言います。というのは、この三つは福音書の構造や記述内容などが非常によく似ていて、一字一句全く同じという個所も少なくなく、互いに観察しあって書いた、あるいは編集したと考えられるからです。今日の研究では、マルコ福音書が最も早くに書かれ、おそらく紀元60年代、すなわち主イエスが十字架で死なれ、三日目に復活され、50日後のペンテコステに最初のエルサレム教会が誕生してからおよそ30年後に書かれ、マタイとルカ福音書はそれから10~20年後に、おそらくはマルコ福音書を参考にしながら書いたと推測されています。ヨハネ福音書は共観福音書とはだいぶ趣が違っていますので、これを第四福音書と呼んだりします。これは、紀元80~90年代に書かれたと考えられています。

 共観福音書と言われる三つの福音書、それに第四福音書と言われるヨハネ福音書、これら四つの福音書に書かれている中心的な内容、それが主イエス・キリストであるということは言うまでもありません。四つの福音書は、それぞれの特徴を持ち、強調点の違いがあり、言葉遣いの違いなどもありますが、それがわたしたちに語りかけているのは、神が全人類のための救い主としてこの世にお遣わしになった主イエス・キリストであり、主イエス・キリストが宣べ伝えられた神の国の福音であり、神の永遠の救いのみわざです。

 わたしたちはルカ福音書を続けて読んでいますが、共観福音書と言われる他の二つの福音書を参考にしながら読むと、理解が深まります。きょうの礼拝で取り上げるのは、ルカ福音書4章14~15節の短い箇所ですから、これを他の二つの福音書を読み比べながら、丁寧に、詳しく学んでいくことにしたいと思います。

「新共同訳聖書」では読む人の参考のために、その個所の表題と、共観福音書の並行個所を記しています。マタイ4章12~17節、マコ(マルコ)1章14~15節と書いてありますので、聖書を開ける人はその個所を開いてください。【マタイ4章12~17節】(5ページ)。【マルコ1章14~15節】(61ページ)。表題の「ガリラヤで伝道を始める」はみな同じです。記述内容は、三つに共通している点があり、マタイとマルコに共通している点、またそれぞれの特徴も読み取れます。ここには、それぞれの福音書全体の特徴もよく表れています。それらの研究課題の一つ一つをすべて取り上げていくと、神学校の1週間分の講義になりますので、きょうはその中のいくつかに触れながら、主イエスの福音宣教の初めについて学んでいくことにしましょう。

第一に取り上げる点は、ルカ福音書14節の「イエスは〝霊〟の力に満ちて」というみ言葉です。これは、マタイにもマルコにもありません。ルカ福音書の大きな特徴の一つだということが分かります。前回にも触れたことですが、ルカ福音書は特に、霊、神の霊、聖霊を強調します。これは、同じ著者によると思われる使徒言行録にまで受け継がれていきます。

主イエスの誕生予告の個所で聖霊について語られています。1章35節の天使がマリアに語ったみ言葉【35節】(100ページ)。わたしたちが「使徒信条」の中で「主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ」と告白しているとおりです。次に、主イエスの受洗の個所、【3章21~22節】(106ページ)。そして、荒れ野での誘惑の場面、【4章1節】(107ページ)。

主イエスは誕生の時から、公のご生涯が始められる受洗の時、荒れ野での悪魔の誘惑との戦いと勝利、そして福音宣教の開始、そのすべてが聖霊なる神のみ力とお導きによるということを、ルカ福音書は強調しているのです。主イエスはご自身の願いや計画や意志によって公のご生涯を始められるのではありません。父なる神の永遠の救いのご計画に従い、聖霊なる神の力とお導きによって、すべてのみわざをなさるのです。この福音書に描かれている主イエスのすべての活動、神の国の福音の説教、奇跡のみわざ、そしてご受難と十字架の死、復活、それらすべてのことが父なる神のみ心に従い、聖霊なる神のお導きによってなされるのです。また、そうであるからこそ、主イエスはそれらすべてのみわざを喜びをもってなすことができたのであるし、そのみわざによってわたしたちのための救いを完成されるのです。

同じことは、わたしたち一人一人の信仰の歩みにもあてはまります。わたしが初めて教会に招かれた時、わたし自身はまだそのことに気づいてはいませんでしたが、そこには聖霊なる神のお導きがありました。わたしが信仰を告白して洗礼を受ける決意を与えられた時、信仰者として教会に仕え、キリスト者としての証しの生活をする時、そのすべてにも聖霊なる神のみ力とお導きがあったのだということ、父なる神の永遠のご計画があったのだということ、そう信じる時にこそ、わたしは喜びと希望をもって信仰の歩みを続けることができるのです。もし、それらを自分の願いや計画でしたのであれば、わたしたちはある時には自分を誇って傲慢になったり、ある時には失敗して失望しなければなりません。わたしの信仰の歩みのすべてが聖霊なる神に導かれたものであるようにと祈り求めることが大切です。そうである時にこそ、わたしの信仰の歩みが確かに終わりの日の完成に向かっているということを信じることができるからです。

「霊の力に満ちて」はルカ福音書全体に貫かれているだけでなく、ルカが続編として書き著した使徒言行録にまで続いています。使徒言行録1章8節にこのように書かれています。【8節】(213ページ)。そして次の2章では、五旬祭(ペンテコステ)の日に弟子たちに約束の聖霊が注がれて、エルサレムに最初の教会が誕生した次第について書かれています。全世界の教会は聖霊なる神がお与えになった実りであり、聖霊なる神の活動そのものです。

14節に続けて「ガリラヤに帰られた」とあります。どこから帰られたのかというと、4章1節に書かれていたように、洗礼者ヨハネが活動していたヨルダン川沿いの地域、おそらくはイスラエルの南のユダヤ地方から、さらに悪魔の誘惑の場面である同じユダヤ地方の荒れ野から、北の方角のガリラヤ地方へと、距離にして約100キロほど移動されたと推測されます。ユダヤの荒れ野からガリラヤへ、主イエスのこの移動は何を意味するでしょうか。一つには、主イエスはユダヤの荒れ野にとどまってはおられなかったということです。荒れ野で修業したり、一人で瞑想し、悟りを開くということが主イエスの目的ではありません。人々が住んでいる町々村々で、その人々の生活の中で、特にも、困窮したり、重荷を背負ったり、苦しみや痛みの中にある人々と共に歩み、彼らに神の国の福音を語り、罪のゆるしと救いの恵みを語り伝えることが主イエスの活動の目的です。主イエスはわたしたちの生活のただ中に入って来られます。

もう一つは、ガリラヤのナザレが主イエスの故郷だったからです。2章39節にも、主イエスがご両親のヨセフとマリアと一緒にエルサレムからガリラヤのナザレに帰ったと書かれていました。しかし、4章14節で「ガリラヤに帰られた」とあるのは2章39節とは意味が違います。主イエスはご両親が住むナザレの町でご両親とまた一緒に住むために帰られたのではありません。おそらく主イエスは、公のご生涯が始まって以後は、実家に立ち寄るとか、実家で少しの間休養を取るとか、そのようなことは一度もなされなかったのではないかと思われます。主イエスがガリラヤ地方へ帰られたのは、この地方の人々に神の国の福音を宣べ伝えるために他なりません。彼等に罪のゆるしの福音を語り、悔い改めて神に立ち帰ることを勧めるためでした。

さらに積極的な意味を、マタイ福音書から知らされます。マタイ福音書4章15、16節では、イザヤ書8章23節と9章1節の預言を引用して、その意味を語っています。神が主イエスを最初にガリラヤ地方へと遣わされたのは、辱められ、見捨てられ、暗闇に閉ざされていた異邦人の地であるガリラヤに大きな光を輝かせるという預言者イザヤのみ言葉が成就するためだとマタイ福音書は語っています。

これには、旧約聖書時代からの歴史的背景があります。イスラエルはソロモン王の死後、紀元前922年に南北に分裂しました。南王国ユダがソロモン、ダビデと受け継がれる正統的な王国でしたが、北王国は200年後の紀元前721年にアッシリヤ帝国によって滅ぼされました。アッシリヤは占領政策として外国人を北王国に移住させたために、北王国のユダヤ人は外国人と混ざり合い、異教的な信仰がはびこるようになっていきました。そのために、北のサマリアやガリラヤ地方は、純粋な民族的宗教を重んじるユダヤ人からは異邦人に呼ばわりされ、軽蔑されていました。イザヤ書の預言はそのような北王国の歴史を背景にしています。

神はその異邦人の地、暗黒の地と呼ばれていたガリラヤを、主イエスの福音が語られる最初の地として選ばれたのです。ここには、聖書の中で繰り返されている神の選びの不思議があります。神はあえて小さなもの、貧しいもの、見捨てられている者、暗黒の地に住む人たちを選ばれ、救いの恵みをお与えくださいます。それはだれも神のみ前で誇ることがないためです。だれもが、神に選ばれる資格も可能性も全くないにもかかわらず、神の一方的な恵みの選びによって、救われ、神の民とされたことを感謝するためです。

次に、14節と15節で二度にわたって強調されている点は、主イエスがガリラヤ地方の人々に歓迎され、尊敬をお受けになられたということです。民衆が主イエスを喜び迎えたということは、当時のユダヤ人、また特にガリラヤの人たちが、神の救いの時の到来を待ち望んでいたことを示していると理解することもできますが、しかしまたその期待もすぐに、あえなく崩れ去るという失望感を強調してもいるのだということにすぐ気づきます。16節以下のナザレで主イエスがお受けになった最初の迫害、拒絶によって、そのことがすぐに明らかになります。そのことについては次回に詳しく学ぶことになります。

最後に、「イエスは会堂で教えられた」というみ言葉を学びましょう。会堂とは、ユダヤ教の地方にある礼拝所のことです。動物を犠牲としてささげる礼拝は、エルサレムにある神殿以外では認められていませんでした。地方の会堂では、安息日ごとに(ユダヤ教では土曜日ですが)礼拝がささげられていました。その会堂での礼拝についても次回学びますが、主イエスはしばしばその会堂で説教されました。主イエスの説教、教え、福音は旧約聖書の教えとユダヤ教の会堂を母体にしています。しかし、その内容は会堂でのユダヤ教の教えとは全く違っていました。主イエスの説教、主イエスの福音は、旧約聖書の預言の続きではありません。預言の成就です。ユダヤ教の律法ではありません。神の国の福音です。主イエスはユダヤ教の会堂で、ユダヤ教の教えではなく、新しいキリスト教の教えを説教されました。神にはじめに選ばれたユダヤ人、イスラエルの民だけでなく、選びから落ちたガリラヤの人たちも、選ばれなかった異邦人たちも、全世界のすべての人たちが救いへと招かれている。ユダヤ教が教えるように律法を守ることによってではなく、主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によって、すべての人が罪ゆるされ、救われる。その福音を主イエスはガリラヤで説教され、今もわたしたちにその福音を語っておられます。

(執り成しの祈り)

○主なる神よ、わたしたちを主イエス・キリストの福音へと招いてください。全

世界のすべての人々を、主イエス・キリストの福音へと招いてください。

○主なる神よ、あなたが創造され、あなたが全能のみ手をもってご支配しておら

れるこの世界が、あなたのみ手を離れて滅び行くことがありませんように。全地のすべての国・民をあなたがあわれみ、この地にあなたのみ心を行ってください。

○神よ、特にも、小さな人たち、弱い人たち、見失われている人たちをあなたが

助け、励まし、導いてください。病んでいる人たち、重荷を負っている人たち、試練の中にある人たち、孤独な人たちの歩みにあなたが伴ってくださり、必要な助けをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月14日説教「アダムからノアまでの系図」

2020年6月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記5章1~32節

    ヘブライ人への手紙11章1~7節

説教題:「アダムからのノアまでの系図」

 創世記5章にはアダムから始まるノアの大洪水以前の最初の人間たちの10世代にわたる系図が書かれています。旧約聖書にはこのほかにも多くの系図があります。歴代誌はそのほとんどが系図で占められています。マタイ福音書1章とルカ福音書3章には主イエスに至るまでの系図があります。聖書の民であるイスラエルにとっては、系図が非常に重んじられていました。なぜ系図が重要な意味を持つのかを考えることが、きょうの創世記5章を理解する基礎になります。

 1節で「系図」と訳されているヘブライ語は2章4節で「由来」と訳されている語と同じです。本来この言葉は「出産」を意味します。そこから、誕生の由来や歴史、成立史という意味を持つようになったと考えられます。ここからわたしたちは「系図」が持つ重要な意味の一つを教えられます。それは、神が始められ、神が導かれる世界と人間の歴史を意味しているということす。神が全世界を創造され、神が最初の人間アダムとエバを創造され、その命を誕生させてくださった、その人間の誕生と命のつながり、連続、それが系図です。系図、由来の原点、出発点には主なる神がおられるのです。ルカ福音書3章38節には、「エノシュ、セト、アダム、そして神に至る」と書かれているとおりです。神が始められた世界と人間の歴史、神の救いの歴史は、決して中断されることなく、その完成に向かって継続されていくのです。これが、系図、由来の第一の意味です。

 創世記12章からの族長アブラハムの時代からは、系図に新たな意味が加わりました。それは、系図が神の選びの歴史の確かなしるしであるということです。神は地の表からまずアブラハムを選び、彼をご自身の民として召され、彼と契約を結ばれました。神の選びと契約はアブラハムの子イサク、ヤコブ、そしてヤコブ(すなわちイスラエル)の12人の子どもたちによって形成されるイスラエルの民の選びと契約によって具体化されていきました。神はイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出され、シナイ山でこの民と契約を結ばれ、ご自身の民とされました。その契約はダビデ王からソロモン王と南王国ユダの子孫へと受け継がれました。その神の選びと契約の歴史、これが系図の第二の意味です。

 系図のもう一つの、最も重要な意味は、神が開始された創造と救いのみわざは、神の選びと契約の歴史を通して、その完成であるメシア・キリスト・救い主の到来を待ち望み、主イエス・キリストを目指し、主イエス・キリストによって完成されるということです。旧約聖書の書かれているすべての系図は、そして新約聖書マタイ福音書とルカ福音書の系図ももちろんそうですが、そのすべてが主イエス・キリストにつながっている、主イエス・キリストを目指している、主イエス・キリストによって完結している、その最終目的に達しているということ、つまり、その系図によってわたしたちを主イエス・キリストへと導くということ、それが系図の最も重要な意味、役割なのです。

 以上のことを念頭に置きながら、創世記5章を読んでいきたいと思います。【1~2節】。ここでは、創世記1章26~28節で書かれていた内容をまとめています。復習になりますが、4つの点を再確認しておきましょう。第一点は、「創造する」という言葉です。ヘブライ語で「バーラー」、これは、神が主語になる文章でしか用いられません。ただ神だけがなさる、特別な創造のみわざを言い表す言葉です。神は何の材料も道具をも用いず、神がお語りになる言葉ですべてのものを創造されました。無から有を呼び出だすようにして、死から命を生み出すようにして、神は天地万物と人間を創造されました。したがって、わたしたち人間の命と存在のすべてが神から与えられている、神によって支えられ、養われ、導かれているということがこの言葉では強調されているのです。

 第二点は、「神に似せて」ということです。神は人間を、ただ人間だけを、ご自身のお姿に似せて、ご自身に近い存在として、ご自身と深く交わる者として創造されました。わたしたち人間は神がお語りになるみ言葉を聞き、それを理解し、それを信じ、神を礼拝することによって、わたしもまた神のお姿に似せて創造されているということを知らされるのです。

 第三は、神は人間を「男と女に」創造されたということです。一人だけで生きるのではなく、男と女として、互いに違った者でありながら、共に生きる連帯的人間として、隣人を愛し、隣人に仕え、共に主なる神にお仕えする共同体として人間を創造されました。

 第四は神の「祝福」です。人間は神の祝福を受けてこの世に誕生し、神の祝福を次の世代へと受け継いでいきます。神に選ばれた信仰者の家には神の祝福が途絶えることはありません。以上の4つのことが、アダムから始まるすべての人間に引き継がれ、受け継がれていきます。

 【3~5節】。3節の「自分に似た、自分にかたどった」とはどういうことを意味するでしょうか。神が最初に人間アダムを創造された時の、26、27節の「神に似せて、神にかたどって」と同じ言葉が用いられてはいますが、内容は必ずしも同一というわけではありません。なぜならば、創世記3章に書かれているように、アダムは神のお姿に似せて創造されたという「神のかたち」を自らの罪によって破壊し、失ってしまったように思えるからです。だとすれば、5章3節は二重の意味を持つことになります。一つは、神のかたちに似せて創造されたという、人間に対する神の大きな愛と恵み、今一つは、その神の恵みを失ってしまったという人間の罪。アダムの子どもセトはその二つを父から受け継ぐのです。また、それ以後のすべての人間も、わたしたちもまたその二つを父と母から受け継ぎ、また子へと受け継ぐのです。

いや、それだけではありません。さらにもう一つのことを付け加えなければなりません。5章3節で、あえてここにもう一度「似ている、かたどった」という1章26、27節の言葉が繰り返されているのは、ここでも、最初に神がアダムを創造された時の神の大きな恵みと愛とが、アダムの罪にもかかわらず、それが決して失われてはいないということが暗示されているということであり、さらに言うならば、やがて神はメシア・キリスト・救い主を世にお遣わしになる時には、あの失われた「神のかたち」を再び取り戻されるということを預言しているのだということです。神はご自身のかたちそのものであられるみ子・主イエス・キリストによって、罪によって失われた「神のかたち」をわたしたちのために再創造してくださったのです。

さて、イスラエルの系図においては、長男がその家を受け継ぐのが一般的でした。しかし、セトはアダムの長男ではありません。長男は4章1節に書いてあるように、カインでした。ところが、カインは弟アベルを殺したために、神に呪われた人として、地をさまよわなければならなくなったと4章に書かれていました。そして、4章25、26節にはこのように説明されています。【25~26節】。この説明によれば、アダムの長男カインは弟殺しの罪のゆえに、神に捨てられ、神は代わって別の男の子セトをアダムに授けられたということになります。そして、カインではなくセトがアダムの家を受け継ぐようになったのです。イスラエルの系図は、機械的に長男に受け継がれるのではなく、そこには神のみ心、神の救いのご計画が含まれているということを、ここでも確認できます。

次に、ここに挙げられている10世代のすべてが、今日では考えられないような高齢であることに、だれでも気づかれるでしょう。最も高齢は8世代目、27節のメトシェラは969歳、最も短くてもその前の23節、エノクの365歳、10世代を平均すると858歳になります。これについて、さまざまな解釈が試みられています。

これを神話的な表現ととらえて、その数字をまともに取り上げる必要はないという考えがあります。古代バビロニアやエジプト、インドなどにも、原始時代の神々たちや神格化された王たちの長寿の記録が残っています。日本の神話でも神々は何万年も生きたと書かれています。しかし、創世記もそれと同じだと理解することは適当ではありません。創世記の系図は神々の系図ではなく、神によって創造された人間ダアムとその子孫の系図です。地上に生まれ、地上に住み、そして地上で死んでいった人間たちの系図です。アダム、族長アブラハム、イスラエルの民、ダビデ、そしてヨセフの子としてこの世においでになられた主イエスへと至る人間の系図です。

古代の一年の長さは、月の満ち欠けで数えていたのではないかと推測する考えもあります。そうすれば、最高齢の969歳は実際には80歳ということになり、あり得ない寿命ではありませんが、しかしそうすると、子どもを産んだ年が10歳にも満たなくなり、この数え方も納得いくものではありません。

あるいはまた、ここに挙げられている名前は個人名ではなく、部族とかの世襲の名前ではないかという考えもあります。しかし、その場合にも、「子どもを産んだ」、「息子と娘を生んだ」が何を意味するのかがはっきりしなくなります。

結局、ここに書かれている寿命の長さについての、聖書的、信仰的な説明はまだ見いだせないというほかありません。そのことを認めたうえで、わたしたちは別の側面からのアプローチによって、ここの書かれている系図とその寿命の信仰的な意味を探っていく必要があります。

そこで注目したいことは、これら10人の父祖たちの寿命は驚くほど長いのは事実ですが、みな同様に最後には「そして死んだ」と書かれている点です。【5節】。【8節】。このあと、11節にも、14節にも、みな同じように「そして死んだ」と書かれています。彼らはみな死すべき人間であったということにおいては、みな同じ運命にありました。みな同じように、その罪ゆえに神の裁きを受けて死すべきものとなったアダムの罪と神の裁きとを受け継いでいるのです。この点において、前に紹介した古代社会に伝わっている神話的な物語と聖書の系図とは根本的に違っています。

聖書が伝える系図は、人間の罪と神の裁きの歴史であるのだということを、わたしたちは正しく理解し、恐れをもって受け止めなければなりません。そのうえで、その系図の終わりへと目を向けるべきことがより一層強く求められていることに気づかされるのです。神はその系図の最後に、人間の罪と神の裁きを、人間の救いと神の愛に変えてくださるメシア・キリストであられる、ヨセフの子、主イエスを置かれました。主イエス・キリストによって、アダムから始まった人間の系図は締めくくられ、完成され、それによって神の救いの歴史は最終目的に達したのです。

きょうのみ言葉の中で、そのことをあらかじめ暗示している箇所を読んでみましょう。【21~24節】。エノクは10人の中でも最も短命です。そうであるのに「神と共に歩んだ」と二度繰り返されています。そしてさらに、「神が取られた」とも書かれています。エノクは死を見ないで、直接に神のみ手によって天に引き上げられました。地上での限りある、死すべき生涯を、神と共に歩む者を、神はこのようにして天に引き上げてくださり、神のみ国へと招き入れてくださり、永遠の命を与えてくださるのです。

(執り成しの祈り)

○天の神よ、朽ち果てるしかないわたしたちの命を、あなたのみ手によって支え、

導いてください。

6月7日説教「すべての必要を満たしてくださる神に感謝して」

2020年6月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編23編1~6節

    フィリピの信徒への手紙4章10~23節

説教題:「すべての必要を満たしてくださる神に感謝して」

 フィリピの信徒への手紙を続けて読んできました。きょうは最後の個所です。ここでパウロは、この手紙を書くに至った直接的な理由について書いています。それは、すでに2章25節で簡単に触れたことですが、フィリピ教会が獄中のパウロにエパフロディトという人を派遣して、贈り物を届けてくれたことに対する感謝を述べることです。きょう朗読された10~20節では、確かにフィリピ教会に対するパウロの感謝が語られていますが、ここには感謝という言葉そのものは一度も用いられていません。そこで、この個所を「感謝なき感謝」と呼ぶことがあります。パウロがここで語っている感謝とは、どのような感謝なのか。おそらくは、感謝という言葉では言い尽くせなかったのではないかと思われる、特別に大きな感謝と喜びとは、どのようなものであるのかを、ここから読み取っていきたいと思います。

 では、10節から読んでいきましょう。【10節】。「あなたがたがわたしへの心遣いを表してくれた」とパウロは言います。フィリピ教会からの贈り物が何であったのかについては何も書かれていません。18節では「そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取った」とあり、その中身が何であったのか、お金か、食料か、衣類か、その他のものか、あるいはその量はどれほどだったのかも、ここでは全く触れられてはいません。パウロにとっては贈り物が何であったかということよりも、その贈り物を届けてくれたフィリピ教会の心遣い、パウロへの愛と祈りこそが重要だったのです。

 10節後半の「今までは思いはあっても、それを表す機会がなかった」とは具体的にどのような理由があったのかについても、わたしたちには知られていません。フィリピ教会が経済的に貧しくてパウロを援助する余裕がこれまではなかったということなのか、教会の内外で迫害や信仰的な戦いに時間と労力を取られていたからか、あるいは何か他の理由があったからか、いずれにしても、フィリピ教会にはパウロを支援することを妨げるような事態が長く続いていたが、今、彼らのパウロに対する愛と祈りが再び実を結んで、このような具体的な支援となってパウロに届けられた、パウロはそのことを喜び、感謝しているのです。

 したがって、この個所から、フィリピ教会に対するパウロの何らかの不満を読み取ろうとすることは当を得ていないと思われます。「もっと早くに援助してくれればよかったのに」というような思いは、パウロには全くなかったと言うべきで、反対に、長く困難な状況が続いてきたのに、今ようやくにパウロとフィリピ教会との間に主にある豊かな交わりの道が開かれた、そのことをパウロは心から喜び感謝していると理解すべきでしょう。その理解をさらに深めるために、パウロが伝道者に対する報酬や支援をどう考えていたかということ、またパウロとフィリピ教会とのこれまでの関係についてみておくのがよいと思われます。

 パウロは基本的には、神のみ言葉を宣べ伝える務めにある伝道者や使徒は、その働きの報酬を得るのは神から与えられている当然の権利であり、彼らの生活は教会によって支えられるべきである。神のみ言葉に仕える伝道者から霊の賜物を受ける教会が、彼らに肉の賜物を惜しみなく差し出すことは、神がお喜びになることだと、パウロは繰り返して述べています。実際に、当時のユダヤ教でも、また初代教会でも、教会で神のみ言葉の宣教に仕える教師や巡回伝道者は非常に重んじられていました。しかしまた、そのような良い待遇を期待して、本来の神のみ言葉のための奉仕者であるという務めをおろそかにする偽りの伝道者もまた少なからずいたようでした。

 そこで、パウロ自身は、自らそのような誤解を招かないためにも、伝道者として当然に受け取るべき報酬を受け取らないと決め、自分の生活費は天幕づくりの収入などによってまかなっていました。15、16節で彼はこのように言っています。【15~16節】。パウロは第二回世界伝道旅行の後半で、小アジアからエーゲ海を渡ってマケドニア州のフィリピに行き、教会の基礎を築ました。フィリピ教会はヨーロッパでの福音の初穂でした。それからテサロニケ、コリントへと伝道旅行を続けました。その際に、パウロは伝道者としての報酬は受け取らないという彼の基本姿勢は貫きながらも、ただしフィリピ教会からの支援は喜んで受け取りました。この教会との深い信頼関係の中では、偽りの伝道者であると誤解される心配は全くなかったからです。

14節ではこのように言います。【14節】。パウロはフィリピ教会を福音宣教のための戦いの同志、戦友とみています。あらゆる地でパウロを襲ってくるユダヤ教やローマ帝国からの迫害、投獄、あるいは異端的な教え、教会を混乱させる偽りの伝道者たち、それらとの日々の戦いの中で、フィリピ教会はパウロのために経済的な支援と祈りと愛をささげることによって、共に福音のために、信仰の戦いを共にしてくれたのだ、そのようにしてわたしと共に戦ってくれた教会はただあなたがただけだとパウロは言っています。

パウロとフィリピ教会とのこのような関係の中で、10節をもう一度読み返してみると、フィリピ教会が今再び獄中のパウロに使者を派遣し、贈り物を届け、彼らの愛と祈りがこのようにして実りを結ぶことができたということを、パウロがどれほどに喜び、感謝しているかが理解できるように思います。まさにそれは、「主にある大きな喜び」なのです。主キリストがこの喜びを与えてくださったのです。「喜びの書簡」と言われるこの手紙の最後の個所でわたしたちは今一度「喜び」「主にある喜び」を聞きます。これは、主イエス・キリストが作り出してくださった喜び。です。贈り物の質や量からくる喜びではありません。パウロの必要が満たされたということからくる喜びでもありません。あえて言うならば、フィリピ教会のパウロに対するあつい祈りと深い愛からくる喜びでもなく、それらのすべてをパウロとフィリピ教会のために作り出したくださった主イエス・キリストからくる大きな喜びなのです。

このような主イエス・キリストから与えられる大きな喜びの前で、パウロは自分の必要性とか欲求とか、あるいは不満とかのすべてが、小さなものに、取るに足りないものになるということを続けて語ります。【11~13節】。ここで重要なポイントは、パウロにこのような生き方を可能にしているのが何であるかということです。11節では「習い覚えた」とあり、12節では「授かっています」とあり、13節でははっきりと「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」と書かれています。パウロにこのような生き方を可能にしているのは、ほかでもない主イエス・キリストなのです。わたしたちを罪から救い出すために、ご自身が罪びとの一人となって十字架で死んでくださった主イエス・キリスト。わたしたちをすべての苦難や試練の中から救い出すために、ご自身があらゆる試練を経験され、ご受難への道を進み行かれた主イエス・キリスト。わたしたちを信仰にあって豊かにするために、ご自身はすべてを投げ捨てて貧しくなられ、父なる神に全き服従をささげられた主イエス・キリスト。わたしたちの弱さの中でこそ、その恵みを豊かに注いでくださり、「わたしの恵み、汝に足れり」(コリントの信徒への手紙二Ⅰ2章9節参照)と言ってくださる主イエス・キリスト。パウロはこの主イエス・キリストから、このような生き方を学び、このような生き方へと導かれたのです。

わたしたちはここで主イエスのみ言葉を思い起こします。「何を着ようか、何を食べようかと、着物や食べ物のことで思い煩うな。天におられる父なる神はあなたのすべての必要を知っていてくださり、それを備えてくださる。だから、思い煩うな。ただ、神のみ国と神の義とを求めなさい」(マタイ福音書6章25節以下参照)。またこのように言われました。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。義に餓え乾く人々は、幸いである。その人たちは満たされる」(同5章3節以下参照)。主イエス・キリストを信じて歩む道に、真実の喜び、平安、希望があるのです。

フィリピ教会からのパウロへの贈り物が、彼にとっての大きな喜び、感謝であった理由のもう一つのことが17節以下に書かれています。【17~19節】。パウロはここで、彼のために届けられた贈り物を「神へのささげもの」とみています。その贈り物がパウロを喜ばすとか、パウロの必要性を満たすとか、もちろんそのようなことも当然の結果として生じるとしても、それ以上に重要なことは、その贈り物が神へのささげものであり、神がそれを喜んで受け入れ、神がそれをご自身のご栄光のために尊く用いてくださり、福音の前進のために役立ててくださる、そのことをパウロは最も大きく、深く、喜び、感謝しているのだということです。

2章16、17節で、パウロは彼自身の伝道者としての生涯を顧みてこのように言いました。【16節b~17節】。パウロは彼の伝道者としての労苦に満ちた生涯のすべてを神へのささげものとして差し出しています。彼を待っている殉教の死をも、神にささげられるいけにえの血だと言うのです。今フィリピ教会が困難を乗り越えて獄中のパウロへの贈り物を届けてくれたこと、それもまた神への喜ばしいささげものだとパウロはここで強調しているのです。そのようにして、共に神の福音宣教のみ業に仕え、神の栄光の富に共にあずかることをゆるされているパウロとフィリピ教会の豊かな、祝福された交わりをわたしたちはここに見ることができます。

21節からは手紙を締めくくる神への頌栄と教会へのあいさつが書かれています。【21~23節】。パウロは手紙の冒頭の1章2節で「わたしたちの父である神と主イエス・キリストから恵みと平和が、あなたがたにあるように」と祈り、手紙の終わりでも「主イエス・キリストの恵みが、あながたがの霊と共にあるように」と祈っています。主イエス・キリストの恵みがこの手紙全体に満ちています。また、主イエス・キリストの恵みが、パウロとフィリピ教会とを包み、そして今その手紙を礼拝で読んでいるわたしたちにも満ちています。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしとわたしのすべてを喜んであなたにおささげするも

のとされますように。それによって、わたしとわたしたちの教会とこの世界とを、主キリストの恵みで満たしてください。

○主なる神よ、あなたが創造され、あなたが全能のみ手をもってご支配しておら

れるこの世界が、あなたのみ手を離れて滅び行くことがありませんように。全地のすべての国・民をあなたがあわれみ、この地にあなたのみ心を行ってください。

○神よ、特にも、小さな人たち、弱い人たち、見失われている人たちをあなたが

助け、励まし、導いてください。病んでいる人たち、重荷を負っている人たち、試練の中にある人たち、孤独な人たちの歩みにあなたが伴ってくださり、必要な助けをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月31日説教「聖霊の賜物を受ける」

2020年5月31日(日) 秋田教会主日礼拝(聖霊降臨日)説教

聖 書:イザヤ書44章1~8節

    使徒言行録2章37~42節

説教題:「聖霊の賜物を受ける」

 使徒言行録2章には、ユダヤ人の祭りである五旬祭・ペンテコステの日に、エルサレムに世界最初の教会が誕生した時のことが詳しく描かれています。主イエスが十字架につけられた過ぎ越しの祭りから50日目のペンテコステの日に、弟子たちの上に聖霊が注がれ、聖霊に満たされた弟子のペトロが立ち上がり、説教をしました。2章14節以下にその説教が記録されています。神は主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活によって、全人類のための救いのみわざを成し遂げてくださり、今このペンテコステの日に約束の聖霊を注いでくださった。その聖霊のみ力によって、主キリストの福音が全世界のすべての人々に宣べ伝えられるようになったと、ペトロは説教しました。

 きょうの礼拝で朗読された37節からは、そのペトロの説教を聞いた人々の反応とペトロの洗礼への招き、そして信じて洗礼を受けた人が三千人であったことが書かれています。これがエルサレムに誕生した世界最初の教会です。これ以来、キリスト教会は聖霊なる神のみ力とお導きによって、二千年の間、全世界で主キリストの福音を宣べ伝えてきました。今、世界の教会が、世界の人々と共に、感染症の拡大によって大きな試練の中にありますが、このような時にこそ、わたしたちは教会誕生の原点から、教会とは何か、またその教会に集められているわたしたちの信仰とは何か、聖書のみ言葉から学んでいきたいと願います。

 【37節】。ペトロの説教を聞いた人々は「大いに心を打たれた」と書かれています。「打たれた」と訳されている言葉は、「突き刺す」とか「えぐる」という意味を持っています。心や魂が深くえぐられ、突き刺され、わたしの全身が激しく揺さぶられるような経験のことです。わたしの存在全体が、わたしの生き方の根本がそこでは問われているということです。そこで「わたしはどうしたらいいのか」という切羽詰まった問いが出てきます。人が神のみ言葉の説教を聞き、主キリストの十字架の福音を聞き、そしてそこに聖霊なる神が働かれる時、わたしたちはそのような激しく心を刺し貫かれるような経験をするのです。

 では、それは具体的にどのような体験なのでしょうか。すぐ前の36節でペトロはこう説教しました。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。この説教を聞いた人々は主イエスを十字架につけて殺したその責任を今、鋭く問われていると感じたのです。50日前にエルサレムで過ぎ越しの祭りが祝われていたそのさ中に、罪なき神のみ子であられた主イエス・キリストが偽りの裁判によって十字架刑に処せられ、殺された。聴衆の中には、その場面に居合わせた人もいたでしょうし、そうでない人もいたでしょうが、あるいは多くの人々は直接にその裁判には携わってはおらず、傍観者であっただけかもしれませんが、けれども、ペトロの説教を聞いた多くの人が今その責任を問われている、罪なき神のみ子を十字架に引き渡したことにあなたの責任があるのだと告発され、激しく心を刺し貫かれたのです。神から遣わされた世の救い主・メシア・キリストを受け入れず、拒絶し、あざ笑って投げ捨てた自分の罪を、今告発されていることを知らされたのです。神のみ言葉の説教を聞くとき、そしてそこに聖霊なる神が働かれる時、そのような魂を刺し貫くような、わたしの全存在を根底から揺さぶられるような体験を、わたしたちもまたするのです。そして、「それでは、わたしはどうすべきなのか」と神に問わざるを得なくされるのです。

 36節のペトロの説教が聴衆に強い衝撃を与えたもう一つのことは、「このイエスを神は主とされた」という点にあったと思われます。多くのユダヤ人が、この人は偽りの預言者、神を冒涜する者と断定して捨て去ったナザレ人イエス、「十字架につけろ、十字架につけろ」という群衆の叫びの中で、黙して十字架への道を進み行かれた主イエスを、神は三日目に墓から復活させ、罪と死と滅びからの勝利者として天のご自身の右に引き上げられました。このこともまた聴衆の魂を激しく揺さぶるものでした。そこには、人間の罪にはるかに勝った神の限りない憐れみとゆるしがあったからです。

 「あなた方が十字架につけて殺したイエスを」という言葉は聴衆の罪を告発していますが、「このイエスを神は主とし、またメシアとなさった」という言葉は、彼らの罪をゆるし、救いの希望を与えるものでした。ここには、人間の罪の行為にはるかに勝る神の救いのみわざがあります。多くの人間がその知恵を結集して、裁き、捨て、罪なき神のみ子を十字架に引き渡したという人間の罪が勝利するのではなく、そのような人間の罪をもお用いになってご自身の救いのみわざを成就される神の愛とゆるしが、最終的に勝利するのです。人間たちのどのような罪の力も神の救いのご計画を変更させることも中止させることもできません。神の救いの恵みは人間の罪の力よりもはるかに大きいのです。ここにわたしたちの希望があります。罪と死とに勝利する神からの希望を差し出された時、聴衆はその魂を刺し貫かれたのでした。

 そこで、ペトロの説教を聞いた聴衆は、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と問いかけました。この問いには二つの思いが交錯しているように思われます。一つには、今までは気づかなかった自分たちの罪を指摘された人の絶望的な思い、もう一つには、今新たに自分の目の前に差し出されている救いの希望、その二つのどちらを選ぶべきかという選択を迫られた人の問いかけであるように思われます。神のみ言葉の説教を聞いた人、主イエス・キリストの十字架と復活の福音を聞いた人、そしてそこに聖霊なる神が働き、わたしの魂が刺し貫かれ、わたしの全存在が揺り動かされる、そのような体験をした人は、自分が今神のみ前に立たされていることを知らされ、神のみ言葉の前で新しい救いへの道へ招かれていることを知らされるのです。

 ペトロはこう答えます。【38~39節】。ペトロは聴衆を罪のゆるしへの道、救いへの道を選び取るようにと招いています。その道を選び取るために、彼はまず悔い改めを勧めています。悔い改めとは心を変えること、方向転換をすることです。聖書で心という場合、わたしたちが考える内容とは多少というか、根本的にと言うべきか、違っています。聖書で心とは、人間の感情だけでなく、考え、言葉そして行動のすべての源泉となっている、その人の中心、また全体を意味しています。悔い改める、心を変えるとは、その人全体の考え方、生き方、在り方全体が、全く方向転換することを言います。つまり、今までは神から遠ざかる罪の道を進んでいたけれども、それを180度方向転換をして、神の方に向かうということ、これが聖書の悔い改めです。何かの悪い行為とか、間違った行為とかを反省して、再び同じ過ちをしないようにするというのではなく、このわたしの全存在が、わたしの考えや行為のすべてが、神から離れ、神のみ心に背いていたことを知り、その罪を神のみ前で告白し、これからは、神の方に向きを変え、神と共に生きていくことを決断する。その時、聖霊なる神が働き、神ご自身が救いの恵みをもってわたしのところにおいでくださることを知らされる。わたしの罪のすべてをおゆるしくださり、わたしを神に愛されている神の子どもたちとして迎え入れてくださる。わたしはその救いの恵みを、感謝をもって受け入れ、神の導きに喜んで従っていく信仰の道を歩みだす。これが、悔い改めであり、罪のゆるしであり、信仰です。

そして、その罪のゆるしと救いの恵みを信じる信仰の証しとして、洗礼・バプテスマを受けるのです。洗礼によって、罪のわたしが主イエスの十字架と共に死んで、葬られ、また、主イエスの復活の命にわたしも共にあずかり、わたしが新しい罪ゆるされたわたしとして再創造されるのです。

 ペトロはさらに付け加えて、「賜物として聖霊を受けます」と約束します。「聖霊の賜物」には二つの意味が含まれます。一つは、神から賜る贈り物としての聖霊を受けるという意味、つまり、聖霊そのものが神の賜物であるということ。もう一つは、聖霊からもたらされる種々の賜物という意味です。使徒言行録ではほとんどの場合前者の意味で用いられていますので、『新共同訳聖書』ではその意味に限定して「賜物として聖霊を受けます」と翻訳しています。それに対して、使徒パウロの書簡では、聖霊なる神が与えてくださるさまざまな賜物のことが語られています。たとえば、神のみ言葉を説教する賜物、教えたり導いたりする賜物、あるいは、病気の人をいやしたり励ましたりする賜物、それらのすべては人間の力や知恵によるのではなく、聖霊なる神から賜った恵みの賜物なのです。コリントの信徒への手紙一12章にはそれらの賜物が挙げられており、続く13章では、それらの賜物の中で最大、最高の賜物は愛であると語られています。ローマの信徒への手紙12章6節以下で語られている聖霊の賜物について読んでみましょう。【6~8節】(292ページ)。ここでも、パウロは続けて9節以下で愛について詳しく語っています。パウロはこのように、主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、キリスト者となった人は、そのすべての新しい信仰生活が聖霊なる神に導かれ、聖霊なる神から与えられた霊の賜物を生かし、用いて、神と隣人を愛し、神と隣人とに仕える道を進んでいくのだと教えています。

 使徒言行録のきょうの個所でも、そのことは当然前提にされています。弟子のペトロが主イエス・キリストの救いのみわざを説教したのは、聖霊を注がれ、聖霊の力を受けて語ったのであり、聴衆がその説教を聞いて心を激しく刺し貫かれ、罪を知らされ、神の救いの恵みを喜んで受け取る決意へと導かれたこと、そのすべてにも聖霊なる神が働いておられ、聖霊の賜物によることであったのであり、そして何よりも、三千人余りの人が主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、ここに世界最初の教会が誕生したことこそが、聖霊なる神のみわざであったのです。

 そのうえで、使徒言行録が賜物としての聖霊ということを強調している点にも注意を払いたいと思います。聖霊は、いかなる意味においても、人間の感情とか、心や意志とかではなく、聖霊は神であり、人間の外から、上から、神によって与えられた聖霊なる神のお働きであり、時として人間の心や意志に反して、あるいは人間的な常識に反して、神ご自身が尊く深く、不思議なご計画のもとに働いておられる、それが聖霊なる神であるということです。使徒言行録はその聖霊なる神のお働きを記した聖書です。そこで、「聖霊行伝」とも呼ばれます。弟子たちや使徒たちに働かれた聖霊なる神の驚くべき、偉大なるお働きを記しているのが使徒言行録なのです。エルサレムから始まって、パレスチナ全域、地中海、さらにヨーロッパへと教会が発展していくのは、まさに聖霊なる神のお働きなのです。

今日においてもなお、聖霊なる神は全世界の教会を通して働いておられ、わたしたちのこの小さな教会でも、またわたしたち貧しい一人ひとりにも働いておられ、多くの賜物を与えてくださり、教会を豊かにしてくださるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちの教会にも聖霊を注いでください。わたしたち一

人ひとりにも、聖霊の賜物をお与えください。わたしたちがそれを心から感謝して受け取り、神のご栄光のために用いることができますように、お導きください。

○神様、全世界の人々が今ウイルス感染症によって苦悩しています。苦しんでい

る人たち、悲しんでいる人たち、労苦している人たちを、どうかあなたが慰め、励まし、希望をお与えくださいますように。

○この時に、あなたがお選びくださったあなたの民、教会の民を、どうか力づけ

てください。このような時にこそ、地の塩、世の光として、主イエス・キリストの福音を証ししていくことができますように、導いてください。

主のみ名によって祈ります。アーメン。